(81) 川上好子のこと

大高よし男の経歴を探るにあたって、近江二郎との関係が鍵になると思っているところですが、昭和14年以前の手がかりが見つからず難航は続いています。

そんなこんなで、今回も周辺情報から。

昭和16年4月23日から神奈川県新聞で「横濱に住む俳優群を語る(横濱演劇懇話會調)」という連載が始まります。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より


ここで取り上げられている俳優は以下の方々です(掲載順)。

市川団之助
市川升紅
石原美津男
市川新升
市川荒右衛門
市川茂々市
市川三蔵
大谷門二郎
澤村清之助
市川莚蔦
澤村訥美太郎
中村芝梅
市川島蔵(?)
市川蔦之助
市川荒子
市川筆之助
佐久間實
澤村訥紀十郎
静川君之助
林重四郎
北島晋也
牧野映二
生島波江
藤代朝子
岡田梅男
小金井秀夫
水の江城子
※川上好子
曾我廼家明石
五月信夫
静間■
嵐傳五郎
嵐ひろ子
市川コズエ
橋本梅蔵
中島三浦右衛門
佐藤幾之助
佐藤新十郎
荒井信夫
尾上梅代
三島啓介
松井幾人
松岡壽美子
中川清
青木俊二
池田富雄
市川三之助
佐上善行
澤村清枝
大江美智子
藤原かつみ
伊藤三千三
吾妻千恵子
大江美加(?)子
星十郎
関谷妙子
★近江二郎
★深山百合子
★衣川素子
勝川三次
★戸田史郎
尾上羽多丸
松本米世
青柳早苗
三井一枝
久松勝代


この中には当時、すでに引退している俳優も含まれていますが、昭和16年の段階でこれだけの役者が横浜に住んでいたというのは驚きです(記事中に「横浜歌舞伎座の日吉劇、敷島座の籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、実態としてはもっと多くなるはずです)。


それぞれの方の経歴も演劇史的には興味深いものばかりですが、それはいずれ別にまとめるとして、やはり気になるのはこの中に「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前がないことです。

戦前、戦中、戦後と、大高がどこに住んでいたのかはまったく不明です。戦後はさすがに杉田や弘明寺あたりにいただろうとは想像できますが、それ以前については手がかりがありません。

ただ、上記の記事に彼の名前がないことからすると、大高は横浜に住んでいなかったか、少なくともこの記事をまとめた小林勝之丞を含む横濱演劇懇話會のメンバーは、大高を「横浜の俳優」とは認識していなかったのだと考えていいでしょう。近江二郎や妻・深山百合子、子・衣川素子、弟・戸田史郎が載っているのですから(★印)、大高が近江二郎のように横浜在住の役者だと思われていたとしたら、ここに載っていておかしくないはずです。

前述の通り、記事には「籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、大高はその「別」に含まれているのかもしれませんが、籠寅がらみの役者が何人か掲載されているので、大高が掲載されていないのはちょっと不自然です。

(もっとも、この記事自体、戸田史郎の本名を「笠川四郎」としている点など(実際は「近江資朗」)、誤りも多そうなので、資料としての信憑性には若干の疑義があります)


前回の投稿でも言及しましたが、ここには「川上好子」が掲載されています(※印)。川上好子という名前は昭和10年の「復興博の女神」コンテストで7位に入選した日吉劇の女優として、また昭和15年に近江二郎一座と共演している(つまり大高と共演している)一座の座長として記録がありますが、この両者が同一人物なのかはよくわかりませんでした。


ですが、復興博の女神コンテストの翌年、昭和11年1月に横浜貿易新報に掲載された「熱と力の俳優『日吉』を語る」という座談会記事の中で

北林(透馬)「『男は泣かぬ』に出てゐる、川上好子、あれは巧いですね」
小林(勝之丞)「横濱で生れた優です」

と言及されていることから、川上好子はもともと日吉一座にいたのが、独立して女剣劇の一座を成したのだと考えて間違いなさそうです。

1935(昭和10)年1月23日付横浜貿易新報より


大高一座に参加していた生島波江も同じような経過をたどっているように思われますが、全国的な知名度の上では川上好子の方がはるかに上だったようで、以前にも紹介した通り、木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)に人気の女剣劇座長として写真が掲載されています。復興博の女神に入選した昭和10年から、昭和15年までの間に川上好子は日吉劇から独立したのでしょう。

昭和15年に敷島座で近江一座と共演した川上は、その後もしばらくは近江一座と行動を共にしています。大高の足跡は近江一座だけでなく、川上一座に刻まれている可能性も否定できません。その前後の川上好子の動向を調べることも、手がかりになりそうです。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(80) 復興博の女神

関東大震災からの復興をアピールする目的で、昭和10年3月26日から5月24日まで、山下公園を中心に「復興記念横浜大博覧会」という催しが開かれます。

これに先駆けて新聞社の「横浜貿易新報」が「復興博の女神」という、ミスコンみたいなことをやったそうです。そのことは小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』に書かれていたので、以前から情報としては知っていました。


先日、図書館で当時の新聞を閲覧してみたところ、これが想像以上に大きな扱いで(自社が主催しているのだから当然ですが)、しかも連日、過熱報道と言えるほどの記事が並んでいて、かなり驚かされました。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より

このコンテストは新聞に投票用紙が掲載されていて、読者がこれぞという女性に投票し、1ヶ月間の得票数で順位が決まるというものでした。ですから、審査員が1位を決めるようなミスコンとはちょっと毛色が異なり、人気投票のようなものだったのでしょう。対象も一般人ではなく、芸妓やカフェの女給などだったようです(いまと違って一般女性がそういう対象になるという概念がなかったのでしょうね)。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より
(投票用紙の横にいま朝ドラで話題の「明治大学女子部」の広告がある)

