(87) 戦後名古屋の近江二郎

近江二郎は昭和24年5月29日に亡くなるので、戦後の活動期間はそう長くありません。

これまでわかっているのは、昭和21年1月下旬から2月始めまでの10日間、杉田劇場で公演していることと、同年3月23日からの弘明寺銀星座の杮落し興行(5月末まで)。その合間の5月1日から再び杉田劇場で10日間。と、これが戦後横浜での近江一座の活動履歴となります。

終戦から年末まで何をしていたのかはわかりません。ただ、少なくとも横浜では彼らが舞台に立っていた伊勢佐木町近辺の劇場は、すべて昭和20年5月29日の横浜大空襲で焼失したため、杉田劇場ができるまで、一座の活動はほぼ休止状態だったと思われます(奇しくも近江二郎の命日は横浜大空襲からちょうど4年後なんですね)。


昭和21年5月いっぱいで弘明寺銀星座での興行を終えた近江二郎は、その後、他の都市を巡業したと考えられます。『近代歌舞伎年表・名古屋篇』第17巻(昭和14年〜22年)を見ると、以下の興行が記録されています。

昭和21年7月 宝生座
昭和21年8月 宝生座
昭和22年3月 堀田劇場
昭和22年5月 宝生座
昭和22年8月 観音劇場

いずれも4日とか1週間とかの短期興行ですから、その合間はこれ以外の名古屋市内の小さな芝居小屋や、岐阜あたりの劇場を巡業していたのかもしれません。戦前・戦中は京都や大阪、おそらく広島や福岡などでも興行していたと思われますので、弘明寺銀星座の後は、そうした地へ戦後の顔見せの意味合いで赴いていたのではないかと想像されます。

ちなみに上記昭和22年5月と8月の興行の記録には二見浦子の名前が出てきます。かつて大高とも共演していた二見浦子が、戦後、近江二郎とも共演しているわけです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻より


名古屋での興行のうち、うっかり見過ごしていたのが昭和22年3月の「堀田劇場」です。この劇場名は終戦前には見かけたことがありません。

調べてみるとこれは瑞穂区堀田にあった劇場で、「ほりたげきじょう」と読むそう。昭和21年5月に運輸会社を経営していた戸谷兼次郎という方が作った劇場なんだそうです。横浜でも日本飛行機の下請け工場を経営していた高田菊弥が杉田劇場を作ったり、鉄工所の経営者だった長谷巌がアテネ劇場を作るなど、終戦直後は異業種から興行に参入する人が多かったのかもしれません。

記録によれば堀田劇場の所在地は「瑞穂区堀田通8-34」です。名鉄「堀田」駅の駅前にあったと思われます。

『中部日本会社要覧』(1948)より

近江二郎がなぜここで公演したのかについて、詳細はわかりません。

消えた映画館の記憶」によれば、劇場としてはそれほど長く続かず、開場の翌年(つまり近江二郎が興行した年)には映画館に転身していることからして、終戦前までは名古屋でも定期的に活動していた近江二郎の人気を頼みに、劇場経営を軌道に乗せるべく、一座を呼んだとも考えられます。

ウィキペディア・コモンズには、この「堀田劇場」の写真がありました(「堀田東映劇場」と改称されている)。

Nagoya Horita Gekijo in 1956.jpg(ウィキペディアコモンズより)

名古屋の中心部からは少し離れたところに新設されたこの劇場で、近江二郎一座の興行が行われていたわけです。

名古屋のこともあまり詳しくはありませんが、堀田というののは杉田や弘明寺と同じような町なのかもしれません。

(市電「杉田」電停前の「杉田劇場」と名鉄「堀田」駅前の「堀田劇場」、こじつけめいていますが、どことなく親近感を覚えます)

後年のものとはいえ、写真を見るにつけ、ここに近江二郎がいたのかと、しみじみ感慨に耽ってしまいます。


ところで、これまたまったくのこじつけですが、この劇場のあった「堀田」という町からそれほど遠くないところに「大高」という町があります。徳川家康とも縁のある大高城址のある地なんだそうです。いくらなんでも出来過ぎな感は否めませんが、同じ「大高」に何らかの繋がりがないのか、これも精査した方がいいのかもしれません。

この地名は「おおだか」と読むそうで、「大高よし男」のことを今までは勝手に「おおたか よしお」と称してきましたが、もしかしたら正しくは「おおだか よしお」なのかも、と妙な疑問を抱き始めたりもしています。

謎は深まるばかり…


→つづく


追記:堀田劇場を開いた戸谷兼次郎の「戸谷運輸」は現在も瑞穂区で経営が続いているそうです。すごいですね。


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(86) ふたたび近江二郎

戦前・戦中の大高よし男の活動履歴は、昭和15年3月の横浜敷島座から昭和18年5月の京都三友劇場まで、断続的に痕跡が見つかったものの、それ以外は手がかりが見つかりません。

昭和15年に近江二郎一座が敷島座に登場して以降に大高(高杉)の名前が出てくることから、近江一座のメンバーだったと推測していますが、それ以前の記録がなかなか見つかりません。そもそも、近江二郎がその頃、主にどこの街で活動していたのかについても、年に1〜2回名古屋で興行している以外ははっきりしません。

近江二郎以外にも、日吉一座にいた川上好子と行動を共にしていた可能性も想定していますが、こちらも相変わらずよくわからないままです。


ところで、近江二郎の住まいについては、横浜の井土ヶ谷在住と考えるのが妥当です。その旨の新聞記事がありますし、実弟の資朗氏が井土ヶ谷にいたことや、ご親族からお話を伺った際、戦後、近江夫妻が通町のあたりに住んでいた話を聞いていることからも、横浜が(少なくともひとつの)拠点であったことは間違いなさそうです。

ただ、以前から書いているように『演劇年鑑』(昭和18年版)に掲載されている人名録には、「大阪市生野区鶴橋南王町」という住所が書かれているので、昭和18年当時、近江二郎は大阪にも拠点があったとも考えられ、混乱に拍車がかかっているところです。

『演劇年鑑』(昭和18年版)より

そもそもこの「鶴橋南王町」というのがどんなに調べても出てこない地名で、偽住所じゃないかとの疑惑すら抱きかねないところでした。最近になってふと、これは誤植に違いないと思いつき、あれこれ推測を巡らして、実在した「鶴橋南之町」の誤りだろうとの結論に至った次第。「之」と「王」ですから、まぁ、似ていないこともない。

調べてみると「鶴橋南之町」はもともと東成区だったのが、昭和18年4月に分区して生野区になったようです。JR「桃谷」駅の近くで、昭和48年に住居表示が変更になるまではこの町名が残っていたそうです(生野区のウェブサイトより)。

と偉そうに書いてはいますが、実のところ大阪のことはまったく門外漢なので、ここがどんな街なのかについてはさっぱりわかりません。

困った時の頼みの綱、国会図書館デジタルアーカイブで検索すると、『演劇年鑑』にある近江二郎の住所「生野区鶴橋南之町1-5765」は、戦前、戦後ともいくつかの資料がヒットしますが、ほとんどが工場の住所で、演劇人である近江二郎との関係は見当たりません。

妻である深山百合子(笠川秀子)にゆかりのある地なのか、パトロンのような人の住んでいた場所なのか、劇場や興行会社の住所なのか、あれこれ想像は膨らみますが、はっきりしたことはわかりません。途方に暮れるばかりです。

(古い地図などでさらに詳しく調べてみたところ「鶴橋南之町1-5765」は現在の「生野区桃谷1-4」、桃谷駅前の一角だとわかりました)


ちなみに昭和18年から19年にかけての近江一座の活動は

昭和18年
 1月 横浜敷島座
 2月  不明
 3月 名古屋宝生座
 4月 大阪弁天座
 5月  同上(18日まで)
 6月  不明
 7月  不明
 8月 川崎大勝座・横浜敷島座
 9月 横浜敷島座
10月 川崎大勝座
11月 大阪弁天座
12月 京都新富座


昭和19年
1月 川崎大勝座
2月  不明
3月 川崎大勝座
4月 横浜敷島座
5月 横浜敷島座
6月 川崎大勝座
7月  不明
8月  不明
9月 名古屋黄花園
(以下不明)

となっています。

見てわかる通り、特段、大阪や京都が多いというわけでもなく、むしろ横浜や川崎がメインという気さえします。なのになぜ『演劇年鑑』の住所が大阪になっているのか(ちなみに日吉良太郎の項には横浜・井土ヶ谷の住所が書かれています)。

