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(133) 昭和26年の杉田劇場

大高の周辺情報というには時期がずれ過ぎていますが、今回は久しぶりの旧杉田劇場ネタです。あまり新味はないものの、ひとまず。


1951(昭和26)年になると、杉田劇場の新聞広告はほぼ見られなくなります。従業員だった片山茂さんの証言ではすでに株式発行の頃(昭和23年8月)には経営が傾いていて、青息吐息だった様子が語られていますが、広告を見る限りでは昭和25年の秋まではある程度の頻度で興行が行われていたことがわかっています。


年が明けて、昭和26年の正月にはお馴染み、市川門三郎一座の初春興行がありましたから、劇場としてこれまで通りの新年を迎えていたようにも思えます。しかし、この年、広告らしい広告はこれが最後と言ってもいいくらいの状況になっていきます。

1950(昭和25)年12月31日付神奈川新聞より

市川門三郎一座に次いで、新聞紙上に杉田劇場の名前が登場するのは、昭和26年2月22日付の催し物欄で、屏風ヶ浦地区広報委員会による「市民の集い」のお知らせです。

1951(昭和26)年2月22日付神奈川新聞より

この「屏風ヶ浦地区広報委員会」については、現杉田劇場に所蔵されている写真の中に「発会式記念」と付記された一枚が残されています。日付は昭和24年5月20日で、杉田劇場のロビーで撮られたものです。最前列の左端に劇場オーナーの高田菊弥と思われる人物がいることから、その縁で杉田劇場が利用されたものと考えられます。

屏風ヶ浦地区弘報委員会発会式記念 24.5.20 杉田劇場
(現杉田劇場所蔵)

高田菊弥は磯子区で長く保護司を務めるなど、地域活動に積極的に関わっていたようで、おそらくその縁でしょう、その他の残された写真をよく見ると「赤十字奉仕団結成式」などの文字が確認できます。

日本赤十字磯子区屏風ヶ浦地区奉仕団結成式記念 25.1.19
(現杉田劇場所蔵)

さて、話は戻って、昭和26年。

この年の杉田劇場は、そのほかに「オール横浜総合芸能コンクール」(「市民芸能コンクール」という名称に変わっている)の予選会場としても利用されていましたし(10月6日)、コロムビアの「全国歌謡コンクール」の予選会場としても使われています(9月16日)。

1951(昭和26)年9月22日付神奈川新聞より

1951(昭和26)年9月15日付神奈川新聞より

こうした状況を見ると、民間劇場というよりは公的な事業の会場としての利用が多い印象で、公共施設の色合いが濃くなったようにも感じられますが、実際のところはよくわかりません。

旧杉田劇場の写真として最も知られている劇場正面を写したものは、拡大して「若月昇劇団」が来演したときのものだと判明していますが、この「若月昇劇団」についてはこれまで新聞広告にまったく出てきませんから、広告に出ない興行がまだ他にもあったのではないかというのが、僕の見立てです。

旧杉田劇場正面(現杉田劇場所蔵)

経営が傾いていたという片山さんの話が残っているわけですから、安定して興行が続いていたとは考えにくいところでもありますが、「広告が出ない=公演がない」というのもいささか短絡的で、近隣の銀星座や三吉劇場ですら、広告掲載の頻度は下がってきますから、むしろ掲載にかかる費用が値上がりして、広告出稿を見送っていたのではないかとも思えるのです。


さて、同じ昭和26年には、アマチュア劇団の葡萄座も公演を行なっています。4月14日(土)・15日(日)の二日間で、演目は菜川作太郎『闘鶏』、木下順二『彦市ばなし』、田中澄江『ほたるの歌』の三本。

1951(昭和26)年4月14日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログによれば、この葡萄座の公演記録によって、旧杉田劇場がこの時期まで存続していたことがわかると記されています(→こちら)。実際は上掲の通り、この年の9月と10月、2つのコンクール会場としても使われているので、少なくとも昭和26年秋までは劇場として存続していたと言えそうですし、「昭和27年」とキャプションのある浜中学校学芸会の写真もあるので、その頃までは継続していたのだと考えてもよさそうです(ただし、このキャプションが正確かどうかは未確認です)。

昭和27年 浜中学校学芸会@杉田劇場庭園「安寿と厨子王」
(現杉田劇場所蔵)


余談ですが、4月に杉田劇場で公演をした葡萄座は、同年9月にはオデヲン座で「創立五周年記念公演」を行います。「全横浜演劇フアン待望の新劇」「戦後始めてオデヲン座の舞台で本格的演劇公演」というキャッチコピーには、相当な力の入れようが感じられるところですし、「北林透馬氏特別解説講演」があったというのも、興味深いところです。

1951(昭和26)年9月3日付神奈川新聞より

北林透馬は戦前から横浜文化の中心人物のような人でしたが、戦後は一時期、磯子の間坂に住み、アテネ劇場の支配人をやっていたという話もあるので、その頃から劇作家の神谷量平氏ら地元の文化人との交流が生まれ、それを通じて葡萄座など市民文化団体との関わりを深めていたのかもしれません。


ちなみに戦前から長者町にあったオデヲン座は米軍に接収され「オクタゴン劇場」となっていたので、この広告にある「オデヲン座」は1947年、曙町に新設されたものです(その経緯は→こちら



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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(128) 神奈川県歌舞伎連盟とは?

