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(93) 大正時代の近江二郎・その2

大正12年2月に横浜喜楽座を去った近江二郎は、名古屋と京都で深沢恒造一座に参加していたことがわかりました。京都・夷谷座での公演は5月21日に終わります。

ついで、近江二郎の名前は、5月31日からの浅草・公園劇場での帝国キネマ演藝社公演、伊村兄弟劇団(伊村義雄・山本繁)に参加するという新聞記事に登場します(1923(大正12)年5月27日付読売新聞)。京都で深沢一座の公演を終えるやすぐに東京に戻って浅草の舞台に立つわけです。公園劇場での伊村兄弟劇団の興行は、当初10日間だったのが好評を受けて続演となったようです。

その後の近江の足取りはまだ調査が進んでいません。

『近代歌舞伎年表』を辿ると、同じ大正12年9月1日から京都の京都座で深沢一派が河原市松一派・都築文男一派とともに興行を始めていますが、この公演に近江二郎がいたのかどうかはわかりません。大正12年9月1日といえば、関東大震災の発生した日で、当時、近江二郎の両親や兄弟は横浜に住んでいましたが、近江家のファミリーヒストリーというべき "FIFTH BORN SON"には二郎がそこにいたという記録がありませんので、震災時は関東ではなく、名古屋や関西方面にいたのではないかと推測しています。

深沢一派の京都座公演は9月いっぱい続き、10月からは深沢一派・河原一派という座組で大阪・楽天地中央館に舞台を移して興行が続きます。

実は、深沢一派が関西で興行を続けていたこの時期、10月15日からの名古屋新守座における「革新第一劇団」三の替りに「近江二郎加入」の文字が出てくるのです(『近代歌舞伎年表』名古屋篇・第13巻より)。「当狂言より新進の花形近江二郎出演」とあるので、近江二郎が新守座の舞台に立ったのは三の替り、10月15日からということになります。

この月の深沢一派(京都座)は9月30日からおそらく10月10日までと10月11日から20日までなので、仮に深沢一派に近江二郎がいたとしても10月10日までとなるわけです。

(いささか強引な推測かもしれませんが、「革新第一劇団」という名前は大高よし男の「暁第一劇団」を彷彿とさせるもので、このあたりに何かしらの関わりがあるのかもしれませんが、現段階では関連性は不明です。ひょっとしたら、この線から何かわかるかもしれません。期待しつつ調べてみたいと思います)


さて、近江二郎の参加した「革新第一劇団」は10月いっぱいで公演を終えます。その後の近江二郎の足跡はしばらくわからなくなりますが、翌大正13年4月にやはり名古屋の宝生座における「新進劇団」御目見得狂言の出演者の中に「近江次郎」の名前が登場するので、この時期の近江二郎は名古屋を拠点としていたのかもしれません。興行は4月1日から始まりますが、二の替りの4月7日からの公演では「寺田健一・近江二郎一座新進劇団」と記されているので、この頃には座長として仲間を束ねる立場になっていたとも考えられます。


新進劇団の名前での興行は5月いっぱいで終了し、今度は6月15日から名古屋楽天地で「日本劇座 近江二郎一派 お目見得狂言」の興行が始まります。一座のメンバーとして「竹内欣也・池田茂・川上要」の名前が記録されています(「竹内欣也」は「新進劇団」の出演者にある「竹内欣哉」と同一人物と考えられます)。安易な断定はできませんが、大正13年の春から初夏にかけて、近江二郎は一座を組織し、独り立ちしたのではないかと思われます。メンバーからしても、のちの近江二郎一座とは異なる顔ぶれなので、「プレ近江一座」みたいな感じでしょうか。

近江二郎一座の楽天地での興行がいつまで続いたかははっきりしません。ですが、7月には挙母(豊田市)の大正座で興行している記録(7月8日から)がありますので、やはり名古屋近辺が活動拠点だったと言えそうです。


それから1年後、翌年大正14年7月25日からの名古屋宝生座には「日本座 近江二郎一派 御目見得狂言」の記録が出てきます。そして、この時の一座のメンバーには実弟・戸田史郎の名前が初めて登場します。また深山百合子の名前が出るのも(おそらく)これが最初です(このあたりを事実上の近江二郎一座結成の時期と考えてもいいのかもしれません)。

"FIFTH BORN SON" によれば、近江二郎は横浜喜楽座に出ていた頃、芸妓の鈴香(深山百合子)と駆け落ちしたとされています。その時期が大正9〜12年だったのか、大正15年だったのか、はっきりしませんでしたが、大正14年の一座に深山百合子がいることを考えれば、大正12年に横浜を去る前に駆け落ちがあったと考えるのが妥当です。新聞でも大きく取り上げられたと書かれているので、大正12年初頭の横浜貿易新報をもう一度精読する必要がありそうです。


この名古屋・宝生座での記録には注意すべき記載があります。

「若手花形を揃へ帝都に出演し大成功を博せる近江二郎は、久々にて陣容を整へ第二の故郷当市に来演」(7月24日付「新愛知」, 『近代歌舞伎年表』名古屋篇第14巻, P.150 )

つまり、大正13年後半から大正14年前半にかけて、近江二郎は「帝都」すなわち東京で公演していたことになるのです。

"FIFTH BORN SON"には "circa 1925 Yokohama(1925年頃 横浜)" のキャプションがある写真が掲載されていますが、大正12年から15年まで横浜での興行がなかったという新聞情報を信じて、これは単にキャプションの誤りだろうと思っていましたが、上記引用の中身からすると、まだ調べきれていない近江一座の横浜公演があった可能性も出てきます(もしかしたら大正15年(1926)の喜楽座「剣劇大合同」の舞台写真なのかもしれませんが)。

この時期の新聞もあらためてちゃんと精査しないといけませんね。

"FIFTH BORN SON"より

近江二郎一派は8月30日で宝生座を去りますが、四の替りで上演し大好評だった『愛の地獄』(「新愛知」連載)後編をもって、翌日の8月31日より、岐阜劇場を皮切りに「新愛知」の支局がある地を巡演したようです。

さらに、同じ年の年末、12月1日から21日頃まで宝生座でも公演しているので、未調査の「帝都に出演」を除けば、やはり主に中京地区で興行を続けていたのでしょう。

大正15年に入ると、4月30日〜5月27日は帝国座、6月1日から15日は中座、と名古屋での活動が順調に続いていたことがわかります。


前回の考察とそれ以前に判明していたものも含め、大正時代の近江二郎の活動でわかったものをまとめると、以下のようになります。

大正8年
5月 東京・本郷座 ※『大平野虹脚本集』より
 
大正9年
1月30日〜 横浜・喜楽座(新加入)

大正12年
〜2月18日 横浜・喜楽座を去る
2月28日〜4月17日 名古屋・歌舞伎座(深沢恒造一派)
4月30日〜5月(21)日 京都・夷谷座(深沢恒造一派)
5月31日〜 浅草・公園劇場(伊村兄弟劇団)
(9月1日〜(27)日 京都・京都座(深沢恒造一派))
(9月30日〜10月10日 大阪・楽天地中央館(深沢恒造一派))
10月15日〜26日 名古屋・新守座(革新第一劇団)

大正13年
4月1日〜5月30日 名古屋・宝生座(新進劇団) 近江次郎一座
6月15日〜21日? 名古屋・楽天地(日本劇座 近江二郎一派)
7月8日〜   挙母・大正座(近江二郎一派)

