(12) 杉田劇場と銀星座

 今年の調査も仕事納め。よくぞここまでという気持ちと、まだまだ緒に着いたばかりという気持ちと、これから先の難航におののく気持ちとごちゃまぜの納めです。

そんな中、年内最後にわかったことは2つ。


ひとつ目は、杉田劇場に出演していた大高一座のポスターから、座員の「生島波江」と「藤川麗子」が、戦前・戦中に横浜末吉町の横浜歌舞伎座を拠点に活動していた「日吉良太郎一座」のメンバーだったこと。

(大高一座の公演ポスター/藤川麗子と生島波江の名前がある)

横浜郷土史の冊子『郷土よこはま』No.115は横浜の演劇史研究家、小柴俊雄さんによる「日吉劇」の特集号ですが、その中に日吉良太郎一座の座員としてこの2名の名前が記載されているのです(『郷土よこはま』No.115 「日吉劇」特集 / 横浜市図書館, 1990)。


もうひとつは、1944(昭和19)年4月1日付の神奈川新聞に、伊勢佐木町四丁目にあった「敷島座」の四月興行で「近江二郎一座」が池俊行という作家の『春風の家』を大江三郎演出で上演するという記事があったことです。

これで大江三郎が近江二郎一座の文芸部員であることはほぼ確定といっていいかなと思います。近江二郎一座は1943(昭和18)年の正月の敷島座で興行していますし、同年8月には川崎大勝座、9月には再び敷島座、1944(昭和19)年には記事の通り、4月に敷島座、6月・7月が川崎大勝座ですから、戦時中は京浜地区でかなり頻繁に興行していたことがわかります。大江三郎も劇団に帯同して、横浜や川崎は馴染みの地になっていたはずです。

1946年3月23日からの弘明寺・銀星座の開場記念興行の広告に近江二郎一座が「ヨコハマの人気者」と書かれているのもうなずけるところです。

余談ですが、横浜市立図書館のデジタルアーカイブに、この銀星座の緞帳写真が掲載されています(→こちら)。

ここに見られる木の長椅子や舞台のタッパなど旧杉田劇場にも似たところがあります。また、戦後の小芝居の小屋の舞台照明がこんな感じだったのかというのも少しだけわかる貴重な資料です(この時代の劇場の、客席や入口などについては証言が残っていたりするのだけど、舞台機構のことはほとんどわからないのが現状です)。

余談ついでに。
前回の投稿で、1930年から剣劇の欧米巡業を決行した「筒井徳二郎一座」のことを紹介しましたが、実は同じ時期に近江二郎一座もアメリカやハワイで興行をしていたことがわかりました。国際日本文化研究センター(日文研)のデータベースに近江二郎一座のカリフォルニア公演を報じた新聞記事(広告)があります(→こちら)。

ここに記載のある座員のうち、深山百合子、戸田史郎は上記の銀星座の広告にも名前があります。戦前にアメリカで公演していた一座の役者たちが、戦後の弘明寺で舞台に立っていたという事実も、僕はまったく知らなかったことで、大高ヨシヲをたどる調査が、思いがけない広がりを見せていることに驚かされています。


さて、前段の新情報、大高一座の座員の中に日吉良太郎一座のメンバーがいたことも、僕としては大きな前進です。もともと、大高よし男自身が日吉一座にいたんじゃないかとも推測していましたので、このあたりの関係を探ることも今後の課題です。

前にも書きましたが、銀星座には「自由劇団」という座付き劇団があって、そのメンバーの一部が日吉良太郎一座の座員であったそうなので、銀星座の座付きと杉田劇場の座付きは同じような劇団であったことが想像されます。両劇場は地域が近いこと(京急で4駅)、開場時期が近いこと(1946年の1月が杉田、3月が銀星座)、双方に近江二郎一座と日吉良太郎一座が関わっていたことなど相似点が多く、かなり密接な関係をもっていたのかもしれないと推測されるところです。


磯子といえば、美空ひばりの出身地として有名ですが、あの有名な美空ひばりからしてデビューのエピソードには確証がないわけで、いろんな本によって書いてあることがバラバラだったりします。

現杉田劇場のTさんが丹念に資料を調べて、結果、美空ひばりは1946(昭和21)年の3月か4月に杉田劇場でデビューしたというのが正しい情報のようですが、いまだに磯子町にあった「アテネ劇場」の方が先、という情報がまことしやかに流布していますし、中にはもっと雑に「横浜上大岡のアテネ劇場」なんて書かれているのもあるくらいですから、わずか70数年前の情報でも、明確な記録の残っていないものは事実関係がぼんやりしてしまうんだな、としみじみ思います。

また、今を生きる人間の未来への責任として、現在の公演資料なども「価値がない」と即断せず、なるべく多くのものを後世に残すことが、未来の人々にとってなんらかの役に立つことになるのだという思いを、大高調査を通じてさらに強くしたところです。


さてさて、2023年1月1日は、旧杉田劇場が開場してからちょうど77年。人間で言えば喜寿の年にあたります。

そんな77年前、杉田劇場に関わっていた人々が何を考え、何を望み、何に喜び、何を求めたのか。

そして、激動の昭和初期。戦前、戦中、戦後と杉田の街がどう変貌していったのか。

磯子に転居してからまだ43年の僕が、記憶と資料と証言を総合しての調査は、はからずも地域の歴史を探る道と複雑に交錯しながら、ゆるりゆるりと続いていきます。

そんなこんなで


大高ヨシヲを探せ!


今年の旅はこれにて終幕です。

いささかマニアックな調査ではありますが、来年もどうかご贔屓に!

(→つづく)


(11) 大江三郎と三桝清

大高よし男の手がかり、その後はほぼ進展がありません。

伏見澄子一座を離れて、横浜で活動していたんじゃないかと推測し、昭和18年から終戦までの神奈川新聞で興行の広告を調べてみましたが…見あたりません。もっとも、広告に掲載されない戸塚劇場(戸塚町)や金美劇場(南吉田町)などの小屋までは調べきれていないので、そういうところに出ていたのかもしれませんが、大高がそれなりのクラスの役者だったと想定されることから、可能性は低いような気がします。

一方で、大高の周辺の人々については少しずつ明らかになってきています。


まず、大高一座の支配人をしていたとされる大江三郎について。

前にも書いたように、彼が近江二郎一座で作者や演出をやっていた(つまり一座の文芸部員だった)ことがわかっているわけですが、戦時中の『演劇年鑑』や『日本演劇』、また『松竹七十年史』などをつぶさに調べてみると、近江一座だけでなく、不二洋子一座の公演にも作品を提供していた事実が出てきました。

重複しますが、これまで確認できたものを列記してみます。


1942(昭和17)年

1月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「海の民」「海国男子」)
2月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「強く生きよ」)
6月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「南の国へ」「母子鳥」)
8月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「故郷」)
10月 大阪弁天座 不二洋子一座(大江三郎作「青春の叫び」「母の声」(脚色))
12月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「返り咲き」)

1943(昭和18)年

4月 大阪弁天座 不二洋子一座(現代劇「母子草」(大江作か?))
5月 大阪弁天座 不二洋子一座(「故郷」(おそらく前年8月の大江作の再演))
12月 京都新富座 近江二郎一座(大江三郎演出「純情博多小唄」、大江三郎作 「瞼の兄」、「下町の素描」)

不二一座に大江の名前を見つけた時、大江はもともと不二一座の文芸部にいたのが、のちに近江一座に移ったのだろうなと思っていましたが、よくみると大江が参加している公演はほぼ近江二郎が客演しているものに限られるので、やはり大江三郎は近江二郎の文芸部所属で、座長が参加した時に不二洋子一座へ作品を提供していたと考えるのが妥当なようです。

前にも引用した森秀雄『夢まぼろし女剣劇』は、不二洋子の評伝ですが、その中にはこうあります。

"昭和十五年の後半から浅草の剣劇の演目を見渡すと、股旅ものが減り、尊皇討幕ものと軍国ものが増えてゆくのが目立つ。股旅ものでも、やくざが勤皇の志士に感化され、大義にめざめるといったすじだての芝居も出てくる。盗賊を主人公にした白浪ものはすでに影を潜めていた。そして太平洋戦争が勃発すると股旅ものはほぼ全面的に姿を消してしまう。時局柄好ましくないという理由で上演を禁止されたのである"

不二洋子は時の政権の意向を受けて、得意としていた股旅ものや立ち回りのある芝居を極力封じ、生き残りをかけて新しいジャンルに挑戦しなければならなかったわけです。作品のタイトルから、大江は現代劇を得意とした作者だと思われるので、不二洋子は近江二郎が客演した時には、大江に作品を提供してもらって、一座の方向性を模索していたのかもしれません。

"不二洋子はその頃、「私は痩せぎすで色気がないし、声も悪いから、現代ものの娘役はどうやっても似合わないんで、困ったねえ」とこぼしていたという"(同書)

