(90) 新潮劇の近江二郎

多忙を言い訳にすっかり更新が滞っておりますが、日々、細々とながら調査は続いています。台風のせいで本業がままならない中、間隙を縫っての更新です。


さて、そんなこんなで、先日、昭和初期の「松竹各座 九月劇場御案内」を入手しました。

これは1929(昭和4)年9月の、大阪にあった松竹系の劇場や映画館の番組案内小冊子です(昭和4年9月〜11月と昭和5年2月のものを同時入手しました)。


でもって、この号の最終ページには「楽天地」での演目が掲載されています。

楽天地というと東京錦糸町のイメージがありますが、調べてみると大阪にも「楽天地」があったそうです(こちら)。言うなれば当時の総合レジャー施設で、その中に劇場もあったのだとか(大阪のことは詳しくありませんが、いま千日前の「ビッグカメラ」があるところだそう)。見るからに楽しそうなところです。

さて、肝心の記載内容ですが、その楽天地(中央館)で8月31日初日の「新潮劇」が公演するという広告(公演情報)です。

その演目は

「将軍の辻斬」
「悲惨なる家」

の2本(『松竹七十年史』とも照合しました)。

不勉強で「新潮劇」についてはぼんやりとしかわかっていないのですが、新派劇団か剣劇団のひとつと考えていいのでしょう。

この当時の大阪楽天地には「中央館」「コドモ館」の2劇場と、「キネマ館」という名の映画館、「地下室」という部屋(イベントスペース?)もあったようです。

「新潮劇」の公演はその「中央館」で行われたようですが、演目の下には役者の名前が記されています。


その連名をよく見ると、中央になんと

「近江二郎」

の名前があるではありませんか! そればかりか「深山百合子」の名前まであるのだから驚きです。つまり、この興行には近江二郎・深山百合子夫妻がともに参加していたわけです。


役者の中に「筒井徳二郎」がいることから、かねてよりたびたび引用している田中徳一『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』を確認してみたところ、以下のような記述がありました。

「昭和三年七月末より、筒井は山口俊雄、野沢英一等の新潮座(松竹所属)に加入し、八月、九月、十一月と大阪・弁天座に出演している。この頃から新潮座も剣劇と新派劇の混合をねらうようになるが、翌昭和四年一月の弁天座から、山口が出て都築文男が入り、新潮座が新潮劇に改称すると、いよいよ新派色が強くなって行く」(同書 83ページ)

なるほど、たしかに入手した資料にも「野澤英一」「都築文男」の名前が見られます。

ですが、上掲書を含め、これまで調べた資料には、新潮劇に近江二郎が参加していたことは書かれておらず、そんな関係があったとはまったく知りませんでした。「新派色が強くなって行く」という記述からして、新派俳優としての近江二郎が招かれたのかもしれません。

ちなみにここには浪花千栄子の名前があります。また上掲書によれば「水町清子」は三益愛子の前名だそうですし、原健作(原健策)はご承知のとおり松原千明の父としても知られる往年の映画スターで、いまからするとかなり錚々たるメンバーの中に近江二郎がいたことになります。


話は変わりますが、これまた何度か引用している近江家のファミリーヒストリーである「FIFTH BORN SON」の巻末にある、元子さん(衣川素子)の手記には、近江二郎と深山百合子(本名:笠川秀子)が結婚するまでの経緯がこう書かれています。

「二郎の妻は四国の坂本龍馬の姪光江と云う人が妻でした。が、いつも女中を連れて桟敷で芝居を見ている秀子と何か引かれる赤い糸が有ってとうとう二人は手に手をとって駆け落ちしました。
当時の新聞は大変大きくあつかったと聞いて居ります。その秀子は笠川家の一人娘で育っていましたが、父が遊び好きで金がなく、新橋の鈴の家と云う芸妓屋へ売られてしまったのです。器量よし三味線も巧く唄が巧く鈴香という名で、鈴香大明神と云われたそうです。
あまた群がる旦那衆の中で横浜市議第一号上條修と言う金持が落籍しましたが、上條氏は長男、秀子は一人娘、日本の法律では結婚はできません。秀子は上條氏が嫌いで嫌いで。とは申せ金で縛られた体。ストレスの吐く場は喜楽座通いだったのです。
舞台と桟敷とを結ぶ恋は舞台に穴を開け、秀子は秀子で横浜に住む事もできず、二郎の前妻は狂い、秀子を呪ったと聞いています。そして昭和五年(一九三〇年)巡業しながら座を固め米国へ旅立っています」 

記憶に基づいた身内向けの手記なので、そっくりそのまま信用することができない点は多々あって、特に近江二郎の前妻が坂本龍馬の姪というのは、さすがにちょっと年代的に無理があるし、横浜市議・上条修(実際は上条治)の逸話もいささか眉唾な印象を受けます。これも精査が必要なところです。

ただ深山百合子が芸妓であったのは、横浜貿易新報に掲載されているプロフィールにもあって、ここには「以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる芸妓」とあります。


昭和15年5月4日付横浜貿易新報より

「鈴香」と「壽々香」はどちらも「すずか」と読むのでしょう。新橋と関外の差はありますが深山百合子が「すずか」という名前の芸妓であったことは間違いなさそうです。

ともあれ、横浜の喜楽座に出ていた近江二郎と芸妓の「すずか」がなんらかのきっかけで出会って、駆け落ちし、のちに「すずか」は「深山百合子」の芸名で舞台に立つようになったわけです。その時期ははっきりしていませんが、少なくともこの資料が発行された昭和4年には、役者として名が知られていたことになります。

元子さんの手記からすると駆け落ちのせいで横浜にいられなくなったように読み取れますが、それが大阪での新潮劇出演につながっているのでしょうか。そのあたりはまだよくわかりません。大正15年の喜楽座での剣劇大会以降の近江二郎の足取りについても追加調査が必要です。


余談になりますが、時期の特定を余計に混乱させるのが『浜松市史』に掲載されている興行記録(芝居興行表)です。

『浜松市史(三)』p.559より

ここでは大正6年に浜松の歌舞伎座で近江二郎と深山百合子が興行していることになっています。が、明治32年生まれの深山百合子はこの時まだ18歳あまり。おまけに近江二郎が横浜喜楽座に初出演するのが大正9年ですから、喜楽座より3年も前に近江二郎が単独で興行したというのはちょっと考えにくいことです。『浜松市史』の記載に誤りがあると考えた方がいいように思います(さらに精査します)。


近江二郎の実弟・近江資朗のご子女に取材した際、深山百合子は家事全般は苦手で、ほとんどやらなかったことや、三味線や長唄が得意で、晩年はそれらを教えたりしていたことを伺いました。生涯を芸事に捧げた人だったのでしょう。

見せていただいた位牌によれば、近江二郎は明治26(1893)年生まれ、昭和24(1949)年5月29日没。上述のとおり深山百合子は明治32(1899)年生まれ、昭和42(1967)年1月8日没。


横浜南太田の常照寺にある近江家の墓所を確認しましたが、墓誌に二人の名前がないので、おそらく深山百合子の実家である笠川家の墓か、近江二郎の故郷である広島県福山市の墓所に眠っているものと思われます。残念ながら場所はわかりません。


なお、今回入手した資料にも大高よし男(高杉弥太郎)につながる情報は見つかりませんでした。本来、大高よし男の足跡をたどるブログのはずですが、見つかるのは近江二郎の情報ばかり。それでも近江二郎からなんとか大高につながる線が見つかればと、根気よく調べて行きます。


