(50) パンフを入手しました!

大高よし男の資料がとても少ないので難儀していましたが、ヤフオクをなんとなく検索していたら、昭和18年5月21日初日、京都新京極・三友劇場のパンフに「大高よし男」の名前を見つけました!

ドキドキしながらの初入札。

そして無事に落札。本日、手元に届きました!


(芝居のパンフなのに、似つかわしくない勇ましい言葉が並んでいるのが、戦時中を感じさせます)

この興行については、『近代歌舞伎年表 京都篇』の別巻に記録されていますが、新聞広告が典拠なので情報は限られたものになります。

実際に手に取って見てみると、前年に横浜で大高と共演した「宮崎角兵衛」の名前があったり(こちらの投稿に書きました)、第三演目『黎明新日本』では大高が殺陣をつけていたということなどもわかって、とても興味深いです。

大高よし男の横に「宮崎角兵衛」の名前が見えます

この作品では「殺陣…大高よし男」と掲載されています


これまで調べた範囲では、この公演を最後に、戦時中の大高の記録は消えてしまいます。ひょっとすると、この後、大高は召集されて戦地へ赴いたのかもしれません。

だとしたら、大高はどんな思いでこの舞台に立っていたのでしょうね。


いずれにしても、このパンフ、大高自身が見たかもしれないし、少なくとも「大高の姿を見たことのある人」が持っていたものだとは言えるでしょうから、なかなかに感慨深いものがあります。


ヤフオク、侮れません。
(出品してくださった方、ありがとうございます)


→つづく


〔番外〕Twitter始めました

大高よし男に関する情報集めに難航しつつありますが、このブログとの連携でTwitterも始めてみました。

Twitterからも情報が集まるといいなと思っています。

よろしくお願いします。

https://twitter.com/findyoshio



(49) 近江二郎のこと

ズバリ、キーマンは近江二郎。

大高よし男のことを明らかにするためには、近江二郎とその一座について詳細に調べないといけないというのが現在のところの結論です。


近江二郎のプロフィールについて、新聞・雑誌の記事からわかっていることは次のとおりです。

近江二郎(本名:笠川次郎)
明治25年広島県生まれ
大阪市生野区鶴橋南王町
(『演劇年鑑』昭和18年版より)
 
近江二郎(本名笠川二郎 五十歳)
井土ヶ谷中町に自宅あり。 
川上音二郎の門より出て大正九年横濱に初出演。後に座長と成り現在は籠寅専属。
妻は深山百合子、娘は衣川素子、実弟は戸田史郎
(昭和16年5月4日付神奈川県新聞より)

近江二郎は、大正時代から終戦後、おそらく昭和30年代くらいまで、人気の波はあれど、継続的に舞台で活躍していた人です。

剣劇スターである梅沢昇や金井修、女剣劇の大江美智子や不二洋子、また新派の花柳章太郎や伊志井寛、喜多村緑郎といった人たちに比べれば、一般の知名度は低く、もはや歴史に埋もれた人といってもいいのかもしれませんが、戦時中も休むことなく興行を続け、戦後は杉田劇場や銀星座で長らく興行しているし、当時の新聞、雑誌、書籍はもちろん、戦後に書かれた大衆演劇史などにも、頻繁に名前の出てくる人で、「激動」「激変」の連続だった大正・昭和の芸能界をよく生き残ってきたなぁ、というのが率直な感想です。


近江二郎は「近江次郎」と誤記されることも多く、資料の検索もなかなか難しいところで、上記のようなプロフィール以外の全体像は、まだよく把握できていません。

それでもこれまでわかっている範囲で彼の俳優人生を振り返ってみたいと思います。


彼の演劇人としてのスタートは、大正時代にいずれかの俳優学校に入ったことがきっかけのようです(のちにハワイ興行の際、現地の新聞に載った記事によれば、実家は医者の家系で「親から勘當まで受けて」役者の道に進んだとあります)。

「いずれかの」という曖昧な表現をしたのは、彼を「(大阪)北濱帝國座の川上音次郎(ママ)の川上俳優養成所の出身である」としている資料(武田正憲『諸国女ばなし』1930)と、藤沢浅二郎が私財を投じて作った「東京俳優養成所」の三期生であるとする資料(田中栄三『明治大正新劇史資料』1964、など)があるからです。

