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(117) 市蔵と小紫と横浜

歌舞伎学会の夏の企画に参加してきたので、ひとまず備忘録的に。


話題の書『越境する歌舞伎』の合評会ということで、こういう集まりに出るのは初めてでしたから、どんなことをするんだろうと不安を抱きながら、母校の、しかも4年間通っていたキャンパスにもかかわらず、圧倒的なアウェー感の中、それでも実に得るものの多い会でした。

(ありがとうございました)

そんなこんなで、会の後に、いろいろ調べてみたことや考えたことを、不勉強の門外漢ながら、この先、何回かに分けて投稿してみようと思います。


まずは、市川市蔵やその周辺の役者と横浜の関わりについて。

『越境する歌舞伎』は、市川市蔵劇団という小芝居(中芝居)の劇団の話を中心に小芝居や女役者などについて丁寧に書かれた名著で、市蔵の子である三代目岩井小紫、二代目市川団四郎らへの聞き取り調査がベースになっています。本文中には横浜への言及もありますが、あまり多くはありません。

ですが、横浜のことを調べている身としては、わずかとはいえ言及がある以上、一応確認してみなくてはと、溜め込んだ新聞記事のコピーをひっくり返してみたところ、思いがけず市蔵と岩井小紫(初代)ではないかと思われる名前に出くわすこととなったのです。


『越境する歌舞伎』によれば、市川市蔵(本名藤田栄)は1901(明治34)年生まれで

"大歌舞伎での名題を目指して修行をし、五代目澤村田之助から澤村田左衛門の名をもらった"(同書67ページ)

とあり、そのほかの芸名として嵐傳二郎、市川團四郎などがあったそうです。

また、岩井小紫は、この本の聞き取り調査の対象である兼元多恵子が三代目、その姉(智子)が二代目で、初代は市蔵(藤田栄)の兄である竹本巽太夫(藤田謙治郎)の妻の妹の夫、

"小芝居で活躍後に松竹大歌舞伎に入り名題になったと藤田家では伝えられている"(同書70ページ)

とのことです。

"昭和十三(一九三八)年後半あるいは十五(一九四〇)年前後、まだ藤田栄が市川市蔵以外の芸名で活動していた時期に栄の実兄巽太夫が義理の弟の小紫に声をかけたことで、栄が率いる劇団に入ったと考えられる"(同書72ページ)


とあり、さらには

"昭和十五(一九四〇)年以降、大歌舞伎に入った、あるいは戻った時期があった可能性がある"(同)

ともあるので、戦前の活動についてはあまりはっきりしないようです。

ちなみにこの頃(昭和13〜15年頃)の横浜では、横浜歌舞伎座での歌舞伎興行(更生劇)が終わり、本格的な歌舞伎は見られなくなって、日吉劇(日吉良太郎一座)や剣劇・女剣劇など、どちらかというと大衆演劇の興行が盛んに行われていました。

それでも念のために、その前後の時期を確認してみたところ、1942(昭和17)年から翌年にかけて、南吉田町の金美劇場(金美館)での興行に関する新聞記事の中に、両名の(と思われる)名前を見つけたというわけです。

1942(昭和17)年11月9日付神奈川新聞より

1943(昭和18)年2月8日付神奈川新聞より

(年代的に田左衛門時代の市蔵と初代小紫だと考えていいと思うのだけど…)


南吉田町の金美劇場は、もともとは1929(昭和4)年に開場した「横浜キネマ」という映画館で、のちに南座と改名し、さらに金美館と名を改めて、昭和16年10月から実演に転向した劇場です(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)。

実演劇場になったとされる昭和16年の10月興行は剣劇二座合同公演で、顔ぶれは

"新國劇の鳥居正、新鋭座の牧野映二、春野勇、女流剣劇の二見歌子、これへ嵐吉蔵、新星、花柳好太郎といふ連名。舞台を見ると更生劇の市川荒右衛門、黒川匠、日吉劇の小國龍太郎、映画畑の中川五郎。いやなかなかの豪華メンバー"(1946(昭和16)年10月6日付神奈川県新聞より)

かなりごったな混成メンバーという印象です。

さらに、その2か月後、同年12月になると「澤村清之助一座」が金美館に登場します。

澤村清之助について『越境する歌舞伎』では、阿部優蔵の『東京の小芝居』を引用して

"田ん圃の太夫こと四代目澤村源之助の弟子(中略)小芝居では名の残る女方で、小芝居関連書では必ず取り上げられる名題役者である。昭和十(一九三五)年過ぎから市川鶴之助と組んで東海道や房総方面を巡業し、戦後は横浜で市川栄升と組んで芝居をしていたという"(同書88ページ)

と書かれていますが、横浜の郷土史(演劇史)では「澤村清之助」の名は、戦後ではなく、どちらかというと戦前、昭和9年から横浜歌舞伎座の専属劇団であった「更生劇」の中心メンバーとして記憶・記録されています。

昭和11年発行の『花柳演藝かゞみ』には更生劇の人気俳優として、實川延蔵・澤村清之助・森野五郎・市川栄升・市川新之丞・市川筆之助・大谷門二郎(のちの友吉)・市川之四丸(のちの升紅)らが写真付きで紹介されています(もちろん、ハマの團十郎こと市川荒二郎も中心メンバーでしたが、この本の発行前年に亡くなっています)。

『花柳演藝かゞみ』より

更生劇は昭和13年5月に4年間の活動を終え、同年6月からは日吉良太郎一座が横浜歌舞伎座に根を張って、昭和19年まで6年にわたる連続興行をスタートさせます。前述の通り、これ以降しばらく、日吉劇や敷島座の剣劇・女剣劇といった大衆演劇が横浜演劇界の中心となる時期が到来します(近江二郎一座とともに大高よし男が敷島座の舞台に立つのが昭和15年3月だからまさにこの時期)


さて、金美館での澤村清之助一座に話を戻すと、そのメンバーは

澤村清之助
嵐芳之助
松岡壽美子
生島波江
大和愛子
三田京子
杉浦砂子
水の江城子
石原美津男
林重四郎
木田三千雄
北島晋也
福井哲郎
西條悦郎
畑中良
光健二
水田純一
結城■司
澤村清枝
澤村清子
黒川匠
牧野映二
春野勇
(1941(昭和16)年12月1日付神奈川県新聞より)

といった顔ぶれです。

歌舞伎の一座というよりは大衆演劇寄りのメンバーが多い印象です。

生島波江は日吉劇の舞台にも立ち、戦後、大高一座にも参加している人。松岡壽美子は日吉劇のメンバーだし、水の江城子はこの時まだ13歳、横浜の大衆演劇では有名な子役で、のちには弘明寺銀星座の自由劇団にも参加する役者。木田三千雄は後年テレビドラマなどでも活躍し、近江二郎一座にいたこともあるそうですから(1963(昭和38)年7月1日付読売新聞より)、歌舞伎でも剣劇でも新派でも、とにかく横浜でお馴染みの役者を集めた混成一座、といったところでしょうか。

そんな澤村清之助一座は翌年、昭和17年の正月興行までの2ヶ月間、金美館での上演を続けますが、その間に劇場が籠寅演藝部と提携し、同年2月以降は籠寅主導による大衆演劇中心の興行に方向転換します。

