「いそご文化資源発掘隊」では杉田劇場に来演したスターや名優たちの紹介をしたので、不勉強の付け焼き刃ながら歌舞伎俳優についてもお話しさせていただきました。
1946(昭和21)年9月に行われた中村吉右衛門劇団の新聞広告には、中村芝翫(のちの六代目中村歌右衛門)、市川染五郎(のちの初代松本白鸚)らの名前があって、杉田劇場にこれほどの名優たちが来ていたのかと、改めて驚かされました。
1946(昭和21)年9月17日付神奈川新聞より |
ですが、偏屈な僕としては、そこに併記されている「尾上大助(大作と書かれていますが実際は大助)」「阪東相十郎」の方が気になってしまうわけです。
尾上大助や坂東相十郎の名前は、戦時中から横浜の舞台に立っていた歌舞伎役者として、新聞広告などでたびたび目にしてきました。澤村清之助、市川栄升などと同じく「横浜の小芝居」の役者と言ってもいいのかもしれません。
中でも気になるのが坂東相十郎で、気になるきっかけというのは戦時中のこんな新聞記事です。
1943(昭和18)年11月8日付神奈川新聞より |
南吉田町にあった金美劇場での歌舞伎公演についての記事で、曰く、
"市川門三郎、五百三郎改め坂東相十郎の兄弟劇団"
これが正しければ、相十郎は市川門三郎の弟で、前名を市川五百三郎とする役者だったことになります(これ以前の新聞記事には"「市川」五百三郎"の名前が出てきます)。
この興行は11月初めからのものだったようで、すでに11月3日には広告にその名前が掲載されています。
1943(昭和18)年11月3日付神奈川新聞より |
また、年末にかけて、劇評や一年の振り返りなどの記事中にも何度か同じ内容が登場するのです。
1943(昭和18)年12月13日付神奈川新聞より |
1943(昭和18)年12月20日付神奈川新聞より |
これ以外のいくつかの記事も読んだ上でまとめると、歌舞伎をメインに上演していた金美劇場が同年3月、籠寅興行部の劇場となったため、松竹第三部の劇場という位置付けに変わり、歌舞伎以外("浪花節芝居や怪しげな興行"/12月20日付神奈川新聞「劇壇一ケ年の足跡」小林勝之丞より)の上演が続いていた中、11月になって市川門三郎と坂東相十郎の兄弟劇団がやってきて、金美劇場に歌舞伎を復活させた、ということのようです。
ところで、少し前に出た話題の『越境する歌舞伎』(浅野久枝・著)の中にも坂東相十郎の名前は何度か出ていて、最も詳述されている箇所にはこうあります。
"坂東相十郎は二代目坂東秀調の弟子で、太夫元をしつつ東北、北海道を中心に地方興行していた役者で、昭和十九年(一九四四)年には市川栄升と池袋銀星座に出演した記録がある。また、年代は不明だが市川荒太郎・小傳次・一蔵の「東京名題大歌舞伎」のチラシ(略)に市川猿十郎とともに坂東相十郎の名前が見える"(同書,87ページ)
「太夫元をしつつ東北、北海道を」というのは、雑誌上での市川門三郎(白蔵)の発言を受けてのものです。
"そのころ子供芝居、ちんこ芝居ですね、それが流行っていた。私も尾上梅丸、中村播之助(中村吉之丞)、市川升蔵(利根川金十郎)などと一座を組んで、旅へ出ました。北海道の小樽に会津屋という料理屋があり、のちに私の弟がそこへ養子に行ったんですが、その親類に、先々代坂東秀調の弟子で坂東相十郎という人がいて、この人が太夫元をやっていた"(『演劇界』1972年12月号「明治人に訊く 一座を組んで…市川白蔵の歩いてきた道」より)
ここに書かれている相十郎は門三郎が子供芝居をやっていた頃に太夫元をしていたのですから、門三郎の弟というのはあり得ない話です。
ただひとつのつながりは、門三郎の弟が太夫元の坂東相十郎の親類のところへ養子に行ったということでしょうか。
その逸話から類推できるとしたら、養子にいった門三郎の弟もまた市川五百三郎の名前で歌舞伎役者になって、親類であった坂東相十郎が自分の名を継がせたということなのかもしれませんし、逆にもともと歌舞伎役者をやっていた弟が、何らかの縁で坂東相十郎の名を継ぎ、結果として縁者である小樽の料理屋に養子に行ったということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。
(謎だ)
それはそれとして、横浜の相十郎を辿ってみるに、昭和18年の金美劇場のあとは、戦後、上掲の吉右衛門劇団への客演(?)のほか、昭和21年6月、弘明寺銀星座の「劇団新歌舞伎」の広告に名前が見られます。
![]() |
1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より |
また、1948(昭和23)年、杉田劇場での『仮名手本忠臣蔵』の広告にも名前があります。
1948(昭和23)年6月12日付神奈川新聞より |
これらが、どの相十郎なのかはさっぱりわかりません。もし金美劇場で五百三郎から改名した坂東相十郎だとしたら、太夫元の相十郎とは別の相十郎が横浜で活動していて、それが戦後、弘明寺銀星座や杉田劇場の舞台に立っていたようにも思えるのです。
少なくとも弘明寺銀星座の「新歌舞伎一座」の惹句には「若手俳優の熱を以って」とあることからしても、太夫元の相十郎とは別人とする方が妥当なようにも思います(さらに言えば『越境する歌舞伎』に書かれている池袋銀星座の相十郎も別人のような気がする)。
詳しい方、ぜひ詳細を教えてください。
これまで大高よし男を中心に、剣劇などの大衆演劇にばかり目を向けて調べてきましたが、旧杉田劇場を調べる上でも、また横浜の演劇史を考える上でも、日吉劇の前の横浜歌舞伎座における更生劇や、金美劇場の新進座など、関東大震災以後の小芝居のことも調べないと全体像が見えないのだなということを痛感したこの頃。大高の痕跡を探るために敷島座の番組をさらに遡って精査することも必須です。
(ふぅ)
そんなこんなで、今回は脇道にそれましたが、歌舞伎役者・坂東相十郎の謎について考えてみました。
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