復興博の女神に選ばれると

  • 当選者30名を「復興博女神」として、横浜貿易新報社特製の帯留を贈呈
  • 1位〜5位には訪問着を贈呈
  • 当選者30名を新聞1ページのグラビアで紹介する
  • 復興博期間中に開催する「商工祭」の仮装行列で花車を作る

という特典があったそうです。賞品云々というより、新聞に写真が掲載されたり、仮装行列に出たりと、選ばれた人たちからすれば自分自身や店の宣伝の方が目的だったことでしょう。


演劇研究家である小柴さんがこれを取り上げている理由は、「復興博の女神」で第1位になったのが日吉劇の看板女優「花柳愛子」だったからです。

花柳愛子は座長・日吉良太郎の妻でもあり、コンテストにおいては日吉一座がかなり強力にバックアップ、というか組織票の取りまとめみたいなことをやったような気がします。そもそも女優が選ばれること自体、顔ぶれの中ではかなり異色だし、当初低迷していた花柳愛子の順位が急激に上がってくるのも、不自然と言えば不自然な感じがするところです。

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より


とはいえ、そもそもが人気投票という性格のものですから、組織票ではあってもそれだけの票を集めることが人気の証しなのでしょうし、これが日吉一座としては絶好の宣伝機会になったことでしょう。こういうものに目をつけるあたり、日吉良太郎の興行師としてのしたたかな戦略を感じさせます。

ともあれ日吉劇の看板女優はめでたく第1位を獲得したわけで、開票の翌日には日吉良太郎と敷島座(当時の日吉劇の拠点)の連名で当選御礼の広告が出ています。

昭和10(1935)年3月28日付横浜貿易新報より


実は、大高よし男を調べている僕としては、花柳愛子もさることながら、同時入選している「川上好子」の方が気になるのです(日吉劇団からは二人の女優が選ばれた)。

というのも、大高よし男が高杉弥太郎として近江一座とともに横浜敷島座に登場した時の座組が、酒井淳之助一座に近江二郎一座と川上好子一座が特別加盟した合同公演という形だったからです。

昭和15(1940)年3月7日付横浜貿易新報より

この時の川上好子と日吉劇にいた川上好子が同一人物なのか、はっきりしませんが、別の記事には「横浜の名花」と形容されていますし、さらに後年の記事では横浜在住の俳優として紹介されているので、川上好子はもともと日吉劇にいたのが、独立して一座を成したと考えるのが妥当な気はします(この時は「籠寅演芸部専属」となっています)。

昭和16(1941)年4月26日付神奈川県新聞より

同じ舞台で共演していることからして、当然、川上と大高は知り合いだったと考えられます。川上好子が日吉劇にいたとすれば、戦後の大高一座に日吉劇のメンバー(藤川麗子・生島波江・壽山司郎)が参加した経緯に、川上の存在が何らかの形で影響したのかもしれません。

そんなことも含めて、川上好子の詳しいプロフィールや、大高よし男との関わりについても、もう少し深く調べてみる必要がありそうです。


余談ですが、復興博の女神・花柳愛子は本名を「北村きく」といい(日吉良太郎の本名は北村喜七)、1985年、横浜市中区役所が『中区史』を発刊する際、彼女は資料提供や聞き取り調査で協力をしていました。

『中区史』より資料提供者リスト(一部)


『中区史』には花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されているほか、日吉一座が拠点としていた横浜歌舞伎座の写真も載っています。

『中区史』より横浜歌舞伎座

掲載されている横浜歌舞伎座の写真をよく見ると、入口の看板には

「兄妹の心」
「何が彼女を殺した?」
「血達磨伝令兵」

の三演目が掲げられていて、これを小柴さんのまとめた資料(『郷土よこはま』No.115)と照らし合わせると、撮影されたのは、日吉一座が横浜歌舞伎座に初お目見得して数ヶ月後、昭和13年10月7日から13日の間だとわかりました。

写真の奥には劇場前に自転車が並んでいるのが写っています。また、その前の壁面には「演劇報国」という字が大きく書かれているように見えます。「演劇報国」は日吉一座のモットーで、こんなふうに劇場前に掲げていたのかと思うと、やはり時代を感じさせるところですね。


『中区史』に載っているこの写真は、残念ながら市立図書館のデジタルアーカイブでは公開されていないようで、原本がちゃんと保管されているのかどうかいささか心配になります。


→つづく


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(79) 中野かほると市川門三郎と美空ひばりと

大高よし男の調査は昭和14年、つまり大高よし男が前名・高杉彌太郎の名前で横浜敷島座に登場する前の年、その近江二郎一座の動向を探ることに専念していますが、これがどうにもわからない。『都新聞』の芸界往来に記載がないのは、一座が活動を休止していたか、もしくは東京や大阪、京都、名古屋といった都市部とは違うところで活動していたかのどちらかではないかと考えられます。

というわけで、まとまった報告も難しい時期ではありますが、更新が滞ってもいけないので、今回は地元磯子と芸能の関わりなどを簡単に。


磯子と芸能といえば第一に挙げられるのは「美空ひばり」です。彼女のデビューについては諸説あって、「アテネ劇場」や「上大岡の銭湯」(大見湯、のちに大見劇場に改装)などとも言われていて、特にアテネについてはあちこちの本で書かれていますが、昭和21年4月10日の杉田劇場の広告に「美空一枝」の名前があることから、同年9月開場のアテネ劇場でデビューというのは確実に誤りだと言えます(そのことについて最新の考察が杉田劇場のブログにあります→こちら)。

