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(126) ひばりはアテネの舞台に立ったのか・1

大高よし男の足跡がなかなか見つからないので、もはや神頼み(仏頼み)というわけでもないのですが、今年の初詣は、大高の葬儀写真が撮られた弘明寺観音へ行ってきました。


年末に放送されたアド街の影響があるのかないのかはわかりません。山門から商店街にかけて長い行列ができていて、賑やかな雰囲気の中での参詣となりました(予想よりは早く参拝できました)。

弘明寺には、旧杉田劇場に遅れること3ヶ月ほどで開場した銀星座がありました。近江二郎一座が柿落としを担い、大高一座も一度だけ一週間の興行を打ったとされているほか、幼き日の美空ひばりも、自由劇団の幕間という形になるのでしょうか、美空和枝の名前で舞台に立っています。

1947(昭和22)年1月14日付神奈川新聞より

杉田と弘明寺はともに市電の終点であり、京浜急行(当時はいわゆる「大東急」の湘南線)でも3駅しか離れていません(杉田=屏風浦=上大岡=弘明寺)。大きく見れば同じエリアで、賑やかな商店街がある点など、似た街でもあります。

横浜大空襲で中心部は焼け野原となり、戦後は米軍の接収で、劇場はもとより街の再建もままならぬ中、空襲の被害が少なかった郊外の杉田や弘明寺が戦後の娯楽の担い手となったということなのでしょう。

終戦からほどなく、ほぼ同じ時期に

杉田劇場(杉田)
銀星座(弘明寺)
アテネ劇場(磯子)
大見劇場(上大岡)

が相次いで開場しています。横浜国際劇場もマッカーサー劇場もまだない頃の話です。


さて、相変わらず大高の足跡についてはめぼしい進展がないので、今回は年末に提示した今年の重点調査項目から、またぞろ美空ひばりのデビューについての考察です。


ひばりのデビューについてはこれまでも何度か言及してきました。かなり前から定説とされていた「アテネ劇場デビュー説」が誤りで、近年は、昭和21年3月か4月に、杉田劇場の舞台に立ったのが実質的な初舞台である、というのが確定的な説となってきました。

それでもアテネ説が消えることはなく、杉田劇場に出演した後、同年9月にアテネ劇場を3日間借りて昼夜2公演、舞台に立ったという修正型で残されています。

しかし(昨年の「いそご文化資源発掘隊」の講座でも少しお話ししましたが)、ややこしい性格の僕には、9月アテネ説というのがどうにも腑に落ちないのです。そもそも、アテネ説は(今のところ)すべて関係者の証言に基づくもので、芸人とのトラブルになったとされる看板や舞台の写真、新聞広告や記事などは、(おそらく)どこにも提示されていないはずです。

美空ひばりは本当にアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか。


あらためて基本情報を整理してみます。

アテネ劇場は、1946(昭和21)年9月9日、磯子区磯子町に開場した映画館です。開場式典には中村吉右衛門劇団が来演し、舞踊で柿落としをしています。

1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より

昭和5年の火災保険図によれば、もともとこの地にあったのは日用品市場で、アテネ劇場は戦後、その近くで鉄工所を営んでいた長谷巌氏が(市場を買い取って?)映画館に改装したものとされています。

実は、美空ひばりの叔母にあたる西村克子さんが著書の中でこんなことを書いています。

"正子さん(註:杉山正子さん)のご両親は、戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していました"(西村克子『愛燦燦・ひばり神話の真実』徳間書店,1993 より)

この一文を根拠のひとつとして、アテネ劇場の前身は磯子劇場であり、美空ひばりは杉田劇場より先に磯子劇場(のちのアテネ劇場)でデビューしたのだ、という話もあるようです。

しかし、昭和5年から昭和21年という戦争の時代に、市場を改造して劇場にするほどの物的・精神的余裕があったとは思えません。しかも、その頃の新聞をつぶさに調べても「磯子劇場」の開場を知らせる記事や広告を確認することができないのです。

ですから、上掲の西村克子さんの文章は、

「戦前から戦後磯子劇場(アテネ劇場)ができた場所のそばで〜」

と補足して読み解くのが正しいのではないかと思うのです。

さらには、かつてアテネ劇場でよく映画を見たという地元(芦名橋近辺)の年配者に話を聞いても、アテネ劇場のことを「磯子劇場」と呼ぶ人はいませんし、戦前に磯子劇場があったという話も耳にしません。

ただ、以前にも書いたように、アテネ劇場は昭和35年3月に「磯子映画劇場」に改称しており、その頃の明細地図には「映画館 磯子劇場」と明記されているので、昭和30年代後半以降ならば「アテネ劇場=磯子劇場」という認識はあったかもしれません。磯子劇場はアテネ劇場の前身ではなく、後身にあたるわけです。

1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より

上掲の事実から、アテネ劇場は戦前からあった日用品市場を改装して、昭和21年9月に開場した映画館で、美空ひばりのアテネ劇場デビュー説は、同年4月に杉田劇場の舞台に立った証拠(ポスターや新聞広告)がある以上、完全な誤りであると再確認していいと思います。


ですが、それでも依然、本当にひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのか、という疑問は残ります。


生前に出版された美空ひばりの自伝は2つあって、最初の『虹の唄』(講談社,1957)にはこうあります。

"こうして楽団が出来てみると、私はもちろん両親もどこか人さまの見ているところで公演がしたくなりました。そこで横浜磯子町のアテネ劇場を借りることになったのです。この劇場はいまは映画館ですが、当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。 ここで、私は初めて“舞台”というものに出たわけで、九つの時のこと"

なお、昭和24年度版の『全国映画館名簿』によると、アテネ劇場の座席数は324となっており、「客席二百ぐらい」とは誤差があります(この数については後編で検証します)。


もうひとつの『ひばり自伝 わたしと影』(草思社,1971)には

"昭和二十一年九月。
忘れられない月です。
この時、わたしは、同じ磯子の町にある、小さな小屋、アテネ劇場の舞台に
立ったのでした。
劇場というものに出たのは、これがはじめてです"

と記されています。

これらを根拠にしているのでしょう。公式のプロフィールなどにもある通り、昭和21年9月にアテネ劇場を3日間借りて舞台に立ったというのが、デビューをめぐる「定説」となってきたわけです。

当時はまだ新聞に三行広告(と言っていいのでしょうか)の映画情報欄がなかったので、アテネ劇場の興行の状況は劇場サイドが出稿する広告しか手がかりがありません。

ですが、その数は杉田劇場や銀星座に比べて少なく、実態を知るのはなかなか困難です。それでもその情報からアテネ劇場の興行を確認してみると

1946年
9月9日 開場式(映画興行は翌日から)
9月10日〜16日 『麗人(監督:渡辺邦男、出演:藤田進、原節子ほか/1946 東宝)
9月17日〜23日 不明
9月24日〜30日 『韋駄天街道(監督:萩原遼、出演:長谷川一夫、榎本健一ほか/1944 東宝)
※10月1日〜 『舞踏会の手帖(監督:J・デュヴィヴィエ、出演:マリー・ベルほか/1937 フランス) 

ひばりが舞台に立ったとされる9月は上記のようになります。17日から23日が不明ですが、10月1日よりフランス映画を上映していることからすると、邦画・洋画の交互上映が推測され、この期間は何らかの洋画を上映していたとも考えられます。

ただ、現状では不明な時期なので、もし仮に劇場を昼夜2公演、3日間借りるとしたら、9月17日から23日の間だろうとは推測できます。

しかし、考えてみると、これは映画館の開場から2週目です。磯子町の人々にとっては、近くに映画館ができたわけですから、開場を心待ちにしていただろうし、集客も順調だったと思われます。開場したばかりの2週目に3日間も劇場を貸し出すというのは、経営的に考えて、あり得ないのではないかというのが僕の感想です。

