(7) キーマン 鈴村義二・3

渥美清が旧杉田劇場の舞台に立ったと現杉田劇場のウェブサイトにも掲載されていますが、実は彼の若い頃の経歴はよくわかっていません。所属していたとされる劇団が杉田で公演したことがあるようなので、それをもって「立った」と言うこともできそうですが、僕にはまだ確証がありません(これも継続調査中です)。

その渥美清が浅草の舞台に出演するようになるのは、1951年頃。浅香光代はすでに自分の一座を結成して人気者。てんぷくトリオ結成前の三波伸介や戸塚睦夫がその一座に参加しており、後年、1956年頃、井上ひさしがフランス座の文芸部員となる。

鈴村を通じて、浅草とも細い糸でつながっている旧杉田劇場の歴史は、その前史ということになります。そんな時代の話…


さて、映画劇場をつくると決めた高田菊弥が頼った相手は鈴村義二。片山氏の証言からもそれは間違いありません。映画界・芸能界には疎かったであろう高田にとって、鈴村は心強い存在だったと思います。

しかし鈴村の経歴からすると、彼の主な活躍の場は芝居小屋や演芸場。スクリーンではなかったように思います。映画劇場を開こうという高田の話を聞きながら、鈴村はどう思ったのでしょう。

ここからは完全に僕の想像(妄想?)です。

主に実演者のマネジメントをしてきた鈴村からすれば、映画劇場では自分の人脈を十分に使えない。付き合いのある芸人や役者に仕事を回せない。もっと露骨にいえば、利益は映画会社に持って行かれて、仲間内にも自分にも分け前が降りてこない。映画館では自分の力を十分に発揮できないではないか。

そう思ったとしてもおかしくはありません。

昭和20年11月、戦争を生き延び、杉田の地で再会したこの二人の間にはどんな会話が交わされたのでしょうか…(以下、妄想が肥大化した果ての創作です)

高田「鈴村先生、戦争が終わって、これからは娯楽の時代です」
鈴村「そうだね」
高田「娯楽の中でも先々を考えれば映画。映画が娯楽の王様になると私は確信しています。だから杉田に映画劇場を作ろうと思っているんです!」
鈴村「うむ…」
高田「映画こそがこれからの時代…」
鈴村「高田さん」
高田「はい」
鈴村「あなたの考えは悪くないが、映画はまだは早い」
高田「そうですか?」
鈴村「戦争が終わってまだ半年も経っていないんだ。フィルムだって十分にはないし、GHQの問題だってある。売れる映画がすぐにできるなんて保証はない。実はいま、浅草で一番ウケているのは、喜劇や剣劇や浪曲。実演だよ、実演。今、劇場を始めるなら絶対に実演だ」
高田「実演、ですか…」
鈴村「いいかい。私は伊達や粋狂で言っているんじゃない。生き馬の目を抜く浅草の興行界を、何十年も渡り歩いてきた男の勘が、そう言わせているんだ」
高田「勘…」
鈴村「もっとも、それを信じるか信じないかは、高田さん、あなた次第だよ」
高田「…わかりました。鈴村先生を信じます。杉田は実演の芝居小屋にします!」
鈴村「高田さん! あなたならわかってくれると思ってたよ。私も命懸けでやる! 力を合わせてがんばりましょう!」
高田「はい!」

なんていう芝居がかったクサいやりとりがあったかどうかはわかりません。ただ、理由は定かではないものの、鈴村には高田の新劇場を実演専門の芝居小屋にした方がいいと考える何かがあったのだろうとは推察できます。そのあたりは戦前・戦中の鈴村の活動をさらに調べてみることでもっとよく見えてくるような気はします。継続調査です。

鈴村義二

(と、ここまで書いて、なんだか鈴村を悪者に描きすぎているような気がしてきたので、ひとつフォローすると、杉田劇場の開場後、滝頭の天才少女、加藤和枝ちゃんが大高ヨシヲ一座の幕間に幕前で歌っている姿を見て、即座にその才能を見抜き、舞台で歌わせるようにと指示したのは鈴村だそうです。つまり、のちの美空ひばりを最初に見出したのは鈴村義二といってもいいのかもしれません。芸を見極める眼力はやはり確かなものだったのでしょうね)