そんなこんなで、今回は新潮劇に参加していた近江二郎についての話でした。


→つづく


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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(89) 旧杉田劇場の幕について

今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕について。

現存する旧杉田劇場の写真の中で、おそらくもっとも情報量の多いのが、昭和23年に寄贈されたという引幕の写真です(現杉田劇場のウェブサイトやブログには「緞帳」と書かれていますが、実際は引幕が正しいと思います)。

旧杉田劇場引幕(杉田劇場所蔵)

この幕の絵は、地元・浜中学校の美術教師だった間邊典夫氏が描いたもので、梅とウミネコがモチーフになっているそうです。

写真をよく見ると、この引幕の上部にたくし上げたもうひとつの幕が見えるので、開場当初からあった幕と、この時寄贈された幕の2枚があって、双方を交互に使っていたのかもしれません。いずれにしても幕の材質、舞台のタッパや機構からして、昇降式の緞帳ではなく、引幕だろうとは思います。

ちなみに、弘明寺銀星座の引幕は横浜市図書館のデジタルアーカイブで閲覧することができます(こちらも「緞帳」となっていますが、やはり「引幕」が正しいと思います)。


さて、旧杉田劇場の幕にはさまざまな店舗名や個人名が記載されています。不明なものも多くて、すべてが判明したわけではないのですが、古い資料などを調べた結果、だいぶわかってきたので、詳細も含めここに書いておきます。


(舞台上手(向かって右側)から)


昭和木工所

詳しいことはわかりませんが、昭和27年の『全国工場通覧』など、いくつかの資料に同名の工場があります。南区睦町ですから、市電を使えば杉田へは乗り換えなし、車でも国道16号を使えば簡単に来られる距離ですので、この工場である可能性は高い気がします。

とはいえ、木工所がなぜ広告を出しているのかは不明です。もしかしたら劇場の椅子(長椅子=木製)を作った工場なのかもしれません。


1947(昭和22)年5月14日付神奈川新聞より


カワイボクシングクラブ

これは有名なボクシングジムで、1931年横浜山田町に設立。戦後、曙町に移転したそうです。杉田劇場元スタッフのTさんによれば、美空ひばりの父、増吉さんがここでボクシングを習っていたとの話もあるらしく、その関係で広告を出したのかもしれないとのこと。

現在は神奈川渥美ボクシングジムとして、その系譜がつながっているそうです。

横浜市中区曙町2-5 代表:河合鉄也


杉田公設市場際 平野歯科医院

平野歯科は現在も同じ場所にある歯科医院です。サイトをみたら1940年開院だそう。

平野歯科(2022.3撮影)

天ぷらの店 杉田町 伊藤政治

これは杉田にある「政寿司」の店主で、店は現在も同じ場所で営業を続けています。

中原に残る「政寿司」の古い電柱看板


茂呂真吉

この方についてはまったくわかりません。どなたか情報をお持ちでしたら教えてください。


土木建築 泉建設株式会社 長者町(3)三一五三

この会社についてもまったく不明です。


中華料理 森町  糸勝楼

これは白旗商店街にあった飲食店で、昭和30年代の明細地図には「氷のみもの 糸勝」と記載されています。後述の「川崎青果」でお話をうかがった際に、「糸勝」という店があったと確認できました。

『横浜市商工名鑑』(昭和35年)より

御下宿  丸山町広地7 豊石荘 長者町(3)一六八九

この下宿(アパート)については、住所も電話番号もわかっているのに、詳細は不明です。


安心して頼める店 杉田新道 野村電氣商会

この店は私の記憶にもある街の電器店で、杉田商店街の中にありました。いまはもうありません。


杉田聖天橋際 代々木屋呉服店 長者町(3)〇九〇七

この呉服店も杉田商店街の中にありました。ドラッグストア「ハック」の隣。現在は「おかしのまちおか」になっていますが、よく見ると外観に呉服店の風情が残っています。以前は国道16号線沿いにあったそうで、だからこの幕の表記が「杉田聖天橋際」となっているのだと思います。

1947(昭和22)年1月19日付神奈川新聞より


横浜桜木駅前 日晴樓 長者町(3)四一七〇

これはもともと伊勢佐木町にあった飲食店で、その当時は「日清楼」、戦後、桜木町に移転して「日晴楼」に改名したそうです(「横浜市商工名鑑・昭和35年版」によれば中区花咲町1-47)。

戦前の伊勢佐木町の写真(絵葉書)などにも写っている店で、サイト「横浜古壁ウォッチング」の「震災後・戦前期の伊勢佐木町」のページ下段、「その3 長者町×伊勢佐木町交差点」の写真、右側の電信柱のカゲに「日清楼」の看板が見えます。

戦後、桜木町に移転した際の新聞広告もあり、ここに描かれたイラストと同じものが杉田劇場の幕、「日晴楼」の店名上部にも描かれています。

1947(昭和22)年1月5日付神奈川新聞より

杉田劇場の元スタッフ、Tさんによれば、ここの店主が芝居好きで、よく杉田劇場に通っていたそうです。そんな関係もあって広告を出したのでしょう。


志村高明

幕の中央に、ほかよりも目立つ形で出ている個人名ですから、かなり気になる人です。この人は磯子区役所が出した『浜・海・道』に栗木町でカーネーションを栽培していた人として写真も載っていますが、土建業としても記録されている人で、昭和22年には市議選に立候補するなど、なかなかの野心家だったようです。いま風にいうと起業家という感じでしょうか(ちなみに選挙結果は落選)。

1947(昭和22)年4月11日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログにこの人について詳しく調べた記載があります→こちら


横濱市設 杉田公設市場

これは杉田のバス通り「中原本道」沿いにあった公設市場です。私もよく覚えています。いまはなく、跡地の手前側はつい先日まで駐車場でしたが、何かの工事が始まっているので、また何か別のものになるのかもしれません。

杉田公設市場跡地(2022.3撮影)


うまいのである 石川の牛豚肉

これは杉田商店街にある「肉の石川」です。現在も営業していて、メンチカツなどお惣菜も豊富な人気店です。

肉の石川(2022.3撮影)


杉田新道 満るや 深野金物店

これも杉田商店街で営業を続けている「深野力蔵商店」です。「満るや」というのが屋号で、杉田劇場の隣にあった「吐月館」(丸屋)という旅館は、ご親族が経営していたようです。

吐月館についても杉田劇場のブログに記載があります→こちら


神浴専務理事長 江尻良蔵

この先はどういうわけか銭湯の関係者が多く登場します。
江尻良蔵は根岸にあった「江陽館」という銭湯の経営者だそうで、現在はありませんが、江陽館の二号店(?)で、磯子区中浜町にある「第二江陽館」は江尻から経営を引き継いだ方がいまも営業を続けているようです。

『毎夕企業総覧 昭和27年版』(東京毎夕新聞社)より

引用した上掲書の記述からすると「神浴」は神奈川県浴場商業協同組合のことを指すと思われます。

ちなみに、江尻という姓は横浜の銭湯経営者によく見られます。親戚が銭湯経営をしていたということなのでしょうか。


石橋寅四郎

個人名しか情報がないので、この人のこともよくわからないところですが、前述の志村高明と同じく昭和22年の市議選に立候補しています(ちなみに選挙結果はこちらも落選)。


