(52) アメリカの近江二郎

さて、少し間が空きましたが、ふたたび近江二郎のこと。

近江二郎一座は、昭和5年10月17日、横浜港から客船「秩父丸」でアメリカ巡業に出発します。秩父丸は日本郵船が所有していた豪華客船で、「太平洋の女王」と呼ばれていたそうです。就航は昭和5年4月4日、一座が渡米する半年ほど前のことです。

その秩父丸は12日と9時間14分で太平洋を横断するという新記録を樹立した、いわば当時の最新鋭の客船だったと言えます。そんな船で近江二郎とその一座はアメリカへ渡ったのです。

現地の邦字新聞によると近江一座を乗せた秩父丸がサンフランシスコに入港したのは10月30日ですから、要した日数は14日。新記録とまでは行かないまでも、順調な航海だったことが想像されます。


近江一座は現地で大歓迎を受けたようで、邦字新聞には一座についてのさまざまな記事が掲載されています(いま、その精査をしているところで、あらためて報告します)。

記事の中で興味深いのは秩父丸が入港した際の乗客一覧。その中に「笠川次郎 同ヒデ」という名前が見られるのです。笠川次郎は近江二郎の本名ですから、これが近江を示していることは明らかで、「同ヒデ」とあるのは、近江の妻である深山百合子を指しているはずです。つまり彼女の本名が「笠川ヒデ」だということがここからわかるわけです(地域史などの情報提供者に「笠川ヒデ」の名前があったらすごい!)。

この二人の名前は「二等」の欄にありますから、座長夫婦は二等船室で渡米したこともわかります。

その他の座員が何等に乗っていたのかは、彼らの本名がはっきりしないので、一覧との対比ができず不明ですが、アメリカ巡業の参加した座員の中に名前のある「戸田史郎」が近江の実弟で、本名「笠川四郎」というのはわかっていますから、彼については突き合わせが可能です。しかし、新聞の船客一覧の中に「笠川四郎」の名前は見当りません。ただ、三等船客の中に「近江資郎」という名前があるので、これが戸田史郎なのかもしれませんが、正確なところは不明です。調査を続けます。

この一覧でさらに興味深いのは「笠川次郎 同ヒデ」の後に「(名古屋)」と書かれている点です。この都市名はおそらく旅券に記された本籍地か住所地を示していると思われるので、この頃の近江二郎は名古屋に本拠地を構えていたのかもしれません。事実、『近代歌舞伎年表 名古屋篇』を調べてみると、この時期の近江一座は名古屋(宝生座や帝国座)で定期的に興行を続けていたことがわかります。

(近江二郎の居住地については、大阪、名古屋、横浜とさまざまな情報があるので、これもさらに詰めていくべき対象です)


さて、新聞に掲載されている一座の公演スケジュールによれば、近江は渡米早々、11月1日にサンフランシスコで公演をスタートさせ、ほとんど休むことなく1月1日までカリフォルニア州内の各地を巡業しています。日程だけをみても、いまの感覚でいう「海外公演」というより「海外巡業」という方がふさわしいくらいのタイトなスケジュールです。のちには公演地をハワイに移して、アメリカ巡業がこのまま翌年の6月末まで続くのですから驚きです。


実はこの巡業、当初はアメリカだけでなく、ヨーロッパとロシアでの巡業も考えていたようで、出発前の日本の新聞には

「イタリーでは是非白虎隊を出してムッソリニー(ママ)に見て貰ふと意気込んでゐる」

ともあります(もっとも、実際にはアメリカ西海岸とハワイの巡業にとどまったようです)。

昭和5年10月2日付読売新聞より

ところで、以前にも書いた筒井徳二郎もそうですが、なぜ当時の大衆演劇(剣劇)の一座がアメリカ公演などできたのか、というのは常に頭をよぎる疑問です。

邦字新聞に掲載された近江のインタビューには

「遠山滿君が劍劇を率ひて渡米し引續き筒井一座が渡米した」

と書かれています。つまり、近江一座がアメリカ巡業を実現できたのは、先行した一座の影響があるとも考えられるわけです。

ここに名前の挙がっている遠山満は、近江や筒井より早く、1928年にアメリカで巡業を実現し、その公演をチャップリンが見て大変気に入ったという逸話が残っています。

チャップリンには高野虎市という日本人秘書がいたことは有名ですが、高野を通じてチャップリンは日本の映画、演劇関係者と多く面会していて、その中に遠山満一座も含まれていたということのようです。(広島県立文書館収蔵文書展『チャップリンの日本人秘書 高野虎市』より)