もっとも、長谷巌氏は鉄工所の経営者ですから、映画興行については素人で、そんな経営をしていたのだと言われればそれまでです(さらに検証を深めたいと思います)。

わずかな可能性があるとしたら、翌月のアテネ劇場の広告にある

「平日正午、日祭十時、夜は七時より」

という文言が根拠になるかもしれません。

1946(昭和21)年10月22日付讀賣新聞より

この言葉からは、当初のアテネ劇場は、現在のように、ひとつの映画を短いインターバルで連続上映するのではなく、昼夜の間に長い空き時間があったようにも見えるのです。

さらに、劇場の開場を予告する広告には

「明るいスクリーン 素的なアトラクションに御期待下さい」

の惹句が記されていることから、映画だけでなく、合間に実演を見せるのが基本の興行形態だったとも考えられます。

仮にアテネ劇場がそういうタイプの映画館だったとすると、9月の3日間をひばりと楽団に貸与するというのも、あり得ない話ではないように思えてきます。

とはいえ、いずれも確証がないのが現状で、この話もまた五里霧中になりそう、そんな気配をうっすら感じつつの年初です。

本当に美空ひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか(後編につづく)


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(113) 銀星座のこと

このブログでもたびたび引用していますが、横浜の演劇史を調べる上で、基本的な資料のひとつになるのが小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年 ヨコハマ芸能外伝』です。

小柴さんはもともと神奈川県の職員で、県史編集室などで勤務されていた方ですから、県立図書館に収蔵されていた新聞の記事などから横浜の演劇史を調べていたのだと思います。長らく山手ゲーテ座で開催していた「横浜山手へフト祭」では、毎年、ゲーテ座にまつわるさまざまな講演をされていました。

この本の中には当然、杉田劇場や弘明寺の銀星座についての言及もあります。

杉田劇場の項には

「この大高一座が出ていた時、幕あいつなぎに、美空ひばりが美空一枝と名乗り、歌謡曲と踊りでこの舞台を踏んでいる。二十一年三月のことで、美空ひばりは八歳だった。初舞台である」

とも記載されています。

それまで美空ひばりのデビューは磯子のアテネ劇場とされていたのを、杉田の方が先だという説を新聞紙上などで積極的に発言したのが小柴さんで、後年、2005年にもこんな文章を神奈川新聞に寄稿しています。

新しい資料や証言が出てくれば、事実関係は修正されるものですから、上掲の引用でもひばりのデビューは「二十一年三月」(1946年3月)から「四十六年四月」へと変わっていますが、アテネではなく杉田でデビューという大筋に変わりはありません。

その正確な時期について、以前も書いたように(→こちら)、歌舞伎役者の澤村鐡之助の発言もあるので、3月か4月かははっきりしないところではありますが、個人的には美空ひばりは昭和21年4月から6月までの3ヶ月間、杉田劇場の舞台に立ち、大高一座だけではなく、市川門三郎一座の幕間にも出演していたと考えています。


さて、回り道が長くなりましたが、今回はひばりのデビューではなく、弘明寺にあった銀星座についてのお話です。銀星座や自由劇団のことは前にも何度か書いていますが、改めて。

小柴さんの本には、銀星座のオーナーの名前(杉山清)や、その人が戦前は役者をやっていたことなどが、事細かに書かれていて、その調査力に驚かされたものですが、先日、昭和24年の新聞記事に小柴さんの記述とほぼ同じ内容のものを見つけて、なるほど元ネタがここにあったのか、とようやく腑に落ちたところです。


見つけた記事は1949(昭和24)年7月4日付の神奈川新聞。「横浜劇場回り」と題する連載の2回目として「銀星座」が取り上げられているものです。

1949(昭和24)年7月4日付神奈川新聞より

余談ですが、連載の初回は6月27日で、取り上げられているのは、これまたこのブログで何度か言及している高根町の「横浜オペラ館」です。

劇場紹介というより新劇の「文化座」が来演した際の劇評が主な内容です。この時期、オペラ館では芝居とショウ(ストリップショーのようなものか?)を二本立て(?)で上演するのが一般的で、文化座の時も同じスタイルだったというのですから、今の感覚からするとかなり驚かされます。

1949(昭和24)年6月15日付神奈川新聞より

この連載はどうやら2回で終わってしまったようで、残念ながら杉田劇場をはじめ、このほかの劇場への取材記事は見つかっていません。


さて、それはさておき、当の銀星座。

小柴さんの本には

「地下鉄弘明寺駅を上がって弘明寺商店街を通り、瑞応山弘明寺へ向かうと橋にかかる。名を観音橋という。その橋を渡った右側にパチンコ弘明寺会館がある(註:いまはない)。ここが昭和二十一(一九四六)年、杉山清が建てた銀星座(定員二五〇人)といった実演劇場の跡である。杉山はかつて北村清峰という芸名を持った俳優で、太平洋戦争中は芸術報国と銘打って朝鮮・中国を巡業したこともあった」

と書かれています。

一方、上掲、昭和24年7月4日の新聞記事には

「こゝは二十一年の五月(註:実際は3月)現在の座主杉山清氏が自力によつてたてたもの」

とあり

「面白いのは座主杉山氏もかつては北村清峰という名をもつたれつきとした役者出身、藝術報国と銘うつて南米、朝鮮、中國を巡業したこともあるという」

とも書かれていて、内容的にほぼ同じもの。小柴さんはこの記事を参照して銀星座のことを書かれたのだと考えられます。


元ネタを読んでみれば、杉山清氏に話を聞いたのはどうやら小柴さんではなさそうだとわかるので、これまでの経験からして、裏づけをとらないと、正確な事実関係がはっきりしないことになります。

北村清峰という役者はどういう人だったのだろう、という疑問がループ再生のように繰り返し頭の中をよぎります。

手始めにインターネットなどを調べてみましたが、同名の役者がまったくヒットしないのも妙に気になるところです。

そうなると、またぞろ僕の悪い癖が出て、いささかうがった見方に傾斜しがちもなります。果たしてここに書かれている杉山清(北村清峰)のエピソードは事実なのでしょうか。

少しだけ検証してみます。

記事には

「横浜近傍の役者をあつめ座つき『自由劇団』をつくつた。同劇団の藤村正夫、安田猛雄は旧横浜歌舞伎座員だつた」

と書かれています。

以前にも書いたように(→こちら)、僕は銀星座の自由劇団は戦前の日吉良太郎一座の残党が中心となってできた劇団で、事実上の日吉劇団の後継団体だと考えています。日吉良太郎も自由劇団の背後で、さまざまな動きを見せていたのではないかとも思っているところです。

そもそもを言えば、戦前は「横浜で芝居といえば日吉劇」と言われるほどの人気で、日吉良太郎の名前は横浜市民に広く知られていたはずなのに、戦後、日吉の名前は新聞紙上にもほぼ出なくなるばかりか、ここでも藤村正夫、安田猛雄を「旧横浜歌舞伎座員」としていて、日吉の名を敢えて書かないという強い意志すら感じるところです。

完全な妄想ですが、杉山清は実は日吉良太郎なんじゃないかとさえ思えてくるのです。

日吉一座が「愛国劇」と銘打って、演劇報国を旗印にしていたことと、北村清峰が「藝術報国」と銘打った巡業をしていたこと、また杉山清の芸名が「北村清峰」で、日吉良太郎の本名が「北村喜七」ということなども、悪癖の妄想に拍車をかけるところです(キヨシとキシチも似ている気がする)。


