(17) 大高ヨシヲをめぐる人々(4) 〜弘明寺・銀星座〜

杉田劇場の開場から4ヶ月弱。弘明寺商店街の中ほど、観音橋のたもとに「銀星座(ぎんせいざ)」という実演劇場、つまり杉田劇場のように、映画ではなく芝居や演芸を上演する小屋ができます。昭和21年3月23日のことです。

経営者兼支配人は杉山清という人。小柴俊雄氏の『横浜演劇百四十年』によれば、この人は「北村清峰」という俳優だったとのことですが、私の調べた範囲では北村清峰という名前の俳優は見つかりません。そんなわけで、彼がどんな役者だったのかはよくわかりませんが、いずれにしろ銀星座は、戦争が終わって、弘明寺の街に演劇関係者が建てた劇場ということになります。

銀星座はのちに映画館となりますが、その頃の弘明寺には(前にも記した通り)剣劇の大御所である梅澤昇が建てた「梅沢劇場」もあったりして、一種の興行街でした。最盛期には梅沢劇場のほか、映画館が4つもあったのですから(有楽座(銀星座跡)・スバル座・ひばり座・ニューアサクサ)、なかなかの賑わいだったと思われます。

弘明寺はもともと弘明寺観音の門前町として栄えていた上に、市電の終点でもあったことから、当時は日飛や石川島といった工場の企業城下町であり、市電の終点だった杉田ともどこか似た街のように感じます。戦災を受けず、賑わいのある街、という点で、どちらかというと周縁部に当たるこの両地に劇場ができたというのは、歴史の必然だったのかもしれません。

前述のとおり、銀星座は杉田劇場に遅れること4ヶ月弱での開場ですが、大きなスパンで見ればほぼ同じ頃に横浜の南部地域にオープンした実演劇場ということになります(この二館のほかに、上大岡には銭湯(大見湯)を改装した「大見劇場」という小屋もありました)。

一般に杉田劇場と銀星座はライバルの関係にあったと書かれているものが多く見受けられます。中には、国際劇場や銀星座ができた影響で杉田劇場の経営が傾いた、というような記述もあります。ですが、両劇場の広告などからプログラムを時系列に並べてみると、私にはライバルであると同時にかなり密接な協調関係もあったのではないかと感じられるのです。


さて、銀星座の開場は「近江二郎劇団」の興行からスタートします。

近江二郎一座(劇団)は、戦時中から横浜や川崎の劇場で頻繁に公演しています。横浜の敷島座、川崎の大勝座はどちらも近江の所属していた籠寅興行部の劇場ですが、双方を行ったり来たりして、数ヶ月にわたる興行が行われていました。それだけ京浜地域で人気があったということなのでしょう。大衆ウケを狙っていた銀星座が柿落としに近江二郎一座を選んだのもわかる気はします。

興味深いのは、近江二郎一座の文芸部員に、のちに大高一座の支配人となる「大江三郎」がいたことです。この人の名前は新聞広告にもしっかり掲載されているほどですから、それなりの人物だったことが想像されます。昭和18年の『演劇年鑑』にも、日本演劇協会の会員として名前が見られます。

川崎大勝座の広告:「婦系図」の横に"大江三郎脚色"の文字
(昭和18年9月30日付神奈川新聞より)

戦後、銀星座で興行を始めた近江二郎一座、杉田劇場の専属劇団として活躍していた大高ヨシヲ一座。この両劇団に大江三郎が関わっていたわけですが、双方ともの文芸部員だったのか、終戦を境に移籍したのか。このあたりは不明です。いずれにしても杉田劇場と銀星座を考える上で、大江三郎の存在がカギになるような気はします。

余談ですが、大高ヨシヲの葬儀の写真、古いデータと照合すると、弘明寺の本堂前のように思えます。もしそうだとしたら杉田劇場専属劇団の座長の葬儀がなぜ杉田ではなく弘明寺なのか。この謎も、大高の正体を探る上では重要なポイントになりそうです。