1942(昭和17)年1月26日付神奈川新聞より

(この頃から、籠寅は蒲田愛国劇場、川崎大勝座など京浜地区の小劇場を続々と傘下にしていったようですね)

しかし、大衆演劇への転向はわずか3ヶ月で終わり、昭和17年5月に「金美館」は「金美劇場」へと改名して、ふたたび澤村清之助、大谷友吉(前名大谷門二郎)らを中心とした「新進座」という劇団による歌舞伎専門の劇場へと再転向します。

新聞の劇評の中で紹介されている新進座の顔ぶれは

大谷門二郎改め友吉
坂東市太郎
澤村清之助
市川五百三郎
安田猛雄
生島波江
吾妻八重子
中村正夫
澤村亀音 
市川紅升
(1942(昭和17)年5月18日付神奈川新聞より)

で、記事には「友吉を主體として」と書かれていますから、座頭ということになるのでしょうか。これも混成一座の印象は拭えませんが、澤村清之助一座をベースにしながらも歌舞伎色が濃くなっているように感じます(前回の投稿に書いた市川門三郎の弟、市川五百三郎(のちの坂東相十郎)の名前もここに出てきます)。


この時期、金美劇場は運営方針が右往左往している印象ですが、どうやら籠寅との提携は続いていたようなので、保良浅之助一流のひらめき(思いつき)で、同じ籠寅傘下の敷島座や、日吉劇の拠点・横浜歌舞伎座との差別化を図るために、金美劇場を歌舞伎専門という位置付けに変えたのではないかとも考えられます(新進座の興行は最終的には昭和18年4月までの約一年、安定して続きましたから、その方針はあながち間違っていなかったのかもしれません)。

いずれにしても、これで横浜に本格的な歌舞伎が戻ってきた、というのが当時の好劇家たちの思いだったようです(上掲記事にもあるとおり「ハマ唯一の歌舞伎芝居」という認識だったよう)。


余談ながら、昭和17年8月1日〜5日には「尾上菊五郎一門劇」と称し、菊五郎劇団のメンバーによる歌舞伎が上演されます。この公演はあまり良いものではなかったようで、「横浜の観客を舐めるな」という論調の、稽古不足を指摘するかなり辛辣な劇評が掲載されます(昭和17年8月10日付神奈川新聞『訓練不足の歌舞伎劇を難ず』横濱演劇懇話會の菊五郎一門批判)


さて、前置きが長くなりすぎましたが、肝心の市蔵らのこと。

上に提示した記事の通り、昭和17年の秋以降、正確には金美劇場9月興行から新聞記事に「田左衛門」「小紫」の名前が見られるようになります。この年の夏に市蔵らと新進座の間で何らかの接点があったのでしょう。

その後もこの座組の興行は順調に続きますが、前述の通り、昭和18年4月いっぱいで劇場が松竹第三部の経営となって、またまた大衆演劇に方針転換。横浜の歌舞伎はこれで一旦終了となるわけです(前回書いたように、11月に市川門三郎が来てまたまた歌舞伎に戻り、二転三転の劇場経営という印象です)


実は、金美劇場での歌舞伎興行が終了する1ヶ月前、昭和18年3月に大谷友吉は新進座を離れ、松尾国三の富士興行に入社し、4月1日から名古屋歌舞伎座(市松延見子一座)に出演するのです。

1948(昭和18)年3月8日付神奈川新聞より

そしてこの記事の最後には

"岩井小紫、澤村田左衛門も行動を共にして名古屋へ赴く"

とも書かれています。

つまり市蔵と小紫は横浜・金美劇場の後、市松延見子一座に参加したようなのです。

その巡業の一環でしょうか、半年後の昭和18年9月には横浜花月劇場(旧朝日座)に延見子一座が来演します。

1943(昭和18)年9月1日付神奈川新聞より

そしてそれを紹介する新聞記事には、小見出しから友吉、小紫の来演が報じられているのです。

1943(昭和18)年8月30日付神奈川新聞より

とても興味深いのは、この記事の中で、岩井小紫が「市川猿之丞」に改名したと書かれていることです。

市松延見子一座の興行は三の替り、9月28日まで続きますが、その間に、これも横浜演劇懇話会の小林勝之丞によるかなり厳しい劇評が出ます。その中には改名についての言及もあって

"どうも見當違ひの気味もある。たとえば市川新之丞が段枝、岩井小紫が市川猿之丞、門二郎(引用者注:友吉)が大谷友十郎と改名してゐるのにその事に觸れていない。七年ぶりの市川左莚出演も歌舞伎愛好者には懐しい筈だが、誰も彼も十把一からげである"(1943(昭和18)年9月6日付神奈川新聞「初秋決戦下劇壇」より)

つまり、岩井小紫は市川猿之丞に、大谷友吉は大谷友十郎に改名したというのです(澤村田左衛門のことは書いていないので改名していないと思われる)。

(ちなみにこの劇評を受けてなのか、二の替りの広告はこんな感じになります)

1943(昭和18)年9月19日付神奈川新聞より


ということで、その改名情報を一旦信じ、時間を遡って『近代歌舞伎年表』(名古屋篇・大阪篇・京都篇)で彼らの名前を確認してみたところ、金美劇場を去った後の時系列で、こんな感じになりました。


昭和18年
4月1日〜29日 名古屋・歌舞伎座
東京歌舞伎大一座 市松延見子・河原崎権十郎
(大谷友十郎・市川猿之丞・澤村田左衛門 出演)

5月1日〜(26日) 大阪・角座
厚生劇・関西歌舞伎・東京劇団新派大合同
(大谷友十郎・澤村田左衛門 出演)

※6月は不明
ただし、ネットに当該月のパンフがあり(すでにsold out)、そこには3名の名前が確認できる。場所は不明。

7月1日〜(28日) 大阪・角座
報国劇団坂東好太郎一座・富士劇団市松延見子一座合同公演
(大谷友十郎・市川猿之丞 出演)

8月1日〜 京都・南座
報国劇団坂東好太郎一座・富士劇団市松延見子一座合同公演
(大谷友十郎・市川猿之丞 出演)

9月1日〜28日 横浜花月劇場
市松延見子一座
(大谷友十郎・市川猿之丞 出演)

10月1日〜27日 名古屋・歌舞伎座
市松延見子・中村福助大一座
(大谷友十郎・市川猿之丞 出演)

※11月・12月は不明

昭和19年
1月1日〜28日 名古屋・歌舞伎座
市松延見子・中村福助一座
(大谷友十郎・市川猿之丞 出演)

※2月・3月は不明

4月21日〜5月(2日) 名古屋・歌舞伎座
市松延見子一座 中村福助特出
(大谷友十郎・市川猿之丞 出演)

追えたのはここまでですが、もし本当に大谷友十郎が大谷友吉で、市川猿之丞が岩井小紫だとしたら、彼らは横浜金美劇場の後、一年以上、市松延見子一座に帯同していたと言えそうです(5月がちょっと異例だけど)。

一方の市川市蔵(澤村田左衛門)は昭和18年6月でこの一座を離れたように見えます。『越境する歌舞伎』に書かれている

"(市蔵は)同じ頃(筆者註:昭和18年から19年頃)、やはり小芝居の大物、澤村清之助を上置きとする座組をみずから行い、地方巡業をした"(同書112ページ)