「時局柄」なんていうつかみどころのない空気のせいで、得意芸を封印されたのに、それでも一座を率いて舞台に立ち続けなきゃいけない、いや続けるだけじゃなくてちゃんと経営していかなくちゃいけない、というのはなかなかしんどいことだったろうと思います。

いやはや、話が少々脱線しました。

そんなわけで、大江三郎は近江二郎一座の文芸部員だったといって間違いなさそうですから、大江三郎の杉田劇場までの道は近江二郎を追いかけていけば見えてくるんじゃないかと思います。

近江二郎はもともと関西の人ですが、一座は杉田劇場オープンの3ヶ月後、弘明寺に開場した銀星座で開場記念興行をやっていますし、戦時中も横浜や川崎の劇場でそこそこ頻繁に公演をやっているのです(いずれ詳述します)。

しかも、近江二郎一座が弘明寺に来た時期と大江が杉田で大高一座に関わる時期はほぼ同じ。大高の姿は見えずとも、大江を(つまり近江二郎を)追いかけていけば、きっとどこかで大高に出会えるはず。これはひとつの確実なルートになりそうです。


さて、もうひとり、大高と一緒によく名前が出てくるのが「三桝清」です。こちらについてもいろいろとわかってきました。わかってきたというより、大高調査のために剣劇のことを調べていると、どこかしらで三桝清の活動に行き当たる、と言った方が正確かもしれません。それだけ活動範囲が広く、実力のある役者だったということなのでしょう。

話が飛ぶようですが、1930年から1年半ちかくにわたって、剣劇の欧米巡業を成功させた男がいます。筒井徳二郎です。

彼の業績は有名な川上音二郎・貞奴に比するほどの評価を得ていたのに、いまはほとんど忘れられています(私もまったく知りませんでした)。

日本大学の田中徳一先生が彼の活動を丹念に調査し、さまざまな論文と一般向け書籍(「ヨーロッパ各地で大当たり 剣劇王 筒井徳二郎」など)を著していますが、そのおかげでようやく筒井一座の功績が日の目を見た、といってもいいかもしれません。

筒井のことはまた別に調べるとして、なんと、この欧米巡業のメンバーの中に三桝清がいて、アメリカ公演の舞台写真まで残っているのです。

それらもまた別に紹介しますが、ひとまずは大高につながる手がかりがないか、田中先生の論文にあった三桝清のプロフィールを引用します。

"三桝清は剣劇一筋の役者である。昭和2年に籠寅演芸部の鈴声劇が筒井一派と合同公演した時、筒井と出会う。筒井の欧米巡業で『影の力』の忠治役に扮し、舞台に存在感のある、リアルな演技ができる役者として最も人気を博した。欧米巡業後は独立して一派を起こし、筒井も特別出演していたが、昭和11年から初代大江美智子一座に参加し、大江の相手役として活躍した"
(田中徳一「筒井徳二郎一座の米国への招聘とその経緯」/『国際関係研究』第23巻3号, 2002.12)

ここにも三桝清が籠寅演芸部の鈴声劇のメンバーであったことが記されています。

初代大江美智子も籠寅所属。それどころか、籠寅興行の保良浅之助が特に目をかけていた女剣劇の座長です。

ついでに言えば、不二洋子も近江二郎も伏見澄子も筒井徳二郎も籠寅所属です。

やはり、大高よし男も籠寅所属の役者と考えて間違いはなさそうです。

剣劇の歴史はいまやほとんど世間から忘れられているとはいえ、初代大江美智子といえば女剣劇の代表格だし、筒井徳二郎は剣劇の創始者といってもいいくらいの人物だそう。そんな両座長から高い評価を得ていた三桝の実力は推して知るべし。その三桝と肩を並べた大高はどれほどの役者だったのでしょうか。

正直なところ、最初に杉田劇場のポスターで「大高ヨシヲ一座」の名前を見た時、こんな役者聞いたこともないし、それっぽい名前(市川とか中村とか梅沢とか)でもないし、なんだかいかがわしいなぁ、と感じたのが本音です。

ちょっと芝居をかじったことのある芸事好きな横浜のおっさんが、仲間うちに声をかけて立ち上げたセミプロ劇団くらいのものだろう、なんて思っていましたし、大高一座の人気のおかげで京浜急行が儲かった、なんていう逸話も、尾鰭のついた眉唾モノだろうと決めつけていたところもあります。

ところがどっこい。調べれば調べるほど、大高の周りには大物が続々と現れてくる。


大高よし男…この男、タダモノではないゾ。


それにしても、周囲の情報がつぎつぎと判明するワリに、大高の情報ばかりが出てこないのはなぜか。

推定される理由は次の3つくらいでしょうか。

1、大高の主な活動エリアが東京や大阪・京都ではなかったから(たとえば九州や信州)
2、改名したから
3、召集されて戦地にいったから

いずれも可能性はあります。

それとともにいろんなものがわかりにくくなっている原因のひとつが、所属していた籠寅演芸部(籠寅興行部)。この興行事務所についてはいろんな事情で、研究や調査が進んでいないようです。そのせいで大高の素性がわかりにくくなっているのは否めません。

籠寅とはどんな事務所だったのか。

そのことがとてもよくわかる論文がこちらです→中野正昭「侠客と女剣劇―籠寅興行部と大江美智子一座にみる大衆演劇の興行展開-

学術論文ではありますが、映画のストーリーを読んでいるかのような面白さで、思わず引き込まれてしまいます。こういうところに剣劇の座長や役者がいて、杉田劇場のプロデューサー、鈴村義二なんかも同じ世界に生きていたのだろうと推測されるわけですから、横浜の南のはずれ、のどかな杉田の街にできた劇場で、実は結構生々しい興行の世界が渦を巻いていたのかもしれません。


さて、この先の調査は難航が予想されますが、調査範囲はずいぶん狭まった気がします。

大江三郎から探る「近江二郎ルート」、そして所属事務所や関わっていた劇団から探る「籠寅・伏見澄子ルート」。

また、大高や大江が突然表舞台に姿を現す1942(昭和17)年、そして急に姿が消えてしまう1944(昭和19)年。

2つのルートと、2つの年代。

その謎を調べることが、次の一歩。

その一歩が前進すれば、一気に大高の実像が見えてきそうな予感がしています。

乞うご期待!

→つづく(次回は12月31日更新予定)


(10) 大高よし男の軌跡

名前発見に浮かれ気分のその後、落ち着いていろいろ調べてみたところ、追加で情報が出てきて、大高よし男の軌跡(活動履歴)がほんの少しわかってきました。

時系列でざっくりと並べてみます。

1942(昭和17)年

2月28日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座 
3月31日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座 
4月18日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座 
8月31日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座
9月10日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座 
9月19日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座 
9月30日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座 
10月10日〜 京都・三友劇場 伏見澄子一座 
1020日~ 京都・三友劇場 伏見澄子一座

1943(昭和18)年

3月1日〜 浅草・金龍館 伏見澄子一座
3月16日〜 浅草・金龍館 伏見澄子一座
(西条先生のブログにあった興行はたぶんコレ)
4月1日〜9日 京都・三友劇場 伏見澄子一座
4月10日〜19日 同 二の替り
4月20日〜29日 同 三の替り
5月1日〜10日 同 四の替り
5月11日〜20日 同 五の替り
5月21日〜30日 同 六の替り
以後の活動履歴は不明
※8月1日から11月30日までの京都・三友劇場、4ヶ月に及ぶ伏見一座(剣戟大会)のロングラン興行でしたが、どうやら大高は一度も参加していない模様

1944(昭和19)年

この年の活動履歴不明
※8月1日〜31日の京都・松竹劇場、11月1日〜30日の京都・三友劇場における伏見一座にも参加せず

1945(昭和20)年

この年も活動履歴不明

1946(昭和21)年

2月はじめ 杉田劇場に売り込み
2月中旬〜 杉田劇場で大高よし男一座(暁第一劇団)興行開始
4月1日〜4日 杉田劇場・暁第一劇団興行(推定)
4月5日〜8日 同 二の替り(推定)
4月9日〜12日 同 三の替り
4月13日〜16日 同 四の替り
この間の活動履歴、不明
9月1日〜4日 杉田劇場・暁第一劇団
9月5日〜8日 同 二の替り(推定)
9月9日〜12日 同 三の替り(推定)
9月13日〜15日 同 四の替り(推定)
9月23日〜26日 杉田劇場・暁劇団興行
9月27日〜30日 杉田劇場・暁劇団興行
10月1日夜 木曽へ出発 途中、長野県須原付近で事故死
10月2日 岐阜県中津川にて火葬、帰浜

 