ただ、帝国座東京俳優養成所も、1910(明治43)年にできていること、近江二郎の出身が広島であること、さらには川上音二郎が翌1911(明治44)年に亡くなっていることを考え合わせてみると、まずは明治43年に大阪帝国座の養成所に入ったものの、翌年に音二郎が亡くなったため、川上一座の"副将"であった藤沢の主宰する東京俳優養成所に改めて入り直したのではないかと推測されます(三期生なので明治43年入所と考えられます)。

以前にも引用した近江二郎の寄稿(『新派劇の正しい道』)には「恩師川上」の文言もありますから、近江二郎自身の想いとしては芝居の師匠は川上音二郎という意識なのでしょう。入り直したはずの東京俳優養成所も明治44年には解散してしまうので、余計にその想いは強かっただろうと思われます。


さて、上掲の『明治大正新劇史資料』によれば、東京俳優養成所(東京俳優学校)が解散した後、「近江次郎(ママ)は新派の舞台へ出ることになった」とあります。

それを裏付けるように、昭和15年3月に横浜の敷島座に近江二郎一座が登場した時の新聞(横浜貿易新報)には、大正時代、近江二郎が横浜の喜楽座(いまの日活会館のところにあった劇場)に出ていた頃の話が記事になっています。

昭和15年3月2日付横浜貿易新報より

それによると、近江二郎が横浜に初登場したのは、1918(大正7)年だそうで、横浜では大人気だったとあります(同じ新聞でありながら初登場の年号が違うので精査が必要です)。

また、谷崎潤一郎の演劇上演記録には『お艶新助』を「大正九年八月三十一日より十日間」横浜喜楽座でやったという記録があって、新助を近江次郎(二郎)が演じているとありますから、大正中期には近江二郎は新派俳優として、横浜で人気を誇っていたようです。

そんな近江は大正12年2月を境に横浜から姿を消し、その後、大正15年9月に酒井淳之助、遠山満とともに「剣戟大合同」の看板を掲げて喜楽座に再登場したのだそうです。実はこの三座合同公演、同年7月に浅草で大きな話題となった舞台で、これが「剣劇」の始まりとする説もあるようです。

その説に従えば、新派で名を挙げた若手俳優、近江二郎は剣劇の創設者のひとりでもあったわけです。「剣劇」というと言葉が硬い印象ですが、要は「チャンバラ」であり、いまの時代劇につながるジャンルのことでもありますから、ちょっと大袈裟に言うと「近江二郎は時代劇の祖のひとり」なのかもしれません。

少し話が逸れますが、上掲の新聞には、横浜喜楽座で人気を誇っていた頃の近江二郎は、「井土ヶ谷か、弘明寺の方から」「馬に乗つて、悠々と、喜楽座へやつて来」たとあり、その姿は「颯爽として朗らかだつた」とあります。

当時の伊勢佐木町を馬で闊歩することがどんな印象だったのかは分かりませんが、記事を書いた人が「私は、愕いた」と書いているくらいですから、珍しいことだったのかもしれません。スターの風格すら感じさせるところです。

なお、戦時中、近江二郎は井土ヶ谷に住んでいたようですが、もしかしたらこの頃から関東地方の拠点として、井土ヶ谷あたりに居を構えていたのかもしれません。


さて、活躍を続けていた近江二郎は、以前にも書いたように、1930(昭和5)年から約8ヶ月にわたるアメリカ巡業を挙行します。新聞によれば昭和5年10月17日の秩父丸で出立したようです。

昭和5年10月2日付読売新聞より

当時のことですから横浜からの出航だったはずです。俳優としての人気と地位を確立した横浜から、初めての海外公演へ出発する近江二郎の想いはどんなものだったのでしょう。いろいろと妄想が膨らんでしまいます。

というわけで、渡米以降の活躍については、次の項で。


→つづく


(48) 生きてゐる幽霊

前回、千秋実の薔薇座についての投稿の最後に、

「薔薇座の舞台を大高が見ていた可能性もあります」

と書きました。

実は、この時の薔薇座の演目のうち『生きてゐる幽霊』を、のちに大高一座が上演しているのです。

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

比較的よく上演されていた演目のようですし(これとかこれとか)、薔薇座の公演から半年以上も経っているので、これをもって「大高が薔薇座の公演を見た」と断言することはできませんが、あり得ない話ではないような気はします。

