1951(昭和26)年11月末、杉田劇場で「少年防犯劇」なるものが上演されます。パッと見では前回の投稿にあったような公的なイベントのようにも思えますが、11月27日から30日まで、昼夜2回公演というのですから、かつての大高一座のルーティンのように、4日間続く事実上の「興行」にも思えます。
この公演、新聞の催し物欄のようなところに小さく掲載されたものではありますが、これまでの調査の流れからすると実に驚くべきものだったのです。
少年防犯劇の主催は「磯子区少年成人保護司会」で、区・警察署・福祉協議会・新生活運動会その他が後援したもの。これも前回書きましたが、杉田劇場のオーナー、高田菊弥は長く保護司を務めていたので、その関係で企画されたものかもしれません。
芝居のタイトルは少年防犯実演『少年の血は燃えている』、上演団体は「劇団新国民座」。
その出演者として列記されているのは
・寿山良海・荒川仁作・大江三郎・瀬川銀潮・沢田一郎・深山一夫・深山登・中村一郎・江川町子・大友マリ子・深山百合子
という顔ぶれです。
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| 1951(昭和26)年11月27日付神奈川新聞より |
なんと、ここには大高一座の支配人であった「大江三郎」の名前があるほか、近江二郎の妻で女優の「深山百合子」の名前もあります。また、戦前の日吉劇や戦後の銀星座・自由劇団で幹部俳優だった「荒川仁作」もいます。
さらには「寿山良海」という名前は大高一座から自由劇団に移った「寿山司郎」と同姓で、彼が’改名したもののようにも思えますし、「大友マリ子」も大高一座の「高杉マリ子」を連想させます(そもそも「高杉」は大高の前名)。おまけに百合子のほかに「深山」姓が2人いることから、この人たちは百合子の弟子、または近江一座の残党とも考えられます。
※「寿山良海」というのは、調べてみると明治40年に鶴見区生麦の龍泉寺の堂宇を再興した住職と同じ名前なのだけど、何か関係があるのかしらん?
こうした座員連名から推測できるのはこの「劇団新国民座」というのは、高田菊弥か大江三郎が大高一座や自由劇団、近江一座などの役者に声をかけて集めた劇団ではないかということです。
この芝居のために臨時に即席で作られた団体なのかもしれませんが、あたかも、戦前からの横浜の大衆演劇を牽引してきた日吉良太郎一座と近江二郎一座が、ここで奇跡的な合同公演をやっているかのようにも見えてきます。
その事実を見るに、杉田劇場はもちろん、大高一座の面々も演劇界を去ったわけではなかったことがわかって、なんとなくホッとするような、嬉しいような、不思議な気持ちにもなります。
ところで、戦後もこの頃になると実演は下火になって、映画が全盛を迎える、というのが一般的な定説ですが、一部の人間にとって実演への夢は捨てきれないものがあったようで、この時期、井土ヶ谷に「百万弗劇場」ができたり、広告に突然「根岸劇場」(根岸橋)の名前が出てきたりします(いずれもまもなく映画館になってしまうようですが)。
綱島では温泉場の健全化から「関東の宝塚」を目指したレジャーセンター構想みたいなものもあったようで、その中には「大衆バレエ劇場」なる大劇場をつくろうとしていたほどです。
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| 1951(昭和26)年12月14日付神奈川新聞より |
| 1952(昭和27)年1月7日付神奈川新聞より |
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| 1951(昭和26)年12月19日付神奈川新聞より |
実演といえばストリップ一色になりつつある時代、かろうじて定期的な興行の内容がわかる銀星座では、剣劇や歌舞伎(小芝居)もまだまだ健闘しています(昭和27年11月までは興行が続いていたようです)。
実演は斜陽というのは、結果としては事実だったとしても、当時の劇場建設の動向や興行主の心情を推し量ると、そんなに単純なものではなかったような気もしてきます(銀星座のあった弘明寺には後年、昭和29年に「梅沢劇場」が開場)。
さて、本題の少年防犯劇に戻ります。
そもそも「防犯劇」というスタイルの芝居は、かつて銀星座の自由劇団が何度か上演しています(→こちら)。警察との提携で実際に起こった事件などを劇化し、防犯につなげようという一種の道徳劇みたいなものなのでしょうか。荒廃した戦後の世相を反映しているようにも思えます。この少年防犯劇は、もしかしたら自由劇団の防犯劇にヒントを得て上演されたのかもしれません。
しかし、振り返ってみれば、新聞小説や実際の事件を題材にするのは新派の常套でもあるので、いささか暴論ではありますが、この時期の「防犯劇」自体が新派の直系と言ってもいいような気すらします。
さらに言えば、高田菊弥はこうした公的事業の中で芝居を生かしていくことに実演の生きる道を見出していたのかもしれませんし、あわよくばこの劇団でもう一度かつての栄光を取り戻したいと考えていたんじゃないかとさえ思えてきます(妄想多め)。
戦前の近江二郎が、息巻いて「本来の新派」の復興を期していたことを思うと、少年防犯劇もそうした近江の目指す「新派」の伏流が、激動の戦後にあって顕現化したものだったのかもしれません(さらに妄想多め)。
その後、この劇団が継続したのかどうか、またそうだったとして、どういう方向に進んだのかは今のところ不明です。この先の調査でその痕跡が見つかるのかもしれません。
この芝居に出ていた深山百合子は昭和42年1月8日に亡くなりますが、晩年を知る方によれば、三味線を教えたりしていたものの、舞台に立っていたような話は聞いていないので、近江二郎亡き後、この杉田劇場での防犯劇が彼女にとっての最後の舞台になったのかもしれません。
小さな記事も丹念に拾っていくと、思いがけない情報に出くわすものです。
そんなこんなで、今回も戦後の杉田劇場についての話でした。
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