(133) 昭和26年の杉田劇場

大高の周辺情報というには時期がずれ過ぎていますが、今回は久しぶりの旧杉田劇場ネタです。あまり新味はないものの、ひとまず。


1951(昭和26)年になると、杉田劇場の新聞広告はほぼ見られなくなります。従業員だった片山茂さんの証言ではすでに株式発行の頃(昭和23年8月)には経営が傾いていて、青息吐息だった様子が語られていますが、広告を見る限りでは昭和25年の秋まではある程度の頻度で興行が行われていたことがわかっています。


年が明けて、昭和26年の正月にはお馴染み、市川門三郎一座の初春興行がありましたから、劇場としてこれまで通りの新年を迎えていたようにも思えます。しかし、この年、広告らしい広告はこれが最後と言ってもいいくらいの状況になっていきます。

1950(昭和25)年12月31日付神奈川新聞より

市川門三郎一座に次いで、新聞紙上に杉田劇場の名前が登場するのは、昭和26年2月22日付の催し物欄で、屏風ヶ浦地区広報委員会による「市民の集い」のお知らせです。

1951(昭和26)年2月22日付神奈川新聞より

この「屏風ヶ浦地区広報委員会」については、現杉田劇場に所蔵されている写真の中に「発会式記念」と付記された一枚が残されています。日付は昭和24年5月20日で、杉田劇場のロビーで撮られたものです。最前列の左端に劇場オーナーの高田菊弥と思われる人物がいることから、その縁で杉田劇場が利用されたものと考えられます。

屏風ヶ浦地区弘報委員会発会式記念 24.5.20 杉田劇場
(現杉田劇場所蔵)

高田菊弥は磯子区で長く保護司を務めるなど、地域活動に積極的に関わっていたようで、おそらくその縁でしょう、その他の残された写真をよく見ると「赤十字奉仕団結成式」などの文字が確認できます。

日本赤十字磯子区屏風ヶ浦地区奉仕団結成式記念 25.1.19
(現杉田劇場所蔵)

さて、話は戻って、昭和26年。

この年の杉田劇場は、そのほかに「オール横浜総合芸能コンクール」(「市民芸能コンクール」という名称に変わっている)の予選会場としても利用されていましたし(10月6日)、コロムビアの「全国歌謡コンクール」の予選会場としても使われています(9月16日)。

1951(昭和26)年9月22日付神奈川新聞より

1951(昭和26)年9月15日付神奈川新聞より

こうした状況を見ると、民間劇場というよりは公的な事業の会場としての利用が多い印象で、公共施設の色合いが濃くなったようにも感じられますが、実際のところはよくわかりません。

旧杉田劇場の写真として最も知られている劇場正面を写したものは、拡大して「若月昇劇団」が来演したときのものだと判明していますが、この「若月昇劇団」についてはこれまで新聞広告にまったく出てきませんから、広告に出ない興行がまだ他にもあったのではないかというのが、僕の見立てです。

旧杉田劇場正面(現杉田劇場所蔵)

経営が傾いていたという片山さんの話が残っているわけですから、安定して興行が続いていたとは考えにくいところでもありますが、「広告が出ない=公演がない」というのもいささか短絡的で、近隣の銀星座や三吉劇場ですら、広告掲載の頻度は下がってきますから、むしろ掲載にかかる費用が値上がりして、広告出稿を見送っていたのではないかとも思えるのです。


さて、同じ昭和26年には、アマチュア劇団の葡萄座も公演を行なっています。4月14日(土)・15日(日)の二日間で、演目は菜川作太郎『闘鶏』、木下順二『彦市ばなし』、田中澄江『ほたるの歌』の三本。

1951(昭和26)年4月14日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログによれば、この葡萄座の公演記録によって、旧杉田劇場がこの時期まで存続していたことがわかると記されています(→こちら)。実際は上掲の通り、この年の9月と10月、2つのコンクール会場としても使われているので、少なくとも昭和26年秋までは劇場として存続していたと言えそうですし、「昭和27年」とキャプションのある浜中学校学芸会の写真もあるので、その頃までは継続していたのだと考えてもよさそうです(ただし、このキャプションが正確かどうかは未確認です)。

昭和27年 浜中学校学芸会@杉田劇場庭園「安寿と厨子王」
(現杉田劇場所蔵)


余談ですが、4月に杉田劇場で公演をした葡萄座は、同年9月にはオデヲン座で「創立五周年記念公演」を行います。「全横浜演劇フアン待望の新劇」「戦後始めてオデヲン座の舞台で本格的演劇公演」というキャッチコピーには、相当な力の入れようが感じられるところですし、「北林透馬氏特別解説講演」があったというのも、興味深いところです。

1951(昭和26)年9月3日付神奈川新聞より

北林透馬は戦前から横浜文化の中心人物のような人でしたが、戦後は一時期、磯子の間坂に住み、アテネ劇場の支配人をやっていたという話もあるので、その頃から劇作家の神谷量平氏ら地元の文化人との交流が生まれ、それを通じて葡萄座など市民文化団体との関わりを深めていたのかもしれません。