大高ヨシヲの葬儀写真:右の柱の提灯に「観世音」と書いてあるように見える
(杉田劇場ウェブサイトより)

さて、話を戻して。

新聞広告をたどると、近江二郎は昭和21年5月いっぱいまで、ほぼ2ヶ月にわたって銀星座での公演を続けます。その後は、また別の地域に転じたのでしょうが、詳しいことはわかりません。

杉田劇場の従業員だった片山茂さんの証言によると「(大高一座について)劇場も長期に渡る公演になるとお客様に飽きられるとのことで、五月に入り、弘明寺銀星座にて公演中の近江二郎劇団と入れ替わり興業(ママ)をしました」(杉田劇場ウェブサイトより)とあります。実際に入れ替わりにしたのかどうか、銀星座での大高一座の公演記録が見当たらないので、正確に言えば不明ですが、昭和21年の5月1日から10日まで、近江二郎一座が杉田劇場で興行したというのは広告から明らかです。おそらくその期間、大高一座が銀星座で興行したのだと思われます。もっとも、近江二郎一座はこの後、また銀星座での興行に戻るので、入れ替わりがあったとしてもおそらくこの10日間だけだったのでしょう。

昭和21年5月1日付神奈川新聞より

ちなみに、この時期の近江二郎一座にあの渥美清が在籍したとされていて、それをもって「渥美清が杉田劇場の舞台に立った」ということになっているわけです。それならば「渥美清が弘明寺・銀星座の舞台に立った」という話も伝わっていてしかるべきですが、そっちの話はあまり耳にしないのも不思議です。前にも書きましたが、戦前・戦中の女剣劇・不二洋子一座のプログラムに「渥美清一郎」という役者の名前が見られるので、ジャンルからしてもその人と誤解しているんじゃないかと思っているところですが、残念ながらこちらも確証がありません。渥美清は最初の芸名を「渥美悦郎」としていたそうですから、当時の近江二郎一座の座員の中にその名前があれば確実なところです。一向に進展しませんが、ひとまずは継続調査というところです。


杉田劇場は大高ヨシヲの売り込みによって、彼の主宰する「暁第一劇団」を専属劇団にしますが、銀星座の方は杉田に遅れること半年あまり。8月に入ってから「横浜自由座」という専属劇団を作ります。この劇団はまもなく「自由劇団」と改称して、銀星座での興行を重ねていくわけです。杉田に半年も遅れをとった理由は定かではありませんが、おそらく、もともと近江二郎一座が5月末まで興行する契約だった上に、その後のスケジュールもすでに決まっていたのではないかと想像できます。実際、専属の自由劇団(横浜自由座)の興行は昭和21年の8月15日から。まさにお盆の真っ只中で、かつてはニッパチ(二八)と言われ興行が難しいとされた時期。スケジュールが空いている時期を選んで、専属劇団の活動をスタートさせたのだろうと思います。

自由劇団のメンバーは横浜近在の役者を集めたそうですが、主体は終戦とともに解散した「日吉良太郎一座」のメンバーです。安田猛雄、荒川仁作、朝川浩成、鳩川すみ子らが挙げられますが(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)、新聞広告には藤村正夫の横にも「日吉劇にておなじみ」とありますから、銀星座の自由劇団は日吉一座関係者の残党による劇団だったと言えるのかもしれません。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より

一方の大高一座ですが、こちらにも生島波江、藤川麗子という、やはり日吉一座の座員だったとされる人が所属しています。特に生島波江は日吉一座だけでなく、南吉田町にあった「金美劇場」の専属「新進座」の出演者の中にも名前が見られるほか、「花柳好太郎一座」の広告にも名前があり、横浜ではかなり人気のある役者だったことが想像されます。

戦前から戦中にかけて、横浜の演劇界では大きな存在であり、また多くの座員を抱えていた日吉良太郎一座ですから、戦後、解散後に、それぞれ杉田劇場と銀星座に分かれて新たな活動を始めたのは自然な流れだったのでしょう。