という時期がこの頃にあたるのでしょうか。詳しいことはわかりません。

また、同書には岩井小紫の出征について、

"おそらく戦争末期の四十歳前後での出征だったと思われる"(72ページ)

とありますが、(くどいようですが)小紫が市川猿之丞だとすると、昭和19年5月初頭までは舞台に立っていたわけですから、召集・出征はその後ということになります。

ちなみに、大谷友十郎はその後どうしたかわかりません。昭和13年刊の『銃後の横浜』(皇軍慰問号)には門二郎時代に出征した際の話が面白おかしく書かれていますが(「俳優の出征いろいろ」)、終戦間際に何をしていたのかは、詳しい調査ができていません。

ですが、いずれにしても戦禍を生き延びたようで、戦後、昭和22年にオリエンタル劇場(のちのオペラ館、横浜セントラル劇場)で、大谷友十郎一座の興行が行われています。

1947(昭和22)年6月29日付神奈川新聞より

この時も「友吉改め大谷友十郎劇団」となっていることから、友十郎という名前は少なくとも横浜ではあまり定着していなかったのかもしれませんね。


ところで、『越境する歌舞伎』でひとつ疑問だったのは、昭和10年代の横浜で市川市蔵が中村幹尾の一座に参加していたと書いてあることです。

昭和10年代の横浜の歌舞伎は、上述の通り昭和9年から13年までの更生劇(横浜歌舞伎座)と昭和16年10月からの金美館(金美劇場)の新進座(澤村清之助一座)以外はほぼなないと思われます。

しかしながら、(まだざっくりとではありますが)これらの興行について調べた範囲では「中村幹尾」の名前が見つけられないのです。中村幹尾は改名していないということなので、横浜関係の記事のどこかに名前があるはずです(更生劇に出ていたのかな?)。

新聞記事の精査も、大高よし男が横浜に登場する昭和15年以降が中心だったので、更生劇のことも含め、もう一度ちゃんと調べ直さないといけません。


そんなこんなで、今回も回りくどい長文になりましたが、敷島座や日吉劇ばかり注目していた中、金美劇場の動きをざっとおさらいしてみたことで、戦時中の横浜演劇界を少し俯瞰して見ることができたのは、思いがけない収穫でした。

(それにしても歌舞伎のことは(も?)不勉強でわからないことばかり…付け焼き刃、ご容赦)


次回は(いつになるやら)、近江二郎一座と野島左喜子(坂東音芽)について、手元の資料でわかっていることと疑問点を整理したいと思います。


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(116) 坂東相十郎の謎

「いそご文化資源発掘隊」では杉田劇場に来演したスターや名優たちの紹介をしたので、不勉強の付け焼き刃ながら歌舞伎俳優についてもお話しさせていただきました。

1946(昭和21)年9月に行われた中村吉右衛門劇団の新聞広告には、中村芝翫(のちの六代目中村歌右衛門)、市川染五郎(のちの初代松本白鸚)らの名前があって、杉田劇場にこれほどの名優たちが来ていたのかと、改めて驚かされました。

1946(昭和21)年9月17日付神奈川新聞より

ですが、偏屈な僕としては、そこに併記されている「尾上大助(大作と書かれていますが実際は大助)」「阪東相十郎」の方が気になってしまうわけです。


尾上大助や坂東相十郎の名前は、戦時中から横浜の舞台に立っていた歌舞伎役者として、新聞広告などでたびたび目にしてきました。澤村清之助、市川栄升などと同じく「横浜の小芝居」の役者と言ってもいいのかもしれません。

中でも気になるのが坂東相十郎で、気になるきっかけというのは戦時中のこんな新聞記事です。

1943(昭和18)年11月8日付神奈川新聞より

南吉田町にあった金美劇場での歌舞伎公演についての記事で、曰く、

"市川門三郎、五百三郎改め坂東相十郎の兄弟劇団"

これが正しければ、相十郎は市川門三郎の弟で、前名を市川五百三郎とする役者だったことになります(これ以前の新聞記事には"「市川」五百三郎"の名前が出てきます)

この興行は11月初めからのものだったようで、すでに11月3日には広告にその名前が掲載されています。

1943(昭和18)年11月3日付神奈川新聞より


また、年末にかけて、劇評や一年の振り返りなどの記事中にも何度か同じ内容が登場するのです。

1943(昭和18)年12月13日付神奈川新聞より

1943(昭和18)年12月20日付神奈川新聞より

これ以外のいくつかの記事も読んだ上でまとめると、歌舞伎をメインに上演していた金美劇場が同年5月、松竹第三部の劇場という位置付けに変わり、歌舞伎以外("浪花節芝居や怪しげな興行"/12月20日付神奈川新聞「劇壇一ケ年の足跡」小林勝之丞より)の上演が続いていた中、11月になって市川門三郎と坂東相十郎の兄弟劇団がやってきて、金美劇場に歌舞伎を復活させた、ということのようです。


ところで、少し前に出た話題の『越境する歌舞伎』(浅野久枝・著)の中にも坂東相十郎の名前は何度か出ていて、最も詳述されている箇所にはこうあります。

"坂東相十郎は二代目坂東秀調の弟子で、太夫元をしつつ東北、北海道を中心に地方興行していた役者で、昭和十九年(一九四四)年には市川栄升と池袋銀星座に出演した記録がある。また、年代は不明だが市川荒太郎・小傳次・一蔵の「東京名題大歌舞伎」のチラシ(略)に市川猿十郎とともに坂東相十郎の名前が見える"(同書,87ページ)

「坂東秀調の弟子」「太夫元をしつつ東北、北海道を」というのは、雑誌上での市川門三郎(白蔵)の発言を受けてのものでしょう。

"そのころ子供芝居、ちんこ芝居ですね、それが流行っていた。私も尾上梅丸、中村播之助(中村吉之丞)、市川升蔵(利根川金十郎)などと一座を組んで、旅へ出ました。北海道の小樽に会津屋という料理屋があり、のちに私の弟がそこへ養子に行ったんですが、その親類に、先々代坂東秀調の弟子で坂東相十郎という人がいて、この人が太夫元をやっていた"(『演劇界』1972年12月号「明治人に訊く 一座を組んで…市川白蔵の歩いてきた道」より)

ここに書かれている相十郎は門三郎が子供芝居をやっていた頃に太夫元をしていたのですから、門三郎の弟というのはあり得ない話です。

ただひとつのつながりは、門三郎の弟が太夫元の坂東相十郎の親類のところへ養子に行ったということでしょうか。

その逸話から類推できるとしたら、養子にいった門三郎の弟もまた市川五百三郎の名前で歌舞伎役者になって、親類であった坂東相十郎が自分の名を継がせたということなのかもしれませんし、逆にもともと歌舞伎役者をやっていた弟が、何らかの縁で坂東相十郎の名を継ぎ、結果として縁者である小樽の料理屋に養子に行ったということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。

(謎だ)

それはそれとして、横浜の相十郎を辿ってみるに、昭和18年の金美劇場のあとは、戦後、上掲の吉右衛門劇団への客演(?)のほか、昭和21年6月、弘明寺銀星座の「劇団新歌舞伎」の広告に名前が見られます。

