(138) 肉の石川のはなし

杉田劇場の地元には、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」駅を結ぶ杉田商店街があって、乗り換え客の通り道であるせいか、人通りの多い賑やかな商店街です。

地元の歴史などを調べてみると、杉田が商店「街」というような形で成立したのは昭和初期からで、さらには今のようなにぎわいは、戦後、杉田駅前に闇市ができた頃からだろうと思われます(そもそも新杉田は昭和45年にできた新しい駅だし)。


杉田の地を大きく変貌させたきっかけは、市電の延伸(大正14年〜昭和2年)と京浜急行(当時は湘南電気鉄道)の開通と駅設置(昭和5〜6年)、さらに海軍の軍需工場であった日本飛行機(昭和9年)や石川島航空工業(昭和16年)の開設が影響したのだろうと僕は思っています。市電の延伸や京浜急行の開通も、横浜南部や横須賀の軍施設の設置と無関係ではないだろうとも考えています。

旧杉田劇場のオーナーであった高田菊弥からして、もともと戦時中、同地で日本飛行機の下請け工場を経営していた人ですから、杉田の街と軍需工場とが大きく関わっていたことは間違いなく、街としての成り立ちの原点は軍関係企業城下町のようなものだったと考えられます。


僕が転居してきた1970年代の終わり頃、杉田には企業の社宅や寮がたくさんありました。そもそも、それ以前の戦前・戦中から、杉田には前述の石川島や日本飛行機の社宅や寮が多くあったのです。

昭和6年刊の『土地宝典』を確認すると、商店や住宅の建ち並ぶ杉田エリアの大半は田や畑だったことがわかります。おそらく、工場建設にともなって、従業員の住宅確保のために、そうした田畑を住宅地にしていったのだろうと思われます。それが、大正時代頃までは梅林で名高い観光地として、また住民の暮らしとしては半農半漁の「村」としてあった杉田が、近代的な「街」へと変貌する第一歩だったのだろうと思います。

そのように、工場労働者や家族の衣食を賄うための商店が増えていったことで「杉田商店街」ができ上がっていったのだろうし、戦後は高度経済成長の中、多彩な商店があるという利便性とそれにともなう生活のしやすさが、各企業の社宅や寮を杉田に引き寄せたとも考えられます。

30〜40年前までは、商店街の賑わいからその頃の息吹が感じられたものです。


さて、このブログでも何度か言及していますが、現存する旧杉田劇場の記録の中に、新調された緞帳の写真があります。長らく昭和23年のものとされてきましたが、実際は昭和25年1月のものであることがわかっています(→こちら)。

旧杉田劇場緞帳(現杉田劇場所蔵)

ここには数々の個人名、店名が書かれていますが、その中に

「石川の牛豚肉」

があります。

拡大写真

写真が鮮明ではないものの、現物をよく見ると、店名の右肩には「杉田駅踏切際」、上に「うまいのである」と書かれていることがわかります。この店は「肉の石川」の看板を掲げて、杉田駅踏切近くで長らく営業を続けてきた精肉店です。

去る6月29日、多くの人に惜しまれながら、その「肉の石川」は閉店となりました。

店頭に貼り出された「閉店のお知らせ」によれば、開店は昭和24年だそうです。つまり緞帳に名前が書かれたのは開店から間もない頃だったわけです(そのことからも緞帳が新調されたのが昭和23年ではないことがはっきりします)


前述の通り、僕がこの街に転居してきたのは45年ほど前ですが、その頃の商店街には「肉の石川」のような個人商店がたくさんありました。商店街の成り立ちとともに開業した店がまだ多く残っていたとも言えます。

しかし、いろいろな事情があるのでしょう。ほとんどがいわゆるチェーン店に変わり、さらには杉田・新杉田両駅前の再開発などもあって、商店街の雰囲気は大きく様変わりしました。

旧杉田劇場の緞帳に書かれた店舗も、先年、隣町、白旗商店街の川崎青果店が閉店してしまいましたし、杉田にあった銭湯関係者の名前もすっかり過去のものとなってしまいました。これで「肉の石川」もなくなってしまうとなると、それとともに旧杉田劇場の記憶はもちろん、僕の知る杉田の街の様相もはるか彼方へ消え去ってしまうようにさえ思えてきます。

(昭和は遠くなりにけり)

とはいえ、それでもなお緞帳に名前のある深野力蔵商店(深野金物店)、平野歯科医院政寿司(伊藤政治)は変わらず営業を続けていますから、全国的に苦境が伝えられる地域の商店街の中では、杉田はまだまだ伝統を引き継ぎ、賑わいを維持する商店街として健闘している方なのでしょう。せめて、こんなマイナーなブログの中ででも、旧杉田劇場の記憶を継承することで、街の歴史を伝えつつ、地元の発展に寄与できれば嬉しいところです。


そんなこんなで、今回もまた傍流の話かつノスタルジーばかりになりましたが、旧杉田劇場の緞帳に書かれた「肉の石川」のお話でした。


2024年撮影


→つづく
(次回は7/17更新予定)

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(137) 山本小道具店のこと

 旧杉田劇場の従業員で、高田菊弥の甥だった片山さんの記憶証言は、杉田劇場のウェブサイトにも掲載されていて(→こちら)、これまでもたびたび参照してきました。

詳しく読むと、記憶違いなどもいくつかありますが、実際にその場にいた方の言葉ですから、不明な点の多い旧杉田劇場の推移を知るには貴重な証言で、この内容の事実関係を再確認することが僕の調査の基本線のひとつでもあるわけです。


昭和21年2月、大高よし男が専属劇団の座長と決まって、あわただしく準備が進められていった経緯を語る中に、こんな発言があります。

"小道具類は、弘明寺観音様のウラの方に山本小道具店があり、狂言の変るごとに店に借り入れに行き、リヤカーを引っぱり栗木の坂道を通り(浜中学校手前の切り通し・杉田3丁目29から栗木2丁目の笹下道路)、上大岡の花街を通って山本小道具店に通いました"

具体的な名前は大高につながる可能性もありますから、弘明寺観音の裏にある山本小道具店は当然、大きな手がかりになるだろうと、あれこれ調べていましたが、これまでその場所を特定することはおろか、どんな店だったのかも確認できずにいました。


それが先日、別件で、長く横浜のアマチュア演劇で活動してきた知り合い(大先輩=80代男性)と話している際、役者が激しく動いても衣装が乱れない着方という話題の中で、そのやり方を「山本のおばさんに教わった」と話してくれたのです。

「山本の」と、あたかも僕がその人を知っているかのように言うので、恥を忍んで尋ねて見たところ、弘明寺に衣装や小道具を貸す店があったんだ、と話してくれたわけです。

なんと、その方は子どもの頃、山本小道具店に出入りして、かわいがられていた上に、芝居に関わるさまざまなことを教えてもらっていたと言うのです。さらに聞いてみると、芝居小屋だった銀星座にもよく出入りしていたのだとか。

まったく思いがけない話で、本題も忘れてあれこれと興奮気味に聞いてましたが、いかんせんその日は別件。銀星座のことはひとまず後日ということにして、それでも山本小道具店の位置だけはざっくりと場所を聞き出しておいたわけです。

で、先日、昭和30年代の明細地図を確認してみた結果…

ありました!