北村清峰という役者が見つからないほか、銀星座と杉山清を結びつけるのも、上掲の記事のほかは、横浜市と横浜の空襲を記録する会が共同編集した『調査概報』第7集(1997)が、1950(昭和25)年5月の『月刊よこはま』を引用した一文くらいしか見つかりません(『月刊よこはま』が神奈川新聞の記事を引用している可能性は高いので、事実確認の根拠にはしづらいし、小柴さんが銀星座の定員を250人としているのは逆にこれが典拠なのかもしれません)。

もっとも、小柴俊雄さんは日吉劇の調査研究の第一人者でもありますから、その小柴さんが言及していないことからしても、やはり杉山清が日吉良太郎の偽名であるというのは、ちょっと妄想が過ぎるのでしょうね。

とはいえ、肝心なのは裏づけですから、もう少ししっかりと調査を重ねていきたいと思います(杉山清、北村清峰についてご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください)。


さて、新聞記事には小柴さんが引用されている内容のほかにも、銀星座について興味深いことが書かれています。曰く

「同座は自由劇団が定うちだが労基法などで月二回は休暇をとる必要があるのでこの日には浪曲とか漫才をかけている」

「団員は三十名、座方が四名。文藝部は小林重四郎一座にいた落合正義が一人週三本、月十五、六本をかきなぐつている」

「入りは七分、五人掛け木椅子(?)四十が全部埋つている上に、右手の『枡』(おゝ何となつかしいことよ)もほとんどふさがつている」

「二十年前の場末劇場の雰囲気満点だ。客は若い女が五、年寄り男女が四、あとの一が子供とアンちゃん連中で役者は自由活達な演技とセリフを喋り、観客の気持を完全につかみとつている」

「月二、三十円の手取りで活躍している団員連中に記者も激励の拍手をおくりたかつた」

などなど。銀星座や自由劇団の実像が垣間見られるようで、とても面白い内容です。

以前にも紹介しましたが、横浜市立図書館 デジタルアーカイブ(都市横浜の記憶)に銀星座の緞帳写真が掲載されています(→こちら)。これまで気づきませんでしたが、引用した記事の「右手に『枡』」というのは、写真の右隅に見える欄干のようなもので区切られた席なのかもしれません。

杉田劇場と銀星座は似たような劇場だと思っていましたが、「バラック」と評される杉田に比べると、銀星座の方がもう少し劇場らしい小屋だったような印象も受けます。


そんな杉田劇場と銀星座の違いは、やはり座付き(専属)劇団の存在です。大高よし男の死によって一座が立ちいかなくなってしまったことが、杉田劇場の閉場を早めたことは間違いないでしょう。大高が生きていたら、杉田の命運もかなり違ったものになっただろうし、銀星座との交流や切磋琢磨がこの地域の演劇文化をもっと活発なものにしたはずだと思います。


戦後の調査については、ようやく昭和24年末まで終わったところです。この頃になると杉田劇場の広告はお正月の初春興行など特別なものを除けば、新聞にほとんど載らなくなります。

一方の銀星座は継続的に広告が載りますが、自由劇団のロングランを続けつつも、昭和25年夏には専属というスタイルを終えることとなります。その後は市川門三郎などが登場することから、杉田劇場が事実上の閉場となった後の受け皿としての銀星座があったのだということも感じ取られるところです。

結局のところ、昭和24年から25年にかけてが、杉田劇場・銀星座の分岐点という印象です。

大衆演劇のスタイルが変化してきた時期なのかもしれませんし、演劇的娯楽の方向が実演から映画にはっきりとシフトしたのもこの時期なのでしょう。1950年代になると磯子区内でも、丸山町に根岸シネマ(1954)・映画座(1952)、杉田町に東洋劇場(1950)・杉田東映(1957)など、映画館が続々とオープンします。

そうした社会の変化が、杉田劇場や銀星座の斜陽の原因になったのかもしれません。

この先もさらに調査を続けていきます。


そんなこんなで、今回は弘明寺の銀星座について再考してみました。





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(94) 元映画スター・中野かほる

昭和21年10月22日に杉田劇場で行われた大高よし男の追善興行には「元映画スター」の中野かほるが出ています。

また、弘明寺で撮られた大高の葬儀写真の中に、ひとりだけちょっとオーラの違う人がいます。この人が中野かほるじゃないかと推測していましたが、戦後の画像・映像を確認してみると、やはり中央に写っているこの人物は「中野かほる」と断定してよさそうです。

大高よし男葬儀写真(弘明寺):赤丸が気になる女性

赤丸部分を拡大したもの

キネマ旬報の『日本映画俳優全集・女優編』によれば、中野かほるは1912(明治45)年4月9日、神戸生まれ。神戸第一高等女学校を卒業し、中華料理店の会計係をしているうちに1932年5月、東活(東活映画社)にスカウトされ、『丸の内お洒落模様』でデビュー。近代的美人女優として注目を集めたとのことです。イマドキの感覚で言えばアイドルみたいな存在だったのでしょう。


さて、その中野かほると大高よし男の接点は、いままでわかっている範囲では以下の3つです。

・昭和17年6月〜7月 
 川崎大勝座・名古屋歌舞伎座 海江田譲二一座(8協団)
・昭和18年3月 
 浅草金龍館 三座合同公演(伏見澄子・和田君示・中野かほる一座)
・昭和21年10月 
 杉田劇場・大高よし男追善興行

大高の生前に限れば、わかっているのは上の2回の共演だけです。


そんな中野かほるがなぜ大高の追善興行に出演し、葬儀にまで参列していたのか。

上掲の『日本映画俳優全集・女優編』には「(19)41年1月、大都が大映に吸収されたさい退社。この間、元・映画通信記者の泉雅夫と結婚。戦後の54年、東映に入り(中略)映画に復帰」とあります。

これが正しければ、大高よし男の追善興行に出た昭和21(1946)年10月22日は、中野かほるが映画界から離れていた時期ということになります。新聞広告の肩書きに「元映画スター」とあるのはそういう事情なのでしょう。


上述のように、中野かほるは昭和16年以降、映画界からは離れ、主に舞台で活躍していたようですが、これは中野かほるに限ったことではありません。戦争が激しくなるにつれてフィルム不足などから、映画を撮ることが難しくなり、映画スターが実演に移行した例は少なくないのです(上掲昭和17年の「8協団」などはまさにその好例です)。

時系列的には、中野かほるが映画から実演に軸足を移した頃に、大高と共演したということになります。

中野かほるの舞台での活躍は、調べた範囲では昭和18年の夏前くらいまでは記録が残っています(川崎大勝座)。その後はまだ精査できていませんが、戦争の悪化とともに活動を縮小せざるを得ない事情があったのかもしれません。


そんな中野かほるですから、大高よし男の追善興行に来演したのは、華を添えるべくプロデューサーの鈴村義二なりオーナーの高田菊弥なりが招聘したというのが一番ありそうな可能性ですが、葬儀にも参列していることからすると、ただ呼ばれて舞台に立ったというよりは、大高への追悼の思いがどこかにあったと考えてもおかしくありません。中野かほるの方から出演を申し出た可能性すらあります。

舞台公演の際に、映画スターだった中野かほるが、舞台での振る舞いやしきたりについて、大高よし男から助言を受けていたりした可能性もあります。そんな恩義が中野かほるを葬儀に参列させる動機だったとも考えられます(ちょっと妄想多めです)。


追善興行では「かんざし(簪)」が演目になっています。これは昭和17年・18年の舞台でも上演された演目で、大高との思い出と同時に、中野かほるの十八番というべき作品だったのかもしれません。

1946(昭和21)年10月22日付神奈川新聞より

『近代歌舞伎年表 名古屋編』第17巻より


再度『日本映画俳優全集・女優編』を参照すると、中野かほるは「(19)62年の「三百六十五夜」を最後に引退した。数年前に死去を伝えられたが、没年は不詳」とあります。『全集』はキネマ旬報増刊 1980年12月31日号ですから、これもこの記述が正しいとすると1970年代の後半に亡くなったと思われます。