この近江二郎の謎を解くこともこの先の調査の重要なテーマで、これが大高の経歴の手がかりにつながることをひそかに祈っているところです。


それにしても近江二郎のことを考えるにつけ、以前にも書いたように((69) 近江資朗取材記(その1))、近江夫妻の子(養子)である元子さん(芸名・衣川素子)の書いた手記にある

「二代目を名乗るべき人が交通事故で他界」

という記述が気になって仕方ありません。

大高よし男は生きていたら二代目近江二郎になっていたのでしょうか。それとも見当違いな妄想なのでしょうか。

うぅむ。

ともあれ、旧杉田劇場と大高よし男と近江二郎。やはりこの三者の関係が調査のキーであることは間違いなさそうです。


→つづく


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(85) 美空ひばりとアテネ劇場

美空ひばりの舞台デビューは1946(昭和21)年3月頃の杉田劇場ということで、地域史を研究されている方々も含め、認識は一致しているところですが、アテネ劇場が先でその後が杉田劇場と書かれている書籍やネット記事などもいまだに多くみられます。

これをさらに混乱させるのが、アテネが当初は「磯子劇場」と呼ばれていたという話もあることや、後年の明細地図でアテネ劇場が「磯子映画劇場」となっていることです。


アテネ劇場は昭和21年9月9日に開場しました。

1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より

ですから、同年4月10日の杉田劇場の新聞広告に「ミソラ楽団」の文言があり、その頃のものと思われる大高一座のポスターに「美空一枝」の記載があることからすると、アテネ→杉田が誤りであることは明白です。

ただ、もし仮に「アテネ劇場」の前身が「磯子劇場」ないし「磯子映画劇場」で、杉田劇場より前にそうした劇場があったのだとしたら、アテネ→杉田の順もあり得ることになります。


この仮説が、現杉田劇場で「ひばりの日」の企画などをされてるTさん(うめちゃん)ともども、すっきりと事実関係を断定できず、モヤモヤを残していたところでした(Tさんが検証の経緯を書いているブログが→こちら)。

個人的に芦名橋近くに住んでいる年配の知り合い何人かに話を聞いても「磯子映画劇場なんて聞いたことがない。あそこはずっとアテネだ」と言うばかりです。

ふむ。

ところが、先日、中央図書館で日吉良太郎について調べる中、柴田勝著『横浜歌舞伎座の記録(三人の団十郎)』を閲覧していたところ、巻末に、戦後の横浜の劇場に関する記載があって、「アテネ劇場」の項に

「丗五年三月、磯子映画劇場と改称した」

と書かれていたのです。

柴田勝著『横浜歌舞伎座の記録』より

アテネ劇場は昭和21年9月に開場し、昭和35年3月に「磯子映画劇場」となった、というのです。

念のため、新聞記事を確認してみたところ、昭和35年3月30日の映画情報欄に

「アテネ改 磯子映劇」

と書かれているのを見つけました。

1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より

これでアテネ劇場の前身が磯子映画劇場ではないということがはっきりしたのです!(ちなみに新聞では前日の3月29日までは「アテネ」としか書かれていない)


戦時中に日用品市場だったところを、戦後になって改装し、昭和21年9月9日にアテネ劇場として開場。昭和35年3月30日に磯子映画劇場と改称した。これがアテネに関する情報としては正しい流れになります。

ですから、やはり美空ひばりは昭和21年3月頃に杉田劇場で舞台デビューし、その後、アテネ劇場の舞台に立ったというのが正確な情報ということになります。


というわけで、今回は大高調査の過程で判明した美空ひばり舞台デビューについて書きました。


追記
同じ日に『西区史』も閲覧して西区にあった劇場について調べました。その結果、前々回の投稿( (83) 戦前の杉田と芝居小屋)に一部誤認があったので追記しました。また、平沼の「由村座」で、関東大震災後に近江二郎一座が興行していたという記載も見つけたので、大高とは直接の関係はないと思われますが、今後、調べてみたいと思います。日吉一座が横浜に初登場したのも昭和8年らしいし、大正末期から昭和ひと桁の時期を追加調査しないと、原点が見えない気がします。調査範囲がどんどん広がる…

→つづく



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(84) 『演劇界』の河上好子など

これまでも折に触れて調べてはきましたが、いよいよ新聞だけではなく雑誌の調査にも本格的に着手すべき時期がやってまいりました。とはいっても、大高のような大衆演劇の(おそらく)中堅どころの役者のことが雑誌に載っているかどうか。ともかく新たな資料の森に分け入るしかありません。


さて、古い『演劇界』を調べていたらこんな写真がありました。

『演劇界』昭和19年1月号より

「大衆演劇の舞臺相」と題された欄で、浅草公園劇場での「昭和國進劇」の公演写真です。

演目は『赤十字郵便』で役者は右から関根英三郎青柳龍太郎、河上好子とあります。追加で『松竹七十年史』の演劇演芸興行記録や『演劇年鑑』(昭和22年版)を参照すると、これが昭和18年12月1日初日、関根英三郎、市川右之助、青柳龍太郎一座が出演していた舞台であることがわかりました。

ですが、残念ながらいずれにも「河上好子」の記載はなく、これが「川上好子」と同一人物なのか(つまり誤植なのか)は不明ですが、「川上好子」である可能性は高いと思われます(さらに調べてみます)。

この舞台に大高が関わっていたかどうかもわかりません。ですが、いずれにしてもこれが川上好子ならば、昭和15年3月には横浜敷島座で大高よし男と共演している人ですから、なかなかに感慨深いものがあります。


戦後、昭和24年の『演劇界』にはこんな記載もあります。「團之助と語る」と題する市川団之助へのインタビュー記事で、聞き手は演劇研究家・評論家の渥美清太郎

『演劇界』昭和24年6月号より

その後半で渥美がこう言うのです。

「さうさう。死んだ小林勝之丞君と一緒に伊勢崎町(ママ)であなたに逢った事がありましたつけ。その時は弘明寺の日吉良太郎を訪ねたのですが(以下略)」

日吉良太郎は昭和18年の『演劇年鑑』でも、昭和22年の電話番号簿でも「中区井土ヶ谷中町75」が住所になっていますから、「弘明寺の日吉良太郎」というのは渥美清太郎の誤解ではないかと思われます。

伊勢佐木町近辺から市電を使って移動したのだとしたら、1系統ないし10系統の「弘明寺」行きに乗ったはずです(通町あたりで下車か)。そんなところが誤解を生んだのかもしれません。


なお、渥美清太郎が市川団之助と伊勢佐木町で会ったのは、おそらく小林の案内で京浜地区の大衆演劇を見に行った日ではないかと推測されます。この時の記録が『演芸画報』の昭和17年11月号に「東京を離れた 大衆劇めぐり」として掲載されています。

『演芸画報』昭和17年11月号より

一日のうちに、蒲田(出村)の愛国劇場、川崎(堀之内)の大勝座、末吉町の横浜歌舞伎座、南吉田町の金美劇場、伊勢佐木町の敷島座、そして三吉劇場(現・三吉演芸場)と巡ったわけですから、かなりな強行軍です。ちなみにこの時の横浜歌舞伎座では日吉一座は休演中だったようで、そんなこともあって小林の案内で日吉を訪ねたのかもしれません。


実は、以前から新聞紙上などで頻繁に名前を見るのに、この「小林勝之丞」という人のことがよくわかっていません(わかる人がいたらぜひ教えてください)。

横浜貿易新報(神奈川新聞)の娯楽欄ではこの人が主に劇評や演劇関連記事などを書いているし、前掲の『演芸画報』にも時折寄稿しており、昔の役者のこと、昔の横浜演劇界のことなどにもかなり精通している「ハマの演劇通」とでもいうべき人なのでしょうが、劇作もやっていて、本職はなんなのかがよくわかりません。プロフィールもほぼまったくわかりません。

数少ない手がかりとして、長谷川伸の『私の履歴書』に

「その中に横浜の小林勝之丞という人があった。ハマの土木業系の大した顔役で、その頃もう故人であった平塚の福の血筋のものである」(『私の履歴書』第1集,日本経済新聞社 1957 / p.182) 

という記述があります。

ここに書かれた「ハマの土木業系の大した顔役」である「平塚の福」とは、山手のトンネル(麦田のトンネル)を開いた平塚組の平塚福太郎のことだと思われます。その長男が児童文学者の平塚武二ですから、これが正しければ小林勝之丞と平塚武二は親戚ということになります。

平塚組と小林勝之丞との関係ももう少し深掘りする必要がありそうですね。


さて、これまでの調査からもうひとつ。

以前の投稿((75) じゃがいもコンビについて)で日吉劇の朝川浩成と壽山司郎が曾我廼家五郎一座に参加していたことを書きました。朝川のことは新聞記事からはっきりしていましたが、壽山については記憶がはっきりしないと書いています。

