昭和23年9月21日、新聞紙上に「故大坂ヨシ男追善興行」の広告が出ます。
1948(昭和23)年9月21日付神奈川新聞より |
以前にも少し触れましたが、これは「大高ヨシ男」の誤りです。翌日からの三行広告(「映画演劇情報」欄)ではちゃんと「故大高ヨシ男」に修正されています。
1948(昭和23)年9月22日神奈川新聞より |
前年の一周忌にはこのような公演はなく、三回忌に合わせて追善興行が行われたようです。
大高の名前表記がブレるのは没後も相変わらずですが(今回は「ヨシ男」)、大高一座の劇団名の方も座長の没後、「暁第一劇団」だったり「暁劇団」になったりと、表記は毎度ブレブレです。しかし、昭和22年の夏頃からは「暁劇団」が定着し、昭和23年以降はこの名前になったようで、これも「暁劇團公演」と銘打たれています。
ここで、三回忌追善興行に至るまでの劇団の活動を少し振り返ってみます。
昭和21年10月22日、中野かほるが出演した追善興行の後、11月は公演がなかったようですが(立て直しを図っていたのかも)、昭和21年12月にほぼ1ヶ月の興行が杉田劇場で行われています。研究生募集の文言も見られるので、劇団継続の意思ははっきりしていて、片山さんの証言や尾上芙雀の発言などに見られる、解散・消滅といった兆候は感じられません。
1946(昭和21)年12月17日付神奈川新聞より |
さらに翌年、昭和22年の前半は阪東亀久之丞一座との合同公演(1月)、単独興行(3月)、市川門三郎一座との合同公演(7月)など比較的順調に興行を重ねています。
1947(昭和22)年1月7日付神奈川新聞より |
1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より ※右の「湘南映画」の広告には「美空和枝」の名前が見える |
1947(昭和22)年7月29日付神奈川新聞より |
1947(昭和22)年10月28日付神奈川新聞より |
オリエンタル劇場はその半年ほど前、昭和22年5月15日、南区高根町四丁目にオープンした劇場です。その後、東宝の傘下に入って「横浜東宝劇場」となりますが、やがて「横浜オペラ館」「横浜日劇」と名前を変え、最後は「横浜セントラル劇場」となって、横浜の伝説的なストリップ劇場となります。
この興行の後、しばらく新聞紙上で暁劇団(暁第一劇団)の名前を見ることはなくなります。
そしてオリエンタル劇場の公演からほぼ一年後、冒頭に紹介した大高よし男の三回忌追善興行となるのです。
実はこの興行の少し前から、追善興行へ向けての助走のように「暁劇団」の興行が始まっていました。8月26日から「ヴィナスショウ」の中で『魔人空を行く』というちょっと興味をそそるタイトルの「スリラー劇」を上演しているのです(その後の調査で、6月に「市川雀之助一座」との合同公演ありましたが、ごく短期間だったようです)。
1948(昭和23)年8月26日付神奈川新聞より |
「ヴィナスショウ」がどんなものだったのか、詳しくはわかりませんが、広告の絵や文言からして、おそらくストリップのようなものと歌謡曲、芝居を連ねたバラエティショーだったと思われます。
「ヴィナスショウ」と暁劇団の芝居は8月31日まで。その後、別の一座(市川雀之助一座)を挟んで、9月15日から再び暁劇団の興行が始まります。大高の生前には四日替り(4日ごとに演目を替える)のスタイルでしたが、この時期は三日替りだったようで
9月15日〜17日 軽演劇「愛は踊る川端柳」、新劇「港の朝」9月18日〜20日 「天使と悪魔」、「應援團長の恋」
というプログラム。内容は映画と実演の組み合わせで、前半は「金語楼の親馬鹿大将」、後半は「千恵蔵のおしどり笠」が同時上映されています。
1948(昭和23)年9月14日付神奈川新聞より |
1947(昭和23)年9月18日付神奈川新聞より |
杉田劇場はオープン前の新聞記事で「映画劇場」と紹介されていたくらいですから、最初から映写設備はあったのかもしれません。ですが、映画が杉田劇場の新聞広告に登場することはほぼなく、よく載るようになるのはこの年(昭和23年)からなので、それまでは実演劇場としてのスジを通していたのかもしれません。
もっとも、映写設備を後年になってから導入した可能性も否定できません。実演劇場としての経営が厳しく、映画で劇場の立て直しを図ったのかもしれないからです。この頃(昭和23年8月1日)、杉田劇場は株券を発行して資金を集めており、経営はかなり苦しくなっていたのです。
杉田劇場株券(磯子区民文化センター所蔵) |
さて、大高よし男の追善興行(三回忌)は9月22日に始まり、広告によれば24日までとなっています。ですが「映画演劇情報」欄には26日も同じ公演が掲載されているので、掲載ミスでなければ、好評を受けて2日間延長したのかもしれません。
「好評」には根拠がないわけではありません。この三回忌の後、追善興行にも特別出演した藤村正夫を座長に迎え「新生暁劇団」として活動を再開しているからです。しばらく休んでいたのが、追善興行の好評を受けて復活の狼煙をあげたと考えても、あながち間違いではないように思います(新生暁劇団については別途)。
藤村正夫は、もともと日吉良太郎一座に参加していましたが、のちに独立して自分の一座を立ち上げた役者です。戦後は、弘明寺銀星座の自由劇団にも参加しており、そんな縁もあって暁劇団の再生に力を貸したのでしょう。後年、昭和30年代には大江美智子一座の公演にも参加するなど、俳優として実力も知名度も兼ね備えた人だったようです。
三回忌追善の前後、暁劇団(暁第一劇団)は紆余曲折を経ながらも、再興を図って活動を続けていました。しかしながら「大高よし男」についていえば、杉田劇場はもちろん神奈川県内の劇場でも、その名前を見ることは、もはやなくなるのです。
人気を誇った座長もこの時期を最後に歴史の闇に消えてしまったわけです。
それから40年後、1980年代になってから美空ひばりのデビューについての調査・研究の中で、大高の名前はふたたび日の目を見ることになるのです。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
2 件のコメント:
1948年9月21日の広告では「祭はやし」なのが、22日には「祭ばやし」になっていますね。当時はあまり校正などしていなかったのでしょうかね。
美空ひばりは何度か、及川一郎と一緒に舞台に立っています。この歌手が何者なのかも調べたいです。
それから楽団名もいろいろありますよね。ここではスターミソラになっていますが、ほかに青空楽団、美空楽団とか。これも気になります。
ありがとうございます。
新聞も含め、出版物の校正はかなり適当だったんでしょうね。そもそもが「大坂ヨシ男」なんですから。その中から事実を掘り起こすのはなかなか大変です(汗)
及川一郎のこともよくわかりませんが、戦前からの流行歌手でSP盤がいくつか出ていたようですね。
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