その意味からも、杉田劇場と銀星座は単なるライバルというより、時にライバル、時に協調もする似たような劇場同士だったように思えるのです。


さて、大高ヨシヲは、4月いっぱいまで杉田劇場で興行を続けた後、記録の上ではふたたび姿を消してしまいます。次に新聞広告が出るのは9月に入ってからです。前述の通り、近江二郎と入れ替わりで、銀星座で10日間ほど興行しただろうことは推測できますが、その先はまったく不明です。

戦中の昭和18年6月から杉田劇場に姿を現す昭和21年2月までの2年8ヶ月。そして戦後、昭和21年5月から9月1日までの4ヶ月。この両期間が大高ヨシヲの「ミッシングリンク」、謎の期間です。


疑問1:京都や東京で活動していた大高がなぜ戦後、横浜に姿を現したのか。

疑問2:所在がわからなくなる2つの期間、大高はどこで何をしていたのか。


いまなお、この2つの謎が大高探しの最大のハードルです。


ですが、今回のここまでの振り返りで、もしかしたら、弘明寺が謎を解く鍵になるのかもしれないような気がしてきました。銀星座、弘明寺、日吉一座、そして杉田劇場…霧の中に後ろ姿だけが見えている大高ヨシヲ。

(ああ、あと一歩が遠い)

そんなこんなで、この先、杉田劇場とともに、弘明寺や銀星座のことも継続的に調べることで、大高の姿が見えてくるかもしれません。

→つづく


【募集】残された記事や文章などで大高の足跡をたどる作業はそろそろ限界に達しています。この先は実際にその頃のことを知る人に話を聞くことで道がひらけると思っています。どんな些細なことでも結構です。何か情報をお持ちの方、あるいはそういう方をご存知の方はぜひお知らせください。お願いします。


(16) 大高ヨシヲをめぐる人々(3) 〜伏見澄子〜

窪田精『夜明けの時』は、著者の自伝的小説です。あとがきには「いわゆる自分史といったものではない。小説である」と書かれていますが、経歴と照らし合わせてみると、自伝とフィクションの割合は8:2くらいじゃないかと思われます。

簡単にまとめれば、昭和13年から15年までの、青年の成長と挫折の物語、ということになるのかもしれませんが、舞台の多くが大衆演劇の劇団で展開するので、かなり異色な小説と言えそうです。

しかもその劇団が、伏見澄子一座であり、小説の本編が伊勢佐木町の敷島座から始まるのですから、伏見澄子一座に助演していた大高ヨシヲを探すプロジェクトとしては、渡りに船のような絶好の資料となるわけです。

もっとも、大高ヨシヲ(大高よし男)が伏見澄子一座の舞台に出ていたのは、昭和17年から18年にかけてですから、この小説の時代より数年後のこと。実際、読み終えてみると大高らしき人物は登場しませんし、ヒントもあまり見つからなかったというのが正直なところです。

とはいえ、もともと資料の少ない伏見澄子の人物像や周囲の人々の姿、また、当時の劇団の活動状況などが、まさにその場に居合わせた当事者の視点で詳細に書かれているので、小説ながらとても貴重な記録だと言えます。


さて、まずは伏見澄子についての基本情報。

たびたび引用する『演劇年鑑』(昭和18年版)によれば

伏見澄子(大場タミヨ)
明治43年 広島出身
昭和演劇所属
大阪市港区東田中町*ノ***

という経歴。

以前((10)大高よし男の軌跡)にも引用した、森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房, 1992)によれば

"大阪新世界の小さな劇場に出ていたのを籠寅演芸部の保良浅之助が見つけ、大江美智子、不二洋子につづく女剣劇のスターとして売り出しを図った。まず道頓堀の弁天座、浪花座あたりで人気を集め、横浜の敷島座を経て浅草に進出してきたのである"

ということですから、浅草で売れる前の伏見一座の姿が小説『夜明けの時』に描かれていることになります。

同書(『夢まぼろし女剣劇』)では

"伏見澄子は(昭和)十五年八月に公園劇場、十六年七月、八月に松竹座へ出たが、わたしはみていない。そしてそれ以後、東京の舞台から姿を消してしまった。結婚して家庭に入ったらしいが、くわしいことは不明である"