よんどころない事情で、ひと月ほど図書館に足を運ぶことができなかったので、大高よし男の調査はまったく進んでおりません。ようやく時間がとれるようになってきて、来週あたりから調査再開の予定ですが、どうも頭がまだこっちの世界(?)に戻りきれていないようで、ちょっとしたリハビリ気分で投稿してみます。


というわけで、今回は年末までに収集していた資料から、1951(昭和26)年6月の三吉劇場における「神奈川県歌舞伎連盟結成第一回公演」について考えてみたいと思います。

この公演の広告が最初に出るのは同年5月30日で、「三吉劇場開場一週年記念特別大興行」とも銘打たれています。この連盟についてはかねてからしばしば引用している、小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』の「三吉演芸場」の項目にも言及がありますが、公演があったという記述だけですので、それ以上の詳しいことはわかりません。

そんなわけで、そもそも神奈川県歌舞伎連盟というものがどういうものかわからない上に、これがその後、どんな展開をしたのかも未調査ですから、現段階ではほぼ何もわかっていないと言ってもいい状態です。広告には「市川小太夫劇団」という文字が大きく記されているので、市川小太夫が呼びかけて結成されたように思われます。

広告に掲載されているメンバーは順に

市川小太夫
 
沢村清之助
沢村訥美太郎
市川栄舛
 
市川女猿
市川門三郎
 
森川順三
沢村十次郎
山﨑撫子
市川内弥
市川小鼻
中村芝寿
河部信乃
 
沢村清枝
市川紅昇
 
紫小春
鶴葉子
港君代
窪登美江

です。

1951(昭和26)年5月30日付神奈川新聞より

「歌舞伎連盟」でありながら、出演者に不二洋子一座の森川順三の名前があるなど、歌舞伎の枠をはみ出しているようにも感じます。一体、どういう団体だったのでしょうか。

歌舞伎役者に限れば、並んでいる名前はいずれも杉田劇場や銀星座でお馴染みの顔ぶれで、戦前の横浜歌舞伎座における「更生劇」の流れと、市川門三郎一座が合わさった合同一座のようにも見えます。杉田や弘明寺で続けられていたいくつかの一座を、戦後の時代に合わせて「連盟」という形で結集させ、横浜(神奈川)における歌舞伎の発展を期した、というようことなのでしょうか。


余談ですが、私が少しだけ関わってきた横浜のアマチュア演劇の世界では、1952年に横浜演劇研究所が設立され、同年(第二次)横浜演劇懇話会ができます。『神奈川県演劇連盟四〇年史』によれば、この懇話会は

「<横浜市教育委員会社会教育課>が推し進めていた市内文化団体の組織化の呼びかけに、市民演劇と職場演劇が賛同するという行政主導で結成された」

のだそうです。

横浜演劇懇話会はのちに「横浜アマチュア演劇連盟」となり(1967〜)、また1960年には全県組織としての「神奈川県演劇連盟」(県演連)が結成されます。これは横浜演劇研究所の加藤衛所長の呼びかけによる「県民劇場建設促進実行委員会」の動きとも連動していたと考えられます。「県民劇場建設促進実行委員会」は「県立青少年センター」の建設(1963)をもってその目的が達成されたとして解散しますが、県演連は存続し、その後、横浜アマチュア演劇連盟と神奈川県演劇連盟が両輪となって、現在に至るまで横浜・神奈川の市民演劇(アマチュア演劇)の発展に寄与してきたわけです(のちに「横浜アマチュア演劇連盟」は「横浜・演劇の会」と名称を変え、現在はほぼ活動休止状態のようですが)

「神奈川県歌舞伎連盟」に同じような背景があったのかどうかはよくわかりません。文化団体の組織化といった流れの中で、(行政の指導の有無は不明ながら)歌舞伎界もまたその時流に乗ろうと考えたのかもしれません。

以前、市川雀之助についての投稿で、彼が「神奈川県実演興行組合」の副組合長を務めていたことと、その組合が1951(昭和26)年にできたことを紹介しました(まさに歌舞伎連盟の結成と同じ年)。この時期、市民演劇・職場演劇・歌舞伎・大衆演劇のいずれもが戦後の激動の中で、劇団単体ではなく連盟や組合を結成して、時代の変化に対応しようとしていたようにも見えます(行政の関わりの濃淡はまた別の課題として、別途調査が必要な事柄と感じています)


閑話休題。


さて、華々しく宣伝していた「神奈川県歌舞伎連盟」の結成公演ではありますが、興行初日の6月1日、新聞紙上に弘明寺銀星座のこんな広告が登場するのです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

「東京名題大歌舞伎公演 市川栄舛大一座」と銘打たれたこの公演の出演者の中には、なんと

市川栄舛
市川女猿
沢村清枝

の「連盟」の公演に名を連ねていた3人がいるばかりか(尾上大助の名前もある)、

「他の劇場に出演は致しません」

とはっきり書かれてもいるのです。具体的な劇場名は記されていませんが、明らかにこれは彼らが三吉劇場の「連盟」の公演には出ないという強い注意喚起(または意思表示)です。

一体何があったのでしょうか。

単にブッキングの行き違いなのか、そもそも連盟結成の方針にまつわる意見の違いなのか。いずれにしても何かがあったことは間違いなさそうです。


結果、「連盟」の公演の顔ぶれから、上記3名の名前は消え

市川小太夫

沢村清之助
市川猿十郎
中村喜昇
市川秀猿

市川門三郎

市川紅昇
市川立十郎
市川八左衛門
市川桔梗
市川小昇

紫小春
鶴葉子
港春代
坂東寿美子
窪登美子

となって、予定通り、6月1日に幕を開けたようです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

(同じ日の広告ですから、かなり混乱します)

そのほかの大きな変化として、森川順三の名前が消えて、中村喜昇らの名前が登場し、二の替りの最初の演目が「女河内山」から「朧河岸」に変更されています。もしかしたら剣劇を嫌ったのかもしれませんし、森川順三と歌舞伎役者たちの間に何かあったようにも思えますが、これもまた詳しいことはわかりません。


市川小太夫は昭和12年から昭和21年まで「厚生劇団」を主宰していたほか、それ以前には新国劇に客演したり、映画に出たり、関西で大衆劇の劇団(新興座)を立ち上げ、探偵劇などで全国を巡演して人気があったそうですから、そもそもが歌舞伎にとどまらず、ジャンルを越境する人だったようですし、その越境を好んでいたようにも感じます。

そう思うと、新しいものを受け入れる(と思われがちな)土地柄の横浜で、境界を取り払ってさまざまなジャンルを統合し、歌舞伎界(演劇界)に新風を巻き起こそうという目論見で結成されたのが「神奈川県歌舞伎連盟」だったのかもしれません。

そんなこんなで、今回はよくわからないまま「神奈川県歌舞伎連盟」について考えてみました。いまのところ、これ以上の情報がないので、どなたか詳細をご存知の方がいましたら教えてください。


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(120) 町田市収蔵の旧杉田劇場資料

舘野太朗さんのX(旧Twitter)の投稿を通じて、町田市のデジタルミュージアムに旧杉田劇場の台本が掲載されている事実を教えていただいたので、思い切って所管課に連絡をしたところ、現物を閲覧する許可をいただくことができました。