ですが、改めて資料を見返してみたところ、これは前述の小林勝之丞が『演芸画報』に寄稿した「曾我廼家五郎の芝居」という劇評の中に書いていたことでした。

『演芸画報』昭和18年4月号より

曰く

「小西行長で登場の新加入幸蝶。音吐朗々と響き鮮やかだつた。此優は新派出の朝川浩成。五郎佳き逸材得たり」
「美聲の團子賣の蝶山は蝶六型の愛嬌者。壽山司郎と云へる是も新派出。五郎劇多彩と云へる」

新派出とありますが、いずれも日吉良太郎一座の出身です。「新派」の定義が難しいところですが、この当時、日吉良太郎一座は分類としては「新派」とされていたのでしょう。

また、今回画像はアップしませんが、『演芸画報』昭和17年10月号には梅島昇の「新派正劇」に日吉一座の「安田丈夫」が参加しているともあります。これはおそらく「安田猛雄」のことだと考えられます。

小林が各劇団に紹介したのか、はたまた引き抜きがあったのか、いずれにしても横浜で絶大な人気のあった日吉一座の役者が、この時期、次々と東京へ進出していったという印象を受けます。

戦後、朝川浩成や安田猛雄は銀星座の自由劇団で、壽山司郎は杉田劇場の大高一座で活躍します。そんな彼らにこういう過去があったのですね。


というわけで、今回はこの先、雑誌の調査に着手するにあたって、ここまで調べてきた雑誌から大高周辺の記録をまとめてみました。横浜は狭い世界でもありますから、想像以上にいろんな人間関係が絡み合っていて、面白いものです。

この先の展開が楽しみになります。


→つづく


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(83) 戦前の杉田と芝居小屋

地元磯子区には地域史を丹念に調べたり、昔の思い出を本にしている方が結構おられて、地元ならではの情報もあるので、旧杉田劇場や美空ひばりの調査にはとても役に立ちます。もっとも大高よし男については片山さんの証言以外、詳しい内容が出てこないのがいささか残念なところではありますが…

磯子地域史といえば岡村の葛城峻さんが筆頭に挙げられますが、そのほかにも中原にお住まいだった(わが家のすぐ近く)小玉忠長さんもいろいろな記録を残されていますし(旧杉田劇場の平面図も小玉さんが残している)、杉田八幡宮の宮司・三浦豊さんの本にも明治・大正・昭和の杉田の様子が克明に記録されていて、大変貴重なものです。


杉田商店街に創業100年を超える和菓子店「菓子一」があります。その先代の店主、相原一郎さんも積極的に記憶を書籍にして刊行された方で、以前から著作は拝読していますが、先日、磯子図書館でこれまで未読だった『杉田の歴史・故郷讃歌』を借りて読んでみました。

大高よし男に関する記載がわずかでもあるかと期待を込めてページを捲ったものの、残念ながら新たな事実を発見することはできませんでした。その代わりに、戦前、昭和10年代の杉田で旅まわりの劇団が芝居を上演していたという記述をふたつ見つけることができたのです。

ひとつめはこんな内容。

「昭和十年代、東漸寺境内の琵琶池の海側に冬の間だけ漁師の海苔干し場が結構広く有り、春になり海苔が採れなくなると子供の絶好の遊び場になっていました。この広場に掘っ立て小屋の旅まわりの芝居が二〜三週間興業するのです(中略)中でも『福島一夫一座』は人気があって、当代、映画人気スター林長二郎(後に本名の長谷川一夫と改名)の弟子とかで仲々の二枚目。主にチャンバラの立ち回りが得意で、「名月赤城山」「沓掛時次郎」等の縞の合羽に三度笠スタイルの股旅物が売りでした」(相原一郎『杉田の歴史・故郷讃歌』p.37)

福島一夫一座については、詳細がよくわかりません。上記に続く文章からすると、福島はどうやら横浜出身の役者のようで、戦後は「金沢文庫の海側にあった八景園という百円温泉に出演していました」ともありますから、このあたりを手がかりにすれば何かわかるかもしれません。

福島一夫一座以外にもこんな記述がありました。

「芝居小屋と言えば杉田にもう一カ所、現在の商店街三叉路先の「ながら」さん裏の空き地に「中村徳三郎一座」といって何回か、かかりましたが中区浅間町方面に常設小屋を持ったと聞きました」(同書 p.38)

浅間町は現在は西区ですが、西区が中区から分区したのが昭和19年のことなので(今年は西区制80周年)、昭和10年当時の記憶としては中区浅間町ということになるのでしょう。

中村徳三郎一座について調べてみると、昭和17年11月の新聞記事にその名前を見つけることができました。「横濱新舞劇団」という新たな劇団を結成して、戸部映画劇場で旗挙げ公演をやったというニュースです。

1942(昭和17)年11月24日付神奈川新聞より

記事中に劇場(映画館)の所在地としてある「中区天神町」というのは旧番地で、現在は戸部本町、現在の戸部駅周辺ということになります。

消えた映画館の記憶」では「戸部映画劇場」の番地が天神町ではなく「西区石崎町1-13」になっています。石崎町も旧番地なので対照表で確認すると、「戸部本町51番地」になるのだそうです。やはりこれも「戸部本町」で京急戸部駅のすぐそばですから、いずれにしても戸部駅周辺あたりにあった劇場(映画館)ということは間違いなさそうです。

記事には「破竹の勢ひで常打興行を開始」とありますから、中村一座がここを常打ち小屋としたのかもしれません。相原さんが「常打ち小屋を持った」と書いているのはこの劇場のことを指している可能性が高いと思われます。

中村徳三郎や福島一夫などは、おそらく横浜や神奈川県内を回っていた劇団で、大高よし男や近江二郎などとは直接の関係はないと考えていいでしょう(言葉は悪いですが、大高や近江二郎より格下の劇団のように思われます:この点、追加調査が必要です)。

ですから、ここに大高の手がかりがあるとは思えませんが、杉田劇場や大高よし男が登場する以前に杉田でこういう芝居が上演されていたというのはとても興味深い話です。


相原さんの記述にある「ながら」は、僕が転居してきた頃からずっと同じ場所で営業している、たい焼きや今川焼きやおにぎりなどを売っている商店で、その裏手はほとんど住宅ですが、一部駐車場にもなっているので、あのあたりがもともと空き地だったのかもしれません。

(あそこに小屋掛けの芝居があったのかと思うとなかなか感慨深いものがあります)


そんなこんなで、今回は余談めいた感じですが、戦前の杉田で上演されていた芝居についての投稿となりました。大高調査の方は日吉良太郎一座と川上好子の線で、引き続き図書館通いを続けています。


追記(2024.7.3)
『西区史』を閲覧したところ、中村徳三郎の「戸部映画劇場」は「天神町1-7」にあった劇場で、関東大震災までは浪曲の寄席「柳亭」、震災後に「柳座」となって宝仙キネマ、天神座、戸部映画劇場と名前を変えて、上掲の新聞記事にある昭和17年11月から演劇専門の劇場になったのだそうです(昭和18年9月には再び映画館となったらしい)。「消えた映画館の記憶」にある「戸部映画劇場」も同じ名前ですが、戦後、石崎町1-13(戸部警察の並び)に開場した映画館ということです。よく考えれば横浜大空襲があったのですから、同じものと考える方がおかしかったのですね。


→つづく



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(82) 川上好子の足跡探し(日吉劇を追って)

主宰する劇団の公演があったので、ずいぶん間が空いてしまいましたが、ようやく残務も片付いて大高調査も再開です。


大高(前名の高杉弥太郎も含む)の痕跡がなかなか見つからないことから、ひとつの手がかりとして日吉良太郎一座にいた川上好子の足跡をたどることで大高との接点を探ってみようというのがこのところの方針です。

というわけで、「復興博の女神」に入選した昭和10年から大高と共演した記録のある昭和15年まで、特にこれまで調査対象にしてこなかった昭和10年と昭和11年の横浜貿易新報をつぶさに見ていくことにしました。


昭和10年4月から7月までの調査では、川上好子の動向はわかりませんでしたが、同年7月5日に日吉良太郎一座の巡業スケジュールが掲載されていました。

1935(昭和10)年7月5日付横浜貿易新報より

この時期の日吉一座は横浜歌舞伎座ではなく、伊勢佐木町の敷島座を横浜での拠点としていましたが、夏季は主に甲信地方を巡業するのが恒例だったようです。特に長野での人気は絶大で「信州の団十郎」との異名をとっていたそうです(「松本市史」や「松代町史」「大町市史」などには日吉良太郎の名前が出てきます)。