ともあれ、そんなこんながあったりなかったりの末に、新聞記事にあった「杉田映画劇場」は「映画」を外した「杉田劇場」としてオープンすることとなります。

終戦からちょうど4ヶ月半、1946年、昭和21年の元日です。

→つづく(次回は週末)

(6) キーマン 鈴村義二・2

 鈴村義二の名前、いまは広く世間に知られているとは言い難いものですが、当時の浅草を中心とした興行界(芸能界)では名の知れた人で、それなりの活躍もしていたようです。ただ、詳しいことはよくわかりません。

鈴村は後年、『浅草昔話』という本を出していますが、奥付けにある、自身が書いたと思われるプロフィールにはこうあります。

  • 明治三十一年 下谷西町に生る。
  • 大正十年 東亜青年同盟会組織、会長。
  • 大正十四年 下谷区会議員当選。
  • 大正十五年 振興青年団々長。
  • 昭和元年 日連[ママ]主義天法会々長。
  • 昭和元年より終戦まで浅草木内興行相談役として大衆演劇の育成指導並劇団顧問。
  • 昭和六年 海江田プロ理事長、大阪極東キネマ撮影所相談役。
  • 昭和六年 政治結社革新青年同盟を組織。
  • 戦時中、剣舞踊、民謡を主体に瑞穂絃楽団を組織、軍需省派遣にて全国慰問に従事。
  • 大麻博之殿主の詩吟道場日本放光殿剣吟舞踊並びに舞踊田毎流宗家田毎一平と号す。
(鈴村義二著「浅草昔話」南北社事業部 昭和39年12月30日発行 より)

失礼ながら、なかなかのアヤシさで、いかにも昭和の興行界という感じがします。

ここに書いてある「木内興行」は戦前から浅草で劇場経営や芸人・劇団の、いまでいう「マネジメント」をしていた興行会社(芸能事務所)で、エノケンとも関わりがあったくらいですから、力のある事務所だったのだろうと思います。木内興行の相談役を「終戦まで」としてあるのは、戦後、声のかかった杉田劇場に軸足を移したことを意味しているのかどうか、詳細はよくわかりませんが、いずれにしても、終戦までは鈴村はこの木内興行との関わりの中で、上野・浅草あたりの劇団や芸人たちを仕切っていたのではないかと推察されます(片山氏の証言にある「浅草の芸能界で有名」とはそういうことなのでしょう)。だから、杉田劇場に出演した劇団や芸人は、少なくとも開場当初は鈴村がブッキングしたのだろうと思います(彼らと木内興行との関係も調べてみる必要がありそうですね)。

もうひとつ、鈴村義二と高田菊弥のつながりをうかがわせる重要な手がかりが、このプロフィールの中にあります。

「戦時中、剣舞踊、民謡を主体に瑞穂絃楽団を組織、軍需省派遣にて全国慰問に従事」

戦時中、外地(戦地)への慰問が行われていたのはよく知られていますが、国内、特に炭鉱や軍需工場への慰問もかなり行われていたそうです。ネットで見つけた論文にはこんな記載があります。

“アメリカの石油輸出禁止によって深刻な資源不足に陥っていた日本は、国内の炭坑や鉱山の資源確保に力を入れていた。そこで多くの労働者が登用され、昼夜問わず過酷な労働環境の中で働く“鶴嘴戦士”が誕生した。また工場でも増産が叫ばれ、“生産戦士” らにも過酷な労働条件が課されていた。彼らを激励し、より生産効率を上げることを目的に、大日本産業報国会によって多くの演芸慰問団が組織されたのである。 歌や踊り、漫才や映画上映など、その種類は多岐にわたっていた”
(葛西真由香「昭和戦時下における慰問団の実態についての一考察」/『政治学研究64号』慶應義塾大学法学部政治学科ゼミナール委員会, 2021 p.9-10)