(とはいえ、専門家でもないおっさんが一人で行っても不審がられそうなので、現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」を担当しているSさんに同行してもらいました。深謝)


台本が保管されているのは、小田急線の鶴川駅からバスで10分ほどのところにある「三輪の森ビジターセンター」内、郷土資料展示室の収蔵庫です。

ちなみに「三輪の森」というのは町田市と横浜市・川崎市の市境にある里山の一角で、横浜市で言えば青葉区の「寺家ふるさと村」や「こどもの国」に隣接する地域です。


ビジターセンターはその里山散策の拠点(休憩地?)のようなもので、その中に郷土資料展示室があり、そこに民俗資料の収蔵庫もあるということのようです(なお収蔵資料の閲覧には事前申請が必要です)


デジタルミュージアムには、旧杉田劇場の台本が10冊、杉田劇場での市川門三郎一座のチラシ(パンフ?)が2つ掲載されていますが、実際にはデジタル化されていない台本もまだあって、一覧は「町田市立博物館所蔵・民俗資料目録」に掲載されています。

当日は、とても親切に対応してくださった学芸員の方が、未デジタル化のものも含めて杉田劇場に関わるものも用意しておいてくださいました。


そんなわけで、今回閲覧させていただいたのは以下の台本です(☆は未デジタル化のもの)。

平家女護島 島の俊寛
おその六三 恋の逢引
島田左近
絵本太閤記
怪猫伝 岡崎の猫
恋慕地獄 延命院日当
舞踊 忍逢恋事寄 将門
侠客春雨傘
常盤津竹本出語り 所作事 京人形
清水一角
☆め組の喧嘩
☆毛谷村六助
☆蝿坊主と木村長門守重成
☆二月堂良弁杉
☆十六夜清心 花街模様薊色縫

 

いずれも「杉田劇場」の記載やスタンプがあるもので、すべてにGHQの検閲印がありました。

台本に押された印には郵趣家の間で金魚鉢と呼ばれているらしいエンブレム型の検閲パス印のほか、「CCDJ-2036」「CCDJ-2037」「CCDJ-2039」「CCDJ-2040」のいずれかのスタンプもあって、当初、その意味はよくわかりませんでしたが、後日、こちらのサイトを参照させていただいたところ、どうやらこれは東京地区の検閲官の番号で(第三次配給分)、それぞれの番号に割り当てられた検閲官がいたということのようです。「2039」には「Sakamoto」と読める署名も付記されていたので、この番号の検閲官が「サカモト」という人だったことが推測されます(M.M.Sakamotoとも書かれているので、日系人なのかもしれません)。

その他、検閲の有効期限(上演可能期間?)を記したと思われる数字(日付)も見られましたが、詳細はよくわかりません。


さて、閲覧させていただいた台本のほんとどすべてに「尾上大助」の記名なり印があります。

デジタルではよくわかりませんでしたが、いくつかの台本では尾上大助の下に「新星暁座」と書かれてあって、それを修正するような形で尾上大助の名が上書きされていました。

この理由はよくわかりません。もしかしたら検閲は個人名で申請するもので、修正を指示されたということなのかもしれません(演劇博物館に保管されている九州地区のGHQ検閲台本をざっと見ても、申請者は個人名になっているようです)

中には「Shinsei Akatsukiza」とメモ書きされたものもあるので、尾上大助が杉田劇場で活動していた時期、専属劇団には「暁第一劇団」でも「暁劇団」でもなく「新星暁座」という名称が使われていたとも考えられます。ただ、その頃の広告にはそっけない「杉田専属劇団」としか書かれていないのです。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

検閲台本では「新星暁座」とあるのですから、「杉田専属劇団・新星暁座」という認識だったのかもしれません。

それ以前の、藤村正夫が参加していた頃の広告には「新生暁座」と書かれることがありました。「新星」なのか「新生」なのかははっきりしませんが、いずれにしても大高よし男生前からの「アカツキ」の名称は、かなり後年まで使われていたことがわかります。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より


デジタルミュージアムの資料説明欄にもある通り、これらの台本は1949(昭和24)年のものが大半です。検閲官の番号からしても時期的には大きくズレていないと考えられます。しかし、この年の新聞広告に掲載された演目と合致しない作品も多いので、検閲は通したものの実際は上演しなかったり、後年に上演したものも含まれているのかもしれません(このあたりは再度調査が必要です)


台本の中身はすべて手書きで、薄い罫紙に書かれています(カーボンコピーのようにも見えました)。また検閲提出用ということなのでしょうか、書き込みは見られません(唯一『二月堂良弁杉』には包装紙の切れ端が挟まっていて、鉛筆書きのおそらく台本の修正部分か書抜きと思われるものが書かれていました)。

残念ながら台本を読んで内容を精査するほどの時間はなく、本文中にメモ書きなどがないかを確認するだけでしたが、じっくり読めばそれぞれの作品が大歌舞伎とどう異なっているか、演出的な違いがあるのかどうかなど、さらに詳しい情報が得られるのかもしれません(これもまた今後の宿題)


ところで、この台本の収集地は町田市の成瀬と記録されています。なぜ成瀬なのかがずっと疑問でしたが、学芸員の方に詳しく聞いてみると、成瀬を拠点に活動していた「大川一座」という劇団から寄贈されたものなのだそうで、台本のほかに一座の衣装や小道具なども収蔵されているとのことでした(大川一座については『成瀬 村の歴史とくらし』という本を紹介していただきました)

大川一座は成瀬の三ツ又という地域に住んでいた大川源治が始めた劇団で、近隣の村々にとどまらず、近県も含めたかなり広範なエリアで興行をしていたようです。源治はもともと草競馬をやっていた人でしたが

"「競馬なんかやんないで、芝居をやったらどうか」と人に勧められたことが契機だったそうである。源治氏の師匠は相模の市川花十郎だった"(『成瀬 村の歴史とくらし』365ページ)

とのことです(市川花十郎は現在の横浜市泉区を拠点に活躍した人です)

それがどうして横浜の杉田劇場とつながるのかはよくわかりません。おそらく杉田劇場で使っていた台本を譲り受けたというのが一番ありそうな可能性です。大川一座にはプロも出ていたそうなので、尾上大助あるいは杉田劇場に関わりのある別の役者が、何らかの縁で呼ばれていたのかもしれません(大川一座の調査をすればわかるかもしれません)。