日吉良太郎は信州と横浜での人気が高かったとはいうものの、7月から9月までの夏季巡業というスタイルには「東京の人気劇団による地方巡業」というより、そこはかとなく「ドサまわり」の雰囲気を感じてしまいます(このあたりの感覚はもう少し調べないとわからないところです)。

それがこの2年後、昭和12年には東京の大劇場である江東劇場で柿落し興行をやることになるのですから、どこをどう飛躍すればそんなことになるのか、川上好子が所属していた昭和10年代初めの日吉一座については、まだまだ調べることが山積です。

さて、話が脱線しましたが、その記事による昭和10年7月前半の日吉一座・夏季巡業はこんな感じです。

7月5日〜9日 八王子 関谷座
7月10日、11日 山梨県猿橋町 白猿座
7月12日、13日 長野県富士見村 富士見劇場
7月14日〜16日 長野県〇〇村 常盤座

現代的な感覚からすると、なかなかのハードスケジュールな感じがあるものの、当時の巡業としてはそんなに珍しくなかったことでしょう。記録はありませんが、この年の巡業座組の中には川上好子もいたはずです。


上記劇場のうち、八王子の関谷座はオークションサイトに絵葉書がありました。なかなか立派な劇場です。「消えた映画館の記憶」によると、関谷座は昭和13年には映画館に転向し「東宝映画劇場」と改称されますが、昭和20年8月の空襲で焼けてしまったそうです。

猿橋町の白猿座についてはかなり詳細に調べてあるサイトがあって助かりました。この劇場は戦後も残っていたそうですが、映画に押され、老朽化も進み廃屋同然になっていたのが、昭和47年に失火で焼失したのだとか。しかし、衣装や大道具などは残ったそうで、白猿座の記憶は「大月こども歌舞伎」として継承されているようです。


さて、またぞろ話を戻すと、以前にも投稿したように入手した昭和12年の日吉一座巡業時のプログラムに川上好子の名前がないこと、さらには昭和13年6月、日吉一座が横浜での拠点を横浜歌舞伎座に移した際の配役一覧の中にも川上好子の名前がないことから、今回調べようとしている昭和10年4月から昭和12年の夏までのどこかで、川上好子は日吉一座を離れて独立したのだろうと推測されます。

1938(昭和13)年6月3日付横浜貿易新報より
(川上好子の名前はない)

川上好子が籠寅演芸部に所属していたことは間違いなさそうなので、独立後、おそらく同じ籠寅傘下にいたであろう大高(高杉)がどう関わってくるのかが今後の調査の焦点です。


→つづく



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(81) 川上好子のこと

大高よし男の経歴を探るにあたって、近江二郎との関係が鍵になると思っているところですが、昭和14年以前の手がかりが見つからず難航は続いています。

そんなこんなで、今回も周辺情報から。

昭和16年4月23日から神奈川県新聞で「横濱に住む俳優群を語る(横濱演劇懇話會調)」という連載が始まります。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より


ここで取り上げられている俳優は以下の方々です(掲載順)。

市川団之助
市川升紅
石原美津男
市川新升
市川荒右衛門
市川茂々市
市川三蔵
大谷門二郎
澤村清之助
市川莚蔦
澤村訥美太郎
中村芝梅
市川島蔵(?)
市川蔦之助
市川荒子
市川筆之助
佐久間實
澤村訥紀十郎
静川君之助
林重四郎
北島晋也
牧野映二
生島波江
藤代朝子
岡田梅男
小金井秀夫
水の江城子
※川上好子
曾我廼家明石
五月信夫
静間■
嵐傳五郎
嵐ひろ子
市川コズエ
橋本梅蔵
中島三浦右衛門
佐藤幾之助
佐藤新十郎
荒井信夫
尾上梅代
三島啓介
松井幾人
松岡壽美子
中川清
青木俊二
池田富雄
市川三之助
佐上善行
澤村清枝
大江美智子
藤原かつみ
伊藤三千三
吾妻千恵子
大江美加(?)子
星十郎
関谷妙子
★近江二郎
★深山百合子
★衣川素子
勝川三次
★戸田史郎
尾上羽多丸
松本米世
青柳早苗
三井一枝
久松勝代


この中には当時、すでに引退している俳優も含まれていますが、昭和16年の段階でこれだけの役者が横浜に住んでいたというのは驚きです(記事中に「横浜歌舞伎座の日吉劇、敷島座の籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、実態としてはもっと多くなるはずです)。


それぞれの方の経歴も演劇史的には興味深いものばかりですが、それはいずれ別にまとめるとして、やはり気になるのはこの中に「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前がないことです。

戦前、戦中、戦後と、大高がどこに住んでいたのかはまったく不明です。戦後はさすがに杉田や弘明寺あたりにいただろうとは想像できますが、それ以前については手がかりがありません。

ただ、上記の記事に彼の名前がないことからすると、大高は横浜に住んでいなかったか、少なくともこの記事をまとめた小林勝之丞を含む横濱演劇懇話會のメンバーは、大高を「横浜の俳優」とは認識していなかったのだと考えていいでしょう。近江二郎や妻・深山百合子、子・衣川素子、弟・戸田史郎が載っているのですから(★印)、大高が近江二郎のように横浜在住の役者だと思われていたとしたら、ここに載っていておかしくないはずです。

前述の通り、記事には「籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、大高はその「別」に含まれているのかもしれませんが、籠寅がらみの役者が何人か掲載されているので、大高が掲載されていないのはちょっと不自然です。

(もっとも、この記事自体、戸田史郎の本名を「笠川四郎」としている点など(実際は「近江資朗」)、誤りも多そうなので、資料としての信憑性には若干の疑義があります)


前回の投稿でも言及しましたが、ここには「川上好子」が掲載されています(※印)。川上好子という名前は昭和10年の「復興博の女神」コンテストで7位に入選した日吉劇の女優として、また昭和15年に近江二郎一座と共演している(つまり大高と共演している)一座の座長として記録がありますが、この両者が同一人物なのかはよくわかりませんでした。


ですが、復興博の女神コンテストの翌年、昭和11年1月に横浜貿易新報に掲載された「熱と力の俳優『日吉』を語る」という座談会記事の中で

北林(透馬)「『男は泣かぬ』に出てゐる、川上好子、あれは巧いですね」
小林(勝之丞)「横濱で生れた優です」

と言及されていることから、川上好子はもともと日吉一座にいたのが、独立して女剣劇の一座を成したのだと考えて間違いなさそうです。

1935(昭和10)年1月23日付横浜貿易新報より


大高一座に参加していた生島波江も同じような経過をたどっているように思われますが、全国的な知名度の上では川上好子の方がはるかに上だったようで、以前にも紹介した通り、木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)に人気の女剣劇座長として写真が掲載されています。復興博の女神に入選した昭和10年から、昭和15年までの間に川上好子は日吉劇から独立したのでしょう。

昭和15年に敷島座で近江一座と共演した川上は、その後もしばらくは近江一座と行動を共にしています。大高の足跡は近江一座だけでなく、川上一座に刻まれている可能性も否定できません。その前後の川上好子の動向を調べることも、手がかりになりそうです。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(80) 復興博の女神

関東大震災からの復興をアピールする目的で、昭和10年3月26日から5月24日まで、山下公園を中心に「復興記念横浜大博覧会」という催しが開かれます。

これに先駆けて新聞社の「横浜貿易新報」が「復興博の女神」という、ミスコンみたいなことをやったそうです。そのことは小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』に書かれていたので、以前から情報としては知っていました。


先日、図書館で当時の新聞を閲覧してみたところ、これが想像以上に大きな扱いで(自社が主催しているのだから当然ですが)、しかも連日、過熱報道と言えるほどの記事が並んでいて、かなり驚かされました。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より

このコンテストは新聞に投票用紙が掲載されていて、読者がこれぞという女性に投票し、1ヶ月間の得票数で順位が決まるというものでした。ですから、審査員が1位を決めるようなミスコンとはちょっと毛色が異なり、人気投票のようなものだったのでしょう。対象も一般人ではなく、芸妓やカフェの女給などだったようです(いまと違って一般女性がそういう対象になるという概念がなかったのでしょうね)。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より
(投票用紙の横にいま朝ドラで話題の「明治大学女子部」の広告がある)

復興博の女神に選ばれると

  • 当選者30名を「復興博女神」として、横浜貿易新報社特製の帯留を贈呈
  • 1位〜5位には訪問着を贈呈
  • 当選者30名を新聞1ページのグラビアで紹介する
  • 復興博期間中に開催する「商工祭」の仮装行列で花車を作る