大正14年
7月25日〜8月30日 名古屋・宝生座(日本座 近江二郎一派)
8月31日〜  岐阜・岐阜劇場(日本座 近江二郎一派)
12月1日〜(21)日 名古屋・宝生座(近江二郎一派)

大正15年
4月30日〜5月27日 名古屋・帝国座(近江二郎一派) 
6月1日〜15日 名古屋・中座(近江二郎一派) 
8月  浅草・公園劇場(剣劇大合同 近江二郎一座)
9月1日〜10月30日 横浜・喜楽座(剣劇大合同 近江二郎一座)


川上音二郎・藤沢浅二郎の俳優学校を出た近江二郎は、 東京の新派の舞台を中心に俳優活動を始め、大正12年に喜楽座で大きな人気を得て、横浜で3年にわたるキャリアを重ねることになります。これをきっかけに名古屋や京都の舞台にも立ち、ふたたび東京の舞台にも立つわけですから、喜楽座での成功が近江二郎を一気に全国区にしたのでしょうか。

横浜という地は、演劇史上、あまり大きな話題にはなりませんが、関西の劇団が東上するにあたっては、横浜を経て、浅草(全国区)へというパターンが多いような気がします(関西→名古屋→横浜→東京のルートが一般的なのかな)。

大高も共演した女剣劇の伏見澄子が好例ですが、二代目大江美智子も初代が急逝した1ヶ月後に横浜敷島座の舞台に立っています(昭和14年2月)。単に横浜出身という縁ある地というだけでなく、二代目襲名前に経験を積み、その資格を試すという意味合いもあったように思います。

昭和14年2月7日付横浜貿易新報より

演劇界において横浜は、成否を計るリトマス紙のような場所だったのかもしれません。近江二郎の大きな成功も横浜喜楽座がきっかけだったと言って間違いないと思います。

ということで、前回と今回は大正時代の近江二郎について見てきました。さらに細かく調べていく予定ですが、ここまでの事実を俯瞰すると、横浜と名古屋での人気が特に高かったことがわかってきます。

横浜での活動はかなり調べが進んでいますが、後年、浅草に進出した後も名古屋での舞台は多く、近江二郎の活動の全体像を知るためには名古屋の新聞をチェックすることが必須のようです。昭和15年に横浜敷島座に登場する直前も名古屋での舞台を経ていますから、大高よし男の痕跡も名古屋にありそうな予感がさらに強まりました。




「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(81) 川上好子のこと

大高よし男の経歴を探るにあたって、近江二郎との関係が鍵になると思っているところですが、昭和14年以前の手がかりが見つからず難航は続いています。

そんなこんなで、今回も周辺情報から。

昭和16年4月23日から神奈川県新聞で「横濱に住む俳優群を語る(横濱演劇懇話會調)」という連載が始まります。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より


ここで取り上げられている俳優は以下の方々です(掲載順)。

市川団之助
市川升紅
石原美津男
市川新升
市川荒右衛門
市川茂々市
市川三蔵
大谷門二郎
澤村清之助
市川莚蔦
澤村訥美太郎
中村芝梅
市川島蔵(?)
市川蔦之助
市川荒子
市川筆之助
佐久間實
澤村訥紀十郎
静川君之助
林重四郎
北島晋也
牧野映二
生島波江
藤代朝子
岡田梅男
小金井秀夫
水の江城子
※川上好子
曾我廼家明石
五月信夫
静間■
嵐傳五郎
嵐ひろ子
市川コズエ
橋本梅蔵
中島三浦右衛門
佐藤幾之助
佐藤新十郎
荒井信夫
尾上梅代
三島啓介
松井幾人
松岡壽美子
中川清
青木俊二
池田富雄
市川三之助
佐上善行
澤村清枝
大江美智子
藤原かつみ
伊藤三千三
吾妻千恵子
大江美加(?)子
星十郎
関谷妙子
★近江二郎
★深山百合子
★衣川素子
勝川三次
★戸田史郎
尾上羽多丸
松本米世
青柳早苗
三井一枝
久松勝代


この中には当時、すでに引退している俳優も含まれていますが、昭和16年の段階でこれだけの役者が横浜に住んでいたというのは驚きです(記事中に「横浜歌舞伎座の日吉劇、敷島座の籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、実態としてはもっと多くなるはずです)。


それぞれの方の経歴も演劇史的には興味深いものばかりですが、それはいずれ別にまとめるとして、やはり気になるのはこの中に「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前がないことです。

戦前、戦中、戦後と、大高がどこに住んでいたのかはまったく不明です。戦後はさすがに杉田や弘明寺あたりにいただろうとは想像できますが、それ以前については手がかりがありません。

ただ、上記の記事に彼の名前がないことからすると、大高は横浜に住んでいなかったか、少なくともこの記事をまとめた小林勝之丞を含む横濱演劇懇話會のメンバーは、大高を「横浜の俳優」とは認識していなかったのだと考えていいでしょう。近江二郎や妻・深山百合子、子・衣川素子、弟・戸田史郎が載っているのですから(★印)、大高が近江二郎のように横浜在住の役者だと思われていたとしたら、ここに載っていておかしくないはずです。

前述の通り、記事には「籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、大高はその「別」に含まれているのかもしれませんが、籠寅がらみの役者が何人か掲載されているので、大高が掲載されていないのはちょっと不自然です。

(もっとも、この記事自体、戸田史郎の本名を「笠川四郎」としている点など(実際は「近江資朗」)、誤りも多そうなので、資料としての信憑性には若干の疑義があります)


前回の投稿でも言及しましたが、ここには「川上好子」が掲載されています(※印)。川上好子という名前は昭和10年の「復興博の女神」コンテストで7位に入選した日吉劇の女優として、また昭和15年に近江二郎一座と共演している(つまり大高と共演している)一座の座長として記録がありますが、この両者が同一人物なのかはよくわかりませんでした。


ですが、復興博の女神コンテストの翌年、昭和11年1月に横浜貿易新報に掲載された「熱と力の俳優『日吉』を語る」という座談会記事の中で

北林(透馬)「『男は泣かぬ』に出てゐる、川上好子、あれは巧いですね」
小林(勝之丞)「横濱で生れた優です」

と言及されていることから、川上好子はもともと日吉一座にいたのが、独立して女剣劇の一座を成したのだと考えて間違いなさそうです。

1935(昭和10)年1月23日付横浜貿易新報より


大高一座に参加していた生島波江も同じような経過をたどっているように思われますが、全国的な知名度の上では川上好子の方がはるかに上だったようで、以前にも紹介した通り、木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)に人気の女剣劇座長として写真が掲載されています。復興博の女神に入選した昭和10年から、昭和15年までの間に川上好子は日吉劇から独立したのでしょう。

昭和15年に敷島座で近江一座と共演した川上は、その後もしばらくは近江一座と行動を共にしています。大高の足跡は近江一座だけでなく、川上一座に刻まれている可能性も否定できません。その前後の川上好子の動向を調べることも、手がかりになりそうです。


→つづく

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(72) 昭和12年の近江一座

おかげさまで講座版『大高ヨシヲを探せ』(いそご文化資源発掘隊「旧杉田劇場の看板役者 大高ヨシヲの謎に迫る」)は無事に終了し、多くの方々にお越しいただきました。講座後には「続編を」との声もあり、大高ヨシヲや近江二郎に興味を持っていただけたのがとても嬉しいです。これをきっかけに新しい情報が集まってくるとさらに嬉しくなります。