(ちなみに、この時は「じゃがいもコンビ」というグループが上演を担当していたようですが、これは座員・壽山司郎を中心としたコメディ担当の劇団内ユニットではないかと思っています)

 

そんなこんなで、薔薇座や旧杉田劇場についての話に脱線しすぎたので、次回からは軌道修正して大高調べに戻ります。

やはりキーマンは近江二郎。

彼と一座の活動を昭和初期から見直し、どの段階で大高よし男(高杉彌太郎)が登場するかを見極めたいと思います。


→つづく


(47) 薔薇座の謎

前回の投稿、昭和21年2月中旬に旧杉田劇場で「劇団薔薇座」が公演を行なったと書きました。そして、Wikipediaには薔薇座の結成が昭和21年5月とあって、矛盾があるとも。

その後、追加で調べてみると、昭和21年1月の新聞に新劇の新しい劇団、「白鳥座」と「薔薇座」が3月に旗揚げする、という記事を見つけました。

昭和21年1月26日付読売新聞より

5月よりは前倒しになりましたが、それでもまだ2月の杉田劇場に出演するには時期がズレています。

真相を探るべく、図書館で千秋実・佐々木踏絵共著による『わが青春の薔薇座』(リヨン社, 1989)を借りて読んでみたところ、なんとそこには、彼らが杉田劇場の舞台に立っていたことがはっきりと書かれていたのです。

ようやく謎が解けました!


著書によると、劇団薔薇座は終戦後、千秋夫妻が仲間に声をかけて、昭和21年1月に発足したそうです。実際の旗揚げ公演は5月(神田共立講堂)ですが、この頃は3月には公演をするつもりだったのかもしれません。それが新聞記事の「陽春三月に旗揚げ」になったとも推測できます。


劇団発足の1月から旗揚げ公演の5月までは、演劇論などの勉強を重ねつつ、臨時公演をいくつかやったと著書にはあります。

実はその中に杉田劇場についての記載が出てくるのです。

千秋実・佐々木踏絵『わが青春の薔薇座』より

引用すると 

「横浜杉田劇場では、金子洋文作・演出『生きている幽霊』。死んだと思った兵隊が南方の島から故郷へ帰ってくる話。伊藤貞助作『日本の河童』。阿部正雄翻案『隣聟』。これはゴーゴリの喜劇『結婚申込み』を日本の農村の話にしたもの、などをやった」(『わが青春の薔薇座』より)

演目のうち、『生きている幽霊』(『生きてゐる幽霊』)と『日本の河童』は新聞広告と同じです。

昭和21年2月16日付読売新聞神奈川版より

広告には2番目の演目として『ローズショウ』とありますが、もしかしたらこれが『隣聟』なのかもしれません。同書に「千秋と里がとんだりはねたり、客席をわかせ、舞台の袖で見ている座員たちをも抱腹絶倒させた」とあり、また杉田劇場の舞台に立ったのと同じ時期に、吉祥寺駅前の井の頭劇場で「『姫君千夜一夜』というバラエティーショー、今でいうミュージカル」をやったという記述もあるからです。

以上の事実から、杉田劇場で公演を打った「劇団薔薇座」は、千秋実主宰の「薔薇座」であると考えて間違いないでしょう。


千秋実といえば黒澤映画の常連。『七人の侍』で平八という飄々とした愛すべき浪人を演じたほか、『隠し砦の三悪人』では藤原釜足との凸凹コンビが、『スターウォーズ』のC-3POとR2-D2のキャラクタに影響しているというくらいですから、世界的な俳優と言っても過言ではありません。

また、後年、薔薇座が上演した菊田一夫の『堕胎医』が『静かなる決闘』の原作となっていることからも、黒澤明と千秋実の関係の強さを感じさせます。

そんな千秋実が旧杉田劇場の舞台に立っていたのです!