元日飛(日本飛行機)の組合関係者と書かれている資料もあって、これが同一人物なのかはよくわからないところです。

また、別の資料には磯子の衣料品製造業の代表者としても名前が見られます。これが同一人物なのかどうか、詳しいことはよくわかりません。上に引用した新聞の立候補者名の欄には「工場長」とあるので、組合関係者というよりはこちらの繊維工場の経営者という方が合致しているような気もします。戦前に日飛の組合員だった人が、戦後になって繊維工場を始めたということなのかもしれません。

「全国工場通覧」昭和25年版より

兵頭一刀

この方も個人名だけなので、詳しいことはわかりませんが、『全国工場通覧(昭和25年版)』によれば、以下のとおり磯子区にあった縫製工場の代表者として同じ名前が出てきますので、その人だろうと推測しています。

『全国工場通覧』(昭和25年版)より


長谷川好祐

この方についてもまったく情報がありません。おわかりの方がいたらぜひ教えてください。


谷津坂温泉 平田佐太郎 長者町(3)七八〇一

これについてもまったく不明です。「谷津坂温泉」という名前からして、谷津坂(現在の能見台)にあった銭湯ではないかと推測していますが、地図を見ても出てこないのではっきりしたことはわかりません。

ただ、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館の共同企画店「銭湯と横浜」の図録には、平田佐太郎という名前が、戦前、神奈川区平川町にあった「日ノ出湯」という銭湯の経営者として記録されているので、同じ人が戦後、金沢区で銭湯を経営していたということかもしれません。


杉田町 山本熊太郎

これも名前だけなので、なかなかわかりづらいところでしたが、昭和34年の「横浜商工名鑑」に杉田の銭湯「梅之湯」の経営者として出てくるので、この方だろうと思います。梅之湯は杉田劇場のすぐそばにあったので、役者や従業員が利用していたのかもしれません。

『横浜商工名鑑』(昭和34年)より


森町 川崎果實店

これは白旗商店街にあった「川崎青果店」のことで、惜しまれながら昨年3月に閉店してしまいましたが、その直前にお邪魔してお話を伺ったところ、間違いないとのことで確認できました。

川崎青果店(2023.2撮影)


杉田町 山口自轉車店

これは杉田にある「山口モータース」のことだと思われます。山口モータースは現在も杉田で営業しています。


以上がこれまでの調査結果です。


銀星座の引幕にも同じように店舗や個人名が描かれていますが、あちらはほとんどが弘明寺商店街の関係者であるのに対して、杉田劇場の引幕にある名前は、杉田だけでなくむしろ磯子町や根岸の方が多いような印象で、しかも繊維関係者や銭湯関係者が多いというのも気になるポイントです(もしかしたら「たくし上げている」最初の引幕には杉田商店街の店舗名が多く描かれていたのかもしれません)。

昔の劇場にはたいてい浴室があって、旧杉田劇場にもありましたから、役者が化粧を落とすのに銭湯を使うようなことはなかったと思います。銭湯関係者とは単なる付き合いがあっただけなのかもしれませんし、杉田劇場の経営者だった高田菊弥との関わりがあるのかもしれません。詳しいところはよくわかりません。

旧杉田劇場についても引き続き調査を続けていきたいと思います。


というわけで、今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕に書かれた店舗名や個人名について調べてみました。


→つづく


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(88) 新加入川上好子

本業の繁忙期もあって、遅々として進まない調査ですが、昭和12年6月の横浜貿易新報に掲載されていた、朝日座での河井勇二郎一座の公演情報に気になるものを見つけました。

河井勇二郎といえば新国劇出身で、後年、梅澤昇一座に参加する剣劇役者です。

大井廣介『ちゃんばら藝術史』には

「梅澤は連袂脱退事件後、一座に加わった河井勇二郎にやがて梅澤昇を襲名させ、梅澤自身は龍峰を名乗るようになった」

とあります。

梅澤劇団は昭和29年7月、弘明寺に「梅沢劇場」という専属劇場を開場し、横浜を拠点として活動するようになるわけで、横浜とも浅からぬ縁がある劇団です。弘明寺に来た時にはすでに二代目を襲名していた河井勇二郎もその意味では横浜と縁がある役者といってもいいでしょう。

昭和30年代の明細地図より

さて、その昭和12年6月の河井勇二郎一座の公演情報ですが、配役一覧の中に

「新加入川上好子」

と書かれているのです。

昭和12年6月8日付横浜貿易新報より

これをそのまま受け取れば、この公演から川上好子が河井勇二郎一座に参加し始めたということになります。


これまで精査した横浜貿易新報では、昭和11年3月の日吉良太郎一座の劇評に川上好子の名前が見られるので、それから1年3ヶ月の間のどこかで、川上好子は日吉一座を離れたということになりそうです。

昭和11年3月8日付横浜貿易新報より

日吉一座は昭和12年12月に東京の江東劇場で柿落とし興行を行っており、さらには昭和13年6月からは横浜歌舞伎座を拠点に移して、終戦近くまでの連続興行をスタートさせますから、川上好子が一座を離れた時期は、日吉劇団にとっては何らかの変化が起こった頃とも考えられます。


日吉劇団のみならず、どうもこの時期の横浜演劇界自体が変化の季節という印象で、この時代の動きを精査することが、大高よし男(高杉彌太郎)の発見につながるような気がしてなりません。

さらに調査を続けます。


→つづく

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追記:
前々回、近江二郎の住所が大阪になっていることについて書きましたが、あらためて近江二郎の養子であった元子さん(芸名:衣川素子)の手記を読み返してみたら、

「二郎の所には養子健次と言う兄と養女マスエと言う姉がいましたが、舞台には出ていないで、秀子の養母がこの二人を大阪で育てていました」

との記述がありました。大阪市生野区鶴橋南之町の住所は、深山百合子の養母の住んでいたところなのかもしれません。


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(87) 戦後名古屋の近江二郎

近江二郎は昭和24年5月29日に亡くなるので、戦後の活動期間はそう長くありません。

これまでわかっているのは、昭和21年1月下旬から2月始めまでの10日間、杉田劇場で公演していることと、同年3月23日からの弘明寺銀星座の杮落し興行(5月末まで)。その合間の5月1日から再び杉田劇場で10日間。と、これが戦後横浜での近江一座の活動履歴となります。

終戦から年末まで何をしていたのかはわかりません。ただ、少なくとも横浜では彼らが舞台に立っていた伊勢佐木町近辺の劇場は、すべて昭和20年5月29日の横浜大空襲で焼失したため、杉田劇場ができるまで、一座の活動はほぼ休止状態だったと思われます(奇しくも近江二郎の命日は横浜大空襲からちょうど4年後なんですね)。


昭和21年5月いっぱいで弘明寺銀星座での興行を終えた近江二郎は、その後、他の都市を巡業したと考えられます。『近代歌舞伎年表・名古屋篇』第17巻(昭和14年〜22年)を見ると、以下の興行が記録されています。

昭和21年7月 宝生座
昭和21年8月 宝生座
昭和22年3月 堀田劇場
昭和22年5月 宝生座
昭和22年8月 観音劇場

いずれも4日とか1週間とかの短期興行ですから、その合間はこれ以外の名古屋市内の小さな芝居小屋や、岐阜あたりの劇場を巡業していたのかもしれません。戦前・戦中は京都や大阪、おそらく広島や福岡などでも興行していたと思われますので、弘明寺銀星座の後は、そうした地へ戦後の顔見せの意味合いで赴いていたのではないかと想像されます。