ご参加いただいたみなさま、関係者のみなさま、ありがとうございました。


さて、その講座にもご参加いただいた近江二郎のご親族の方から、先日、貴重なお写真をお借りしておりましたが、無事にデータ化が完了し、写真の内容から新しい情報も得ることができました。

ありがたいのはサイン入りの写真がいくつかあったことで、役者の名前がわかるのはとても助かります。


その中からひとつ紹介すると、これは昭和12年1月3日に名古屋宝生座で撮影された近江一座の舞台写真です(裏書による)。演目は『白痴の生涯』で、この作品は近江一座で時折上演されています。



役者は右から、大山礼二郎・春日早苗・近江二郎・御園艶子・三村義彦で、一番左のサインはいまのところ判読できていません。

以下、個別に。

大山礼二郎は後年の近江一座で幹部俳優として名前が上がる「大山二郎」と同一人物かもしれませんが、これもまだはっきりわかりません。

春日早苗は近江二郎の実弟・戸田史郎(近江資朗)の夫人で、本名は近江九女子。戦後、一座が解散した後、昭和30年代の後半から磯子区中原に住み、昭和62(1987)年に亡くなっています。

近江二郎はひとまず飛ばして、次の御園艶子は新派女優として有名な人で、筒井徳二郎の欧米巡業にも同行しています。また「アノネ、オッサン、ワシャカーナワンヨ」のギャグで知られた高勢実乗の夫人でもあるのだそうです。
(近江一座がサンフランシスコで巡業を始めた昭和5年11月、御園艶子は筒井一座でプラハ、ブタペスト、ウィーンあたりの舞台に立っているそうですから、1枚の写真が急にワールドワイドになるのが不思議です)

三村義彦については詳細は分かりませんが、新聞広告にも名前の出る人で、おそらく一座の中堅・幹部俳優だったのでしょう。

一番左の判読不能のサインを「高杉彌太郎」と読めないかと目を凝らしましたが、どう見ても最後は「之輔」のようで、高杉(大高)とは異なるようです。

上記の役者は昭和9年の新聞広告に全員名前が出ていますから、昭和10年前後の近江一座の常連だったと考えていいのかもしれません。

1934(昭和9)年12月31日付讀賣新聞より

この頃の大高よし男(高杉弥太郎)がどのクラスの役者だったのかはわかりません。近江一座に参加していたのかどうかもわかりません。ここに写っているかどうかだけで判断するのは性急ですが、後の活躍を思うと若手俳優として写っていてもおかしくないと思われますから、昭和12年の段階では近江二郎一座とはまだ関わりがなかったのかもしれません。

それにしてもこの写真など、これまで目にしたことのなかった資料に接することができて、大高調査もさることながら、近江二郎一座の活動についても、別途考察が必要だと感じるところです。

大高よし男の活躍のカゲには、近江二郎がいる、というのがいまの僕の見立てです。


→つづく



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【追記】その後、『近代歌舞伎年表』名古屋篇(第16巻)で、上掲写真の記録を探してみましたが、見当たりません。昭和12年1月6日からの記録はありますが、「二の替り」となっています。初春の御目見得興行は新聞広告などがなかったのでしょう。これで昭和12年の宝生座初春興行の演目が(ひとつだけですが)判明したことになります。



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(70) 近江資朗取材記(その2)

近江二郎関係の調査で疑問だったのが、いろいろな史料で近江二郎の本名が「笠川次郎」となっているのに、弟・戸田史郎の渡航記録(船客名簿)が「近江資朗」となっていることでした。

今回、取材をさせていただく中で、その点はかなりはっきりしてきました。


個人のお宅の話なので詳細を記すのは控えますが(もし知りたい方は前回紹介した "FIFTH BORN SON"(George Omi, 2020)を買ってください:Amazonで購入できます)、近江二郎のもともとの名前は「近江次郎」で、笠川は妻・百合子の実家なのだそうです(彼女の本名は笠川秀子)。二郎は妻の実家に婿養子に入ったというワケです。深山百合子は一人娘だったそうなので、そういう事情があったのかもしれません。

近江二郎は当初から芸名ではなく本名で活動していたことがわかりましたし、古い文献にしばしば出てくる「近江次郎」の方が本当の本名(変な言い方ですが)だったこともわかりました。

近江家は広島県芦品郡福相村が本家だそうですが、取材の際には「新市(しんいち)」という地名がよく出てきました。調べてみると、1949年に新市村が新市町になった時、福相村の相方地区を編入したそうなので、そのあたりに実家があると考えられます。いずれにしても、いまは郡も村もなく、すべて編入されて広島県福山市になっています。

近江家の兄弟は

一雄(かずお)
次郎(じろう)
郁三(いくぞう)
資朗(しろう)
謙吾(けんご)
六郎(ろくろう)
富枝(とみえ)
孝子(たかこ)

の六男二女で、このうち一雄、謙吾、六郎の3人は父親の助言でアメリカに移住したということです。

このうち謙吾の息子は実(ミノル)さんといい、上掲書を書いたGeorge Omiその人です。 FIFTH BORN SONは「5番目に生まれた息子」ですから、実さんは父・謙吾の生涯を通して、近江一族のファミリーヒストリーを書いたということになります。


近江二郎が渡米し、アメリカ巡業を成功させたのは、一雄、謙吾、六郎という3人の兄弟がいたからでもあり、彼らが近江一座の巡業をカゲで支えていたワケです。

以前の投稿(「近江二郎、捕まる」)で、近江二郎がアメリカで禁猟の鳥を撃って捕まった話を書きましたが、この時に取材を受けていた人が近江謙吾だったのです。


さて、近江資朗(芸名・戸田史郎)の略歴は、何度か紹介している新聞記事にあります。

昭和15年5月4日付横浜貿易新報より

ここに書かれている「本名・笠川四郎」は誤りであることが判明しました(本名は「近江資朗」)。

また、これもかねてから疑問だった「近江洋服店主人」の謎も、今回の取材ではっきりしたのです。

近江資朗さんは、井土ヶ谷(南区永田町)に住まいし、そこでブラウスの縫製を生業にしていたそうです。役者の傍ら、というより縫製の方が本業で、その合間に舞台に出ていたようです。

兄・郁三が縫製業を営んでいたことから、おそらく彼のもとで技術を習得したのだと思われます。今なお、近江家の縁者が馬喰町でブラウス縫製の仕事をしているともうかがいました。


今回の取材でお話を伺ったのは、近江資朗の娘さんとお孫さんでしたが、驚いたのは「母も役者でした」と聞かされたことです。春日早苗という芸名で、やはり近江一座の舞台に立っていたというのです。

事実、銀星座の柿落としの広告に「近江二郎」「深山百合子」「戸田史郎」と並んで「春日早苗」の名前があります(同年1月と5月には杉田劇場で近江一座が興行しているので、この4人は杉田の舞台にも立ったと推測されます)。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より

春日早苗は近江九女子(くめこ)、旧姓「井口九女子」で、アメリカ巡業の際の秩父丸船客名簿に「井口久米子」の名前がありますから、これが彼女に違いありません。アメリカ巡業に同行していたことも裏付けられました。