現在の杉田劇場のウェブサイトには、「旧杉田劇場に出演した主な人々」として以下の方々が挙げられています。

大高ヨシヲ
市川門三郎
五世市川新之助一座
五世市川染五郎(後の初世松本白鸚)
浅香光代
渥美清
美空ひばり
杉山正子
劇団葡萄座
浜中学校1-2期生
ほか多数

この中に千秋実が加わることになります(加えてください)。


余談ではありますが、終戦後、復員してきた三船敏郎は一時期、磯子で進駐軍関連の仕事をしていたそうです。杉田の隣町、中原に下宿していて、地元の古老の中には、杉田商店街を歩く三船の姿を見たという人もいます。

つまり、終戦後の杉田には、『七人の侍』のうちの二人がいた、ということになるわけです。

ちょっと強引ではありますが、地元の人間としては妙に誇らしい気持ちになります。


さて、新聞広告によれば、薔薇座の公演は昭和21年2月16日から5日間(20日まで)とあります。この公演期間の真っ最中、社会に大きなショックを与えた政策が実施されます。

新円切替えです(昭和21年2月17日)。

それは薔薇座の公演にもかなり影響したそうで、著書にはこうあります。

「二月の杉田劇場では、初日・二日目と満員で喜んだが、三日目、二月十七日モラトリアム発令。いわゆる新円切りかえ、預金は封鎖され、今までの金は使えなくなった。せっかく見にきたお客がすごすごと帰ってしまう」(『わが青春の薔薇座』より)

広告の公演日程と1日のズレがあって、記憶違いなのか広告の誤植なのかはっきりしませんが、いずれにしても数十年後の回顧録にも書かれるくらいですから、初日の翌日(か翌々日)に起きた「新円切替え」のインパクトがどれだけ大きかったかがわかります。

しかし夢あふれる若い役者たちです。

「普通ならがっくり落ちこむところだが、彼らは落ちこまない。宝物を抱えていたからだ」(同書)


ところで、薔薇座がどういう経緯で杉田劇場にやってきたのか、そのことについてはよくわかりません。プロデューサーの鈴村義二が薔薇座の評判をどこかで耳にしたのか。それとも千秋らが直接売り込みに行ったのか。

北海道出身の千秋実は、昭和8年、10代半ばで上京した際、横浜・本牧に住んでいた長兄宅に身を寄せたそうです。上掲書には「昭和二十年五月の大空襲で焼け出された」との記載もありますから、10年以上、ずっと横浜に住んでいたことになります。

もしかしたら、杉田あたりに知り合いがいたのかもしれませんし、劇場ができたという話を耳にする機会があったのかもしれません。

ともあれ、地元横浜の葡萄座だけでなく、千秋実のようなプロの若い演劇人にとっても、一種の「揺り籠」のような場所が、旧杉田劇場だったのでしょう。

ちょうど大高よし男が杉田にやってきた頃の話です。薔薇座の舞台を大高が見ていた可能性もあります。

そう思うと、なかなか感慨深いものがあります。

→つづく


追記:ライター・編集者の濱田研吾さんのブログに、千秋実の岳父である佐々木孝丸の弟子、嶋田親一氏への聞き書きが、とんでもない情報量で詳細に書かれています。この中には佐々木孝丸のことはもちろん、薔薇座のことも出てきますし、新国劇の話も出ます。中原生まれの映画スター、黒川弥太郎は新国劇出身で、秋月正夫が師匠だったそうです(劇団若獅子の笠原章さんから聞いた話)。杉田劇場と磯子の芸能人の後年の姿が見え隠れするようです。

 

(46) 旧杉田劇場に登場した頃

終戦前の大高よし男についてはもう資料が見つからないので、亡くなるきっかけとなった事故の記事から名前や年齢を探ろうとしていますが、それも長野県の地元紙を除けば調べ尽くした感があります。

(次の資料を早く探さねば)


そもそもを言えば、この調査は、旧杉田劇場のことを調べている現杉田劇場の職員、Tさんの仕事を一部引き継いでいるようなところもあるわけですが、その基礎資料となっているのが、(何度も引用している)杉田劇場のウェブサイトに載っている片山茂さんの証言(聞き書き)です。

