多忙を言い訳にすっかり更新が滞っておりますが、日々、細々とながら調査は続いています。台風のせいで本業がままならない中、間隙を縫っての更新です。
さて、そんなこんなで、先日、昭和初期の「松竹各座 九月劇場御案内」を入手しました。
これは1929(昭和4)年9月の、大阪にあった松竹系の劇場や映画館の番組案内小冊子です(昭和4年9月〜11月と昭和5年2月のものを同時入手しました)。
でもって、この号の最終ページには「楽天地」での演目が掲載されています。
楽天地というと東京錦糸町のイメージがありますが、調べてみると大阪にも「楽天地」があったそうです(こちら)。言うなれば当時の総合レジャー施設で、その中に劇場もあったのだとか(大阪のことは詳しくありませんが、いま千日前の「ビッグカメラ」があるところだそう)。見るからに楽しそうなところです。
さて、肝心の記載内容ですが、その楽天地(中央館)で8月31日初日の「新潮劇」が公演するという広告(公演情報)です。
その演目は
「将軍の辻斬」「悲惨なる家」
の2本(『松竹七十年史』とも照合しました)。
不勉強で「新潮劇」についてはぼんやりとしかわかっていないのですが、新派劇団か剣劇団のひとつと考えていいのでしょう。
この当時の大阪楽天地には「中央館」「コドモ館」の2劇場と、「キネマ館」という名の映画館、「地下室」という部屋(イベントスペース?)もあったようです。
「新潮劇」の公演はその「中央館」で行われたようですが、演目の下には役者の名前が記されています。
その連名をよく見ると、中央になんと
「近江二郎」
の名前があるではありませんか! そればかりか「深山百合子」の名前まであるのだから驚きです。つまり、この興行には近江二郎・深山百合子夫妻がともに参加していたわけです。
役者の中に「筒井徳二郎」がいることから、かねてよりたびたび引用している田中徳一『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』を確認してみたところ、以下のような記述がありました。
「昭和三年七月末より、筒井は山口俊雄、野沢英一等の新潮座(松竹所属)に加入し、八月、九月、十一月と大阪・弁天座に出演している。この頃から新潮座も剣劇と新派劇の混合をねらうようになるが、翌昭和四年一月の弁天座から、山口が出て都築文男が入り、新潮座が新潮劇に改称すると、いよいよ新派色が強くなって行く」(同書 83ページ)
なるほど、たしかに入手した資料にも「野澤英一」「都築文男」の名前が見られます。
ですが、上掲書を含め、これまで調べた資料には、新潮劇に近江二郎が参加していたことは書かれておらず、そんな関係があったとはまったく知りませんでした。「新派色が強くなって行く」という記述からして、新派俳優としての近江二郎が招かれたのかもしれません。
ちなみにここには浪花千栄子の名前があります。また上掲書によれば「水町清子」は三益愛子の前名だそうですし、原健作(原健策)はご承知のとおり松原千明の父としても知られる往年の映画スターで、いまからするとかなり錚々たるメンバーの中に近江二郎がいたことになります。
話は変わりますが、これまた何度か引用している近江家のファミリーヒストリーである「FIFTH BORN SON」の巻末にある、元子さん(衣川素子)の手記には、近江二郎と深山百合子(本名:笠川秀子)が結婚するまでの経緯がこう書かれています。
「二郎の妻は四国の坂本龍馬の姪光江と云う人が妻でした。が、いつも女中を連れて桟敷で芝居を見ている秀子と何か引かれる赤い糸が有ってとうとう二人は手に手をとって駆け落ちしました。
当時の新聞は大変大きくあつかったと聞いて居ります。その秀子は笠川家の一人娘で育っていましたが、父が遊び好きで金がなく、新橋の鈴の家と云う芸妓屋へ売られてしまったのです。器量よし三味線も巧く唄が巧く鈴香という名で、鈴香大明神と云われたそうです。
あまた群がる旦那衆の中で横浜市議第一号上條修と言う金持が落籍しましたが、上條氏は長男、秀子は一人娘、日本の法律では結婚はできません。秀子は上條氏が嫌いで嫌いで。とは申せ金で縛られた体。ストレスの吐く場は喜楽座通いだったのです。
舞台と桟敷とを結ぶ恋は舞台に穴を開け、秀子は秀子で横浜に住む事もできず、二郎の前妻は狂い、秀子を呪ったと聞いています。そして昭和五年(一九三〇年)巡業しながら座を固め米国へ旅立っています」
記憶に基づいた身内向けの手記なので、そっくりそのまま信用することができない点は多々あって、特に近江二郎の前妻が坂本龍馬の姪というのは、さすがにちょっと年代的に無理があるし、横浜市議・上条修(実際は上条治)の逸話もいささか眉唾な印象を受けます。これも精査が必要なところです。
ただ深山百合子が芸妓であったのは、横浜貿易新報に掲載されているプロフィールにもあって、ここには「以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる芸妓」とあります。
昭和15年5月4日付横浜貿易新報より |
「鈴香」と「壽々香」はどちらも「すずか」と読むのでしょう。新橋と関外の差はありますが深山百合子が「すずか」という名前の芸妓であったことは間違いなさそうです。
ともあれ、横浜の喜楽座に出ていた近江二郎と芸妓の「すずか」がなんらかのきっかけで出会って、駆け落ちし、のちに「すずか」は「深山百合子」の芸名で舞台に立つようになったわけです。その時期ははっきりしていませんが、少なくともこの資料が発行された昭和4年には、役者として名が知られていたことになります。
元子さんの手記からすると駆け落ちのせいで横浜にいられなくなったように読み取れますが、それが大阪での新潮劇出演につながっているのでしょうか。そのあたりはまだよくわかりません。大正15年の喜楽座での剣劇大会以降の近江二郎の足取りについても追加調査が必要です。
余談になりますが、時期の特定を余計に混乱させるのが『浜松市史』に掲載されている興行記録(芝居興行表)です。
『浜松市史(三)』p.559より |
ここでは大正6年に浜松の歌舞伎座で近江二郎と深山百合子が興行していることになっています。が、明治32年生まれの深山百合子はこの時まだ18歳あまり。おまけに近江二郎が横浜喜楽座に初出演するのが大正9年ですから、喜楽座より3年も前に近江二郎が単独で興行したというのはちょっと考えにくいことです。『浜松市史』の記載に誤りがあると考えた方がいいように思います(さらに精査します)。
近江二郎の実弟・近江資朗のご子女に取材した際、深山百合子は家事全般は苦手で、ほとんどやらなかったことや、三味線や長唄が得意で、晩年はそれらを教えたりしていたことを伺いました。生涯を芸事に捧げた人だったのでしょう。
見せていただいた位牌によれば、近江二郎は明治26(1893)年生まれ、昭和24(1949)年5月29日没。上述のとおり深山百合子は明治32(1899)年生まれ、昭和42(1967)年1月8日没。
横浜南太田の常照寺にある近江家の墓所を確認しましたが、墓誌に二人の名前がないので、おそらく深山百合子の実家である笠川家の墓か、近江二郎の故郷である広島県福山市の墓所に眠っているものと思われます。残念ながら場所はわかりません。
なお、今回入手した資料にも大高よし男(高杉弥太郎)につながる情報は見つかりませんでした。本来、大高よし男の足跡をたどるブログのはずですが、見つかるのは近江二郎の情報ばかり。それでも近江二郎からなんとか大高につながる線が見つかればと、根気よく調べて行きます。
そんなこんなで、今回は新潮劇に参加していた近江二郎についての話でした。
→つづく
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