さらに驚くべきことに、上掲の"FIFTH BORN SON"には、その際に撮られたと思われる写真が掲載されているのです。

"FIFTH BORN SON" George Omi, 2020より
 
後列左が近江二郎、右が戸田史郎(近江資朗)。
前列左が深山百合子、右が春日早苗(井口九女子)。

本のキャプションには "circa1930"(1930年ごろ)とありますが、彼らのアメリカ本土滞在は1930年10月末から1931年2月末までですので、その間の写真でしょう。

渡航直後なのか、巡業の途中なのか。誇らしげな晴れやかな表情が印象的です。

 

→つづく


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(69) 近江資朗取材記(その1)

以前書いた通り、ブログのコメント欄に、近江二郎の弟、戸田史郎さんのご親族からお知らせがありました。

連絡をとらせていただいたところ、我が家からも杉田劇場からも歩いて10分ほどのお近くに住んでおらることを知り、何のめぐり合わせかと、まさに仰天するほどの驚きと喜びでございました。

昨日、念願かなって、杉田劇場スタッフとともに取材させていただきましたが、お話の中で、ご尊父戸田史郎(本名・近江資朗)さんのことはもちろん、兄である近江二郎のことも、その妻である深山百合子のことも、さらには近江二郎の兄弟たちが渡米して苦労しながらも、現地で成功をおさめたこともわかり、いろいろな疑問が一気に氷解しました。

写真もお借りしましたので、スキャンの作業を進めています。戦前の近江一座の舞台写真などもあって、大変貴重な資料です。


さらにはアメリカにおられるご親族のおひとりが、近江一族のルーツを探り、本を出されているのもありがたいことで("FIFTH BORN SON"  George Omi)、ざっと目を通しただけですが、そこからもさまざまな事実がわかってきました。

いまのところ、大高よし男に直接つながる資料はないように思えますが、ただ、近江二郎・深山百合子の娘(養女)にあたる元子さん(芸名・衣川素子)の手記にとても気になる一文があったのです。

そこでは、近江二郎に後継者がいなかった理由のひとつとして

「二代目を名乗るべき人が交通事故で他界」(上掲書)

を挙げているのです。

取材の中で、近江二郎が亡くなったのは昭和24年5月29日だと判明しました。大高よし男が交通事故で他界してから2年半後です。この手記をどう解釈すべきかまだわかりませんが、もしかしたら近江二郎は大高よし男を後継者として考えていたのかもしれません。可能性が否定できない限り、この線での調査も必要になりそうです。

(半歩前進!)

そんなこんなで、大高よし男の調査と並行して、昨日の取材をまとめつつ、近江二郎一座、深山百合子、戸田史郎(近江資朗)の調査も進めていきたいと思います。

戦前・戦中・戦後と、激動の演劇界で生き抜いてきた近江二郎一座と、厳しい時代のアメリカで成功をおさめたご親族の話は、それだけで大河ドラマになりそうなファミリーヒストリーです。

調査を続けて、語り継いでいきたいと思います。


ご位牌を大切に保管されていて、近江資朗さんのものだけでなく、近江二郎・深山百合子連名のご位牌も見せていただきました。ブログで紹介してもいいとの許可をいただきましたので、裏面だけアップさせていただきます。



ご協力いただいたI様ありがとうございました。


→つづく

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(60) 戸田史郎のこと

このブログの「(56) 近江二郎、アメリカで映画を撮る」の投稿に、近江二郎の実弟、戸田史郎のご親族の方からコメントをいただきました。大高よし男のことも、近江二郎や戸田史郎のことも、横浜の図書館で閲覧可能な文献や新聞記事はほとんど調べ尽くした感がありますので、あとは関係者のお話が頼りです。

とてもありがたいことです。

というわけで、今回はこれまでもいくつか書いた「戸田史郎」に関する事柄をまとめてみたいと思います。


冒頭にも書いた通り、戸田史郎は大高よし男とも縁の深い「近江二郎」の実弟にあたる人です。

戦後、弘明寺の銀星座で開場記念興行を近江二郎一座が担った時も、その広告に名前がありますし、「日本の古本屋」や「ヤフオク」に出品されている、昭和2年・名古屋帝国座での興行のポスターにも名前があります。また、戦前、公園劇場での「グロテスク劇場」などの新聞広告にも名前が出ています。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より

昭和7年8月20日付都新聞より

近江一座がアメリカ巡業した際の広告にも名前がありますから、さすがに実弟というだけあって、座長の信頼も厚かったのでしょう。

1930(昭和5)年10月26日付邦字新聞「日米」より


ただ、大高よし男が高杉彌太郎の名前で近江一座に参加していた時期の興行には、戸田史郎の名前がないのが不思議なところです。軍隊に行っていたなど、何らかの事情があるのかもしれません。


さて、戸田史郎の経歴については、昭和16年5月4日付の神奈川県新聞(神奈川新聞)が一番詳しいと思われます。

それによれば

戸田史郎
本名 笠川四郎
四十五歳(註:近江二郎と5歳違いで、おそらく明治30年か31年生まれ)
中区井土ヶ谷町近江洋服店主人(註:当時はまだ南区が分区していなかったので「中区」)
近江二郎の実弟なり

ということです。

昭和16年5月4日付神奈川県新聞より

井土ヶ谷で「近江洋服店」の主人をしていたということなので、この店の所在地を古い地図などで調べていますが、残念ながらまだ見つかっていません(※同じ出典によれば、近江二郎は「井土ヶ谷中町に自宅あり」とあります。なお、日吉良太郎も同じ「井土ヶ谷中町」に住んでいました)。

また、アメリカ巡業の役者の中に「戸田史郎」がいる一方で、アメリカ渡航の際の秩父丸船客名簿の中には「戸田史郎」も「笠川四郎」も記載がありません。ただ横浜から乗船した三等船客の中に「近江資郎(?)」という名前があるので、これが戸田史郎と同一人物だと考えていいでしょう。

1930(昭和5)年10月31日付邦字新聞「日米」より

近江二郎の本名は「笠川次郎」ですから、昭和16年の新聞記事で戸田史郎の本名を「笠川四郎」としているのは合理的な気がします。もしかしたら戸田史郎とは別の芸名として「近江資郎」を使っていたのかもしれません。

近江二郎の妻は、同じ一座で女優をしていた深山百合子(本名は笠川ヒデ)で、娘は衣川素子。それぞれ戸田史郎の義姉、姪にあたるわけです。

また、以前に近江二郎がアメリカで違法な狩猟をして捕まったという話を投稿しましたが、その新聞記事の中には、令弟「近江藤吾」という人が語っている話が出てくるほか、渡航前の邦字新聞には

「ボーク街で洋服クリーニング業を営む近江兄弟は近江二郎丈の肉親の兄弟に当る」

の記述もあり、近江二郎自身、渡米直後のインタビューで

「兄弟が二人も永年お世話になっている在留邦人の方々へお礼心で一生懸命にやる」

と述べていることからも、渡米以前からアメリカに住んで仕事をしていた兄弟がいたこともわかります。

なお、ここで書かれている「兄弟」と同一人物かどうかは不明ですが、近江二郎が帰国した後の邦字新聞には慰問演芸会のような催しの出演者の中に「近江兄弟」(近江雪夫と近江文衛)の名前が出てきます。芝居や落語をやっていますから、近江二郎の兄弟と考えてもおかしくはありませんね。

(もっとも、兄弟がみな「近江」姓を名乗っているので、いくつかの資料で近江二郎の本名としている「笠川」姓は何なのだろう、という疑問も浮かびます)