ですが、聞き書きというのは裏付けをきちんと確認しないと誤解が流布する危険を伴いますから、鵜呑みにせずに事実を調べるという作業がなかなかの難題だったりします。

(ちなみに最近のTさんは、もっぱら美空ひばりのデビューと磯子での生活について精緻に調査をされていて、もはや磯子(横浜)における美空ひばりについては情報蒐集と知識の豊富さから、日本でも屈指の存在と言えるほどです)

さて、その片山さんの証言によれば、旧杉田劇場は昭和21年1月1日に開場したことになっていますが、どの新聞を見ても昭和21年1月に杉田劇場がオープンしたという記録がありません。同年3月の弘明寺・銀星座や9月の磯子・アテネ劇場については報道なり広告があるのですが、杉田劇場はない。

本当に元日にオープンしたのだろうか、というのが疑念としてのしかかります。

昭和20年11月30日の神奈川新聞に「磯子に映画劇場」という見出しの記事が掲載され、それが杉田劇場を指しているだろうことは、ずいぶん以前の投稿で書いた通りですから、1月1日開場はそんなに不自然ではありませんが、いずれにしてもそれを裏付ける証拠は、現段階では見つかっていないのです。

一方、前回の投稿で書いたように、1月22日の広告に「片山明彦とかもしか座」の公演、続いて1月26日から2月4日までの「近江二郎大一座」の公演が告知されていますから、元日かどうか不明とはいえ、少なくとも昭和21年1月下旬までのどこかの日付で、杉田劇場が開場したことは間違いなさそうです。


ところで、開場日のほかに、もうひとつの不明なのは「2月に入って」からやってきた大高よし男が、興行をスタートさせる時期が「2月中旬」という点です。

大高一座(暁第一劇団)の名前が新聞広告に初めて出るのは、これまで調べた範囲では昭和21年4月10日が最初で、次が4月13日です(この広告は美空ひばりのデビューの日を裏付ける証拠としても有名です)。

昭和21年4月10日付神奈川新聞より

昭和21年4月13日付神奈川新聞より

この広告に掲載されている演目は、現存しているポスターのものとは異なります。

大高一座のポスター(杉田劇場蔵)

大高一座のポスター(杉田劇場蔵)

また、4月10日の広告に「三の替り 九日初日」、13日の広告には「四の替り 十三日初日」とあることから、演目は4日ごとに替っていたことがわかります。

そのパターンをふまえて整理すると、大高一座の4月興行は

1日〜4日:4月初日(興行始まり)
5日〜8日:「二の替り」
9日〜12日:「三の替り」(4月10日の新聞広告)
13日〜16日:「四の替り」(4月13日の新聞広告)

となるはずです。

ですから、4月最初の興行と「二の替り」が、現存しているポスターに示されているものではないかと推察されるところです。

(ちなみに杉田劇場に保管されているこのポスターは、本来ならば博物館に収蔵されてもいいくらいの貴重な資料だと思います)

上記のように4月の興行については比較的詳しくわかっているのですが、2月から3月にかけてがよくわかりません。

大高は一体、いつから杉田の舞台に立っていたのか。


少し時間を戻して、昭和21年の2月から3月にかけての記録を検証してみます。

片山さんの証言には

「2月中旬、大高ヨシヲ劇団の公演が始まりました。座長大高ヨンヲの男顔の良さと芸の上手さで、たちまち大人気となり、毎日盛況でした」

とあります。

実はこの「中旬」には若干の疑念があるのです。

2月16日の読売新聞・神奈川版に大高一座ではなく「劇団薔薇座」の広告が掲載されています。

昭和21年2月16日付読売新聞・神奈川版より

「二月十六日より五日間」とありますから、片山さんの証言にある「2月中旬」にあたる16日から20日まで、杉田劇場では「劇団薔薇座」が公演していたことになるわけです。

調べてみると、劇団薔薇座は終戦後に俳優の千秋実が妻の佐々木踏絵とともにつくった劇団だそうです(野沢那智を思い浮かべる人もいるでしょうが、当然違います)。

ですが、Wikipediaによれば彼らが劇団を立ち上げたのは「昭和21年5月」。

杉田劇場に薔薇座が登場した時期より2ヶ月も後のことです。

上記広告には「劇團薔薇座 横濱初出演」という文言もあることから、東京あたりで話題の劇団が横浜にやってきたという印象で、千秋実の薔薇座がピッタリ符合しそうですが、この時期にはまだ劇団自体ができていないことになっていて、時間的なズレが僕のモヤモヤを増幅させます。