1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より

また、1948(昭和23)年、杉田劇場での『仮名手本忠臣蔵』の広告にも名前があります。

1948(昭和23)年6月12日付神奈川新聞より

これらが、どの相十郎なのかはさっぱりわかりません。もし金美劇場で五百三郎から改名した坂東相十郎だとしたら、太夫元の相十郎とは別の相十郎が横浜で活動していて、それが戦後、弘明寺銀星座や杉田劇場の舞台に立っていたようにも思えるのです。

少なくとも弘明寺銀星座の「新歌舞伎一座」の惹句には「若手俳優の熱を以って」とあることからしても、太夫元の相十郎とは別人とする方が妥当なようにも思います(さらに言えば『越境する歌舞伎』に書かれている池袋銀星座の相十郎も別人のような気がする)

詳しい方、ぜひ詳細を教えてください。


これまで大高よし男を中心に、剣劇などの大衆演劇にばかり目を向けて調べてきましたが、旧杉田劇場を調べる上でも、また横浜の演劇史を考える上でも、日吉劇の前の横浜歌舞伎座における更生劇や、金美劇場の新進座など、関東大震災以後の小芝居のことも調べないと全体像が見えないのだなということを痛感したこの頃。大高の痕跡を探るために敷島座の番組をさらに遡って精査することも必須です。

(ふぅ)

そんなこんなで、今回は脇道にそれましたが、歌舞伎役者・坂東相十郎の謎について考えてみました。


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(114) 文化廣場のことなど

大高よし男やその後の旧杉田劇場のことを調べていると、これまでまったく知らなかった歴史の事実に接することがあって、驚くとともにちょっとした感動も覚えます。これが、先の見えない大高調査からどうにも抜けられない原因のひとつなのでしょうね。


前にも藤村正夫の項目で少しだけ触れた「港映」こと港北映画劇場が、実演を中心とした「妙蓮寺劇場」になったのが1949(昭和24)年10月初旬。新聞広告によれば市川門三郎一座の興行で改名披露ということになっています。

1949(昭和24)年10月8日付神奈川新聞より


ところで、これより少し前、同じ年の6月下旬から突如、大口(神奈川区)の「文化廣場」なる場所における興行の広告が登場するのです。

1949(昭和24)年6月22日付神奈川新聞より

1949(昭和24)年7月12日付神奈川新聞より

大江美智子だったり淡谷のり子だったり、それなりのスターが来演しているのに、これまでこの劇場(?)の名前をまったく知らなかったのは、ひとえに勉強不足によるものとはいえ、さまざまな資料をひもといても、どこにも「文化廣場」への言及が見つからないのはどういうことなのかと、首をひねるばかりです。

(そもそも、文化廣場ってなんだ?/どなたかわかる人がいたら教えてください)


上掲、「淡谷のり子と踊るNDT」(日劇ダンシングチーム?)の広告には最下段に「四中跡」と書かれています。これが手がかりになりそうです。

調べてみると、四中とはどうやら日大四中(日本大学第四中学校:旧制)のことのようで、1930年、神奈川区大口通り127番地に開校した学校なんだとか。空襲で校舎が焼失し、戦後、1947年に港北区箕輪町(日吉)に移転して新制の日大高校・日大中学になったのだそうです。

ということは、その跡地にできた「文化廣場」の所在地もまた大口通り127番地ということになります。

追加で調べると、この番地は「大口映画劇場」と同じもので、しばしば参照させてもらっているサイト「消えた映画館の記憶」によれば大口映画は1951年に開場していますから、考えられる経緯は、1949年、日大四中の跡地にまず「文化廣場」ができ、2年後にそれが映画館となったというものです。

仮にそれが正しければ、文化廣場なる劇場(?)はわずか2年の短命だったということになります。もしくはエリア一帯を「文化廣場」と称し、その一部が映画館になったのかもしれません(東急文化村みたいに)。そのあたりはさらに追加調査したいと思います。

※よく見ると広告に「雨天順延」とか「雨天の際は」の文言があるので、もしかしたら文化廣場とは文字通りの「広場」で、一種の野外劇場だったのかもしれません。


さて、上掲広告には劇団名の書かれていない「新版四谷怪談」が予告されていますが、これはのちの広告をみると「無名座」という劇団によるもののようで、春野勇、英栄子の名前があるほか、特別出演として「森野五郎」の名前も確認できることから、戦時中、空襲前の伊勢佐木町の劇場や南吉田町の金美劇場(新進座)などで活動した役者たちが作った劇団と考えられそうです。新進座には大高一座に参加していた生島波江も所属していましたから、無名座にも生島波江がいた可能性は否定できません。

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

その後、辻堂の「湘南映画」でも同じ劇団が同じ演目を上演している広告も見つかったので、もしかしたら無名座はこの座組で県内を巡業していたのかもしれません。

1949(昭和24)年7月24日付神奈川新聞より


これらの興行がどう影響したのかはわかりませんが、8月下旬になると杉田劇場で森野五郎一座の興行がスタートします。杉田劇場の開場直後には何度か興行していた森野五郎でしたが、その後、新聞広告では名前を見ることがなくなりました。

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

もしかしたら一時休業していたのが、この時期に活動を再開したということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。いずれにしても森野五郎は1950年代初頭には映画界に復帰しているので、これが実演最後の頃の興行と言えそうです。


大口に「文化廣場」がオープンし、港映が「妙蓮寺劇場」と改称する時期は、杉田劇場や銀星座がそろそろ経営難に陥る時期と重なります。

市の中心部より南側で動き始めた戦後横浜の(実演)興行界が、中心部より北に移っていったようにも見えます。

しかし、その広がりは実演というジャンルにおいてはその後の成長は見込めず(おそらく横浜の観客は復興の進んだ東京の劇場に足を運んだのではないか)、市域の興行は、映画というジャンルに大きくシフトすることになったのだと思われます。

ちょっと大袈裟ですが、こんな小さな広告からでも、興行のダイナミズムみたいなものを感じたりするところです(だからやめられない)。


そんなこんなで、妙蓮寺や大口などの劇場事情などについて考えてみました。



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(34) 横浜の大高よし男

やっとこさ昭和13年1月から昭和17年12月までの新聞記事(横浜貿易新報/神奈川新聞)の閲覧が終わりました。1日ずつ、娯楽ページをじっくりと、他のページもさらりと、すべてをチェックしたわけです(見落としはあると思うけど)。

これだけの労力を使ってわかったのは、結局

大高よし男は横浜に縁があった

ということだけです(生年、出身地などはあいかわらずまったく不明)。

これを労多くして功少なしとするか、労力に見合うものが得られたとするか、なんとも言えないところですが、個人的には達成感を感じています。

もっとも、その前後がやはり不明なので、昭和12年以前と昭和18年以降は、継続して調べなくてはなりません。


これまでの調査で大高(実際には前名の高杉彌太郎だけど)が横浜に初めて登場するのは、昭和15年3月、敷島座での「近江二郎一座」の興行で、それ以前の2年間、横浜の芝居興行に彼の名前は見られないことがわかりました。以上の結果から大高よし男は