ところで、近江一座に関して僕が調べた中で一番古い記録は、「浜松市史」に掲載されている、1917(大正6)年、浜松歌舞伎座での上演記録です。

また、一番新しいものは1959(昭和34)年秋、福井県武生市(現在は越前市)で行われた「たけふ菊人形」での公演記録です。

近江二郎は1892(明治25)年生まれですから、この時は67歳くらいでしょうか。戸田史郎がいつまで役者を続けていたのかははっきりしませんが、少なくとも兄の近江二郎は還暦を過ぎても舞台に立っていたようです。

戦後もずっと井土ヶ谷の自宅から旅公演に出ていたのかどうか、そのあたりもまだ調べが及んでいません。ですが、少なくとも戦後しばらくは、近江二郎やその関係者が井土ヶ谷や弘明寺あたりに住んでいたものと思われますから、地域文化・地域史を考える上でも、事実関係を洗い直してみる必要がありそうです。


そんなこんなで、今回は近江二郎の実弟、戸田史郎についてまとめてみました。



→つづく


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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合わせフォームからぜひお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(53) 杉田劇場の開場時期など

さて、またぞろ間が空いてしまいました。

本業の繁忙期で調査も遅れがちです(スミマセン)。

というわけで、近江二郎のアメリカでの活躍については、次項にするとして、最近わかったことを2つばかり。


まずは、イマイチはっきりしていなかった(旧)杉田劇場の開場時期についてです。

かねてから何度も引用している片山茂さんの証言によれば、杉田劇場は昭和21年1月1日に開場したことになっていますが、新聞記事や広告には1月1日開場の情報が皆無で、裏付けが難しいところでした。

ですが、翌昭和22年1月1日の新聞にこんな広告が掲載されていたのです。

昭和22年1月1日付神奈川新聞より

「一週年記念興行」というのがなんとも曖昧なところですが、素直に受け取ればやはり前年の元日に開場したということでしょう。「はっきり」とまでは言えませんが、杉田劇場の昭和21年1月1日開場を裏付ける証拠(?)のひとつにはなりそうです。

記念興行ですから、本来ならば専属劇団が担うはずです。しかしその座長の大高よし男は3ヶ月前に事故で亡くなっています。そう考えると、しみじみ、大高が生きていれば、杉田劇場の命運も変わっていたかもしれない、と思わざるを得ません。

それにしても、この広告にあるように、元日から公演というのも、朝10時開場というのも、地域の劇場の大半が公立文化施設になっている現状からすると、ちょっと驚くような気がします。ですが、そもそもを考えれば、演劇や音楽は「ハレ」の日に披露されるもので、劇団側からすれば年末年始は書き入れ時といってもいいのでしょう。元日の朝から芝居をやっている方が自然な気がするのは、僕がちょっと古い人間だからでしょうか。

10時に開場した興行の、終演はだいたい夜の9時か10時だったようで、これを連日上演するのですから、バイトなどする暇もありません。この規模の劇団でも「役者」は立派な「職業」であったというのもよくわかります。


さて、もうひとつの情報は、近江二郎に関するもの。

近江二郎はアメリカ西海岸とハワイでほぼ8ヶ月にわたる興行を打ち、7月6日の「プレジデント・マッキンレー」号で横浜に帰ってきます。

翌7日付の横浜貿易新報には、近江二郎が同社を訪れて帰朝報告をしている記事がありました(近江二郎はたびたび「近江次郎」と誤記されます)。

昭和6年7月7日付横浜貿易新報より

昭和6年7月7日付横浜貿易新報より
同社を訪れた近江二郎の写真

また8月のハワイの邦字新聞には近江二郎からの礼状が転載されています。

その記事の末尾には「横濱市中區井土ヶ谷町 近江二郎拝」とあることから、この時期にはすでに近江二郎の家は井土ヶ谷にあっただろうことが推測されます。大正時代に喜楽座(現在の日活会館のあるところ)に出演していた頃も、「井土ヶ谷か、弘明寺の方から」馬に乗って劇場入りしていたそうですから、全国各地で興行していた近江二郎は、関東での拠点としてかなり早い時期から横浜に住んでいたのかもしれません(名古屋や大阪にも家があったのだと思われます)。

以前にも書いたように、近江二郎の弟である戸田史郎もまた、井土ヶ谷で「近江洋服店」という店を経営していたようで、女剣劇の大江美智子、日吉劇の日吉良太郎も含め、井土ヶ谷にはかなり多くの役者がいたわけですね。

弘明寺の取材も追加調査が必須ですが、井土ヶ谷も現地調査した方がよさそうです。


→つづく


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(52) アメリカの近江二郎

さて、少し間が空きましたが、ふたたび近江二郎のこと。

近江二郎一座は、昭和5年10月17日、横浜港から客船「秩父丸」でアメリカ巡業に出発します。秩父丸は日本郵船が所有していた豪華客船で、「太平洋の女王」と呼ばれていたそうです。就航は昭和5年4月4日、一座が渡米する半年ほど前のことです。

その秩父丸は12日と9時間14分で太平洋を横断するという新記録を樹立した、いわば当時の最新鋭の客船だったと言えます。そんな船で近江二郎とその一座はアメリカへ渡ったのです。

現地の邦字新聞によると近江一座を乗せた秩父丸がサンフランシスコに入港したのは10月30日ですから、要した日数は14日。新記録とまでは行かないまでも、順調な航海だったことが想像されます。


近江一座は現地で大歓迎を受けたようで、邦字新聞には一座についてのさまざまな記事が掲載されています(いま、その精査をしているところで、あらためて報告します)。

記事の中で興味深いのは秩父丸が入港した際の乗客一覧。その中に「笠川次郎 同ヒデ」という名前が見られるのです。笠川次郎は近江二郎の本名ですから、これが近江を示していることは明らかで、「同ヒデ」とあるのは、近江の妻である深山百合子を指しているはずです。つまり彼女の本名が「笠川ヒデ」だということがここからわかるわけです(地域史などの情報提供者に「笠川ヒデ」の名前があったらすごい!)。

この二人の名前は「二等」の欄にありますから、座長夫婦は二等船室で渡米したこともわかります。

その他の座員が何等に乗っていたのかは、彼らの本名がはっきりしないので、一覧との対比ができず不明ですが、アメリカ巡業の参加した座員の中に名前のある「戸田史郎」が近江の実弟で、本名「笠川四郎」というのはわかっていますから、彼については突き合わせが可能です。しかし、新聞の船客一覧の中に「笠川四郎」の名前は見当りません。ただ、三等船客の中に「近江資郎」という名前があるので、これが戸田史郎なのかもしれませんが、正確なところは不明です。調査を続けます。

この一覧でさらに興味深いのは「笠川次郎 同ヒデ」の後に「(名古屋)」と書かれている点です。この都市名はおそらく旅券に記された本籍地か住所地を示していると思われるので、この頃の近江二郎は名古屋に本拠地を構えていたのかもしれません。事実、『近代歌舞伎年表 名古屋篇』を調べてみると、この時期の近江一座は名古屋(宝生座や帝国座)で定期的に興行を続けていたことがわかります。

(近江二郎の居住地については、大阪、名古屋、横浜とさまざまな情報があるので、これもさらに詰めていくべき対象です)