う〜ん

ひょっとすると千秋実の劇団の前に、大高一座が「薔薇座」を名乗っていたのでは、という推測もできますが、これはお得意の妄想レベルですから、現段階では話になりません。

幸いなことに、千秋夫妻が当時のことを書いた『わが青春の薔薇座』という著書があるようなので、薔薇座の問題はもう少し調べてみることにします。


一方で、3月21日と3月23日には「坂本武・松本榮三郎」の競演を伝える新聞広告が出ます(松本榮三郎一座に坂本武が加盟した形。松本榮三郎は元映画スターで、横浜・川崎でも頻繁に舞台に立っており、昭和19年7月に大勝座が火災で全焼した時には近江二郎一座と合同公演を行っていました)。

昭和21年3月23日付読売新聞・神奈川版より

ここには「好評上演中」という文言があることから、最初の広告が出る21日かそれ以前に公演がスタートし、23日かそれ以後まで続いていたと推定できます。

ふたたび片山さんの証言によれば

「団員の休暇もあり、その間に東京より 有名芸人の出演も行い、間をつなぎ興業していました」

とあるので、この時期の杉田劇場では、戦前・戦中の敷島座や大勝座のように、どこかの劇団が1ヶ月単位で休みなく興行していたわけではなさそうです。

証言中にある「有名芸人の出演も行い」というのが「薔薇座」だったり、「松本榮三郎」や「坂本武」なのかもしれませんし、それ以外にも広告にない芸人の出演があったのかもしれません。

たしかに「団員の休暇もあり」という理由もあったでしょうが、広告の内容をみると、大高が登場する前から、プロデューサー鈴村義二によってブッキングされた劇団や芸人の興行が入っていたため、その間隙をぬって大高一座の興行が組まれたというのが真相のような気もします。


終戦前までの新聞記事では、大高(高杉)のことは「人気者」と書かれることが多くあるので、やはり実力を伴った男前の人気俳優だったのでしょう。

広告など打つ必要もないくらいの大入りだったのか、はたまた、広告を打つだけの価値があるか見極めていたのか。

いずれにしても広告や記事の少なさが、大高よし男という人物をことさら謎めいた存在にしています。

目下最大の目標は「男前の」と言われていた大高の写真を見つけ出すことです。

(誰か写真を持っている方がいましたらお知らせください)


→つづく


(45) 大高の事故・詳報

大高よし男は、昭和21年10月1日、旅公演に向かう途中、長野県大桑村で事故にあって亡くなります。

事故を伝える新聞記事は読売新聞神奈川版にありましたが、追加で調べてみると長野版にもほぼ同じ内容で、少し詳しい記事がありました。

ここには大高たちを乗せたトラックが「東京都向島區東亞合資會社所有」で、「某劇團員廿一名その他三名」を乗せていたと記載されています。

また、目的地が長野県西筑摩郡(現在の木曽郡)「吾妻村」ともあります。たびたび参照する片山茂さんの証言に、氏の出身地が「吾妻村」であり、故郷の青年団が杉田で大高の芝居を見て感動し、吾妻村へ招聘したとありますから、このトラックは間違いなく大高一座を乗せて片山さんの故郷へ向かっていたわけです。

この記事中には怪我人として「乗客長四郎(三五)さん他三名は骨折、脱臼一名軽傷六名」とあります。

この「長四郎」が姓・名なのか名だけなのか、また誰なのかもまったく不明ですが(年齢も判別が難しいところですがおそらく「三五」)、もし大高のことを指しているとしたら、本名は「長四郎」ということになりそうです。


読売の地方版に載るくらいですから、大きな事故だったのでしょう。地元紙の「信濃毎日新聞」ならばさらに詳しい記事があるはずです。

(やはり長野に行くしかないか)

気になるのは、大高は亡くなっているはずなのに記事には死亡者があったとは記されていない点です。そのあたりも追加の調査で判明するかもしれません。


なお、怪我人が収容されたのは、片山さんの証言では「須原診療所」ですが、記事によれば「須原清水医院」。

この清水医院は島崎藤村の小説にも出てくる歴史的建造物だそうで、現在は愛知県の明治村に移築されています(→こちら

歴史遺産としての価値と同時に、大高が運び込まれた病院が現存しているかと思うと、感慨深いものがあります。

(明治村にも行くしかないか)