1、その時期に他地域で活動していた
2、もともと近江二郎一座の座員だった

という2つの可能性が考えられます。

「1」の場合、東京以外の地域だとなかなか調べが難しいところですが、少なくとも『近代歌舞伎年表』を調べた結果、昭和14年以前と昭和18年以降の京都と大阪には、彼の痕跡は発見できなかったので、あるとしてもそれ以外の地域だろうと考えられます。

よって、何度も述べていますが、この先は『年表』の「名古屋篇」最新刊を待つことと、『都新聞』を精査して「東京にいたかもしれない大高」を探す作業に注力したいと思います。

「2」の場合も調べは難しいところですが、近江二郎一座が横浜に来たのは、籠寅演芸部に所属したことがきっかけですから、そこで大高が注目されて、近江一座以外の籠寅系劇団の座組に参加するようになった、という可能性は否定できません。

昭和14年以前の近江二郎一座に高杉彌太郎の名前があればビンゴですが、前述の『年表』から、昭和13年まで年に二度くらいのペースで、名古屋・宝生座に近江一座が出演していたことはわかっているものの、座員連名などは不明なので、なんとも言えないところです。

仮に大高が近江二郎一座のメンバーだったとしたら、戦後、杉田劇場や銀星座への彼らの出演は、事前に近江二郎と大高よし男と日吉良太郎あたりが相談して売り込んだ話、という風にも思えてきます。

日吉良太郎は井土ヶ谷中町に住み、近江二郎の横浜の家も井土ヶ谷にありました。大高もそのあたりに住んでいた可能性は低くありません。その三者が相談して、横浜で自分たちの活動を続けるための方策を考えていたかもしれません。


ところで、以前も書いたように、近江二郎一座の座員に「高田光彌」という人がいました。

昭和15年12月29日付神奈川県新聞より

旧杉田劇場の経営者は「高田菊弥」で、一文字違い。

そして本多靖春の『戦後 −美空ひばりとその時代−』によれば、高田菊弥は「若いころから芝居好きで、戦前は浅草松竹座に出入りして、役者の後援会長を引き受けたりしていた」とあります。

近江二郎が後年、不二洋子一座の助演として松竹座に出ていることを考えると、高田が近江二郎の後援会長だったのかもしれないし、「高田光彌=高田菊弥」の可能性も出てきます(戦後、「宮田菊弥」の名前で大高一座の舞台に出ていたのではという推論もあるし)。

となると

高田菊弥−近江二郎−大高よし男

のラインも見え隠れします。

どうやら近江二郎を軸に調査を見直す必要がありそうです。


一方の日吉良太郎は戦後、演劇界からは引退したと言われています。「愛国劇」なんていうものを掲げていた以上、表立った活動はしにくかったろうと思いますが、僕には銀星座や杉田劇場との関わりの中で、カゲのプロデューサーとして仕事をしていたようにも感じられます。

銀星座の専属「自由劇団」はメンバーを見る限り、日吉一座の残党による劇団といって間違いはないし、大高よし男が亡くなった後、その劇団(暁劇団)の再生に、かつて日吉一座のメンバーだった藤村正夫が関与していることも、そんな印象を強くするところです。

それでありながら銀星座の柿落しが近江二郎一座であることを考えると、戦争が終わって、日吉良太郎と近江二郎、高田菊弥が膝突き合わせ、杉田劇場と銀星座の陣容を相談した、なんていうのも、あながちあり得ない話ではないような気がします。

(以下、久しぶりの妄想劇)

高田「日吉先生、横浜の芝居をもう一度盛り上げましょう」
日吉「うむ。しかし、ウチは愛国劇なんていうものをやっていた以上、そのまま復活というのは世間が許さないだろうし、GHQだって黙ってはいないだろう。ほとぼりが冷めるまで私は表に出るのを控えようと思っているんだ」 
高田「そうですか…」
近江「そう落胆なさるな。そこは私がなんとかする」
高田「近江先生にやっていただけるんですか! それは願ったり叶ったりだ」
日吉「いやいや、実を言うと、弘明寺に銀星座という新しい劇場ができるんだが、近江先生にはそちらをお願いしてある」
高田「え? じゃあ、杉田はどうなるんです?」
近江「うちにいた若い役者の大高よし男、覚えているでしょう?」
高田「大高?」
近江「高杉彌太郎ですよ」
高田「ああ、あの高杉! 男前で人気のあった!」
近江「彼に座長をやらせて、専属の一座を立ち上げる。そうだ、日吉先生のところからも役者をお借りできませんか?」
日吉「もちろん。そうだな、生島波江と藤川麗子あたりに声をかけてみます」
近江「そんなベテランを!」 
日吉「彼女らだって、芝居がやりたくてうずうずしているんです」 
高田「大高よし男に日吉一座の名女優! 杉田劇場も安泰だ。ありがとうございます! これで、いよいよ横浜演劇も新しい夜明けを迎えるわけですね!」
近江「暁」 
高田「え?」 
近江「横浜芝居、新時代の暁だな」
高田「暁…そうだ、新しい劇団の名前は暁劇団! どうでしょう?」 
近江「暁劇団か…うん、悪くない」
日吉「いや、ただの暁じゃない。最初の暁です。どうせなら大きく出て、暁第一劇団なんてどうです?」 
高田「暁第一劇団! いい! それで決まりです! ありがとうございます!」

(妄想劇、おわり)

そんなヘタな妄想は別としても、役者たちの顔ぶれを見れば、戦前・戦中の横浜の実演劇場、横浜歌舞伎座の日吉良太郎一座、敷島座の近江二郎一座、金美劇場の横浜新進座、その系譜は杉田劇場と銀星座に確実に受け継がれていたのがよくわかります。

両劇場は戦後の新設劇場ながら、その実、戦前から続く横浜演劇の芝居小屋そのものであり、両者の衰退は明治以降の横浜大衆演劇文化の消滅と同義といってもいいのかもしれません。

日吉良太郎は昭和26年に亡くなりますが、奇しくもそれは杉田劇場の実質的な閉場とほぼ同じ時期です。


さて、毎度の余談。

戦後、葡萄座の立ち上げなどで活躍する梨地四郎さんのことは前にも書きましたが、新しい記事を見つけました。

昭和13年9月23日付横浜貿易新報より

この時の劇団名は「横濱舞臺」、演目は田中千禾夫『おふくろ』と田口竹男『高梁一家』、会場は吉田町の「都南ビル講堂」だそう。

都南ビルは現存しますが、あの中に講堂があったとは知りませんでした(まだあるのかなぁ)。

2022年5月4日撮影

いつまでも残してほしい横浜の古い建築物のひとつです(吉田町もずいぶん雰囲気が変わりました)。


余談2。

戦後横浜のアマチュア演劇にとって重要な拠点のひとつだった、長者町の「電業会館」が解体だそうです。

2014年4月6日撮影

もちろん僕は話に聞くだけで利用したことなどありませんが、かつて「土曜小劇場」という企画で、春秋の2シーズンは毎週土曜にアマチュア演劇の公演が行われていたそうです(→こちら)。

ファザードのモザイクが特徴的なビルでしたが、横浜の歴史はあっという間に壊されてしまいます。残念。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合わせフォームからぜひお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。