さて、新聞に掲載されている一座の公演スケジュールによれば、近江は渡米早々、11月1日にサンフランシスコで公演をスタートさせ、ほとんど休むことなく1月1日までカリフォルニア州内の各地を巡業しています。日程だけをみても、いまの感覚でいう「海外公演」というより「海外巡業」という方がふさわしいくらいのタイトなスケジュールです。のちには公演地をハワイに移して、アメリカ巡業がこのまま翌年の6月末まで続くのですから驚きです。


実はこの巡業、当初はアメリカだけでなく、ヨーロッパとロシアでの巡業も考えていたようで、出発前の日本の新聞には

「イタリーでは是非白虎隊を出してムッソリニー(ママ)に見て貰ふと意気込んでゐる」

ともあります(もっとも、実際にはアメリカ西海岸とハワイの巡業にとどまったようです)。

昭和5年10月2日付読売新聞より

ところで、以前にも書いた筒井徳二郎もそうですが、なぜ当時の大衆演劇(剣劇)の一座がアメリカ公演などできたのか、というのは常に頭をよぎる疑問です。

邦字新聞に掲載された近江のインタビューには

「遠山滿君が劍劇を率ひて渡米し引續き筒井一座が渡米した」

と書かれています。つまり、近江一座がアメリカ巡業を実現できたのは、先行した一座の影響があるとも考えられるわけです。

ここに名前の挙がっている遠山満は、近江や筒井より早く、1928年にアメリカで巡業を実現し、その公演をチャップリンが見て大変気に入ったという逸話が残っています。

チャップリンには高野虎市という日本人秘書がいたことは有名ですが、高野を通じてチャップリンは日本の映画、演劇関係者と多く面会していて、その中に遠山満一座も含まれていたということのようです。(広島県立文書館収蔵文書展『チャップリンの日本人秘書 高野虎市』より)

世界の喜劇王、チャップリンに気に入られたというのは遠山としては相当誇らしかったでしょうし、在米の興行師がチャップリンのお墨付きをもらった剣劇一座には「二匹目のドジョウ」がいると考えてもおかしくありません。

1928年遠山満、1930年春・筒井徳二郎、1930年秋・近江二郎の渡米には、そんな背景があったのかもしれません。


さて、渡米した近江二郎については日本の新聞にも少ないながら記事が残っていて、その中で、一番興味をひかれたのは、近江がハリウッドで「映画を作った」というものです(昭和6年2月18日付読売新聞)。

昭和6年2月18日付読売新聞より

その中で近江二郎は

「今年はハリウッドに腰を据ゑて一大トーキーの撮影準備にかゝることにします。此間私は獨力で白人のエキストラ百人を使つて「光は東方より」といふトーキーの小劍劇映畫を撮影しました」

と述べています。近江が計画していたという「一大トーキー」についてはかなり具体的な話になっていたようで

「キャメラはバード少将と南極探検に行つたパ社のラッカーといふ人、原作は池内萍綠氏、監督は青山雪雄君と南部邦彦君で、こゝへは久しぶりにジョーヂ桑も出演をします」

と記載されています。

バード少将というのはアメリカ海軍の士官であり探検家でもあった人で、記事にある南極探検は1929年11月28日から29日にかけて南極点の上空を飛行したというものだったそうです。

この様子は「With Byrd at the South Pole」というドキュメンタリー映画として公開され、1930年のアカデミー撮影賞を受賞しています(全編がYouTubeにアップされています→こちら)。

その撮影を担当したのがジョゼフ・ラッカーで(この人がアカデミー賞を受賞)、後には関東大震災の撮影もしているようです(記事中の「パ社」とはラッカーが所属していた「パラマウント社」のことでしょう)。

監督の青山雪雄南部邦彦はともにアメリカで活動していた俳優で、最後に名前の出る「ジョーヂ桑」も無声映画の時代にアメリカで活躍していた日本人俳優です。

僕は古い映画のことは詳しくないので、この映画が実際に撮影されたのかどうかはわかりませんし、現存しているのかもわかりません。ただ、実現していれば、当時としては錚々たるメンバーによる企画だったとはいえそうです。

(映画関係のデータベースなど調べてみても、この近江二郎の映画についてはまったく情報が出てきません。わかる人がいたら教えてください)

いずれにしても、近江二郎はアメリカで、舞台興行もさることながら、映画にも手を出すなど、多方面で積極的な活動をしていた様子がうかがえます。


約8ヶ月に及ぶアメリカ・ハワイ巡業を終えた近江一座は、昭和6年7月6日、プレジデント・マッキンレー号で帰国します。翌7日付の読売新聞には一座帰朝の記事があって、その中には

「到る處で非常な人気を博し十万圓許り儲けた」

とあり、さらには

「来年四月又一座を連れて再渡米する契約まで結んで来た」

ともあります。

昭和6年7月7日付読売新聞より

実際に再渡米したのかどうか、調査がまだ進んでいませんが、昭和7年8月には近江一座が浅草で興行している記録があるので、記事の通り4月に再びアメリカに渡ったとしても、8月には帰国しているはずですから、短期間の巡業だったと思われます。


近江一座が渡米した際の一座連名に「大高よし男(高杉彌太郎)」の名前は見られません。座員になっていないか、名前の出ない若手俳優だったのか、どちらなのかもわかりません。

新聞などをあたって、昭和13年あたりまでは調べを進めていますが、大高が近江一座に参加するのは昭和14年以降ではないかというのが、現在のところの見立てです。

いずれにしても、近江一座はアメリカ巡業を成功させた劇団として、これ以降も、新派、剣劇の劇団の中では確固たる位置を確保していたと考えて間違いはなさそうです。

役者を目指す青年(大高よし男)が、所属先として近江一座を選ぶのはそんなに不自然な流れではないと思います。

そんなこんなで、次回からは現地の邦字新聞を参照しつつ、アメリカでの近江一座の活躍ぶりをさらに詳細に書いてみたいと思います。


→つづく


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(49) 近江二郎のこと

ズバリ、キーマンは近江二郎。

大高よし男のことを明らかにするためには、近江二郎とその一座について詳細に調べないといけないというのが現在のところの結論です。


近江二郎のプロフィールについて、新聞・雑誌の記事からわかっていることは次のとおりです。

近江二郎(本名:笠川次郎)
明治25年広島県生まれ
大阪市生野区鶴橋南王町
(『演劇年鑑』昭和18年版より)
 
近江二郎(本名笠川二郎 五十歳)
井土ヶ谷中町に自宅あり。 
川上音二郎の門より出て大正九年横濱に初出演。後に座長と成り現在は籠寅専属。
妻は深山百合子、娘は衣川素子、実弟は戸田史郎
(昭和16年5月4日付神奈川県新聞より)

近江二郎は、大正時代から終戦後、おそらく昭和30年代くらいまで、人気の波はあれど、継続的に舞台で活躍していた人です。

剣劇スターである梅沢昇や金井修、女剣劇の大江美智子や不二洋子、また新派の花柳章太郎や伊志井寛、喜多村緑郎といった人たちに比べれば、一般の知名度は低く、もはや歴史に埋もれた人といってもいいのかもしれませんが、戦時中も休むことなく興行を続け、戦後は杉田劇場や銀星座で長らく興行しているし、当時の新聞、雑誌、書籍はもちろん、戦後に書かれた大衆演劇史などにも、頻繁に名前の出てくる人で、「激動」「激変」の連続だった大正・昭和の芸能界をよく生き残ってきたなぁ、というのが率直な感想です。