昭和35年 南区明細地図より

地図には「山本小道具店」ではなく「演劇用品 山本」とあります。明細地図の作成は現地調査に基づくそうですから、実際、そういう名称の看板なり表札なりが掲げられていたのだと思います。

片山さんの証言にあった「弘明寺観音のウラ」というのは、文字通りの裏ではなく、杉田や上大岡から見れば「手前」にあたる場所で、住所でいうと中里町、現在の住所だと南区中里3丁目付近、京急の高架下にある「みうら湯」の近くだったのです(現在地図の星印のあたり)。

Googleマップより

山本小道具店がこの場所にあったのならば、杉田新道の切り通しを抜けて、笹下道路(笹下釜利谷道路)から上大岡の花街を通って行ったという片山さんの話もうなずけます。


南区の明細地図は昭和32年、35年、39年と続きますが、昭和39年の地図にはただ「山本」とだけ書かれているので、昭和35年から39年の間に廃業したのだと思われます。実際、私が話を聞いた方も、昭和30年代の後半には店を閉めていたはずだと言っていました。

山本小道具店の少し先には梅沢劇場があり、その先は弘明寺商店街で、銀星座もすぐ近くです。どちらの劇場にも山本小道具店がさまざまな衣装や小道具を貸し出していたのだそうです。

昭和20年代の終わりから昭和30年代のはじめにかけて、劇場は軒並み閉場しますから、時流を受けて山本小道具店も廃業・引退ということになったのでしょう。

それでも後年、その知り合いがアマチュア演劇を始めてからも、上述のように衣装や小道具などのアドバイスは受けていたようだし、当然、大高よし男や鈴村義二が山本小道具店に出入りしていた可能性もあるわけで、そのあたりも含めて、疑問点などまとめて、じっくり話を聞いておきたいと思っています。

(大高の葬儀写真に山本さんが写っていたりするのかも)


そんなこんなで、今回は旧杉田劇場もお世話になったという弘明寺の山本小道具店についてのお話でした。


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(136) 横浜近江養鶏株式会社

近江二郎の父は近江友治といい、広島県芦品郡福相村(現福山市)の出身です(古い住所では芦品郡有磨村のよう)。もともと戸田家に生まれましたが、近江家の娘・千枝と婿養子に入る形で結婚したことで、近江姓を名乗ることになります。

友治と千枝の間には長男・一雄、次男・二郎、三男・郁三、四男・資朗、五男・謙吾、六男・六郎、長女・富江、次女・孝子の六男二女が生まれ、次男の二郎がのちに役者となる近江二郎というわけです。また四男の資朗も兄の劇団に参加して「戸田史郎」の芸名で役者となります。芸名が戸田なのは父方の実家の姓をとったと思われます。


友治は郷里で学校の教員(訓導)をしていましたが、かなり進取の精神を持った人だったようで、貧しい家の子供に教育を授けるための資金集めとして、養鶏を提案したり、妻・千枝の反対を押し切って一家揃って横浜に転居するなど、アグレッシブな人生を送ったと思われます。

進取の精神とはいえ、教職にあったことや、養鶏で資金集めを考えるなど、堅実で真面目な一面もあったはずで、二郎が役者になると言い出した時には、激怒して二郎を勘当したのだそうです。


広島出身ということもあるのでしょうか、友治は子どもたちを積極的に海外へ渡航させます。

長男の一雄、三男の郁三、五男の謙吾、六男の六郎は、いずれもハワイやアメリカ西海岸へ渡り、クリーニング業や養鶏など、さまざまな仕事をしてアメリカで暮らすことになります(何度か引用している近江家のファミリーヒストリー "FIFTH BORN SON" はその経緯などを謙吾の子、ジョージが著した本です)。

これも以前から何度か書いている近江二郎一座のアメリカ興行は、実は五男の謙吾を中心に、アメリカ在住の兄弟たちが招聘したもので、その成功はひとつには日系社会の中で確固たる地位を得ていた兄弟の人脈が物を言ったとも考えられそうです。

おそらく大正に入ってから、父・友治も渡米して養鶏を学んだそうで、大正9年の「日米住所録」には、カリフォルニア州のペタルマ在住の日系人として、一雄とともに名前が記録されています。

「日米住所録 1920年」(日米新聞社)より

広島から出た時期や、渡米、横浜に転居した時期など、詳細な時系列はまだ調査途中ですが、アメリカから帰国後、大正12年、友治は横浜井土ヶ谷に「横浜近江養鶏株式会社」を設立します。

官報(1923年8月3日付)より

内容を転記します。

●株式会社設立
一 商号 横浜近江養鶏株式会社
一 本店 横浜市井土ヶ谷町八九八番地
一 目的 初生雛親鳥百日雛●●卵食卵販売其他之レニ附帯する営業
一 設立年月日 大正十二年四月三日
一 資本総額 金四万円
一 一株ノ金額 金二十円
一 各種払込額 金二十円
一 公告方法 横浜貿易新報ニ掲載ス
一 取締役ノ氏名住所
 近江友治 横浜市井土ヶ谷町八九八番地
 末房増太郎 広島県御調郡栗原村字竹屋九七七六番地
 三村軍蔵 横浜市万代町三丁目五七番地
 渡井政次 同市黄金町一丁目四番地
 直江亀吉 同市西戸部町字御所一二九番地
 笠川源蔵 同市大岡町一一九番地
一 監査役ノ氏名住所
 戸田保 広島県芦品郡有磨村字下有地北一一一三番地
 武安正和 横浜市弘明寺町二八九番地
一 存立時期 設立ノ日ヨリ満三十箇年


この会社が設立された大正12年4月といえば、横浜喜楽座で絶大な人気を博していた近江二郎が喜楽座を去って2ヶ月後ですから、もしかしたらその人気にあやかって会社を作ったのかもしれません(すでにこの頃には二郎の勘当は解けていたそうです)。


さて、この会社の取締役と監査役についても少し調べてみたところ、なかなか興味深いことがわかりました。

友治に次いで名前が記載されている「末房増太郎」という人は、上掲の「日米住所録」に近江友治と同じペタルマ在住の日系人として名前が記録されていますから、同じ時期にアメリカに渡った同郷の士ということになります。

後年は郷里に製材や下駄製造の会社を設立したようです。

つづく「三村軍蔵」「渡井政次」「直江亀吉」の3人は、横浜のタクシー会社、神奈川都市交通の前身で、大正7年に設立された「横浜市街自動車」の取締役として名を連ねています。