ちなみに上記昭和22年5月と8月の興行の記録には二見浦子の名前が出てきます。かつて大高とも共演していた二見浦子が、戦後、近江二郎とも共演しているわけです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻より


名古屋での興行のうち、うっかり見過ごしていたのが昭和22年3月の「堀田劇場」です。この劇場名は終戦前には見かけたことがありません。

調べてみるとこれは瑞穂区堀田にあった劇場で、「ほりたげきじょう」と読むそう。昭和21年5月に運輸会社を経営していた戸谷兼次郎という方が作った劇場なんだそうです。横浜でも日本飛行機の下請け工場を経営していた高田菊弥が杉田劇場を作ったり、鉄工所の経営者だった長谷巌がアテネ劇場を作るなど、終戦直後は異業種から興行に参入する人が多かったのかもしれません。

記録によれば堀田劇場の所在地は「瑞穂区堀田通8-34」です。名鉄「堀田」駅の駅前にあったと思われます。

『中部日本会社要覧』(1948)より

近江二郎がなぜここで公演したのかについて、詳細はわかりません。

消えた映画館の記憶」によれば、劇場としてはそれほど長く続かず、開場の翌年(つまり近江二郎が興行した年)には映画館に転身していることからして、終戦前までは名古屋でも定期的に活動していた近江二郎の人気を頼みに、劇場経営を軌道に乗せるべく、一座を呼んだとも考えられます。

ウィキペディア・コモンズには、この「堀田劇場」の写真がありました(「堀田東映劇場」と改称されている)。

Nagoya Horita Gekijo in 1956.jpg(ウィキペディアコモンズより)

名古屋の中心部からは少し離れたところに新設されたこの劇場で、近江二郎一座の興行が行われていたわけです。

名古屋のこともあまり詳しくはありませんが、堀田というののは杉田や弘明寺と同じような町なのかもしれません。

(市電「杉田」電停前の「杉田劇場」と名鉄「堀田」駅前の「堀田劇場」、こじつけめいていますが、どことなく親近感を覚えます)

後年のものとはいえ、写真を見るにつけ、ここに近江二郎がいたのかと、しみじみ感慨に耽ってしまいます。


ところで、これまたまったくのこじつけですが、この劇場のあった「堀田」という町からそれほど遠くないところに「大高」という町があります。徳川家康とも縁のある大高城址のある地なんだそうです。いくらなんでも出来過ぎな感は否めませんが、同じ「大高」に何らかの繋がりがないのか、これも精査した方がいいのかもしれません。

この地名は「おおだか」と読むそうで、「大高よし男」のことを今までは勝手に「おおたか よしお」と称してきましたが、もしかしたら正しくは「おおだか よしお」なのかも、と妙な疑問を抱き始めたりもしています。

謎は深まるばかり…


→つづく

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追記:堀田劇場を開いた戸谷兼次郎の「戸谷運輸」は現在も瑞穂区で経営が続いているそうです。すごいですね。


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(86) ふたたび近江二郎

戦前・戦中の大高よし男の活動履歴は、昭和15年3月の横浜敷島座から昭和18年5月の京都三友劇場まで、断続的に痕跡が見つかったものの、それ以外は手がかりが見つかりません。

昭和15年に近江二郎一座が敷島座に登場して以降に大高(高杉)の名前が出てくることから、近江一座のメンバーだったと推測していますが、それ以前の記録がなかなか見つかりません。そもそも、近江二郎がその頃、主にどこの街で活動していたのかについても、年に1〜2回名古屋で興行している以外ははっきりしません。

近江二郎以外にも、日吉一座にいた川上好子と行動を共にしていた可能性も想定していますが、こちらも相変わらずよくわからないままです。


ところで、近江二郎の住まいについては、横浜の井土ヶ谷在住と考えるのが妥当です。その旨の新聞記事がありますし、実弟の資朗氏が井土ヶ谷にいたことや、ご親族からお話を伺った際、戦後、近江夫妻が通町のあたりに住んでいた話を聞いていることからも、横浜が(少なくともひとつの)拠点であったことは間違いなさそうです。

ただ、以前から書いているように『演劇年鑑』(昭和18年版)に掲載されている人名録には、「大阪市生野区鶴橋南王町」という住所が書かれているので、昭和18年当時、近江二郎は大阪にも拠点があったとも考えられ、混乱に拍車がかかっているところです。

『演劇年鑑』(昭和18年版)より

そもそもこの「鶴橋南王町」というのがどんなに調べても出てこない地名で、偽住所じゃないかとの疑惑すら抱きかねないところでした。最近になってふと、これは誤植に違いないと思いつき、あれこれ推測を巡らして、実在した「鶴橋南之町」の誤りだろうとの結論に至った次第。「之」と「王」ですから、まぁ、似ていないこともない。

調べてみると「鶴橋南之町」はもともと東成区だったのが、昭和18年4月に分区して生野区になったようです。JR「桃谷」駅の近くで、昭和48年に住居表示が変更になるまではこの町名が残っていたそうです(生野区のウェブサイトより)。

と偉そうに書いてはいますが、実のところ大阪のことはまったく門外漢なので、ここがどんな街なのかについてはさっぱりわかりません。

困った時の頼みの綱、国会図書館デジタルアーカイブで検索すると、『演劇年鑑』にある近江二郎の住所「生野区鶴橋南之町1-5765」は、戦前、戦後ともいくつかの資料がヒットしますが、ほとんどが工場の住所で、演劇人である近江二郎との関係は見当たりません。

妻である深山百合子(笠川秀子)にゆかりのある地なのか、パトロンのような人の住んでいた場所なのか、劇場や興行会社の住所なのか、あれこれ想像は膨らみますが、はっきりしたことはわかりません。途方に暮れるばかりです。

(古い地図などでさらに詳しく調べてみたところ「鶴橋南之町1-5765」は現在の「生野区桃谷1-4」、桃谷駅前の一角だとわかりました)


ちなみに昭和18年から19年にかけての近江一座の活動は

昭和18年
 1月 横浜敷島座
 2月  不明
 3月 名古屋宝生座
 4月 大阪弁天座
 5月  同上(18日まで)
 6月  不明
 7月  不明
 8月 川崎大勝座・横浜敷島座
 9月 横浜敷島座
10月 川崎大勝座
11月 大阪弁天座
12月 京都新富座


昭和19年
1月 川崎大勝座
2月  不明
3月 川崎大勝座
4月 横浜敷島座
5月 横浜敷島座
6月 川崎大勝座
7月  不明
8月  不明
9月 名古屋黄花園
(以下不明)

となっています。

見てわかる通り、特段、大阪や京都が多いというわけでもなく、むしろ横浜や川崎がメインという気さえします。なのになぜ『演劇年鑑』の住所が大阪になっているのか(ちなみに日吉良太郎の項には横浜・井土ヶ谷の住所が書かれています)。

この近江二郎の謎を解くこともこの先の調査の重要なテーマで、これが大高の経歴の手がかりにつながることをひそかに祈っているところです。


それにしても近江二郎のことを考えるにつけ、以前にも書いたように((69) 近江資朗取材記(その1))、近江夫妻の子(養子)である元子さん(芸名・衣川素子)の書いた手記にある