それ以前に、滝頭の祭りの櫓で歌ったとか、岡村天満宮の神楽殿で歌ったとか、杉田商店街の和菓子屋(菓子一)の店先でみかん箱に乗って歌ったというような話や、緑区中山にある神社の祭礼の時に歌ったなどという話もあるようですが、どれも「デビュー」と言っていいか微妙な線です。

少なくとも舞台のある劇場やホールで初めて歌ったのは旧杉田劇場、というのが地域史を研究されている方々の中では定説です。

美空ひばり(浅草公会堂・スターの手形)

いうまでもなく大高一座(暁第一劇団)の幕間がそれに当たるわけですが、開場当初の杉田劇場に出演していた人たちが後年、映画などで美空ひばりと共演している例が結構あって、大高サイドから調べている身としては、不思議な縁も感じてしまうところです。


大高よし男の追善興行に、当時は芸能界を離れていたとされる中野かほるが出演したことは以前も書きましたし、大高の葬儀の写真に写っているのが中野かほるではないかという仮説も何度かお伝えしています。彼女のプロフィールを調べると、1962(昭和37)年の『三百六十五夜』を最後に引退、とあります。実はこの映画について詳しく調べていませんでしたが、先日、確認したところ、なんと主演が美空ひばりだということに気づきました。

大高よし男と縁のある二人が映画で共演していたということになるわけです(ちょっと強引だけど)。


また、杉田劇場で大高よし男と同時期、さらにその後も頻繁に興行していた市川門三郎は、これまた有名な話ですが、『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』で雪之丞の師・菊之丞役として美空ひばりと共演しています。

さらには、ひばり親子が杉田劇場にやってくる前、昭和21年1月に「かもしか座」の一員として杉田の舞台に立った片山明彦は後年『伊豆の踊り子』で共演します。


杉田劇場と直接の縁はありませんが、横浜出身の女剣劇役者・大江美智子も『大江戸千両囃子』でひばりと共演していますし、杉田劇場のすぐ近く、磯子区中原出身の黒川弥太郎はコマ劇場での特別公演に常連といってもいいほど出演しています。

大江美智子(浅草公会堂・スターの手形)

以前、劇団若獅子の笠原章さんに伺ったところ、黒川弥太郎は喜美枝さんに大変気に入られていたようです。もちろん彼の芸や人柄があってのことでしょうが、同じ磯子区出身というのもどこかで喜美枝さんの思いの中にあったのじゃないかと、いささか地元贔屓の推測もしてしまうところです。


磯子出身者といえば美空ひばりのほかにも、最近では岡村出身のゆずも有名ですし、向井理、井上真央といった若手俳優、EXILEのHIRO、今年生誕100年を迎える高峰秀子の夫・松山善三が磯子区岡村出身だったり、先年亡くなった田中邦衛が長く磯子台に住んでいたことも地元ではよく知られています(浜中裏のバッティングセンターに「田中邦衛」の名前が書いてあることは都市伝説のように伝わっています:こちら)。

田中邦衛(浅草公会堂・スターの手形)

渥美清が杉田劇場の舞台に立ったという話は、裏付けが取れないのでペンディング状態ですが、1970年代の週刊誌上で近江二郎一座と森野五郎一座にいたとあることから、この両劇団が杉田劇場に来演した際、渥美清が座員であったことが判明すれば、渥美清も杉田の舞台に立ったということになります。

Wikipediaなどで渥美清のプロフィールを見ると「新派の軽演劇の幕引き」とありますから、新派を自認していた近江二郎の方が可能性は高いように思います。

近江二郎の養子であった元子さん(芸名・衣川素子)の手紙でも近江二郎一座に渥美清(手紙では「書生田所」とあります)が所属していたと記録されているので、近江二郎一座にいたことは間違いなさそうです。ただ、近江二郎一座が杉田劇場の舞台に立ったのは、昭和21年1月26日からの10日間と同年5月1日からの10日間の計20日間。この時期に渥美清が座員であればいいのですが、彼の68年の人生の20日間です。杉田にいたというのはかなり奇跡的な偶然になるかもしれません。


そんなこんなで、大高よし男を通じて、地元の歴史を掘り起こしているうちに、磯子は芸能の街なんだという思いを強くするこの頃です。

(「いそご芸能史マップ」みたいなのを作ってもいいのかしらん)


→つづく


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〔番外〕 川村禾門と葡萄座

今回は番外編。

このブログでも何度か紹介したと思いますが、堀川惠子著『戦禍に生きた演劇人たち』は、広島で被爆した移動劇団「桜隊」の悲劇をつぶさに取材した本で、戦時中の新劇「受難史」として、当時の演劇状況がよく理解できる名著です。

この本は、桜隊に参加して被爆死した女優森下彰子と、その夫でやはり俳優の川村禾門のエピソードを軸に組み立てられていて、新婚の夫妻が交わした手紙は、幸福な若い夫婦とそれを引き裂く戦争の残酷さを物語る貴重な資料となっています。

晩年の川村禾門を描く最終章のエピソードも胸を打つもので、多くの読者が「川村禾門」という名前を記憶に刻んだことだろうと思います。


そんな中、先日、旧杉田劇場のことを調べようと、横浜でもっとも歴史のあるアマチュア劇団「葡萄座」の創立50周年記念誌『年輪』(1997年刊)を開いていたら、なんと第50回記念公演『楢山節考』(1963)のキャストの中に、見覚えのある「川村禾門」の名前を発見したのです。

葡萄座創立50周年記念誌『年輪』より

同姓同名の別人かとも思いましたが、それにしては偶然が過ぎます(こういう名前の人はそうそういないでしょう)。そこで『戦禍に生きた演劇人たち』を読み返してみたところ、こう書いてあるではありませんか。

「大映を解雇された禾門は、その後、松竹に拾われて何とか大部屋俳優に留まった」(P.352)

そうか!