世界の喜劇王、チャップリンに気に入られたというのは遠山としては相当誇らしかったでしょうし、在米の興行師がチャップリンのお墨付きをもらった剣劇一座には「二匹目のドジョウ」がいると考えてもおかしくありません。

1928年遠山満、1930年春・筒井徳二郎、1930年秋・近江二郎の渡米には、そんな背景があったのかもしれません。


さて、渡米した近江二郎については日本の新聞にも少ないながら記事が残っていて、その中で、一番興味をひかれたのは、近江がハリウッドで「映画を作った」というものです(昭和6年2月18日付読売新聞)。

昭和6年2月18日付読売新聞より

その中で近江二郎は

「今年はハリウッドに腰を据ゑて一大トーキーの撮影準備にかゝることにします。此間私は獨力で白人のエキストラ百人を使つて「光は東方より」といふトーキーの小劍劇映畫を撮影しました」

と述べています。近江が計画していたという「一大トーキー」についてはかなり具体的な話になっていたようで

「キャメラはバード少将と南極探検に行つたパ社のラッカーといふ人、原作は池内萍綠氏、監督は青山雪雄君と南部邦彦君で、こゝへは久しぶりにジョーヂ桑も出演をします」

と記載されています。

バード少将というのはアメリカ海軍の士官であり探検家でもあった人で、記事にある南極探検は1929年11月28日から29日にかけて南極点の上空を飛行したというものだったそうです。

この様子は「With Byrd at the South Pole」というドキュメンタリー映画として公開され、1930年のアカデミー撮影賞を受賞しています(全編がYouTubeにアップされています→こちら)。

その撮影を担当したのがジョゼフ・ラッカーで(この人がアカデミー賞を受賞)、後には関東大震災の撮影もしているようです(記事中の「パ社」とはラッカーが所属していた「パラマウント社」のことでしょう)。

監督の青山雪雄南部邦彦はともにアメリカで活動していた俳優で、最後に名前の出る「ジョーヂ桑」も無声映画の時代にアメリカで活躍していた日本人俳優です。

僕は古い映画のことは詳しくないので、この映画が実際に撮影されたのかどうかはわかりませんし、現存しているのかもわかりません。ただ、実現していれば、当時としては錚々たるメンバーによる企画だったとはいえそうです。

(映画関係のデータベースなど調べてみても、この近江二郎の映画についてはまったく情報が出てきません。わかる人がいたら教えてください)

いずれにしても、近江二郎はアメリカで、舞台興行もさることながら、映画にも手を出すなど、多方面で積極的な活動をしていた様子がうかがえます。


約8ヶ月に及ぶアメリカ・ハワイ巡業を終えた近江一座は、昭和6年7月6日、プレジデント・マッキンレー号で帰国します。翌7日付の読売新聞には一座帰朝の記事があって、その中には

「到る處で非常な人気を博し十万圓許り儲けた」

とあり、さらには

「来年四月又一座を連れて再渡米する契約まで結んで来た」

ともあります。

昭和6年7月7日付読売新聞より

実際に再渡米したのかどうか、調査がまだ進んでいませんが、昭和7年8月には近江一座が浅草で興行している記録があるので、記事の通り4月に再びアメリカに渡ったとしても、8月には帰国しているはずですから、短期間の巡業だったと思われます。


近江一座が渡米した際の一座連名に「大高よし男(高杉彌太郎)」の名前は見られません。座員になっていないか、名前の出ない若手俳優だったのか、どちらなのかもわかりません。