(23) 振り出しに戻る

 関哲洲→関彌太郎→高杉彌太郎→大高よし男

という改名の流れはとても説得力がありそうだし、いい感じに思えます

が、

残念ながら再調査でいきなりの頓挫。

既報の通り、昭和17年1月26日の新聞記事には、2月の敷島座に「高杉彌太郎改め大高義男」が出演すると書かれていますが、そのすぐ横に「金美館が籠寅演藝部と提携」というタイトルの記事がありました。1月31日から中村吉十郎の歌舞伎と千葉蝶三朗の喜劇で開演するとの内容です。なんとその出演者に

関哲洲

の名前があったのです(画像の一番左)。

昭和17年1月26日付神奈川新聞より

伊勢佐木町の敷島座と南吉田町の金美劇場。

近いとはいえ、さすがに同時期に両方の舞台に立つことは、ちょっと難しいだろうと思います(敷島座の興行も1月31日初日)。

つまり、大高ヨシヲと関哲洲は別人であると判断せざるを得ません。


ただ、同年11月9日には同じ敷島座で杉山昌三九(すぎやま しょうさく)の劇団世紀座の興行があるとの記事があって、その中に出演者として

関彌太郎

の名前があるのです。

昭和17年11月9日付神奈川新聞より

これが関哲洲の異名なのかは不明ですが、少なくとも関彌太郎という人がいたことは間違いありません。

関彌太郎と関哲洲のことは少しわかりましたが、大高探しはこれで振り出しに戻ります。

(いい手がかりだと思ったんだけどなぁ…)


→つづく


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(15) 大高ヨシヲをめぐる人々(2) 〜日吉良太郎〜

今年は関東大震災からちょうど100年の節目だそうです。

100年というとずいぶん古い話に思えますが、阪神淡路大震災が28年前、東日本大震災でさえも12年前。100歳を超える高齢者が珍しくない時代ですから、つい最近のことともいえます。

震災で横浜の街は壊滅状態になりました。処理に困った大量の瓦礫を使って港の一部を埋め立て、それが山下公園になったというのは有名な話ですが、明治以降、居留地(関内)とその外側(関外)にそれぞれ独自の世界を築いていた新興都市の文化は、震災ですっかり失われてしまいました。

関外の劇場街もほとんどが倒壊して、震災前の横浜の演劇の灯は消えてしまったといっても過言ではありません。

ですが、その後、昭和初期に相次いで劇場が新設されたおかげで、かつての賑わいを取り戻したかのような隆盛期が再びやってきます。小柴俊雄さんの労作『横浜演劇百四十年』では、金美劇場の登場(昭和16年)のことを "従来の横浜宝塚劇場、敷島座、横浜花月劇場を加えて、横浜の中心部に演劇王国を出現させた" と紹介しています。

しかし、それもふたたび、昭和20年5月29日の横浜大空襲で灰燼に帰してしまいます。

たびたび引用する『演劇年鑑』(昭和18年版)には当時の主要劇場一覧が掲載されていますが、ありがたいことに劇場の間口とキャパ(席数)が載っているのです。横浜の主要劇場として挙げられている三館のデータは以下のとおりです。

横浜歌舞伎座(末吉町) 間口:六間半、席数:494人
金美劇場(南吉田町) 間口:八間、席数:478人
敷島座(伊勢佐木町四丁目) 間口:四間、席数400人

間口とキャパですべてがわかるわけではありませんが、サイズを知るだけでも、それぞれが個性的な面白い劇場だったことは容易に想像できます(間口八間でキャパ478って、すごい劇場ですよね)。

歴史に「もし」を持ち込んでも詮無いことですが、もしこれらの劇場が残っていたら、横浜の演劇文化はどうなっていただろうと、ないものねだりの空想と知りつつ、複雑な思いを抱かざるを得ません。


さて、日吉良太郎は、そんなふうに再び隆盛を見た昭和初期の横浜演劇界で、もっとも有名な人でした。伊勢佐木町四丁目の「敷島座」や末吉町の「横浜歌舞伎座」を拠点に、旺盛な活動をした劇団の座長です。彼らの舞台は「日吉劇」と呼ばれ、人気を博していました。にもかかわらず、日吉一座は終戦とともに解散して、日吉の名前は現在ではすっかり忘れられてしまったのです。

東京の文化を潮流の栄枯盛衰とするなら、横浜の文化は潮流の断絶と再建の連続といってもいいでしょう。劇場も劇団も、演劇のムーブメントも、壊れては立て直し、立て直しては壊すの連続です。その傾向は今でも続いている、と言ったら言い過ぎでしょうか。

本題に戻りましょう。


日吉良太郎一座


日吉良太郎とは

前掲の『演劇年鑑』(昭和18年版)によれば

日吉良太郎(北村喜七)
明治二〇年 岐阜生まれ
日吉團團長
俳優協會評議員
横濱市中區井土ヶ谷中町**
長者****
(電話番号まで掲載されているのがすごいところですが、一応、今回も伏せ字にしました)

井土ヶ谷中町は当時から住所表示が変わっていないはずなので、現在地の特定は簡単です。京急井土ヶ谷駅から南東に10分ほどの場所、その路地を少し入ったところが年鑑に載っている住所にあたります。

ちなみに、女剣劇の大スター、大江美智子(二代目)は、日吉の家とは反対側、井土ヶ谷駅から西へ5分ほどのところに居を構えていました。つまり、戦時中の井土ヶ谷には、有名な舞台俳優(しかも座長)が2人も住んでいたことになります。

さて、そんな日吉良太郎はどういう人だったのか。

この人についても古い本をあたる以外に調査の方法がないので、信憑性に若干の不安はありますが、複数の資料を突き合わせ、最大公約数の事実を列記してみます。

日吉良太郎の経歴と人となり

日吉良太郎は、本名を北村喜七といい、愛知県半田の旧家に生まれました。愛知医専(今の名古屋大学医学部)に進学したものの中退(叔父の選挙で応援演説をしたことを咎められ、学校に嫌気がさしたとか)。東京に出て活動写真の弁士となります。弁士時代は当初、芸名を「西郷北州」といったそうです。もちろん西郷南州(隆盛)にちなんだものですが、「北州」は浅草では吉原のことだと指摘され、のちには「西郷了堂」とも名乗ったそうです(西郷麗山という表記もみられます)。

北州のエピソードが書かれている昭和8年発行の『映画の倒影』(小林いさむ著)では、こうも書かれています。

"この人は全く英語が読めなかったが、この道へ入っては必要を感じ、勉強して到頭それをものにして、ハリービールの探偵劇「ブラウン」や(中略)イタリー物「ファザー」等で、人気をとった"

これによると英語が読めなかったことになっていますが、愛知医専に入るくらいですから、それなりの学力はあったのだろうと思います。むしろ、ある程度の素養があったからこそ、洋画の弁士にもすぐ対応できたという方が正確な気がします。

弁士としての人気が高まっていった北村青年(日吉)は、そのうち弁士では飽きたらなくなり、当時、流行していた壮士芝居に感化され、経験もないまま、一座を旗揚げします。当初の一座には学生なども多くいたようですが、総勢20数名という堂々たる劇団として活動がスタートします。とはいえ、ぽっと出の劇団が、いきなり都会で売れるような甘い世界でもなく、しばらくは地方回りの劇団として、主に長野、山梨あたりの芝居小屋や、時には河川敷に小屋を立てての興行などしていたようです。