と書かれていますが、小説の時代背景は昭和13年から15年で、そこには大場章二郎という一座の大夫元(運営を担う興行責任者)がいて、伏見澄子の夫とありますから、昭和16年以降「結婚して家庭に入ったらしい」という情報は誤りでしょう(伏見の本名からして「大場タミヨ」だし、昭和17年と18年にも公演記録があります)。

ところで伏見澄子の所属が「昭和演劇」となっていますが、これは保良浅之助の籠寅興行と松竹が合同で作った会社で、経営陣は籠寅が占めていたので、伏見澄子も籠寅興行部の所属と言っていいでしょう。当時の剣劇や女剣劇の劇団は大半が籠寅の傘下にありました。特に女剣劇は籠寅の独壇場で、保良浅之助は大江美智子(初代・二代目)、不二洋子、伏見澄子の三人を「女剣劇三羽烏」と称して売り出していました。

三羽烏にはそれぞれ、キャッチフレーズがあって

大江美智子→美剣の名花
不二洋子→剣の女王
伏見澄子→怪力女剣士

なんだとか。

初代大江美智子は宝塚の娘役出身で、それに似ているという理由で二代目が抜擢されたという経緯からしても、大江美智子は美貌を売りにしていたのでしょう。不二洋子は立ち回りが売りの王道、伏見澄子は男まさりの腕力が売りだったのかもしれません。実際、『近代歌舞伎年表:京都篇』で引用されている京都日出新聞の記事には「五尺の男子を手玉にとっての大乱闘は見ものである」とありますから、伏見の舞台はさぞかし胸のすく舞台だったことでしょうね。


小説『夜明けの時』には、伏見とその夫、大場章二郎の姿がこう書かれています。

「大夫元の大場章二郎は、背が高く美貌の座長とならぶと、世間でいうノミの夫婦であった。だれがみても、どうしてこんな男が座長とーと思うような、腹だけが突き出した四十すぎの小男だった。いつも前がはだけた梳毛(セル)の着物のあいだから、ラクダ色の毛糸の腹巻きがはみ出し、部厚い札束を入れた財布が顔をのぞかせていた(中略)そんな大場章二郎の姿に、座長の伏見澄子はいつも顔をしかめた」

「大場章二郎は十数年前、マキノ映画の時代劇部にいたというのが自慢であった。その後、旅回りの劇団で、まだ二十歳前の娘だった伏見澄子と知り合い、自分はもっぱら敵役をひき受けながら、十年がかりで彼女を女剣劇の座長に仕立てあげてきたのであった。いまは役者はやめて、一座の支配人、大夫元という仕事に専念している」

別の場面では伏見のこんな発言が書かれています。

「お前も一年ほどのあいだに、すっかり大人になったのう。もうどこへ出しても通る、一人前の青年部員じゃ」

出身が広島ということもあって、普段は広島弁で話していたのでしょうね。

さて、伏見澄子一座は、横浜での成功を経て、浅草に進出し、全国的な知名度を得ます。ですから、昭和17年と18年に浅草と京都で大高よし男が参加するのは、そんな人気劇団に成長した伏見澄子一座ということになります。

しかし戦後は、大江美智子・不二洋子・中野弘子・浅香光代が「女剣劇四天王」となり、伏見澄子の名前は消えてしまいます。もしかしたら、当時から大江美智子や不二洋子に比べると少し格が落ちる感じだったのでしょうか。大高よし男や三桝清が参加したのは、伏見一座の弱さを補強する意味もあったのかもしれません。


伏見澄子についてわかったことは、実はこの程度です。興行の記録は残っていますが、大江美智子や不二洋子に比べて格段に少なく、詳細もよくよかりません。大高よし男と伏見澄子との関係も、昭和18年の初夏以降は見当たらないので、この線からの大高探しはそろそろ限界に達したような気がします。

