(76) 【大進展!】大高よし男の写真!

このブログとリンクする形でX(旧Twitter)のアカウントがあるのですが、そちらへ作家・芸能史研究家の小針侑起さんからダイレクトメッセージをいただき、大高よし男の写真が掲載された京都三友劇場のパンフレットの画像を送っていただきました!

三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)

いくら探しても、いくら呼びかけても判明しなかった大高よし男の顔がこれで初めて明らかになったのです!(先日の講座でも終了後に参加者から「そんなに有名な人なのになんで写真がないの?」と詰問されました)。

見よ、彼が「大高よし男」だ!
(三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)より)

驚きと喜びと感謝しかありません!

地元の人の証言からは「いい男」「男前」「色男」との話しか出てこないので、どんな顔をしていたのかまったくわからなかったのが、これではっきりしたわけです!

パンフレットの中面には演目と出演者が掲載されていて、その内容から照合してみたところ、これは昭和17年4月の伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党の合同公演のパンフだということがわかりました!

三友劇場ニュース(小針侑起氏提供)

『近代歌舞伎年表』京都篇 第10巻より

大高よし男が昭和16年の初旬に近江二郎一座から離れ、同年の秋から年末にかけて横浜敷島座で松園桃子一座に参加した後、昭和17年1月から4月まで伏見澄子一座に帯同していた時期、三友劇場での公演です(1月が川崎大勝座、2月が横浜敷島座、3月と4月が三友劇場)。

記録的には大高よし男が初めて伏見澄子一座に参加した興行ということになります。


このパンフには伏見澄子はもちろん、一座のベテラン宮崎角兵衛の写真もありますし、二見浦子(前名・石川静枝)の写真もあります。資料で名前だけを知っていた役者たちの「顔」が見えることで、世界がグッと近づいた気がします。

これを機に、新たな大高の写真が出てくることを期待するとともに、大高を通じて磯子の芸能史、横浜の芸能史、さらには美空ひばりの舞台デビューの経緯などがさらにはっきりすると、僕の続けているこの調査にも意味がでてくるのだろうと思います。


小針様、あらためて心よりありがとうございました!


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真が見つかると嬉しいです。

(75) じゃがいもコンビについて

大高一座(暁第一劇団)の新聞広告は昭和21年4月に2回、9月に2回、10月に3回掲載されています(うち2回、10月15日と22日のものは追善興行の告知)。

基本的には演目と劇団名が書かれているシンプルなものですが、9月24日と10月8日、10月15日の広告には「じゃがいもコンビ」(ないし「ぢやがいもコンビ」)の名前が登場します。

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

昭和21年10月8日付神奈川新聞より

昭和21年10月15日付神奈川新聞より

このコンビが何なのか、詳しいことがわからなかったので、長らく頭を悩ませていました。以前の投稿((18) 戦地か慰問団か)で、これが劇団員である「壽山司郎」のつくった劇団内ユニットではないかと推測しておりましたが、その後の調査で最近はこの推測がほぼ間違っていないだろうとの結論に至っています。


資料を調べていくと、壽山司郎(おそらく「ひさやましろう」か「すやましろう」)は、戦時中、日吉良太郎一座(日吉劇)に参加していたことがわかります。そちらでも3人組のユニットを組んで軽演劇や寸劇をやったり、時代劇などでも喜劇的な場面に出ていたものと考えられます。

昭和16年8月4日付の新聞では日吉劇の劇評の中では

「ちょっと出るだけの役だが、壽山司郎の親分萬吉の䑓詞廻しに味があつて、眼立つた」

とありますし

昭和16年8月4日付神奈川新聞より

昭和17年1月19日付の記事には

壽山司郎、人見二朗、大平正美の三人が、●に考案して創り上げた新時代に即應した『寸劇集』なのだが、これは●に面白い」

ともあります。

昭和17年1月19日付神奈川新聞より

日吉劇研究の基礎資料のひとつといっていい『郷土よこはま』No.115で、小柴俊雄さんがまとめられた横浜歌舞伎座の上演演目一覧中、昭和16年9月30日〜10月9日の欄に「機山司郎 人見二朗 大平正美加入」とあることからも、昭和16年の夏頃に壽山司郎が日吉良太郎一座に参加したと考えて間違いないでしょう(「機山」は原資料の誤植か「壽山」の転載間違いと思われます)。

『郷土よこはま』No.115(50ページ)より


昭和18年1月に日吉劇の若手人気俳優・朝川浩成が曾我廼家五郎一座に加入し「幸蝶」の芸名で五郎劇の舞台に立つのですが、この際、壽山司郎も五郎劇に出て「蝶山」を名乗っていた新聞記事をどこかで見た覚えがあります。

