〔お知らせ〕 杉田劇場のポスター

現杉田劇場(磯子区民文化センター)のロビー壁面に、旧杉田劇場で美空ひばりが舞台に立った時のポスターが2枚掲示してあります。

この舞台こそ、大高よし男が座長を務めていた「暁第一劇団」の公演なのです。


この2枚のポスターの間に、新たに「大高ヨシヲを探しています」というチラシ(小ポスター)が掲示されました。


美空ひばりのデビューエピソードと合わせていろいろな資料に頻繁に名前が出る「大高ヨシヲ」ですが、現杉田劇場のスタッフも詳細はよくわからない謎の役者です。

これを機に大高よし男やその周辺に関する新しい資料が見つかることを期待しています!

ロビーにはどなたも自由に入れますので、当地へお越しの際はぜひお立ち寄りいただき、旧杉田劇場のいろいろな資料が展示してあるコーナーをご覧ください!


このブログ「大高ヨシヲを探せ!」は杉田劇場のスタッフとも連携しながら調査を進めています。

ちなみにブログ管理者の名前として使っている「FT興行商社」は、ちょっと怪しげな名前ですが、実はなぜか一時期だけ新聞広告に記載されていたもので、おそらく旧杉田劇場の運営団体じゃないかと思っています。
(この「FT興行商社」のことも詳細はまったく不明です。ブログを作るにあたって名前を使わせてもらいました)

昭和21年5月1日付神奈川新聞より


→つづく


(60) 戸田史郎のこと

このブログの「(56) 近江二郎、アメリカで映画を撮る」の投稿に、近江二郎の実弟、戸田史郎のご親族の方からコメントをいただきました。大高よし男のことも、近江二郎や戸田史郎のことも、横浜の図書館で閲覧可能な文献や新聞記事はほとんど調べ尽くした感がありますので、あとは関係者のお話が頼りです。

とてもありがたいことです。

というわけで、今回はこれまでもいくつか書いた「戸田史郎」に関する事柄をまとめてみたいと思います。


冒頭にも書いた通り、戸田史郎は大高よし男とも縁の深い「近江二郎」の実弟にあたる人です。

戦後、弘明寺の銀星座で開場記念興行を近江二郎一座が担った時も、その広告に名前がありますし、「日本の古本屋」や「ヤフオク」に出品されている、昭和2年・名古屋帝国座での興行のポスターにも名前があります。また、戦前、公園劇場での「グロテスク劇場」などの新聞広告にも名前が出ています。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より

昭和7年8月20日付都新聞より

近江一座がアメリカ巡業した際の広告にも名前がありますから、さすがに実弟というだけあって、座長の信頼も厚かったのでしょう。

1930(昭和5)年10月26日付邦字新聞「日米」より


ただ、大高よし男が高杉彌太郎の名前で近江一座に参加していた時期の興行には、戸田史郎の名前がないのが不思議なところです。軍隊に行っていたなど、何らかの事情があるのかもしれません。


さて、戸田史郎の経歴については、昭和16年5月4日付の神奈川県新聞(神奈川新聞)が一番詳しいと思われます。

それによれば

戸田史郎
本名 笠川四郎
四十五歳(註:近江二郎と5歳違いで、おそらく明治30年か31年生まれ)
中区井土ヶ谷町近江洋服店主人(註:当時はまだ南区が分区していなかったので「中区」)
近江二郎の実弟なり

ということです。

昭和16年5月4日付神奈川県新聞より

井土ヶ谷で「近江洋服店」の主人をしていたということなので、この店の所在地を古い地図などで調べていますが、残念ながらまだ見つかっていません(※同じ出典によれば、近江二郎は「井土ヶ谷中町に自宅あり」とあります。なお、日吉良太郎も同じ「井土ヶ谷中町」に住んでいました)。

また、アメリカ巡業の役者の中に「戸田史郎」がいる一方で、アメリカ渡航の際の秩父丸船客名簿の中には「戸田史郎」も「笠川四郎」も記載がありません。ただ横浜から乗船した三等船客の中に「近江資郎(?)」という名前があるので、これが戸田史郎と同一人物だと考えていいでしょう。