鈴村の組織した演芸慰問団が「軍需省派遣」であるということからも、彼が演芸慰問団を率いて、主に軍関係の生産現場を巡っていたのだろうと推察されます。

実際、鈴村と慰問の関係は、林家正蔵の戦中日記からも窺い知ることができます。

“(昭和20年)三月二十八日(水)
山ふところの梅林を観ながらに走るトラックのうへ。
鈴村義二氏に誘はれて山北の山間へ慰問に行く。久しぶりで田舎へ来てノンビリした(中略)移動連盟の人達と一緒だったがこれ又すはほな連中である(以下略)”
 (八代目林家正蔵『八代目正蔵戦中日記』(瀧口雅仁編/中公文庫)より*下線筆者) 
※傍注には「作家」とありますが、実際は「興行師」「プロデューサー」の方が近いんじゃないかと思います

疎開先でもおかしくないような地にどうして慰問団が行くのだろうと思って調べてみると、戦時中、山北町には「江戸川工業所(現・三菱ガス化学)」という化学薬品メーカーの工場があって(1933(昭和8)年開設)、海軍のロケットエンジンの燃焼実験にも関わっていたそうです(なんと日飛の「秋水」とも関係しているではないか!)。やはり一種の軍需工場ということになるのでしょう。林家正蔵らの目的地は、その工場だったにちがいない。そこに鈴村が(おそらく)随行していたわけです。

とすると、鈴村義二が演芸慰問団を連れて杉田の「日本飛行機」を訪れていたとしてもまったくおかしくありません。高田も従業員とともに公演を見に行ったことでしょう。下請けとはいえ社長ともなれば、日飛の担当者と一緒に、公演後、芸人や鈴村に接待のようなこともしたかもしれない。少なくとも対面での挨拶くらいはあったと思います。それが回を重ねていくうちに、

「鈴村先生!」
「やあ、高田さん」

という関係にもなる(「昵懇の間柄」)。想像に難くないところです。

これを確実なものにするためには、神奈川県内(横浜市内でもいい)の慰問状況を具体的に調べ上げることが必須ですが、戦時中のこうした記録が残っているかどうか。他の人の戦中日記を渉猟することも併せて、継続調査したいと思います。

ともあれ、これで、まったく無縁に思われた高田菊弥と鈴村義二のつながりが、うっすらと見えてきました。

→つづく


(5) キーマン 鈴村義二・1

 ここでちょっと大高ヨシヲから離れて、旧杉田劇場のこと。

杉田劇場のオーナーは高田菊弥という人です。戦争中、杉田(金沢区昭和町)の「日本飛行機」(日飛)という会社の下請け工場を経営していました。出身は信州の木曽(南木曽)で、彼がなぜ木曽から横浜に出てきて、そういう仕事をしていたのかは正直よくわからないところですが、今回はそこには触れません。

日飛のウェブサイトによれば「1934(昭和9年) 旧海軍用航空機の生産を目的に(旧)日本飛行機(株)を創業」とあります。初代社長は初代社長は加藤亮一氏(元海軍中将)で、二代目が堀悌吉氏(元海軍中将)ともありますから、重要な工場だったのでしょう。

サイトにはまた「堀社長は、山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友であり、後、山本長官はしばしば当社を来訪された」とありますし、終戦間際にはロケット戦闘機「秋水」の製作も担っていたとも書いてあります。

1931(昭和6)年刊行の『土地宝典』を見ると、杉田・中原はおだやかな海に面した、田畑の広がるのどかな風景だったようで、農業や漁業を生業としていた家が多かったと思われます。そんな杉田の人々にとって、日飛は突如あらわれた巨大工場、という印象だったかもしれません(1936年には隣接地に横浜海軍航空隊もでき、景色が一変したのだと思います)。

おそらく杉田や富岡あたりにはたくさんの下請け工場ができ、社員寮やアパートや関連施設も続々建ったと思います。そこで働く人たちが利用する飲食店や商店なども多くなり、街は日々賑わいを増していったことでしょう。日飛(や石川島)のような工場が、いまの杉田の街の基盤を作ったといっても、あながち間違いではない気がします。