葡萄座の座長だった山本幸栄さんは松竹の大部屋にいましたし、劇団員の羽生昭彦さんも大部屋俳優で『男はつらいよ』ではタコ社長の下で働く印刷工役を長くやっていました。葡萄座にしばしば客演していた城戸卓さんも同じく松竹の役者さんで、その縁を考えれば「あの」川村禾門が葡萄座の舞台に立っていたとしてもまったくおかしくないわけです。

『年輪』には「フラッシュ、バックの記」と題した川村禾門のコメントも掲載されていて、そこには昭和11年にできた「川崎協同劇団」(京浜協同劇団とは別団体らしい)に参加していたと書いてあるので、神奈川のアマチュア演劇とはかなり近いところにいた人なんだということもわかりました。

『戦禍に生きた演劇人』には昭和15年に日活に入所した川村禾門の「感想文」の引用で

「職業を転々替え乍ら、素人劇団で勉強を続けてきた僕にとっては」(P.203)

とあり、この素人劇団が「川崎協同劇団」であると考えて間違いないでしょう。

葡萄座創立50周年記念誌『年輪』より

また、上の画像の冒頭にもある通り、川村禾門は杉田劇場で葡萄座が上演した真船豊『見知らぬ人』(1947年8月29日〜31日)を見ているのです。おそらく葡萄座が杉田で行った公演には、ほぼ毎回足を運んでいただろうとも思われます(神谷量平『ヴォルガ・ラーゲリ』についての言及もある)。※葡萄座公演『見知らぬ人』については杉田劇場のブログにも記載があります


どうやら葡萄座と川村禾門には深い関わりがありそうだと、僕の劇団に所属している森さん(森邦夫さん=元・葡萄座座員)に「川村禾門って知ってる?」と尋ねてみたところ、「知ってるよ。カモンちゃんね」との返事! 年齢は森さんの方がかなり下だけど、「ちゃん」付けで呼ぶほどの関係だったようです(後日、写真を確認してもらったら「確かにこの人」と言っていました)。

森さんによれば、「カモンちゃん」は横浜で飲み屋をやっていたとかで、何度かそのお店にいったこともあるそうです(『戦禍に生きた演劇人たち』の中では「その後は、パン屋の仕事やホテルのフロント業で生計を立てながら」(P.353)とありますので、川村禾門本人ではなくご家族がやっていたのかもしれません)。


川村禾門は稲垣浩監督の映画『無法松の一生』(1943)に出演しています。阪東妻三郎演じる「松五郎」から「ぼんぼん」と呼ばれて愛された吉岡大尉の遺児「吉岡敏郎」の青年時代を川村禾門が演じているのです(幼少時は澤村アキヲ=のちの長門裕之)。

『戦禍に生きた演劇人たち』が川村禾門を取り上げるのには理由があって、夫人の森下彰子とともに、広島の原爆で亡くなったのが、『無法松の一生』で松五郎が思慕する吉岡夫人役を演じた園井恵子だからです。園井恵子と川村禾門が『無法松の一生』でつながっていたという奇縁もカギのひとつになっているわけです。


森さんに話を聞いても「カモンちゃん」が『無法松』に出演していたことは知らなかったそうで、戦後、そういうことを周囲には話さずに過ごしてきたのかもしれません(もっとも森さんがそういうことに興味を持つタイプではないというのもあるのですけどね)。


横浜の演劇史は実は東京や日本全国の演劇史からすると「スピンオフ」みたいな存在なのかな、と最近はよく思います。

今回、知られざる意外なつながりがあることを痛感させられました。あらためて深く調べ直して、いまのうちに話を聞ける人には聞いておかないと、貴重な歴史が誰にも知られず埋もれてしまう気がしています。

ついでの余談ながら、以前も書いた通り、横浜演劇研究所が発行していた機関紙「よこはま演劇」には、武田正憲と加藤衛所長の対談が掲載されています。

機関紙「よこはま演劇」No.5(1954) より

武田正憲といえば文芸協会や芸術座で島村抱月や松井須磨子と一緒に活動していた人物で、溝口健二監督の『女優須磨子の恋』では「役名」として登場するほどの人です(演じたのは千田是也)。※『よこはま演劇』では“「生きている演劇史」的存在”と書かれている

また、この対談が行われた日は昭和29年4月4日夜、場所は「加藤研究所長宅」とあります。当時、加藤衛さんは磯子区中原に住んでいたはずなので、“生きている演劇史”の武田正憲も杉田の地を訪れていたということになります(いささか強引な地元贔屓ですが…)。

これもかなりレアな記録なんじゃないかと思います。


→つづく

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(78) 銀星座と日吉良太郎について

大高よし男の顔がわかったことで、足跡探しも一気に前進、と行きたいところですが、なかなかそうは問屋が卸さないところがこういう調査の醍醐味(?)でして。

昭和15年3月の横浜敷島座で近江二郎一座に参加する以前の活動がまったくわからず、探索はすっかり停滞しています。昭和13年10月末まで、近江二郎一座が名古屋宝生座で興行していることがわかっているので、目下、その後の近江一座の足取りを『都新聞』の「芸界往来」欄などから調べているところですが、難航しています。