官報(1919年1月16日付)より

このうち、「三村軍蔵」は同社の二代目社長になる人で、会社の基盤を作った人とも言っていいようです。その時の専務取締役が「直江亀吉」ですから、横浜のタクシー業界の先駆者たちが近江友治の会社の取締役も兼務していたということになります。

渡井政次」は横浜市街自動車の取締役だけではなく、本業は西洋料理店の経営で、現在も桜木町駅の構内にある「川村屋」の創業者の娘婿でした。

有名な話ですが、桜木町の立ち食いそば店・川村屋はもともと西洋料理店で、横浜で名高い富貴楼お倉の弟で、列車内の貸座布団業を営んでいた渡井八太郎の妻、渡井つるが開業しました。その後、伊藤博文の口利きで当時の横浜駅(現在の桜木町駅)構内にレストラン(川村屋洋食店)を開き、それが現在の川村屋につながるのです。

甲府出身の政次は中学卒業後に横浜へ出て、渡井八太郎のもとで働いているうちに、信頼を得て娘婿になったということだそうです。

こうした当時の横浜財界人が、どういう理由で近江友治の養鶏会社の取締役になったのか、その経緯はまったくわかりませんが、いずれにしても当時の最先端というような事業の経営者たちとのつながりがあったことは間違いなさそうで、そこに喜楽座の人気役者、近江二郎の存在があったと考えてもいいような気はします。

ちなみに現在の川村屋の名物は「とり肉そば」ですが、友治の養鶏と何らかの関係があるのかもしれない…なんていうのは悪癖の妄想でしょうね。

さて、取締役の最後に名前があるのは「笠川源蔵」ですが、この人のことはよくわかりません。ただ「笠川」という姓は近江二郎の妻、深山百合子の本名と同じで(笠川ヒデ)、おそらくこの頃の近江二郎は前妻と離婚し、百合子と結婚して笠川家に婿養子に入っていますから、もしかしたら笠川源蔵は二郎の義父ということなのかもしれません。


残る二人の監査役も興味深い存在です。

「戸田保」は姓や住所からもわかるように、友治の実兄です。二郎にとっては伯父にあたる人です。兄に監査役を頼むのはごく自然なことのように思えます。

「武安正和」は横浜英和女学校(現在の横浜英和学院、以前の成美学園)の二代目教頭で、同校の校歌を作詞した人だそうです。

調べてみると実は友治とは同郷で(広島県芦品郡福相村出身)、広島師範学校を出ている人ですから、友治からすると郷里の教育者として大先輩というべき人だったようです。両者の間にどこでどんな縁があったのかはよくわかりません。横浜在住の広島出身者ですから、何らかのつながりはあったと想像できます。

友治の会社が設立された大正12年には、武安はすでに横浜英和女学校を退職し、弘明寺に「光華女学校」を創立しています。横浜英和女学校も同年、山手から現在の蒔田に移転していますから、その頃に具体的なつながりができたのかもしれません。いずれにしても同郷のよしみで、監査役を頼んだのでしょう。ただ、武安正和は大正12年11月に亡くなっているので、近江友治との関わりはごく短期間だったようです。

ちなみに武安の創立した「光華女学校」は創立年の9月に起こった関東大震災で被災し、存続ができなくなりましたが、總持寺がその運営を引き受け、戦後は鶴見女子中学校・高等学校となって、現在まで続いています。


友治の会社に話を戻します。

官報によると、横浜近江養鶏株式会社は、昭和4年6月19日をもって解散したとのことです。

官報(1929年8月31日付)より


もっとも、会社としては解散したものの、養鶏は続けていたようで、戦後も同地に鶏舎はあったそうです。近江家の人々は多くがその鶏舎の周辺に住み、横浜の地に根を下ろして、戦後もずっと暮らしました。

現在、西光院というお寺のある谷戸の一角です。

役者のかたわら縫製業を営んでいた近江資朗(戸田史郎)の家も近くにありましたが、火災に見舞われて磯子区中原(杉田の隣町)に転居します。

近江二郎の家はよくわかっていませんが、やはり井土ヶ谷、弘明寺あたりに住んでいたと思われます。二郎没後の深山百合子は鶴巻橋の近く、通町一丁目あたりに住んでいたそうで、戦前の活躍を知る人も少なくなっていた中、ひっそりと晩年を過ごしていたようです。

二郎夫妻と在米の兄弟を除く一族の墓は、南太田の常照寺にあります。



そんなこんなで、今回は近江二郎の父が設立した養鶏会社についてのお話でしたが、思いのほか幅広い人間関係が垣間見られて、とても興味深い調査となりました。取締役・監査役の人たちのことをもう少し深掘りすると、近江二郎をめぐる横浜の人脈がさらにはっきりするのかもしれません。


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(135) 市川小太夫と市川栄舛

終戦後、神奈川県歌舞伎連盟というのができたという話は、以前ここで書きました(→こちら)。

1951(昭和26)年6月のことです。

この連盟は市川小太夫が呼びかけたもののようですが、一方で、当初、連盟公演の広告に名前のあった市川栄舛が、まったく同じ日程で、弘明寺銀星座で「東京名題大歌舞伎公演」と銘打った興行をやっていて、この両者に何らかのトラブルがあったのではないかと、下衆の勘ぐりみたいなことも想像していたところです。

その後、栄舛の方は同じ座組でたびたび銀星座の舞台に立っていましたが、小太夫の方は横浜の劇場では、しばらく名前を見ることがなくなっていました。


それがその年の10月、ふたたび三吉劇場・市川小太夫劇団の「第二回公演」と銘打った興行が新聞で告知されるのです。4ヶ月ぶりの横浜興行ということになるのでしょうか。

1951(昭和26)年10月23日付神奈川新聞より

しかし不思議なことに、ここには「神奈川県歌舞伎連盟」の文字がまったく見られないのです。4ヶ月前の華々しい宣伝がなかったかのようです。ですが「第二回公演」とあることから、これが6月の「連盟結成第一回公演」の次の興行であることは間違いなさそうです。

もしかしたら、6月の結成公演をめぐるトラブルで連盟自体が頓挫してしまったのでしょうか。それ以降、神奈川の歌舞伎(小芝居)は小太夫一派と栄舛一派に分裂してしまったかのようにも見えます。

断続的に銀星座で興行していた栄舛一座には

市川女猿
尾上大助
片岡燕之助
坂東亀久之丞
市川蔦之助
沢村清枝
関花三郎

らの名前が連なり、一方の小太夫劇団には

沢村清之助
市川猿十郎
市川門三郎
市川秀猿

らが出演していて、主な役者は重複していません。少なくとも「連盟」として一体感のある状況のようには感じられません。

興行の世界ですから、感情の行き違いや思惑の差などでトラブルが起こるのはままあることでしょう。

一方で、時が経つと自然と手打ちになるのもよくある話で。

翌年、昭和27年の銀星座新春興行、市川栄舛大一座の広告には、小さいながら「市川小太夫劇団応援出演」と書かれているので、このあたりで和解が成立したのかな、と、これまた下衆の勘ぐりで思ったりもするのです。