「国会図書館デジタルコレクション」で検索してみると、中野かほるの経歴のうち、自宅で閲覧できる(送信サービスで閲覧可能)範囲内では、『出演者名簿 昭和49年度版』(著作権資料協会刊)が一番新しいもので、館内限定公開の同書「昭和50年版」にも、また『タレント名簿録 : 芸能手帳 1976年度版』(連合通信社編/音楽専科社刊)にも記録があり、それ以降は名簿記載が見当たらなくなることから、1975(昭和50)年頃に亡くなったと考えられそうです(新聞などを確認してみます)。


上掲『出演者名簿』の記録では「大1.4.9生」(掲載年によっては「明45.4.9」:こちらが正しい)となっているので、同姓同名の別人という可能性は低そうです。この頃の所属は「俳協」でその後「放芸協」所属となります。映画からは1962(昭和37)年に引退していますが、その後も舞台やテレビ・ラジオなどには出ていたのかもしれません。

※同名簿の昭和36年版には掲載がなく、昭和38年版では所属が「俳協内」、昭和43年版では「俳協」となっています。昭和37年に映画界から引退、その後、俳協に所属してテレビやラジオで活動していたと考えるのが一番ありそうな可能性です。


ところで、大高一座(暁第一劇団)は当初、巡業先の長野から帰ってすぐ、10月4日初日で10月興行をスタートさせる予定でした。

1946(昭和21)年10月1日付神奈川新聞より

一座の演目は四日替りでしたから、順当に行けば

4日〜7日 御目見得
8日〜11日 二の替り
12日〜15日 三の替り
16日〜19日 四の替り

と続いたはずです。

しかし実際は座長亡き後、公演を続けるのは難しかったようで、10月5日からは急拵えにも見える歌舞伎・映画スター・邦楽団の合同公演が始まります(映画スターの中には黒田記代の名前が見えます)。

1946(昭和21)年10月6日付神奈川新聞より

これもやはり4日間で(8日まで)、9日からは「劇団新進座」との合同公演という形で、暁第一劇団が興行を始めます(おそらく12日まで)。演目や座組からは、なんとなくバタついている様子もうかがえますが、広告には大高の死を知らせる言葉や、追善興行の記載はありません。

1946(昭和21)年10月8日付神奈川新聞より

四日替りのスケジュールを考えると、その後、13日から16日までも公演があったのではないかと推測されます。そこに「追善興行」の冠が付いていた可能性はありますが、記録がないのではっきりしません。

そして記録のある「17日〜20日」の追善興行になるわけです。

1946(昭和21)年10月15日付神奈川新聞より

これに続くのが中野かほる出演の追善興行(10月22日)ですが、彼女の出演は一日のみだったと思われます。というのも10月23日には読売新聞主催の「在外同胞引揚援護金募集 東京大歌舞伎」(座長沢村宗十郎)が開催されているからです。

ただ、月末、10月30日の暁第一劇団の公演では、追善興行と同じ演目である「蛇姫様」が上演されているので、このあたりまで中野かほるが出演していた可能性はあります。ですが、いまのところ確証はありません。

中野かほるが出演したのは、17日〜20日の追善興行の後、1日空けての22日ですから、彼女が写真に写っていることも考えると、21日に葬儀を行なったのではないかと推測しているところです。なんとかそれを確定したいところですが、弘明寺にも記録はなさそうで、手がかりがないのが現状です。


と、そんなこんなで、今回は中野かほるについてわかってきたことを書いてみましたが、大高よし男との関係にはまだまだ謎が多く、わからないことばかりです。中野かほるを追っていけば何かわかるのかもしれません。調査は続きます。



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(89) 旧杉田劇場の幕について

今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕について。

現存する旧杉田劇場の写真の中で、おそらくもっとも情報量の多いのが、昭和23年に寄贈されたという引幕の写真です(現杉田劇場のウェブサイトやブログには「緞帳」と書かれていますが、実際は引幕が正しいと思います)。

旧杉田劇場引幕(杉田劇場所蔵)

この幕の絵は、地元・浜中学校の美術教師だった間邊典夫氏が描いたもので、梅とウミネコがモチーフになっているそうです。

写真をよく見ると、この引幕の上部にたくし上げたもうひとつの幕が見えるので、開場当初からあった幕と、この時寄贈された幕の2枚があって、双方を交互に使っていたのかもしれません。いずれにしても幕の材質、舞台のタッパや機構からして、昇降式の緞帳ではなく、引幕だろうとは思います。

ちなみに、弘明寺銀星座の引幕は横浜市図書館のデジタルアーカイブで閲覧することができます(こちらも「緞帳」となっていますが、やはり「引幕」が正しいと思います)。


さて、旧杉田劇場の幕にはさまざまな店舗名や個人名が記載されています。不明なものも多くて、すべてが判明したわけではないのですが、古い資料などを調べた結果、だいぶわかってきたので、詳細も含めここに書いておきます。


(舞台上手(向かって右側)から)


昭和木工所

詳しいことはわかりませんが、昭和27年の『全国工場通覧』など、いくつかの資料に同名の工場があります。南区睦町ですから、市電を使えば杉田へは乗り換えなし、車でも国道16号を使えば簡単に来られる距離ですので、この工場である可能性は高い気がします。

とはいえ、木工所がなぜ広告を出しているのかは不明です。もしかしたら劇場の椅子(長椅子=木製)を作った工場なのかもしれません。


1947(昭和22)年5月14日付神奈川新聞より


カワイボクシングクラブ

これは有名なボクシングジムで、1931年横浜山田町に設立。戦後、曙町に移転したそうです。杉田劇場元スタッフのTさんによれば、美空ひばりの父、増吉さんがここでボクシングを習っていたとの話もあるらしく、その関係で広告を出したのかもしれないとのこと。

現在は神奈川渥美ボクシングジムとして、その系譜がつながっているそうです。

横浜市中区曙町2-5 代表:河合鉄也


杉田公設市場際 平野歯科医院

平野歯科は現在も同じ場所にある歯科医院です。サイトをみたら1940年開院だそう。

平野歯科(2022.3撮影)

天ぷらの店 杉田町 伊藤政治

これは杉田にある「政寿司」の店主で、店は現在も同じ場所で営業を続けています。

中原に残る「政寿司」の古い電柱看板


茂呂真吉

この方についてはまったくわかりません。どなたか情報をお持ちでしたら教えてください。


土木建築 泉建設株式会社 長者町(3)三一五三

この会社についてもまったく不明です。


中華料理 森町  糸勝楼

これは白旗商店街にあった飲食店で、昭和30年代の明細地図には「氷のみもの 糸勝」と記載されています。後述の「川崎青果」でお話をうかがった際に、「糸勝」という店があったと確認できました。

『横浜市商工名鑑』(昭和35年)より

御下宿  丸山町広地7 豊石荘 長者町(3)一六八九

この下宿(アパート)については、住所も電話番号もわかっているのに、詳細は不明です。


安心して頼める店 杉田新道 野村電氣商会

この店は私の記憶にもある街の電器店で、杉田商店街の中にありました。いまはもうありません。


杉田聖天橋際 代々木屋呉服店 長者町(3)〇九〇七

この呉服店も杉田商店街の中にありました。ドラッグストア「ハック」の隣。現在は「おかしのまちおか」になっていますが、よく見ると外観に呉服店の風情が残っています。以前は国道16号線沿いにあったそうで、だからこの幕の表記が「杉田聖天橋際」となっているのだと思います。

1947(昭和22)年1月19日付神奈川新聞より


横浜桜木駅前 日晴樓 長者町(3)四一七〇

これはもともと伊勢佐木町にあった飲食店で、その当時は「日清楼」、戦後、桜木町に移転して「日晴楼」に改名したそうです(「横浜市商工名鑑・昭和35年版」によれば中区花咲町1-47)。