「二代目を名乗るべき人が交通事故で他界」

という記述が気になって仕方ありません。

大高よし男は生きていたら二代目近江二郎になっていたのでしょうか。それとも見当違いな妄想なのでしょうか。

うぅむ。

ともあれ、旧杉田劇場と大高よし男と近江二郎。やはりこの三者の関係が調査のキーであることは間違いなさそうです。


→つづく

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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問い合わせフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(85) 美空ひばりとアテネ劇場

美空ひばりの舞台デビューは1946(昭和21)年3月頃の杉田劇場ということで、地域史を研究されている方々も含め、認識は一致しているところですが、アテネ劇場が先でその後が杉田劇場と書かれている書籍やネット記事などもいまだに多くみられます。

これをさらに混乱させるのが、アテネが当初は「磯子劇場」と呼ばれていたという話もあることや、後年の明細地図でアテネ劇場が「磯子映画劇場」となっていることです。


アテネ劇場は昭和21年9月9日に開場しました。

1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より

ですから、同年4月10日の杉田劇場の新聞広告に「ミソラ楽団」の文言があり、その頃のものと思われる大高一座のポスターに「美空一枝」の記載があることからすると、アテネ→杉田が誤りであることは明白です。

ただ、もし仮に「アテネ劇場」の前身が「磯子劇場」ないし「磯子映画劇場」で、杉田劇場より前にそうした劇場があったのだとしたら、アテネ→杉田の順もあり得ることになります。


この仮説が、現杉田劇場で「ひばりの日」の企画などをされてるTさん(うめちゃん)ともども、すっきりと事実関係を断定できず、モヤモヤを残していたところでした(Tさんが検証の経緯を書いているブログが→こちら)。

個人的に芦名橋近くに住んでいる年配の知り合い何人かに話を聞いても「磯子映画劇場なんて聞いたことがない。あそこはずっとアテネだ」と言うばかりです。

ふむ。

ところが、先日、中央図書館で日吉良太郎について調べる中、柴田勝著『横浜歌舞伎座の記録(三人の団十郎)』を閲覧していたところ、巻末に、戦後の横浜の劇場に関する記載があって、「アテネ劇場」の項に

「丗五年三月、磯子映画劇場と改称した」

と書かれていたのです。

柴田勝著『横浜歌舞伎座の記録』より

アテネ劇場は昭和21年9月に開場し、昭和35年3月に「磯子映画劇場」となった、というのです。

念のため、新聞記事を確認してみたところ、昭和35年3月30日の映画情報欄に

「アテネ改 磯子映劇」

と書かれているのを見つけました。

1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より

これでアテネ劇場の前身が磯子映画劇場ではないということがはっきりしたのです!(ちなみに新聞では前日の3月29日までは「アテネ」としか書かれていない)


戦時中に日用品市場だったところを、戦後になって改装し、昭和21年9月9日にアテネ劇場として開場。昭和35年3月30日に磯子映画劇場と改称した。これがアテネに関する情報としては正しい流れになります。

ですから、やはり美空ひばりは昭和21年3月頃に杉田劇場で舞台デビューし、その後、アテネ劇場の舞台に立ったというのが正確な情報ということになります。


というわけで、今回は大高調査の過程で判明した美空ひばり舞台デビューについて書きました。


追記
同じ日に『西区史』も閲覧して西区にあった劇場について調べました。その結果、前々回の投稿( (83) 戦前の杉田と芝居小屋)に一部誤認があったので追記しました。また、平沼の「由村座」で、関東大震災後に近江二郎一座が興行していたという記載も見つけたので、大高とは直接の関係はないと思われますが、今後、調べてみたいと思います。日吉一座が横浜に初登場したのも昭和8年らしいし、大正末期から昭和ひと桁の時期を追加調査しないと、原点が見えない気がします。調査範囲がどんどん広がる…

→つづく

「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

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(84) 『演劇界』の河上好子など

これまでも折に触れて調べてはきましたが、いよいよ新聞だけではなく雑誌の調査にも本格的に着手すべき時期がやってまいりました。とはいっても、大高のような大衆演劇の(おそらく)中堅どころの役者のことが雑誌に載っているかどうか。ともかく新たな資料の森に分け入るしかありません。


さて、古い『演劇界』を調べていたらこんな写真がありました。

『演劇界』昭和19年1月号より

「大衆演劇の舞臺相」と題された欄で、浅草公園劇場での「昭和國進劇」の公演写真です。

演目は『赤十字郵便』で役者は右から関根英三郎青柳龍太郎、河上好子とあります。追加で『松竹七十年史』の演劇演芸興行記録や『演劇年鑑』(昭和22年版)を参照すると、これが昭和18年12月1日初日、関根英三郎、市川右之助、青柳龍太郎一座が出演していた舞台であることがわかりました。

ですが、残念ながらいずれにも「河上好子」の記載はなく、これが「川上好子」と同一人物なのか(つまり誤植なのか)は不明ですが、「川上好子」である可能性は高いと思われます(さらに調べてみます)。

この舞台に大高が関わっていたかどうかもわかりません。ですが、いずれにしてもこれが川上好子ならば、昭和15年3月には横浜敷島座で大高よし男と共演している人ですから、なかなかに感慨深いものがあります。


戦後、昭和24年の『演劇界』にはこんな記載もあります。「團之助と語る」と題する市川団之助へのインタビュー記事で、聞き手は演劇研究家・評論家の渥美清太郎

『演劇界』昭和24年6月号より

その後半で渥美がこう言うのです。

「さうさう。死んだ小林勝之丞君と一緒に伊勢崎町(ママ)であなたに逢った事がありましたつけ。その時は弘明寺の日吉良太郎を訪ねたのですが(以下略)」

日吉良太郎は昭和18年の『演劇年鑑』でも、昭和22年の電話番号簿でも「中区井土ヶ谷中町75」が住所になっていますから、「弘明寺の日吉良太郎」というのは渥美清太郎の誤解ではないかと思われます。

伊勢佐木町近辺から市電を使って移動したのだとしたら、1系統ないし10系統の「弘明寺」行きに乗ったはずです(通町あたりで下車か)。そんなところが誤解を生んだのかもしれません。


なお、渥美清太郎が市川団之助と伊勢佐木町で会ったのは、おそらく小林の案内で京浜地区の大衆演劇を見に行った日ではないかと推測されます。この時の記録が『演芸画報』の昭和17年11月号に「東京を離れた 大衆劇めぐり」として掲載されています。

『演芸画報』昭和17年11月号より

一日のうちに、蒲田(出村)の愛国劇場、川崎(堀之内)の大勝座、末吉町の横浜歌舞伎座、南吉田町の金美劇場、伊勢佐木町の敷島座、そして三吉劇場(現・三吉演芸場)と巡ったわけですから、かなりな強行軍です。ちなみにこの時の横浜歌舞伎座では日吉一座は休演中だったようで、そんなこともあって小林の案内で日吉を訪ねたのかもしれません。


実は、以前から新聞紙上などで頻繁に名前を見るのに、この「小林勝之丞」という人のことがよくわかっていません(わかる人がいたらぜひ教えてください)。

横浜貿易新報(神奈川新聞)の娯楽欄ではこの人が主に劇評や演劇関連記事などを書いているし、前掲の『演芸画報』にも時折寄稿しており、昔の役者のこと、昔の横浜演劇界のことなどにもかなり精通している「ハマの演劇通」とでもいうべき人なのでしょうが、劇作もやっていて、本職はなんなのかがよくわかりません。プロフィールもほぼまったくわかりません。