昭和13年10月以前の近江一座には大高よし男(高杉弥太郎)はいないと思われるので、同年11月から昭和15年2月までの間のどこかで、大高は近江一座に参加することとなるわけで、その時期の特定と記録が見つかれば、壁が突破できるはずです。


そんなこんなで、戦前の調査が行き詰まれば、戦後の調査に移行せざるをえない。というわけで、図書館に行くたびに戦後の神奈川新聞を1か月ずつ調べているところです。

そんな中、昭和22年11月25日付の神奈川新聞に掲載された銀星座(弘明寺)の広告に、興味深い名前を見つけました。

日吉良太郎

です。(日吉良太郎については以前の投稿を参照してください。ただしその投稿には若干の誤りがあって、出身地は岐阜県の神戸町のようですし、弁士だったというのもちょっとあやふやな情報です)

昭和22年11月25日付神奈川新聞より

この広告によれば、銀星座専属の自由劇団が、大岡警察署刑事部長・桑名甲子次原作による防犯劇を上演するにあたって、脚色を日吉良太郎が担当しているというのです。

僕が調べた範囲では、戦後、新聞に日吉良太郎の名前が登場するのはこれが初めてです。


戦前・戦中と横浜で絶大な人気を誇り、末吉町にあった横浜歌舞伎座で6年半も連続興行を続けた日吉良太郎一座ですが、小柴俊雄さんが『郷土よこはま』(No.115)に寄稿した論文によれば

「太平洋戦争が急迫して来て、享楽追放で公演ができなくなる」(同書 P.60)

という事態に追い込まれます。

また同氏の『横浜演劇百四十年ーヨコハマ芸能外伝ー』には

「戦後、日吉良太郎は活動の場がなくなって一座を解散。日吉も昭和二十六年八月に六十四歳で死去した」(同書 P.60)

ともあります。

日吉一座と座長の日吉良太郎は終戦とともに消えていったということになります。

ですが、僕は銀星座専属・自由劇団のメンバーの大半が日吉一座の元座員であることからして、その背後に(顧問や参与といった立場で)日吉良太郎がいたんじゃないかと推測しているのです。


銀星座は杉田劇場に遅れること3ヶ月、昭和21年3月23日に弘明寺商店街、観音橋のたもとに開場します。何度も書いている通り、柿落としは近江二郎一座で、5月末まで近江一座の興行が続きます。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より


その後の銀星座は、旧杉田劇場と同様、演劇や演芸、歌謡などさまざまな企画で、娯楽に飢えていた市民のニーズに応えていました。

昭和21年6月10日付神奈川新聞より

昭和21年6月12日付神奈川新聞より

それが昭和21年8月に専属の自由劇団(当初は「横浜自由座」)が誕生してからは、自由劇団の公演を中心にプログラムが組まれていくようになります。自由劇団の興行がいつまで続いたのかは、まだ調査ができていませんが、昭和24〜5年くらいまではやっていたように思われます。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より 横浜自由座初登場の広告

連続興行ができるくらいですから、自由劇団の人気は相当に高かったものと想像できます。その人気にあやかってか、昭和22年1月には美空和枝(のちの美空ひばり)が銀星座の舞台、自由劇団の幕間に登場するのです。

昭和22年1月14日付神奈川新聞より

以前投稿したように((75) じゃがいもコンビについて)、日吉一座に参加していて、戦後、大高一座の座員だった壽山司郎も昭和22年10月頃から自由劇団に参加するようになり、戦前の日吉一座を知る当時の人からすれば、自由劇団=日吉一座とも見えたことでしょう。2年弱のブランクを経て、日吉一座が銀星座で復活したと感じた人もいたはずです。


あくまでも僕の推測ですが、戦中は「愛国劇」の旗印を掲げて、国策に準じるような芝居を盛んに上演していた日吉良太郎ですから、戦後、戦犯訴追を恐れて身を潜めていたのかもしれません。

小幡欣治著『評伝菊田一夫』によれば、菊田一夫も戦犯訴追を懸念して、GHQに執筆を続けていいのかという問い合わせまでしていたそうですから(同書 P.144)、日吉良太郎の心中にもそんな恐れがあったとしておかしくはありません。訴追や裁判の方向が見極められるまで表立った活動を控えようとしていた可能性は否定できません。

(もっとも、そのわりに昭和22年の電話帳(横浜中央電話局「電話番號簿」昭和二十二年四月一日現在)には日吉の本名「北村喜七」がしっかり掲載されていて、職業欄には「俳優」と書かれているのですから、戦犯云々は推測の域を出ませんが…)


いずれにしても、戦後、長らく報じられることのなかった日吉良太郎の名前が、終戦から1年以上経ったこの日になってようやく登場したこと、しかもあれだけの人気を誇った座長が、座員たちと同程度のフォントで印字されていることには、あえて目立たぬようしたのか、なんらかの背景があると感じられてなりません。


ちなみに、日吉良太郎も近江二郎も井土ヶ谷に住んでいました。日吉良太郎は井土ヶ谷中町、近江二郎は戦後は通町のあたりだったようです(ご親族のお話による)。どちらも最寄りの電停(市電)から弘明寺まで乗り換えなしに行けたはずです。

同じ地区に住む二人の座長が、横浜を拠点にしながら、杉田劇場や銀星座を足がかりに、戦後の新たな演劇界を生き抜いていこうと奮闘していた姿が見えてくるようです。

しかし

昭和24年5月29日 近江二郎没
昭和25年3月 杉田劇場、実質的な閉場
昭和26年8月 日吉良太郎没
昭和27年11月 銀星座、休場(のちに改装されて映画館=有楽座となる)