…が、資料の山から現物を見つけることができていないので(とほほ)、ひとまずの記憶として提示しておきたいと思います。

昭和18年2月8日付神奈川新聞より

さらには、以前にも紹介しましたが、戦争も末期に近い昭和19年2月「神奈川県芸能報国挺身隊」の公演では壽山司郎と想定される人物が漫談を披露しています。

昭和19年2月9日付神奈川新聞より

以上のことから、壽山司郎は日吉劇に関わる俳優で、ざっくりいえば喜劇俳優、もしくはお笑い芸人のような存在だったと考えられます。


美空ひばりが幕間に出たという杉田劇場のポスターにも壽山司郎の名前があるので、彼は初期段階から大高一座に参加しており、やはりコミカルな役を担当する俳優だったのだろうと思います。

昔取った杵柄とでもいうのでしょうか、夏頃に一座の中でユニットを組み「じゃがいもコンビ」の名前で軽演劇やコントのようなものをやり始めたと考えれられます。新聞広告にも名前が出るくらいだから、なかなかの人気だったのでしょうね。



大高の没後、劇団は座長を欠いたまま公演を続けますが、その際の広告にも「ジャガイモコンビ」の名前があることから、壽山司郎は大高亡き後の劇団の人気を支える存在だったのかもしれません。

昭和21年12月17日付神奈川新聞より

しかし、壽山の人気をもってしても劇団の凋落に歯止めは効かなかったようで、翌昭和22年10月にはとうとう弘明寺銀星座の専属「自由劇団」の広告に「壽山じゃがいも」の名前が登場することとなります(「おなじみの爆笑王」として)。

昭和22年10月14日付神奈川新聞より

おそらくこれをきっかけに、壽山は古巣・日吉良太郎一座のメンバーが大半を占める自由劇団に移籍することとなったと思われます(その後、自由劇団の座員連名〔広告の右欄〕の中に「壽山」が出るようになります)。

翌週の広告にも名前が出ますが、ここで上演されているのは、『娘アイドントノウ』という芝居で、実はこれは大高生前の暁第一劇団でも上演されている演目です。壽山の十八番だったのかもしれませんね(どんな芝居だったのだろう?)。

昭和22年10月21日付神奈川新聞より

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

ちなみに10月14日付の広告にある演目『應援團長の戀』は、映画『応援団長の恋』の舞台化だと思われます。

一方、杉田劇場で大高一座が上演した演目の中にも『応援団長』という作品があるのです(しかも壽山司郎が出ている)。


両者が同一なのか別物なのかは判断が難しいところですが、高峰秀子主演の『秀子の応援団長』という映画もあることから、大高一座が上演したのはこっちの舞台化(翻案)かなとも思っています。

ついでに言えば、10月24日付の広告の『兄と妹』は、銀星座の柿落としで近江二郎一座が上演した新派の名作です(室生犀星の『あにいもうと』の舞台化)。当たり前かもしれませんが、評判のいい作品は繰り返し上演されていたということなのでしょうし、著作権みたいなものもゆるゆるの時代だったのかな、なんて思います。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より(銀星座の柿落とし)

そんなこんなで、今回は大高一座のユニット「じゃがいもコンビ」と壽山司郎について考察してみました。


→つづく


【おまけ】先日、所用ついでに弘明寺を参拝しました。その際、本堂の写真を撮ってきたので、大高葬儀の写真と合成してみたら、奥の柱や開帳場(スロープ)前の石畳など、驚くほどピッタリでした。大高の葬儀が弘明寺で執り行われたことは間違いありませんね。

※葬儀は行わず、写真だけ撮ったという可能性も否定できませんが、葬儀後に写真撮影という方が自然な気はします。


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(74) 大きな誤りに気づく

大高よし男については、現杉田劇場が開場してから、いろいろな人が資料を収集し、それが長らく保管されてきたわけで、そのデータなどから得られる情報が「大高ヨシヲを探せ」の調査を前に進めてくれているです。

ですが、現物を拝見することはほとんどありませんでした。写真の内容についても伝聞が多く、そこからさまざまな推測をすることが多かったのも事実です。

伝え聞いていたもののうち、最も解釈に難儀していたもののひとつが「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」というこの写真です。

大高の遺児が形見の背広を着ているとされる写真

先日の講座でもその旨をお伝えした上に、大高の葬儀で位牌を持っている子とこの背広姿の若者が同一人物に見える、ともお話ししたわけです。

左:葬儀写真の子ども/右:形見の背広を着た若者

特徴的な耳の形などが似ていると言えば似ていて、同一人物と考えてもいいような気もします。


昨日、現杉田劇場が保管していた写真の原本のいくつかを、直接確認する機会をいただきました。

そして、伝え聞いていた写真の意味の大きな誤りに気づいたわけです。

(嗚呼)