戦前の伊勢佐木町の写真(絵葉書)などにも写っている店で、サイト「横浜古壁ウォッチング」の「震災後・戦前期の伊勢佐木町」のページ下段、「その3 長者町×伊勢佐木町交差点」の写真、右側の電信柱のカゲに「日清楼」の看板が見えます。

戦後、桜木町に移転した際の新聞広告もあり、ここに描かれたイラストと同じものが杉田劇場の幕、「日晴楼」の店名上部にも描かれています。

1947(昭和22)年1月5日付神奈川新聞より

杉田劇場の元スタッフ、Tさんによれば、ここの店主が芝居好きで、よく杉田劇場に通っていたそうです。そんな関係もあって広告を出したのでしょう。


志村高明

幕の中央に、ほかよりも目立つ形で出ている個人名ですから、かなり気になる人です。この人は磯子区役所が出した『浜・海・道』に栗木町でカーネーションを栽培していた人として写真も載っていますが、土建業としても記録されている人で、昭和22年には市議選に立候補するなど、なかなかの野心家だったようです。いま風にいうと起業家という感じでしょうか(ちなみに選挙結果は落選)。

1947(昭和22)年4月11日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログにこの人について詳しく調べた記載があります→こちら


横濱市設 杉田公設市場

これは杉田のバス通り「中原本道」沿いにあった公設市場です。私もよく覚えています。いまはなく、跡地の手前側はつい先日まで駐車場でしたが、何かの工事が始まっているので、また何か別のものになるのかもしれません。

杉田公設市場跡地(2022.3撮影)


うまいのである 石川の牛豚肉

これは杉田商店街にある「肉の石川」です。現在も営業していて、メンチカツなどお惣菜も豊富な人気店です。

肉の石川(2022.3撮影)


杉田新道 満るや 深野金物店

これも杉田商店街で営業を続けている「深野力蔵商店」です。「満るや」というのが屋号で、杉田劇場の隣にあった「吐月館」(丸屋)という旅館は、ご親族が経営していたようです。

吐月館についても杉田劇場のブログに記載があります→こちら


神浴専務理事長 江尻良蔵

この先はどういうわけか銭湯の関係者が多く登場します。
江尻良蔵は根岸にあった「江陽館」という銭湯の経営者だそうで、現在はありませんが、江陽館の二号店(?)で、磯子区中浜町にある「第二江陽館」は江尻から経営を引き継いだ方がいまも営業を続けているようです。

『毎夕企業総覧 昭和27年版』(東京毎夕新聞社)より

引用した上掲書の記述からすると「神浴」は神奈川県浴場商業協同組合のことを指すと思われます。

ちなみに、江尻という姓は横浜の銭湯経営者によく見られます。親戚が銭湯経営をしていたということなのでしょうか。


石橋寅四郎

個人名しか情報がないので、この人のこともよくわからないところですが、前述の志村高明と同じく昭和22年の市議選に立候補しています(ちなみに選挙結果はこちらも落選)。


元日飛(日本飛行機)の組合関係者と書かれている資料もあって、これが同一人物なのかはよくわからないところです。

また、別の資料には磯子の衣料品製造業の代表者としても名前が見られます。これが同一人物なのかどうか、詳しいことはよくわかりません。上に引用した新聞の立候補者名の欄には「工場長」とあるので、組合関係者というよりはこちらの繊維工場の経営者という方が合致しているような気もします。戦前に日飛の組合員だった人が、戦後になって繊維工場を始めたということなのかもしれません。

「全国工場通覧」昭和25年版より

兵頭一刀

この方も個人名だけなので、詳しいことはわかりませんが、『全国工場通覧(昭和25年版)』によれば、以下のとおり磯子区にあった縫製工場の代表者として同じ名前が出てきますので、その人だろうと推測しています。

『全国工場通覧』(昭和25年版)より


長谷川好祐

この方についてもまったく情報がありません。おわかりの方がいたらぜひ教えてください。


谷津坂温泉 平田佐太郎 長者町(3)七八〇一

これについてもまったく不明です。「谷津坂温泉」という名前からして、谷津坂(現在の能見台)にあった銭湯ではないかと推測していますが、地図を見ても出てこないのではっきりしたことはわかりません。

ただ、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館の共同企画店「銭湯と横浜」の図録には、平田佐太郎という名前が、戦前、神奈川区平川町にあった「日ノ出湯」という銭湯の経営者として記録されているので、同じ人が戦後、金沢区で銭湯を経営していたということかもしれません。


杉田町 山本熊太郎

これも名前だけなので、なかなかわかりづらいところでしたが、昭和34年の「横浜商工名鑑」に杉田の銭湯「梅之湯」の経営者として出てくるので、この方だろうと思います。梅之湯は杉田劇場のすぐそばにあったので、役者や従業員が利用していたのかもしれません。

『横浜商工名鑑』(昭和34年)より


森町 川崎果實店

これは白旗商店街にあった「川崎青果店」のことで、惜しまれながら昨年3月に閉店してしまいましたが、その直前にお邪魔してお話を伺ったところ、間違いないとのことで確認できました。

川崎青果店(2023.2撮影)


杉田町 山口自轉車店

これは杉田にある「山口モータース」のことだと思われます。山口モータースは現在も杉田で営業しています。


以上がこれまでの調査結果です。


銀星座の引幕にも同じように店舗や個人名が描かれていますが、あちらはほとんどが弘明寺商店街の関係者であるのに対して、杉田劇場の引幕にある名前は、杉田だけでなくむしろ磯子町や根岸の方が多いような印象で、しかも繊維関係者や銭湯関係者が多いというのも気になるポイントです(もしかしたら「たくし上げている」最初の引幕には杉田商店街の店舗名が多く描かれていたのかもしれません)。

昔の劇場にはたいてい浴室があって、旧杉田劇場にもありましたから、役者が化粧を落とすのに銭湯を使うようなことはなかったと思います。銭湯関係者とは単なる付き合いがあっただけなのかもしれませんし、杉田劇場の経営者だった高田菊弥との関わりがあるのかもしれません。詳しいところはよくわかりません。

旧杉田劇場についても引き続き調査を続けていきたいと思います。


というわけで、今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕に書かれた店舗名や個人名について調べてみました。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(88) 新加入川上好子

本業の繁忙期もあって、遅々として進まない調査ですが、昭和12年6月の横浜貿易新報に掲載されていた、朝日座での河井勇二郎一座の公演情報に気になるものを見つけました。

河井勇二郎といえば新国劇出身で、後年、梅澤昇一座に参加する剣劇役者です。

大井廣介『ちゃんばら藝術史』には

「梅澤は連袂脱退事件後、一座に加わった河井勇二郎にやがて梅澤昇を襲名させ、梅澤自身は龍峰を名乗るようになった」

とあります。

梅澤劇団は昭和29年7月、弘明寺に「梅沢劇場」という専属劇場を開場し、横浜を拠点として活動するようになるわけで、横浜とも浅からぬ縁がある劇団です。弘明寺に来た時にはすでに二代目を襲名していた河井勇二郎もその意味では横浜と縁がある役者といってもいいでしょう。

昭和30年代の明細地図より

さて、その昭和12年6月の河井勇二郎一座の公演情報ですが、配役一覧の中に

「新加入川上好子」

と書かれているのです。

昭和12年6月8日付横浜貿易新報より

これをそのまま受け取れば、この公演から川上好子が河井勇二郎一座に参加し始めたということになります。


これまで精査した横浜貿易新報では、昭和11年3月の日吉良太郎一座の劇評に川上好子の名前が見られるので、それから1年3ヶ月の間のどこかで、川上好子は日吉一座を離れたということになりそうです。

