(97) 尾上芙雀と大高一座

インターネットで「日吉良太郎」を調べていて、歌舞伎役者の「尾上芙雀」に行き当たりました。「歌舞伎 on the web」というサイトの「歌舞伎俳優名鑑」に掲載されている情報です。

そこに掲載されている尾上芙雀の経歴は

"昭和17年日吉良太郎劇団に入団、昭和18年横浜歌舞伎座で初舞台を踏むが1年程で退団。昭和22年三代目市川門三郎(三代目白蔵)一座に入座、市川芳次郎を名乗る(以下略)"

となっています。

出てくる名前が日吉良太郎と市川門三郎ですから、この調査のど真ん中に関係しているではありませんか。この経歴、歌舞伎通の方々にはよく知られていることなのかもしれませんが、僕は寡聞にして知らなかったので驚きでした。


さて、芙雀は市川門三郎一座では「市川芳次郎」を名乗っていたとありますから、確認はそれほど困難ではなさそうです。

片山茂さんが現杉田劇場(横浜市磯子区民文化センター)に寄贈した資料の中に、門三郎一座に関するものが比較的多くあるからです(おそらくオーナー高田菊弥の遺品と思われます)。


まず、ロビーに掲出されている市川門三郎一座のプログラムを見ると、たしかに「市川芳次郎」の名前が確認できます。

市川門三郎一座プログラム(杉田劇場所蔵)

また、昭和22年に撮影されたとされる門三郎一座の集合写真にも「市川芳次郎」がいます。

市川門三郎劇団(杉田劇場所蔵)

この写真に対応する人名対照図が残されていて(おそらく片山さんが作成したもの)、芳次郎を特定することができるのです。

人名対照図(杉田劇場所蔵)


ところで、雑誌『演劇界』1978年2月号の「ここに役者あり」連載26で、その尾上芙雀が取り上げられ、インタビュー記事が掲載されているのです。

『演劇界』1978年2月号より

実はそこに驚くべきことが書かれていたのです。

上掲の経歴にある「昭和18年横浜歌舞伎座で初舞台を踏むが1年程で退団」ですが、こんなに短期間で辞めてしまった理由は、兵役のためだそうで

"北支に渡り、慰問隊へ入る。やがて脚気になって病院へ入り、終戦で現地除隊、昭和二十二年ごろ復員"

とのことです(後述の内容から昭和二十二年は不正確で、昭和二十一年には復員していたと思われます)。

復員後は

"横浜の芝居が懐かしく、かつての子役たちが横浜の杉田劇場で興行しているというので訪問、そこで誘われるままに役者に復帰"

したとあります。

杉田劇場で芝居をやっていることを聞いて訪問した、というケースが確かにあったのです(大高よし男も近江二郎の公演を知って杉田を訪れたのではないかと思っているので、心強い証言です)。

「かつての子役たち」というのは日吉良太郎一座にいた藤川麗子や生島波江のことでしょうか。「子役」というのが少し腑に落ちないところですが、もしかしたら、日吉一座にいた子役が大高一座にも参加していたのかもしれません(大高一座と日吉一座の座員の比較対照をもう一度やる必要がありそうです)。

いずれにしても芙雀はこのインタビューの中で、杉田劇場の専属劇団、つまり大高よし男一座で役者復帰し、戦後の舞台活動をスタートさせたと述べているのです。

しかも

"この一座が信州・長野県の、どこかの、なにかの慰問に買われて、トラック一台に道具、衣装とともに乗り込んで出発した。正確な日時・場所は例の得意わざで忘れたが(註:記事の冒頭で芙雀は「時、ところなど、こまかいことを忘れちゃう名人である」とある)、どこかの険しい山道でこのトラックが崖下へ転落した"

というのですから、なんと、昭和21年10月、大高よし男が事故死したあの巡業に、芙雀も同行していたのです!

