(107) 『今昔十二ヶ月』と近江二郎

暁劇団が素っ気ない名前の「杉田専属劇団」になった頃、昭和24年3月、劇団名や役者の名前なしに、演目だけが書かれた異色の新聞広告が出ます。

その前後にはそれまでと同じスタイルの広告が出ているので、これは単にスペースの問題で、同じ劇団つまり劇団新歌舞伎と杉田専属劇団の合同公演のものだと考えていいでしょう。

ここに記されているのは「名作アルバム 今昔十二ヵ月」という演目です。

昭和24年3月15日神奈川新聞より

1月から12月まで、各月にちなんだ名作舞台作品のさわりを連続上演するというプログラムで、「幕間ナシ 三時間半」とあることから、1作品およそ15分強を12本並べた形だったと思われます。

実はこの演目名、ちょっと珍しいので、見覚えがありました。

資料をひっくり返してみると、昭和17年7月に浅草の松竹座で上演された不二洋子一座の演目がこれと同じなのです(こちらは「名狂言抜粋 今昔十二月」となっていますが)。不二洋子一座の公演資料(新聞広告)をチェックしていたのは、そこに近江二郎が加盟出演していたからです。

昭和17年7月7日付都新聞より

大高一座(暁第一劇団)の支配人・大江三郎が、もともと近江二郎一座の文芸部員であったことは何度か書きました。上掲広告の、不二洋子一座の興行にも大江三郎がいたことは、ほぼ間違いないと思います。『今昔十二月』は二の替りで上演されたもので、その前、七月の御目見得興行では大江三郎の作品(『母子鳥』)も上演されています。ですから、不二洋子一座の七月興行には近江一座の文芸部員として大江三郎がいて、もちろん『今昔』の時もいたはずなのです。

そんなことからも、戦後、杉田専属劇団がこの作品を上演したのは、大江三郎の発案だったのかもしれません。鈴村義二が提案した可能性もありますが、大江三郎の方がこの作品のより近いところにいたわけですから。いずれにしても、戦前の浅草の不二洋子一座の演目が、終戦を挟んで杉田劇場に登場したのが、昭和24年3月の興行なのです。


杉田劇場での『今昔十二ヶ月』の演目は以下の通りです。

1月 『三河万才』
2月 『三人吉三』
3月 『恋の皿屋敷』
4月 『金比羅代参』
5月 『不如帰』
6月 『白浪五人男』
7月 『白虎隊』
8月 『忠治赤城の月』
9月 『■小袖』(晴小袖か?)
10月 『鈴ヶ森』
11月 『秋の踊り』
12月 『清水一角』


一方、戦前の不二洋子一座の方では

1月 所作事『羽根の禿』
2月 湯島の梅『婦系図』
3月 尊王櫻『児島高徳』
4月 不如帰『逗子の海岸』
5月 富士の五月雨『曽我兄弟』
6月 乱舞の牡丹『連獅子』
7月 ■原の夏『乃木将軍』
8月 月の五條橋『辨慶と牛若丸』
9月 悲愴飯盛山『白虎隊』
10月 赤城の紅葉『國定忠治』
11月 青柳硯『小野道風』
12月 雪の曙『清水一角』

重なる演目は『不如帰』『白虎隊』『国定忠治』『清水一角』の4本。さすがに、まったく同じものはできなかったのでしょう。座組の関係はもちろん、版権への配慮などもあったのかもしれません。

杉田劇場の広告には、不二洋子一座にあった「秋元六通 構成脚色」の文言がありません。月毎に名作のさわりを上演するというアイデアだけをもらって、中身は大江三郎が構成したということなのでしょうか。

余談ではありますが、この秋元六通という人、調べてみたら、不二洋子一座の文芸部員・高梨康之のペンネームという記録が出てきました(『著作権者名簿』昭和42年度版, p.391)。ということは、この作品は不二洋子一座のオリジナル作品と言っていいのでしょう。いずれにしても大江三郎にとっては戦前の浅草の、思い出の作品だったと思われます。


ところで、少し前に近江二郎の実弟・近江資朗のご家族からお話を聞いた際、保管されていた写真をお借りしたことがありました。すべてデータ化させてもらいましたが、その中にいくつかの舞台写真があったのです。

それがなんの舞台なのか、わからないものも多くありましたが、今回の調査の中で、改めてその写真を見返してみたら、舞台写真の大半が不二洋子一座の『今昔十二月』のものだとわかりました。

当時の新聞に載った劇評や配役表と写真を対比すると、さらにいろいろなことがわかってきます。

配役一覧:1942(昭和17)年7月10日付都新聞より


というわけで、近江資朗旧蔵写真から。

まず最初に一番わかりやすいのはこれでしょう。


いうまでもなく、10月の『國定忠治』の舞台写真です。

配役を見ると忠治は田中介二。後掲の劇評にも"田中介二の国定忠治の「赤城の山も今宵限り」は余りに気張りすぎて、これは見る方が面映ゆい位"と書かれていましたから、ここに写っている忠治は田中介二で間違いないでしょう。評の通りかなり気合の入った様子が見て取れます。