1952(昭和27)年1月1日付神奈川新聞より

6月の「連盟結成公演」の際には、同じフォーマットの広告で「他の劇場には出演は致しません」と強い表現で、連盟との断絶を宣言していた同じ箇所に「応援出演」の文字が記されていることからも、そんな妄想が湧いてきてしまうわけです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

それがきっかけになったのでしょうか。「応援出演」の出た後の銀星座では「市川栄舛大一座」ではなく、「新生歌舞伎公演」「市川女猿・尾上大助躍進劇」と銘打たれる形に変わっていきます。若手歌舞伎という印象ですから、栄舛が前面に出ずともいい状況になったのかな、なんて、またまた下衆の勘ぐりをしそうにもなります。

1952(昭和27)年1月16日付神奈川新聞より

1952(昭和27)年1月17日付神奈川新聞より

もっとも、市川小太夫劇団が三吉劇場で第二回公演を行なっていた時期、銀星座は10月13日から「浅間劇団」、21日からは「前沢稲子一座」の興行が続きました。栄舛一座が小太夫劇団に興行をぶつけるようなことはしていないわけで、そもそも確執のようなものは最初からなかったとも言えます。僕の推測はやはり勝手な妄想なのかもしれません。


さて、この件を調査する過程で興味深いことが3つ見つかりました。

ひとつめは昭和26年秋、銀星座で興行していた市川栄舛大一座が、突然、11月21日から八丁畷の「大成座」という劇場で興行を始めることです。

1951(昭和26)年11月20日付神奈川新聞より

八丁畷の劇場というのは初耳です。川崎も空襲の被害が甚大でしたから、中心部ではなく周縁に劇場ができていたのでしょうか。とはいえ、かなり唐突に新聞広告が出たので驚かされました。


もうひとつは、栄舛一座が八丁畷の劇場に出ていた頃、銀星座では「福島一男一座」が興行をしていたということです。

1951(昭和26)年11月20日付神奈川新聞より

実は、この名前には覚えがあります。杉田商店街の菓子店「菓子一」の相原一郎さんが書かれた本の中に、戦前の杉田で興行した旅まわりの一座として登場するのです(→こちら)。

東漸寺の海側にあった海苔干し場で興行していた福島一夫一座。字は異なりますが、同じエリアの話ですから、おそらく同じ人だと思われます。

戦前の杉田と戦後の弘明寺で、同じ劇団が興行していたのを思うと、なかなか感慨深いものがあります。


最後は上掲の「新生歌舞伎公演」の広告です。よく見ると、この中に「岩井小紫」と読めそうな役者の名前があるのです。


横浜における小紫については以前も検証しましたが(→こちら)、『越境する歌舞伎』で詳述されている小芝居(中芝居)の役者です。

同書によると初代岩井小紫は戦死し、

"昭和二十五〜二十六(1950〜51)年頃から、二代目岩井小紫(智子)を看板とする「岩井小紫劇団」の名を使うようになっていった" (P.112)

"昭和二十六年(一九五一)年、二代目小紫(智子)が結核を発症し、一時休業することになった" (P.113)

とのことです。

さらには、三代目小紫の襲名が「昭和二十七(一九五二)年頃から」(P.113)とありますから、上掲、昭和27年2月の銀星座の舞台に立ったのは三代目ということになるのでしょうか。

もしそうだとすると、襲名からまもない頃だと思われます。そんな時期に郷里を離れて横浜の舞台に立った事情はどういうものだったのだろうと、興味が湧いてくるところです。


そんなこんなで、毎度のごとく大高調査は思わぬところへ広がっていきますが、当然ながら大衆演劇だけでは横浜の演劇界の全体像は見えず、歌舞伎や新劇、アマチュア演劇も含めて調べ、俯瞰していくことが必須なのだということが、このところよくわかってきました。

そんなこんなで、今回は「神奈川県歌舞伎連盟」のその後、というべきお話。次回は近江二郎の周辺情報などについて書ければと思います。

※なお、諸事情により次回更新は6月5日といたします。


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(134) 杉田劇場の少年防犯劇

1951(昭和26)年11月末、杉田劇場で「少年防犯劇」なるものが上演されます。パッと見では前回の投稿にあったような公的なイベントのようにも思えますが、11月27日から30日まで、昼夜2回公演というのですから、かつての大高一座のルーティンのように、4日間続く事実上の「興行」にも思えます。

この公演、新聞の催し物欄のようなところに小さく掲載されたものではありますが、これまでの調査の流れからすると実に驚くべきものだったのです。


少年防犯劇の主催は「磯子区少年成人保護司会」で、区・警察署・福祉協議会・新生活運動会その他が後援したもの。これも前回書きましたが、杉田劇場のオーナー、高田菊弥は長く保護司を務めていたので、その関係で企画されたものかもしれません。

芝居のタイトルは少年防犯実演『少年の血は燃えている』、上演団体は「劇団新国民座」。

その出演者として列記されているのは

・寿山良海
・荒川仁作
・大江三郎
・瀬川銀潮
・沢田一郎
・深山一夫
・深山登
・中村一郎
・江川町子
・大友マリ子
・深山百合子

という顔ぶれです。

1951(昭和26)年11月27日付神奈川新聞より

なんと、ここには大高一座の支配人であった「大江三郎」の名前があるほか、近江二郎の妻で女優の「深山百合子」の名前もあります。また、戦前の日吉劇や戦後の銀星座・自由劇団で幹部俳優だった「荒川仁作」もいます。

さらには「寿山良海」という名前は大高一座から自由劇団に移った「寿山司郎」と同姓で、彼が改名したもののようにも思えますし、「大友マリ子」も大高一座の「高杉マリ子」を連想させます(そもそも「高杉」は大高の前名)。おまけに百合子のほかに「深山」姓が2人いることから、この人たちは百合子の弟子、または近江一座の残党とも考えられます。

※「寿山良海」というのは、調べてみると明治40年に鶴見区生麦の龍泉寺の堂宇を再興した住職と同じ名前なのだけど、何か関係があるのかしらん?