"前後左右、怪我人が助けて!などと呼んでいる中で、奇跡的にひとり無傷無痛。あとは夜っぴて救護に走りまわった"

片山さんの証言の中には、大高の遺体をあばら屋のような火葬場に運んだら、管理人の老婆が出てきて、こんな目にあったというエピソードが書かれています。

"目をつむって本日の火葬のお願いをするが、この日暮時に来ても今日は駄目だ…と断わられる。同行の青年団の一行には、夜の公演もあるので帰ってもらう。また意を決して鬼婆の所に行き、何とかと頼むが一向に開き入れてもらえず、火葬は明日だとのことである。ならば、遺体を預かってもらえないかと頼むが全然聞き入れてくれない。再び、旅先きのことで遺体を連れて行く所がないことを話す。老婆は、「それなら遺体の側で伽をしろ!」と言われ、 仕方なく遺体に寄り添い一夜を明かすことになった"

ひょっとすると、この現場に芙雀もいたのかもしれません。あるいは怪我人が運び込まれた須原の清水医院にいたのかもしれません。「救護に走りまわった」というのですから、後者の方がありそうな気はします。いずれにしても、あの現場で、若き日の芙雀は交通事故の事後処理に奔走していたのです。

上述の通り、事故後の行動は正確にはわかりません。ですが、一座のメンバーだったのですから、少なくとも葬儀には参列していたはずです。

そこで、例の弘明寺の集合写真の登場となります。芙雀が写っているに違いありません。

もちろん当時の芙雀の写真と対照しなければ正確なところはわかりませんが、この写真のひとりひとりをじっくり見てみると…最後列中央やや左寄りの男性、それが芙雀ではないかと思われるのです(赤丸の人)。

大高よし男葬儀写真(杉田劇場所蔵)

赤丸の人物を拡大したもの

『歌舞伎俳優名鑑』(1973)より

どうでしょう? 間違いないと思うのだけど…

(まだ推定が多いものの、大江三郎、高田菊弥、中野かほる、尾上芙雀…と葬儀参列者の特定も徐々に進んできました)


さて、『演劇界』の記事はこう続きます。

"杉田劇場一座もこれで一頓挫。座主夫人の口ききで(中略)市川門三郎、後の白蔵の弟子になり吉右衛門劇団に出るようになる。昭和二十四年五月のことで、芳二郎の名をもらい、二十六年九月には名題となり市川おの江"

(少し時系列が曖昧ですが、芳二郎(正確には芳次郎)になったのは門三郎一座に参加したときです)

この文章で気になるのは、「座主夫人の口ききで」という一文です。座主夫人とは高田菊弥の妻、能恵子夫人のことでしょう。

本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、大高よし男が事故死した際、トラックには能恵子夫人も同乗していたと書かれています。劇場主の妻がなぜ巡業に同行していたのかがずっと腑に落ちないところでしたが、こういう記述を読むと、杉田劇場の経営(および大高一座のマネジメント)には能恵子夫人がかなりの手腕を発揮していたのではないかと思えてきます。能恵子夫人はもともと、なんらかの形で芸能界に関わっていた人なんじゃないかとすら思えます。

高田菊弥・能恵子夫妻(1972)

さて、以上のことから、尾上芙雀という人は

日吉良太郎一座→大高よし男一座→市川門三郎一座

というステップで歌舞伎役者へのキャリアを積んでいったということがわかりました。

経歴に大高一座が載らないのは少し残念な気はしますが、大高とともにいた期間はとても短かったのでしょう。それでも、あの事故のおかげで彼の記憶に残り、こうして記録されているのですから、手がかりのない中で調べている者にとっては、この証言は奇跡とも思えることです。

仮に大高が亡くなっていなければ、尾上芙雀(本名:笠原興一)は歌舞伎の道に進まず、そのまま大衆演劇の役者になっていたのかもしれないわけですから、つくづく運命というのはわからないものですね。


というわけで、今回は『演劇界』の記事から、歌舞伎役者の尾上芙雀が若い頃、大高一座に参加していたという、驚きのお話でした。


→つづく



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(96) 杉田劇場の様子/『小芝居の思い出』より

国立劇場芸能資料室が出した「歌舞伎資料選書」の中に三宅三郎著『小芝居の思い出』という本(冊子?)があります(1981年刊)。

この本の最終章は「湘南の小芝居」という見出しで、ここにはなんと杉田劇場と鎌倉の劇場についてのかなり詳しい記述があるのです。

美空ひばりのデビューとの関係で、旧杉田劇場に言及した本なり文章は多くありますが、劇場そのものについて書かれたものは多くありません。『小芝居の思い出』は僕の知る範囲では、片山茂さんの証言とならんで、杉田劇場の内部の様子などが詳細に書かれている数少ない貴重な記録です。