そんな日飛の下請けのひとつが高田菊弥の経営していた工場(「東機工」という会社だそうです)ということになります。

しかし、いかんせん軍需産業ですから1945年8月の敗戦とともに工場は即閉鎖されます。当然ながら下請けの仕事もなくなり、日飛も東機工も社員は路頭に迷うことになります。まずは新しい仕事を探さなくちゃいけない。日飛の社員の中には会社を離れて岡村町に「岡村製作所(現オカムラ)」を創業した人たちもいたそうです。東機工の経営者・高田菊弥も「えらいこっちゃ。なんとかしなくちゃ」…と言ったかどうかはわかりませんが、とにかく必死に生き延びる術を探し、あれこれ考えを巡らせたに違いありません。

で、思いついたのが「劇場」。

この発想の飛躍にはちょっと驚かされますが、高田菊弥という人のことをじっくり考えてみれば、そんなに突飛でもない気がしてきます。実は高田菊弥、かなり先見の明のある人だったんじゃないかと僕は思っています。彼が生まれたのは明治43(1910)年。昭和16(1941)年に東機工を創業した時は30歳か31歳。生まれ育った地元ならまだしも、遠く離れた横浜の地での会社経営です。現在とは価値観が異なるとはいえ、その当時でも30歳の若さで会社を起こすには、それなりのバイタリティと時代の先を読む力が必要だったでしょう。

そんな高田が終戦で考えたのが

「平和な世の中になった今、娯楽が求められているはずだ」

ということ。

業態の変わりっぷりは尋常じゃありませんが、着眼点は悪くないと思いませんか。実際、横浜市内で戦後にできた劇場・映画館の中ではおそらく杉田劇場の開場が一番早く、このスタートダッシュの良さは、高田の先見性と決断力によるものも大きいのではないかと僕は考えています(ひょっとすると高田自身、芸事好きだったのかもしれないですね)。

唖然としながら、ほかに良案のない社員たちも運命を高田に託し、さっそく工場から劇場への改装工事が始まります。たぶん昭和20年の秋の終わり頃です。

ところで、昭和20年11月の神奈川新聞に「磯子に映画劇場」というタイトルの記事があります。

昭和20年11月30日付神奈川新聞より

見出しには「磯子に」とありますが、記事を読めば建設地が杉田であると分かります。また記事の締めには「蓋開は来月十五日の豫定である」(「蓋開」という言葉をここで初めて知った)とも書いてあるので、要約すると「昭和20年12月15日、磯子区杉田に映画劇場が開場する予定」ということです。

(記事中には「今まで車馬の響より外に聞かれなかったこの方面に音楽の音の流れるのも間近い」とも書いてあるので、杉田をどんだけ文化不毛の地扱いしているんだとも思いますけどね)

前にも引用した、現杉田劇場の聞き書きによる片山茂氏の証言には「(杉田劇場は)暮の12月20日頃には大方の工事が終り」とありますから、高田たちの作業工程はこの記事内容に近い感じです。また、戦後の杉田には映画館が2つ(杉田東映と東洋劇場)あったものの、どちらも1950年代のオープンなので、この記事とは明らかに時期がズレます。つまり、ここで報じられている「映画劇場」は、杉田劇場のことで間違いないと言えそうです。

いや待てよ。とすると、高田菊弥は当初、映画館を作ろうとしていたのか?


ここで登場するのが、杉田劇場のキーマン、鈴村義二です。

片山氏の証言にはこうあります。

「(高田は)早速、芸能界の実力者の鈴村義二先生に電話し協力を頼んだ。 当時の鈴村先生は台東区の区会議員で、浅草の芸能界では有名人でした。高田とは戦時中よりの昵懇の間柄で、すぐに承諾してくれ、11月初めに鈴村先生が杉田を来訪されました」

工場経営者と芸能界の実力者がどこでどう結びつくのか不思議なところですが、それは後述するとして、いずれにしても昭和20年11月、「浅草の芸能界では有名」だった鈴村義二という人が高田菊弥のもとを訪れ、おそらくそれ以降、杉田劇場の「ブレーン」ないし「プロデューサー」となるわけです。