こうした座員連名から推測できるのはこの「劇団新国民座」というのは、高田菊弥か大江三郎が大高一座や自由劇団、近江一座などの役者に声をかけて集めた劇団ではないかということです。

この芝居のために臨時に即席で作られた団体なのかもしれませんが、あたかも、戦前からの横浜の大衆演劇を牽引してきた日吉良太郎一座と近江二郎一座が、ここで奇跡的な合同公演をやっているかのようにも見えてきます。

その事実を見るに、杉田劇場はもちろん、大高一座の面々も演劇界を去ったわけではなかったことがわかって、なんとなくホッとするような、嬉しいような、不思議な気持ちにもなります。


ところで、戦後もこの頃になると実演は下火になって、映画が全盛を迎える、というのが一般的な定説ですが、一部の人にとって実演への夢は捨てきれないものがあったようで、この時期、井土ヶ谷に「百万弗劇場」ができたり、広告に突然「根岸劇場」(根岸橋)の名前が出てきたりします(いずれもまもなく映画館になってしまうようですが)

綱島では温泉場の健全化から「関東の宝塚」を目指したレジャーセンター構想みたいなものもあったようで、その中には「大衆バレエ劇場」なる大劇場をつくろうとしていたほどです。

1951(昭和26)年12月14日付神奈川新聞より


1952(昭和27)年1月7日付神奈川新聞より


1951(昭和26)年12月19日付神奈川新聞より

実演といえばストリップ一色になりつつある時代、かろうじて定期的な興行の内容がわかる銀星座では、剣劇や歌舞伎(小芝居)もまだまだ健闘しています(昭和27年11月までは興行が続いていたようです)

実演は斜陽というのは、結果としては事実だったとしても、当時の劇場建設の動向や興行主の心情を推し量ると、そんなに単純なものではなかったような気もしてきます(銀星座のあった弘明寺には後年、昭和29年に「梅沢劇場」が開場)


さて、本題の少年防犯劇に戻ります。

この芝居がどんな中身だったのかはわかりませんが、「防犯劇」というスタイルの芝居は、かつて銀星座の自由劇団が何度か上演しています(→こちら)。警察との提携で実際に起こった事件などを劇化し、防犯につなげようという一種の道徳劇みたいなものなのでしょう。荒廃した戦後の世相を反映しているようにも思えます。この少年防犯劇自体、もしかしたら自由劇団の防犯劇にヒントを得て上演されたのかもしれません。

振り返ってみれば、新聞小説や実際の事件を題材にするのは新派の常套でもあるので、いささか暴論ではありますが、この時期の「防犯劇」自体が新派の直系と言ってもいいような気すらします。

さらに言えば、高田菊弥はこうした公的事業の中で芝居を生かしていくことに実演の生きる道を見出していたのかもしれませんし、あわよくばこの劇団でもう一度かつての栄光を取り戻したいと考えていたんじゃないかとさえ思えてきます(妄想多め)。

戦前の近江二郎が、息巻いて「本来の新派」の復興を期していたことを思うと、少年防犯劇もそうした近江の目指す「新派」の伏流が、激動の戦後にあって顕現化したものだったのかもしれません(さらに妄想多め)。


その後、この劇団が継続したのかどうか、またそうだったとして、どういう方向に進んだのかは今のところ不明です。この先の調査でその痕跡が見つかるのかもしれません。

この芝居に出ていた深山百合子は昭和42年1月8日に亡くなりますが、晩年を知る方によれば、三味線を教えたりしていたものの、舞台に立っていたような話は聞いていないので、近江二郎亡き後、この杉田劇場での防犯劇が彼女にとっての最後の舞台になったのかもしれません。


小さな記事も丹念に拾っていくと、思いがけない情報に出くわすものです。

そんなこんなで、今回も戦後の杉田劇場についての話でした。



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(133) 昭和26年の杉田劇場

大高の周辺情報というには時期がずれ過ぎていますが、今回は久しぶりの旧杉田劇場ネタです。あまり新味はないものの、ひとまず。


1951(昭和26)年になると、杉田劇場の新聞広告はほぼ見られなくなります。従業員だった片山茂さんの証言ではすでに株式発行の頃(昭和23年8月)には経営が傾いていて、青息吐息だった様子が語られていますが、広告を見る限りでは昭和25年の秋まではある程度の頻度で興行が行われていたことがわかっています。


年が明けて、昭和26年の正月にはお馴染み、市川門三郎一座の初春興行がありましたから、劇場としてこれまで通りの新年を迎えていたようにも思えます。しかし、この年、広告らしい広告はこれが最後と言ってもいいくらいの状況になっていきます。

1950(昭和25)年12月31日付神奈川新聞より

市川門三郎一座に次いで、新聞紙上に杉田劇場の名前が登場するのは、昭和26年2月22日付の催し物欄で、屏風ヶ浦地区広報委員会による「市民の集い」のお知らせです。

1951(昭和26)年2月22日付神奈川新聞より

この「屏風ヶ浦地区広報委員会」については、現杉田劇場に所蔵されている写真の中に「発会式記念」と付記された一枚が残されています。日付は昭和24年5月20日で、杉田劇場のロビーで撮られたものです。最前列の左端に劇場オーナーの高田菊弥と思われる人物がいることから、その縁で杉田劇場が利用されたものと考えられます。

屏風ヶ浦地区弘報委員会発会式記念 24.5.20 杉田劇場
(現杉田劇場所蔵)

高田菊弥は磯子区で長く保護司を務めるなど、地域活動に積極的に関わっていたようで、おそらくその縁でしょう、その他の残された写真をよく見ると「赤十字奉仕団結成式」などの文字が確認できます。

日本赤十字磯子区屏風ヶ浦地区奉仕団結成式記念 25.1.19
(現杉田劇場所蔵)

さて、話は戻って、昭和26年。

この年の杉田劇場は、そのほかに「オール横浜総合芸能コンクール」(「市民芸能コンクール」という名称に変わっている)の予選会場としても利用されていましたし(10月6日)、コロムビアの「全国歌謡コンクール」の予選会場としても使われています(9月16日)。

1951(昭和26)年9月22日付神奈川新聞より

1951(昭和26)年9月15日付神奈川新聞より

こうした状況を見ると、民間劇場というよりは公的な事業の会場としての利用が多い印象で、公共施設の色合いが濃くなったようにも感じられますが、実際のところはよくわかりません。

旧杉田劇場の写真として最も知られている劇場正面を写したものは、拡大して「若月昇劇団」が来演したときのものだと判明していますが、この「若月昇劇団」についてはこれまで新聞広告にまったく出てきませんから、広告に出ない興行がまだ他にもあったのではないかというのが、僕の見立てです。

旧杉田劇場正面(現杉田劇場所蔵)

経営が傾いていたという片山さんの話が残っているわけですから、安定して興行が続いていたとは考えにくいところでもありますが、「広告が出ない=公演がない」というのもいささか短絡的で、近隣の銀星座や三吉劇場ですら、広告掲載の頻度は下がってきますから、むしろ掲載にかかる費用が値上がりして、広告出稿を見送っていたのではないかとも思えるのです。


さて、同じ昭和26年には、アマチュア劇団の葡萄座も公演を行なっています。4月14日(土)・15日(日)の二日間で、演目は菜川作太郎『闘鶏』、木下順二『彦市ばなし』、田中澄江『ほたるの歌』の三本。