1942(昭和17)年以前がわからないので、どういう経緯なのかは不明ですが、伏見澄子一座に参加することが多かったようです。

森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房, 1992)によれば、伏見澄子は

"大阪新世界の小さな劇場に出ていたのを籠寅演芸部の保良浅之助が見つけ、大江美智子、不二洋子につづく女剣劇のスターとして売り出しを図った。まず道頓堀の弁天座、浪花座あたりで人気を集め、横浜の敷島座を経て浅草に進出してきたのである"

なんだそうです。ほんの少しですが横浜にも縁があるわけです。もっとも、敷島座に出たのは1933(昭和8)年のことだから、大高が一座に参加していた時期とは10年の隔たりがあります。また、この間に大高との関わりが始まるわけですが、それがいつからで、どの公演からなのかはまだわかりません。

いずれにせよ、伏見澄子が所属していた籠寅演芸部に大高も所属していたのではと考えるのが自然でしょう。

さらに同書には

"伏見澄子は(昭和)十五年八月に公園劇場、十六年七月、八月に松竹座へ出たが、わたしはみていない。そしてそれ以後、東京の舞台から姿を消してしまった。結婚して家庭に入ったらしいが、くわしいことは不明である"

ともあります。

先に紹介した通り、伏見一座は1943(昭和18)年の3月に浅草金龍館での「三座合同競艶大会」に出ているので、情報には若干の誤りもありますが、翌19年11月の京都三友劇場を最後に、伏見一座の情報が途絶えてしまい、戦後の活動も見当たらないことからして、この時期に結婚して家庭に入った(=引退?)としてもおかしくはありません。

(しかしこの伏見澄子という人、「女剣劇三羽烏」のひとりだったはずなのに、どうにも資料が乏しくて実像がよくつかめない)

そんなこともあってか、大高の活動履歴は1943(昭和18)年の初夏には消えてしまうのです。無駄に妄想を逞しくすれば、引退をほのめかす座長に嫌気がさして、一座から距離を置いたのか、妄想を排して真っ当に考えると、召集されて戦地に行ってしまったのか…

女剣劇三羽烏のひとり不二洋子は、雑誌『日本演劇』(昭和20年6/7月合併号)の「大衆演劇座長の苦労ばなし」という、終戦間際とは思えないほど呑気な特集記事の中で、一座に人が足りないとぼやきつつ、"勿論、お召しにあずかったり、徴用に出たりした人も多勢ゐます"と述べているから、実際、役者の中からも兵隊に行ったり、徴用されて工場などで働いていた人は結構いたのでしょう。むしろ今の感覚からすれば、戦時中によくこれだけの芝居をやっていたなと感心してしまうくらいです。もっとも、不二の話には "徴用だといふので暇をとつた人が、隣の芝居に働いてゐるやうなこともよくあります"というオチまでついているのだから、笑っていいやら悪いやら。

ところで、剣劇の公演に際してたびたび出てくる「加盟」という言葉の意味、実は僕にもはっきりはわからないのですが、文脈からすると、どうやら今でいう「客演(助演)」くらいのイメージかなと思います。より正確にいうと、一時的にその一座に入る、くらいの意味合いでしょうか。つまり、大高よし男は伏見澄子一座に客演(助演)する役者の常連で、二見浦子や三桝清といった人とよく一緒に活動していたということになります。

二見浦子も三桝清も剣劇界ではそこそこ有名な人らしく、二見は自身の一座を持ち、関西を中心に「二見浦子一座」として活躍していたようですし、一方の三桝清も籠寅興行部が作った「鈴声劇」(青年剣劇団)のメンバーであることがわかっています(1928(昭和3)年の京都日出新聞に名前が出てきます(『近代歌舞伎年表 京都篇』より))。この二人と肩を並べて広告なりパンフレットなりに名前が記載されるということは、大高も同レベルの役者だったはずです。もし大高がそのまま芝居を続けていたなら、「大高よし男一座」の名前がどこかで見つかるに違いありません。それを探すのが次のステップになりそうです。

と、ここまでの段階であらためて確認できそうなのが大高の年齢です。「鈴声劇」に参加していた1928(昭和3)年の三桝清を18歳の若者とすると、大高と共演していた1943(昭和18)年には33歳。大高の享年を30代から40代と推定していますから、同時期に活動していた大高と三桝が同世代だとすれば、推定に狂いはないことになります。

さらに歩を進めれば、年齢の根拠である昭和21年の葬儀写真に写る「子息」(と思われる人物)を10歳と仮定すると、1936(昭和11)年頃の生まれ。大高が京都で興行に参加していた頃(昭和17年から18年)には、もう生まれていたはずです。一緒に旅回りをしていたのか、はたまたどこかに家があったのか。家があったとしたらどこにあったのか。

謎が謎を呼び、妄想が妄想をふくらませていきます。

とはいえ、結局のところこれまでの進展は、大高ヨシヲ(よし男)がプロの役者(旅回りの剣劇役者)で、戦時中、伏見澄子一座の舞台に立った、ということが判明しただけで、その前もその先も、つまり、彼がいつ・どこで生まれ、どういうきっかけで芝居を始めたのか、また彼がいつ・どこで自分の一座を作り、どういう経緯で横浜(杉田)に来たのかなど、まだわからないことが山積というのが現状です。

最低限、1943(昭和18)年夏から終戦〜杉田劇場開場までの大高の痕跡が見つかりさえすれば、彼が戦後、杉田劇場に現れるまでの軌跡がはっきりするのですが…(「大高、謎の3年8ヶ月」とでも名付けましょうか)

ともあれ、知識も手がかりも乏しい中、よくもまあここまでたどり着いた。濃い霧の向こうに大高の背中がぼんやりと見えてきたぞ、と自画自賛の年末になりそうです。

調査続行!

→つづく

追記:
戦時中は歌舞音曲が奪われた暗黒時代、みたいな印象もありますが、
上にも書いたように、実際はあちこちで興行はさかんに行われていたようです。ただ、時代が下るに従って演目に愛国的だったり戦意高揚的な内容が増えてくるあたり、時代の空気も含め、表現の自由度の幅が狭まっていただろうことは推測できます。
ややこしいのは「暁楽団」とか「ひばり楽団」なんていうのがいたことです。どちらも花月系の劇場に出ているので、吉本の芸人でしょうから、大高とは関係ないと思います(ひばり楽団は「春日ひばり」という人の楽団のようです)。


(9) 【緊急更新】大前進! 大高よし男と大江三郎の情報を発見!

 Googleで「大高ヨシヲ」を検索しても、杉田劇場のウェブ記事かブログか、他のサイトの美空ひばり関連しか出てこないし、「大高ヨシヲ 役者」で検索すると、「大高洋夫」さんがドッと出てきてしまって、文字通り情報の海に溺れてしまうワケですが、先日、ひょんなことから、検索ワードを「" "」で囲めば、その言葉をピンポイントで検索できることを知りました。

で、やってみました。

「"大高ヨシヲ"」
「"大高ヨシオ"」
「"大高義雄"」

ふむ、やっぱり目新しい情報はないな、とあきらめかけた最後のトライ、「大高よし男」…

ん? 出たーッ!  

江戸川大学で大衆芸能史などの研究をされている西条昇先生のブログに出ていた、昭和10年代後半、浅草・金龍館での「三座合同競艶大会」のパンフ!

それが→こちら

なんと「伏見澄子一座」の文字の左隣にいるではありませんか!

大高よし男 特別加盟

おお! あなたは「ヨシヲ」でも「ヨシオ」でも「義雄」でもなく、「よし男」だったのか!

なんと、杉田劇場以外の場所で大高の名前を見たのはこれが初めてです!

(この西条先生のブログ、貴重なパンフの写真がたくさんあって、毎日のように画面に顔を寄せ、目を皿のようにして見ていたんですけど、ああ、見落としていました!)


伏見澄子といえば、女剣劇三羽烏のひとり。

(やはり剣劇だったか!)

しかもこの時一緒に出演している「中野かほる一座」の座長、中野かほるは、昭和21年10月、杉田劇場での「大高よし男追善興行」に特別出演しているのです!

(ここにつながりがあった!)


よっしゃ、こうなったら「よし男」で追い込みだ、と調子づいてさらに調べたら、もうひとつ出てきました!

(ありがとうGoogle先生! 特にGoogleブックス!)

 

近代歌舞伎年表 京都篇」という本に以下の情報!