数少ない手がかりとして、長谷川伸の『私の履歴書』に

「その中に横浜の小林勝之丞という人があった。ハマの土木業系の大した顔役で、その頃もう故人であった平塚の福の血筋のものである」(『私の履歴書』第1集,日本経済新聞社 1957 / p.182) 

という記述があります。

ここに書かれた「ハマの土木業系の大した顔役」である「平塚の福」とは、山手のトンネル(麦田のトンネル)を開いた平塚組の平塚福太郎のことだと思われます。その長男が児童文学者の平塚武二ですから、これが正しければ小林勝之丞と平塚武二は親戚ということになります。

平塚組と小林勝之丞との関係ももう少し深掘りする必要がありそうですね。


さて、これまでの調査からもうひとつ。

以前の投稿((75) じゃがいもコンビについて)で日吉劇の朝川浩成と壽山司郎が曾我廼家五郎一座に参加していたことを書きました。朝川のことは新聞記事からはっきりしていましたが、壽山については記憶がはっきりしないと書いています。

ですが、改めて資料を見返してみたところ、これは前述の小林勝之丞が『演芸画報』に寄稿した「曾我廼家五郎の芝居」という劇評の中に書いていたことでした。

『演芸画報』昭和18年4月号より

曰く

「小西行長で登場の新加入幸蝶。音吐朗々と響き鮮やかだつた。此優は新派出の朝川浩成。五郎佳き逸材得たり」
「美聲の團子賣の蝶山は蝶六型の愛嬌者。壽山司郎と云へる是も新派出。五郎劇多彩と云へる」

新派出とありますが、いずれも日吉良太郎一座の出身です。「新派」の定義が難しいところですが、この当時、日吉良太郎一座は分類としては「新派」とされていたのでしょう。

また、今回画像はアップしませんが、『演芸画報』昭和17年10月号には梅島昇の「新派正劇」に日吉一座の「安田丈夫」が参加しているともあります。これはおそらく「安田猛雄」のことだと考えられます。

小林が各劇団に紹介したのか、はたまた引き抜きがあったのか、いずれにしても横浜で絶大な人気のあった日吉一座の役者が、この時期、次々と東京へ進出していったという印象を受けます。

戦後、朝川浩成や安田猛雄は銀星座の自由劇団で、壽山司郎は杉田劇場の大高一座で活躍します。そんな彼らにこういう過去があったのですね。


というわけで、今回はこの先、雑誌の調査に着手するにあたって、ここまで調べてきた雑誌から大高周辺の記録をまとめてみました。横浜は狭い世界でもありますから、想像以上にいろんな人間関係が絡み合っていて、面白いものです。

この先の展開が楽しみになります。


→つづく

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(83) 戦前の杉田と芝居小屋

地元磯子区には地域史を丹念に調べたり、昔の思い出を本にしている方が結構おられて、地元ならではの情報もあるので、旧杉田劇場や美空ひばりの調査にはとても役に立ちます。もっとも大高よし男については片山さんの証言以外、詳しい内容が出てこないのがいささか残念なところではありますが…

磯子地域史といえば岡村の葛城峻さんが筆頭に挙げられますが、そのほかにも中原にお住まいだった(わが家のすぐ近く)小玉忠長さんもいろいろな記録を残されていますし(旧杉田劇場の平面図も小玉さんが残している)、杉田八幡宮の宮司・三浦豊さんの本にも明治・大正・昭和の杉田の様子が克明に記録されていて、大変貴重なものです。


杉田商店街に創業100年を超える和菓子店「菓子一」があります。その先代の店主、相原一郎さんも積極的に記憶を書籍にして刊行された方で、以前から著作は拝読していますが、先日、磯子図書館でこれまで未読だった『杉田の歴史・故郷讃歌』を借りて読んでみました。

大高よし男に関する記載がわずかでもあるかと期待を込めてページを捲ったものの、残念ながら新たな事実を発見することはできませんでした。その代わりに、戦前、昭和10年代の杉田で旅まわりの劇団が芝居を上演していたという記述をふたつ見つけることができたのです。

ひとつめはこんな内容。

「昭和十年代、東漸寺境内の琵琶池の海側に冬の間だけ漁師の海苔干し場が結構広く有り、春になり海苔が採れなくなると子供の絶好の遊び場になっていました。この広場に掘っ立て小屋の旅まわりの芝居が二〜三週間興業するのです(中略)中でも『福島一夫一座』は人気があって、当代、映画人気スター林長二郎(後に本名の長谷川一夫と改名)の弟子とかで仲々の二枚目。主にチャンバラの立ち回りが得意で、「名月赤城山」「沓掛時次郎」等の縞の合羽に三度笠スタイルの股旅物が売りでした」(相原一郎『杉田の歴史・故郷讃歌』p.37)

福島一夫一座については、詳細がよくわかりません。上記に続く文章からすると、福島はどうやら横浜出身の役者のようで、戦後は「金沢文庫の海側にあった八景園という百円温泉に出演していました」ともありますから、このあたりを手がかりにすれば何かわかるかもしれません。

福島一夫一座以外にもこんな記述がありました。

「芝居小屋と言えば杉田にもう一カ所、現在の商店街三叉路先の「ながら」さん裏の空き地に「中村徳三郎一座」といって何回か、かかりましたが中区浅間町方面に常設小屋を持ったと聞きました」(同書 p.38)

浅間町は現在は西区ですが、西区が中区から分区したのが昭和19年のことなので(今年は西区制80周年)、昭和10年当時の記憶としては中区浅間町ということになるのでしょう。

中村徳三郎一座について調べてみると、昭和17年11月の新聞記事にその名前を見つけることができました。「横濱新舞劇団」という新たな劇団を結成して、戸部映画劇場で旗挙げ公演をやったというニュースです。

1942(昭和17)年11月24日付神奈川新聞より

記事中に劇場(映画館)の所在地としてある「中区天神町」というのは旧番地で、現在は戸部本町、現在の戸部駅周辺ということになります。

消えた映画館の記憶」では「戸部映画劇場」の番地が天神町ではなく「西区石崎町1-13」になっています。石崎町も旧番地なので対照表で確認すると、「戸部本町51番地」になるのだそうです。やはりこれも「戸部本町」で京急戸部駅のすぐそばですから、いずれにしても戸部駅周辺あたりにあった劇場(映画館)ということは間違いなさそうです。

記事には「破竹の勢ひで常打興行を開始」とありますから、中村一座がここを常打ち小屋としたのかもしれません。相原さんが「常打ち小屋を持った」と書いているのはこの劇場のことを指している可能性が高いと思われます。

中村徳三郎や福島一夫などは、おそらく横浜や神奈川県内を回っていた劇団で、大高よし男や近江二郎などとは直接の関係はないと考えていいでしょう(言葉は悪いですが、大高や近江二郎より格下の劇団のように思われます:この点、追加調査が必要です)。

ですから、ここに大高の手がかりがあるとは思えませんが、杉田劇場や大高よし男が登場する以前に杉田でこういう芝居が上演されていたというのはとても興味深い話です。


相原さんの記述にある「ながら」は、僕が転居してきた頃からずっと同じ場所で営業している、たい焼きや今川焼きやおにぎりなどを売っている商店で、その裏手はほとんど住宅ですが、一部駐車場にもなっているので、あのあたりがもともと空き地だったのかもしれません。

(あそこに小屋掛けの芝居があったのかと思うとなかなか感慨深いものがあります)