1951(昭和26)年4月14日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログによれば、この葡萄座の公演記録によって、旧杉田劇場がこの時期まで存続していたことがわかると記されています(→こちら)。実際は上掲の通り、この年の9月と10月、2つのコンクール会場としても使われているので、少なくとも昭和26年秋までは劇場として存続していたと言えそうですし、「昭和27年」とキャプションのある浜中学校学芸会の写真もあるので、その頃までは継続していたのだと考えてもよさそうです(ただし、このキャプションが正確かどうかは未確認です)。

昭和27年 浜中学校学芸会@杉田劇場庭園「安寿と厨子王」
(現杉田劇場所蔵)


余談ですが、4月に杉田劇場で公演をした葡萄座は、同年9月にはオデヲン座で「創立五周年記念公演」を行います。「全横浜演劇フアン待望の新劇」「戦後始めてオデヲン座の舞台で本格的演劇公演」というキャッチコピーには、相当な力の入れようが感じられるところですし、「北林透馬氏特別解説講演」があったというのも、興味深いところです。

1951(昭和26)年9月3日付神奈川新聞より

北林透馬は戦前から横浜文化の中心人物のような人でしたが、戦後は一時期、磯子の間坂に住み、アテネ劇場の支配人をやっていたという話もあるので、その頃から劇作家の神谷量平氏ら地元の文化人との交流が生まれ、それを通じて葡萄座など市民文化団体との関わりを深めていたのかもしれません。


ちなみに戦前から長者町にあったオデヲン座は米軍に接収され「オクタゴン劇場」となっていたので、この広告にある「オデヲン座」は1947年、曙町に新設されたものです(その経緯は→こちら



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(132) 川上好子ふたたび

川上好子のことはこれまでにも何度か書いてきました。

日吉劇のメンバーで、昭和10年の「復興博の女神」コンテストで3位に入賞したことや(→こちら)、その後、日吉劇を離れ、各地の舞台に立っていたことなどです(→こちら

横浜出身で横浜に住んでいたこともわかっています。

しかし、その経歴の詳細はよくわかりませんでした。


ところが、大高よし男や近江二郎の足跡を辿るべく、例によって都新聞を確認していたところ、思いがけず彼女の名前に出くわすこととなったのです。

川上好子は昭和15年3月、近江二郎一座が横浜敷島座に来演した時に、この一座に参加していて、翌16年に再来演した際にも共演していますから、大高とも同じ舞台に立ったということになります。

近江二郎はどうやら昭和15年1月から籠寅演芸部に所属したようで、川上好子も同じ頃に籠寅専属となったらしく、それが敷島座での共演につながったのだと考えられそうです。

前年の昭和14年に初代大江美智子が急死していますから、保良浅之助としては剣劇・女剣劇のブームが萎まぬよう、さまざまな役者と専属契約を結んで、層を厚くすべく補強をしたということなのかもしれません。

で、くだんの記事。

1940(昭和15)年3月11日付都新聞より

この記事によれば、川上好子は

「最近籠寅専属になつて賣出した」

役者で

「川上貞奴創設の川上児童劇園の出身」

とあります。

川上児童劇園とは、正確には「川上児童楽劇園」といい(劇「団」ではない)、川上貞奴が1924(大正13)年に創設した、児童を対象とする一種の俳優学校。5歳から15〜6歳の児童が全寮制の「園」で演技や音楽などさまざまな科目を学ぶ場で、当初は青山に、翌年には二子玉川に移転して、昭和7年まで継続したのだそうです。


都新聞の記事が正しければ、川上好子はこの学校(楽劇園)で俳優への第一歩を踏み出したということになります。

川上児童楽劇園については、よく調べていないので、それ以上の詳細がよくわからないほか、川上好子がどういう経緯で入園し、どういう活動をしていたのかなどもさっぱりわかりません。

前々回の投稿で引用しましたが、1941(昭和16)年4月、横浜在住の俳優として好子が新聞で紹介された時には「27歳」と書かれていますから、計算すると1914(大正3)年頃の生まれで、川上児童楽劇園が創設された時期には10歳前後。閉園時の昭和7年だと18歳になりますから、昭和のごく初期ならば年齢的に入園資格を満たすことになります。。

昭和10年の復興博の女神コンテストに参加した時にはすでに日吉劇のメンバーでしたから、昭和初期、川上児童楽劇園を卒園したのちに、何らかの経緯で日吉良太郎一座に参加したと考えられます。


都新聞の記事には、川上音二郎の俳優学校を出た近江二郎が、川上好子の経歴を知って「同窓の友だ」と周囲に吹聴したとあります。

大正時代、喜楽座で新派の気鋭の俳優として人気を博していた近江二郎でしたが、その後は新派というよりは剣劇役者のようにみられたり、アメリカ巡業で話題となりつつも、グロテスク劇場以降はあまり注目もされず、役者としての出自たる新派のメインストリームからも外れていたことを思うと、音二郎と貞奴の違いはあれ、同じ川上の薫陶を受けた好子との出会いは、彼にとって心強いものがあったのかもしれません(近江二郎の新派への思いは→こちら)。


もっとも記事はゴシップネタですから、

「同じ川上畑でも近江は明治、好子は昭和の育ち 間に大正といふ年代のあつたのを計算に入れてゐないあたり、いゝ気なもの」

と、結んでいるあたり、近江二郎の思いはいささか空回り気味に受け取られていたのかもしれませんが。

とはいえ、両名ともに実力は折り紙付きで、のちに近江二郎は不二洋子一座に、川上好子も酒井淳之助や青柳龍太郎らの一座に参加するなど、横浜敷島座を足がかりに、籠寅の大衆演劇・剣劇戦略の中で、活躍の場をさらに広げていくことになります。

それはのちに伏見澄子一座や松園桃子一座に参加する大高よし男も同じで、近江二郎・川上好子らと同じ籠寅の系譜にいたことは、この点からも間違いなさそうです。


これまで調べた中では、戦後、川上好子の名前を見ることはなくなります。動向はよくわかりません。住所は長者町で、横浜大空襲があったことを思うと、悲劇的な事象が起こっていたのかもしれませんし、単に引退したということなのかもしれません。

川上児童楽劇園のことも含め、もう少し深掘りして調べてみる必要がありそうです。


そんなこんなで、今回は川上好子の経歴についてのお話でした。

次回も周辺情報についての報告になりそうです。



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(131) 近江一座の消息と大高義男

大高よし男の足跡は、1940(昭和15)年3月に横浜伊勢佐木町・敷島座の近江二郎一座に参加したという新聞記事が一番古い記録です。

それ以前のことがよくわからないので、彼がいつ近江二郎一座に参加したのかが、解明の鍵になるだろうというのは、かねてから繰り返し考えてきたことです。

それを探るべくさまざまな資料を調べてきましたが、これがなかなか判明しない(無念)。


ということで、これまでの調査に見落としがないかと、最近はずっと都新聞の1939(昭和14)年の演芸欄を細かく調べて、横浜に来る前の近江二郎の消息を探ってきました。

