(112) 『小芝居の思い出』再考

以前、劇評家・三宅三郎の『小芝居の思い出』に描かれた旧杉田劇場の様子について、このブログに書きました(→こちら)。

同書には

「私は終戦後、間もないころであったが、横浜市外の杉田劇場に行ったことがある」(国立劇場調査養成部芸能調査室編/歌舞伎資料選書5『小芝居の思い出』三宅三郎著 / 1981, p.126)

とあり、そこでは市川門三郎一座の芝居を見たのだと書かれています。「終戦後、間もないころ」の記述から、その時期を昭和21年か22年頃と推定していました。

杉田劇場での市川門三郎一座の新聞広告は昭和21年6月1日付のものが最初で、そこには三宅が挙げている演目が見当たらないばかりか、それ以降、昭和23年までの広告にも同じ演目がなかったので、逆に昭和21年1月から3月の、新聞広告をほとんど出していなかった時期に門三郎が杉田劇場に来演していて、それを三宅が見たのではないか、とも推測したわけです。


ところが、先日、昭和24年の調査をしているうちに、どうもその推測が間違っていたのではないかと思わせる広告に行き当たったのです。

『小芝居の思い出』には彼が見た演目として

「茂々太郎時代の九蔵と市川門三郎などの一座であった。九蔵の牛若丸、門三郎の弁慶で、義太夫の「橋弁慶」や「十六夜清心」などをしていた」(同書, p.126)

と書かれています。

そして、見つけた新聞広告は

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

昭和24年7月14日から17日まで、杉田劇場の昼の部で『十六夜清心』と『橋弁慶』が上演されていたのです。

上の引用には『番町皿屋敷』についての言及がありませんが、これ以外に門三郎一座が杉田劇場で『十六夜清心』『橋弁慶』を上演した記録が見当たらないので、三宅が見たというのはこの舞台のことではないかと思われます。


杉田劇場に来た三宅を驚かせたのが、幕間に観客が潮干狩りをしていたということですが、実は上掲の広告が出る少し前、7月1日付の新聞に、杉田海岸の海の家が営業を始めたという記事があって、その中に

「梅雨もあがつたようなお天気つづきに、各海岸は潮干狩の人々でにぎわつているが、横浜杉田海岸も潮流異変で押し寄せたサバの子が逃げ場を失い、小さな子供でも手づかみで取れるので、思わぬ漁獲に人々は大よろこび」(下線筆者)

とあることから、三宅三郎が杉田劇場へ来た頃もまだ杉田海岸で潮干狩りをしていた可能性は高く、記述内容と合致するのです。

1949(昭和24)年7月1日付神奈川新聞より

やはり彼が杉田劇場に来たのは、昭和24年7月ということで間違いなさそうです。


ところが、推定していたより時期がかなり後ろにズレたことで、新たな疑問が湧いてきました。

前回も引用しましたが、三宅によれば当時の杉田劇場の客席は

「見物席は土の上に腰を下すのだが、後方の席は坐れるようになり」(同書, p.127)

となっていたそうです。

当初は昭和21年頃のことだと思っていましたから、開場すぐの杉田劇場には、客席前方に椅子がなかったのかもしれないと考えていましたが、これが昭和24年のこととなると話が変わってきます。

再掲になりますが、現存する昭和25年1月の写真を見る限りでは、後方のみならず前方の席にも椅子があるように思えるのです(背もたれのない長椅子のようなものか)。

旧杉田劇場客席:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

旧杉田劇場舞台:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

となると、前年夏まで椅子はなかったことになるのでしょうか?

さすがにそれはちょっと考えにくいことで、もしかしたら、夏場のみ暑さ対策で客席を取り払って土間に座ったということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。

いずれにしても三宅三郎が「土の上に腰を下す」と書いているのだから、少なくともこの時期の市川門三郎一座の公演時には、客席前方の椅子はなかったということになります(旧杉田劇場で市川門三郎の舞台を見たという地元の方がいらっしゃるので、確認してみます)


なお、上掲の広告にある通り、楽日は昼夜で演目を入れ替えたようなので、7月17日の『十六夜清心』『橋弁慶』は午後5時以降の上演ですから、幕間の潮干狩というのは現実的ではありません。つまり、三宅三郎が来場したのは7月14日(木)から16日(土)のいずれかということになりそうです。


これまで、旧杉田劇場は株を発行した昭和23年8月にはすでに経営が傾き始めていたとされてきましたが、新聞広告をもとにプログラムをデータ化してみても、ほとんど絶え間なく興行が続いているし、三宅三郎の文章からも「場末感」は読み取れこそすれ「斜陽」を感じることはできません。

株式会社杉田劇場 株券/昭和23年8月1日発行(杉田劇場所蔵)

