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(142) 市川栄舛の「いさみ座」

1952(昭和27)年5月、銀星座で市川栄舛大一座「劇団いさみ座」第一回旗上公演が行われるとの広告が出ます。

1952(昭和27)年5月10日付神奈川新聞より

そもそもが小芝居に詳しくない上に「いさみ座」という名称も初めて聞くものですから、唐突に出てきた劇団という印象を受けます。

ただ、座組を見るに、これまでの市川栄舛一座に「いさみ座」と名前をつけただけのようにも思えます。こうした売り出し方で、やや凋落気味の、地域での歌舞伎(小芝居)の再興をしようとした興行的な戦略だったのかもしれません。

「いさみ座」にどういういわれがあるのかは不明です。この一座が長い目で見ると喜楽座や横浜歌舞伎座の更生劇の流れを汲むものであることを思うと、その名前は明治期の「勇座」にちなんだもののように思われますが、関連があるのかどうかについてはよくわかりません。

この座組には市川女猿がいる一方で、市川門三郎の名前はありません。この時期、門三郎はどこかの劇場に腰を据えての興行というより、反町劇場や前回の投稿で言及した川崎花月座など、横浜や周辺地域の劇場を短期間で移動する、近郊の旅興行を続けていたようです。

以前、神奈川県歌舞伎連盟のことを書きましたが(こちら)、その顛末を経てなのでしょうか、横浜(神奈川)の歌舞伎(小芝居)は市川栄舛が取り仕切るようになったようにも感じられるところです。

下衆の勘ぐりで、市川小太夫と市川栄舛の間に何らかの確執があったのではないか、と考えていたわけですが、いずれにしてもこの時期になると、小太夫の姿は神奈川県の興行には見られなくなり、歌舞伎といえば市川栄舛か市川門三郎という形に収斂していきます。


実は資料を再調査していく中で、神奈川県歌舞伎連盟ができる少し前、昭和25年1月、杉田劇場での「東京若手花形歌舞伎」の広告に「市川小太夫口上」の文言があることに気づきました。「連盟結成」の一年半ほど前のことです。

1950(昭和25)年1月17日付神奈川新聞より

広告には「市川栄松」の名がありますが「栄舛」の誤りと思われます。

ここで小太夫がどんな口上を述べたのかわかりません。ただ、その後の展開を思うと、自分も横浜の地で歌舞伎を盛り上げたい、というようなことを言ったのかもしれません。そして、これを契機に小太夫が神奈川の歌舞伎(小芝居)との関わりを深めていったのではないかとも想像できます。

この頃の銀星座はまだ自由劇団が根城としていて、新派や剣劇ばかりを上演していた頃ですから、歌舞伎の入りこむ余地はなかったわけで、歌舞伎関係者にとっては、杉田劇場が頼みの綱というようなところがあったのかもしれません。


さて話は戻って市川栄舛の「いさみ座」ですが、5月11日に始まったこの興行は情報欄や広告を追っていくと、6月の下旬まで続いたものと思われます。1ヶ月ないし1ヶ月半の興行です。

1952(昭和27)年6月15日付神奈川新聞より

余談になりますが、いさみ座の後の銀星座ではストリップの興行が始まります。

1952(昭和27)年6月30日付神奈川新聞より

広告にも大きく出るような形のストリップは、杉田劇場や銀星座ではそれほど多くありませんから、珍しいものではありますが、実はそれ以上に興味深いのは隣の広告です。主にストリップの劇場としてすでに名高い存在であった「横浜セントラル劇場」で梅澤昇一座の興行が行われたというのです。

横浜セントラルではこの直前、ストリップと大倉千代子一座の合同公演(?)がしばらく行われていました。かつては三吉劇場や杉田劇場で大々的に公演を打っていた大倉千代子も、この頃になると単独興行が難しくなっていたのか、ストリップとの併演で凌いでいたようにも見えます。

しかし梅澤昇ともなるとさすがにそうした形態での興行はできなかったのでしょうか。梅澤一座を迎えて、ストリップが上演できなくなった分、銀星座が替わりにそれを引き受けたようにさえ思えてきます(「セントラルにておなじみの」という文言も見える)。

そんな梅澤昇一座からして、この少し前には川崎花月座でも興行をしていますし、浅草などでの実演が厳しさを増す中、神奈川など周辺に活路を見出していたようにも感じられます。その行き着く先が数年後の弘明寺・梅沢劇場ということになるのかもしれません。

戦前から続く実演の、受難の時期が本格的に始まったような印象を受けます。

1952(昭和27)年5月31日付神奈川新聞より

さて、この年の11月10日には銀星座が閉場してしまうので、栄舛の「いさみ座」の名称での歌舞伎はおそらく半年ほどの短期間の活動で終わってしまったのではないかと思われます。

