舘野太朗さんのX(旧Twitter)の投稿を通じて、町田市のデジタルミュージアムに旧杉田劇場の台本が掲載されている事実を教えていただいたので、思い切って所管課に連絡をしたところ、現物を閲覧する許可をいただくことができました。
(とはいえ、専門家でもないおっさんが一人で行っても不審がられそうなので、現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」を担当しているSさんに同行してもらいました。深謝)
台本が保管されているのは、小田急線の鶴川駅からバスで10分ほどのところにある「三輪の森ビジターセンター」内、郷土資料展示室の収蔵庫です。
ちなみに「三輪の森」というのは町田市と横浜市・川崎市の市境にある里山の一角で、横浜市で言えば青葉区の「寺家ふるさと村」や「こどもの国」に隣接する地域です。
ビジターセンターはその里山散策の拠点(休憩地?)のようなもので、その中に郷土資料展示室があり、そこに民俗資料の収蔵庫もあるということのようです(なお収蔵資料の閲覧には事前申請が必要です)。
デジタルミュージアムには、旧杉田劇場の台本が10冊、杉田劇場での市川門三郎一座のチラシ(パンフ?)が2つ掲載されていますが、実際にはデジタル化されていない台本もまだあって、一覧は「町田市立博物館所蔵・民俗資料目録」に掲載されています。
当日は、とても親切に対応してくださった学芸員の方が、未デジタル化のものも含めて杉田劇場に関わるものも用意しておいてくださいました。
そんなわけで、今回閲覧させていただいたのは以下の台本です(☆は未デジタル化のもの)。
平家女護島 島の俊寛おその六三 恋の逢引島田左近絵本太閤記怪猫伝 岡崎の猫恋慕地獄 延命院日当舞踊 忍逢恋事寄 将門侠客春雨傘常盤津竹本出語り 所作事 京人形清水一角☆め組の喧嘩☆毛谷村六助☆蝿坊主と木村長門守重成☆二月堂良弁杉☆十六夜清心 花街模様薊色縫
台本に押された印には郵趣家の間で金魚鉢と呼ばれているらしいエンブレム型の検閲パス印のほか、「CCDJ-2036」「CCDJ-2037」「CCDJ-2039」「CCDJ-2040」のいずれかのスタンプもあって、当初、その意味はよくわかりませんでしたが、後日、こちらのサイトを参照させていただいたところ、どうやらこれは東京地区の検閲官の番号で(第三次配給分)、それぞれの番号に割り当てられた検閲官がいたということのようです。「2039」には「Sakamoto」と読める署名も付記されていたので、この番号の検閲官が「サカモト」という人だったことが推測されます(M.M.Sakamotoとも書かれているので、日系人なのかもしれません)。
その他、検閲の有効期限(上演可能期間?)を記したと思われる数字(日付)も見られましたが、詳細はよくわかりません。
さて、閲覧させていただいた台本のほんとどすべてに「尾上大助」の記名なり印があります。
デジタルではよくわかりませんでしたが、いくつかの台本では尾上大助の下に「新星暁座」と書かれてあって、それを修正するような形で尾上大助の名が上書きされていました。
この理由はよくわかりません。もしかしたら検閲は個人名で申請するもので、修正を指示されたということなのかもしれません(演劇博物館に保管されている九州地区のGHQ検閲台本をざっと見ても、申請者は個人名になっているようです)。
中には「Shinsei Akatsukiza」とメモ書きされたものもあるので、尾上大助が杉田劇場で活動していた時期、専属劇団には「暁第一劇団」でも「暁劇団」でもなく「新星暁座」という名称が使われていたとも考えられます。ただ、その頃の広告にはそっけない「杉田専属劇団」としか書かれていないのです。
| 1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より | 
検閲台本では「新星暁座」とあるのですから、「杉田専属劇団・新星暁座」という認識だったのかもしれません。
それ以前の、藤村正夫が参加していた頃の広告には「新生暁座」と書かれることがありました。「新星」なのか「新生」なのかははっきりしませんが、いずれにしても大高よし男生前からの「アカツキ」の名称は、かなり後年まで使われていたことがわかります。
| 1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より | 
デジタルミュージアムの資料説明欄にもある通り、これらの台本は1949(昭和24)年のものが大半です。検閲官の番号からしても時期的には大きくズレていないと考えられます。しかし、この年の新聞広告に掲載された演目と合致しない作品も多いので、検閲は通したものの実際は上演しなかったり、後年に上演したものも含まれているのかもしれません(このあたりは再度調査が必要です)。
台本の中身はすべて手書きで、薄い罫紙に書かれています(カーボンコピーのようにも見えました)。また検閲提出用ということなのでしょうか、書き込みは見られません(唯一『二月堂良弁杉』には包装紙の切れ端が挟まっていて、鉛筆書きのおそらく台本の修正部分か抜書きと思われるものが書かれていました)。