また、ほぼすべての台本が「大橋繁夫脚色」となっていて、この人についてもよくわからないところですが、いくつかの台本では尾上大助の肩書きに「大橋家」と記載されているので(印になっているものもある)、もしかしたら尾上大助の本名が「大橋繁夫」なのかもしれません(このあたりも再調査が必要になりそうです)。


台本のほかに市川門三郎一座のチラシ(パンフ)2種も見せていただきました。これらはデジタルミュージアムにも掲載されていますが、画像は二つ折りになった表紙だけです。現物で情報の多い裏表紙・中面を拝見したところ、この興行の演目や配役がわかりました。それを後日、杉田劇場の番組一覧のデータと照合した結果、1947(昭和22)年7月と8月の興行のものであることが判明しました。

このうち7月興行は暁劇団と門三郎一座の合同公演で、チラシ中面の配役には「大江三郎」「高島小夜里」「大島ちどり」「高宮敏夫」「三木たかし」など、現杉田劇場に掲出してある大高一座のポスターに名前のある役者が確認でき、座長の没後も何人かは芝居を続けていたことがはっきりしました。

1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より

※このチラシ(パンフ)の配役の中に「大川喜久男」という役者がいます。暁劇団の座員と思われますが、その名前からして大川一座の関係者とも考えられます。大川一座と杉田劇場がもともとつながりを持っていたと考えれば、いろいろなことが腑に落ちるのですが…これもまた詳細調査が必要です。


この年、8月の門三郎一座興行の後には葡萄座の公演が行われましたが(8月29日〜31日/真船豊「見知らぬ人」ほか:詳細は→こちら)、チラシにはこの公演の予告も記載されていたので、町田の里山で思いがけず懐かしい知り合いに会ったような不思議な気持ちにもなりました。


調べきれないほど収穫と宿題のあった初訪問ではありましたが、町田にこういう資料が収蔵されていたというのはあらためて大変な驚きです。町田にあるのですから、もしかしたら藤沢や横須賀、鎌倉など近隣の市町村にも未公開の資料の中に同様のものがあったりするのかもしれませんが、乏しいネットワークの中では知る由もありません。

僕の知る限り、旧杉田劇場の資料で公的に保管されているのは現杉田劇場にある元従業員・片山茂さん寄贈の11点と、今回拝見したものだけです。

現杉田劇場は指定管理者制度下で運営されていますから、仮に指定管理者が変わったら、あの資料の行く末がどうなるか、大変心許ないものがあります。

いっそのこと市史資料室や市歴史博物館や都市発展記念館あたりが引き受けてくれればいいのですが、なかなかそうもいかないのが現状のようです。今後のことを考えれば、あれだけのものを町田市が収蔵・保管してくれていることはまさしく天恵のようです。

町田市の資料について、まだ詳細な調査は進んでいないようです。大川一座の研究も含め、今後に期待するところです。

それにしても、ご対応くださった学芸員さんがとても親切で助かりました。いつでもまたきてください、とも言っていただいたので、この先、調査項目をしっかり整理するなど、準備万端にして、ぜひまた伺いたいと思います(できることなら1ヶ月くらいあそこに篭って調べたい)。


そんなこんなで、今回は町田市収蔵の杉田劇場資料の初調査についてでしたが、未消化のものも多いので、今後、もう少し整理して改めて報告したいと思います。

今回はひとまずこれにて。

関係各位、ありがとうございました。



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(116) 坂東相十郎の謎

「いそご文化資源発掘隊」では杉田劇場に来演したスターや名優たちの紹介をしたので、不勉強の付け焼き刃ながら歌舞伎俳優についてもお話しさせていただきました。

1946(昭和21)年9月に行われた中村吉右衛門劇団の新聞広告には、中村芝翫(のちの六代目中村歌右衛門)、市川染五郎(のちの初代松本白鸚)らの名前があって、杉田劇場にこれほどの名優たちが来ていたのかと、改めて驚かされました。

1946(昭和21)年9月17日付神奈川新聞より

ですが、偏屈な僕としては、そこに併記されている「尾上大助(大作と書かれていますが実際は大助)」「阪東相十郎」の方が気になってしまうわけです。


尾上大助や坂東相十郎の名前は、戦時中から横浜の舞台に立っていた歌舞伎役者として、新聞広告などでたびたび目にしてきました。澤村清之助、市川栄升などと同じく「横浜の小芝居」の役者と言ってもいいのかもしれません。

中でも気になるのが坂東相十郎で、気になるきっかけというのは戦時中のこんな新聞記事です。

1943(昭和18)年11月8日付神奈川新聞より

南吉田町にあった金美劇場での歌舞伎公演についての記事で、曰く、

"市川門三郎、五百三郎改め坂東相十郎の兄弟劇団"

これが正しければ、相十郎は市川門三郎の弟で、前名を市川五百三郎とする役者だったことになります(これ以前の新聞記事には"「市川」五百三郎"の名前が出てきます)

この興行は11月初めからのものだったようで、すでに11月3日には広告にその名前が掲載されています。

1943(昭和18)年11月3日付神奈川新聞より


また、年末にかけて、劇評や一年の振り返りなどの記事中にも何度か同じ内容が登場するのです。

1943(昭和18)年12月13日付神奈川新聞より

1943(昭和18)年12月20日付神奈川新聞より

これ以外のいくつかの記事も読んだ上でまとめると、歌舞伎をメインに上演していた金美劇場が同年5月、松竹第三部の劇場という位置付けに変わり、歌舞伎以外("浪花節芝居や怪しげな興行"/12月20日付神奈川新聞「劇壇一ケ年の足跡」小林勝之丞より)の上演が続いていた中、11月になって市川門三郎と坂東相十郎の兄弟劇団がやってきて、金美劇場に歌舞伎を復活させた、ということのようです。