残念ながらこの本、横浜の中央図書館にも県立図書館にも収蔵されておらず、古書店にも出ていないので、東京に出向かないと実物を参照することは難しい本です(演劇資料室にはあるのかしらん?)。

ところが、ありがたいことに、国会図書館のデジタルコレクションに全文がアップされているので、自宅に居ながらにして読むことができるのです(こちら)。

あとがきによれば、著者の三宅三郎(1901-1979)は「第二次世界大戦前から戦後にかけて長く活躍した劇評家」で、「国民新聞」「産経新聞」「スポーツニッポン」などの劇評を担当したそうです。

この本(冊子)の文章を書いた頃は鎌倉に住んでいたようですね。


というわけで、杉田劇場に関する記述をいくつか引用してみます。

まず、著者の三宅三郎が杉田劇場を訪れたのは

"私の片瀬の家の近くに、大へん門三郎贔屓の八十を越す芝居好きの老婦人がいて、「横浜の杉田劇場に行って是非門三郎を見て下さい。巧いもので、どんな役でも立派にやります。それに、その杉田劇場では、まぐろのおすしを売っていますよ」"

と言われたのがきっかけなのだそうです。

"鎌倉からバスで横浜市内に入り、それから市電で行ったのであるが、道路も悪く難行苦行して横須賀街道の海辺にそった杉田に、たどり着いた"

こんなふうに書かれてしまうと、杉田がどんな僻地だったのかと思いますが、「バスで横浜市内に」というのはおそらく鎌倉街道を弘明寺あたりまで来たのでしょうから、当時の道路事情を考えればなかなか大変だったと思われますし、弘明寺から市電で杉田というのも大回りの経路で、「難行苦行」もそんなに大袈裟な表現ではないのかもしれません(ちなみに「横浜市外の杉田劇場」という記述もあるので、市電の終点という意味でも一般の人からすれば、当時の杉田には場末感があったのでしょうね)。

"杉田劇場という小屋は、電車通りにあるのだが、海岸にある工場のバラックを建て直したものだ"

「工場を建て直した」というのは、オーナーの高田菊弥が戦時中に経営していた日本飛行機の下請け工場(東機工:合板でプロペラを作っていたそう)のことで、片山さんの証言とも一致する内容です。「バラック」とあることからしても、そんなに立派な建物ではなかったことがわかります。

旧杉田劇場正面(杉田劇場所蔵)


上の写真は『小芝居の思い出』よりも後年(おそらく昭和24年か25年)のものですが、よく見ると劇場前の道路に市電の線路が見えます(電車通り)。

残っているロビーの写真からもそんなに立派な建物という雰囲気は感じられません。

旧杉田劇場ロビー(杉田劇場所蔵)

たしかに「バラック」といえばバラックのようでもあります。


さて、この本には内部の様子が詳しく書かれています。

"見物席は土の上に腰を下すのだが、後方の席は座れるようになり"

現存する写真(昭和25年のもの)では「土の上に腰を下す」という感じはなく、前方にも椅子席があるように見えます(背もたれなしの5人掛けベンチのようなものか?)。

旧杉田劇場客席(杉田劇場所蔵)

つまり、後年になってから前方も椅子席になったと考えられるわけで、著者が訪れた時点では、舞台に近いエリアがまだ桟敷席だったということになります。

上の引用文に続いて

"長い花道もついていた"

ともあります。

旧杉田劇場舞台(杉田劇場所蔵)

花道の全景はわかりませんが、写真を見るとたしかに舞台下手から斜めに花道が設置されていて、「長い」かどうかはわからないものの、見た感じ広いなという印象はあります。小芝居の小屋としては長い花道だったのかもしれません(下の図面にも花道があります)。

旧杉田劇場図面(杉田劇場所蔵):上方が国道16号線(電車通り)

客席や舞台についての記述はここまでで、著者の「お目あて」でもあった寿司については

"注文をすると、むろんヤミであるが、薄い真っ赤なまぐろの握りを、三つ皿にのせて運んできた。連れの人と二人前だけで品切れと断られた"

とあり、続いて

"もっと金を出すからと言ったら、なお持ってきたかも知れなかった。われながら不覚であった"