しかしながら、芸界往来の欄にも彼の名前が出ることはなく、他の欄にもまったく記載がないことから途方に暮れるばかり。4月いっぱいまでを調べたところで目も腰も限界に達し、痺れを切らして、横浜に来演した昭和15年春まで一足とびにスキップしてみたところ、ゴシップ欄(?)にようやくこんな記事を見つけたのです。

1940(昭和15)年2月27日付都新聞より

記事に曰く

"新派の古強者近江二郎、アメリカあたりを巡演してゐたところまでは判つてゐたが、其後どこにどうしてゐるのかと思つたら、此程■然と姿を現し此三月には横濱出演が決定"

これを読むと、どうやら新聞社の方でも、近江二郎という名前は昭和初期の活動(おそらく「グロテスク劇場」あたりまで)のあとは、あまり耳にしていなかったようで(どこにどうしてゐるのかと思つたら)、なるほど、記事に名前が出ないのもそういう事情なのかと腑に落ちました。この時期(昭和10年代前半)、近江二郎一座は京浜地区や京阪地区の主要な劇場では活動していなかったのだろうと想像されます。

もっとも『近代歌舞伎年表』を参照すると、昭和10年代の初め頃(昭和13年まで)は年に1〜2度のペースで名古屋の劇場(宝生座など)には出演していたようなので、名古屋を拠点として旅公演をしていたとも考えられます。

いずれにしても、昭和15年春、敷島座への出演(つまりは籠寅演芸部への所属)で、近江二郎はふたたび脚光を浴びるようになったようなのです。

ですから、おそらくこの少し前にあったであろう、大高よし男と近江二郎の出会いは、全国紙や首都圏の新聞からは判明しない可能性が高く、京浜、京阪、中京以外のエリアの新聞や資料を探索するしかないのかもしれません(しかしどの地域を探せばいいのだろう…)。

上掲の記事はこう続きます。

"喜んだのは松竹大船にゐる近江門下の面々、師匠更生の祝いに引幕、幟などを注文したが、これは国策に反するとあつて禁じられてゐることが判り(以下略)"

この記述から、どうやら近江二郎の弟子にあたる役者が松竹大船撮影所に複数名いたことがわかります。具体的な名前が上がっていないので詳細は不明ですが、戦後を見ても渥美清や平参平など、近江二郎一座に所属していた役者は多く、若手俳優育成の場として近江一座が重要な機能を果たしていた側面も垣間見られます。そんな中に大高よし男もいたということなのでしょう。

余談。

一般的に戦後、実演劇場がなくなっていったのは映画のせいだと言われています。実際、そういう面もあったかとは思いますが、杉田劇場や銀星座の推移を見ていると、時間経過とともに剣劇・新派などの大衆演劇が消えていき、最後は歌舞伎が残って、事実上、歌舞伎(小芝居)の小屋になっていく傾向があります。

このことからすると、少なくとも周縁部の劇場では、実演全般というより大衆演劇が映画に取って代わったというのが正確なような気がします。剣劇は時代劇、新派はメロドラマ(?)などとして映画化されることで、それぞれのジャンルの実演のニーズが低下したように思うのです。

もちろん、歌舞伎の演目も映画化されていますが、たとえば映画の『忠臣蔵』と『仮名手本忠臣蔵』を同じものというのはちょっと難しいところで(すべての忠臣蔵を比較したわけではないので私的な仮説ですが)、それが実演の歌舞伎の独自性と人気を保っていたのかもしれません。

ですから、映画隆盛と実演衰退の関係は「映画の隆盛にともなって、剣劇や新派といった大衆演劇が取り扱っていた題材(作品)が映画に採用されるようになり、結果として実演のニーズが低下した」という理解の方が実態に近いような気がします。

そう考えると、近江一座出身の映画俳優が多くいたというのも、どことなく腑に落ちるところです(近江二郎自身は日本の映画には出ることなく亡くなっていますから、皮肉でもあり残念でもありますが、逆に最後まで舞台人であったというのは、彼にとって幸せだったのかもしれません)。

閑話休題。

そんなこんなで、大高と近江一座の関わりについては(まだ具体的な事実関係は不明ながら)、得意の妄想を駆使すればかなり高い確度でこんな推移が考えられそうです。

昭和10年代前半
いずれかの地方で近江一座に大高よし男(前名・高杉弥太郎)が参加(推測)
昭和15年3月
近江一座のメンバーとして横浜敷島座に登場(おそらく近江と同時に籠寅所属)
昭和16年1月
横浜敷島座に再来演 その後、近江一座から離れて松園桃子一座、伏見澄子一座に参加
昭和17〜18年
大高よし男に改名。海江田譲二・中野かほるらの8協団や伏見澄子一座に参加 
※その後の消息不明(出征か?) 
昭和21年1月
杉田劇場に出演した近江一座を(復員後の?)大高が訪ねる(推測)
昭和21年2月
近江二郎の口ききで大高よし男が杉田劇場の専属劇団座長となる(推測)


結果的に、まだ何もわかっていないのと同じではありますが、名前以外の何もわからなかった当初からすればかなり前進してきたと、少しだけ自画自賛したいところです。 


なお、大高よし男についても、都新聞を再調査している中で、やっとひとつ以下の記事が見つかりました。

1942(昭和17)年1月30日付都新聞より

この事実は、すでに横浜の新聞で確認していますが、都新聞でもはっきりと「高杉彌太郎改め大高義男」と書かれていて、改名の事実が再確認できたわけです(おそらく昭和17年1月興行から大高義男またはよし男に改名)

とはいえ、そもそもがどちらも同じ興行(敷島座の伏見澄子一座)に関する記事で、情報源が同じだった可能性もあるので、これをもって即座に真実と断定するのも拙速ですが、二紙に記述があるのは頼もしい話で、ひとまず「大高よし男の前名は高杉彌太郎である」ということを確度の高い前提として、今後も調査・検証を続けていきたいと思います。


そんなこんなで、今回も新発見というほどのものはありませんでしたが、近江二郎一座の消息と大高よし男について浅く検証してみました。

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(130) 横浜在住の俳優たち(2)

前回投稿したように、横浜在住の俳優を紹介する連載は、初回に続いて4月25日に第二回が掲載されます。

1941(昭和16)年4月25日付神奈川県新聞より

ここでは主に長老俳優たる「岡田梅男」と「市川新昇」が詳細に紹介されています。

それによると岡田梅男は明治元年生まれ。最初は三遊亭梅枝という落語家で、壮士芝居に転向して山口定雄一座に入座して岡田梅男を名乗るようになったそうです。その後、喜楽座に移って曾我廼家祐経を名乗ったが、また新派に戻ったとのこと。連載を書いた小林勝之丞は