ところで、少し前に出た話題の『越境する歌舞伎』(浅野久枝・著)の中にも坂東相十郎の名前は何度か出ていて、最も詳述されている箇所にはこうあります。

"坂東相十郎は二代目坂東秀調の弟子で、太夫元をしつつ東北、北海道を中心に地方興行していた役者で、昭和十九年(一九四四)年には市川栄升と池袋銀星座に出演した記録がある。また、年代は不明だが市川荒太郎・小傳次・一蔵の「東京名題大歌舞伎」のチラシ(略)に市川猿十郎とともに坂東相十郎の名前が見える"(同書,87ページ)

「坂東秀調の弟子」「太夫元をしつつ東北、北海道を」というのは、雑誌上での市川門三郎(白蔵)の発言を受けてのものでしょう。

"そのころ子供芝居、ちんこ芝居ですね、それが流行っていた。私も尾上梅丸、中村播之助(中村吉之丞)、市川升蔵(利根川金十郎)などと一座を組んで、旅へ出ました。北海道の小樽に会津屋という料理屋があり、のちに私の弟がそこへ養子に行ったんですが、その親類に、先々代坂東秀調の弟子で坂東相十郎という人がいて、この人が太夫元をやっていた"(『演劇界』1972年12月号「明治人に訊く 一座を組んで…市川白蔵の歩いてきた道」より)

ここに書かれている相十郎は門三郎が子供芝居をやっていた頃に太夫元をしていたのですから、門三郎の弟というのはあり得ない話です。

ただひとつのつながりは、門三郎の弟が太夫元の坂東相十郎の親類のところへ養子に行ったということでしょうか。

その逸話から類推できるとしたら、養子にいった門三郎の弟もまた市川五百三郎の名前で歌舞伎役者になって、親類であった坂東相十郎が自分の名を継がせたということなのかもしれませんし、逆にもともと歌舞伎役者をやっていた弟が、何らかの縁で坂東相十郎の名を継ぎ、結果として縁者である小樽の料理屋に養子に行ったということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。

(謎だ)

それはそれとして、横浜の相十郎を辿ってみるに、昭和18年の金美劇場のあとは、戦後、上掲の吉右衛門劇団への客演(?)のほか、昭和21年6月、弘明寺銀星座の「劇団新歌舞伎」の広告に名前が見られます。

1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より

また、1948(昭和23)年、杉田劇場での『仮名手本忠臣蔵』の広告にも名前があります。

1948(昭和23)年6月12日付神奈川新聞より

これらが、どの相十郎なのかはさっぱりわかりません。もし金美劇場で五百三郎から改名した坂東相十郎だとしたら、太夫元の相十郎とは別の相十郎が横浜で活動していて、それが戦後、弘明寺銀星座や杉田劇場の舞台に立っていたようにも思えるのです。

少なくとも弘明寺銀星座の「新歌舞伎一座」の惹句には「若手俳優の熱を以って」とあることからしても、太夫元の相十郎とは別人とする方が妥当なようにも思います(さらに言えば『越境する歌舞伎』に書かれている池袋銀星座の相十郎も別人のような気がする)

詳しい方、ぜひ詳細を教えてください。


これまで大高よし男を中心に、剣劇などの大衆演劇にばかり目を向けて調べてきましたが、旧杉田劇場を調べる上でも、また横浜の演劇史を考える上でも、日吉劇の前の横浜歌舞伎座における更生劇や、金美劇場の新進座など、関東大震災以後の小芝居のことも調べないと全体像が見えないのだなということを痛感したこの頃。大高の痕跡を探るために敷島座の番組をさらに遡って精査することも必須です。

(ふぅ)

そんなこんなで、今回は脇道にそれましたが、歌舞伎役者・坂東相十郎の謎について考えてみました。


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〔番外〕 いそご文化資源発掘隊

 予告した更新日を過ぎてしまいましたが、今回は番外の宣伝です。

昨年3月に現杉田劇場(磯子区民文化センター)の自主事業『いそご文化資源発掘隊』で「旧杉田劇場の看板役者・大高ヨシヲの謎に迫る」と題した講座を開催しましたが、その第二弾を今週金曜日、8月29日に行います。

講座チラシ

といっても、大高ヨシヲについての調査は前回から大きな進展がないので(小針侑起さんからお知らせいただいた写真を除いて→こちら)、今回は大高調査の中で判明したこととして、旧杉田劇場に来演したさまざまなスターについてのお話をさせていただこうと思います。

現杉田劇場のウェブサイトには旧杉田劇場の舞台に立った人たちが列記されていますが、いつ、どのくらいの期間、どんな演目、という情報はほぼ書かれていません。

ですので、それをふまえて、私のわかる範囲でのそうした興行の詳細をお知らせできればと思っています。

門外漢のジャンルもあるので、どこまで詳しくお話しできるか不安もありますが、調べた内容を精一杯お伝えしたいと思います。

お時間がありましたら、ぜひお越しください。

講座の詳細とお申し込みは杉田劇場ウェブサイトをご参照ください。

よろしくお願いします。

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(114) 文化廣場のことなど

大高よし男やその後の旧杉田劇場のことを調べていると、これまでまったく知らなかった歴史の事実に接することがあって、驚くとともにちょっとした感動も覚えます。これが、先の見えない大高調査からどうにも抜けられない原因のひとつなのでしょうね。


前にも藤村正夫の項目で少しだけ触れた「港映」こと港北映画劇場が、実演を中心とした「妙蓮寺劇場」になったのが1949(昭和24)年10月初旬。新聞広告によれば市川門三郎一座の興行で改名披露ということになっています。

1949(昭和24)年10月8日付神奈川新聞より


ところで、これより少し前、同じ年の6月下旬から突如、大口(神奈川区)の「文化廣場」なる場所における興行の広告が登場するのです。

1949(昭和24)年6月22日付神奈川新聞より

1949(昭和24)年7月12日付神奈川新聞より

大江美智子だったり淡谷のり子だったり、それなりのスターが来演しているのに、これまでこの劇場(?)の名前をまったく知らなかったのは、ひとえに勉強不足によるものとはいえ、さまざまな資料をひもといても、どこにも「文化廣場」への言及が見つからないのはどういうことなのかと、首をひねるばかりです。

(そもそも、文化廣場ってなんだ?/どなたかわかる人がいたら教えてください)


