大高一座(暁第一劇団)の新聞広告は昭和21年4月に2回、9月に2回、10月に3回掲載されています(うち2回、10月15日と22日のものは追善興行の告知)。
基本的には演目と劇団名が書かれているシンプルなものですが、9月24日と10月8日、10月15日の広告には「じゃがいもコンビ」(ないし「ぢやがいもコンビ」)の名前が登場します。
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昭和21年9月24日付神奈川新聞より |
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昭和21年10月8日付神奈川新聞より |
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiRyE0RaFDvECuiTfYJ9vQ1UEexkJNck9YS664lcRj7qiF0U-vIYPPacth2yTpJnGy6uv1wAPrfh28_x7uxun-i6Av2crWb_a8Gu9r6DEsMgUW3Q3aiTW4_mCR4Xc_VMfVcC5focVUzPx0CJi0HK1NLvr3PNiCgAA58xg7zbnS7o6wQ1XmCa8NPTpyffZt2/s320/19461015_%E5%A4%A7%E9%AB%98.jpg) |
昭和21年10月15日付神奈川新聞より |
このコンビが何なのか、詳しいことがわからなかったので、長らく頭を悩ませていました。以前の投稿((18) 戦地か慰問団か)で、これが劇団員である「壽山司郎」のつくった劇団内ユニットではないかと推測しておりましたが、その後の調査で最近はこの推測がほぼ間違っていないだろうとの結論に至っています。
資料を調べていくと、壽山司郎(おそらく「ひさやましろう」か「すやましろう」)は、戦時中、日吉良太郎一座(日吉劇)に参加していたことがわかります。そちらでも3人組のユニットを組んで軽演劇や寸劇をやったり、時代劇などでも喜劇的な場面に出ていたものと考えられます。
昭和16年8月4日付の新聞では日吉劇の劇評の中では
「ちょっと出るだけの役だが、壽山司郎の親分萬吉の䑓詞廻しに味があつて、眼立つた」
とありますし
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昭和16年8月4日付神奈川新聞より |
昭和17年1月19日付の記事には
「壽山司郎、人見二朗、大平正美の三人が、●に考案して創り上げた新時代に即應した『寸劇集』なのだが、これは●に面白い」
ともあります。
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昭和17年1月19日付神奈川新聞より |
日吉劇研究の基礎資料のひとつといっていい『郷土よこはま』No.115で、小柴俊雄さんがまとめられた横浜歌舞伎座の上演演目一覧中、昭和16年9月30日〜10月9日の欄に「機山司郎 人見二朗 大平正美加入」とあることからも、昭和16年の夏頃に壽山司郎が日吉良太郎一座に参加したと考えて間違いないでしょう(「機山」は原資料の誤植か「壽山」の転載間違いと思われます)。
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『郷土よこはま』No.115(50ページ)より |
昭和18年1月に日吉劇の若手人気俳優・朝川浩成が曾我廼家五郎一座に加入し「幸蝶」の芸名で五郎劇の舞台に立つのですが、この際、壽山司郎も五郎劇に出て「蝶山」を名乗っていた新聞記事をどこかで見た覚えがあります。
…が、資料の山から現物を見つけることができていないので(とほほ)、ひとまずの記憶として提示しておきたいと思います。
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昭和18年2月8日付神奈川新聞より |
さらには、以前にも紹介しましたが、戦争も末期に近い昭和19年2月「神奈川県芸能報国挺身隊」の公演では壽山司郎と想定される人物が漫談を披露しています。
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昭和19年2月9日付神奈川新聞より |
以上のことから、壽山司郎は日吉劇に関わる俳優で、ざっくりいえば喜劇俳優、もしくはお笑い芸人のような存在だったと考えられます。
美空ひばりが幕間に出たという杉田劇場のポスターにも壽山司郎の名前があるので、彼は初期段階から大高一座に参加しており、やはりコミカルな役を担当する俳優だったのだろうと思います。
昔取った杵柄とでもいうのでしょうか、夏頃に一座の中でユニットを組み「じゃがいもコンビ」の名前で軽演劇やコントのようなものをやり始めたと考えれられます。新聞広告にも名前が出るくらいだから、なかなかの人気だったのでしょうね。
大高の没後、劇団は座長を欠いたまま公演を続けますが、その際の広告にも「ジャガイモコンビ」の名前があることから、壽山司郎は大高亡き後の劇団の人気を支える存在だったのかもしれません。
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昭和21年12月17日付神奈川新聞より |
しかし、壽山の人気をもってしても劇団の凋落に歯止めは効かなかったようで、翌昭和22年10月にはとうとう弘明寺銀星座の専属「自由劇団」の広告に「壽山じゃがいも」の名前が登場することとなります(「おなじみの爆笑王」として)。
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昭和22年10月14日付神奈川新聞より |
おそらくこれをきっかけに、壽山は古巣・日吉良太郎一座のメンバーが大半を占める自由劇団に移籍することとなったと思われます(その後、自由劇団の座員連名〔広告の右欄〕の中に「壽山」が出るようになります)。
翌週の広告にも名前が出ますが、ここで上演されているのは、『娘アイドントノウ』という芝居で、実はこれは大高生前の暁第一劇団でも上演されている演目です。壽山の十八番だったのかもしれませんね(どんな芝居だったのだろう?)。
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昭和22年10月21日付神奈川新聞より |
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiNA4fTz30HVvmcY7Yhs42bxwbLzmlz7PfAMJr3LtwqHOLxlyfGdZ5xWFls6gd_n1I3V7f5haPJko9BTmjQcUIKEz_ulYf8WxqRybtQQFeRcpFPe0CjWoV4ZR9XgNPjrozxCDy2PfzVUr9AyELM6vf7kL7oEJVisbf52Z1F6BnG5KYYAQGq34KSyHVba23V/s320/19460924_%E5%A4%A7%E9%AB%98_2.jpeg) |
昭和21年9月24日付神奈川新聞より |
ちなみに10月14日付の広告にある演目『應援團長の戀』は、映画『応援団長の恋』の舞台化だと思われます。
一方、杉田劇場で大高一座が上演した演目の中にも『応援団長』という作品があるのです(しかも壽山司郎が出ている)。
両者が同一なのか別物なのかは判断が難しいところですが、高峰秀子主演の『秀子の応援団長』という映画もあることから、大高一座が上演したのはこっちの舞台化(翻案)かなとも思っています。
ついでに言えば、10月24日付の広告の『兄と妹』は、銀星座の柿落としで近江二郎一座が上演した新派の名作です(室生犀星の『あにいもうと』の舞台化)。当たり前かもしれませんが、評判のいい作品は繰り返し上演されていたということなのでしょうし、著作権みたいなものもゆるゆるの時代だったのかな、なんて思います。
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昭和21年3月23日付神奈川新聞より(銀星座の柿落とし) |
そんなこんなで、今回は大高一座のユニット「じゃがいもコンビ」と壽山司郎について考察してみました。
→つづく
【おまけ】先日、所用ついでに弘明寺を参拝しました。その際、本堂の写真を撮ってきたので、大高葬儀の写真と合成してみたら、奥の柱や開帳場(スロープ)前の石畳など、驚くほどピッタリでした。大高の葬儀が弘明寺で執り行われたことは間違いありませんね。
※葬儀は行わず、写真だけ撮ったという可能性も否定できませんが、葬儀後に写真撮影という方が自然な気はします。
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真が見つかると嬉しいです。