昭和17年2月28日〜3月(9)日  三友劇場
剣戟大会 伏見澄子一座・市川百々之助特別出演 大高よし男 二見浦子加盟 合同公演
鈴木道太郎 作 時代劇「元禄辰巳の夜噺」 主演 大高よし男 二見浦子
(典拠 京都日出新聞 2.28広告/京都日出新聞 3.7記事=“中でも大高よし男、二見浦子は客の目を引いてゐる”)

昭和17年3月(31)日〜 三友劇場
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党・大高よし男 二見浦子加盟 合同公演
時代劇「剣光祭音頭」四場 主演 大高よし男 二見浦子
(典拠 京都日出新聞 3.31広告)

4月(18)日〜 三友劇場
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党・大高よし男 二見浦子加盟 大合同公演
鈴木道太郎作並ニ演出 時代劇「冴える三日月」三場 大高よし男 主演
(典拠 簡易筋書(三友劇場ニュース第54号)、京都新聞 4.18広告)

昭和17年の早春から、京都の三友劇場に大高よし男が出演していたという証拠です! しかもここでも伏見澄子一座の興行に加盟(客演)という形! 

(おお!) 

さらに調子に乗ってみると、おまけがもうひとつ、「大江三郎」!

大江三郎という人は大高の「暁第一劇団」で演出を担当していた人で、現杉田劇場のロビーに掲出してあるポスターにも名前があります。


彼の名前もやはり同じ「近代歌舞伎年表 京都篇」に登場するのです。

昭和18年12月(8日)〜 新富座
近江二郎大一座 河上欣也一座加盟
大江三郎 演出 現代劇「純情博多小唄」四場
(典拠:京都新聞 12.8広告)

12月中旬〜 新富座
近江二郎大一座 河上欣也一座加盟
大江三郎 作 現代劇「瞼の兄」
(典拠:京都新聞 12.16広告〜12.21広告)

12月下旬 新富座
近江二郎大一座 河上欣也一座加盟
大江三郎 作 現代劇「下町の素描」一場
(典拠:京都新聞 12.22広告〜12.30広告)


大高が京都で舞台に立った翌年の暮れ、今度は大江三郎が同じ京都、新富座の舞台に関わっていたわけです。しかもこっちは

近江二郎一座!

近江二郎一座といえば、杉田劇場の開場から2ヶ月半後、弘明寺の銀星座で開場記念興行を行った劇団ではありませんか!

(つながってるぞ!)


これで、旧杉田劇場専属「暁第一劇団」の主要な関係者二人が、戦時中の京都や浅草で、剣劇の劇団と行動を共にしていたことが判明したわけです!

そして、おそらく、浅草興行界でなんらかの関わりがあったであろう、近江二郎=伏見澄子=鈴村義二(プロデューサー)のラインが、杉田劇場と大高一座をつなぐ縁に関係していたと推定することもできそうです(大高と鈴村が無関係という僕の見立てはハズレかもしれません)。


昭和17年・18年の活動から、戦況が悪化する昭和19年・20年を、大高と大江はどこで、どうやって過ごしていたのでしょうか。

そして、この二人はどのようにして出会い、どういうきっかけで一座を組み、どうして杉田劇場に売り込みにきたのでしょうか。

発見が新たな謎を生む…

調査は続きます。乞うご期待!

→つづく


追記:
先日、杉田劇場のブログで、「大高ヨシヲを探せ」を紹介していただきました→こちら
そこに掲載されている大高よし男の葬儀後の写真中央、遺骨を抱く人物が大江三郎だそうです。この数年前には二人とも浅草や京都の舞台で活躍していたことを思うと、運命の非情を感じないわけにはいかず、切なさが胸に迫ります。

(8) 大高ヨシヲは剣劇一座の座員?

さて、今回から大高ヨシヲの探索に復帰です。

その前にまず、前回までとり上げたプロデューサー鈴村と大高の関係を考えておきたいと思います。

結論から言うと、杉田劇場以前には鈴村と大高の間に深い関わりはなかったというのが僕の見立てです。というのも、大高が杉田劇場を訪れたのは1946(昭和21)年の2月ですから、開場から1か月後。もし鈴村と高田の関係のように、戦時中からの付き合いがあったならば、わざわざ大高から売り込むまでもなく、鈴村が声をかけただろうし、片山さんの証言にあるような「劇場幹部との話し合い」も必要なかったと思うからです。

むしろ、もし以前からの知り合いだったとしたら、大高の来訪と話し合いは

大高「おい、鈴村! テメー、なんでオレを使わねぇンだ!」 
鈴村「まあまあ、ヨシヲ、まずは落ち着けって」
大高「うるせぇ! これが落ち着いていられるか!」 

なんていう修羅場の様相を呈していたかもしれません(妄想です)。

そんなわけで、大高は飛び込みで杉田劇場に営業をかけたと推定されますが、以前にも書いた通り、なんの経験もない素人集団が劇場の専属劇団になることはまずないでしょうから、大高にはそれなりのキャリアがあったと考えるのが妥当です。大高ヨシヲの舞台経験、その痕跡を見つけ出せれば彼の経歴の手がかりがつかめるはずです。


大高ヨシヲが座長をつとめた「暁第一劇団」は、今でいう大衆演劇の劇団で、演目はいわゆる剣劇や軽演劇というジャンルに分類されるものです。つまり大高のキャリアを見つけるには、戦前・戦中の剣劇・軽演劇の公演情報(広告やパンフなど)を探ることが必須なワケです(見つかるかな)。

とはいえ、剣劇や軽演劇に詳しくない僕ですから、まず剣劇とは何か、軽演劇とは何か、どんな劇団があったのか、それを調べることからスタートしようと思います(やや頼りないところですが…)。

ということで、今回はまず剣劇について整理してみます(実は横浜と剣劇は意外と深い関係があるのですが、それは後述)。


さっそく、「剣劇」とは何か。

前にもリンクを貼った「コトバンク」から引用すると

“剣の魅力を売り物にした大衆向けの演劇。剣戟(けんげき)(刀剣をもって斬り合うこと)を剣劇と誤記したことから生まれた用語ともいわれる。俗称ちゃんばら劇。大正期に迫真的な殺陣(たて)を編み出して人気を得た沢田正二郎らの新国劇から1919年(大正8)に脱退した中田正造らが組織した新声劇が剣劇団の最初である。その後、明石潮(うしお)、田中介二、小川隆らの各一座をはじめ、全国各地に数多くの剣劇団が輩出、昭和期には梅沢昇(初代)、金井修らの一座が台頭、また女剣劇も派生した。しかし戦時色が濃厚になるにつれ、「やくざを正義者扱いする」「短時間に多くの人間を斬るのは荒唐無稽」などの理由で制約を受け、また戦後は女剣劇やストリップショーに人気を奪われて衰退した” 

ということになります。

(この解説は向井爽也さんという大衆演劇の研究者が執筆しています。向井さんには『日本の大衆演劇』(1962年刊)という労作があって大変助かっています)

つまり、要約すれば、剣劇とは「新国劇の派生形の、いわゆるチャンバラ劇」ということになります。

そして、実際にどんな劇団があったのか。
ネットを探っただけでも、ざっとこんな感じです(もちろんこのほかにもまだまだたくさんあります)。
  • 新声劇
  • 明石潮一座
  • 田中介二一座
  • 小川隆一座
  • 遠山満とその一党
  • 梅沢昇一座
  • 金井修一座
  • 剣星劇
  • 日吉良太郎一座
  • 新光劇聯盟
  • 伊村義雄一座
  • 筒井徳二郎一座
  • 第二新国劇
  • 鈴声劇
  • 近江二郎一座

引用文にもある通り、やがて剣劇を駆逐する勢いで、女優が勇ましい立ち回りをする「女剣劇」が流行し、戦前・戦中・戦後と隆盛を極めていきます。中でも一般によく知られているのが、浅香光代でしょう(ちなみに彼女も旧杉田劇場の舞台に立ったとされています)。

主な女剣劇の劇団には

  • 大江美智子一座
  • 不二洋子一座
  • 伏見澄子一座
  • 筑波澄子一座
  • 浅香光代一座
  • 中野弘子一座

などがあります。

大江美智子一座、不二洋子一座、伏見澄子一座を女剣劇三羽烏と言ったり、大江美智子一座、不二洋子一座、浅香光代一座、中野弘子一座を四巨頭と言ったりするそうですが、いずれにしてもこのあたりが女剣劇の代表格となります。

剣劇・女剣劇の劇団は主に浅草などを拠点としていたようですが、前述の通り、実は横浜とも浅からぬ縁があるのです。

仮に大高ヨシヲが横浜の人で(あり得ますよね?)、剣劇に関心があったとすると(あり得ますよね?)、地元に縁のある一座に所属していたか、少なくともなんらかの付き合いがあっただろうと推定できるわけです。

上記の中から、僕の調べた範囲で、横浜との深い縁を持つと思われるのは

  • 大江美智子一座(二代目)
  • 近江二郎一座
  • 梅沢昇一座
  • 日吉良太郎一座
の四座。
ひとつずつ詳細を整理しながら、大高との関係を探ってみます(もちろん想像と妄想を含みます)。

(1)大江美智子一座(二代目)