上掲、「淡谷のり子と踊るNDT」(日劇ダンシングチーム?)の広告には最下段に「四中跡」と書かれています。これが手がかりになりそうです。

調べてみると、四中とはどうやら日大四中(日本大学第四中学校:旧制)のことのようで、1930年、神奈川区大口通り127番地に開校した学校なんだとか。空襲で校舎が焼失し、戦後、1947年に港北区箕輪町(日吉)に移転して新制の日大高校・日大中学になったのだそうです。

ということは、その跡地にできた「文化廣場」の所在地もまた大口通り127番地ということになります。

追加で調べると、この番地は「大口映画劇場」と同じもので、しばしば参照させてもらっているサイト「消えた映画館の記憶」によれば大口映画は1951年に開場していますから、考えられる経緯は、1949年、日大四中の跡地にまず「文化廣場」ができ、2年後にそれが映画館となったというものです。

仮にそれが正しければ、文化廣場なる劇場(?)はわずか2年の短命だったということになります。もしくはエリア一帯を「文化廣場」と称し、その一部が映画館になったのかもしれません(東急文化村みたいに)。そのあたりはさらに追加調査したいと思います。

※よく見ると広告に「雨天順延」とか「雨天の際は」の文言があるので、もしかしたら文化廣場とは文字通りの「広場」で、一種の野外劇場だったのかもしれません。


さて、上掲広告には劇団名の書かれていない「新版四谷怪談」が予告されていますが、これはのちの広告をみると「無名座」という劇団によるもののようで、春野勇、英栄子の名前があるほか、特別出演として「森野五郎」の名前も確認できることから、戦時中、空襲前の伊勢佐木町の劇場や南吉田町の金美劇場(新進座)などで活動した役者たちが作った劇団と考えられそうです。新進座には大高一座に参加していた生島波江も所属していましたから、無名座にも生島波江がいた可能性は否定できません。

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

その後、辻堂の「湘南映画」でも同じ劇団が同じ演目を上演している広告も見つかったので、もしかしたら無名座はこの座組で県内を巡業していたのかもしれません。

1949(昭和24)年7月24日付神奈川新聞より


これらの興行がどう影響したのかはわかりませんが、8月下旬になると杉田劇場で森野五郎一座の興行がスタートします。杉田劇場の開場直後には何度か興行していた森野五郎でしたが、その後、新聞広告では名前を見ることがなくなりました。

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

もしかしたら一時休業していたのが、この時期に活動を再開したということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。いずれにしても森野五郎は1950年代初頭には映画界に復帰しているので、これが実演最後の頃の興行と言えそうです。


大口に「文化廣場」がオープンし、港映が「妙蓮寺劇場」と改称する時期は、杉田劇場や銀星座がそろそろ経営難に陥る時期と重なります。

市の中心部より南側で動き始めた戦後横浜の(実演)興行界が、中心部より北に移っていったようにも見えます。

しかし、その広がりは実演というジャンルにおいてはその後の成長は見込めず(おそらく横浜の観客は復興の進んだ東京の劇場に足を運んだのではないか)、市域の興行は、映画というジャンルに大きくシフトすることになったのだと思われます。

ちょっと大袈裟ですが、こんな小さな広告からでも、興行のダイナミズムみたいなものを感じたりするところです(だからやめられない)。


そんなこんなで、妙蓮寺や大口などの劇場事情などについて考えてみました。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(112) 『小芝居の思い出』再考

以前、劇評家・三宅三郎の『小芝居の思い出』に描かれた旧杉田劇場の様子について、このブログに書きました(→こちら)。

同書には

「私は終戦後、間もないころであったが、横浜市外の杉田劇場に行ったことがある」(国立劇場調査養成部芸能調査室編/歌舞伎資料選書5『小芝居の思い出』三宅三郎著 / 1981, p.126)

とあり、そこでは市川門三郎一座の芝居を見たのだと書かれています。「終戦後、間もないころ」の記述から、その時期を昭和21年か22年頃と推定していました。

杉田劇場での市川門三郎一座の新聞広告は昭和21年6月1日付のものが最初で、そこには三宅が挙げている演目が見当たらないばかりか、それ以降、昭和23年までの広告にも同じ演目がなかったので、逆に昭和21年1月から3月の、新聞広告をほとんど出していなかった時期に門三郎が杉田劇場に来演していて、それを三宅が見たのではないか、とも推測したわけです。


ところが、先日、昭和24年の調査をしているうちに、どうもその推測が間違っていたのではないかと思わせる広告に行き当たったのです。

『小芝居の思い出』には彼が見た演目として

「茂々太郎時代の九蔵と市川門三郎などの一座であった。九蔵の牛若丸、門三郎の弁慶で、義太夫の「橋弁慶」や「十六夜清心」などをしていた」(同書, p.126)

と書かれています。

そして、見つけた新聞広告は

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

昭和24年7月14日から17日まで、杉田劇場の昼の部で『十六夜清心』と『橋弁慶』が上演されていたのです。

上の引用には『番町皿屋敷』についての言及がありませんが、これ以外に門三郎一座が杉田劇場で『十六夜清心』『橋弁慶』を上演した記録が見当たらないので、三宅が見たというのはこの舞台のことではないかと思われます。


杉田劇場に来た三宅を驚かせたのが、幕間に観客が潮干狩りをしていたということですが、実は上掲の広告が出る少し前、7月1日付の新聞に、杉田海岸の海の家が営業を始めたという記事があって、その中に

「梅雨もあがつたようなお天気つづきに、各海岸は潮干狩の人々でにぎわつているが、横浜杉田海岸も潮流異変で押し寄せたサバの子が逃げ場を失い、小さな子供でも手づかみで取れるので、思わぬ漁獲に人々は大よろこび」(下線筆者)

とあることから、三宅三郎が杉田劇場へ来た頃もまだ杉田海岸で潮干狩りをしていた可能性は高く、記述内容と合致するのです。

1949(昭和24)年7月1日付神奈川新聞より

やはり彼が杉田劇場に来たのは、昭和24年7月ということで間違いなさそうです。


ところが、推定していたより時期がかなり後ろにズレたことで、新たな疑問が湧いてきました。

前回も引用しましたが、三宅によれば当時の杉田劇場の客席は

「見物席は土の上に腰を下すのだが、後方の席は坐れるようになり」(同書, p.127)

となっていたそうです。

当初は昭和21年頃のことだと思っていましたから、開場すぐの杉田劇場には、客席前方に椅子がなかったのかもしれないと考えていましたが、これが昭和24年のこととなると話が変わってきます。

再掲になりますが、現存する昭和25年1月の写真を見る限りでは、後方のみならず前方の席にも椅子があるように思えるのです(背もたれのない長椅子のようなものか)。

旧杉田劇場客席:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

旧杉田劇場舞台:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

となると、前年夏まで椅子はなかったことになるのでしょうか?