→つづく

追記:前回の投稿で美空ひばりの『伊豆の踊り子』に出ていた俳優片山明彦のことを紹介しましたが、折よく、杉田劇場でギャラリー展『ひばりさんと名優たち』が開催されます。片山明彦、黒川弥太郎など、このブログで紹介した昔の名優たちも映画や舞台で美空ひばりと共演しています(「共演」とは言えませんが、大高よし男もひばりと同じ舞台に立っています。大高の写真があれば展示してもらいたいくらいです)。


(44) カギを握るのは近江二郎か?

ずいぶん前に「キーマン 鈴村義二」のタイトルで3回連続の投稿をしました。

旧杉田劇場のオーナー・高田菊弥が、劇場立ち上げにあたって、浅草の芸能界と通じていた鈴村義二に相談していたという話から、鈴村が杉田劇場のキーマンだと思っていたのです。

実際に鈴村は杉田劇場に関わっていたわけですから(杉田に住んでいたことは昭和30年代の住宅地図から判明している)、キーマンというのは間違いではないのかもしれませんが、判明してきた事実を積み重ねていくと、意外にも鈴村義二の影はだんだんと薄くなっていくのです。

開場当初は鈴村が劇団や役者のブッキングなどで力を発揮していたのではないかと想像できますし、美空ひばりを抜擢した時にも彼の審美眼が決定打となったはずです。

ですが、少なくとも大高一座が座付きになって連続公演を始めてから、さらには大高の急死で劇場運営が迷走を始めたあとは、鈴村よりも終戦までの横浜演劇界を背負っていた日吉良太郎一座の残党あたりが中心に動いていたようにさえ感じられるのです。


実は、調査を重ねる中で、日吉だけではなく、大高がかつて出演していた一座の座長、近江二郎も大きな影響力を発揮していたのではないかと考え始めています。

それを裏付けるように、これまで情報はないものと思っていた昭和21年1月、杉田劇場の開館当初の新聞広告に、近江二郎の名前が見つかったのです。

昭和21年1月22日付読売新聞(神奈川版)より

つまり、近江二郎は同年3月、弘明寺・銀星座の開場記念興行より2ヶ月も前に、すでに杉田劇場の舞台に立っていたのです。

(個人的にはかなり重要な大発見です!)

前述の通り、大高よし男は、前名・高杉彌太郎時代に近江二郎一座に参加しています。それどころか一座の座員だったかもしれません。

大高よし男が杉田劇場の専属劇団の座長になるにあたって、近江二郎が関わっていたと考える方が自然な気すらしてきます。


片山茂さんの証言には「昭和21年2月に入り、大高ヨシヲ劇団の出演依頼があり」とあります。

一方で、広告によると、近江二郎一座は昭和21年1月26日から10日間(2月4日まで)杉田劇場で公演しています。大高がやってきたとされる「2月に入り」というのは近江二郎が杉田の舞台に立っていた時期と重なるわけです。

この時の近江二郎一座に大高よし男が参加していたか、少なくとも、この公演を大高よし男が見にきていた可能性は大です。

つまり「2月に入り」という証言の時期が正しければ、杉田劇場には確実に近江二郎と大高よし男が一緒にいたのです。

旧知の二人のはずだし、大高からすれば近江二郎は師匠か大先輩にあたる人です。大高がひどい不義理でもしていない限り、一種の師弟関係があったといって間違いありません。

その関係性からすると、近江二郎が劇場オーナーの高田菊弥やプロデューサーの鈴村義二に大高を売り込んだとも考えられます。

銀星座の柿落とし(開場)は3月23日ですから、時期的にすでに近江二郎は銀星座の話を受けていたでしょう。

杉田は大高に任せ、自分は銀星座で、車の両輪のようにこの地域の演劇を盛り上げる。そんな計画を提案したとしても、なんら不自然ではありません。


さらには、以前「横浜の大高よし男」の投稿で妄想したように、ともに井土ヶ谷に住んでいた日吉良太郎と近江二郎。戦前の剣劇や大衆演劇のことを書いた本などでは、両者ともに名前の挙がる人です。お互いに知らないわけはありません。町内ですれ違うこともあったでしょう。もしかしたら、互いの家を行き来していたかもしれません。