昭和11年3月8日付横浜貿易新報より

日吉一座は昭和12年12月に東京の江東劇場で柿落とし興行を行っており、さらには昭和13年6月からは横浜歌舞伎座を拠点に移して、終戦近くまでの連続興行をスタートさせますから、川上好子が一座を離れた時期は、日吉劇団にとっては何らかの変化が起こった頃とも考えられます。


日吉劇団のみならず、どうもこの時期の横浜演劇界自体が変化の季節という印象で、この時代の動きを精査することが、大高よし男(高杉彌太郎)の発見につながるような気がしてなりません。

さらに調査を続けます。


→つづく

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追記:
前々回、近江二郎の住所が大阪になっていることについて書きましたが、あらためて近江二郎の養子であった元子さん(芸名:衣川素子)の手記を読み返してみたら、

「二郎の所には養子健次と言う兄と養女マスエと言う姉がいましたが、舞台には出ていないで、秀子の養母がこの二人を大阪で育てていました」

との記述がありました。大阪市生野区鶴橋南之町の住所は、深山百合子の養母の住んでいたところなのかもしれません。


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(78) 銀星座と日吉良太郎について

大高よし男の顔がわかったことで、足跡探しも一気に前進、と行きたいところですが、なかなかそうは問屋が卸さないところがこういう調査の醍醐味(?)でして。

昭和15年3月の横浜敷島座で近江二郎一座に参加する以前の活動がまったくわからず、探索はすっかり停滞しています。昭和13年10月末まで、近江二郎一座が名古屋宝生座で興行していることがわかっているので、目下、その後の近江一座の足取りを『都新聞』の「芸界往来」欄などから調べているところですが、難航しています。

昭和13年10月以前の近江一座には大高よし男(高杉弥太郎)はいないと思われるので、同年11月から昭和15年2月までの間のどこかで、大高は近江一座に参加することとなるわけで、その時期の特定と記録が見つかれば、壁が突破できるはずです。


そんなこんなで、戦前の調査が行き詰まれば、戦後の調査に移行せざるをえない。というわけで、図書館に行くたびに戦後の神奈川新聞を1か月ずつ調べているところです。

そんな中、昭和22年11月25日付の神奈川新聞に掲載された銀星座(弘明寺)の広告に、興味深い名前を見つけました。

日吉良太郎

です。(日吉良太郎については以前の投稿を参照してください。ただしその投稿には若干の誤りがあって、出身地は岐阜県の神戸町のようですし、弁士だったというのもちょっとあやふやな情報です)

昭和22年11月25日付神奈川新聞より

この広告によれば、銀星座専属の自由劇団が、大岡警察署刑事部長・桑名甲子次原作による防犯劇を上演するにあたって、脚色を日吉良太郎が担当しているというのです。

僕が調べた範囲では、戦後、新聞に日吉良太郎の名前が登場するのはこれが初めてです。


戦前・戦中と横浜で絶大な人気を誇り、末吉町にあった横浜歌舞伎座で6年半も連続興行を続けた日吉良太郎一座ですが、小柴俊雄さんが『郷土よこはま』(No.115)に寄稿した論文によれば

「太平洋戦争が急迫して来て、享楽追放で公演ができなくなる」(同書 P.60)

という事態に追い込まれます。

また同氏の『横浜演劇百四十年ーヨコハマ芸能外伝ー』には

「戦後、日吉良太郎は活動の場がなくなって一座を解散。日吉も昭和二十六年八月に六十四歳で死去した」(同書 P.60)

ともあります。

日吉一座と座長の日吉良太郎は終戦とともに消えていったということになります。

ですが、僕は銀星座専属・自由劇団のメンバーの大半が日吉一座の元座員であることからして、その背後に(顧問や参与といった立場で)日吉良太郎がいたんじゃないかと推測しているのです。


銀星座は杉田劇場に遅れること3ヶ月、昭和21年3月23日に弘明寺商店街、観音橋のたもとに開場します。何度も書いている通り、柿落としは近江二郎一座で、5月末まで近江一座の興行が続きます。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より


その後の銀星座は、旧杉田劇場と同様、演劇や演芸、歌謡などさまざまな企画で、娯楽に飢えていた市民のニーズに応えていました。

昭和21年6月10日付神奈川新聞より

昭和21年6月12日付神奈川新聞より

それが昭和21年8月に専属の自由劇団(当初は「横浜自由座」)が誕生してからは、自由劇団の公演を中心にプログラムが組まれていくようになります。自由劇団の興行がいつまで続いたのかは、まだ調査ができていませんが、昭和24〜5年くらいまではやっていたように思われます。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より 横浜自由座初登場の広告

連続興行ができるくらいですから、自由劇団の人気は相当に高かったものと想像できます。その人気にあやかってか、昭和22年1月には美空和枝(のちの美空ひばり)が銀星座の舞台、自由劇団の幕間に登場するのです。

昭和22年1月14日付神奈川新聞より

以前投稿したように((75) じゃがいもコンビについて)、日吉一座に参加していて、戦後、大高一座の座員だった壽山司郎も昭和22年10月頃から自由劇団に参加するようになり、戦前の日吉一座を知る当時の人からすれば、自由劇団=日吉一座とも見えたことでしょう。2年弱のブランクを経て、日吉一座が銀星座で復活したと感じた人もいたはずです。


あくまでも僕の推測ですが、戦中は「愛国劇」の旗印を掲げて、国策に準じるような芝居を盛んに上演していた日吉良太郎ですから、戦後、戦犯訴追を恐れて身を潜めていたのかもしれません。

小幡欣治著『評伝菊田一夫』によれば、菊田一夫も戦犯訴追を懸念して、GHQに執筆を続けていいのかという問い合わせまでしていたそうですから(同書 P.144)、日吉良太郎の心中にもそんな恐れがあったとしておかしくはありません。訴追や裁判の方向が見極められるまで表立った活動を控えようとしていた可能性は否定できません。

(もっとも、そのわりに昭和22年の電話帳(横浜中央電話局「電話番號簿」昭和二十二年四月一日現在)には日吉の本名「北村喜七」がしっかり掲載されていて、職業欄には「俳優」と書かれているのですから、戦犯云々は推測の域を出ませんが…)


いずれにしても、戦後、長らく報じられることのなかった日吉良太郎の名前が、終戦から1年以上経ったこの日になってようやく登場したこと、しかもあれだけの人気を誇った座長が、座員たちと同程度のフォントで印字されていることには、あえて目立たぬようしたのか、なんらかの背景があると感じられてなりません。


ちなみに、日吉良太郎も近江二郎も井土ヶ谷に住んでいました。日吉良太郎は井土ヶ谷中町、近江二郎は戦後は通町のあたりだったようです(ご親族のお話による)。どちらも最寄りの電停(市電)から弘明寺まで乗り換えなしに行けたはずです。

同じ地区に住む二人の座長が、横浜を拠点にしながら、杉田劇場や銀星座を足がかりに、戦後の新たな演劇界を生き抜いていこうと奮闘していた姿が見えてくるようです。

しかし

昭和24年5月29日 近江二郎没
昭和25年3月 杉田劇場、実質的な閉場
昭和26年8月 日吉良太郎没
昭和27年11月 銀星座、休場(のちに改装されて映画館=有楽座となる)

戦争が終わって、さあこれから、と戦前・戦中の横浜演劇界を支えた両雄が、杉田と弘明寺の地にあげた復興の狼煙は、この時期、立て続けに消えていったわけです。

そしてそのバトンを継ぐかのように、美空ひばりの全国的な人気が高まっていくのは、時代の替わり目を目の当たりにするようで、感慨深いものがあります。


→つづく

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(73) 位牌の謎

先日の講座の段階ではまだ不明点が多くてすべてをお伝えすることはできませんでしたが、大高よし男の葬儀写真からわかることは少なくありません。

写真右上の提灯の文字からこのお寺が弘明寺であることを解明しましたが((51) 弘明寺現地調査・第一弾)、もうひとつの手がかりは位牌に書かれた戒名です。

でも、それが不鮮明な画像からはわからない!(あー、モヤモヤする)


と、そんな折、杉田劇場のスタッフから解像度の高い葬儀写真のデータを送っていただきました。ありがとうございます!
※実は写真の原本の所在が不明だったそうですが、数日前に発見されたそうです。よかった!