1930(昭和5)年10月31日付邦字新聞「日米」より

近江二郎の本名は「笠川次郎」ですから、昭和16年の新聞記事で戸田史郎の本名を「笠川四郎」としているのは合理的な気がします。もしかしたら戸田史郎とは別の芸名として「近江資郎」を使っていたのかもしれません。

近江二郎の妻は、同じ一座で女優をしていた深山百合子(本名は笠川ヒデ)で、娘は衣川素子。それぞれ戸田史郎の義姉、姪にあたるわけです。

また、以前に近江二郎がアメリカで違法な狩猟をして捕まったという話を投稿しましたが、その新聞記事の中には、令弟「近江藤吾」という人が語っている話が出てくるほか、渡航前の邦字新聞には

「ボーク街で洋服クリーニング業を営む近江兄弟は近江二郎丈の肉親の兄弟に当る」

の記述もあり、近江二郎自身、渡米直後のインタビューで

「兄弟が二人も永年お世話になっている在留邦人の方々へお礼心で一生懸命にやる」

と述べていることからも、渡米以前からアメリカに住んで仕事をしていた兄弟がいたこともわかります。

なお、ここで書かれている「兄弟」と同一人物かどうかは不明ですが、近江二郎が帰国した後の邦字新聞には慰問演芸会のような催しの出演者の中に「近江兄弟」(近江雪夫と近江文衛)の名前が出てきます。芝居や落語をやっていますから、近江二郎の兄弟と考えてもおかしくはありませんね。

(もっとも、兄弟がみな「近江」姓を名乗っているので、いくつかの資料で近江二郎の本名としている「笠川」姓は何なのだろう、という疑問も浮かびます)


ところで、近江一座に関して僕が調べた中で一番古い記録は、「浜松市史」に掲載されている、1917(大正6)年、浜松歌舞伎座での上演記録です。

また、一番新しいものは1959(昭和34)年秋、福井県武生市(現在は越前市)で行われた「たけふ菊人形」での公演記録です。

近江二郎は1892(明治25)年生まれですから、この時は67歳くらいでしょうか。戸田史郎がいつまで役者を続けていたのかははっきりしませんが、少なくとも兄の近江二郎は還暦を過ぎても舞台に立っていたようです。

戦後もずっと井土ヶ谷の自宅から旅公演に出ていたのかどうか、そのあたりもまだ調べが及んでいません。ですが、少なくとも戦後しばらくは、近江二郎やその関係者が井土ヶ谷や弘明寺あたりに住んでいたものと思われますから、地域文化・地域史を考える上でも、事実関係を洗い直してみる必要がありそうです。


そんなこんなで、今回は近江二郎の実弟、戸田史郎についてまとめてみました。


お願い:冒頭に書いた通り、(56)の投稿 でコメントをいただきましたが、その後、直接の連絡ができていません。もしコンタクトをしていただいているようでしたら、何らかの原因でこちらに届いていないようです。申し訳ありませんが、このブログの問い合わせフォームからお知らせください。よろしくお願いいたします。


→つづく

〔番外〕情報をお待ちしています

大高よし男やその周辺の調査は、当地(横浜)の図書館などで得られる情報はほぼ調べ尽くしてきた感があります。

大高が杉田劇場の舞台に立ったのは、昭和21年春から夏すぎまでの活動期間ですから、実際に彼の舞台を見た方もかなり高齢になっているはずです。

大高や彼の周辺について、何かご存じのことがありましたら、ぜひ、下記の問い合わせフォームからお知らせください。

問い合わせフォーム→ https://findyoshio.blogspot.com/p/blog-page.html

現在、杉田劇場(磯子区民文化センター)のスタッフの方々とも連携しながら、旧杉田劇場の全貌を明らかにすべく、調査を進めています。

よろしくお願いいたします。