二代目大江美智子は足袋職人の娘として1919(大正8)年、南太田に生まれました。のちの住まいも南区永田町ですから、公演で全国を飛び回っていたとはいえ、性根は間違いなく生粋のハマっ子です。

戦前、末吉町の「横浜歌舞伎座」で見た初代大江美智子の舞台に魅せられ、親の反対を押し切って15歳で一座へ飛び込みます。ところが、入って5年目に初代が急死。興行主保良浅之助という人)の一声で抜擢され、20歳で二代目を襲名、初代にも劣らぬ人気でその後の一座を率いました。

華々しい芸歴に見えますが、1982年に出版された自伝や、横浜市女性センターの冊子『横浜に生きる女性たちの声の記録』(第二集)に収録されているインタビューなどを読むと、さんざんにいじめられた苦労話が滔々と述べられていますから、弱冠ハタチ、それも入座わずか5年での座長抜擢はなかなかしんどかっただろうなと、華やかな芸能生活の裏を垣間見るようで、ちょっと気の毒にもなるところです。

後述しますが、大江美智子と大高ヨシヲは同世代のように思われます。もしかしたらどこかで知られざる邂逅があったかもしれない、なんていうのは完全に肥大化した僕の妄想ですが、二人に何らかの接点があってもおかしくはありません。

(2)近江二郎一座と梅沢昇一座

一方の剣劇では、近江二郎劇団が弘明寺・銀星座の開場披露公演に出演していたほか、杉田劇場でも興行していることがわかっています。近江二郎はもともと関西が拠点のようですが、この頃は関東で活動していたのでしょう。浅草などでの出演記録も残っています。

全国的に活躍していた梅沢昇は、戦後、人気に翳りが出てきたのを挽回しようと、やはり弘明寺に専用劇場(梅沢劇場)を建てて、再起を図ったそうです。実際、昭和30年代の地図を見ると、ちょうど京急弘明寺駅の上大岡寄りにあるトンネルの傍に「演芸場 梅沢劇場」の文字が見えます(佐本政治著『かべす』(1966)には「売りに出ていたキャバレーを手に入れて改装」との記述があります)

どちらも横浜、それも南区や磯子区に縁がありそうです。

もっとも近江二郎は広島、梅沢昇は福岡出身ですから(いずれも1892(明治25)年生まれ)、ハマっ子・大江美智子ほどの地縁はありません。ただ、戦前から横浜でも興行していたようなので、剣劇好きには憧れの存在、大高がそれを見ていた可能性は低くありません。

余談ですが、僕はこの梅沢劇場の詳細をごく最近まで知りませんでした。周囲の演劇関係者からも聞いたことがありません。ただ、この劇場で横浜のアマチュア劇団・葡萄座が一度だけ公演をした記録があるのです(1955年7月30日〜31日、第27回公演・10周年記念公演『王将』)。
梅沢昇一座は1956(昭和31)年に解散したものの、劇場自体は1958(昭和33)年まで続いたそうですが、その後はすっかり忘れられてしまったのでしょうか。地図で見るとそれなりの規模の小屋なのに、ちょっとさびしい話です(跡地はマンションになっています)。

南区明細地図 昭和35年版より
(劇場の左(裏手)は京急線 弘明寺-上大岡間のトンネル / 上が横浜方面)

ちなみに梅沢昇はあの梅沢富美男のお父さん(梅沢清)の師匠にあたる人なんだそうです(→梅沢富美男チャンネル)。そういう人が戦後の弘明寺で芝居をしていたかと思うと、感慨深いものがありますね。

(横浜市立図書館のデジタルアーカイブに「地域の写真をさがす」というページがあります。「南区」の「戦災復興期:1941-1964」を選択して検索すると、3ページ目くらいに「弘明寺町234番地のキャバレー」という不思議な写真が出てきます。梅沢劇場の地番はまさに弘明寺町234。この写真のキャバレーを改装して劇場にしたということでしょう(『かべす』の記述が裏付けられました)。写真の中で米兵らしき人たちと一緒に写っているのは、キャバレーで営業(公演)していた女剣劇の役者たちじゃないかなと思います。どこの劇団かはわからないけど)

(3)日吉良太郎一座

日吉良太郎(1887(明治20)年、岐阜生まれ)という人は少し謎の多い人物です。彼も戦前・戦中は全国的に有名だったようで、東宝が経営する大劇場、江東劇場(キャパ1,500)の開館記念興行をやっているくらいですから、かなりなビッグネームの一座だったろうと想像できます。ところが、ネット上には具体的な公演記録がほぼ見当たりませんし(早大演劇博物館の上演記録データベースを検索しても1件しかない)、ウィキペディアには「日吉良太郎」の項目すらありません(どういうこと?)。

ですが、調べた範囲だけでも、日吉良太郎と横浜との縁がかなり深いことはわかります。伊勢佐木町四丁目の「敷島座」で9ヶ月、末吉町の「横浜歌舞伎座」では6年半にわたって、ほとんど座付劇団と言っていいような活動をしていたようですし(「はまれぽ」のこちらの記事に横浜歌舞伎座のことが詳しく書かれています)日吉自身の住まいが井土ヶ谷中町だったとの記録もありますので、この一座は基本的に横浜を拠点としていたと考えて間違いはないでしょう。

それだけ人気の高かった日吉良太郎一座ですが、終戦とともに活動場所を失い、まもなく解散となったそうです。戦時中は戦意高揚的な愛国劇をさかんにやっていたらしいので、戦犯問題やら何やらがあったのでしょうか。詳しいことはわかりません。

横浜の演劇史研究家・小柴俊雄氏の『横浜演劇百四十年 −ヨコハマ芸能外伝』によれば、弘明寺・銀星座にできた専属劇団「自由劇団」の座員のうち、何人かは日吉一座にいた人だそうです。となると、杉田の大高ヨシヲ一座の面々が日吉良太郎のところにいたという可能性も…あり得ない話ではありません。日吉一座が解散して、一派は大高の下で杉田に、もう一派は銀星座に…ふむ、なんとなくこのあたりが一番アヤシイような気がしてきました。

とはいえ、どの劇団にも大高との関わりの可能性が見え隠れします。

ふむふむ。

大高ヨシヲの葬儀後の写真に写っている、子息と思われる少年の年恰好からして、亡くなった時の大高の年齢は30代から40代と推定しています(二代目大江美智子とほぼ同世代と考えられます)。早い舞台デビューで15歳からとして、逆算すると大正の終わりから昭和初期に彼のキャリアがスタートしたと考えるのが妥当でしょう。

この先は、横浜に関わりのある大江美智子一座、近江二郎一座、梅沢昇一座、日吉良太郎一座に絞って、彼らの昭和初期の公演情報の中に大高ヨシヲの手がかりを探します。

はたして、大高ヨシヲはどこかの剣劇一座に所属していたのでしょうか?

調査は続きます。

次回は軽演劇と大高一座の関係を整理してみたいと思います。

→つづく

(7) キーマン 鈴村義二・3

渥美清が旧杉田劇場の舞台に立ったと現杉田劇場のウェブサイトにも掲載されていますが、実は彼の若い頃の経歴はよくわかっていません。所属していたとされる劇団が杉田で公演したことがあるようなので、それをもって「立った」と言うこともできそうですが、僕にはまだ確証がありません(これも継続調査中です)。

その渥美清が浅草の舞台に出演するようになるのは、1951年頃。浅香光代はすでに自分の一座を結成して人気者。てんぷくトリオ結成前の三波伸介や戸塚睦夫がその一座に参加しており、後年、1956年頃、井上ひさしがフランス座の文芸部員となる。

鈴村を通じて、浅草とも細い糸でつながっている旧杉田劇場の歴史は、その前史ということになります。そんな時代の話…


さて、映画劇場をつくると決めた高田菊弥が頼った相手は鈴村義二。片山氏の証言からもそれは間違いありません。映画界・芸能界には疎かったであろう高田にとって、鈴村は心強い存在だったと思います。

しかし鈴村の経歴からすると、彼の主な活躍の場は芝居小屋や演芸場。スクリーンではなかったように思います。映画劇場を開こうという高田の話を聞きながら、鈴村はどう思ったのでしょう。

ここからは完全に僕の想像(妄想?)です。

主に実演者のマネジメントをしてきた鈴村からすれば、映画劇場では自分の人脈を十分に使えない。付き合いのある芸人や役者に仕事を回せない。もっと露骨にいえば、利益は映画会社に持って行かれて、仲間内にも自分にも分け前が降りてこない。映画館では自分の力を十分に発揮できないではないか。

そう思ったとしてもおかしくはありません。

昭和20年11月、戦争を生き延び、杉田の地で再会したこの二人の間にはどんな会話が交わされたのでしょうか…(以下、妄想が肥大化した果ての創作です)