事実、3年後、昭和21年には杉田劇場が開場し、大高よし男が一座を率いて興行を始める一方、杉田劇場で伏見澄子が公演をした記録はないので、昭和18年あたりが大高と伏見の人生の分岐点になるのでしょう。とはいえ、伏見澄子のおかげで、大高の記録が残ったのですから、僕にとって伏見澄子は忘れることのできない恩人、ということになります。


さて、大高探しではこれ以上の手掛かりが見つかりそうもありませんが、小説『夜明けの時』には横浜の敷島座に出ていた伏見澄子一座の座員の生活ぶりがかなり詳細に描かれています。時期的には少し間がありますが、戦争や空襲というブランクがあることを思うと、終戦直後の劇場も戦前の習慣を踏襲しているように思われます。だから、小説の描写を通じて、杉田劇場での役者たちの生活も、こんな感じだったんじゃないかと、想像をかきたてられるところです。

いくつか引用してみます。

「その頃の伊勢佐木町の一角は、東京浅草の六区のような盛り場、大衆娯楽街であった。三丁目から四丁目にかけて、石畳を敷きつめた通りの両側に、電気館、オデオン座、日活館、朝日座、花月、敷島座といった映画館、寄席、芝居小屋などが立ちならんでいた」

「敷島座は(中略)オデオン座のすこし先、四丁目の左側の角にあった。古い木造の二階建てで、客席五、六百ぐらいのちいさな小屋だった。劇場前の歩道に(中略)一座の主な男女優たちの名を染めぬいた、ひいきすじから贈られる色とりどりの幟がはためき、開演前の時間になるといわゆる表方、劇場従業員たちの威勢のよい呼び込みの声で賑わった」

「その頃の剣劇団の多くは、九州や関西地方などで地歩を固め、それから名古屋、横浜をへて、東上するというコースをとった」

「(伏見澄子)一座は男女優四十数名、それに囃子方、衣装方、床山、頭取り、文芸部員、座長伏見澄子の亭主で大夫元の大場章二郎まで入れて、総勢六十名ほどの劇団だった」

「敷島座は三本立てで、昼夜二回興行だった。演し物は十日目替りであった。一番目に地元出身の瀬山緑郎という二枚目俳優が特別出演で、長谷川伸の股旅物などを上演していた。つぎが一幕物の現代劇で、若手俳優が中心である。最後が座長主演の物だった」

「客席も舞台もせまい敷島座には、回り舞台もなく、楽屋もせまかった。舞台の真下、奈落にある細長い畳敷きの大部屋が楽屋になっていて、両側に壁際にそって二列に分かれて(中略)男女優が化粧前(台)をならべていた。奥のほうが上座で、入口のほうが下座である。すわる順番も決めっていた。が、一部屋に幹部も準幹部も青年部もいっしょであった。座長部屋だけが別に、舞台の下手の中二階のようなところにあった。大道具がごたごたならぶ舞台裏から、木造の梯子が垂直にかかっていた(中略)座長部屋は六畳ほどの畳の部屋で、正面に座長の三面鏡や紫地の大座布団がおかれ、西側の窓際にそって(中略)弟子たちの、ちいさな鏡をおいた化粧前がならんでいた」

「幹部や准幹部の男女優たちは、伊勢佐木町裏の旅館に分宿していた。常打ちが長くなるにつれ、市内に間借りをして、そこから通うようにしている夫婦ものの座員もいた。座長夫妻が泊まっていたのは、小屋からすぐの若葉館という旅館であった」

「やはり小屋の近くに雑用(食事)付の寮があり、青年部のものはそこに寝泊まりしていた(中略)敷島座の寮は古い木造の二階建てで、下宿屋のようなつくりであった。玄関の格子戸を開けて入ったすぐの部屋が食事所で、チャブ台がならび、炊事係のおばさんや女中たちがいた」

「敷島座の青年部の寮には、丸い軒燈の下に春秋寮という看板がかかっていた。玄関の格子戸の錠は、一晩じゅうあいたままだった。二十数名いる独身の青年部員たちは、午後十時頃に小屋がはねてから、寮で風呂に入り、夕食をすませると、二人、三人と連れだって、みんな夜の街に出て行った」