その両者が戦後の横浜演劇界のこと、日吉一座の残党や近江一座の面々の生活を考え、銀星座に日吉一座残党による「自由劇団」、杉田劇場に大高よし男を中心とした「暁第一劇団」をつくり、彼らの生活を守ろうと相談していたとしても、これまたなんら不思議ではありません(それが正しければ大高一座に日吉一座の残党がいる理由も説明がつきます)。


キーマンは鈴村義二のつもりでいましたが、どうやらカギを握るのは近江二郎なのかもしれません。

近江二郎と日吉良太郎、終戦間際からのこの二人の動きを探ることが、杉田劇場と大高よし男の真実に迫るキーになることは間違いなさそうです。


余談ながら、上記広告にある「片山明彦」は戦前から映画の子役として活躍していた俳優で、後年、美空ひばり主演の映画『伊豆の踊り子』(1954)にも出演しています。その後は70年代まで数々の映画やテレビドラマに出演、2014年に88歳で没しています。

杉田劇場は常設劇場としては、わずか5年で閉場してしまいますが、この舞台に立った人たちが、戦後の芸能界を支えたのだといっても過言ではありません。


→つづく

(43) 大高一座の事故報道

大高よし男の戦前・戦中の活動はだいぶわかってきましたが、プロフィールについての手がかりはほぼありません。

もはや大高を知る人に話を聞くしか手立てがないのかもしれませんが、旧杉田劇場で芝居を見たという方々も、80代くらいの方でさえ昭和21年前半だとまだ10歳になるかならないか。大高の舞台を見るにはちょっと早かったようで、実際に彼の姿を見たという人にはまだ出会えていません(もう少し早く調査を始めていればと悔やまれます)。

残る手がかりは、大高が事故で亡くなった時の情報ですが、これもなかなか見つからない。

親族や劇場が出したかもしれない「死亡広告」があれば、大高の本名や葬儀の日時・場所がわかるのではないかと考えていますが、まだそこまで至っていません。

ですが

その調査の過程で、ようやく大高の事故を報じたと思われる新聞記事を発見しました。

昭和21年10月3日付読売新聞(神奈川版)より

これは長野県松本からの電話による記事なので、「磯子区」がなぜか「木曽木」となっていたり、いくつかの混乱が見られますが、事故は10月1日の夜9時頃に発生、現場は「長野県西筑摩郡大桑村須原(現・長野県木曽郡大桑村)」。これは、現杉田劇場のウェブサイトに掲載されている、片山茂さんの証言ともほぼ一致します。

記事には大高の名前も劇団名もなく、「農村慰問劇団」と記されているだけですが、さまざまな情報を突き合わせると、大高一座であることはほぼ間違いないだろうと思います。また記事には運転していたドライバーの名前が書かれています。住所も年齢もあるので、これも大きな手がかりのひとつになりそうです。


ちなみに、以前も記したとおり、大高の葬儀は弘明寺で執り行われたのではないかと考えています。また杉田劇場での「大高よし男追善興行」が

(1) 昭和21年10月17日〜20日
(2) 昭和21年10月22日〜(終演日は不明) 

というスケジュールであると思われることから、葬儀はその合間の10月21日に行われたのではないか、というのが僕の推測です。

(1) 昭和21年10月17日〜20日の追善興行

(2) 昭和21年10月22日の新聞広告
(杉田劇場ウェブサイトより)

そして上記 (2)の追善興行には、かつて大高と共演したこともある元映画スターの「中野かほる」が出ていることから、葬儀の写真の中央やや奥にいる女性が「中野かほる」本人ではないかとも推定しているところです。

大高よし男葬儀写真
(中央、僧侶の左奥にいる女性が「中野かほる」ではないか?)


一歩一歩、地道な作業ですが、戦前と戦後、生前と没後、それぞれの時期を丹念に調べていけば、きっと大高よし男の正体に迫れるはずだと信じて、今日も調査は続きます。


→つづく