ともあります。劇場でありながらヤミ食堂みたいなところもあったのでしょうか。

図面でもわかるように、劇場入口のすぐ右手に喫茶室があって、おそらくここが食堂の役割も担っていたのでしょう。上にもあげた後年の劇場正面写真を拡大すると「焼きイモ」を売っていたこともわかります。


さて、三宅三郎の観察眼は観客の行動にも及びます。

"おもしろいのは、幕あいになると、おおかたの見物は、席を立って右側の出入り口から、海岸のほうに出て行ってしまうのだ。そして柝の音がして、芝居がはじまろうとすると、バケツや風呂敷づつみを下げ、ぞろぞろと入ってきて、自分の席について、芝居を見るのである"

この光景を不思議に思って近くの人に聞いてみると

"「汐がひいているので、貝を掘りにゆくのですよ」とその人は答えた"

のだそうです。

杉田劇場の裏手は海で、化粧をしたままの役者が泳いだなんていう話は伝わっていますが、観客が潮干狩りをしていたというのは初めて知りました。

実際、磯子の海辺では海水浴も潮干狩りも海苔の養殖も行っていたのですから、杉田劇場の裏手でも幕間にそんなことをしていたとしてもおかしくはありません。芝居が目的なのか潮干狩りが目的なのか、よくわからなくもなりますが、なんとものどかな様子でちょっと楽しそうです。


ところで、著者が杉田劇場に行った日は

"茂々太郎時代の九蔵と市川門三郎などの一座であった。九蔵の牛若丸、門三郎の弁慶で、義太夫の「橋弁慶」や「十六夜清心」などをしていた"

のだそうです。

調べてみると、茂々太郎時代の九蔵というのは、五代目市川九蔵のようです。


これだけの情報がありますから、なんとか三宅三郎が杉田劇場を訪れた日を特定してみたい気持ちがムクムクと湧いてきます(悪いクセ)。

まずは潮干狩りをしていたことから、時期としては春から初夏でしょう。「終戦後、間もないころ」という記述もあることから、開場した昭和21年か22年だろうと考えられます。

片山さんの証言の中には

"この頃、劇場の客席は土間だったが、雨の日は足もとがすべって危ないとのこ とで一日休館として、アスファルト敷きにし、少し格好が良くなりました"

と書かれていますから、当初の客席の様子としては土間だったわけで、椅子席の有無は別として、上に引用した「見物席は土の上に腰を下す」と矛盾はありません。アスファルト敷きの工事がいつだったのか不明なものの、総合して考えると『小芝居の思い出』の内容は、開場してすぐ、昭和21年の早い時期のことではないかと思います。

実は、市川門三郎が初めて杉田劇場に来たのがいつなのかも、よくわかりません。

一座の名前が新聞広告に載るのは昭和21年6月1日が最初です。


1946(昭和21)年6月1日付神奈川新聞より

ここには「久々に御目見得する歌舞伎十八番もの」と書かれていますが、門三郎一座が「久々」なのか、歌舞伎十八番ものが「久々」なのかよくわからないのです。

ただ、全体の雰囲気からして、これが市川門三郎一座の初来演という感じには読み取れないことから、門三郎は開場まもない1月から3月など、すでに早い段階で杉田劇場に一度登場していたのだろうとは推測できます。

6月1日以降、市川門三郎一座の広告は頻繁にでてきますが、三宅三郎の言及する『橋弁慶』『十六夜清心』の記録は見当たりません。

ということは、広告が掲載されなかった公演を見たということになりそうです。また、片瀬の老婦人が勧めていることからして、1月や2月というのも(あまりに早すぎて)考えにくいところです(潮干狩りの時期とも合わない)。

上掲の広告に「狂言五日毎に差替上演」とあることからすると、6月1日を初日として門三郎一座の6月興行が続いたと思われます。一方で、2月以降、3月・4月・5月は主に大高よし男一座が興行していたと考えられることからして、門三郎一座が興行をしたとは考えにくいところです。

というわけで、三宅三郎が杉田劇場を訪れたのは6月中旬以降ではないかと推測できます。

となると「アスファルト敷き」の工事もそれ以降となりそうです。考えてみれば「雨の日は足もとがすべって危ない」というのは、梅雨時のことかもしれません(なんとなくそんな気がしてきました)。