という特典があったそうです。賞品云々というより、新聞に写真が掲載されたり、仮装行列に出たりと、選ばれた人たちからすれば自分自身や店の宣伝の方が目的だったことでしょう。


演劇研究家である小柴さんがこれを取り上げている理由は、「復興博の女神」で第1位になったのが日吉劇の看板女優「花柳愛子」だったからです。

花柳愛子は座長・日吉良太郎の妻でもあり、コンテストにおいては日吉一座がかなり強力にバックアップ、というか組織票の取りまとめみたいなことをやったような気がします。そもそも女優が選ばれること自体、顔ぶれの中ではかなり異色だし、当初低迷していた花柳愛子の順位が急激に上がってくるのも、不自然と言えば不自然な感じがするところです。

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より


とはいえ、そもそもが人気投票という性格のものですから、組織票ではあってもそれだけの票を集めることが人気の証しなのでしょうし、これが日吉一座としては絶好の宣伝機会になったことでしょう。こういうものに目をつけるあたり、日吉良太郎の興行師としてのしたたかな戦略を感じさせます。

ともあれ日吉劇の看板女優はめでたく第1位を獲得したわけで、開票の翌日には日吉良太郎と敷島座(当時の日吉劇の拠点)の連名で当選御礼の広告が出ています。

昭和10(1935)年3月28日付横浜貿易新報より


実は、大高よし男を調べている僕としては、花柳愛子もさることながら、同時入選している「川上好子」の方が気になるのです(日吉劇団からは二人の女優が選ばれた)。

というのも、大高よし男が高杉弥太郎として近江一座とともに横浜敷島座に登場した時の座組が、酒井淳之助一座に近江二郎一座と川上好子一座が特別加盟した合同公演という形だったからです。

昭和15(1940)年3月7日付横浜貿易新報より

この時の川上好子と日吉劇にいた川上好子が同一人物なのか、はっきりしませんが、別の記事には「横浜の名花」と形容されていますし、さらに後年の記事では横浜在住の俳優として紹介されているので、川上好子はもともと日吉劇にいたのが、独立して一座を成したと考えるのが妥当な気はします(この時は「籠寅演芸部専属」となっています)。

昭和16(1941)年4月26日付神奈川県新聞より

同じ舞台で共演していることからして、当然、川上と大高は知り合いだったと考えられます。川上好子が日吉劇にいたとすれば、戦後の大高一座に日吉劇のメンバー(藤川麗子・生島波江・壽山司郎)が参加した経緯に、川上の存在が何らかの形で影響したのかもしれません。

そんなことも含めて、川上好子の詳しいプロフィールや、大高よし男との関わりについても、もう少し深く調べてみる必要がありそうです。


余談ですが、復興博の女神・花柳愛子は本名を「北村きく」といい(日吉良太郎の本名は北村喜七)、1985年、横浜市中区役所が『中区史』を発刊する際、彼女は資料提供や聞き取り調査で協力をしていました。

『中区史』より資料提供者リスト(一部)


『中区史』には花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されているほか、日吉一座が拠点としていた横浜歌舞伎座の写真も載っています。

『中区史』より横浜歌舞伎座

掲載されている横浜歌舞伎座の写真をよく見ると、入口の看板には

「兄妹の心」
「何が彼女を殺した?」
「血達磨伝令兵」

の三演目が掲げられていて、これを小柴さんのまとめた資料(『郷土よこはま』No.115)と照らし合わせると、撮影されたのは、日吉一座が横浜歌舞伎座に初お目見得して数ヶ月後、昭和13年10月7日から13日の間だとわかりました。

写真の奥には劇場前に自転車が並んでいるのが写っています。また、その前の壁面には「演劇報国」という字が大きく書かれているように見えます。「演劇報国」は日吉一座のモットーで、こんなふうに劇場前に掲げていたのかと思うと、やはり時代を感じさせるところですね。


『中区史』に載っているこの写真は、残念ながら市立図書館のデジタルアーカイブでは公開されていないようで、原本がちゃんと保管されているのかどうかいささか心配になります。


→つづく


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(79) 中野かほると市川門三郎と美空ひばりと

大高よし男の調査は昭和14年、つまり大高よし男が前名・高杉彌太郎の名前で横浜敷島座に登場する前の年、その近江二郎一座の動向を探ることに専念していますが、これがどうにもわからない。『都新聞』の芸界往来に記載がないのは、一座が活動を休止していたか、もしくは東京や大阪、京都、名古屋といった都市部とは違うところで活動していたかのどちらかではないかと考えられます。

というわけで、まとまった報告も難しい時期ではありますが、更新が滞ってもいけないので、今回は地元磯子と芸能の関わりなどを簡単に。


磯子と芸能といえば第一に挙げられるのは「美空ひばり」です。彼女のデビューについては諸説あって、「アテネ劇場」や「上大岡の銭湯」(大見湯、のちに大見劇場に改装)などとも言われていて、特にアテネについてはあちこちの本で書かれていますが、昭和21年4月10日の杉田劇場の広告に「美空一枝」の名前があることから、同年9月開場のアテネ劇場でデビューというのは確実に誤りだと言えます(そのことについて最新の考察が杉田劇場のブログにあります→こちら)。

それ以前に、滝頭の祭りの櫓で歌ったとか、岡村天満宮の神楽殿で歌ったとか、杉田商店街の和菓子屋(菓子一)の店先でみかん箱に乗って歌ったというような話や、緑区中山にある神社の祭礼の時に歌ったなどという話もあるようですが、どれも「デビュー」と言っていいか微妙な線です。

少なくとも舞台のある劇場やホールで初めて歌ったのは旧杉田劇場、というのが地域史を研究されている方々の中では定説です。

美空ひばり(浅草公会堂・スターの手形)

いうまでもなく大高一座(暁第一劇団)の幕間がそれに当たるわけですが、開場当初の杉田劇場に出演していた人たちが後年、映画などで美空ひばりと共演している例が結構あって、大高サイドから調べている身としては、不思議な縁も感じてしまうところです。


大高よし男の追善興行に、当時は芸能界を離れていたとされる中野かほるが出演したことは以前も書きましたし、大高の葬儀の写真に写っているのが中野かほるではないかという仮説も何度かお伝えしています。彼女のプロフィールを調べると、1962(昭和37)年の『三百六十五夜』を最後に引退、とあります。実はこの映画について詳しく調べていませんでしたが、先日、確認したところ、なんと主演が美空ひばりだということに気づきました。

大高よし男と縁のある二人が映画で共演していたということになるわけです(ちょっと強引だけど)。


また、杉田劇場で大高よし男と同時期、さらにその後も頻繁に興行していた市川門三郎は、これまた有名な話ですが、『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』で雪之丞の師・菊之丞役として美空ひばりと共演しています。

さらには、ひばり親子が杉田劇場にやってくる前、昭和21年1月に「かもしか座」の一員として杉田の舞台に立った片山明彦は後年『伊豆の踊り子』で共演します。


杉田劇場と直接の縁はありませんが、横浜出身の女剣劇役者・大江美智子も『大江戸千両囃子』でひばりと共演していますし、杉田劇場のすぐ近く、磯子区中原出身の黒川弥太郎はコマ劇場での特別公演に常連といってもいいほど出演しています。

大江美智子(浅草公会堂・スターの手形)

以前、劇団若獅子の笠原章さんに伺ったところ、黒川弥太郎は喜美枝さんに大変気に入られていたようです。もちろん彼の芸や人柄があってのことでしょうが、同じ磯子区出身というのもどこかで喜美枝さんの思いの中にあったのじゃないかと、いささか地元贔屓の推測もしてしまうところです。


磯子出身者といえば美空ひばりのほかにも、最近では岡村出身のゆずも有名ですし、向井理、井上真央といった若手俳優、EXILEのHIRO、今年生誕100年を迎える高峰秀子の夫・松山善三が磯子区岡村出身だったり、先年亡くなった田中邦衛が長く磯子台に住んでいたことも地元ではよく知られています(浜中裏のバッティングセンターに「田中邦衛」の名前が書いてあることは都市伝説のように伝わっています:こちら)。

田中邦衛(浅草公会堂・スターの手形)

渥美清が杉田劇場の舞台に立ったという話は、裏付けが取れないのでペンディング状態ですが、1970年代の週刊誌上で近江二郎一座と森野五郎一座にいたとあることから、この両劇団が杉田劇場に来演した際、渥美清が座員であったことが判明すれば、渥美清も杉田の舞台に立ったということになります。