戦争が終わって、さあこれから、と戦前・戦中の横浜演劇界を支えた両雄が、杉田と弘明寺の地にあげた復興の狼煙は、この時期、立て続けに消えていったわけです。

そしてそのバトンを継ぐかのように、美空ひばりの全国的な人気が高まっていくのは、時代の替わり目を目の当たりにするようで、感慨深いものがあります。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(77) 終戦直後の杉田と浜中学校

大高よし男の写真を目にすることができて、興奮のあまり根拠のない妄想が膨らむ悪い癖が始まりそうですが、ここはひとつ冷静にならねばと、「大きな誤り」の原因となった浜中学校の学芸会写真の詳細を探るべく、中央図書館で『浜中学校創立50周年記念誌』を閲覧してきました。

結果として学芸会の詳細はわかりませんでしたが、学校建設の経緯を記した文章にハッとさせられました。

曰く

「浜中学校下の長作公園には、もと日本飛行機株式会社の社員寮が、四棟あった。終戦となり、昭和二十年八月以降、進駐軍が接収し、第八軍MP部隊が利用していた。昭和二十二年十二月この土地を国鉄が買収(中略)学校用地を提供することになり、ここに浜中学校の校地が定まったのである」

 終戦直後、浜中のあったところには進駐軍がいたのです!

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より
(昭和50年代半ばに僕が通っていた当時もまだこの校舎があった)

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より
(僕が通っていた当時もあって「国鉄寮」と呼んでいた)

おそらく日本飛行機の寮を接収して米軍の兵舎に転用したのでしょう。

以前、中原の古老に話を聴いた折には、杉田駅西口にあったIHIの寮にも米兵がいたそうだし(おそらく石川島の寮を転用)、白旗に住む女性は自宅で米兵向けの慰安所(いわゆる”パンパン宿”=ご本人がそう言っていた)を開業していたというし、京浜急行の傍にある中原見守地蔵の墓誌には、ここにあった遮断機のない踏切で事故死した米兵の名前が刻まれています。

さらには、市電の終点、杉田電停の少し先にはカマボコ兵舎があり、そこの米兵が旧杉田劇場に入場料を払わずに勝手に入って困ったという話は「片山茂さんの聞き書き」にも記録されています。

(考えてみれば「横浜海軍航空隊(浜空)日本飛行機石川島航空工業」という海軍関係施設の玄関口だった杉田は、進駐軍にとって横浜で真っ先におさえるべき街のひとつだったのでしょうね)

 

かつて杉田駅東口にあった少々薄暗いアーケード街は、闇市からスタートしたそうです。戦災の被害を受けなかったことで、杉田の闇市は野毛などよりも先に営業していたそうですから、絵に描いたような戦後混乱期のカオス状態は、かなり早い時期からこの街に広がっていたのだと思われます。

明るく賑やかな商店街と瀟洒な住宅やマンションが並ぶ現在の杉田・中原からは想像もつきませんが、終戦直後のこの街には、多くの駐留軍(アメリカ兵)が闊歩していたのだろうし、彼らを相手にしたいわゆる「パンパンガール」もいたのだろうと思います。

そういう地に旧杉田劇場は開場したのです。

そこでは大高よし男が人気を博し、幼い美空ひばりがプロデューサー鈴村義二を驚嘆させ、近江二郎や市川門三郎が客席を沸かせ、若き日の千秋実が新しい劇団の旗揚げに燃えていたのです(ごく短期間だけど復員してきたばかりの三船敏郎も住んでいた)。

(まさにカオス…)


戦後の横浜といえば、すぐに野毛の闇市や関内・伊勢佐木町あたりのカマボコ兵舎が思い浮かびますが、それらよりも早く「戦後横浜」の空気と風景が杉田に展開していたのかもしれません。

この地の歴史を見る目をアップデートしなければならない気がしています。


ちなみに、浜中の『50周年記念誌』には「昭和25年3月第2回学芸会(杉田劇場)」というキャプションのついた写真が掲載されていますが、これは舞台のタッパ、客席と舞台の高低差(客席の子どもたちが膝をついて舞台にかぶりついている)からして、杉田劇場とは明らかに違う会場だと思います。

『浜中学校50周年記念誌』(1997)より

昭和25年1月の杉田劇場

昭和27年の学芸会は杉田劇場でやっていて(『安寿と厨子王』)、その写真は残っています。


記念誌にある学芸会の会場は、劇場というより講堂や公民館のような感じで、もっと後年のものじゃないかと思うのですが。

どこなんだろう?

どなたかご存知の方がいたらぜひ教えてください。

→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(76) 【大進展!】大高よし男の写真!

このブログとリンクする形でX(旧Twitter)のアカウントがあるのですが、そちらへ作家・芸能史研究家の小針侑起さんからダイレクトメッセージをいただき、大高よし男の写真が掲載された京都三友劇場のパンフレットの画像を送っていただきました!

三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)

いくら探しても、いくら呼びかけても判明しなかった大高よし男の顔がこれで初めて明らかになったのです!(先日の講座でも終了後に参加者から「そんなに有名な人なのになんで写真がないの?」と詰問されました)。

見よ、彼が「大高よし男」だ!
(三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)より)

驚きと喜びと感謝しかありません!

地元の人の証言からは「いい男」「男前」「色男」との話しか出てこないので、どんな顔をしていたのかまったくわからなかったのが、これではっきりしたわけです!