高田「鈴村先生、戦争が終わって、これからは娯楽の時代です」
鈴村「そうだね」
高田「娯楽の中でも先々を考えれば映画。映画が娯楽の王様になると私は確信しています。だから杉田に映画劇場を作ろうと思っているんです!」
鈴村「うむ…」
高田「映画こそがこれからの時代…」
鈴村「高田さん」
高田「はい」
鈴村「あなたの考えは悪くないが、映画はまだは早い」
高田「そうですか?」
鈴村「戦争が終わってまだ半年も経っていないんだ。フィルムだって十分にはないし、GHQの問題だってある。売れる映画がすぐにできるなんて保証はない。実はいま、浅草で一番ウケているのは、喜劇や剣劇や浪曲。実演だよ、実演。今、劇場を始めるなら絶対に実演だ」
高田「実演、ですか…」
鈴村「いいかい。私は伊達や粋狂で言っているんじゃない。生き馬の目を抜く浅草の興行界を、何十年も渡り歩いてきた男の勘が、そう言わせているんだ」
高田「勘…」
鈴村「もっとも、それを信じるか信じないかは、高田さん、あなた次第だよ」
高田「…わかりました。鈴村先生を信じます。杉田は実演の芝居小屋にします!」
鈴村「高田さん! あなたならわかってくれると思ってたよ。私も命懸けでやる! 力を合わせてがんばりましょう!」
高田「はい!」

なんていう芝居がかったクサいやりとりがあったかどうかはわかりません。ただ、理由は定かではないものの、鈴村には高田の新劇場を実演専門の芝居小屋にした方がいいと考える何かがあったのだろうとは推察できます。そのあたりは戦前・戦中の鈴村の活動をさらに調べてみることでもっとよく見えてくるような気はします。継続調査です。

鈴村義二

(と、ここまで書いて、なんだか鈴村を悪者に描きすぎているような気がしてきたので、ひとつフォローすると、杉田劇場の開場後、滝頭の天才少女、加藤和枝ちゃんが大高ヨシヲ一座の幕間に幕前で歌っている姿を見て、即座にその才能を見抜き、舞台で歌わせるようにと指示したのは鈴村だそうです。つまり、のちの美空ひばりを最初に見出したのは鈴村義二といってもいいのかもしれません。芸を見極める眼力はやはり確かなものだったのでしょうね)

ともあれ、そんなこんながあったりなかったりの末に、新聞記事にあった「杉田映画劇場」は「映画」を外した「杉田劇場」としてオープンすることとなります。

終戦からちょうど4ヶ月半、1946年、昭和21年の元日です。

→つづく(次回は週末)

(6) キーマン 鈴村義二・2

 鈴村義二の名前、いまは広く世間に知られているとは言い難いものですが、当時の浅草を中心とした興行界(芸能界)では名の知れた人で、それなりの活躍もしていたようです。ただ、詳しいことはよくわかりません。

鈴村は後年、『浅草昔話』という本を出していますが、奥付けにある、自身が書いたと思われるプロフィールにはこうあります。

  • 明治三十一年 下谷西町に生る。
  • 大正十年 東亜青年同盟会組織、会長。
  • 大正十四年 下谷区会議員当選。
  • 大正十五年 振興青年団々長。
  • 昭和元年 日連[ママ]主義天法会々長。
  • 昭和元年より終戦まで浅草木内興行相談役として大衆演劇の育成指導並劇団顧問。
  • 昭和六年 海江田プロ理事長、大阪極東キネマ撮影所相談役。
  • 昭和六年 政治結社革新青年同盟を組織。
  • 戦時中、剣舞踊、民謡を主体に瑞穂絃楽団を組織、軍需省派遣にて全国慰問に従事。
  • 大麻博之殿主の詩吟道場日本放光殿剣吟舞踊並びに舞踊田毎流宗家田毎一平と号す。
(鈴村義二著「浅草昔話」南北社事業部 昭和39年12月30日発行 より)

失礼ながら、なかなかのアヤシさで、いかにも昭和の興行界という感じがします。

ここに書いてある「木内興行」は戦前から浅草で劇場経営や芸人・劇団の、いまでいう「マネジメント」をしていた興行会社(芸能事務所)で、エノケンとも関わりがあったくらいですから、力のある事務所だったのだろうと思います。木内興行の相談役を「終戦まで」としてあるのは、戦後、声のかかった杉田劇場に軸足を移したことを意味しているのかどうか、詳細はよくわかりませんが、いずれにしても、終戦までは鈴村はこの木内興行との関わりの中で、上野・浅草あたりの劇団や芸人たちを仕切っていたのではないかと推察されます(片山氏の証言にある「浅草の芸能界で有名」とはそういうことなのでしょう)。だから、杉田劇場に出演した劇団や芸人は、少なくとも開場当初は鈴村がブッキングしたのだろうと思います(彼らと木内興行との関係も調べてみる必要がありそうですね)。

もうひとつ、鈴村義二と高田菊弥のつながりをうかがわせる重要な手がかりが、このプロフィールの中にあります。

「戦時中、剣舞踊、民謡を主体に瑞穂絃楽団を組織、軍需省派遣にて全国慰問に従事」

戦時中、外地(戦地)への慰問が行われていたのはよく知られていますが、国内、特に炭鉱や軍需工場への慰問もかなり行われていたそうです。ネットで見つけた論文にはこんな記載があります。

“アメリカの石油輸出禁止によって深刻な資源不足に陥っていた日本は、国内の炭坑や鉱山の資源確保に力を入れていた。そこで多くの労働者が登用され、昼夜問わず過酷な労働環境の中で働く“鶴嘴戦士”が誕生した。また工場でも増産が叫ばれ、“生産戦士” らにも過酷な労働条件が課されていた。彼らを激励し、より生産効率を上げることを目的に、大日本産業報国会によって多くの演芸慰問団が組織されたのである。 歌や踊り、漫才や映画上映など、その種類は多岐にわたっていた”
(葛西真由香「昭和戦時下における慰問団の実態についての一考察」/『政治学研究64号』慶應義塾大学法学部政治学科ゼミナール委員会, 2021 p.9-10)

鈴村の組織した演芸慰問団が「軍需省派遣」であるということからも、彼が演芸慰問団を率いて、主に軍関係の生産現場を巡っていたのだろうと推察されます。

実際、鈴村と慰問の関係は、林家正蔵の戦中日記からも窺い知ることができます。

“(昭和20年)三月二十八日(水)
山ふところの梅林を観ながらに走るトラックのうへ。
鈴村義二氏に誘はれて山北の山間へ慰問に行く。久しぶりで田舎へ来てノンビリした(中略)移動連盟の人達と一緒だったがこれ又すはほな連中である(以下略)”
 (八代目林家正蔵『八代目正蔵戦中日記』(瀧口雅仁編/中公文庫)より*下線筆者) 
※傍注には「作家」とありますが、実際は「興行師」「プロデューサー」の方が近いんじゃないかと思います

疎開先でもおかしくないような地にどうして慰問団が行くのだろうと思って調べてみると、戦時中、山北町には「江戸川工業所(現・三菱ガス化学)」という化学薬品メーカーの工場があって(1933(昭和8)年開設)、海軍のロケットエンジンの燃焼実験にも関わっていたそうです(なんと日飛の「秋水」とも関係しているではないか!)。やはり一種の軍需工場ということになるのでしょう。林家正蔵らの目的地は、その工場だったにちがいない。そこに鈴村が(おそらく)随行していたわけです。

とすると、鈴村義二が演芸慰問団を連れて杉田の「日本飛行機」を訪れていたとしてもまったくおかしくありません。高田も従業員とともに公演を見に行ったことでしょう。下請けとはいえ社長ともなれば、日飛の担当者と一緒に、公演後、芸人や鈴村に接待のようなこともしたかもしれない。少なくとも対面での挨拶くらいはあったと思います。それが回を重ねていくうちに、

「鈴村先生!」
「やあ、高田さん」

という関係にもなる(「昵懇の間柄」)。想像に難くないところです。

これを確実なものにするためには、神奈川県内(横浜市内でもいい)の慰問状況を具体的に調べ上げることが必須ですが、戦時中のこうした記録が残っているかどうか。他の人の戦中日記を渉猟することも併せて、継続調査したいと思います。

ともあれ、これで、まったく無縁に思われた高田菊弥と鈴村義二のつながりが、うっすらと見えてきました。

→つづく


(5) キーマン 鈴村義二・1

 ここでちょっと大高ヨシヲから離れて、旧杉田劇場のこと。

杉田劇場のオーナーは高田菊弥という人です。戦争中、杉田(金沢区昭和町)の「日本飛行機」(日飛)という会社の下請け工場を経営していました。出身は信州の木曽(南木曽)で、彼がなぜ木曽から横浜に出てきて、そういう仕事をしていたのかは正直よくわからないところですが、今回はそこには触れません。