とはいえ、歌舞伎の興行はしぶとく(?)残っていて、この先、銀星座でも歌舞伎は細々とながら続いていたようです。

ちなみに、昭和29年に開場して、33年には閉場してしまう弘明寺・梅沢劇場の最後はかたばみ座の公演でした。


そんなこんなで、今回は市川栄舛の劇団いさみ座についてのお話でした。


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(135) 市川小太夫と市川栄舛

終戦後、神奈川県歌舞伎連盟というのができたという話は、以前ここで書きました(→こちら)。

1951(昭和26)年6月のことです。

この連盟は市川小太夫が呼びかけたもののようですが、一方で、当初、連盟公演の広告に名前のあった市川栄舛が、まったく同じ日程で、弘明寺銀星座で「東京名題大歌舞伎公演」と銘打った興行をやっていて、この両者に何らかのトラブルがあったのではないかと、下衆の勘ぐりみたいなことも想像していたところです。

その後、栄舛の方は同じ座組でたびたび銀星座の舞台に立っていましたが、小太夫の方は横浜の劇場では、しばらく名前を見ることがなくなっていました。


それがその年の10月、ふたたび三吉劇場・市川小太夫劇団の「第二回公演」と銘打った興行が新聞で告知されるのです。4ヶ月ぶりの横浜興行ということになるのでしょうか。

1951(昭和26)年10月23日付神奈川新聞より

しかし不思議なことに、ここには「神奈川県歌舞伎連盟」の文字がまったく見られないのです。4ヶ月前の華々しい宣伝がなかったかのようです。ですが「第二回公演」とあることから、これが6月の「連盟結成第一回公演」の次の興行であることは間違いなさそうです。

もしかしたら、6月の結成公演をめぐるトラブルで連盟自体が頓挫してしまったのでしょうか。それ以降、神奈川の歌舞伎(小芝居)は小太夫一派と栄舛一派に分裂してしまったかのようにも見えます。

断続的に銀星座で興行していた栄舛一座には

市川女猿
尾上大助
片岡燕之助
坂東亀久之丞
市川蔦之助
沢村清枝
関花三郎

らの名前が連なり、一方の小太夫劇団には

沢村清之助
市川猿十郎
市川門三郎
市川秀猿

らが出演していて、主な役者は重複していません。少なくとも「連盟」として一体感のある状況のようには感じられません。

興行の世界ですから、感情の行き違いや思惑の差などでトラブルが起こるのはままあることでしょう。

一方で、時が経つと自然と手打ちになるのもよくある話で。

翌年、昭和27年の銀星座新春興行、市川栄舛大一座の広告には、小さいながら「市川小太夫劇団応援出演」と書かれているので、このあたりで和解が成立したのかな、と、これまた下衆の勘ぐりで思ったりもするのです。

1952(昭和27)年1月1日付神奈川新聞より

6月の「連盟結成公演」の際には、同じフォーマットの広告で「他の劇場には出演は致しません」と強い表現で、連盟との断絶を宣言していた同じ箇所に「応援出演」の文字が記されていることからも、そんな妄想が湧いてきてしまうわけです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

それがきっかけになったのでしょうか。「応援出演」の出た後の銀星座では「市川栄舛大一座」ではなく、「新生歌舞伎公演」「市川女猿・尾上大助躍進劇」と銘打たれる形に変わっていきます。若手歌舞伎という印象ですから、栄舛が前面に出ずともいい状況になったのかな、なんて、またまた下衆の勘ぐりをしそうにもなります。

1952(昭和27)年1月16日付神奈川新聞より

1952(昭和27)年1月17日付神奈川新聞より

もっとも、市川小太夫劇団が三吉劇場で第二回公演を行なっていた時期、銀星座は10月13日から「浅間劇団」、21日からは「前沢稲子一座」の興行が続きました。栄舛一座が小太夫劇団に興行をぶつけるようなことはしていないわけで、そもそも確執のようなものは最初からなかったとも言えます。僕の推測はやはり勝手な妄想なのかもしれません。


さて、この件を調査する過程で興味深いことが3つ見つかりました。

ひとつめは昭和26年秋、銀星座で興行していた市川栄舛大一座が、突然、11月21日から八丁畷の「大成座」という劇場で興行を始めることです。

1951(昭和26)年11月20日付神奈川新聞より

八丁畷の劇場というのは初耳です。川崎も空襲の被害が甚大でしたから、中心部ではなく周縁に劇場ができていたのでしょうか。とはいえ、かなり唐突に新聞広告が出たので驚かされました。