パンフレットの中面には演目と出演者が掲載されていて、その内容から照合してみたところ、これは昭和17年4月の伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党の合同公演のパンフだということがわかりました!

三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)

『近代歌舞伎年表』京都篇 第10巻より

大高よし男が昭和16年の初旬に近江二郎一座から離れ、同年の秋から年末にかけて横浜敷島座で松園桃子一座に参加した後、昭和17年1月から4月まで伏見澄子一座に帯同していた時期、三友劇場での公演です(1月が川崎大勝座、2月が横浜敷島座、3月と4月が三友劇場)。

記録的には大高よし男が初めて伏見澄子一座に参加した興行ということになります。


このパンフには伏見澄子はもちろん、一座のベテラン宮崎角兵衛の写真もありますし、二見浦子(前名・石川静枝)の写真もあります。資料で名前だけを知っていた役者たちの「顔」が見えることで、世界がグッと近づいた気がします。

これを機に、新たな大高の写真が出てくることを期待するとともに、大高を通じて磯子の芸能史、横浜の芸能史、さらには美空ひばりの舞台デビューの経緯などがさらにはっきりすると、僕の続けているこの調査にも意味がでてくるのだろうと思います。


小針様、あらためて心よりありがとうございました!


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真が見つかると嬉しいです。

(75) じゃがいもコンビについて

大高一座(暁第一劇団)の新聞広告は昭和21年4月に2回、9月に2回、10月に3回掲載されています(うち2回、10月15日と22日のものは追善興行の告知)。

基本的には演目と劇団名が書かれているシンプルなものですが、9月24日と10月8日、10月15日の広告には「じゃがいもコンビ」(ないし「ぢやがいもコンビ」)の名前が登場します。

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

昭和21年10月8日付神奈川新聞より

昭和21年10月15日付神奈川新聞より

このコンビが何なのか、詳しいことがわからなかったので、長らく頭を悩ませていました。以前の投稿((18) 戦地か慰問団か)で、これが劇団員である「壽山司郎」のつくった劇団内ユニットではないかと推測しておりましたが、その後の調査で最近はこの推測がほぼ間違っていないだろうとの結論に至っています。


資料を調べていくと、壽山司郎(おそらく「ひさやましろう」か「すやましろう」)は、戦時中、日吉良太郎一座(日吉劇)に参加していたことがわかります。そちらでも3人組のユニットを組んで軽演劇や寸劇をやったり、時代劇などでも喜劇的な場面に出ていたものと考えられます。

昭和16年8月4日付の新聞では日吉劇の劇評の中では

「ちょっと出るだけの役だが、壽山司郎の親分萬吉の䑓詞廻しに味があつて、眼立つた」

とありますし

昭和16年8月4日付神奈川新聞より

昭和17年1月19日付の記事には

壽山司郎、人見二朗、大平正美の三人が、●に考案して創り上げた新時代に即應した『寸劇集』なのだが、これは●に面白い」

ともあります。

昭和17年1月19日付神奈川新聞より

日吉劇研究の基礎資料のひとつといっていい『郷土よこはま』No.115で、小柴俊雄さんがまとめられた横浜歌舞伎座の上演演目一覧中、昭和16年9月30日〜10月9日の欄に「機山司郎 人見二朗 大平正美加入」とあることからも、昭和16年の夏頃に壽山司郎が日吉良太郎一座に参加したと考えて間違いないでしょう(「機山」は原資料の誤植か「壽山」の転載間違いと思われます)。

『郷土よこはま』No.115(50ページ)より


昭和18年1月に日吉劇の若手人気俳優・朝川浩成が曾我廼家五郎一座に加入し「幸蝶」の芸名で五郎劇の舞台に立つのですが、この際、壽山司郎も五郎劇に出て「蝶山」を名乗っていた新聞記事をどこかで見た覚えがあります。

…が、資料の山から現物を見つけることができていないので(とほほ)、ひとまずの記憶として提示しておきたいと思います。

昭和18年2月8日付神奈川新聞より

さらには、以前にも紹介しましたが、戦争も末期に近い昭和19年2月「神奈川県芸能報国挺身隊」の公演では壽山司郎と想定される人物が漫談を披露しています。

昭和19年2月9日付神奈川新聞より

以上のことから、壽山司郎は日吉劇に関わる俳優で、ざっくりいえば喜劇俳優、もしくはお笑い芸人のような存在だったと考えられます。


美空ひばりが幕間に出たという杉田劇場のポスターにも壽山司郎の名前があるので、彼は初期段階から大高一座に参加しており、やはりコミカルな役を担当する俳優だったのだろうと思います。

昔取った杵柄とでもいうのでしょうか、夏頃に一座の中でユニットを組み「じゃがいもコンビ」の名前で軽演劇やコントのようなものをやり始めたと考えれられます。新聞広告にも名前が出るくらいだから、なかなかの人気だったのでしょうね。



大高の没後、劇団は座長を欠いたまま公演を続けますが、その際の広告にも「ジャガイモコンビ」の名前があることから、壽山司郎は大高亡き後の劇団の人気を支える存在だったのかもしれません。

昭和21年12月17日付神奈川新聞より

しかし、壽山の人気をもってしても劇団の凋落に歯止めは効かなかったようで、翌昭和22年10月にはとうとう弘明寺銀星座の専属「自由劇団」の広告に「壽山じゃがいも」の名前が登場することとなります(「おなじみの爆笑王」として)。

昭和22年10月14日付神奈川新聞より

おそらくこれをきっかけに、壽山は古巣・日吉良太郎一座のメンバーが大半を占める自由劇団に移籍することとなったと思われます(その後、自由劇団の座員連名〔広告の右欄〕の中に「壽山」が出るようになります)。