Wikipediaなどで渥美清のプロフィールを見ると「新派の軽演劇の幕引き」とありますから、新派を自認していた近江二郎の方が可能性は高いように思います。

近江二郎の養子であった元子さん(芸名・衣川素子)の手紙でも近江二郎一座に渥美清(手紙では「書生田所」とあります)が所属していたと記録されているので、近江二郎一座にいたことは間違いなさそうです。ただ、近江二郎一座が杉田劇場の舞台に立ったのは、昭和21年1月26日からの10日間と同年5月1日からの10日間の計20日間。この時期に渥美清が座員であればいいのですが、彼の68年の人生の20日間です。杉田にいたというのはかなり奇跡的な偶然になるかもしれません。


そんなこんなで、大高よし男を通じて、地元の歴史を掘り起こしているうちに、磯子は芸能の街なんだという思いを強くするこの頃です。

(「いそご芸能史マップ」みたいなのを作ってもいいのかしらん)


→つづく


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〔番外〕 川村禾門と葡萄座

今回は番外編。

このブログでも何度か紹介したと思いますが、堀川惠子著『戦禍に生きた演劇人たち』は、広島で被爆した移動劇団「桜隊」の悲劇をつぶさに取材した本で、戦時中の新劇「受難史」として、当時の演劇状況がよく理解できる名著です。

この本は、桜隊に参加して被爆死した女優森下彰子と、その夫でやはり俳優の川村禾門のエピソードを軸に組み立てられていて、新婚の夫妻が交わした手紙は、幸福な若い夫婦とそれを引き裂く戦争の残酷さを物語る貴重な資料となっています。

晩年の川村禾門を描く最終章のエピソードも胸を打つもので、多くの読者が「川村禾門」という名前を記憶に刻んだことだろうと思います。


そんな中、先日、旧杉田劇場のことを調べようと、横浜でもっとも歴史のあるアマチュア劇団「葡萄座」の創立50周年記念誌『年輪』(1997年刊)を開いていたら、なんと第50回記念公演『楢山節考』(1963)のキャストの中に、見覚えのある「川村禾門」の名前を発見したのです。

葡萄座創立50周年記念誌『年輪』より

同姓同名の別人かとも思いましたが、それにしては偶然が過ぎます(こういう名前の人はそうそういないでしょう)。そこで『戦禍に生きた演劇人たち』を読み返してみたところ、こう書いてあるではありませんか。

「大映を解雇された禾門は、その後、松竹に拾われて何とか大部屋俳優に留まった」(P.352)

そうか!

葡萄座の座長だった山本幸栄さんは松竹の大部屋にいましたし、劇団員の羽生昭彦さんも大部屋俳優で『男はつらいよ』ではタコ社長の下で働く印刷工役を長くやっていました。葡萄座にしばしば客演していた城戸卓さんも同じく松竹の役者さんで、その縁を考えれば「あの」川村禾門が葡萄座の舞台に立っていたとしてもまったくおかしくないわけです。

『年輪』には「フラッシュ、バックの記」と題した川村禾門のコメントも掲載されていて、そこには昭和11年にできた「川崎協同劇団」(京浜協同劇団とは別団体らしい)に参加していたと書いてあるので、神奈川のアマチュア演劇とはかなり近いところにいた人なんだということもわかりました。

『戦禍に生きた演劇人』には昭和15年に日活に入所した川村禾門の「感想文」の引用で

「職業を転々替え乍ら、素人劇団で勉強を続けてきた僕にとっては」(P.203)

とあり、この素人劇団が「川崎協同劇団」であると考えて間違いないでしょう。

葡萄座創立50周年記念誌『年輪』より

また、上の画像の冒頭にもある通り、川村禾門は杉田劇場で葡萄座が上演した真船豊『見知らぬ人』(1947年8月29日〜31日)を見ているのです。おそらく葡萄座が杉田で行った公演には、ほぼ毎回足を運んでいただろうとも思われます(神谷量平『ヴォルガ・ラーゲリ』についての言及もある)。※葡萄座公演『見知らぬ人』については杉田劇場のブログにも記載があります


どうやら葡萄座と川村禾門には深い関わりがありそうだと、僕の劇団に所属している森さん(森邦夫さん=元・葡萄座座員)に「川村禾門って知ってる?」と尋ねてみたところ、「知ってるよ。カモンちゃんね」との返事! 年齢は森さんの方がかなり下だけど、「ちゃん」付けで呼ぶほどの関係だったようです(後日、写真を確認してもらったら「確かにこの人」と言っていました)。

森さんによれば、「カモンちゃん」は横浜で飲み屋をやっていたとかで、何度かそのお店にいったこともあるそうです(『戦禍に生きた演劇人たち』の中では「その後は、パン屋の仕事やホテルのフロント業で生計を立てながら」(P.353)とありますので、川村禾門本人ではなくご家族がやっていたのかもしれません)。


川村禾門は稲垣浩監督の映画『無法松の一生』(1943)に出演しています。阪東妻三郎演じる「松五郎」から「ぼんぼん」と呼ばれて愛された吉岡大尉の遺児「吉岡敏郎」の青年時代を川村禾門が演じているのです(幼少時は澤村アキヲ=のちの長門裕之)。

『戦禍に生きた演劇人たち』が川村禾門を取り上げるのには理由があって、夫人の森下彰子とともに、広島の原爆で亡くなったのが、『無法松の一生』で松五郎が思慕する吉岡夫人役を演じた園井恵子だからです。園井恵子と川村禾門が『無法松の一生』でつながっていたという奇縁もカギのひとつになっているわけです。


森さんに話を聞いても「カモンちゃん」が『無法松』に出演していたことは知らなかったそうで、戦後、そういうことを周囲には話さずに過ごしてきたのかもしれません(もっとも森さんがそういうことに興味を持つタイプではないというのもあるのですけどね)。


横浜の演劇史は実は東京や日本全国の演劇史からすると「スピンオフ」みたいな存在なのかな、と最近はよく思います。

今回、知られざる意外なつながりがあることを痛感させられました。あらためて深く調べ直して、いまのうちに話を聞ける人には聞いておかないと、貴重な歴史が誰にも知られず埋もれてしまう気がしています。

ついでの余談ながら、以前も書いた通り、横浜演劇研究所が発行していた機関紙「よこはま演劇」には、武田正憲と加藤衛所長の対談が掲載されています。

機関紙「よこはま演劇」No.5(1954) より

武田正憲といえば文芸協会や芸術座で島村抱月や松井須磨子と一緒に活動していた人物で、溝口健二監督の『女優須磨子の恋』では「役名」として登場するほどの人です(演じたのは千田是也)。※『よこはま演劇』では“「生きている演劇史」的存在”と書かれている

また、この対談が行われた日は昭和29年4月4日夜、場所は「加藤研究所長宅」とあります。当時、加藤衛さんは磯子区中原に住んでいたはずなので、“生きている演劇史”の武田正憲も杉田の地を訪れていたということになります(いささか強引な地元贔屓ですが…)。

これもかなりレアな記録なんじゃないかと思います。


→つづく

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(78) 銀星座と日吉良太郎について

大高よし男の顔がわかったことで、足跡探しも一気に前進、と行きたいところですが、なかなかそうは問屋が卸さないところがこういう調査の醍醐味(?)でして。

昭和15年3月の横浜敷島座で近江二郎一座に参加する以前の活動がまったくわからず、探索はすっかり停滞しています。昭和13年10月末まで、近江二郎一座が名古屋宝生座で興行していることがわかっているので、目下、その後の近江一座の足取りを『都新聞』の「芸界往来」欄などから調べているところですが、難航しています。

昭和13年10月以前の近江一座には大高よし男(高杉弥太郎)はいないと思われるので、同年11月から昭和15年2月までの間のどこかで、大高は近江一座に参加することとなるわけで、その時期の特定と記録が見つかれば、壁が突破できるはずです。


そんなこんなで、戦前の調査が行き詰まれば、戦後の調査に移行せざるをえない。というわけで、図書館に行くたびに戦後の神奈川新聞を1か月ずつ調べているところです。

そんな中、昭和22年11月25日付の神奈川新聞に掲載された銀星座(弘明寺)の広告に、興味深い名前を見つけました。

日吉良太郎

です。(日吉良太郎については以前の投稿を参照してください。ただしその投稿には若干の誤りがあって、出身地は岐阜県の神戸町のようですし、弁士だったというのもちょっとあやふやな情報です)