もうひとつは、栄舛一座が八丁畷の劇場に出ていた頃、銀星座では「福島一男一座」が興行をしていたということです。

1951(昭和26)年11月20日付神奈川新聞より

実は、この名前には覚えがあります。杉田商店街の菓子店「菓子一」の相原一郎さんが書かれた本の中に、戦前の杉田で興行した旅まわりの一座として登場するのです(→こちら)。

東漸寺の海側にあった海苔干し場で興行していた福島一夫一座。字は異なりますが、同じエリアの話ですから、おそらく同じ人だと思われます。

戦前の杉田と戦後の弘明寺で、同じ劇団が興行していたのを思うと、なかなか感慨深いものがあります。


最後は上掲の「新生歌舞伎公演」の広告です。よく見ると、この中に「岩井小紫」と読めそうな役者の名前があるのです。


横浜における小紫については以前も検証しましたが(→こちら)、『越境する歌舞伎』で詳述されている小芝居(中芝居)の役者です。

同書によると初代岩井小紫は戦死し、

"昭和二十五〜二十六(1950〜51)年頃から、二代目岩井小紫(智子)を看板とする「岩井小紫劇団」の名を使うようになっていった" (P.112)

"昭和二十六年(一九五一)年、二代目小紫(智子)が結核を発症し、一時休業することになった" (P.113)

とのことです。

さらには、三代目小紫の襲名が「昭和二十七(一九五二)年頃から」(P.113)とありますから、上掲、昭和27年2月の銀星座の舞台に立ったのは三代目ということになるのでしょうか。

もしそうだとすると、襲名からまもない頃だと思われます。そんな時期に郷里を離れて横浜の舞台に立った事情はどういうものだったのだろうと、興味が湧いてくるところです。


そんなこんなで、毎度のごとく大高調査は思わぬところへ広がっていきますが、当然ながら大衆演劇だけでは横浜の演劇界の全体像は見えず、歌舞伎や新劇、アマチュア演劇も含めて調べ、俯瞰していくことが必須なのだということが、このところよくわかってきました。

そんなこんなで、今回は「神奈川県歌舞伎連盟」のその後、というべきお話。次回は近江二郎の周辺情報などについて書ければと思います。

※なお、諸事情により次回更新は6月5日といたします。


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(128) 神奈川県歌舞伎連盟とは?

よんどころない事情で、ひと月ほど図書館に足を運ぶことができなかったので、大高よし男の調査はまったく進んでおりません。ようやく時間がとれるようになってきて、来週あたりから調査再開の予定ですが、どうも頭がまだこっちの世界(?)に戻りきれていないようで、ちょっとしたリハビリ気分で投稿してみます。


というわけで、今回は年末までに収集していた資料から、1951(昭和26)年6月の三吉劇場における「神奈川県歌舞伎連盟結成第一回公演」について考えてみたいと思います。

この公演の広告が最初に出るのは同年5月30日で、「三吉劇場開場一週年記念特別大興行」とも銘打たれています。この連盟についてはかねてからしばしば引用している、小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』の「三吉演芸場」の項目にも言及がありますが、公演があったという記述だけですので、それ以上の詳しいことはわかりません。

そんなわけで、そもそも神奈川県歌舞伎連盟というものがどういうものかわからない上に、これがその後、どんな展開をしたのかも未調査ですから、現段階ではほぼ何もわかっていないと言ってもいい状態です。広告には「市川小太夫劇団」という文字が大きく記されているので、市川小太夫が呼びかけて結成されたように思われます。

広告に掲載されているメンバーは順に

市川小太夫
 
沢村清之助
沢村訥美太郎
市川栄舛
 
市川女猿
市川門三郎
 
森川順三
沢村十次郎
山﨑撫子
市川内弥
市川小鼻
中村芝寿
河部信乃
 
沢村清枝
市川紅昇
 
紫小春
鶴葉子
港君代
窪登美江

です。

1951(昭和26)年5月30日付神奈川新聞より

「歌舞伎連盟」でありながら、出演者に不二洋子一座の森川順三の名前があるなど、歌舞伎の枠をはみ出しているようにも感じます。一体、どういう団体だったのでしょうか。

歌舞伎役者に限れば、並んでいる名前はいずれも杉田劇場や銀星座でお馴染みの顔ぶれで、戦前の横浜歌舞伎座における「更生劇」の流れと、市川門三郎一座が合わさった合同一座のようにも見えます。杉田や弘明寺で続けられていたいくつかの一座を、戦後の時代に合わせて「連盟」という形で結集させ、横浜(神奈川)における歌舞伎の発展を期した、というようことなのでしょうか。