「その頃の伊勢佐木町は、映画館や芝居小屋がはねる夜の十時頃から十二時までが、いちばん賑やかな時間であった。汁粉屋やミルクホールも、裏通りの飲み屋も客でいっぱいになる。街の灯が消えて、通りがようやく静かになるのは午前二時か三時頃である。それまでは人通りがあった。それに伊勢佐木町のすぐ裏に曙町の私娼窟があり、川向こうは数十軒の妓楼が立ちならぶ真金町の遊郭だった。もっとも、一ヶ月の出演料、給金が宿舎雑用付で二十円か三十円といったていどの大部屋俳優たちなので、多くは素見、冷やかしである。毎晩、そういう夜の街を、一まわりするのが習慣になっているようなものもいた。そこの女性たちも、敷島座に芝居をみにくる。それで、彼女たちと親しくなり、私的な交流をつづけているものもいた」

「舞台のほうで、一番太鼓が鳴り始める。開幕一時間前である。開幕は午前十一時だ(中略)やがて、二番太鼓が鳴る。一番太鼓は大太鼓だけだが、二番太鼓は大太鼓と締太鼓とが混じりあって、調子をとりながら鳴りつづける。一番目ものに出る俳優たちや、頭取り、狂言方、大道具方など、楽屋じゅうが開幕の仕度にとりかかる時間である。引き幕がひかれたままの舞台のうえでは、鬘やからみの衣装をつけた二十数名の青年部員が勢揃いし(中略)立ち回りのけいこが行われている」

「そして、笛の入った着到の大太鼓、締太鼓の音が響き渡る。開幕準備完了の合図であった。客席は平土間も二階も観客でいっぱいだ。着到の太鼓の打ちどめと同時に、狂言方が拍子木を打つ「二丁」が入る。引き幕の向こうでは、開幕をうながす観客のどよめきや拍手がきこえ、奈落にある楽屋から序幕の板付の俳優たちが舞台へ急ぐ。楽屋じゅうが一番緊張する時間であった。こうして三本立て、昼夜二回興行の敷島座の一日が始まるのだった」

杉田劇場での大高一座もこんな感じだったのかもしれません。

戦争中、すぐ近くに日本飛行機や石川島航空工業などの大きな軍需工場があった杉田には、寮やアパートも多くあったことでしょう。戦争が終わって、かなりな空室が出たとも考えられます。それを劇場の寮に転用した可能性は低くありません。劇場の近くには梅乃湯という銭湯もありました。吐月館という料亭(旅館?)もあったそうです。夜、一日の芝居が終わると、座長は吐月館へ、座員は劇場が借り上げたアパート(寮)に戻り、梅乃湯で風呂に入り、杉田の街で一杯ひっかける。夜遅くに寮へ戻って眠り、翌朝はまた劇場に出勤して、昼の興行に備える。ひょっとすると、そんな生活が一座の面々の日々だったのかもしれませんね。


そんなこんなで、今回は伏見澄子の活動を振り返るとともに、横浜における劇場での生活と興行の実態にも触れてみました。

次回は杉田劇場との関係が深いと思われる、弘明寺の銀星座について再考してみます。


→つづく

〔番外〕つれづれ話・その1

伏見澄子のことを書くはずですが、何しろ資料が乏しいのでネタがない。

うーん、困った、と難儀していたそんな折。

窪田精という作家が若い頃、伏見澄子一座に所属していて、その頃のことを『夜明けの時』という自伝的小説に書いていることを知りまして。先日、ヒョイと覗いた藤沢の古本屋の店頭に無造作に並んでいたその本を「これぞ奇跡の邂逅!」と歓喜の中、即座に手に入れて読んでいるところです。

三分の一ほど読み進めたところで、どうやらこの小説には大高の正体に迫れるようなネタはなさそうだとはわかったものの、当時の横浜の劇場やその周辺の様子、興行の仕組みや役者たちの日常のこと(食事や宿はどうしていたのか、など)が詳しく書かれていて、とても参考になります。