昭和22年11月25日付神奈川新聞より

この広告によれば、銀星座専属の自由劇団が、大岡警察署刑事部長・桑名甲子次原作による防犯劇を上演するにあたって、脚色を日吉良太郎が担当しているというのです。

僕が調べた範囲では、戦後、新聞に日吉良太郎の名前が登場するのはこれが初めてです。


戦前・戦中と横浜で絶大な人気を誇り、末吉町にあった横浜歌舞伎座で6年半も連続興行を続けた日吉良太郎一座ですが、小柴俊雄さんが『郷土よこはま』(No.115)に寄稿した論文によれば

「太平洋戦争が急迫して来て、享楽追放で公演ができなくなる」(同書 P.60)

という事態に追い込まれます。

また同氏の『横浜演劇百四十年ーヨコハマ芸能外伝ー』には

「戦後、日吉良太郎は活動の場がなくなって一座を解散。日吉も昭和二十六年八月に六十四歳で死去した」(同書 P.60)

ともあります。

日吉一座と座長の日吉良太郎は終戦とともに消えていったということになります。

ですが、僕は銀星座専属・自由劇団のメンバーの大半が日吉一座の元座員であることからして、その背後に(顧問や参与といった立場で)日吉良太郎がいたんじゃないかと推測しているのです。


銀星座は杉田劇場に遅れること3ヶ月、昭和21年3月23日に弘明寺商店街、観音橋のたもとに開場します。何度も書いている通り、柿落としは近江二郎一座で、5月末まで近江一座の興行が続きます。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より


その後の銀星座は、旧杉田劇場と同様、演劇や演芸、歌謡などさまざまな企画で、娯楽に飢えていた市民のニーズに応えていました。

昭和21年6月10日付神奈川新聞より

昭和21年6月12日付神奈川新聞より

それが昭和21年8月に専属の自由劇団(当初は「横浜自由座」)が誕生してからは、自由劇団の公演を中心にプログラムが組まれていくようになります。自由劇団の興行がいつまで続いたのかは、まだ調査ができていませんが、昭和24〜5年くらいまではやっていたように思われます。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より 横浜自由座初登場の広告

連続興行ができるくらいですから、自由劇団の人気は相当に高かったものと想像できます。その人気にあやかってか、昭和22年1月には美空和枝(のちの美空ひばり)が銀星座の舞台、自由劇団の幕間に登場するのです。

昭和22年1月14日付神奈川新聞より

以前投稿したように((75) じゃがいもコンビについて)、日吉一座に参加していて、戦後、大高一座の座員だった壽山司郎も昭和22年10月頃から自由劇団に参加するようになり、戦前の日吉一座を知る当時の人からすれば、自由劇団=日吉一座とも見えたことでしょう。2年弱のブランクを経て、日吉一座が銀星座で復活したと感じた人もいたはずです。


あくまでも僕の推測ですが、戦中は「愛国劇」の旗印を掲げて、国策に準じるような芝居を盛んに上演していた日吉良太郎ですから、戦後、戦犯訴追を恐れて身を潜めていたのかもしれません。

小幡欣治著『評伝菊田一夫』によれば、菊田一夫も戦犯訴追を懸念して、GHQに執筆を続けていいのかという問い合わせまでしていたそうですから(同書 P.144)、日吉良太郎の心中にもそんな恐れがあったとしておかしくはありません。訴追や裁判の方向が見極められるまで表立った活動を控えようとしていた可能性は否定できません。

(もっとも、そのわりに昭和22年の電話帳(横浜中央電話局「電話番號簿」昭和二十二年四月一日現在)には日吉の本名「北村喜七」がしっかり掲載されていて、職業欄には「俳優」と書かれているのですから、戦犯云々は推測の域を出ませんが…)


いずれにしても、戦後、長らく報じられることのなかった日吉良太郎の名前が、終戦から1年以上経ったこの日になってようやく登場したこと、しかもあれだけの人気を誇った座長が、座員たちと同程度のフォントで印字されていることには、あえて目立たぬようしたのか、なんらかの背景があると感じられてなりません。


ちなみに、日吉良太郎も近江二郎も井土ヶ谷に住んでいました。日吉良太郎は井土ヶ谷中町、近江二郎は戦後は通町のあたりだったようです(ご親族のお話による)。どちらも最寄りの電停(市電)から弘明寺まで乗り換えなしに行けたはずです。

同じ地区に住む二人の座長が、横浜を拠点にしながら、杉田劇場や銀星座を足がかりに、戦後の新たな演劇界を生き抜いていこうと奮闘していた姿が見えてくるようです。

しかし

昭和24年5月29日 近江二郎没
昭和25年3月 杉田劇場、実質的な閉場
昭和26年8月 日吉良太郎没
昭和27年11月 銀星座、休場(のちに改装されて映画館=有楽座となる)

戦争が終わって、さあこれから、と戦前・戦中の横浜演劇界を支えた両雄が、杉田と弘明寺の地にあげた復興の狼煙は、この時期、立て続けに消えていったわけです。

そしてそのバトンを継ぐかのように、美空ひばりの全国的な人気が高まっていくのは、時代の替わり目を目の当たりにするようで、感慨深いものがあります。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(77) 終戦直後の杉田と浜中学校

大高よし男の写真を目にすることができて、興奮のあまり根拠のない妄想が膨らむ悪い癖が始まりそうですが、ここはひとつ冷静にならねばと、「大きな誤り」の原因となった浜中学校の学芸会写真の詳細を探るべく、中央図書館で『浜中学校創立50周年記念誌』を閲覧してきました。

結果として学芸会の詳細はわかりませんでしたが、学校建設の経緯を記した文章にハッとさせられました。

曰く

「浜中学校下の長作公園には、もと日本飛行機株式会社の社員寮が、四棟あった。終戦となり、昭和二十年八月以降、進駐軍が接収し、第八軍MP部隊が利用していた。昭和二十二年十二月この土地を国鉄が買収(中略)学校用地を提供することになり、ここに浜中学校の校地が定まったのである」

 終戦直後、浜中のあったところには進駐軍がいたのです!

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より
(昭和50年代半ばに僕が通っていた当時もまだこの校舎があった)

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より
(僕が通っていた当時もあって「国鉄寮」と呼んでいた)

おそらく日本飛行機の寮を接収して米軍の兵舎に転用したのでしょう。

以前、中原の古老に話を聴いた折には、杉田駅西口にあったIHIの寮にも米兵がいたそうだし(おそらく石川島の寮を転用)、白旗に住む女性は自宅で米兵向けの慰安所(いわゆる”パンパン宿”=ご本人がそう言っていた)を開業していたというし、京浜急行の傍にある中原見守地蔵の墓誌には、ここにあった遮断機のない踏切で事故死した米兵の名前が刻まれています。

さらには、市電の終点、杉田電停の少し先にはカマボコ兵舎があり、そこの米兵が旧杉田劇場に入場料を払わずに勝手に入って困ったという話は「片山茂さんの聞き書き」にも記録されています。

(考えてみれば「横浜海軍航空隊(浜空)日本飛行機石川島航空工業」という海軍関係施設の玄関口だった杉田は、進駐軍にとって横浜で真っ先におさえるべき街のひとつだったのでしょうね)

 

かつて杉田駅東口にあった少々薄暗いアーケード街は、闇市からスタートしたそうです。戦災の被害を受けなかったことで、杉田の闇市は野毛などよりも先に営業していたそうですから、絵に描いたような戦後混乱期のカオス状態は、かなり早い時期からこの街に広がっていたのだと思われます。

明るく賑やかな商店街と瀟洒な住宅やマンションが並ぶ現在の杉田・中原からは想像もつきませんが、終戦直後のこの街には、多くの駐留軍(アメリカ兵)が闊歩していたのだろうし、彼らを相手にしたいわゆる「パンパンガール」もいたのだろうと思います。

そういう地に旧杉田劇場は開場したのです。

そこでは大高よし男が人気を博し、幼い美空ひばりがプロデューサー鈴村義二を驚嘆させ、近江二郎や市川門三郎が客席を沸かせ、若き日の千秋実が新しい劇団の旗揚げに燃えていたのです(ごく短期間だけど復員してきたばかりの三船敏郎も住んでいた)。

(まさにカオス…)


戦後の横浜といえば、すぐに野毛の闇市や関内・伊勢佐木町あたりのカマボコ兵舎が思い浮かびますが、それらよりも早く「戦後横浜」の空気と風景が杉田に展開していたのかもしれません。

この地の歴史を見る目をアップデートしなければならない気がしています。


ちなみに、浜中の『50周年記念誌』には「昭和25年3月第2回学芸会(杉田劇場)」というキャプションのついた写真が掲載されていますが、これは舞台のタッパ、客席と舞台の高低差(客席の子どもたちが膝をついて舞台にかぶりついている)からして、杉田劇場とは明らかに違う会場だと思います。

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より

昭和25年1月の杉田劇場

昭和27年の学芸会は杉田劇場でやっていて(『安寿と厨子王』)、その写真は残っています。


記念誌にある学芸会の会場は、劇場というより講堂や公民館のような感じで、もっと後年のものじゃないかと思うのですが。

どこなんだろう?