日飛のウェブサイトによれば「1934(昭和9年) 旧海軍用航空機の生産を目的に(旧)日本飛行機(株)を創業」とあります。初代社長は初代社長は加藤亮一氏(元海軍中将)で、二代目が堀悌吉氏(元海軍中将)ともありますから、重要な工場だったのでしょう。

サイトにはまた「堀社長は、山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友であり、後、山本長官はしばしば当社を来訪された」とありますし、終戦間際にはロケット戦闘機「秋水」の製作も担っていたとも書いてあります。

1931(昭和6)年刊行の『土地宝典』を見ると、杉田・中原はおだやかな海に面した、田畑の広がるのどかな風景だったようで、農業や漁業を生業としていた家が多かったと思われます。そんな杉田の人々にとって、日飛は突如あらわれた巨大工場、という印象だったかもしれません(1936年には隣接地に横浜海軍航空隊もでき、景色が一変したのだと思います)。

おそらく杉田や富岡あたりにはたくさんの下請け工場ができ、社員寮やアパートや関連施設も続々建ったと思います。そこで働く人たちが利用する飲食店や商店なども多くなり、街は日々賑わいを増していったことでしょう。日飛(や石川島)のような工場が、いまの杉田の街の基盤を作ったといっても、あながち間違いではない気がします。

そんな日飛の下請けのひとつが高田菊弥の経営していた工場(「東機工」という会社だそうです)ということになります。

しかし、いかんせん軍需産業ですから1945年8月の敗戦とともに工場は即閉鎖されます。当然ながら下請けの仕事もなくなり、日飛も東機工も社員は路頭に迷うことになります。まずは新しい仕事を探さなくちゃいけない。日飛の社員の中には会社を離れて岡村町に「岡村製作所(現オカムラ)」を創業した人たちもいたそうです。東機工の経営者・高田菊弥も「えらいこっちゃ。なんとかしなくちゃ」…と言ったかどうかはわかりませんが、とにかく必死に生き延びる術を探し、あれこれ考えを巡らせたに違いありません。

で、思いついたのが「劇場」。

この発想の飛躍にはちょっと驚かされますが、高田菊弥という人のことをじっくり考えてみれば、そんなに突飛でもない気がしてきます。実は高田菊弥、かなり先見の明のある人だったんじゃないかと僕は思っています。彼が生まれたのは明治43(1910)年。昭和16(1941)年に東機工を創業した時は30歳か31歳。生まれ育った地元ならまだしも、遠く離れた横浜の地での会社経営です。現在とは価値観が異なるとはいえ、その当時でも30歳の若さで会社を起こすには、それなりのバイタリティと時代の先を読む力が必要だったでしょう。

そんな高田が終戦で考えたのが

「平和な世の中になった今、娯楽が求められているはずだ」

ということ。

業態の変わりっぷりは尋常じゃありませんが、着眼点は悪くないと思いませんか。実際、横浜市内で戦後にできた劇場・映画館の中ではおそらく杉田劇場の開場が一番早く、このスタートダッシュの良さは、高田の先見性と決断力によるものも大きいのではないかと僕は考えています(ひょっとすると高田自身、芸事好きだったのかもしれないですね)。

唖然としながら、ほかに良案のない社員たちも運命を高田に託し、さっそく工場から劇場への改装工事が始まります。たぶん昭和20年の秋の終わり頃です。

ところで、昭和20年11月の神奈川新聞に「磯子に映画劇場」というタイトルの記事があります。

昭和20年11月30日付神奈川新聞より

見出しには「磯子に」とありますが、記事を読めば建設地が杉田であると分かります。また記事の締めには「蓋開は来月十五日の豫定である」(「蓋開」という言葉をここで初めて知った)とも書いてあるので、要約すると「昭和20年12月15日、磯子区杉田に映画劇場が開場する予定」ということです。

(記事中には「今まで車馬の響より外に聞かれなかったこの方面に音楽の音の流れるのも間近い」とも書いてあるので、杉田をどんだけ文化不毛の地扱いしているんだとも思いますけどね)

前にも引用した、現杉田劇場の聞き書きによる片山茂氏の証言には「(杉田劇場は)暮の12月20日頃には大方の工事が終り」とありますから、高田たちの作業工程はこの記事内容に近い感じです。また、戦後の杉田には映画館が2つ(杉田東映と東洋劇場)あったものの、どちらも1950年代のオープンなので、この記事とは明らかに時期がズレます。つまり、ここで報じられている「映画劇場」は、杉田劇場のことで間違いないと言えそうです。

いや待てよ。とすると、高田菊弥は当初、映画館を作ろうとしていたのか?


ここで登場するのが、杉田劇場のキーマン、鈴村義二です。

片山氏の証言にはこうあります。

「(高田は)早速、芸能界の実力者の鈴村義二先生に電話し協力を頼んだ。 当時の鈴村先生は台東区の区会議員で、浅草の芸能界では有名人でした。高田とは戦時中よりの昵懇の間柄で、すぐに承諾してくれ、11月初めに鈴村先生が杉田を来訪されました」

工場経営者と芸能界の実力者がどこでどう結びつくのか不思議なところですが、それは後述するとして、いずれにしても昭和20年11月、「浅草の芸能界では有名」だった鈴村義二という人が高田菊弥のもとを訪れ、おそらくそれ以降、杉田劇場の「ブレーン」ないし「プロデューサー」となるわけです。

しかし、映画劇場になるはずだったものが、なぜ実演の芝居小屋に方向転換したのか。

もちろん、当時の映画館は映画だけでなく幕間に実演をやるようなケースも多く、「映画劇場」だからといって実演とは無縁ということもないのですが、開場後の杉田劇場が一貫して芝居・浪曲・落語など実演ばかりをやっていることからすると、当初から映画ではなく実演専門の劇場だったことは明らかです。

そこにはプロデューサー、鈴村義二が深く関わっていたのではないか。

かなり妄想をふくらませた仮説ですが、僕はそう思っています。

→つづく

(4) 大高ヨシヲの謎・2

 そんなわけで、かすかな手がかりも手がかりと呼べるかどうかわからないレベルですし、ハードルも高いので、ひとまず次の謎へ。

「どんな劇団だったの?」


この謎には比較的多くの手がかりがあります。まず、少ないとはいえ演目がわかっていること。もうひとつは現存している2種類のポスターから、役者の名前が判明していること。

とはいうものの「團十郎が助六をやりました」みたいなわかりやすさは皆無ですから、学者でも研究者でもない演劇人(ボク)にはやはりなかなかの難題。

ひとまず、演目だけを抜粋して列記してみます。

  • 明朗時代劇「奴も人間」
  • 「嫌われた伊太郎」
  • 時代劇「涙雨五阡両」五場
  • 明朗劇「応援団長」二景
  • 新舞踊「野崎村」
  • 喜劇「見會」
  • 時代劇「花吹雪 武士道仁義」 
  • 社劇?「家族」四場
  • 時代劇股旅十八番「浮き名の銀平」
  • 「森の石松」
  • 「妻恋道中」
  • 「鼠小僧」
  • 「春雨街道」
  • 現代劇「発車」
  • じゃがいもコンビ 明朗劇「生きてゐる幽霊」
  • 股旅もの 時代劇「いろは仁義」
  • 「滝の白糸」法廷迄全通し
  • 「娘?アイドントノー」
  • 「荒神山」吉良仁吉
う〜ん、ここからわかるのは、少なくとも新劇の劇団じゃないということ(当たり前か)。
といって旧劇(歌舞伎)ともいえない。つまりは、当時の言い方でいう「小芝居」あるいは「軽演劇」の劇団、今の言葉にすれば「大衆演劇」の劇団ということになるでしょう。

ちなみにリンクを貼ったコトバンクの定義から一部を引用すれば、

江戸時代にみられた大芝居・小芝居の差別は明治時代にも大劇場・小劇場という区別となって受け継がれ、その小劇場では、演劇改良を経た大劇場ではすでにみられなくなった古風な芝居が演じ続けられ、根強い人気があったが、第二次世界大戦を境に急速に減少し、旅回りの歌謡ショーや剣劇などにかろうじてそのおもかげをみるにとどまっている

だし

“(軽演劇は)戦後一時息を吹き返したものの、ストリップショーなどに押されて1950年(昭和25)ごろから急速に衰退し、軽演劇ということばも死語と化した。しかしその手法は現在もテレビや大小劇場に伝承されている

ということだから、どっちにしてもこの劇団がやっていた芝居は、江戸・明治から連綿と続いていた地回りの芝居の、最後の煌めきだったように感じます。

と、これだけでもだいぶ進んだ感はあるものの、実はこれだけわかったところで大問題が発生。なんとこの劇団がやっていた演劇ジャンル、

ボクはまったく詳しくない…

うう、弱った…

でも、まがりなりにも大学の文学部、演劇専修を卒業した身でありますから、この調査を通じてあらたに知識を得るつもりで奮闘するまで!