仮に、もしそういうことであれば、大高よし男一座の興行の時は、まだ客席の前方は桟敷で、当然、美空ひばり(加藤一枝)も桟敷席を前に唄っていたということになります。

残っている写真から想像する劇場とは違う雰囲気の中で、大高や美空ひばりが舞台に立っていたわけです(これも妄想多めですが)。


そんなこんなで、今回は『小芝居の思い出』に記録された旧杉田劇場の様子についての話でした。


→つづく



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(95) 同成座の登場

大高よし男が亡くなって1年半。昭和23年3月の杉田劇場に「同成座」が登場します。

1948(昭和23)年3月2日付神奈川新聞より

この劇団名の頭には「朝川浩成 鳩川すみ子の」が付いていてますが、両名は以前にも紹介した通り、戦前・戦中は日吉良太郎一座の座員として活躍していた俳優です。

昭和12年9月18日初日 長野相生座・日吉良太郎一座のパンフ

特に朝川浩成は人気が高く、曾我廼家五郎一座にも「曾我廼家幸蝶」の芸名で参加していました。
1943(昭和18)年2月8日付神奈川新聞より

昭和13年6月から横浜歌舞伎座での連続公演が始まる前の日吉一座は、伊勢佐木町の敷島座を拠点とし、夏場は信州巡業、それ以外は横浜、という興行スタイルでした。

もともと信州や甲州での人気が高く「信州の団十郎」とまで言われた日吉良太郎ですが、横浜での人気も絶大で、日吉一座が夏巡業を終えて帰浜しただけで、新聞に大きく取り扱われたほどです。

1935(昭和10)年10月2日付横浜貿易新報より

その劇団に所属して大活躍していたのが、朝川浩成と鳩川すみ子。

終戦から3年近くたったこの時期に、かつて横浜で人気を誇っていた日吉劇の看板俳優が一座を組んで、杉田劇場に登場したというわけです。

同成座は「どうせいざ」と読むのでしょう。もしかしたら「どうなる?」の語呂合わせだったのかもしれません。朝川と鳩川が組んだらどうなる? というような洒落が含まれていたとも考えられます。

もっとも、逆に「どうせいざ」のつもりが「どうなるざ」と誤読されていた可能性もあります。理由はわかりませんが、次に登場するときには記名が「同生座」に変わっているのです。

いずれにしてもこの劇団名には「同じ日吉劇出身」というニュアンスを感じます(大高一座の藤川麗子も日吉劇のメンバーでしたから、同成座には藤川麗子も参加していたかもしれません)。


さて、この時は「映画と実演」というスタイルの公演で、同時上映は黒川弥太郎主演の映画です。

黒川弥太郎については以前にも書いたとおり、杉田(というか正確には杉田の隣町の中原)出身の映画スターです。ご親戚の方がやっておられる南区の「弥太郎最中本舗」が有名ですが、生家の所在地など、詳しいことがまだわかりません。南区のご親戚のほかにもご親戚がいらっしゃって、少し前、現杉田劇場にお話をいただいたようですが、その後、連絡が途絶えているので、もしこのブログをお読みいただいているようでしたら、またお知らせいただけると幸いです。


ちょっと話が脱線しました…

黒川弥太郎の映画と一緒に上演された2本のうち、『妻恋道中』は時代劇の名作としてたびたび上演されて映画にもなっていますが、もう一本の『吾が子を尋ねて』は「神奈川縣警察部提供」という不思議な肩書きのある作品です。

実はこれ、昭和21年11月に銀星座で上演されていた作品の再演なのです。「神奈川縣警察部」とはありますが、つまりは「大岡警察署」のことでしょう。

1946(昭和21)年11月12日付讀賣新聞より

銀星座ですから上演したのは専属の自由劇団です。

これがどんな内容なのかはよくわかりませんが、大岡警察署の桑名甲子次(広告には「甲子」とありますが正しくは「甲子次」のよう)が書いた芝居で、「事実哀話」とあることから、実際の事件なり事故なりを扱ったドキュメンタリー芝居だったと考えられます。

これも前に書きましたが、昭和22年11月には同じく桑名甲子次による『この妻を見よ』という「実話防犯劇」が、やはり銀星座で自由劇団によって上演されています。この時にははっきりと「脚色 日吉良太郎」と書かれているので、おそらく前作『吾が子を尋ねて』にも日吉良太郎がなんらかの協力をしていただろうと考えられます。