後述もしますが、彼には興行の才覚があったのでしょう。甲信地方では相当な人気で、長野県各地の市史や町史には、当時の日吉劇についての記載があちこちにみられます(松本市史、松代町史、大町市史など)。「信州の団十郎」と呼ばれていたほどですから、当時の人気ぶりがうかがえます。

その後、昭和8年に横浜へ来て、敷島座で公演。これまた高い人気を獲得し、東京の浅草や江東劇場でも公演を行ったのち、昭和13年から拠点を横浜歌舞伎座に移して、その後、7年もの長きにわたる「日吉劇」の興行が、終戦の年まで続くこととなります。


ところで、調べた書物の中で、彼についてもっとも詳細に書かれているのが、飯田文化財の会編『郷土の百年』(南信州新聞社出版局発行)です。

そこには日吉の人物像がこう記述されています。

"日吉の人となりが当時の俳優には珍しく物堅く統率力もあり、学殖のあることなど、芸よりもむしろ人間をしたって座員になるものが多かった。当時、旅役者といえば歌舞伎も新派も兎角品性の下劣なものが多く、芝居がハネると楽屋が即賭博場と化し興業主までが加って花札あそびに夜を明す(中略)地方の浮気娘を次から次とだまして浮名を流すものもあり、そうしたふしだらな行状が一座全体の名をけがすのを日吉は極端にきらった"

"座長に対して座員は師匠とか親方と呼ぶならわしがあったが、日吉一座は「先生」と呼んで座長をあがめ、外来者に対しては辞をひくく礼儀を正した。勿論、賭博厳禁、女遊びも禁じてあった。"

"序幕からハネるまで舞台装置は大道具から小道具まで座付の道具師などに委せず、座員総出でやってのけるから舞台は、たちまちできあがる。幕間がないから観客は喜ぶ(中略)これでは役者も天晴れ勤労精神旺盛な労働者で、日吉の芝居が健康的で面白く、座員の品行のよいことなどが評判となり、各地とも大入満員"

"芸術家としての日吉には兎角の難点はあるが、興業師としての演劇事業家として彼は成功した。給金が他の座よりよく遅配がないから座員にも、それが魅力となり一度座員になったものは、よほどの事情がない限り動かなかった"

イマドキの言葉でいうと「働き方改革」みたいなものなんでしょうか。別の旅回り一座のエピソードでは、ちゃんと高い給金を払うのだけど、給料日に座長が賭博で座員の給金の大半を巻き上げてしまうために実質は安月給、なんていう話もありますから、そうした前時代的な劇団に比べて、日吉劇団は近代的な運営をしていたのがわかります。

一方で、前掲の引用に "芸よりも人間をしたって"とか "芸術家としての日吉には兎角の難点" とあるように、日吉良太郎の芸術家(創造者)としての才覚には若干の難があったのかもしれません(古川ロッパ昭和日記には "それから江東楽天地の日吉劇をのぞく。入り三分。その芝居も大間違ひなり"と書かれています/昭和12年12月23日)。

日吉良太郎一座のことを「剣劇劇団」とする資料も少なからずありますが、実際のところ、上演するジャンルは多岐にわたっていて、劇団のこだわりというか個性というか、表現の芯みたいなものはあまり感じられないのが正直な感想です。

言い換えれば節操がない。小難しい自分の主張より、みんなが面白いもの、楽しいもの、わかりやすくて、大衆にウケるものを見せる。それが日吉劇のポリシーと言っていいかもしれません。

それを裏づけるように、昭和13年、横浜貿易新報のインタビューで日吉はこう答えています。

"けれども観客がついて来られない様な演じ方もどうかと思ひます、それに御当地では矢張り割切れる芝居でなければ到底お客様が承知してくれませぬですよ、インテリ層から時々いろいろの注文を受けまして、月に一本位は、野心的な作品や演出を試みて見ますが、多数大衆には何時もそれには不平不満を鳴らされますのです"(『郷土よこはま』No.115より引用)

そんな日吉の芝居は、逆に「主張」を持った人々には好都合だったようで、戦前、政治家で実業家の武藤山治が、選挙活動と政治啓蒙のために、日吉に劇の上演を依頼していたことが記録に残っていますし(『武藤山治全集』増補, 1966 新樹社)、公演する地元の歴史や偉人を題材にした芝居を作ったり、時には内容とは関係ない事柄の宣伝文句を芝居の中に織り込んだりすることもあったようです(生CMみたいな感じかしらん?)。

また国策に準じて「愛国劇」というジャンルの作品を盛んに上演し、日吉一座といえば愛国劇と認識されていました。昭和12年に東宝が錦糸町に新設した大劇場「江東劇場」の開場記念興行を日吉一座が担っていますが、その写真に写っている幟にも「愛国劇日吉一座」の文字が見られます(演目は『銃後の護』『乃木将軍と一等卒』)。

昭和12年12月 東京錦糸町・江東劇場開場時の写真

そんなわけですから、日吉良太郎の評価には、功罪含め毀誉褒貶が激しいという特徴があります。戦後、日吉一座が演劇の歴史から消えていったのも、単に国策協力の問題以上に、そうした劇団の特性が一因だったのかもしれません。

とはいえ、横浜における日吉一座の人気は相当なもので、「下町で日吉良太郎の悪口を耳にしたものは承知しない、下手をするとなぐられる」(『一世紀の軌跡 : 横貿・神奈川新聞の紙面から』より引用)と新聞記事に書かれるほどでした。

日吉一座のメンバー

横浜における日吉劇については、上にも挙げた『郷土よこはま』No.115、小柴俊雄さんによる日吉劇の論文がもっとも詳細です。そこに掲載されている日吉一座のメンバーは以下の通りです。

朝川浩成(のちに銀星座専属・自由劇団に参加)
東光
荒川仁作(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
生島波江(のちに大高一座に参加)
伊藤登(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
井上正雄
大平正美
勝川三次
川島吉子
雲井春敬
橘川五十鈴
熊谷修
小桜豆子
五条隆
小寺てる子
酒井ゆき江
関谷妙子
武雄健蔵
武田正憲(元文芸協会技芸員・演出担当)
谷本章
中小路文雄
新納正夫
花島紀美子
花園麗子
蜂須賀輝之
鳩川すみ子(のちに銀星座専属・自由劇団に参加)
花柳愛子
林礼三郎
平野元
藤川麗子(のちに大高一座に参加)
穂高のぼる(元宝塚女優のこの人か?)
堀重明
松岡寿美子
松の六郎
松山みどり
美崎重朗
三井秀雄
都田省司
三輪晃
村田進
八重垣小静
安田猛雄(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
大和玉枝
山本進二
若柳武男
渡辺実 
【文芸部】
四国政房
関根智恵蔵
高野まさ志
遠近破
原野左太夫
水野一葉
三好策太郎
松本肇

横浜歌舞伎座の専属劇団のようになっていた日吉一座ですから、座員のほとんどは横浜に住んでいたことだろうと思います。座長のように井土ヶ谷近辺にいたのかもしれません。戦災もさることながら、終戦を機に一座が解散し、座員たちはどういう思いで戦後の日々を過ごしたのでしょう。