余談ですが、私が少しだけ関わってきた横浜のアマチュア演劇の世界では、1952年に横浜演劇研究所が設立され、同年(第二次)横浜演劇懇話会ができます。『神奈川県演劇連盟四〇年史』によれば、この懇話会は

「<横浜市教育委員会社会教育課>が推し進めていた市内文化団体の組織化の呼びかけに、市民演劇と職場演劇が賛同するという行政主導で結成された」

のだそうです。

横浜演劇懇話会はのちに「横浜アマチュア演劇連盟」となり(1967〜)、また1960年には全県組織としての「神奈川県演劇連盟」(県演連)が結成されます。これは横浜演劇研究所の加藤衛所長の呼びかけによる「県民劇場建設促進実行委員会」の動きとも連動していたと考えられます。「県民劇場建設促進実行委員会」は「県立青少年センター」の建設(1963)をもってその目的が達成されたとして解散しますが、県演連は存続し、その後、横浜アマチュア演劇連盟と神奈川県演劇連盟が両輪となって、現在に至るまで横浜・神奈川の市民演劇(アマチュア演劇)の発展に寄与してきたわけです(のちに「横浜アマチュア演劇連盟」は「横浜・演劇の会」と名称を変え、現在はほぼ活動休止状態のようですが)

「神奈川県歌舞伎連盟」に同じような背景があったのかどうかはよくわかりません。文化団体の組織化といった流れの中で、(行政の指導の有無は不明ながら)歌舞伎界もまたその時流に乗ろうと考えたのかもしれません。

以前、市川雀之助についての投稿で、彼が「神奈川県実演興行組合」の副組合長を務めていたことと、その組合が1951(昭和26)年にできたことを紹介しました(まさに歌舞伎連盟の結成と同じ年)。この時期、市民演劇・職場演劇・歌舞伎・大衆演劇のいずれもが戦後の激動の中で、劇団単体ではなく連盟や組合を結成して、時代の変化に対応しようとしていたようにも見えます(行政の関わりの濃淡はまた別の課題として、別途調査が必要な事柄と感じています)


閑話休題。


さて、華々しく宣伝していた「神奈川県歌舞伎連盟」の結成公演ではありますが、興行初日の6月1日、新聞紙上に弘明寺銀星座のこんな広告が登場するのです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

「東京名題大歌舞伎公演 市川栄舛大一座」と銘打たれたこの公演の出演者の中には、なんと

市川栄舛
市川女猿
沢村清枝

の「連盟」の公演に名を連ねていた3人がいるばかりか(尾上大助の名前もある)、

「他の劇場に出演は致しません」

とはっきり書かれてもいるのです。具体的な劇場名は記されていませんが、明らかにこれは彼らが三吉劇場の「連盟」の公演には出ないという強い注意喚起(または意思表示)です。

一体何があったのでしょうか。

単にブッキングの行き違いなのか、そもそも連盟結成の方針にまつわる意見の違いなのか。いずれにしても何かがあったことは間違いなさそうです。


結果、「連盟」の公演の顔ぶれから、上記3名の名前は消え

市川小太夫

沢村清之助
市川猿十郎
中村喜昇
市川秀猿

市川門三郎

市川紅昇
市川立十郎
市川八左衛門
市川桔梗
市川小昇

紫小春
鶴葉子
港春代
坂東寿美子
窪登美子

となって、予定通り、6月1日に幕を開けたようです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

(同じ日の広告ですから、かなり混乱します)

そのほかの大きな変化として、森川順三の名前が消えて、中村喜昇らの名前が登場し、二の替りの最初の演目が「女河内山」から「朧河岸」に変更されています。もしかしたら剣劇を嫌ったのかもしれませんし、森川順三と歌舞伎役者たちの間に何かあったようにも思えますが、これもまた詳しいことはわかりません。


市川小太夫は昭和12年から昭和21年まで「厚生劇団」を主宰していたほか、それ以前には新国劇に客演したり、映画に出たり、関西で大衆劇の劇団(新興座)を立ち上げ、探偵劇などで全国を巡演して人気があったそうですから、そもそもが歌舞伎にとどまらず、ジャンルを越境する人だったようですし、その越境を好んでいたようにも感じます。

そう思うと、新しいものを受け入れる(と思われがちな)土地柄の横浜で、境界を取り払ってさまざまなジャンルを統合し、歌舞伎界(演劇界)に新風を巻き起こそうという目論見で結成されたのが「神奈川県歌舞伎連盟」だったのかもしれません。

そんなこんなで、今回はよくわからないまま「神奈川県歌舞伎連盟」について考えてみました。いまのところ、これ以上の情報がないので、どなたか詳細をご存知の方がいましたら教えてください。


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