さすがにそれはちょっと考えにくいことで、もしかしたら、夏場のみ暑さ対策で客席を取り払って土間に座ったということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。

いずれにしても三宅三郎が「土の上に腰を下す」と書いているのだから、少なくともこの時期の市川門三郎一座の公演時には、客席前方の椅子はなかったということになります(旧杉田劇場で市川門三郎の舞台を見たという地元の方がいらっしゃるので、確認してみます)


なお、上掲の広告にある通り、楽日は昼夜で演目を入れ替えたようなので、7月17日の『十六夜清心』『橋弁慶』は午後5時以降の上演ですから、幕間の潮干狩というのは現実的ではありません。つまり、三宅三郎が来場したのは7月14日(木)から16日(土)のいずれかということになりそうです。


これまで、旧杉田劇場は株を発行した昭和23年8月にはすでに経営が傾き始めていたとされてきましたが、新聞広告をもとにプログラムをデータ化してみても、ほとんど絶え間なく興行が続いているし、三宅三郎の文章からも「場末感」は読み取れこそすれ「斜陽」を感じることはできません。

株式会社杉田劇場 株券/昭和23年8月1日発行(杉田劇場所蔵)

ただ、この年(昭和24年)の10月以降、杉田劇場の新聞広告は激減します。「映画演劇情報」欄にも杉田劇場の名が出る頻度が急激に下がります(ほとんどなくなったと言っていいほど)。はっきりとした事情はわかりませんが、この頃から経費削減が顕在化しているようにも思えるのです。

間辺典夫氏が緞帳を寄贈した時期も含め、杉田劇場の経営状況の推移については、もう少し精査した方がよさそうです。






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(110) 杉田劇場のロビー掲出資料

自分の劇団の公演が近いので、十分な調査時間が取れず、今回はちょっと余録みたいなお話。


現杉田劇場(横浜市磯子区民文化センター)のロビーには、片山茂さんから寄贈された資料が掲出されています。旧杉田劇場の舞台に美空ひばりが立った際のポスターなど、大変貴重なものです。しかし、以前、このブログで「大高の遺児」とされてきた写真が、実はまったくの誤解だったと書いたように(こちら)、掲出されている資料のキャプションにはいささかあやしいものがあります。

現杉田劇場も、開館からすでに20年を越えましたので、寄贈された当初(開館当時)の職員はおらず、キャプションの根拠となる証言(資料)や、そもそも誰がこれを書いたのかもよくわからないのだそうです。


その中で、ずっと気になっていたのは、杉田劇場が出した株券と一緒に展示されている市川門三郎一座のチラシ(?)です。

市川門三郎一座チラシ(寄贈:片山茂氏)

ここには演目と配役一覧と日程が書かれていますが、年号の記載がありません。いつのものだったのかがはっきりしなかったのです。

と、戦後の杉田劇場の新聞広告をずっと追いかけていたら、先日、ようやくこのチラシとの照合ができました。

これは昭和23年12月の「歳末特別興行」と題された公演のものだったのです。

1948(昭和23)年12月21日付神奈川新聞より

1948(昭和23)12月25日付神奈川新聞より


チラシには「御好評に依り 市川門三郎 日延べ」とだけありますが、12月25日の広告には演目も書かれています。逆に新聞では日延べの正確な日程がわかりませんでしたが、チラシにははっきりと

「廿四日 廿五日(二日間)」

と書かれています。


21日から23日までが本来の「歳末特別興行」、好評を受けて2日間の日延べをし、24日と25日に『重の井子別れ』『新皿屋敷』を上演したということのようです。

好評だったから大入袋が出て、それも一緒に展示されているということなのでしょうね。

ちなみにこの年、門三郎一座の日延べ興行の後は、12月26日〜29日が「湊川みさよ歌劇団」のグランドレビュー『吉田御殿』。30日は休館で、大晦日から市川雀之助一座の初春興行が始まります。


さて、ロビー掲出資料でもうひとつ気になっていたのは、杉田劇場の緞帳とそれを描いた間辺典夫氏の写真です(ご本人の寄贈)。

キャプションにもありますが、緞帳が完成・寄贈されたは昭和23年で、その際にこの写真を撮ったと伝わっています。

これも正確な時期を裏付ける証拠がなかなかありませんが、写真の右隅に演目の書かれたボードがわずかに見えるので、これを手がかりに調べてみれば撮影時期が判明しそうです。


そこで例によって新聞記事を追ってみたら、昭和25年1月13日付の神奈川新聞の「映画演劇情報欄」にこれと思われる演目があったのです。

そこに記載されていたのは

「肉欲」(新派)
「天保白浪」(剣劇)
「日本晴れ」(喜劇)

の3本(13日〜16日興行)。

杉田劇場のウェブサイトにも出ている上掲の写真では右端が切れていてよくわかりませんが、ロビーに掲出されている写真をよく見ると、その部分がはっきり写っています。

上記広告の演目で間違いなさそうですね。

しかし、これが緞帳寄贈の際に撮影された写真だとすると、時期は昭和25年1月ということになります。これまで「昭和23年」と書かれていたキャプションとは1年以上の誤差が出てしまいます。

もちろん寄贈時ではなく、後年に記念撮影したものとも考えられますが、これのほかに正面からの緞帳写真もあることからして、寄贈時に同時に撮ったと考えるのが妥当かなという気はします(キャプションの修正が必要かもしれません)。