そして、終戦から半年前後で開場した杉田劇場と銀星座。その専属劇団に日吉一座のメンバーがこれほどいるというのは、行き場を失った彼らにとっては、両劇場の開場がまさに渡りに船だったようにも思えます。

しかし、皮肉なことに、どちらの劇場も十年と保たずに閉場となるのです。

戦前・戦中の日吉劇は、明治以降、断絶と再建を繰り返してきた近代横浜の演劇界が、すっかり消えてしまう前の最後の輝きだったのかもしれませんね。


ところで、前掲の『郷土の百年』(1968年刊)、日吉良太郎の項の末尾にはこうあります。

"その後、日吉劇団は松竹の手に属して横浜へ行き敷島座に拠って連続開演、もはや地方巡業に出ることもなかった。その後打ち絶えて消息もないが、日吉をはじめ座員の大半はもう此の世にいないのではなかろうか。当時をしのべば感慨もひとしをのものがある"

日吉は昭和26年に亡くなりますが、1985年刊行の『中区史』には、座員の花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されています。上掲書の執筆者の予想に反して、その後も健在の座員はいたわけです。


それにしても、日吉良太郎という人は実に不思議な人物です。医学生から弁士になり、劇団を立ち上げて大変な人気を誇りながら、あっという間に忘れられてしまう…

また、日吉の生涯を調べれば調べるほど、現在の横浜のこと、演劇界のこと、興行のことについて、深く考えさせられることになります。まだまだわからないことはありますが、この先も調べ続けるべき人物だという思いを強くするばかりです。

そして日吉と大高の関係を探ることが、大高探しの大きなキーポイントになるのではないかという予感もしているところです。

そんなわけで、今回は過去のことばかりではなく、横浜の演劇界について、少し踏み込んだ私見も書きました。日吉良太郎に対する毀誉褒貶さまざまな評価を俯瞰することは、横浜演劇界の未来の指針になるのかもしれません。


さて、次回は大高よし男が参加していた、伏見澄子一座について考えてみます。

→つづく


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(4) 大高ヨシヲの謎・2

 そんなわけで、かすかな手がかりも手がかりと呼べるかどうかわからないレベルですし、ハードルも高いので、ひとまず次の謎へ。

「どんな劇団だったの?」


この謎には比較的多くの手がかりがあります。まず、少ないとはいえ演目がわかっていること。もうひとつは現存している2種類のポスターから、役者の名前が判明していること。

とはいうものの「團十郎が助六をやりました」みたいなわかりやすさは皆無ですから、学者でも研究者でもない演劇人(ボク)にはやはりなかなかの難題。

ひとまず、演目だけを抜粋して列記してみます。

  • 明朗時代劇「奴も人間」
  • 「嫌われた伊太郎」
  • 時代劇「涙雨五阡両」五場
  • 明朗劇「応援団長」二景
  • 新舞踊「野崎村」
  • 喜劇「見會」
  • 時代劇「花吹雪 武士道仁義」 
  • 社劇?「家族」四場
  • 時代劇股旅十八番「浮き名の銀平」
  • 「森の石松」
  • 「妻恋道中」
  • 「鼠小僧」
  • 「春雨街道」
  • 現代劇「発車」
  • じゃがいもコンビ 明朗劇「生きてゐる幽霊」
  • 股旅もの 時代劇「いろは仁義」
  • 「滝の白糸」法廷迄全通し
  • 「娘?アイドントノー」
  • 「荒神山」吉良仁吉
う〜ん、ここからわかるのは、少なくとも新劇の劇団じゃないということ(当たり前か)。
といって旧劇(歌舞伎)ともいえない。つまりは、当時の言い方でいう「小芝居」あるいは「軽演劇」の劇団、今の言葉にすれば「大衆演劇」の劇団ということになるでしょう。

ちなみにリンクを貼ったコトバンクの定義から一部を引用すれば、

江戸時代にみられた大芝居・小芝居の差別は明治時代にも大劇場・小劇場という区別となって受け継がれ、その小劇場では、演劇改良を経た大劇場ではすでにみられなくなった古風な芝居が演じ続けられ、根強い人気があったが、第二次世界大戦を境に急速に減少し、旅回りの歌謡ショーや剣劇などにかろうじてそのおもかげをみるにとどまっている

だし

“(軽演劇は)戦後一時息を吹き返したものの、ストリップショーなどに押されて1950年(昭和25)ごろから急速に衰退し、軽演劇ということばも死語と化した。しかしその手法は現在もテレビや大小劇場に伝承されている

ということだから、どっちにしてもこの劇団がやっていた芝居は、江戸・明治から連綿と続いていた地回りの芝居の、最後の煌めきだったように感じます。

と、これだけでもだいぶ進んだ感はあるものの、実はこれだけわかったところで大問題が発生。なんとこの劇団がやっていた演劇ジャンル、

ボクはまったく詳しくない…

うう、弱った…

でも、まがりなりにも大学の文学部、演劇専修を卒業した身でありますから、この調査を通じてあらたに知識を得るつもりで奮闘するまで!

(ガンバラネバ)

さて、最後の謎、「それまで何をやっていたの?」についてですが、これまた手がかりがまったくありません。

ただ、大した知識もない演劇関係者であるボクでも、終戦直後のメチャクチャな時代とはいえ、まったく舞台経験のない素人が杉田劇場の専属劇団になるなんてことは、まずないだろうとは思います。少なくとも座長の大高ヨシヲはどこかで何かやっていたはず。杉田劇場に売り込みに来る前になんらかの舞台経験(プロとしての)はあったはずです。ひょっとするともっと大きな劇団に所属していたのかもしれません。

それを証明するためには、当時の小芝居の有名な劇団のプログラムなどを調べて、その中に「大高ヨシヲ」やそれに類する名前がないかどうか探る必要がありますが、大芝居(歌舞伎)ならばまだしも、小芝居の情報はなかなか表に出てこない(研究者も少ないようです)。というわけで、これも少々難航しそうなところです(詳しくないジャンルだから余計に、というのもあります)。

そんな中、戦後の劇場のことを調べるのにとても有効なサイト「消えた映画館の記憶」(このサイトの情報量はホントにすごいです!)の「横浜市南区」エリアにある「金美映画劇場/金美東映劇場」の項目にこういう記述があるのを見つけました。

“戦時中には洋画の上映が禁じられ、地回りの歌舞伎を上演する芝居小屋「金美劇場」となった”(『横濱南区 昭和むかし話』南区役所・南区制60周年記念事業実行委員会 からの引用)

この劇場(映画館)は吉野町にあったらしいので、杉田からはそんなに遠くない(当時は市電があったことを思うと、感覚的には今よりもっと近かったのかもしれない)。

もしかしたら戦中の新聞広告に何か出ているかもしれません(盲点でした!)。

そこに金美劇場での「暁第一劇団」ないし「大高ヨシヲ一座」の公演があったら…

ビンゴ!

なんですが、はたして、そうウマく行くかどうか。

ともあれ「大高ヨシヲ」調査の、最初の手がかりが見つかったような気がします。

(ガンバリマス!)

 

そんなこんなで、ブログ初っ端の4連続投稿でしたが、ここで一旦小休止。

続きはまた来週末。乞うご期待!!

※今後も週末ごとに投稿する予定です。


→つづく


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