残念ながら台本を読んで内容を精査するほどの時間はなく、本文中にメモ書きなどがないかを確認するだけでしたが、じっくり読めばそれぞれの作品が大歌舞伎とどう異なっているか、演出的な違いがあるのかどうかなど、さらに詳しい情報が得られるのかもしれません(これもまた今後の宿題)。
ところで、この台本の収集地は町田市の成瀬と記録されています。なぜ成瀬なのかがずっと疑問でしたが、学芸員の方に詳しく聞いてみると、成瀬を拠点に活動していた「大川一座」という劇団から寄贈されたものなのだそうで、台本のほかに一座の衣装や小道具なども収蔵されているとのことでした(大川一座については『成瀬 村の歴史とくらし』という本を紹介していただきました)。
大川一座は成瀬の三ツ又という地域に住んでいた大川源治が始めた劇団で、近隣の村々にとどまらず、近県も含めたかなり広範なエリアで興行をしていたようです。源治はもともと草競馬をやっていた人でしたが
"「競馬なんかやんないで、芝居をやったらどうか」と人に勧められたことが契機だったそうである。源治氏の師匠は相模の市川花十郎だった"(『成瀬 村の歴史とくらし』365ページ)
とのことです(市川花十郎は現在の横浜市泉区を拠点に活躍した人です)。
それがどうして横浜の杉田劇場とつながるのかはよくわかりません。おそらく杉田劇場で使っていた台本を譲り受けたというのが一番ありそうな可能性です。大川一座にはプロも出ていたそうなので、尾上大助あるいは杉田劇場に関わりのある別の役者が、何らかの縁で呼ばれていたのかもしれません(大川一座の調査をすればわかるかもしれません)。
また、ほぼすべての台本が「大橋繁夫脚色」となっていて、この人についてもよくわからないところですが、いくつかの台本では尾上大助の肩書きに「大橋家」と記載されているので(印になっているものもある)、もしかしたら尾上大助の本名が「大橋繁夫」なのかもしれません(このあたりも再調査が必要になりそうです)。
台本のほかに市川門三郎一座のチラシ(パンフ)2種も見せていただきました。これらはデジタルミュージアムにも掲載されていますが、画像は二つ折りになった表紙だけです。現物で情報の多い裏表紙・中面を拝見したところ、この興行の演目や配役がわかりました。それを後日、杉田劇場の番組一覧のデータと照合した結果、1947(昭和22)年7月と8月の興行のものであることが判明しました。
このうち7月興行は暁劇団と門三郎一座の合同公演で、チラシ中面の配役には「大江三郎」「高島小夜里」「大島ちどり」「高宮敏夫」「三木たかし」など、現杉田劇場に掲出してある大高一座のポスターに名前のある役者が確認でき、座長の没後も何人かは芝居を続けていたことがはっきりしました。
|  | 
| 1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より | 
※このチラシ(パンフ)の配役の中に「大川喜久男」という役者がいます。暁劇団の座員と思われますが、その名前からして大川一座の関係者とも考えられます。大川一座と杉田劇場がもともとつながりを持っていたと考えれば、いろいろなことが腑に落ちるのですが…これもまた詳細調査が必要です。
この年、8月の門三郎一座興行の後には葡萄座の公演が行われましたが(8月29日〜31日/真船豊「見知らぬ人」ほか:詳細は→こちら)、チラシにはこの公演の予告も記載されていたので、町田の里山で思いがけず懐かしい知り合いに会ったような不思議な気持ちにもなりました。
調べきれないほど収穫と宿題のあった初訪問ではありましたが、町田にこういう資料が収蔵されていたというのはあらためて大変な驚きです。町田にあるのですから、もしかしたら藤沢や横須賀、鎌倉など近隣の市町村にも未公開の資料の中に同様のものがあったりするのかもしれませんが、乏しいネットワークの中では知る由もありません。
僕の知る限り、旧杉田劇場の資料で公的に保管されているのは現杉田劇場にある元従業員・片山茂さん寄贈の11点と、今回拝見したものだけです。
現杉田劇場は指定管理者制度下で運営されていますから、仮に指定管理者が変わったら、あの資料の行く末がどうなるか、大変心許ないものがあります。
いっそのこと市史資料室や市歴史博物館や都市発展記念館あたりが引き受けてくれればいいのですが、なかなかそうもいかないのが現状のようです。今後のことを考えれば、あれだけのものを町田市が収蔵・保管してくれていることはまさしく天恵のようです。
町田市の資料について、まだ詳細な調査は進んでいないようです。大川一座の研究も含め、今後に期待するところです。
それにしても、ご対応くださった学芸員さんがとても親切で助かりました。いつでもまたきてください、とも言っていただいたので、この先、調査項目をしっかり整理するなど、準備万端にして、ぜひまた伺いたいと思います(できることなら1ヶ月くらいあそこに篭って調べたい)。
そんなこんなで、今回は町田市収蔵の杉田劇場資料の初調査についてでしたが、未消化のものも多いので、今後、もう少し整理して改めて報告したいと思います。
今回はひとまずこれにて。
関係各位、ありがとうございました。
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