これらの資料は旧杉田劇場や大高よし男のことを調べる上で、重要な一次資料になりますから、これからも細かく調べていきたいところです。


そんなこんなで、今回は杉田劇場のロビー資料をめぐる、ちょっと余談めいたお話でした。



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(100) 大高ヨシ男三回忌追善興行

昭和23年9月21日、新聞紙上に「故大坂ヨシ男追善興行」の広告が出ます。

1948(昭和23)年9月21日付神奈川新聞より

以前にも少し触れましたが、これは「大高ヨシ男」の誤りです。翌日からの三行広告(「映画演劇情報」欄)ではちゃんと「故大高ヨシ男」に修正されています。

1948(昭和23)年9月22日神奈川新聞より

前年の一周忌にはこのような公演はなく、三回忌に合わせて追善興行が行われたようです。

大高の名前表記がブレるのは没後も相変わらずですが(今回は「ヨシ男」)、大高一座の劇団名の方も座長の没後、「暁第一劇団」だったり「暁劇団」になったりと、表記は毎度ブレブレです。しかし、昭和22年の夏頃からは「暁劇団」が定着し、昭和23年以降はこの名前になったようで、これも「暁劇團公演」と銘打たれています。


ここで、三回忌追善興行に至るまでの劇団の活動を少し振り返ってみます。

昭和21年10月22日、中野かほるが出演した追善興行の後、11月は公演がなかったようですが(立て直しを図っていたのかも)、昭和21年12月にほぼ1ヶ月の興行が杉田劇場で行われています。研究生募集の文言も見られるので、劇団継続の意思ははっきりしていて、片山さんの証言や尾上芙雀の発言などに見られる、解散・消滅といった兆候は感じられません。

1946(昭和21)年12月17日付神奈川新聞より

さらに翌年、昭和22年の前半は阪東亀久之丞一座との合同公演(1月)、単独興行(3月)、市川門三郎一座との合同公演(7月)など比較的順調に興行を重ねています。

1947(昭和22)年1月7日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より
※右の「湘南映画」の広告には「美空和枝」の名前が見える

ですが、8月1日〜3日の「お名残興行」(門三郎一座との合同公演から暁劇団が抜けた形)のあとは、新聞広告に名前が載らず、しばらく活動がなかったようです(夏巡業でもあったのかな?)

1947(昭和22)年7月29日付神奈川新聞より


ところが、「お名残」からほぼ3ヶ月後、降って湧いたように、杉田劇場ではなく「オリエンタル劇場」に「暁第一劇団」の名が登場するのです。

1947(昭和22)年10月28日付神奈川新聞より

オリエンタル劇場はその半年ほど前、昭和22年5月15日、南区高根町四丁目にオープンした劇場です。その後、東宝の傘下に入って「横浜東宝劇場」となりますが、やがて「横浜オペラ館」「横浜オペラ劇場」「横浜日劇」と名前を変え、最後は「横浜セントラル劇場」となって、横浜の伝説的なストリップ劇場となります。


この興行の後、しばらく新聞紙上で暁劇団(暁第一劇団)の名前を見ることはなくなります。

そしてオリエンタル劇場の公演からほぼ一年後、冒頭に紹介した大高よし男の三回忌追善興行となるのです。


実はこの興行の少し前から、追善興行へ向けての助走のように「暁劇団」の興行が始まっていました。8月26日から「ヴィナスショウ」の中で『魔人空を行く』というちょっと興味をそそるタイトルの「スリラー劇」を上演しているのです(その後の調査で、6月に「市川雀之助一座」との合同公演ありましたが、ごく短期間だったようです)

1948(昭和23)年8月26日付神奈川新聞より

「ヴィナスショウ」がどんなものだったのか、詳しくはわかりませんが、広告の絵や文言からして、おそらくストリップのようなものと歌謡曲、芝居を連ねたバラエティショーだったと思われます。

「ヴィナスショウ」と暁劇団の芝居は8月31日まで。その後、別の一座(市川雀之助一座)を挟んで、9月15日から再び暁劇団の興行が始まります。大高の生前には四日替り(4日ごとに演目を替える)のスタイルでしたが、この時期は三日替りだったようで

9月15日〜17日 軽演劇「愛は踊る川端柳」、新劇「港の朝」
9月18日〜20日 「天使と悪魔」、「應援團長の恋」

というプログラム。内容は映画と実演の組み合わせで、前半は「金語楼の親馬鹿大将」、後半は「千恵蔵のおしどり笠」が同時上映されています。

1948(昭和23)年9月14日付神奈川新聞よ

1947(昭和23)年9月18日付神奈川新聞より

杉田劇場はオープン前の新聞記事で「映画劇場」と紹介されていたくらいですから、最初から映写設備はあったのかもしれません。ですが、映画が杉田劇場の新聞広告に登場することはほぼなく、よく載るようになるのはこの年(昭和23年)からなので、それまでは実演劇場としてのスジを通していたのかもしれません。

もっとも、映写設備を後年になってから導入した可能性も否定できません。実演劇場としての経営が厳しく、映画で劇場の立て直しを図ったのかもしれないからです。この頃(昭和23年8月1日)、杉田劇場は株券を発行して資金を集めており、経営はかなり苦しくなっていたのです。

杉田劇場株券(磯子区民文化センター所蔵)


さて、大高よし男の追善興行(三回忌)は9月22日に始まり、広告によれば24日までとなっています。ですが「映画演劇情報」欄には26日も同じ公演が掲載されているので、掲載ミスでなければ、好評を受けて2日間延長したのかもしれません。

「好評」には根拠がないわけではありません。この三回忌の後、追善興行にも特別出演した藤村正夫を座長に迎え「新生暁劇団」として活動を再開しているからです。しばらく休んでいたのが、追善興行の好評を受けて復活の狼煙をあげたと考えても、あながち間違いではないように思います(新生暁劇団については別途)。

藤村正夫は、もともと日吉良太郎一座に参加していましたが、のちに独立して自分の一座を立ち上げた役者です。戦後は、弘明寺銀星座の自由劇団にも参加しており、そんな縁もあって暁劇団の再生に力を貸したのでしょう。大江美智子一座の公演にも参加するなど、俳優として実力も知名度も兼ね備えた人だったようです。


三回忌追善の前後、暁劇団(暁第一劇団)は紆余曲折を経ながらも、再興を図って活動を続けていました。しかしながら「大高よし男」についていえば、杉田劇場はもちろん神奈川県内の劇場でも、その名前を見ることは、もはやなくなるのです。

人気を誇った座長もこの時期を最後に歴史の闇に消えてしまったわけです。

それから40年後、1980年代になってから美空ひばりのデビューについての調査・研究の中で、大高の名前はふたたび日の目を見ることになるのです。



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