しかし、映画劇場になるはずだったものが、なぜ実演の芝居小屋に方向転換したのか。

もちろん、当時の映画館は映画だけでなく幕間に実演をやるようなケースも多く、「映画劇場」だからといって実演とは無縁ということもないのですが、開場後の杉田劇場が一貫して芝居・浪曲・落語など実演ばかりをやっていることからすると、当初から映画ではなく実演専門の劇場だったことは明らかです。

そこにはプロデューサー、鈴村義二が深く関わっていたのではないか。

かなり妄想をふくらませた仮説ですが、僕はそう思っています。

→つづく

(4) 大高ヨシヲの謎・2

 そんなわけで、かすかな手がかりも手がかりと呼べるかどうかわからないレベルですし、ハードルも高いので、ひとまず次の謎へ。

「どんな劇団だったの?」


この謎には比較的多くの手がかりがあります。まず、少ないとはいえ演目がわかっていること。もうひとつは現存している2種類のポスターから、役者の名前が判明していること。

とはいうものの「團十郎が助六をやりました」みたいなわかりやすさは皆無ですから、学者でも研究者でもない演劇人(ボク)にはやはりなかなかの難題。

ひとまず、演目だけを抜粋して列記してみます。

  • 明朗時代劇「奴も人間」
  • 「嫌われた伊太郎」
  • 時代劇「涙雨五阡両」五場
  • 明朗劇「応援団長」二景
  • 新舞踊「野崎村」
  • 喜劇「見會」
  • 時代劇「花吹雪 武士道仁義」 
  • 社劇?「家族」四場
  • 時代劇股旅十八番「浮き名の銀平」
  • 「森の石松」
  • 「妻恋道中」
  • 「鼠小僧」
  • 「春雨街道」
  • 現代劇「発車」
  • じゃがいもコンビ 明朗劇「生きてゐる幽霊」
  • 股旅もの 時代劇「いろは仁義」
  • 「滝の白糸」法廷迄全通し
  • 「娘?アイドントノー」
  • 「荒神山」吉良仁吉
う〜ん、ここからわかるのは、少なくとも新劇の劇団じゃないということ(当たり前か)。
といって旧劇(歌舞伎)ともいえない。つまりは、当時の言い方でいう「小芝居」あるいは「軽演劇」の劇団、今の言葉にすれば「大衆演劇」の劇団ということになるでしょう。

ちなみにリンクを貼ったコトバンクの定義から一部を引用すれば、

江戸時代にみられた大芝居・小芝居の差別は明治時代にも大劇場・小劇場という区別となって受け継がれ、その小劇場では、演劇改良を経た大劇場ではすでにみられなくなった古風な芝居が演じ続けられ、根強い人気があったが、第二次世界大戦を境に急速に減少し、旅回りの歌謡ショーや剣劇などにかろうじてそのおもかげをみるにとどまっている

だし

“(軽演劇は)戦後一時息を吹き返したものの、ストリップショーなどに押されて1950年(昭和25)ごろから急速に衰退し、軽演劇ということばも死語と化した。しかしその手法は現在もテレビや大小劇場に伝承されている

ということだから、どっちにしてもこの劇団がやっていた芝居は、江戸・明治から連綿と続いていた地回りの芝居の、最後の煌めきだったように感じます。

と、これだけでもだいぶ進んだ感はあるものの、実はこれだけわかったところで大問題が発生。なんとこの劇団がやっていた演劇ジャンル、

ボクはまったく詳しくない…

うう、弱った…

でも、まがりなりにも大学の文学部、演劇専修を卒業した身でありますから、この調査を通じてあらたに知識を得るつもりで奮闘するまで!

(ガンバラネバ)

さて、最後の謎、「それまで何をやっていたの?」についてですが、これまた手がかりがまったくありません。

ただ、大した知識もない演劇関係者であるボクでも、終戦直後のメチャクチャな時代とはいえ、まったく舞台経験のない素人が杉田劇場の専属劇団になるなんてことは、まずないだろうとは思います。少なくとも座長の大高ヨシヲはどこかで何かやっていたはず。杉田劇場に売り込みに来る前になんらかの舞台経験(プロとしての)はあったはずです。ひょっとするともっと大きな劇団に所属していたのかもしれません。