(ガンバラネバ)

さて、最後の謎、「それまで何をやっていたの?」についてですが、これまた手がかりがまったくありません。

ただ、大した知識もない演劇関係者であるボクでも、終戦直後のメチャクチャな時代とはいえ、まったく舞台経験のない素人が杉田劇場の専属劇団になるなんてことは、まずないだろうとは思います。少なくとも座長の大高ヨシヲはどこかで何かやっていたはず。杉田劇場に売り込みに来る前になんらかの舞台経験(プロとしての)はあったはずです。ひょっとするともっと大きな劇団に所属していたのかもしれません。

それを証明するためには、当時の小芝居の有名な劇団のプログラムなどを調べて、その中に「大高ヨシヲ」やそれに類する名前がないかどうか探る必要がありますが、大芝居(歌舞伎)ならばまだしも、小芝居の情報はなかなか表に出てこない(研究者も少ないようです)。というわけで、これも少々難航しそうなところです(詳しくないジャンルだから余計に、というのもあります)。

そんな中、戦後の劇場のことを調べるのにとても有効なサイト「消えた映画館の記憶」(このサイトの情報量はホントにすごいです!)の「横浜市南区」エリアにある「金美映画劇場/金美東映劇場」の項目にこういう記述があるのを見つけました。

“戦時中には洋画の上映が禁じられ、地回りの歌舞伎を上演する芝居小屋「金美劇場」となった”(『横濱南区 昭和むかし話』南区役所・南区制60周年記念事業実行委員会 からの引用)

この劇場(映画館)は吉野町にあったらしいので、杉田からはそんなに遠くない(当時は市電があったことを思うと、感覚的には今よりもっと近かったのかもしれない)。

もしかしたら戦中の新聞広告に何か出ているかもしれません(盲点でした!)。

そこに金美劇場での「暁第一劇団」ないし「大高ヨシヲ一座」の公演があったら…

ビンゴ!

なんですが、はたして、そうウマく行くかどうか。

ともあれ「大高ヨシヲ」調査の、最初の手がかりが見つかったような気がします。

(ガンバリマス!)

 

そんなこんなで、ブログ初っ端の4連続投稿でしたが、ここで一旦小休止。

続きはまた来週末。乞うご期待!!

※今後も週末ごとに投稿する予定です。

(3) 大高ヨシヲの謎・1

 というわけで、大高ヨシヲの「わかっている範囲での」経歴は、なんとかたどることができたわけですが、これは杉田劇場が蒐集した情報を参考にしているので、いわば人の褌で相撲を取るみたいなもの。

ここからが本当の「大高ヨシヲ探し」の始まり、ということになります。

とはいえ、手がかりはこれだけですから、途方に暮れるばかり。思わずひとりごちてしまうほどの暮れっぷりです。

大高さん、あなた一体誰なんですか?


さて、そんな謎だらけの大高ヨシヲ。何がって

  1. あなたは誰なの?
  2. どんな劇団なの?
  3. それまで何やってたの?

が三大「大高の謎」といっていいでしょう。くどいようですが、とにかく情報が少ない。少なすぎる。それでもなんとかしなくちゃいけないというのは、もはや趣味や興味を超えて因業のようにさえ感じます。

ふぅ(デモガンバル)

 

まず第一の謎「あなたは誰なの?」。

これについていえば、残念ながら大高ヨシヲの写真もありませんし(葬儀の後の集合写真はあるけど当然本人はいない)、年齢もわかりませんし、芸名なのか本名なのかさえもわかりませんし、厳密に言えば性別だってわかりません。つまり、今の段階では

杉田劇場に出演していた劇団の座長で役者で、木曽で事故死した人

ということになります。

だいたい名前からして、このブログでも「大高ヨシヲ」としていますが、これは杉田劇場に掲示してあるポスターに倣っているだけで、新聞広告だと「大高ヨシオ」だったり「大高義雄」だったり「大高よし男」だったり。気の短い人なら

どれなんだよ!

とキレてもおかしくないほどです(キレないか?)。

かすかな手がかりは、彼が亡くなることになった事故について、もしかしたら現地の新聞が記事にしているかもしれないという、ボクの推測(ほぼ念願)。

ところが、昭和21年の長野の新聞を閲覧するというのはなかなかハードルが高いのです。イマドキ、なにがしかのお金を払えば簡単にネットで見られるのかと思いきや、昭和21年の記事を個人が、というのはどうやらできないみたい。

ぐむ(デモガンバル)

 

日本大通のニュースパーク(新聞博物館)には「新聞閲覧室」というのがあって、全国の新聞記事のデータベースが揃っているらしいから、近いうちに行ってみようと思います。それより何より、もし誰か長野に行く用事があったら

長野県立図書館に行ってきて〜!(そこなら確実にある)

というわけで 

→つづく

(2) 大高ヨシヲの生涯 〜わかっていること〜

 杉田劇場の資料(新聞広告や故片山茂氏(杉田劇場のオーナーである高田菊弥の甥であり従業員)の証言)などから、これまでにわかっている大高ヨシヲの経歴をたどると


1946(昭和21)年

1月1日(火)

 杉田劇場、磯子区杉田町2184に開場

2月

 大高ヨシヲ、杉田劇場に来訪、出演依頼(売り込み)

2月中旬〜

 大高ヨシヲ劇団の公演始まる

4月?(日付不明)

明朗時代劇「奴も人間」
「嫌われた伊太郎」
音楽 歌謡曲 おどりの美空楽団

4月?(日付不明)

時代劇「涙雨五阡両」五場
ミソラ楽団 出演
明朗劇「応援団長」二景

4月9日(火)〜12日(金)

 暁第一劇団(三の替)
新舞踊「野崎村」
喜劇「見會」
時代劇「花吹雪 武士道仁義」 
 特別出演 ミソラ楽団

4月13日(土)〜16日(火)

 暁第一劇団 大高ヨシオ一座(四の替)
社劇?「家族」四場
時代劇股旅十八番「浮き名の銀平」
 民謡と軽音楽 ミソラ楽団出演 

4月22日(月)〜24日(水)

 暁第一劇団 大高ヨシオ一座 ※演目不明

9月1日(日)〜15日(日)

 暁第一劇団
 「森の石松」「妻恋道中」「鼠小僧」「春雨街道」(四日毎に狂言差替)

9月23日(月)〜26日(木)

 暁劇団
現代劇「発車」
じゃがいもコンビ 明朗劇「生きてゐる幽霊」
股旅もの 時代劇「いろは仁義」

9月27日(金)〜30日(月)

 暁劇団
「滝の白糸」法廷迄全通し
「娘?アイドントノー」
「荒神山」吉良仁吉

10月1日(火)

 木曽への旅公演へ出発(横浜〜甲州街道〜塩尻〜木曽のルート)
 長野県須原付近でトラックが横転。大高ヨシヲ、事故死

10月2日(水)

 中津川の火葬場で火葬。遺骨は横浜に戻る

と、以上がこれまでわかっていること。

う〜ん、難しい…

それにしても、最期が旅公演へ向かう途中で事故死というのは、なんともやりきれない感じがします。
木曽の公演は10月2日と3日で、4日には杉田劇場での公演も決まっていたようだから、かなりな強行軍だったのかな。

ともあれ、かなり心もとない感じですが、ここから「大高ヨシヲを探せ」の旅がスタートです。

(1) 大高ヨシヲを探せ!

磯子に住んで40数年、演劇の仕事を始めて30年弱。

杉田劇場(磯子区民文化センター)との付き合いが始まってほぼ7年。

地元を知らないことに愕然としたここ数年。

旧杉田劇場が存在していたことは知っていたけど、どこにあったのかぼんやりとしか知らず、初期の葡萄座が何度か公演していた以外、どんな演目を上演していたのかもさっぱりわからず。

(おいおい、これで地元の演劇人と言えるのかい?)

てな気分に陥ったこのごろ。

そんな中、劇場スタッフ(地域文化コーディネーター)のTさんに影響されて、地域のことを調べているうちに、旧杉田劇場の専属劇団だった「暁第一劇団」座長、大高ヨシヲのことが俄然気になってきたわけです。

当時を知る人は大高ヨシヲがとても人気のある役者だったと言っているようだし、美空ひばりの舞台デビューがこの劇団の幕間だったという話もあるし、すごい人なんだなとは思うけど、正直、この人がどんな役者で、どういう経歴で、どこに住んでいたのか

誰も知らない…

手がかりも

ほぼない…

こうなると、地元の演劇人としては

よし、自分が調べるしかない!

と思ってしまうのも無理もないというか無鉄砲というか。

そんなわけで、大高ヨシヲのことをできるだけ調べて、この愛すべき杉田劇場最初の座長の真実をなんとか見つけ出したいと思っています。

どうか、よろしくお願いします。