上掲の「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」写真、実は昭和24年に杉田劇場で行われた地元・浜中学校の学芸会の記録として、パネルに貼ってあった4枚のうちの1枚だったのです(浜中学校は私の母校でもあり、「浜中(はまちゅう)」と略されます)。

浜中学芸会(昭和24年)

そこに「形見の背広」とキャプションがあったために、「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」という話になったのかもしれません。

しかし、パネルをよく見れば、左の2枚が『別れのワルツ』という作品の出演者、右の2枚が『形見の背広』という作品の出演者を写した記念写真だということはすぐにわかります。

さらによく観察すれば、4枚のうち『別れのワルツ』の左から2番目と、『形見の背広』の下段の写真は同じ場所で撮影されたこともわかります。

つまり、この4枚はすべて、杉田劇場で行われた浜中学芸会の記念写真で、「形見の背広」は大高が遺した背広のことではなく、学芸会で上演された芝居の作品名だったのです!

(嗚呼)

さらには、ここに写っている大人が「大江三郎」なんじゃないかと勝手に推測していましたが、ここまで事実から、この人は当時の浜中の先生だと考えるのが妥当です。


もっとも、大高の葬儀から3年後の写真ですから、ここに写っている背広姿の生徒が、大高の子息ではないという確証はありません。

また、葬儀写真の裏書にはこの子どものことを「大高よし男の関係親族」という曖昧な表現で記述してあることからしても、大高には子どもはなく、位牌を持っていたのは大高の甥などという可能性も否定できません。

『別れのワルツ』も『形見の背広』もどんな作品だったのかわかりませんし、既成台本だったのか、オリジナル作品だったのかもわかりません。

ですから、大高の甥が杉田に住んでいて、浜中学校に進学し、大高の遺した背広を着て、この学芸会に参加していたというのも、まったくない話とも言えないわけです(葬儀写真の子どもの年齢を9歳から10歳と推定すると、3年後に中学生というのはおかしくないことです)。


昭和24年に中学生ですから、おおむね昭和10年前後に生まれたと考えられます。

写真に写った当時の中学生たちがご存命ならば、80代後半。浜中の歴史を紐解くとともに、この方々の話を伺うことができれば、大高につながる何かがわかるかもしれません。


いずれにしても、恥ずかしいくらいの大きな誤りでしたが、これまで誤解してきた写真の謎が判明したのですから、調査の精度が上がったとして前向きに方向に考えたいと思います。

(とほほ)


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。今回の投稿に関わる浜中学芸会のことも、ご存知のことがありましたらぜひ教えてください。 

(73) 位牌の謎

先日の講座の段階ではまだ不明点が多くてすべてをお伝えすることはできませんでしたが、大高よし男の葬儀写真からわかることは少なくありません。

写真右上の提灯の文字からこのお寺が弘明寺であることを解明しましたが((51) 弘明寺現地調査・第一弾)、もうひとつの手がかりは位牌に書かれた戒名です。

でも、それが不鮮明な画像からはわからない!(あー、モヤモヤする)


と、そんな折、杉田劇場のスタッフから解像度の高い葬儀写真のデータを送っていただきました。ありがとうございます!
※実は写真の原本の所在が不明だったそうですが、数日前に発見されたそうです。よかった!

大高ヨシヲ葬儀写真(所蔵:杉田劇場)

で、喜び勇んで位牌の部分を画像処理をした結果がこちらです。




正直なところ、まだはっきりしないと言えばはっきりしないのですが、以前から推測していた通り、大高よし男の戒名は

善龍義徳居士

と読めるように思います(ちがうかなぁ)。

また、戒名の左右にある命日の文字はさらにはっきりしませんが、字数などからして大高の命日である

昭和廿一年

十月一日没

と読める気がします(ちがうかなぁ)。


一般に戒名の構成(?)は

〇〇院▲▲□□居士

となっているそうす。

「〇〇院」は院号といい、一般人の場合付けないことの方が多いようです(著名人や地位の高い人はつけている)。

「▲▲」に当たる部分を道号といって、故人の人となりを表すような言葉をつけることが多いそうです。

最後の「□□」の部分が正式な意味での戒名だそうで、ここには故人の俗名などを入れることも多いとのこと。

(参考サイト→こちら


それをふまえると、大高よし男は「善」「龍」で示されるような人柄で、名前(俗名)の中に「義」または「徳」の文字が入っていると考えられそうです。

大高よし男=大高義男(または義雄)

の可能性が高くなってきました。さらに「龍」の字からは、大高が剣劇役者として活躍していたことがわかるような気もします(ちょっと妄想を含む)。


この戒名には日蓮宗や浄土真宗に見られる特徴はありませんし、最初に梵字が書かれていることや、写真が弘明寺で撮られていることなどを勘案すると、大高の宗旨はおそらく真言宗だと考えていいでしょう。

つまり、ここからの調査は、磯子区や南区の真言宗のお寺を回って、大高よし男のお墓を探すことになるわけです。果たしてうまく行くかどうか。

がんばります!