そんなこんなで、今回は余談めいた感じですが、戦前の杉田で上演されていた芝居についての投稿となりました。大高調査の方は日吉良太郎一座と川上好子の線で、引き続き図書館通いを続けています。


追記(2024.7.3)
『西区史』を閲覧したところ、中村徳三郎の「戸部映画劇場」は「天神町1-7」にあった劇場で、関東大震災までは浪曲の寄席「柳亭」、震災後に「柳座」となって宝仙キネマ、天神座、戸部映画劇場と名前を変えて、上掲の新聞記事にある昭和17年11月から演劇専門の劇場になったのだそうです(昭和18年9月には再び映画館となったらしい)。「消えた映画館の記憶」にある「戸部映画劇場」も同じ名前ですが、戦後、石崎町1-13(戸部警察の並び)に開場した映画館ということです。よく考えれば横浜大空襲があったのですから、同じものと考える方がおかしかったのですね。


→つづく

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(82) 川上好子の足跡探し(日吉劇を追って)

主宰する劇団の公演があったので、ずいぶん間が空いてしまいましたが、ようやく残務も片付いて大高調査も再開です。


大高(前名の高杉弥太郎も含む)の痕跡がなかなか見つからないことから、ひとつの手がかりとして日吉良太郎一座にいた川上好子の足跡をたどることで大高との接点を探ってみようというのがこのところの方針です。

というわけで、「復興博の女神」に入選した昭和10年から大高と共演した記録のある昭和15年まで、特にこれまで調査対象にしてこなかった昭和10年と昭和11年の横浜貿易新報をつぶさに見ていくことにしました。


昭和10年4月から7月までの調査では、川上好子の動向はわかりませんでしたが、同年7月5日に日吉良太郎一座の巡業スケジュールが掲載されていました。

1935(昭和10)年7月5日付横浜貿易新報より

この時期の日吉一座は横浜歌舞伎座ではなく、伊勢佐木町の敷島座を横浜での拠点としていましたが、夏季は主に甲信地方を巡業するのが恒例だったようです。特に長野での人気は絶大で「信州の団十郎」との異名をとっていたそうです(「松本市史」や「松代町史」「大町市史」などには日吉良太郎の名前が出てきます)。

日吉良太郎は信州と横浜での人気が高かったとはいうものの、7月から9月までの夏季巡業というスタイルには「東京の人気劇団による地方巡業」というより、そこはかとなく「ドサまわり」の雰囲気を感じてしまいます(このあたりの感覚はもう少し調べないとわからないところです)。

それがこの2年後、昭和12年には東京の大劇場である江東劇場で柿落し興行をやることになるのですから、どこをどう飛躍すればそんなことになるのか、川上好子が所属していた昭和10年代初めの日吉一座については、まだまだ調べることが山積です。

さて、話が脱線しましたが、その記事による昭和10年7月前半の日吉一座・夏季巡業はこんな感じです。

7月5日〜9日 八王子 関谷座
7月10日、11日 山梨県猿橋町 白猿座
7月12日、13日 長野県富士見村 富士見劇場
7月14日〜16日 長野県〇〇村 常盤座

現代的な感覚からすると、なかなかのハードスケジュールな感じがあるものの、当時の巡業としてはそんなに珍しくなかったことでしょう。記録はありませんが、この年の巡業座組の中には川上好子もいたはずです。


上記劇場のうち、八王子の関谷座はオークションサイトに絵葉書がありました。なかなか立派な劇場です。「消えた映画館の記憶」によると、関谷座は昭和13年には映画館に転向し「東宝映画劇場」と改称されますが、昭和20年8月の空襲で焼けてしまったそうです。

猿橋町の白猿座についてはかなり詳細に調べてあるサイトがあって助かりました。この劇場は戦後も残っていたそうですが、映画に押され、老朽化も進み廃屋同然になっていたのが、昭和47年に失火で焼失したのだとか。しかし、衣装や大道具などは残ったそうで、白猿座の記憶は「大月こども歌舞伎」として継承されているようです。


さて、またぞろ話を戻すと、以前にも投稿したように入手した昭和12年の日吉一座巡業時のプログラムに川上好子の名前がないこと、さらには昭和13年6月、日吉一座が横浜での拠点を横浜歌舞伎座に移した際の配役一覧の中にも川上好子の名前がないことから、今回調べようとしている昭和10年4月から昭和12年の夏までのどこかで、川上好子は日吉一座を離れて独立したのだろうと推測されます。

1938(昭和13)年6月3日付横浜貿易新報より
(川上好子の名前はない)

川上好子が籠寅演芸部に所属していたことは間違いなさそうなので、独立後、おそらく同じ籠寅傘下にいたであろう大高(高杉)がどう関わってくるのかが今後の調査の焦点です。


→つづく

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(81) 川上好子のこと

大高よし男の経歴を探るにあたって、近江二郎との関係が鍵になると思っているところですが、昭和14年以前の手がかりが見つからず難航は続いています。

そんなこんなで、今回も周辺情報から。

昭和16年4月23日から神奈川県新聞で「横濱に住む俳優群を語る(横濱演劇懇話會調)」という連載が始まります。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より


ここで取り上げられている俳優は以下の方々です(掲載順)。

市川団之助
市川升紅
石原美津男
市川新升
市川荒右衛門
市川茂々市
市川三蔵
大谷門二郎
澤村清之助
市川莚蔦
澤村訥美太郎
中村芝梅
市川島蔵(?)
市川蔦之助
市川荒子
市川筆之助
佐久間實
澤村訥紀十郎
静川君之助
林重四郎
北島晋也
牧野映二
生島波江
藤代朝子
岡田梅男
小金井秀夫
水の江城子
※川上好子
曾我廼家明石
五月信夫
静間■
嵐傳五郎
嵐ひろ子
市川コズエ
橋本梅蔵
中島三浦右衛門
佐藤幾之助
佐藤新十郎
荒井信夫
尾上梅代
三島啓介
松井幾人
松岡壽美子
中川清
青木俊二
池田富雄
市川三之助
佐上善行
澤村清枝
大江美智子
藤原かつみ
伊藤三千三
吾妻千恵子
大江美加(?)子
星十郎
関谷妙子
★近江二郎
★深山百合子
★衣川素子
勝川三次
★戸田史郎
尾上羽多丸
松本米世
青柳早苗
三井一枝
久松勝代


この中には当時、すでに引退している俳優も含まれていますが、昭和16年の段階でこれだけの役者が横浜に住んでいたというのは驚きです(記事中に「横浜歌舞伎座の日吉劇、敷島座の籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、実態としてはもっと多くなるはずです)。


それぞれの方の経歴も演劇史的には興味深いものばかりですが、それはいずれ別にまとめるとして、やはり気になるのはこの中に「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前がないことです。

戦前、戦中、戦後と、大高がどこに住んでいたのかはまったく不明です。戦後はさすがに杉田や弘明寺あたりにいただろうとは想像できますが、それ以前については手がかりがありません。

ただ、上記の記事に彼の名前がないことからすると、大高は横浜に住んでいなかったか、少なくともこの記事をまとめた小林勝之丞を含む横濱演劇懇話會のメンバーは、大高を「横浜の俳優」とは認識していなかったのだと考えていいでしょう。近江二郎や妻・深山百合子、子・衣川素子、弟・戸田史郎が載っているのですから(★印)、大高が近江二郎のように横浜在住の役者だと思われていたとしたら、ここに載っていておかしくないはずです。