どなたかご存知の方がいたらぜひ教えてください。

→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(76) 【大進展!】大高よし男の写真!

このブログとリンクする形でX(旧Twitter)のアカウントがあるのですが、そちらへ作家・芸能史研究家の小針侑起さんからダイレクトメッセージをいただき、大高よし男の写真が掲載された京都三友劇場のパンフレットの画像を送っていただきました!

三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)

いくら探しても、いくら呼びかけても判明しなかった大高よし男の顔がこれで初めて明らかになったのです!(先日の講座でも終了後に参加者から「そんなに有名な人なのになんで写真がないの?」と詰問されました)。

見よ、彼が「大高よし男」だ!
(三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)より)

驚きと喜びと感謝しかありません!

地元の人の証言からは「いい男」「男前」「色男」との話しか出てこないので、どんな顔をしていたのかまったくわからなかったのが、これではっきりしたわけです!

パンフレットの中面には演目と出演者が掲載されていて、その内容から照合してみたところ、これは昭和17年4月の伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党の合同公演のパンフだということがわかりました!

三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)

『近代歌舞伎年表』京都篇 第10巻より

大高よし男が昭和16年の初旬に近江二郎一座から離れ、同年の秋から年末にかけて横浜敷島座で松園桃子一座に参加した後、昭和17年1月から4月まで伏見澄子一座に帯同していた時期、三友劇場での公演です(1月が川崎大勝座、2月が横浜敷島座、3月と4月が三友劇場)。

記録的には大高よし男が初めて伏見澄子一座に参加した興行ということになります。


このパンフには伏見澄子はもちろん、一座のベテラン宮崎角兵衛の写真もありますし、二見浦子(前名・石川静枝)の写真もあります。資料で名前だけを知っていた役者たちの「顔」が見えることで、世界がグッと近づいた気がします。

これを機に、新たな大高の写真が出てくることを期待するとともに、大高を通じて磯子の芸能史、横浜の芸能史、さらには美空ひばりの舞台デビューの経緯などがさらにはっきりすると、僕の続けているこの調査にも意味がでてくるのだろうと思います。


小針様、あらためて心よりありがとうございました!


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真が見つかると嬉しいです。

(75) じゃがいもコンビについて

大高一座(暁第一劇団)の新聞広告は昭和21年4月に2回、9月に2回、10月に3回掲載されています(うち2回、10月15日と22日のものは追善興行の告知)。

基本的には演目と劇団名が書かれているシンプルなものですが、9月24日と10月8日、10月15日の広告には「じゃがいもコンビ」(ないし「ぢやがいもコンビ」)の名前が登場します。

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

昭和21年10月8日付神奈川新聞より

昭和21年10月15日付神奈川新聞より

このコンビが何なのか、詳しいことがわからなかったので、長らく頭を悩ませていました。以前の投稿((18) 戦地か慰問団か)で、これが劇団員である「壽山司郎」のつくった劇団内ユニットではないかと推測しておりましたが、その後の調査で最近はこの推測がほぼ間違っていないだろうとの結論に至っています。


資料を調べていくと、壽山司郎(おそらく「ひさやましろう」か「すやましろう」)は、戦時中、日吉良太郎一座(日吉劇)に参加していたことがわかります。そちらでも3人組のユニットを組んで軽演劇や寸劇をやったり、時代劇などでも喜劇的な場面に出ていたものと考えられます。

昭和16年8月4日付の新聞では日吉劇の劇評の中では

「ちょっと出るだけの役だが、壽山司郎の親分萬吉の䑓詞廻しに味があつて、眼立つた」

とありますし

昭和16年8月4日付神奈川新聞より

昭和17年1月19日付の記事には

壽山司郎、人見二朗、大平正美の三人が、●に考案して創り上げた新時代に即應した『寸劇集』なのだが、これは●に面白い」

ともあります。

昭和17年1月19日付神奈川新聞より

日吉劇研究の基礎資料のひとつといっていい『郷土よこはま』No.115で、小柴俊雄さんがまとめられた横浜歌舞伎座の上演演目一覧中、昭和16年9月30日〜10月9日の欄に「機山司郎 人見二朗 大平正美加入」とあることからも、昭和16年の夏頃に壽山司郎が日吉良太郎一座に参加したと考えて間違いないでしょう(「機山」は原資料の誤植か「壽山」の転載間違いと思われます)。

『郷土よこはま』No.115(50ページ)より


昭和18年1月に日吉劇の若手人気俳優・朝川浩成が曾我廼家五郎一座に加入し「幸蝶」の芸名で五郎劇の舞台に立つのですが、この際、壽山司郎も五郎劇に出て「蝶山」を名乗っていた新聞記事をどこかで見た覚えがあります。

…が、資料の山から現物を見つけることができていないので(とほほ)、ひとまずの記憶として提示しておきたいと思います。

昭和18年2月8日付神奈川新聞より

さらには、以前にも紹介しましたが、戦争も末期に近い昭和19年2月「神奈川県芸能報国挺身隊」の公演では壽山司郎と想定される人物が漫談を披露しています。

昭和19年2月9日付神奈川新聞より

以上のことから、壽山司郎は日吉劇に関わる俳優で、ざっくりいえば喜劇俳優、もしくはお笑い芸人のような存在だったと考えられます。


美空ひばりが幕間に出たという杉田劇場のポスターにも壽山司郎の名前があるので、彼は初期段階から大高一座に参加しており、やはりコミカルな役を担当する俳優だったのだろうと思います。

昔取った杵柄とでもいうのでしょうか、夏頃に一座の中でユニットを組み「じゃがいもコンビ」の名前で軽演劇やコントのようなものをやり始めたと考えれられます。新聞広告にも名前が出るくらいだから、なかなかの人気だったのでしょうね。



大高の没後、劇団は座長を欠いたまま公演を続けますが、その際の広告にも「ジャガイモコンビ」の名前があることから、壽山司郎は大高亡き後の劇団の人気を支える存在だったのかもしれません。

昭和21年12月17日付神奈川新聞より

しかし、壽山の人気をもってしても劇団の凋落に歯止めは効かなかったようで、翌昭和22年10月にはとうとう弘明寺銀星座の専属「自由劇団」の広告に「壽山じゃがいも」の名前が登場することとなります(「おなじみの爆笑王」として)。

昭和22年10月14日付神奈川新聞より

おそらくこれをきっかけに、壽山は古巣・日吉良太郎一座のメンバーが大半を占める自由劇団に移籍することとなったと思われます(その後、自由劇団の座員連名〔広告の右欄〕の中に「壽山」が出るようになります)。

翌週の広告にも名前が出ますが、ここで上演されているのは、『娘アイドントノウ』という芝居で、実はこれは大高生前の暁第一劇団でも上演されている演目です。壽山の十八番だったのかもしれませんね(どんな芝居だったのだろう?)。

昭和22年10月21日付神奈川新聞より

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

ちなみに10月14日付の広告にある演目『應援團長の戀』は、映画『応援団長の恋』の舞台化だと思われます。

一方、杉田劇場で大高一座が上演した演目の中にも『応援団長』という作品があるのです(しかも壽山司郎が出ている)。


両者が同一なのか別物なのかは判断が難しいところですが、高峰秀子主演の『秀子の応援団長』という映画もあることから、大高一座が上演したのはこっちの舞台化(翻案)かなとも思っています。

ついでに言えば、10月24日付の広告の『兄と妹』は、銀星座の柿落としで近江二郎一座が上演した新派の名作です(室生犀星の『あにいもうと』の舞台化)。当たり前かもしれませんが、評判のいい作品は繰り返し上演されていたということなのでしょうし、著作権みたいなものもゆるゆるの時代だったのかな、なんて思います。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より(銀星座の柿落とし)

そんなこんなで、今回は大高一座のユニット「じゃがいもコンビ」と壽山司郎について考察してみました。


→つづく


【おまけ】先日、所用ついでに弘明寺を参拝しました。その際、本堂の写真を撮ってきたので、大高葬儀の写真と合成してみたら、奥の柱や開帳場(スロープ)前の石畳など、驚くほどピッタリでした。大高の葬儀が弘明寺で執り行われたことは間違いありませんね。

※葬儀は行わず、写真だけ撮ったという可能性も否定できませんが、葬儀後に写真撮影という方が自然な気はします。


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真が見つかると嬉しいです。