それを証明するためには、当時の小芝居の有名な劇団のプログラムなどを調べて、その中に「大高ヨシヲ」やそれに類する名前がないかどうか探る必要がありますが、大芝居(歌舞伎)ならばまだしも、小芝居の情報はなかなか表に出てこない(研究者も少ないようです)。というわけで、これも少々難航しそうなところです(詳しくないジャンルだから余計に、というのもあります)。

そんな中、戦後の劇場のことを調べるのにとても有効なサイト「消えた映画館の記憶」(このサイトの情報量はホントにすごいです!)の「横浜市南区」エリアにある「金美映画劇場/金美東映劇場」の項目にこういう記述があるのを見つけました。

“戦時中には洋画の上映が禁じられ、地回りの歌舞伎を上演する芝居小屋「金美劇場」となった”(『横濱南区 昭和むかし話』南区役所・南区制60周年記念事業実行委員会 からの引用)

この劇場(映画館)は吉野町にあったらしいので、杉田からはそんなに遠くない(当時は市電があったことを思うと、感覚的には今よりもっと近かったのかもしれない)。

もしかしたら戦中の新聞広告に何か出ているかもしれません(盲点でした!)。

そこに金美劇場での「暁第一劇団」ないし「大高ヨシヲ一座」の公演があったら…

ビンゴ!

なんですが、はたして、そうウマく行くかどうか。

ともあれ「大高ヨシヲ」調査の、最初の手がかりが見つかったような気がします。

(ガンバリマス!)

 

そんなこんなで、ブログ初っ端の4連続投稿でしたが、ここで一旦小休止。

続きはまた来週末。乞うご期待!!

※今後も週末ごとに投稿する予定です。

(3) 大高ヨシヲの謎・1

 というわけで、大高ヨシヲの「わかっている範囲での」経歴は、なんとかたどることができたわけですが、これは杉田劇場が蒐集した情報を参考にしているので、いわば人の褌で相撲を取るみたいなもの。

ここからが本当の「大高ヨシヲ探し」の始まり、ということになります。

とはいえ、手がかりはこれだけですから、途方に暮れるばかり。思わずひとりごちてしまうほどの暮れっぷりです。

大高さん、あなた一体誰なんですか?


さて、そんな謎だらけの大高ヨシヲ。何がって

  1. あなたは誰なの?
  2. どんな劇団なの?
  3. それまで何やってたの?

が三大「大高の謎」といっていいでしょう。くどいようですが、とにかく情報が少ない。少なすぎる。それでもなんとかしなくちゃいけないというのは、もはや趣味や興味を超えて因業のようにさえ感じます。

ふぅ(デモガンバル)

 

まず第一の謎「あなたは誰なの?」。

これについていえば、残念ながら大高ヨシヲの写真もありませんし(葬儀の後の集合写真はあるけど当然本人はいない)、年齢もわかりませんし、芸名なのか本名なのかさえもわかりませんし、厳密に言えば性別だってわかりません。つまり、今の段階では

杉田劇場に出演していた劇団の座長で役者で、木曽で事故死した人

ということになります。

だいたい名前からして、このブログでも「大高ヨシヲ」としていますが、これは杉田劇場に掲示してあるポスターに倣っているだけで、新聞広告だと「大高ヨシオ」だったり「大高義雄」だったり「大高よし男」だったり。気の短い人なら

どれなんだよ!

とキレてもおかしくないほどです(キレないか?)。

かすかな手がかりは、彼が亡くなることになった事故について、もしかしたら現地の新聞が記事にしているかもしれないという、ボクの推測(ほぼ念願)。

ところが、昭和21年の長野の新聞を閲覧するというのはなかなかハードルが高いのです。イマドキ、なにがしかのお金を払えば簡単にネットで見られるのかと思いきや、昭和21年の記事を個人が、というのはどうやらできないみたい。

ぐむ(デモガンバル)

 

日本大通のニュースパーク(新聞博物館)には「新聞閲覧室」というのがあって、全国の新聞記事のデータベースが揃っているらしいから、近いうちに行ってみようと思います。それより何より、もし誰か長野に行く用事があったら

長野県立図書館に行ってきて〜!(そこなら確実にある)