近江二郎は「近江次郎」と誤記されることも多く、資料の検索もなかなか難しいところで、上記のようなプロフィール以外の全体像は、まだよく把握できていません。

それでもこれまでわかっている範囲で彼の俳優人生を振り返ってみたいと思います。


彼の演劇人としてのスタートは、大正時代にいずれかの俳優学校に入ったことがきっかけのようです(のちにハワイ興行の際、現地の新聞に載った記事によれば、実家は医者の家系で「親から勘當まで受けて」役者の道に進んだとあります)。

「いずれかの」という曖昧な表現をしたのは、彼を「(大阪)北濱帝國座の川上音次郎(ママ)の川上俳優養成所の出身である」としている資料(武田正憲『諸国女ばなし』1930)と、藤沢浅二郎が私財を投じて作った「東京俳優養成所」の三期生であるとする資料(田中栄三『明治大正新劇史資料』1964、など)があるからです。

ただ、帝国座東京俳優養成所も、1910(明治43)年にできていること、近江二郎の出身が広島であること、さらには川上音二郎が翌1911(明治44)年に亡くなっていることを考え合わせてみると、まずは明治43年に大阪帝国座の養成所に入ったものの、翌年に音二郎が亡くなったため、川上一座の"副将"であった藤沢の主宰する東京俳優養成所に改めて入り直したのではないかと推測されます(三期生なので明治43年入所と考えられます)。

以前にも引用した近江二郎の寄稿(『新派劇の正しい道』)には「恩師川上」の文言もありますから、近江二郎自身の想いとしては芝居の師匠は川上音二郎という意識なのでしょう。入り直したはずの東京俳優養成所も明治44年には解散してしまうので、余計にその想いは強かっただろうと思われます。


さて、上掲の『明治大正新劇史資料』によれば、東京俳優養成所(東京俳優学校)が解散した後、「近江次郎(ママ)は新派の舞台へ出ることになった」とあります。

それを裏付けるように、昭和15年3月に横浜の敷島座に近江二郎一座が登場した時の新聞(横浜貿易新報)には、大正時代、近江二郎が横浜の喜楽座(いまの日活会館のところにあった劇場)に出ていた頃の話が記事になっています。

昭和15年3月2日付横浜貿易新報より

それによると、近江二郎が横浜に初登場したのは、1918(大正7)年だそうで、横浜では大人気だったとあります(同じ新聞でありながら初登場の年号が違うので精査が必要です)。

また、谷崎潤一郎の演劇上演記録には『お艶新助』を「大正九年八月三十一日より十日間」横浜喜楽座でやったという記録があって、新助を近江次郎(二郎)が演じているとありますから、大正中期には近江二郎は新派俳優として、横浜で人気を誇っていたようです。

そんな近江は大正12年2月を境に横浜から姿を消し、その後、大正15年9月に酒井淳之助、遠山満とともに「剣戟大合同」の看板を掲げて喜楽座に再登場したのだそうです。実はこの三座合同公演、同年7月に浅草で大きな話題となった舞台で、これが「剣劇」の始まりとする説もあるようです。

その説に従えば、新派で名を挙げた若手俳優、近江二郎は剣劇の創設者のひとりでもあったわけです。「剣劇」というと言葉が硬い印象ですが、要は「チャンバラ」であり、いまの時代劇につながるジャンルのことでもありますから、ちょっと大袈裟に言うと「近江二郎は時代劇の祖のひとり」なのかもしれません。

少し話が逸れますが、上掲の新聞には、横浜喜楽座で人気を誇っていた頃の近江二郎は、「井土ヶ谷か、弘明寺の方から」「馬に乗つて、悠々と、喜楽座へやつて来」たとあり、その姿は「颯爽として朗らかだつた」とあります。

当時の伊勢佐木町を馬で闊歩することがどんな印象だったのかは分かりませんが、記事を書いた人が「私は、愕いた」と書いているくらいですから、珍しいことだったのかもしれません。スターの風格すら感じさせるところです。

なお、戦時中、近江二郎は井土ヶ谷に住んでいたようですが、もしかしたらこの頃から関東地方の拠点として、井土ヶ谷あたりに居を構えていたのかもしれません。


さて、活躍を続けていた近江二郎は、以前にも書いたように、1930(昭和5)年から約8ヶ月にわたるアメリカ巡業を挙行します。新聞によれば昭和5年10月17日の秩父丸で出立したようです。

昭和5年10月2日付読売新聞より

当時のことですから横浜からの出航だったはずです。俳優としての人気と地位を確立した横浜から、初めての海外公演へ出発する近江二郎の想いはどんなものだったのでしょう。いろいろと妄想が膨らんでしまいます。

というわけで、渡米以降の活躍については、次の項で。


→つづく


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(40) 近江二郎のグロテスク劇場

大高よし男の前名、高杉彌太郎は、僕の調べた範囲では昭和15年3月の横浜敷島座、近江二郎一座の俳優連名の中に初めて登場します。

後年の大高よし男が、だいたいどこかの一座へ「加盟」「加入」、つまり助演的な立場で参加していることから、近江一座へも助演していただけなのだろうと想像していましたが、もしかしたら近江一座に最初から座員としていたのではないかと、最近は考えています。

なので、昭和15年より前の近江二郎一座の公演記録を探すのが近頃の課題です。

これまでにわかっている昭和初期の近江二郎の足跡は、昭和5年にアメリカ(西海岸)とハワイを巡業したことくらいでしたが、演劇博物館(早稲田大学)の演劇情報総合データベース(デジタルアーカイブ)を検索して、昭和7年8月から浅草の公園劇場で興行している記録を見つけたので、『都新聞』で情報を探ってみたところ、次の広告が見つかりました。

昭和7年8月20日付 都新聞より

上記のデータベースにあったものと同じ公演ですが、この頃の近江二郎一座は「グロテスク劇場」と称した興行を展開していたようです。実際、名古屋・大須の劇場街についての聞き書き『大須物語』(大野一英 著/中日新聞本社刊 1979)にも

"演しものは特異というか『グロの弥之助』など。一流の台本は使えなかったにせよ、この一座独自の台本をだれかに書いてもらっておるらしく、小味のあるのをやりましたね"

とあることから、一時期の近江二郎は「グロ」すなわち「グロテスク」が売りだったことが想像されます。

昭和5年の渡米の際には「グロテスク」の文字は見られず、演目も剣劇や新派がメインでしたし、昭和15年に横浜に来た時も同様です。つまり、近江二郎はアメリカ巡業から帰国してから「グロテスク劇場」なる企画を始めたのではないかというのが僕の推測です。


ここで興味深いのは、西洋における「グロテスク演劇」は1910〜1920年代に流行したものだそうで、代表的人物の一人がロシアのメイエルホリドだということ。そして、そのメイエルホリドは近江二郎と同時期にアメリカ・ヨーロッパを巡演した筒井徳二郎の舞台に影響を受けたとされていることです。

グロテスク演劇の隆盛期から数年後が、筒井徳二郎や近江二郎の海外公演の時期なので、若干のズレはありますが、近江二郎が帰国後に「グロテスク劇場」を始めたのだとすると、筒井徳二郎が影響を与えたメイエルホリドの演劇が、今度は近江二郎を通じて日本に逆輸入されていた、とも考えられるわけで、当時の世界演劇と日本の大衆演劇のつながりは、そうそう軽視できないものなんじゃないかと思えてなりません。