大高ヨシヲ葬儀写真(所蔵:杉田劇場)

で、喜び勇んで位牌の部分を画像処理をした結果がこちらです。




正直なところ、まだはっきりしないと言えばはっきりしないのですが、以前から推測していた通り、大高よし男の戒名は

善龍義徳居士

と読めるように思います(ちがうかなぁ)。

また、戒名の左右にある命日の文字はさらにはっきりしませんが、字数などからして大高の命日である

昭和廿一年

十月一日没

と読める気がします(ちがうかなぁ)。


一般に戒名の構成(?)は

〇〇院▲▲□□居士

となっているそうす。

「〇〇院」は院号といい、一般人の場合付けないことの方が多いようです(著名人や地位の高い人はつけている)。

「▲▲」に当たる部分を道号といって、故人の人となりを表すような言葉をつけることが多いそうです。

最後の「□□」の部分が正式な意味での戒名だそうで、ここには故人の俗名などを入れることも多いとのこと。

(参考サイト→こちら


それをふまえると、大高よし男は「善」「龍」で示されるような人柄で、名前(俗名)の中に「義」または「徳」の文字が入っていると考えられそうです。

大高よし男=大高義男(または義雄)

の可能性が高くなってきました。さらに「龍」の字からは、大高が剣劇役者として活躍していたことがわかるような気もします(ちょっと妄想を含む)。


この戒名には日蓮宗や浄土真宗に見られる特徴はありませんし、最初に梵字が書かれていることや、写真が弘明寺で撮られていることなどを勘案すると、大高の宗旨はおそらく真言宗だと考えていいでしょう。

つまり、ここからの調査は、磯子区や南区の真言宗のお寺を回って、大高よし男のお墓を探すことになるわけです。果たしてうまく行くかどうか。

がんばります!

何か情報をお持ちの方はぜひ教えてください!


実はもうひとつ、最近になって気になっているのが、写真に写っている「高田菊弥」(旧杉田劇場のオーナー)と想定される人物が手に持っているモノです。

長い模造紙のような紙を丸めたもののようですが、これが一体何なのか。

大高を偲んでポスターとかを持っていったのかなぁ。

こっちはさらなる難題です!


→つづく


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(61) 戦時下の劇場

最近の朝ドラ『ブギウギ』では、戦時下でさまざまな制限を受ける娯楽業界(興行界)の様子が描かれていますが、たしかに敵性音楽や華美な演出が制限されたり、新劇が弾圧されたことはあった反面、このブログで調べている剣劇のような大衆演劇の世界では、当時の国家体制の方針に従うことで、したたかに生き残ろうとしていた一面もあったようです。

対英米戦争が始まった昭和16年末を描く映画やドラマは、暗澹たる未来に不安を覚える人々を描きがちですが、古い新聞などを調べていると、まだその頃は庶民も呑気な雰囲気で、アメリカに勝てるという根拠のない自信に満ち溢れていたのではないかと思わせるフシもあります。

もちろん新聞の情報には偏りがありますが、それでも継続的に読んでいくと、いよいよヤバくなったなと感じるのは昭和19年あたりからです。


大高よし男は昭和17年2月いっぱいまで伊勢佐木町の敷島座で伏見澄子一座に参加し、同年6月には映画スター・海江田譲二らの「8協団」に参加して川崎・大勝座の舞台に立ちますが、それ以降は戦後の杉田劇場まで横浜・川崎での活動は見られません。

一方、大高と縁の深い近江二郎一座は、戦時中のかなり後期まで(空襲で劇場が焼失するまで)横浜や川崎で盛んに興行を行っていました。昭和18年9月にもやはり敷島座での興行をしているのですが、その時の新聞にこんな記事が出ています。

昭和18年9月13日付神奈川新聞より

昭和17年1月に閣議決定された「大詔奉戴日」は同月8日から毎月実施されたそうですが、近江二郎一座では翌18年9月8日から毎日、開演前に国民儀礼を行なっているという内容です。戦争が始まって2年弱、近江二郎がどういう思いでこれを始めたのかは分かりませんが(所属先の籠寅興行部など、どこかからの指示があったのかもしれない)、戦時下の劇場の空気を感じさせる記事です。

一部を引用すると

"一座は八日の大詔奉戴日より毎日正午、敷島座の舞䑓開演に先立つて厳粛なる国民儀礼を行なつてゐる(中略)先ず『愛國行進曲』の音楽で幕が開かれると正面に日章旗、その前に近江、綾小路、深山百合子、大山二郎、松尾志乃武、月形陽子初め男優は國民服、女優はモンペにて列し、代表として近江が『開演に先立ちましてこの決戦下にも拘らずこのように演劇を愉しみ合ふことの出来る日本國民としての仕合せを心から■■■■たして唯今から厳粛に國民儀禮を行ひたいと存じます』と是より儀禮を行ふ(中略)これを毎日休まずに全座員が看客と共に實行してゐる"

と、様子が克明に書かれていて実に興味深い内容です。

記事中にはこれが他の劇場にも影響するだろうとの記載はありますが、他所で実際にこのようなことをやっていたかどうかは不明です。ただ、同時期に横浜歌舞伎座で長期の連続興行を続けていた日吉良太郎一座は以前にも書いた通り「愛国劇」を旗印にしていたくらいですから、新劇や洋楽のように意志を貫いて弾圧されるのではなく、当時の国家体制に迎合しつつなんとか生き残りを考えた一座も多かったということなのでしょう。

なお、日吉一座は終戦間際に活動を休止し、戦後は一座としての活動がなくなりますが、メンバーの多くは弘明寺・銀星座の「自由劇団」や大高の「暁第一劇団」の座員として活動を継続します。また、日吉一座の文芸部員だった高野まさ志は戦後、横浜市の従業員組合の機関紙『市従文化』に寄稿しているそうです(→こちらのブログ参照)。日吉良太郎自身は戦後の活動がほぼ見られませんが(戦犯の訴追を恐れたのか)、銀星座の新聞広告に脚色担当として名前が出てくることもあるので、実は自由劇団の背後で何らかの活動を続けていたのではないかと僕は思っています。

おっと、話がそれました。

さて、そんなこんなの戦時下の大衆演劇の劇場ですが、軍部の方でも国民の不安や不満を逸らすために、娯楽を活用しなくてはならない事情があったので、軍部と興行界、それぞれに海千山千の両者が落とし所を探りながらやっていたのではないかと、そんな事情もこの記事から想像されるところです。

桜隊の悲劇を緻密に調べた名著『戦禍に生きた演劇人たち』(堀川惠子著)や、毎朝の『ブギウギ』を見ながら、情勢に振り回される舞台人の哀しさに想いを馳せるとともに、同時期に大高や近江がしていたことを重ね合わせると、戦時下の日常がかなり重層的に見えてくるのが面白いところです。


→つづく


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(51) 弘明寺現地調査・第一弾

何度もくどいようですが、大高よし男に関する資料はとても少なくて、調査は難航しがちです。彼の姿を写した写真は見つからないし、出身地も生年月日もわかりません。

そんな中、残された資料で最大の手がかりと考えているのが、大高の葬儀参列者の集合写真です。

お寺の本堂前で撮ったと思われるこの写真、そもそもどこのお寺なのかさえわからなかったのですが、画像を拡大してみたところ、右の柱の上部にある提灯の文字が「世音」と読めたわけです。