新聞などをあたって、昭和13年あたりまでは調べを進めていますが、大高が近江一座に参加するのは昭和14年以降ではないかというのが、現在のところの見立てです。

いずれにしても、近江一座はアメリカ巡業を成功させた劇団として、これ以降も、新派、剣劇の劇団の中では確固たる位置を確保していたと考えて間違いはなさそうです。

役者を目指す青年(大高よし男)が、所属先として近江一座を選ぶのはそんなに不自然な流れではないと思います。

そんなこんなで、次回からは現地の邦字新聞を参照しつつ、アメリカでの近江一座の活躍ぶりをさらに詳細に書いてみたいと思います。


→つづく


(51) 弘明寺現地調査・第一弾

何度もくどいようですが、大高よし男に関する資料はとても少なくて、調査は難航しがちです。彼の姿を写した写真は見つからないし、出身地も生年月日もわかりません。

そんな中、残された資料で最大の手がかりと考えているのが、大高の葬儀参列者の集合写真です。

お寺の本堂前で撮ったと思われるこの写真、そもそもどこのお寺なのかさえわからなかったのですが、画像を拡大してみたところ、右の柱の上部にある提灯の文字が「世音」と読めたわけです。

お寺で「世音」となれば「観世音」。横浜で観世音といえば「弘明寺観音」。天平9年(西暦737年)に創建された、横浜最古のお寺です(市外の方には馴染みがないかもしれませんが「弘明寺」と書いて「ぐみょうじ」です)。

ちょっと短絡的かもしれませんが、写真は弘明寺。そう推測したのです。


弘明寺観音への参道は明治時代に整備され、「弘明寺かんのん通り商店街」として今なお賑わいを見せています。この商店街の中ほど、大岡川にかかる「観音橋」のたもとに、杉田劇場の開場から2ヶ月後、実演劇場「銀星座」がオープンしたのです(昭和21年3月23日)。

新聞広告などの記録は見つかっていませんが、この投稿で書いたように、大高よし男はこの銀星座の舞台にも立ったとされています(おそらく昭和21年5月初旬)。

大高と弘明寺には縁があるに違いない。

そんな推定(推理)のもとに、杉田劇場のスタッフ(TさんとSさん)と連れ立って、7月3日、弘明寺と弘明寺商店街の現地調査を行いました。


結論からいうと…ビンゴ!


Tさんから弘明寺のご住職に、上掲の写真をお送りしてあるそうで、最終的な確認はまだ先になりそうですが、本堂の「お守りお授け所」の方や商店街の方々にみてもらったところ、写真のお寺は弘明寺に間違いないだろうとのことでした。

(大きな前進だ!)


人気役者だった大高よし男は昭和21年10月1日、長野県南木曽での公演に向かう途中、乗っていたトラックが崖から転落し、その下敷きになって亡くなります。実にあっけない最期です。翌日には現地で火葬され、遺骨は横浜に戻ったそうです。南木曽での公演は残された座員がなんとかつとめあげたそうですが、大高不在の舞台はさぞかし寂しいものだったことでしょう。


大高の葬儀が実際にいつ執り行われたかはわかりません。写真に写っている人のうち、位牌を持った少年は大高の遺児で(おそらくその隣の少年も)、中央にいるのが一座の支配人(マネージャー)だった「大江三郎」と伝えられています。

(しかし「中央」というのがよくわからないところで、遺骨を持った人なのか、その左のメガネをかけた人なのか、はっきりしませんが、立場的なことを考えると遺骨を持っているのが大江三郎ではないかと僕は考えています。またその人の頭に見える白い帯は事故で負った怪我による包帯なのかもしれません)

位牌を持つ少年の左隣の少年の斜め後ろにいるチョビ髭の男性が、杉田劇場のオーナー、高田菊弥で、それ以外の方々については特定ができていないものの、おそらく大高の親族、一座の座員、杉田劇場の従業員ではないかと考えられます。

大江三郎をはじめ、座員たちが写っているとすると、遺骨が戻ってすぐというより、南木曽公演から座員が戻ってしばらく経ってからの葬儀と考えるのが妥当です。

南木曽からは10月3日か4日には戻ってきたはずです。また、大高一座(暁第一劇団)は10月9日から劇団新進座と合同公演を行なっていますし、10月17日から20日まで大高追善興行を行なっています。22日には元映画スター・中野かほるを迎えての追善公演もありましたので、葬儀の日程はその合間だったと考えられます。



劇団も劇場も日々稼働していますから、葬儀の日程調整はなかなか難しかったことでしょう。

以前にも書きましたが、中央の僧侶の左奥にいる女性が中野かほるではないかと想像しているので、葬儀は中野が参加した追善公演の前日、10月21日に行われたのではないかと僕は考えているところです。