翌週の広告にも名前が出ますが、ここで上演されているのは、『娘アイドントノウ』という芝居で、実はこれは大高生前の暁第一劇団でも上演されている演目です。壽山の十八番だったのかもしれませんね(どんな芝居だったのだろう?)。

昭和22年10月21日付神奈川新聞より

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

ちなみに10月14日付の広告にある演目『應援團長の戀』は、映画『応援団長の恋』の舞台化だと思われます。

一方、杉田劇場で大高一座が上演した演目の中にも『応援団長』という作品があるのです(しかも壽山司郎が出ている)。


両者が同一なのか別物なのかは判断が難しいところですが、高峰秀子主演の『秀子の応援団長』という映画もあることから、大高一座が上演したのはこっちの舞台化(翻案)かなとも思っています。

ついでに言えば、10月24日付の広告の『兄と妹』は、銀星座の柿落としで近江二郎一座が上演した新派の名作です(室生犀星の『あにいもうと』の舞台化)。当たり前かもしれませんが、評判のいい作品は繰り返し上演されていたということなのでしょうし、著作権みたいなものもゆるゆるの時代だったのかな、なんて思います。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より(銀星座の柿落とし)

そんなこんなで、今回は大高一座のユニット「じゃがいもコンビ」と壽山司郎について考察してみました。


→つづく


【おまけ】先日、所用ついでに弘明寺を参拝しました。その際、本堂の写真を撮ってきたので、大高葬儀の写真と合成してみたら、奥の柱や開帳場(スロープ)前の石畳など、驚くほどピッタリでした。大高の葬儀が弘明寺で執り行われたことは間違いありませんね。

※葬儀は行わず、写真だけ撮ったという可能性も否定できませんが、葬儀後に写真撮影という方が自然な気はします。


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(74) 大きな誤りに気づく

大高よし男については、現杉田劇場が開場してから、いろいろな人が資料を収集し、それが長らく保管されてきたわけで、そのデータなどから得られる情報が「大高ヨシヲを探せ」の調査を前に進めてくれているです。

ですが、現物を拝見することはほとんどありませんでした。写真の内容についても伝聞が多く、そこからさまざまな推測をすることが多かったのも事実です。

伝え聞いていたもののうち、最も解釈に難儀していたもののひとつが「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」というこの写真です。

大高の遺児が形見の背広を着ているとされる写真

先日の講座でもその旨をお伝えした上に、大高の葬儀で位牌を持っている子とこの背広姿の若者が同一人物に見える、ともお話ししたわけです。

左:葬儀写真の子ども/右:形見の背広を着た若者

特徴的な耳の形などが似ていると言えば似ていて、同一人物と考えてもいいような気もします。


昨日、現杉田劇場が保管していた写真の原本のいくつかを、直接確認する機会をいただきました。

そして、伝え聞いていた写真の意味の大きな誤りに気づいたわけです。

(嗚呼)

上掲の「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」写真、実は昭和24年に杉田劇場で行われた地元・浜中学校の学芸会の記録として、パネルに貼ってあった4枚のうちの1枚だったのです(浜中学校は私の母校でもあり、「浜中(はまちゅう)」と略されます)。

浜中学芸会(昭和24年)

そこに「形見の背広」とキャプションがあったために、「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」という話になったのかもしれません。

しかし、パネルをよく見れば、左の2枚が『別れのワルツ』という作品の出演者、右の2枚が『形見の背広』という作品の出演者を写した記念写真だということはすぐにわかります。

さらによく観察すれば、4枚のうち『別れのワルツ』の左から2番目と、『形見の背広』の下段の写真は同じ場所で撮影されたこともわかります。

つまり、この4枚はすべて、杉田劇場で行われた浜中学芸会の記念写真で、「形見の背広」は大高が遺した背広のことではなく、学芸会で上演された芝居の作品名だったのです!

(嗚呼)

さらには、ここに写っている大人が「大江三郎」なんじゃないかと勝手に推測していましたが、ここまで事実から、この人は当時の浜中の先生だと考えるのが妥当です。


もっとも、大高の葬儀から3年後の写真ですから、ここに写っている背広姿の生徒が、大高の子息ではないという確証はありません。

また、葬儀写真の裏書にはこの子どものことを「大高よし男の関係親族」という曖昧な表現で記述してあることからしても、大高には子どもはなく、位牌を持っていたのは大高の甥などという可能性も否定できません。

『別れのワルツ』も『形見の背広』もどんな作品だったのかわかりませんし、既成台本だったのか、オリジナル作品だったのかもわかりません。

ですから、大高の甥が杉田に住んでいて、浜中学校に進学し、大高の遺した背広を着て、この学芸会に参加していたというのも、まったくない話とも言えないわけです(葬儀写真の子どもの年齢を9歳から10歳と推定すると、3年後に中学生というのはおかしくないことです)。


昭和24年に中学生ですから、おおむね昭和10年前後に生まれたと考えられます。

写真に写った当時の中学生たちがご存命ならば、80代後半。浜中の歴史を紐解くとともに、この方々の話を伺うことができれば、大高につながる何かがわかるかもしれません。


いずれにしても、恥ずかしいくらいの大きな誤りでしたが、これまで誤解してきた写真の謎が判明したのですから、調査の精度が上がったとして前向きに方向に考えたいと思います。

(とほほ)


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。今回の投稿に関わる浜中学芸会のことも、ご存知のことがありましたらぜひ教えてください。