というわけで 

→つづく

(2) 大高ヨシヲの生涯 〜わかっていること〜

 杉田劇場の資料(新聞広告や故片山茂氏(杉田劇場のオーナーである高田菊弥の甥であり従業員)の証言)などから、これまでにわかっている大高ヨシヲの経歴をたどると


1946(昭和21)年

1月1日(火)

 杉田劇場、磯子区杉田町2184に開場

2月

 大高ヨシヲ、杉田劇場に来訪、出演依頼(売り込み)

2月中旬〜

 大高ヨシヲ劇団の公演始まる

4月?(日付不明)

明朗時代劇「奴も人間」
「嫌われた伊太郎」
音楽 歌謡曲 おどりの美空楽団

4月?(日付不明)

時代劇「涙雨五阡両」五場
ミソラ楽団 出演
明朗劇「応援団長」二景

4月9日(火)〜12日(金)

 暁第一劇団(三の替)
新舞踊「野崎村」
喜劇「見會」
時代劇「花吹雪 武士道仁義」 
 特別出演 ミソラ楽団

4月13日(土)〜16日(火)

 暁第一劇団 大高ヨシオ一座(四の替)
社劇?「家族」四場
時代劇股旅十八番「浮き名の銀平」
 民謡と軽音楽 ミソラ楽団出演 

4月22日(月)〜24日(水)

 暁第一劇団 大高ヨシオ一座 ※演目不明

9月1日(日)〜15日(日)

 暁第一劇団
 「森の石松」「妻恋道中」「鼠小僧」「春雨街道」(四日毎に狂言差替)

9月23日(月)〜26日(木)

 暁劇団
現代劇「発車」
じゃがいもコンビ 明朗劇「生きてゐる幽霊」
股旅もの 時代劇「いろは仁義」

9月27日(金)〜30日(月)

 暁劇団
「滝の白糸」法廷迄全通し
「娘?アイドントノー」
「荒神山」吉良仁吉

10月1日(火)

 木曽への旅公演へ出発(横浜〜甲州街道〜塩尻〜木曽のルート)
 長野県須原付近でトラックが横転。大高ヨシヲ、事故死

10月2日(水)

 中津川の火葬場で火葬。遺骨は横浜に戻る

と、以上がこれまでわかっていること。

う〜ん、難しい…

それにしても、最期が旅公演へ向かう途中で事故死というのは、なんともやりきれない感じがします。
木曽の公演は10月2日と3日で、4日には杉田劇場での公演も決まっていたようだから、かなりな強行軍だったのかな。

ともあれ、かなり心もとない感じですが、ここから「大高ヨシヲを探せ」の旅がスタートです。

(1) 大高ヨシヲを探せ!

磯子に住んで40数年、演劇の仕事を始めて30年弱。

杉田劇場(磯子区民文化センター)との付き合いが始まってほぼ7年。

地元を知らないことに愕然としたここ数年。

旧杉田劇場が存在していたことは知っていたけど、どこにあったのかぼんやりとしか知らず、初期の葡萄座が何度か公演していた以外、どんな演目を上演していたのかもさっぱりわからず。

(おいおい、これで地元の演劇人と言えるのかい?)

てな気分に陥ったこのごろ。

そんな中、劇場スタッフ(地域文化コーディネーター)のTさんに影響されて、地域のことを調べているうちに、旧杉田劇場の専属劇団だった「暁第一劇団」座長、大高ヨシヲのことが俄然気になってきたわけです。

当時を知る人は大高ヨシヲがとても人気のある役者だったと言っているようだし、美空ひばりの舞台デビューがこの劇団の幕間だったという話もあるし、すごい人なんだなとは思うけど、正直、この人がどんな役者で、どういう経歴で、どこに住んでいたのか

誰も知らない…

手がかりも

ほぼない…

こうなると、地元の演劇人としては

よし、自分が調べるしかない!

と思ってしまうのも無理もないというか無鉄砲というか。

そんなわけで、大高ヨシヲのことをできるだけ調べて、この愛すべき杉田劇場最初の座長の真実をなんとか見つけ出したいと思っています。

どうか、よろしくお願いします。