前述の通り、記事には「籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、大高はその「別」に含まれているのかもしれませんが、籠寅がらみの役者が何人か掲載されているので、大高が掲載されていないのはちょっと不自然です。

(もっとも、この記事自体、戸田史郎の本名を「笠川四郎」としている点など(実際は「近江資朗」)、誤りも多そうなので、資料としての信憑性には若干の疑義があります)


前回の投稿でも言及しましたが、ここには「川上好子」が掲載されています(※印)。川上好子という名前は昭和10年の「復興博の女神」コンテストで7位に入選した日吉劇の女優として、また昭和15年に近江二郎一座と共演している(つまり大高と共演している)一座の座長として記録がありますが、この両者が同一人物なのかはよくわかりませんでした。


ですが、復興博の女神コンテストの翌年、昭和11年1月に横浜貿易新報に掲載された「熱と力の俳優『日吉』を語る」という座談会記事の中で

北林(透馬)「『男は泣かぬ』に出てゐる、川上好子、あれは巧いですね」
小林(勝之丞)「横濱で生れた優です」

と言及されていることから、川上好子はもともと日吉一座にいたのが、独立して女剣劇の一座を成したのだと考えて間違いなさそうです。

1935(昭和10)年1月23日付横浜貿易新報より


大高一座に参加していた生島波江も同じような経過をたどっているように思われますが、全国的な知名度の上では川上好子の方がはるかに上だったようで、以前にも紹介した通り、木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)に人気の女剣劇座長として写真が掲載されています。復興博の女神に入選した昭和10年から、昭和15年までの間に川上好子は日吉劇から独立したのでしょう。

昭和15年に敷島座で近江一座と共演した川上は、その後もしばらくは近江一座と行動を共にしています。大高の足跡は近江一座だけでなく、川上一座に刻まれている可能性も否定できません。その前後の川上好子の動向を調べることも、手がかりになりそうです。


→つづく

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(80) 復興博の女神

関東大震災からの復興をアピールする目的で、昭和10年3月26日から5月24日まで、山下公園を中心に「復興記念横浜大博覧会」という催しが開かれます。

これに先駆けて新聞社の「横浜貿易新報」が「復興博の女神」という、ミスコンみたいなことをやったそうです。そのことは小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』に書かれていたので、以前から情報としては知っていました。


先日、図書館で当時の新聞を閲覧してみたところ、これが想像以上に大きな扱いで(自社が主催しているのだから当然ですが)、しかも連日、過熱報道と言えるほどの記事が並んでいて、かなり驚かされました。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より

このコンテストは新聞に投票用紙が掲載されていて、読者がこれぞという女性に投票し、1ヶ月間の得票数で順位が決まるというものでした。ですから、審査員が1位を決めるようなミスコンとはちょっと毛色が異なり、人気投票のようなものだったのでしょう。対象も一般人ではなく、芸妓やカフェの女給などだったようです(いまと違って一般女性がそういう対象になるという概念がなかったのでしょうね)。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より
(投票用紙の横にいま朝ドラで話題の「明治大学女子部」の広告がある)

復興博の女神に選ばれると

  • 当選者30名を「復興博女神」として、横浜貿易新報社特製の帯留を贈呈
  • 1位〜5位には訪問着を贈呈
  • 当選者30名を新聞1ページのグラビアで紹介する
  • 復興博期間中に開催する「商工祭」の仮装行列で花車を作る

という特典があったそうです。賞品云々というより、新聞に写真が掲載されたり、仮装行列に出たりと、選ばれた人たちからすれば自分自身や店の宣伝の方が目的だったことでしょう。


演劇研究家である小柴さんがこれを取り上げている理由は、「復興博の女神」で第1位になったのが日吉劇の看板女優「花柳愛子」だったからです。

花柳愛子は座長・日吉良太郎の妻でもあり、コンテストにおいては日吉一座がかなり強力にバックアップ、というか組織票の取りまとめみたいなことをやったような気がします。そもそも女優が選ばれること自体、顔ぶれの中ではかなり異色だし、当初低迷していた花柳愛子の順位が急激に上がってくるのも、不自然と言えば不自然な感じがするところです。

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より


とはいえ、そもそもが人気投票という性格のものですから、組織票ではあってもそれだけの票を集めることが人気の証しなのでしょうし、これが日吉一座としては絶好の宣伝機会になったことでしょう。こういうものに目をつけるあたり、日吉良太郎の興行師としてのしたたかな戦略を感じさせます。

ともあれ日吉劇の看板女優はめでたく第1位を獲得したわけで、開票の翌日には日吉良太郎と敷島座(当時の日吉劇の拠点)の連名で当選御礼の広告が出ています。

昭和10(1935)年3月28日付横浜貿易新報より


実は、大高よし男を調べている僕としては、花柳愛子もさることながら、同時入選している「川上好子」の方が気になるのです(日吉劇団からは二人の女優が選ばれた)。

というのも、大高よし男が高杉弥太郎として近江一座とともに横浜敷島座に登場した時の座組が、酒井淳之助一座に近江二郎一座と川上好子一座が特別加盟した合同公演という形だったからです。

昭和15(1940)年3月7日付横浜貿易新報より

この時の川上好子と日吉劇にいた川上好子が同一人物なのか、はっきりしませんが、別の記事には「横浜の名花」と形容されていますし、さらに後年の記事では横浜在住の俳優として紹介されているので、川上好子はもともと日吉劇にいたのが、独立して一座を成したと考えるのが妥当な気はします(この時は「籠寅演芸部専属」となっています)。

昭和16(1941)年4月26日付神奈川県新聞より

同じ舞台で共演していることからして、当然、川上と大高は知り合いだったと考えられます。川上好子が日吉劇にいたとすれば、戦後の大高一座に日吉劇のメンバー(藤川麗子・生島波江・壽山司郎)が参加した経緯に、川上の存在が何らかの形で影響したのかもしれません。

そんなことも含めて、川上好子の詳しいプロフィールや、大高よし男との関わりについても、もう少し深く調べてみる必要がありそうです。


余談ですが、復興博の女神・花柳愛子は本名を「北村きく」といい(日吉良太郎の本名は北村喜七)、1985年、横浜市中区役所が『中区史』を発刊する際、彼女は資料提供や聞き取り調査で協力をしていました。

『中区史』より資料提供者リスト(一部)


『中区史』には花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されているほか、日吉一座が拠点としていた横浜歌舞伎座の写真も載っています。

『中区史』より横浜歌舞伎座

掲載されている横浜歌舞伎座の写真をよく見ると、入口の看板には

「兄妹の心」
「何が彼女を殺した?」
「血達磨伝令兵」

の三演目が掲げられていて、これを小柴さんのまとめた資料(『郷土よこはま』No.115)と照らし合わせると、撮影されたのは、日吉一座が横浜歌舞伎座に初お目見得して数ヶ月後、昭和13年10月7日から13日の間だとわかりました。

写真の奥には劇場前に自転車が並んでいるのが写っています。また、その前の壁面には「演劇報国」という字が大きく書かれているように見えます。「演劇報国」は日吉一座のモットーで、こんなふうに劇場前に掲げていたのかと思うと、やはり時代を感じさせるところですね。


『中区史』に載っているこの写真は、残念ながら市立図書館のデジタルアーカイブでは公開されていないようで、原本がちゃんと保管されているのかどうかいささか心配になります。


→つづく

「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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