事実、表現主義演劇の代表的作家であるゲオルグ・カイザーの『カレーの市民』を日本で初演したのは新国劇だそうで(図録『寄らぱ斬るぞ』/早稲田大学演劇博物館より)、"大衆"演劇と称されながら、むしろ当時の新国劇や剣劇は、僕らが考える以上にかなり先進的で前衛的だったのかもしれないと感じるところです(ただし、メイエルホリドのグロテスクと近江二郎のグロテスクはかなり意味合いの違うもののようです)。

もっとも、『カレーの市民』は大変な不入りだったようですし、前掲の『大須物語』によれば、グロテスクを売りにやっていた近江二郎一座も「やがて閉座」と書かれているので、先進的な取り組みも「興行」の前に頓挫したというのが実態なのかもしれません。


さて、話を大高探しに戻せば、上記、昭和7年8月の新聞広告に掲載された、近江一座の俳優連名には「大高よし男」はもちろん「高杉彌太郎」の名前もありません(近江の妻、深山百合子や実弟、戸田史郎の名前はありますし、後に大高と共演する「宮崎憲時(角兵衛)」と同一人物と思われる「宮崎憲司」の名前もあります)。

そのころの大高が名前も載らない若手俳優だったのかもしれないし、そもそも座員ではなかったのかもしれないし、そのあたりはまったく不明ですが、いずれにしても、この昭和7年から昭和15年までの間のどこかで「高杉彌太郎」の名前が出てくるはずです。

この先の調査はそのあたりがターゲットになりそうです。


→つづく


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(29) 昭和16年の高杉彌太郎を探せ

近江二郎一座に帯同していたと思われる高杉彌太郎(大高よし男)は、昭和16年1月から再び横浜・敷島座に戻ってきます。前回の投稿の通り、劇評の内容からして、3月末まで敷島座の舞台に立っていたのは間違いなさそうです。

実は、その後の動きがよくわからなくなるのですが、新聞によると近江二郎一座は、4月には大阪の聚楽座(5月には名古屋の宝生座)に移るので、高杉も近江一座とともに大阪へ行ったと考えるのが妥当です。

聚楽座というのは市岡というところにあった劇場だそうで、いわゆる大衆演劇の小屋なんでしょうか。道頓堀の大劇場などに比べると少し格下なのかもしれません。ただ、横浜・敷島座や京都・三友劇場、名古屋・黄花園などとならんで、時々、新聞に名前が出るので、おそらく籠寅演芸部の関係する劇場で、主に当時の剣劇や新派の劇団が出演していた小屋なのだと思います(大阪に詳しい方、教えてください)。


そんなわけで、高杉のはっきりした情報は昭和16年3月で途絶え、次に出るのが昭和17年1月の川崎・大勝座での、伏見澄子一座への助演の告知ということになります。さらにその後は敷島座、京都三友劇場と、ずっと伏見澄子一座と一緒に行動することになるので、高杉が近江二郎一座から離れ、伏見澄子一座に移った時期の特定が次の課題です。

伏見澄子一座は昭和13年に敷島座に登場して、6か月のロングランを成し遂げ、浅草に進出するわけですが、その後もほぼ年に一度のペースで横浜に来ています。昭和16年にも、近江一座が横浜を去った後、6月から7月上旬まで敷島座にやってきて、1か月半ほどの興行がありました。しかし、その時には高杉彌太郎は出演していません。

つまり高杉は、その年の3月に近江一座が横浜での興行を打ち上げた段階では、おそらく伏見澄子一座には移っていないし(前述の通り、大阪へ行ったのでしょう)、6月・7月の段階でもまだ伏見澄子とは行動をともにしていないのです。


一方の近江二郎一座は、大阪・聚楽座、名古屋・宝生座の後、たぶんどこか別の地域での巡業を経て(名古屋にずっといたのかもしれないけど)、その年の9月から、当時、大江美智子と人気を二分していた女剣劇「不二洋子一座」に参加して、浅草・松竹座の舞台に立つようになります。その時に高杉がいたのかどうか。その確認が課題解決への次のステップです。

実をいうと、調査の過程で、高杉(大高)は伏見澄子一座と帯同していたに違いないと思い込んでいたため、伏見澄子が浅草の劇場に出ていた時期の「都新聞」(現在の東京新聞)で、伏見一座のキャスト一覧は確認したのですが(高杉の名前はなかった)、不二洋子一座については確認しなかったのです(とほほ)。

なので、近いうちにあらためて調べ直してみたいと思います。そこに高杉がいるかどうかで、近江一座から伏見一座へ移る彼の行動経過が見えてくる気はします(もしいなかったら、近江・伏見以外の一座に関わってたはずですから、それを特定しなければなりません)。


ところで、前の投稿の通り、当時の新聞には横浜に在住の役者のことが、個人情報なんてまったく保護せず、惜しみなく出しながら掲載されてるわけですが、おかげで近江二郎についていろいろわかってきました。

のちに出版される『演劇年鑑』(昭和18年版)にも、近江二郎のプロフィールが掲載されています。そこにある彼の住所は大阪ですが、こちらの新聞によると中区井土ヶ谷町在住ということになっています(当時はまだ南区がないので中区です)。

あくまでも想像ですが、日本全国を旅していた近江は、本拠地を大阪としつつ、横浜や浅草での興行が続くときは井土ヶ谷に住んでいたんじゃないでしょうか。横浜や浅草での仕事が軌道に乗ったことを受けて、井土ヶ谷に家を借りたか買ったか、いずれにしろ、二拠点生活を選択したように想像されるところです(昭和18年あたりの近江一座は大阪・京都と横浜・川崎を行き来していました)。

近江一座にいる「深山百合子」が彼の妻であることは承知していましたが、今回追加でわかったのは、一座のメンバーで、戦後、弘明寺・銀星座の開場記念興行の広告にも名前の出る「戸田史郎」が近江二郎の実弟だということです。

戸田史郎は本名を「笠川四郎」といい(近江二郎の本名は笠川次郎)、やはり井土ヶ谷に住んで、「近江洋服店」という店を経営していたそうです。副業があったわけですね。

当時の新聞の情報は不確かなところもたくさんありますが、少なくとも「近江洋服店」という新しいキーワードが見つかったことで、新たな展開が期待できそうです。近江洋服店が具体的にどこにあったのか、近江洋服店と大高よし男に何か関係があったのか、あるいは戸田史郎のご子息が存命で、大高よし男のことを知ってないだろうか…妄想と好奇心は際限なくふくらみます。

昭和16年5月4日付神奈川新聞より

ちなみに、その頃の近江一座に出ていた「衣川素子」という人は、近江の子で昭和16年当時11歳。近江は50歳で、深山百合子は43歳(彼女については「以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる藝妓なり」との記載もあります)。

個人情報保護が緩かった時代のおかげで、近江二郎の家族のことまで、息遣いを感じられるほどにわかってきたのがありがたいところです。

ともあれ、まずは近江二郎の線から「昭和16年の高杉彌太郎を探せ」のミッションがスタートします。

近江二郎
昭和15年3月2日付横浜貿易新報より)

ついでですが、昭和16年5月7日付の神奈川新聞には「横濱太陽座」の公演についての劇評があります。

この劇団の演出は「梨地四郎」。戦後、劇団「葡萄座」を創設した人ですし、その後は劇団「創芸」を率い、戦後横浜の演劇界に大きな足跡を残した方です。


戦中の記事にこういう名前を見つけると、思わずハッとしますね。


→つづく


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