次にわかりやすいのはこれです。


8月の『辨慶と牛若丸』。これも配役を見ると、弁慶が不二洋子で牛若丸が不二時子。姉妹共演の舞台写真です。


これも比較的わかりやすいもので


4月の『不如帰』です。配役は川島武男が田谷耕一、浪子が中村扇子。


続いてわかりやすいのは

11月の『小野道風』です(『小野道風青柳硯』)。小野道風は濱原義明。


つづいてこちらは


5月の『曽我兄弟』。五郎が澤井五郎、十郎が大島伸也とあります。


この先はちょっとわかりにくいところです。


舞台装置などからして7月の『乃木将軍』だと思われますが、不勉強ではっきりはわかりません。配役を見ると乃木将軍は近江二郎。


そしてこれは、広告で「乱舞の牡丹『連獅子』」とあるものだと思われますが(背景幕も牡丹)、どうも連獅子のようには見えません。劇評を読んでみると、そちらには「勢獅子」と書かれていて、ようやく腑に落ちました。

中央、獅子頭を持っている鳶頭が不二洋子、その左が河村陽子。

と、以上が近江資朗旧蔵写真のうち、不二洋子一座の『今昔十二月』と思われる舞台写真です。


さて、この『今昔十二月』公演については、都新聞に写真入りで比較的長い劇評が掲載されています。

1942(昭和17)年7月16日付都新聞より

実は上掲の五條橋(弁慶と牛若丸)の写真は、新聞の劇評の中に掲載されている写真とまったく同じなのです(対比してみました)。やはりここに挙げた写真は『今昔十二ヵ月』の舞台写真で間違いなさそうです。

左:都新聞/右:近江資朗旧蔵写真

新聞社が撮って劇団員に焼き増ししたのか、劇団側が撮って新聞社に提供したのか。あるいはブロマイドや絵葉書として販売していたものなのか。いずれにしても近江資朗家に長く保管されていた当時の貴重な舞台写真です。


さて、この劇評にはこれらがどんな上演だったのか書かれています。

"歌舞伎、新派、舞踊等の一般に馴染深い場面を月々に因んで並べたもので、要はレビューのヴァラエテイみたいなものだが、ヴァラエテイにしてはそのツナギが暗輾の一點張りの上に、終始変らぬ黒バックに、切出しを押出しての舞薹構成"

だったそうで、

"気が変らず、せめて時には廻舞薹くらい使って、気の利いた輾換ができなかつたかと思ふ"

となかなか手厳しいものの、舞台の様子はよくわかります。大黒幕に書き割りなどのシンプルな舞台装置を出し入れして、舞台転換をしていたようです。

杉田劇場でも同じようなスタイルで上演していたのかもしれませんね。


ところで、これらの写真が一部変色しているのは、昭和30年代に近江資朗の井土ヶ谷の家が火事になった際に焦げてしまったものだそうで、それでもよく残してくださったのはありがたい限り。実はまだほかにも何枚かあったらしいのですが、『四谷怪談』などはあまりにも気味が悪くて処分してしまったのだとか。おそらく近江二郎一座の「グロテスク劇場」時代のものでしょうから、ちょっと惜しい気はします。

とはいえ、これだけの写真が残っていると、これまで確認できていなかった役者たちの姿もよくわかって、当時の舞台が一層身近に感じられるところです。


そんなこんなで、今回は戦後、杉田劇場で上演された『今昔十二ヵ月』から、戦前の不二洋子一座の舞台につながるエピソードでした。

→つづく
(次回は5/2更新予定)
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(106) 杉田専属劇団

前回書いたように、大高よし男の三回忌追善興行ののち、暁第一劇団(暁劇団)は藤村正夫を迎えて再出発します。昭和23年の年末には杉田劇場に引き続いて、横浜オペラ館でも公演するなど、藤村との蜜月というか、劇団運営の順調ぶりが感じられます。

ところが、翌年、昭和24年に入ると突然、広告から藤村の名前が消えてしまうのです。

何があったのかはわかりませんが、何かあったことは容易に想像できます。

藤村正夫の名前が消えると同時に「暁劇団」「暁第一劇団」「暁座」の名称も姿を消します。その代わりに登場したのが

「杉田専属劇団」

という味も素っ気もない劇団名です。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

新聞広告しか手がかりのないものですから、これがどんな劇団なのかさっぱりわからないのですが、もともと大高一座(暁第一劇団)が杉田劇場専属の劇団であったことからすると、その流れだろうことは容易に推測できます。


一方で、前年、杉田劇場に「同生座」の名前で華々しく登場した「鳩川すみ子・朝川浩成」のコンビは、これまた華々しく銀星座に登場します。もともと日吉良太郎一座にいた二人ですから、これでめでたく古巣に戻ったということになるのでしょうか。