ただ、この年(昭和24年)の10月以降、杉田劇場の新聞広告は激減します。「映画演劇情報」欄にも杉田劇場の名が出る頻度が急激に下がります(ほとんどなくなったと言っていいほど)。はっきりとした事情はわかりませんが、この頃から経費削減が顕在化しているようにも思えるのです。

間辺典夫氏が緞帳を寄贈した時期も含め、杉田劇場の経営状況の推移については、もう少し精査した方がよさそうです。


→つづく
(次回は7/11更新予定)



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(111) 藤村正夫、その後

劇団公演が終わって残務に追われていたため、今回もちょっと余録めいたお話です(スミマセン)。


大高亡き後、紆余曲折を重ねていた暁劇団は藤村正夫のもとで再起を図り、順調に公演を重ねていたことは前にも書きました(→こちら)。それが昭和23年の年末を最後にどういう事情か、藤村との関係が切れてしまったことも、ここでお知らせしたところです(→こちら)。


その後の藤村正夫がどうなったのかはわかりませんでしたが、意外なところでまたその名前を見ることになります。

昭和24年3月19日付の新聞に「河井劇団 大好評再上演」という広告が掲載されますが、ここに藤村の名前が出てくるのです。会場は「港映」。

1949(昭和24)年3月19日付神奈川新聞より

港映(こうえい)とは「港北映画劇場」の略称で、東横線妙蓮寺駅前にあった「菊名池」(いまも半分は残っていますが)のほとりに昭和21年10月開館した映画館です。もっとも、昭和30年代の明細地図では館の存在が確認できないので、旧杉田劇場同様、比較的短命の小屋だったと思われます。

どうやら港映は上掲の広告が出た時期に実演劇場への改装を進めていたらしく、その嚆矢が「河井劇団」だったのかもしれません。4月8日付の新聞広告では「設備完成の本舞台」という惹句が見られます。一般的に実演では入りが悪いので、客を呼びやすい映画館に改装、という流れが推測されがちですが、意外にもその逆の例もあったようですね(のちに「港映」は「妙蓮寺劇場」と改名し、市川門三郎一座の興行なども行なっています)。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

実はここに書かれている「河井劇団」というものがどういう存在なのか、さっぱりわかりません。この先の調査でわかってくることもあるかもしれませんが、いまのところは港映だけに突然現れた劇団という印象です(わかる方がいたらぜひ教えてください)。

劇団名の横に「横浜(?)歌舞伎直営の」という文言がありますが、この意味もよくわかりません。横浜大空襲で焼失するまで、日吉良太郎一座が根城にしていた劇場が「横浜歌舞伎座」ですから、その流れなのでしょうか。もしかしたらこれもまた銀星座の自由劇団のように日吉劇の残党による劇団だったのかもしれません。


余談になりますが、この日(4月8日)、港映の広告の隣には、横浜国際劇場の「松竹歌劇団」があり、その横には横浜オペラ館での星十郎の「新星座」公演が並んでいます。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

星十郎は『日本映画俳優全集』(キネマ旬報社刊)にも名前が掲載されている役者で、後年は映画やテレビドラマなどでも大活躍した人ですが、この時期、横浜オペラ館で頻繁に公演をしています。

なぜ横浜なのか、ずっと不思議に思っていましたが、戦前の新聞記事をひもとくと

「前名美崎重郎、甲府の生れ、十七歳の時日吉良太郎一座に初舞臺。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む」

とあることから、もともと日吉劇との縁があったために、戦後、横浜での舞台が多かったということなのかもしれません。

1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より

手元にある昭和12年の日吉良太郎一座のプログラムにはたしかに「美崎重朗」の名前があります(新聞記事では「重郎」とありますが、実際は「重朗」だったようです)。

星十郎は1917年、甲府生まれなので、17歳で日吉劇に入座したとすれば、単純計算で1934(昭和9)年ですから、1933年に日吉良太郎が横浜に進出する頃、役者の道に進んだということになります。甲信地方で絶大な人気があり「信州の団十郎」の異名をとった日吉良太郎に憧れて、青年時代の星十郎が劇団の門を叩いたと考えられそうです。


さて、話を戻すと、河井劇団に参加した藤村正夫は、どうやらこの劇団との関係も短命だったようで、同年6月29日初日の銀星座・自由劇団の広告に「巨星 藤村正夫」として名前が登場します。出戻りの出戻りみたいな感じで、藤村はこれ以降、再び自由劇団に参加することになるのです(ちなみにその横の「元老 渡辺実」も日吉劇の重鎮)。

1949(昭和24)年6月28日付神奈川新聞より

どうも藤村正夫という人は、ひとつ所に落ち着いて、というよりは、あちこちを渡り歩く性癖(?)がある役者だったのかもしれませんね。

それはそれとして、藤村正夫、星十郎、自由劇団…戦後まで続く影響を思うと、あらためて日吉良太郎一座の横浜演劇界での存在の大きさを感じるところでもあります。


そんなこんなで、今回もまたちょっと余談めいたお話でした。




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