「同成座」は日吉良太郎一座の残党による劇団であるだけでなく、日吉良太郎自身が関わったと思しき作品まで上演しているのですから、戦後、表だった活動をしていなかった日吉良太郎が、こういう形で戦後も影響力を行使していたのではないかというのが僕の見立てです。

当初は近江二郎の影響が強かったと思われる銀星座も杉田劇場も、この頃になるとすっかり日吉一座が席巻する小屋になっていた印象です。近江一座の文芸部員で、大高一座の支配人でもあった大江三郎は新聞や雑誌などの記録では、もう影も形も感じられません。

そういう意味でも大高の死は、この地域の演劇シーンに大きな影響を与えたのでしょう。


というわけで、今回は昭和23年春に登場した「同成座」と日吉良太郎の影響について書いてみました。



→つづく


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(94) 元映画スター・中野かほる

昭和21年10月22日に杉田劇場で行われた大高よし男の追善興行には「元映画スター」の中野かほるが出ています。

また、弘明寺で撮られた大高の葬儀写真の中に、ひとりだけちょっとオーラの違う人がいます。この人が中野かほるじゃないかと推測していましたが、戦後の画像・映像を確認してみると、やはり中央に写っているこの人物は「中野かほる」と断定してよさそうです。

大高よし男葬儀写真(弘明寺):赤丸が気になる女性

赤丸部分を拡大したもの

キネマ旬報の『日本映画俳優全集・女優編』によれば、中野かほるは1912(明治45)年4月9日、神戸生まれ。神戸第一高等女学校を卒業し、中華料理店の会計係をしているうちに1932年5月、東活(東活映画社)にスカウトされ、『丸の内お洒落模様』でデビュー。近代的美人女優として注目を集めたとのことです。イマドキの感覚で言えばアイドルみたいな存在だったのでしょう。


さて、その中野かほると大高よし男の接点は、いままでわかっている範囲では以下の3つです。

・昭和17年6月〜7月 
 川崎大勝座・名古屋歌舞伎座 海江田譲二一座(8協団)
・昭和18年3月 
 浅草金龍館 三座合同公演(伏見澄子・和田君示・中野かほる一座)
・昭和21年10月 
 杉田劇場・大高よし男追善興行

大高の生前に限れば、わかっているのは上の2回の共演だけです。


そんな中野かほるがなぜ大高の追善興行に出演し、葬儀にまで参列していたのか。

上掲の『日本映画俳優全集・女優編』には「(19)41年1月、大都が大映に吸収されたさい退社。この間、元・映画通信記者の泉雅夫と結婚。戦後の54年、東映に入り(中略)映画に復帰」とあります。

これが正しければ、大高よし男の追善興行に出た昭和21(1946)年10月22日は、中野かほるが映画界から離れていた時期ということになります。新聞広告の肩書きに「元映画スター」とあるのはそういう事情なのでしょう。


上述のように、中野かほるは昭和16年以降、映画界からは離れ、主に舞台で活躍していたようですが、これは中野かほるに限ったことではありません。戦争が激しくなるにつれてフィルム不足などから、映画を撮ることが難しくなり、映画スターが実演に移行した例は少なくないのです(上掲昭和17年の「8協団」などはまさにその好例です)。

時系列的には、中野かほるが映画から実演に軸足を移した頃に、大高と共演したということになります。

中野かほるの舞台での活躍は、調べた範囲では昭和18年の夏前くらいまでは記録が残っています(川崎大勝座)。その後はまだ精査できていませんが、戦争の悪化とともに活動を縮小せざるを得ない事情があったのかもしれません。


そんな中野かほるですから、大高よし男の追善興行に来演したのは、華を添えるべくプロデューサーの鈴村義二なりオーナーの高田菊弥なりが招聘したというのが一番ありそうな可能性ですが、葬儀にも参列していることからすると、ただ呼ばれて舞台に立ったというよりは、大高への追悼の思いがどこかにあったと考えてもおかしくありません。中野かほるの方から出演を申し出た可能性すらあります。

舞台公演の際に、映画スターだった中野かほるが、舞台での振る舞いやしきたりについて、大高よし男から助言を受けていたりした可能性もあります。そんな恩義が中野かほるを葬儀に参列させる動機だったとも考えられます(ちょっと妄想多めです)。


