(139) 東機工の謎

かねてから引用している旧杉田劇場従業員で、オーナー高田菊弥の甥であった片山茂さんへの聞き書きですが、この中に高田菊弥が戦時中、日本飛行機の下請けとして経営していた「東機工」という企業名が出てきます。

東京深川の材木商であったという高田菊弥が、日本飛行機で製造していた戦闘機などのプロペラを木で作る工場をこの地(杉田町2184番地)で経営していたという、その社名です(昭和16年創業)。

ですが、この「東機工」という会社については、いくら調べても詳細がわからないままでした。何かの略称という気もしていましたが、それもなかなかわからないというのが実情でした。

ところが、先日、別件で終戦後の横浜の(というより磯子の)工場について調べていたところ、『横浜市史II』の「資料編5(戦時・戦後の労働と企業)」に、1945年10月1日付で神奈川県労務課が調査した『工場名簿』などをもとにした、終戦直後の横浜の工場一覧が掲載されていて、その磯子区(というより正確には磯子警察署管内)の項に、所在地が「杉田町2184番地」(旧杉田劇場と同じ)の工場が掲載されていたのです。

その名称は「東機工」ではなく

東航空機工業(株)

でした。

『横浜市史II』資料編5 P.569より

この会社の戦時中の業種は「航空機ノ木製部品製作」で、これまで伝えられてきた「木製のプロペラを作っていた」という話とも一致します。どうやら「東機工」の正式な名称は「東航空機工業」だったようです。

戦後については「木工家具、建具製作転換計画中」と業種転換についての記載ありますから、まだこの時点では劇場経営という方針は打ち出していなかったことになります。

片山さんの記憶では

"職人さんの思いつきで、工場に残されたアルミニュームの板で鍋を造り、叔父と二人で厚木・秦野方面まで食料と交換のために行き"

とありますが、上掲、業種転換の内容をみると、本当にアルミの鍋を作っていたのかは不明です。そもそも木材加工場であったと思われるこの工場に、アルミニウムがあったのかどうかもよくわかりません。


聞き書きにある「東機工(とうきこう)」の名称からして、おそらく「東航空機工業」というのは「とうこうくうきこうぎょう」と読むと思われ、その略称なり略称の聞き間違いが「東機工」となっているようにも思えます(アズマコウクウキコウギョウとは考えにくい)。

ただ「とうこうくうきこうぎょう」というのはどことなく語呂が悪く、もしかしたら「東京航空機工業」ないし「東都航空機工業」「東横航空機工業」といったものが正確な名称なのかもしれないとも思っています。このあたりももう少し調べてみる必要がありそうです。

いずれにしても10月1日付の県の調査では劇場への転換は記載されておらず、一方で11月30日付の新聞には磯子に劇場(映画劇場)ができるとの記事が載っていることからすると、10月から11月初旬にかけて工場を劇場にするという決定がなされたと考えられそうです。

1945(昭和20)年11月30日付神奈川新聞より

なお、『横浜市史』に掲載された内容によれば、「東航空機工業」の職員は3名で、工員も3名(うち男性2名、女性1名)です。工員の女性1名は高田菊弥の夫人、能恵子だったとも考えられますが正確なところは分かりません。いずれにしても全6名の社員のうち、高田菊弥と片山茂、それにもしかしたら能恵子もいたとすると、家内工業的な会社だったようにも思えます。

6名というのはかなり小規模な印象を受けますが、他の工場のデータと比較すると、下請けとしては平均的な規模だったと思われます。

一方の旧杉田劇場は、本田靖春『戦後 美空ひばりとその時代』によれば、

「営業、宣伝、経理、舞台装置、照明の各部署に計十五名を配した」(同書 P.50)

とありますし、大高一座の座員も20名ほどいたとのことですので、団体としての規模はかなり大きくなった印象です。新時代を迎えて、好きなことを仕事として始めた高田菊弥の心には、沸き立つような思いがあったのではないかとも想像できます。


旧杉田劇場については、新聞広告を除けば情報がかなり少なく、詳細がよくわからないところもありますが、当時の出版物としてはほぼ唯一『昭和22年 映畫・藝能年鑑』(時事通信社)に劇場データが掲載されています。

昭和22年『映画・芸能年鑑』より

「全国演芸場総覧」の項にあるこの記載によれば、杉田劇場の経営者は高田菊弥、支配人は中澤春男、定員は320。また凡例記号では演劇専門劇場となっています。

支配人として掲載されている「中澤春男」という人についてはよくわかりません。もしかしたら大高一座の支配人とされている「大江三郎」の本名ということなのかもしれません。大江三郎というのは近江二郎にちなんだ筆名(芸名)と考えられますし、中澤春男という人名も大高につながる重要な手がかりという気もします。


ところで、新聞を中心とした調査は現在、旧杉田劇場の終焉を確認すべく、1952(昭和27)年の前半あたりまでは確認していますが、この頃になると杉田劇場という名前はほぼ出てこなくなります。完全に閉場してしまったのか、細々とでも経営は続いていたのか、まったくわからない状態です。

ちなみに弘明寺では1952(昭和27)年11月11日から銀星座が大規模な改装に入り、その後、同地に有楽座という映画館ができますから(1953年11月開館)、銀星座の終焉の日付は1952年11月11日ということで確定できそうです。

それでも弘明寺には、1954(昭和29)年に梅沢劇場が開場して、一時的に演劇が息を吹き返したようにも感じられますが、2年後には梅沢一座は解散し、劇場も1958(昭和33)年には閉場するので、戦前から連なる横浜の大衆演劇の歴史は、昭和30年代前半に完全に終息したと考えて間違いないでしょう。

1957(昭和32)年、聖天橋交差点の角に「杉田東映」ができて、杉田の街は「東洋劇場(杉田トーヨウ)」と合わせて映画館2館体制になります。杉田や弘明寺を基準に見れば、昭和30年前後が演劇から映画に転換する時期で、大衆演劇の終焉、新劇を基調としたアマチュア演劇の隆盛や横浜演劇研究所の創設、連盟や鑑賞団体の発足などとも重なり、少なくとも横浜では戦後の演劇文化の転換期がこの頃だったのだろうなと感じられるところです。


杉田東映跡(建物はそのまま転用され、現在はパチンコ店「DAYS」)
2026/6/23撮影


→つづく
(次回は7/31更新予定)

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