ちなみに戦前から長者町にあったオデヲン座は米軍に接収され「オクタゴン劇場」となっていたので、この広告にある「オデヲン座」は1947年、曙町に新設されたものです(その経緯は→こちら



→つづく
(次回は5/1更新予定)

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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(132) 川上好子ふたたび

川上好子のことはこれまでにも何度か書いてきました。

日吉劇のメンバーで、昭和10年の「復興博の女神」コンテストで3位に入賞したことや(→こちら)、その後、日吉劇を離れ、各地の舞台に立っていたことなどです(→こちら

横浜出身で横浜に住んでいたこともわかっています。

しかし、その経歴の詳細はよくわかりませんでした。


ところが、大高よし男や近江二郎の足跡を辿るべく、例によって都新聞を確認していたところ、思いがけず彼女の名前に出くわすこととなったのです。

川上好子は昭和15年3月、近江二郎一座が横浜敷島座に来演した時に、この一座に参加していて、翌16年に再来演した際にも共演していますから、大高とも同じ舞台に立ったということになります。

近江二郎はどうやら昭和15年1月から籠寅演芸部に所属したようで、川上好子も同じ頃に籠寅専属となったらしく、それが敷島座での共演につながったのだと考えられそうです。

前年の昭和14年に初代大江美智子が急死していますから、保良浅之助としては剣劇・女剣劇のブームが萎まぬよう、さまざまな役者と専属契約を結んで、層を厚くすべく補強をしたということなのかもしれません。

で、くだんの記事。

1940(昭和15)年3月11日付都新聞より

この記事によれば、川上好子は

「最近籠寅専属になつて賣出した」

役者で

「川上貞奴創設の川上児童劇園の出身」

とあります。

川上児童劇園とは、正確には「川上児童楽劇園」といい(劇「団」ではない)、川上貞奴が1924(大正13)年に創設した、児童を対象とする一種の俳優学校。5歳から15〜6歳の児童が全寮制の「園」で演技や音楽などさまざまな科目を学ぶ場。当初は青山に、翌年には二子玉川に移転して、昭和7年まで継続したのだそうです。


都新聞の記事が正しければ、川上好子はこの学校(楽劇園)で俳優への第一歩を踏み出したということになります。

川上児童楽劇園については、よく調べていないので、それ以上の詳細がよくわからないほか、川上好子がどういう経緯で入園し、どういう活動をしていたのかなどもさっぱりわかりません。

前々回の投稿で引用しましたが、1941(昭和16)年4月、横浜在住の俳優として好子が新聞で紹介された時には「27歳」と書かれていますから、計算すると1914(大正3)年頃の生まれで、川上児童楽劇園が創設された時期には10歳前後。閉園時の昭和7年だと18歳になりますから、昭和のごく初期ならば年齢的に入園資格を満たすことになります。。

昭和10年の復興博の女神コンテストに参加した時にはすでに日吉劇のメンバーでしたから、昭和初期、川上児童楽劇園を卒園したのちに、何らかの経緯で日吉良太郎一座に参加したと考えられます。


都新聞の記事には、川上音二郎の俳優学校を出た近江二郎が、川上好子の経歴を知って「同窓の友だ」と周囲に吹聴したとあります。

大正時代、喜楽座で新派の気鋭の俳優として人気を博していた近江二郎でしたが、その後は新派というよりは剣劇役者のようにみられたり、アメリカ巡業で話題となりつつも、グロテスク劇場以降はあまり注目もされず、役者としての出自たる新派のメインストリームからも外れていたことを思うと、音二郎と貞奴の違いはあれ、同じ川上の薫陶を受けた好子との出会いは、彼にとって心強いものがあったのかもしれません(近江二郎の新派への思いは→こちら)。


もっとも記事はゴシップネタですから、

「同じ川上畑でも近江は明治、好子は昭和の育ち 間に大正といふ年代のあつたのを計算に入れてゐないあたり、いゝ気なもの」

と、結んでいるあたり、近江二郎の思いはいささか空回り気味に受け取られていたのかもしれませんが。

とはいえ、両名ともに実力は折り紙付きで、のちに近江二郎は不二洋子一座に、川上好子も酒井淳之助や青柳龍太郎らの一座に参加するなど、横浜敷島座を足がかりに、籠寅の大衆演劇・剣劇戦略の中で、活躍の場をさらに広げていくことになります。

それはのちに伏見澄子一座や松園桃子一座に参加する大高よし男も同じで、近江二郎・川上好子らと同じ籠寅の系譜にいたことは、この点からも間違いなさそうです。


これまで調べた中では、戦後、川上好子の名前を見ることはなくなります。動向はよくわかりません。住所は長者町で、横浜大空襲があったことを思うと、悲劇的な事象が起こっていたのかもしれませんし、単に引退したということなのかもしれません。

川上児童楽劇園のことも含め、もう少し深掘りして調べてみる必要がありそうです。


そんなこんなで、今回は川上好子の経歴についてのお話でした。

次回も周辺情報についての報告になりそうです。



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