追善興行では「かんざし(簪)」が演目になっています。これは昭和17年・18年の舞台でも上演された演目で、大高との思い出と同時に、中野かほるの十八番というべき作品だったのかもしれません。

1946(昭和21)年10月22日付神奈川新聞より

『近代歌舞伎年表 名古屋編』第17巻より


再度『日本映画俳優全集・女優編』を参照すると、中野かほるは「(19)62年の「三百六十五夜」を最後に引退した。数年前に死去を伝えられたが、没年は不詳」とあります。『全集』はキネマ旬報増刊 1980年12月31日号ですから、これもこの記述が正しいとすると1970年代の後半に亡くなったと思われます。

「国会図書館デジタルアーカイブ」で検索してみると、中野かほるの経歴のうち、自宅で閲覧できる(送信サービスで閲覧可能)範囲内では、『出演者名簿 昭和49年度版』(著作権資料協会刊)が一番新しいもので、館内限定公開の同書「昭和50年版」にも、また『タレント名簿録 : 芸能手帳 1976年度版』(連合通信社編/音楽専科社刊)にも記録があり、それ以降は名簿記載が見当たらなくなることから、1975(昭和50)年頃に亡くなったと考えられそうです(新聞などを確認してみます)。


上掲『出演者名簿』の記録では「大1.4.9生」(掲載年によっては「明45.4.9」:こちらが正しい)となっているので、同姓同名の別人という可能性は低そうです。この頃の所属は「俳協」でその後「放芸協」所属となります。映画からは1962(昭和37)年に引退していますが、その後も舞台やテレビ・ラジオなどには出ていたのかもしれません。

※同名簿の昭和36年版には掲載がなく、昭和38年版では所属が「俳協内」、昭和43年版では「俳協」となっています。昭和37年に映画界から引退、その後、俳協に所属してテレビやラジオで活動していたと考えるのが一番ありそうな可能性です。


ところで、大高一座(暁第一劇団)は当初、巡業先の長野から帰ってすぐ、10月4日初日で10月興行をスタートさせる予定でした。

1946(昭和21)年10月1日付神奈川新聞より

一座の演目は四日替りでしたから、順当に行けば

4日〜7日 御目見得
8日〜11日 二の替り
12日〜15日 三の替り
16日〜19日 四の替り

と続いたはずです。

しかし実際は座長亡き後、公演を続けるのは難しかったようで、10月5日からは急拵えにも見える歌舞伎・映画スター・邦楽団の合同公演が始まります(映画スターの中には黒田記代の名前が見えます)。

1946(昭和21)年10月6日付神奈川新聞より

これもやはり4日間で(8日まで)、9日からは「劇団新進座」との合同公演という形で、暁第一劇団が興行を始めます(おそらく12日まで)。演目や座組からは、なんとなくバタついている様子もうかがえますが、広告には大高の死を知らせる言葉や、追善興行の記載はありません。

1946(昭和21)年10月8日付神奈川新聞より

四日替りのスケジュールを考えると、その後、13日から16日までも公演があったのではないかと推測されます。そこに「追善興行」の冠が付いていた可能性はありますが、記録がないのではっきりしません。

そして記録のある「17日〜20日」の追善興行になるわけです。

1946(昭和21)年10月15日付神奈川新聞より

これに続くのが中野かほる出演の追善興行(10月22日)ですが、彼女の出演は一日のみだったと思われます。というのも10月23日には読売新聞主催の「在外同胞引揚援護金募集 東京大歌舞伎」(座長沢村宗十郎)が開催されているからです。

ただ、月末、10月30日の暁第一劇団の公演では、追善興行と同じ演目である「蛇姫様」が上演されているので、このあたりまで中野かほるが出演していた可能性はあります。ですが、いまのところ確証はありません。

中野かほるが出演したのは、17日〜20日の追善興行の後、1日空けての22日ですから、彼女が写真に写っていることも考えると、21日に葬儀を行なったのではないかと推測しているところです。なんとかそれを確定したいところですが、弘明寺にも記録はなさそうで、手がかりがないのが現状です。


と、そんなこんなで、今回は中野かほるについてわかってきたことを書いてみましたが、大高よし男との関係にはまだまだ謎が多く、わからないことばかりです。中野かほるを追っていけば何かわかるのかもしれません。調査は続きます。


→つづく


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