何か情報をお持ちの方はぜひ教えてください!


実はもうひとつ、最近になって気になっているのが、写真に写っている「高田菊弥」(旧杉田劇場のオーナー)と想定される人物が手に持っているモノです。

長い模造紙のような紙を丸めたもののようですが、これが一体何なのか。

大高を偲んでポスターとかを持っていったのかなぁ。

こっちはさらなる難題です!


→つづく


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(72) 昭和12年の近江一座

おかげさまで講座版『大高ヨシヲを探せ』(いそご文化資源発掘隊「旧杉田劇場の看板役者 大高ヨシヲの謎に迫る」)は無事に終了し、多くの方々にお越しいただきました。講座後には「続編を」との声もあり、大高ヨシヲや近江二郎に興味を持っていただけたのがとても嬉しいです。これをきっかけに新しい情報が集まってくるとさらに嬉しくなります。

ご参加いただいたみなさま、関係者のみなさま、ありがとうございました。


さて、その講座にもご参加いただいた近江二郎のご親族の方から、先日、貴重なお写真をお借りしておりましたが、無事にデータ化が完了し、写真の内容から新しい情報も得ることができました。

ありがたいのはサイン入りの写真がいくつかあったことで、役者の名前がわかるのはとても助かります。


その中からひとつ紹介すると、これは昭和12年1月3日に名古屋宝生座で撮影された近江一座の舞台写真です(裏書による)。演目は『白痴の生涯』で、この作品は近江一座で時折上演されています。



役者は右から、大山礼二郎・春日早苗・近江二郎・御園艶子・三村義彦で、一番左のサインはいまのところ判読できていません。

以下、個別に。

大山礼二郎は後年の近江一座で幹部俳優として名前が上がる「大山二郎」と同一人物かもしれませんが、これもまだはっきりわかりません。

春日早苗は近江二郎の実弟・戸田史郎(近江資朗)の夫人で、本名は近江九女子。戦後、一座が解散した後、昭和30年代の後半から磯子区中原に住み、昭和62(1987)年に亡くなっています。

近江二郎はひとまず飛ばして、次の御園艶子は新派女優として有名な人で、筒井徳二郎の欧米巡業にも同行しています。また「アノネ、オッサン、ワシャカーナワンヨ」のギャグで知られた高勢実乗の夫人でもあるのだそうです。
(近江一座がサンフランシスコで巡業を始めた昭和5年11月、御園艶子は筒井一座でプラハ、ブタペスト、ウィーンあたりの舞台に立っているそうですから、1枚の写真が急にワールドワイドになるのが不思議です)

三村義彦については詳細は分かりませんが、新聞広告にも名前の出る人で、おそらく一座の中堅・幹部俳優だったのでしょう。

一番左の判読不能のサインを「高杉彌太郎」と読めないかと目を凝らしましたが、どう見ても最後は「之輔」のようで、高杉(大高)とは異なるようです。

上記の役者は昭和9年の新聞広告に全員名前が出ていますから、昭和10年前後の近江一座の常連だったと考えていいのかもしれません。

1934(昭和9)年12月31日付讀賣新聞より

この頃の大高よし男(高杉弥太郎)がどのクラスの役者だったのかはわかりません。近江一座に参加していたのかどうかもわかりません。ここに写っているかどうかだけで判断するのは性急ですが、後の活躍を思うと若手俳優として写っていてもおかしくないと思われますから、昭和12年の段階では近江二郎一座とはまだ関わりがなかったのかもしれません。

それにしてもこの写真など、これまで目にしたことのなかった資料に接することができて、大高調査もさることながら、近江二郎一座の活動についても、別途考察が必要だと感じるところです。

大高よし男の活躍のカゲには、近江二郎がいる、というのがいまの僕の見立てです。


→つづく

【追記】その後、『近代歌舞伎年表』名古屋篇(第16巻)で、上掲写真の記録を探してみましたが、見当たりません。昭和12年1月6日からの記録はありますが、「二の替り」となっています。初春の御目見得興行は新聞広告などがなかったのでしょう。これで昭和12年の宝生座初春興行の演目が(ひとつだけですが)判明したことになります。



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