(この写真で不思議なのは大高の妻が見当たらない点です。遺児がいる以上、その母親もいて然るべきで、本来ならば遺骨は夫人が持っているだろうと考えられます。すでに離婚しているか、戦争で亡くなったか、そんなことも想像されますが、これまたまったく不明です)


さて、写真が高い確率で弘明寺だろうと判断されたところで、さらなる調査を進めるべく、商店街の老舗と思われる店に取材を敢行しました(お忙しいところ急にうかがってすみませんでした)。

幸いなことに市の図書館のデジタルアーカイブに昭和30年代、弘明寺銀星座の緞帳写真が保存されています(こちら)。

それをヒントに商店街を歩いたところ、いまも営業されている店舗がいくつかあって、そのうち、緞帳写真の右から3つ目の「洋品 子供服 ほまれや(「婦人用品のほまれや」)と、4つ目の「酒商 ほまれや本店(「ほまれや酒舗」)」の方にお話を伺うことができました。

特にほまれや酒舗のご主人(二代目)からは往時の弘明寺のお話などを伺うことができて、とても貴重な機会となりました。

銀星座の開場の頃についてはさすがによくわからないとのことでしたが、「銀星座に出ていた役者で覚えているのはヤスダという人」とお話ししてくださいました。蛇を使った見世物のようなことをやっていたそうです。

その時はヤスダと言われてもピンときませんでしたが、帰路、銀星座で活動していた専属劇団「自由劇団(自由座)」には安田猛夫(猛雄)という役者がいたことを思い出しました。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より

自由劇団と見世物というのはどうもしっくりこない気もしますが、演目によってはそんなことをやっていたのかもしれません。さらなる調査が必要です。


ついでに、弘明寺の映画館のことや、剣劇の梅沢昇が開いた「梅沢劇場」のことなども聞いてきました。

梅沢劇場の周辺はいわゆる花街だったそうで、劇場には足を運んだことはないそうです。

梅沢劇場そのものも、キャバレーを改装したものでしたから、あの周辺はどちらかというと大人の街、大人の劇場で、地元の人、特に子供たちにはあまり縁がなかったのかもしれません。


アポなしで伺ったにも関わらず、親切にいろいろとお話をしてくださったことには感謝ばかりです。古い話や資料ならば商店街の事務所に行けばわかるかもしれないとのアドバイスもいただき、次回はもう少ししっかりと下調べをして伺いたいと思います。


余談ですが、ほまれや酒舗は現在三代目が経営されているそうで、初代は伊勢原の出身、愛甲石田の酒蔵で修行したのち、昭和7年に弘明寺に店を出したんだとか。初代の二人の弟さんが一緒に店を手伝っていたそうですが、やがて弟さんたちは弘明寺で独立して、ひとりが洋品店の「ほまれや」を開き、もうひとりが大岡川沿いにやはり「ほまれや」という飲み屋を開店したのだそうです(飲み屋さんは閉店されたそうです)。

ほまれや酒舗はそれだけの歴史ある老舗ですが、店の一番奥の冷蔵庫にはクラフトビールが並んでいたり、各地の地酒も豊富で、活気あるとても魅力的なお店でした(また行きます)。


大高よし男が酒豪だったのか下戸だったのか、そのあたりも分かりませんが、劇団ですから酒とは縁があったことでしょう。銀星座の舞台に立った時には、もしかしたら「ほまれや」さんで、酒を買ったりしていたのかもしれません。想像力を働かせると、現在の商店街にも大高の生きた痕跡があちらこちらに見えてくるようです。


そんなこんなで、大高よし男と弘明寺にはきっと浅からぬ縁があったはずです。

調査の突破口になると信じて、弘明寺現地調査第二弾を計画します。

ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。


→つづく


追記:弘明寺の映画館、劇場跡地をいくつか探訪しましたので写真で振り返ります

「銀星座」跡地。のちに赤い看板のあたりが映画館「有楽座」となる。


「梅沢劇場」跡地はマンション。


映画館「スバル座」跡地はドラッグストアのクリエイトなどが入るビル。

映画館「ひばり座」の跡地は長らくスーパー「ユニー」でしたが今はマンション。