お寺で「世音」となれば「観世音」。横浜で観世音といえば「弘明寺観音」。天平9年(西暦737年)に創建された、横浜最古のお寺です(市外の方には馴染みがないかもしれませんが「弘明寺」と書いて「ぐみょうじ」です)。

ちょっと短絡的かもしれませんが、写真は弘明寺。そう推測したのです。


弘明寺観音への参道は明治時代に整備され、「弘明寺かんのん通り商店街」として今なお賑わいを見せています。この商店街の中ほど、大岡川にかかる「観音橋」のたもとに、杉田劇場の開場から2ヶ月後、実演劇場「銀星座」がオープンしたのです(昭和21年3月23日)。

新聞広告などの記録は見つかっていませんが、この投稿で書いたように、大高よし男はこの銀星座の舞台にも立ったとされています(おそらく昭和21年5月初旬)。

大高と弘明寺には縁があるに違いない。

そんな推定(推理)のもとに、杉田劇場のスタッフ(TさんとSさん)と連れ立って、7月3日、弘明寺と弘明寺商店街の現地調査を行いました。


結論からいうと…ビンゴ!


Tさんから弘明寺のご住職に、上掲の写真をお送りしてあるそうで、最終的な確認はまだ先になりそうですが、本堂の「お守りお授け所」の方や商店街の方々にみてもらったところ、写真のお寺は弘明寺に間違いないだろうとのことでした。

(大きな前進だ!)


人気役者だった大高よし男は昭和21年10月1日、長野県南木曽での公演に向かう途中、乗っていたトラックが崖から転落し、その下敷きになって亡くなります。実にあっけない最期です。翌日には現地で火葬され、遺骨は横浜に戻ったそうです。南木曽での公演は残された座員がなんとかつとめあげたそうですが、大高不在の舞台はさぞかし寂しいものだったことでしょう。


大高の葬儀が実際にいつ執り行われたかはわかりません。写真に写っている人のうち、位牌を持った少年は大高の遺児で(おそらくその隣の少年も)、中央にいるのが一座の支配人(マネージャー)だった「大江三郎」と伝えられています。

(しかし「中央」というのがよくわからないところで、遺骨を持った人なのか、その左のメガネをかけた人なのか、はっきりしませんが、立場的なことを考えると遺骨を持っているのが大江三郎ではないかと僕は考えています。またその人の頭に見える白い帯は事故で負った怪我による包帯なのかもしれません)

位牌を持つ少年の左隣の少年の斜め後ろにいるチョビ髭の男性が、杉田劇場のオーナー、高田菊弥で、それ以外の方々については特定ができていないものの、おそらく大高の親族、一座の座員、杉田劇場の従業員ではないかと考えられます。

大江三郎をはじめ、座員たちが写っているとすると、遺骨が戻ってすぐというより、南木曽公演から座員が戻ってしばらく経ってからの葬儀と考えるのが妥当です。

南木曽からは10月3日か4日には戻ってきたはずです。また、大高一座(暁第一劇団)は10月9日から劇団新進座と合同公演を行なっていますし、10月17日から20日まで大高追善興行を行なっています。22日には元映画スター・中野かほるを迎えての追善公演もありましたので、葬儀の日程はその合間だったと考えられます。



劇団も劇場も日々稼働していますから、葬儀の日程調整はなかなか難しかったことでしょう。

以前にも書きましたが、中央の僧侶の左奥にいる女性が中野かほるではないかと想像しているので、葬儀は中野が参加した追善公演の前日、10月21日に行われたのではないかと僕は考えているところです。

(この写真で不思議なのは大高の妻が見当たらない点です。遺児がいる以上、その母親もいて然るべきで、本来ならば遺骨は夫人が持っているだろうと考えられます。すでに離婚しているか、戦争で亡くなったか、そんなことも想像されますが、これまたまったく不明です)


さて、写真が高い確率で弘明寺だろうと判断されたところで、さらなる調査を進めるべく、商店街の老舗と思われる店に取材を敢行しました(お忙しいところ急にうかがってすみませんでした)。

幸いなことに市の図書館のデジタルアーカイブに昭和30年代、弘明寺銀星座の緞帳写真が保存されています(こちら)。

それをヒントに商店街を歩いたところ、いまも営業されている店舗がいくつかあって、そのうち、緞帳写真の右から3つ目の「洋品 子供服 ほまれや(「婦人用品のほまれや」)と、4つ目の「酒商 ほまれや本店(「ほまれや酒舗」)」の方にお話を伺うことができました。

特にほまれや酒舗のご主人(二代目)からは往時の弘明寺のお話などを伺うことができて、とても貴重な機会となりました。

銀星座の開場の頃についてはさすがによくわからないとのことでしたが、「銀星座に出ていた役者で覚えているのはヤスダという人」とお話ししてくださいました。蛇を使った見世物のようなことをやっていたそうです。

その時はヤスダと言われてもピンときませんでしたが、帰路、銀星座で活動していた専属劇団「自由劇団(自由座)」には安田猛夫(猛雄)という役者がいたことを思い出しました。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より

自由劇団と見世物というのはどうもしっくりこない気もしますが、演目によってはそんなことをやっていたのかもしれません。さらなる調査が必要です。


ついでに、弘明寺の映画館のことや、剣劇の梅沢昇が開いた「梅沢劇場」のことなども聞いてきました。

梅沢劇場の周辺はいわゆる花街だったそうで、劇場には足を運んだことはないそうです。

梅沢劇場そのものも、キャバレーを改装したものでしたから、あの周辺はどちらかというと大人の街、大人の劇場で、地元の人、特に子供たちにはあまり縁がなかったのかもしれません。


アポなしで伺ったにも関わらず、親切にいろいろとお話をしてくださったことには感謝ばかりです。古い話や資料ならば商店街の事務所に行けばわかるかもしれないとのアドバイスもいただき、次回はもう少ししっかりと下調べをして伺いたいと思います。


余談ですが、ほまれや酒舗は現在三代目が経営されているそうで、初代は伊勢原の出身、愛甲石田の酒蔵で修行したのち、昭和7年に弘明寺に店を出したんだとか。初代の二人の弟さんが一緒に店を手伝っていたそうですが、やがて弟さんたちは弘明寺で独立して、ひとりが洋品店の「ほまれや」を開き、もうひとりが大岡川沿いにやはり「ほまれや」という飲み屋を開店したのだそうです(飲み屋さんは閉店されたそうです)。

ほまれや酒舗はそれだけの歴史ある老舗ですが、店の一番奥の冷蔵庫にはクラフトビールが並んでいたり、各地の地酒も豊富で、活気あるとても魅力的なお店でした(また行きます)。


大高よし男が酒豪だったのか下戸だったのか、そのあたりも分かりませんが、劇団ですから酒とは縁があったことでしょう。銀星座の舞台に立った時には、もしかしたら「ほまれや」さんで、酒を買ったりしていたのかもしれません。想像力を働かせると、現在の商店街にも大高の生きた痕跡があちらこちらに見えてくるようです。


そんなこんなで、大高よし男と弘明寺にはきっと浅からぬ縁があったはずです。

調査の突破口になると信じて、弘明寺現地調査第二弾を計画します。

ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。


→つづく


追記:弘明寺の映画館、劇場跡地をいくつか探訪しましたので写真で振り返ります

「銀星座」跡地。のちに赤い看板のあたりが映画館「有楽座」となる。


「梅沢劇場」跡地はマンション。


映画館「スバル座」跡地はドラッグストアのクリエイトなどが入るビル。

映画館「ひばり座」の跡地は長らくスーパー「ユニー」でしたが今はマンション。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合わせフォームからぜひお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。