そんなこんなで、伏見澄子はちょっと先送りし、今回は、ネタに詰まった投稿のはざま、つれづれ話の駄文をおゆるしください。


以前、杉田劇場のTさんに、大高一座の座員には「高」が付く人が多いのではないか、と言われたことがありました。

大高一座のポスター(杉田劇場ウェブサイトより)

気にしてみると、たしかにその通りで

大高ヨシヲ
高田孝太郎
高島小夜里
小高美智代
高杉マリ子
高宮敏夫

「高」のオンパレードと言ってもいいくらい。

座長の名前から一字を取って芸名にするのはよくあることなので、Tさんには「座長が大高だからそれに因んだんじゃないでしょうか」と答えた記憶があります。

それっきりのいい加減な返答だったわけですが、先日、そのTさんがアップした杉田劇場のブログで、弘明寺の銀星座に「小林重四郎」と「月澄子」が出ていることを知って、ちょっと調べてみたところが、この両者は夫婦で、月澄子の方は戦前・戦中の有名女優、五月信子の姪であることがわかりました(この時、銀星座で上演している「高橋お傳」は五月信子の代表作です)。

なんでそんな人が銀星座に出るのかと思って、さらに調べているうちに、五月信子の最初の夫で、ともに「近代座」という劇団を主宰していたのが高橋義信という人だとわかったわけです。高橋義信…「高」「義」

この二文字でピンと来るのはもちろん「大高ヨシヲ」!。

実は彼の名前、「大高義雄」と表記されることもあるのです。


もしかしたら、高橋義信の弟子だったとか、彼の一座に所属していたとか。だから芸名を

大「高」「義」雄

にしたとか。

うーん、あり得ない話ではないゾ、と妄想がふくらみます。

ちなみに、高橋義信については、武田正憲の『諸国女ばなし』の中で、近江二郎らとともに大阪北濱の帝国座にあった川上俳優養成所で学んだと書いてあります。

高橋義信←→近江二郎←→銀星座! 

さらに、著者である武田正憲自身が俳優で演出家であり、1915年にやはり作家で演出家の川村花菱とともに「新日本劇」を立ち上げますが、そこにはなんと五月信子が参加しています。

武田正憲←→五月信子←→月澄子←→銀星座!

さらにさらに、前回の投稿で振り返った「日吉良太郎一座」のメンバーの中には「武田正憲」の名前があって(同一人物かどうか確認中)、しかも銀星座の専属劇団「自由劇団」には日吉良太郎一座のメンバーがいたわけです。

武田正憲←→日吉一座←→銀星座!

おまけに、なんと、戦後、横浜演劇研究所が発行していた機関紙「よこはま演劇」には、武田正憲と加藤所長の対談が載っていたりもするのです(資料、取り寄せ中)。

あれとこれとが、芋づる式につながっていく!

日吉良太郎−武田正憲−高橋義信−近江二郎−五月信子−月澄子−自由劇団−銀星座

ならば、このつながりの中に大高ヨシヲがいてもおかしくないはずだ!

なのに、大高ヨシヲにだけはたどりつかない!

嗚呼!

でも、これを地道に続けていけば、小さな情報を丹念に調べていけば、きっと大高の正体に行き着くはず。そう信じて、あちこち掘り返しては妄想と興奮に心揺れ動く日々。その後の情報がパッタリとなくなってしまった大高への切実な想い。

(きっと辿り着きますよね!)

ふぅ。 

というわけで、今回はそのつれづれの経過報告でございました。


ちなみに、五月信子は終戦とともに芸能界は引退しましたが、横浜の海岸通一丁目にあった「レストラン・ヨコハマ」を経営したりもしていたのだそうです(小柴俊雄『横浜演劇百四十年 -ヨコハマ芸能外伝-』より)。

大衆演劇のことを調べているはずなんですが、このつながりは一体どこまで広がるんでしょう。

なんだかすごいことになりそう。