1949(昭和24)年1月18日付神奈川新聞より

逆にこの時期を境に、かつて杉田の暁第一劇団から銀星座の自由劇団に移った「壽山司郎」の名前が、自由劇団の広告の連名から消えてしまうのです(12月22日から鳩川・浅川が自由劇団に参加するという広告の後、壽山の名前が消える)。

いったい何があったのだろう…

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より
この広告まで座員連名の中に「壽山」の名前がある

広告を追うだけでも離合集散の劇団事情が垣間見えるようです(もしかしたら壽山は杉田専属劇団に復帰したのかもしれない)。


さて、上掲のように杉田専属劇団が初登場するのは「劇団新歌舞伎」という劇団との合同公演です。「劇団新歌舞伎」はメンバーからして、おそらく戦前の横浜歌舞伎座の更生劇や金美劇場の「新進座」の流れと考えていいと思います。開館当初の銀星座にもほぼ同じメンバーが「御當地おなじみ 新歌舞伎」として出演しています。

1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より

大高亡き後の杉田劇場はさまざまな手を打ちますが、歌舞伎だけではダメ、暁劇団の再生も不調、という経験を重ねた結果、歌舞伎と剣劇・新派を組み合わせた番組で勝負しようと考えたのかもしれません。いずれにしても、このあと、しばらくは歌舞伎と専属劇団の合同公演でプログラムが組まれていきます。


杉田専属劇団と劇団新歌舞伎の合同公演は、2月に入ると広告にも惹句が増えて情報量が多くなります。

そしてその中に

「高島小夜里」

という名前が登場します。

1949(昭和24)年2月8日付神奈川新聞より

見覚えのあるこの名前、実は大高一座のポスターの中に出てくる役者の名前と同じなのです。

所蔵:杉田劇場

所蔵:杉田劇場

高島小夜里は大高一座の座員だったわけですから、「杉田専属劇団」はやはり暁第一劇団の残党による団体と考えてよさそうです。

大高の後継者として、さまざまな座長候補をトップに据えて再起を図りますが、いずれもうまくいかず、最終的には自分たちだけでやっていこうと思ったのかもしれません。人気のあった座長の後釜に入るのはなかなか難しかったのかな、なんていう想像も働きます。

(追記:その後、よく見たら広告の「晴小袖」の惹句には「燕之丞尾崎梅川高島」とあります。燕之丞は「片岡燕之丞」で、梅川が不明なものの、「尾崎」はポスターにある「尾崎幸郎」、「高島」は「高島小夜里」でしょう。梅川も「藤川(麗子)」の誤植かもしれません)


2月下旬になると、広告から「杉田専属劇団」の名前が消えてしまいますが、演目からして歌舞伎の一座がやったとは考えにくいものもあることから、広告には記載しないものの、やはり合同公演の形は継続していたと思われます。

1949(昭和24)年2月26日付神奈川新聞より

そしてこの「杉田専属劇団」は4月下旬になると突然「港劇団」という名前を付け加えるようになります。

1949(昭和24)年4月22日付神奈川新聞より

最初これは「暁劇団」の誤植ではないかと思っていましたが、その後、日をおいて何度も登場することから、間違いとは考えにくく、この時期、大高一座はとうとう「暁」の名前を捨て、新しい名前のもと、再スタートを切ったと考えてもよさそうです。

ここまでの流れを見ると、三回忌を機に、さまざまなやり方で大高の影響からは決別して、独り立ちしようという劇団の決意みたいなものも感じるところです。


ところで、杉田劇場は昭和23年8月に株券を発行して資金集めをはかっていることや、片山さんの証言などからも、この頃には劇場が経営不振に陥っていた、というのがこれまでの定説でしたが、新聞広告から一年を通じての番組をデータ化してみたところ、昭和23年はほとんど休みなく公演が入っていることがわかりました。

1948(昭和23)年の杉田劇場スケジュール(抄)

とても経営不振には見えないし、賑わいが失われたようにも見えません。個々の興行の入りがどうだったかはわかりませんが、少なくとも劇場は連日オープンしていて、ほぼ毎日なんらかの公演が行われていたことは間違いありません。

昭和23年には、一時的にエロに傾斜して「りべらるショウ」などを上演したり、集客が見込まれる映画も何度か開催されていますが、年間を通じたプログラムを眺めると、やはり歌舞伎や剣劇などの興行が圧倒的に多く、年の後半になるとエロもほとんど消え、完全に実演劇場として経営していたことがわかります。

今後の調査によりますが、杉田劇場の経営難が表立ってわかるようになるのは、昭和24年以降なのではないかと思われます。


杉田劇場に限らず、近隣の劇場も名前を変えたり、プログラムを工夫したり、試行錯誤している時期ですから、苦境は杉田に限ったことではなく、むしろ先行していた上に、市のはずれという立地ながら、杉田劇場は健闘していた方なんじゃないかとさえ思えるところです。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。