「昨冬、六角橋の六角館で岡田の舞台を久しぶりに見たが是が七十余歳の老人とは少しも思えず胸の透く芸風であったことを喜んだ」

と書いています。

もう一人紹介されているのが「市川新昇」。字が不鮮明でよくわからないのですがおそらく「新昇」。住所などから前回の一覧にあった「市川新升」と同一人物と思われます(どちらの字が正しいのかは不明)。

この人は、この当時、主に祭礼の余興に出ていて、保土ヶ谷の海老塚萬吉を太夫元とするグループに属していたそうです。前回も引用した通り、市川新蔵の門弟で、この記事によると、若い頃は「檜舞台を踏んだ」とありますので、かつて歌舞伎に出ていたということなのでしょう。

またこの人は「下駄新」と呼ばれていたそうで、その理由はかつて伊勢佐木町一丁目の勧工場(今でいうデパート)で下駄店をやっていたからだそう。伊勢佐木町の勧工場は記事中に「今の森永キャンデー」とカッコ書きされているように、伊勢佐木町の入口にありました。


横浜の役者は必ずしも全国的な知名度があったわけではないようですが、だからこそでしょうか、その人生の変遷が面白くエピソードに飽きることはありません。


この回には他の役者紹介はありませんでしたが、翌日、4月26日の第三回には、初回の続きとして横浜在住の役者が紹介されているので、ここに引用しておきます。

1941(昭和16)年4月26日付神奈川県新聞より

※以後の各連載は、リストアップされた役者から何人かをピックアップしてエピソードを詳述する形になりますが、長くなるのでそれはまたいずれ書くとして、ひとまず役者の一覧を引用列記していきたいと思います。


岡田梅男
本名同じ/七十四歳/中区日枝町/故山口定雄門下、近郊巡業を主としている

小金井秀夫
本名:中澤忠三/三十七歳/中区日枝町/目下浅草大都劇場実演

水之江城子
本名:和田城子/十三歳/中区清水ヶ丘/故高田■の長女/近郊巡業
※「高田■」が判読できませんでしたが、都新聞によれば、敷島座座付の頭取で、城子はその娘だそう。剣劇の酒井淳之助が不憫に思って子役として重用していたとのことです(1940(昭和15)年3月1日付演芸欄より)。

川上好子
本名:今津コウ/二十七歳/中区長者町/籠寅演芸部専属
※この人については以前も紹介しましたが、元日吉劇のメンバーで復興博の女神で3位になっています。

曾我廼家明石
四十五歳/中区山王町/祭礼余興、演劇に出演。平素は紙芝居屋

五月信夫
四十歳/中区日枝町/女形。近県巡業

静■繁
中区若葉町/近郊回り。岡田梅男門下

嵐傳五郎
六十五歳/中区黄金町、髪結音羽屋方/尾上多美右衛門の父。立師。現在は地方回り

嵐ひろ子
十歳/右の(注:上の)傳五郎の孫

市川コズエ
本名:平尾/十二歳/中区末吉町/市川蔦之助の娘

橋本梅蔵
本名:橋本久次郎/七十一歳/中区蓬莱町/嵐璃■門下。頭取として地方巡業


続く4月28日の第五回には引退した役者がリストアップされています。

1941(昭和16)年4月28日付神奈川県新聞より


中島三甫右衛門
本名:鈴木新助/四十一歳/かつては東宝劇団俳優。今は東京日本橋、山初玩具店重役/中区本牧三之谷

佐藤幾之助
本名:佐藤彌七/六十四歳/中区曙町/麻雀三徳の主人/山口定雄系の新俳優にして明治四十二年二代目幾之助襲名

佐藤新十郎
七十歳/新俳優なりしが今は某芸妓見番に勤務。若き頃は酔うと大言壮語して東北弁を発揮。自分の名を、スンズロウと発言して有名なり

荒井信夫
六十七歳/中区弘明寺町/川上座の古い座員にて水野好美に師事し、横浜では喜楽座々付たりし

尾上梅代
本名:榎本あい子/中区弘明寺町/常磐津語りとして寄席出演したのが明治三十年代。のちに女役者として三崎座に所属。帝劇女優第一期生に振付。のちに喜楽座に来り。現在頗る不遇。

三島啓介
本名:酒井茂作/五十九歳/福島県生まれ/喜楽座にてお馴染みの三枚目役者。今は神奈川県衛生課嘱託として学校、公会堂にて巡回講話/中区西戸部町

松井幾人
本名:立野幾三郎/五十七歳/扇町の商家に生れ明治四十年松尾次郎門下となる。一度も師匠を変えず大正十四年六月、松尾が廃業とともにいさぎよく舞台を退き、現在は保土ヶ谷町、某神社出仕神官

松岡壽美子
二十六歳/右の(注:上の)松井幾人長女/日吉良太郎一座の花形女優。一昨年(注:昭和14年)廃業。現在は横須賀に在り

中川清
六十三歳/中区本牧三之谷/新派劇の敵役として横浜座時代に人気あり。のちに横浜常設館弁士。現在は伊勢佐木興行組合消毒主任

青木俊二
五十五歳/横浜座主、轟由次郎に愛せられ、女形。女中役を得意。現在は藤棚富士館事務員

池田富雄
東京の寄席回り、埼玉県回りの新俳優、のちに横浜へ出演/六十五歳/現在は中区日本橋、某芸妓屋に納まる

市川三之助
本名:加藤三吉/六十七歳/賑座の時代に市川宗三郎に師事。のちに頭取として三十年続く

佐上善行
本名:小林文太郎/四十二歳/中区西中町/須磨健次門下。日吉良太郎一座に加わり、昭和十三年廃業。現在はワイシャツ製造業

澤村清枝
本名:長谷川/清之助門下。子役清子の実父/中区浦舟町/シンガーミシン会社員から俳優となり、現在は中区花咲町、掃部山見番勤務


ついで5月4日の第六回では、主に大衆演劇の役者と現役を引退した役者を紹介しています(最終回、第七回にも引退役者の追記があります)。

1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より


大江美智子
本名:細谷八重子/二十二歳/中区南太田町に自宅あり/先代大江が横浜歌舞伎座に昭和九年春、出演の時入門。大川美恵子と名乗り、師急死するや昭和十四年八月新橋演舞場にて二代目襲名。籠寅専属

吾妻千恵子
十九歳/大江美智子の実妹。有望の花形

大江美媚子
本名:浪川みさを/二十三歳/神奈川区青木通/目下福島県を巡業。大江美智子に紛らわしき美媚子を名乗る。前名立花淳子と称し心臓の強さに於いてはハマ随一

星十郎
二十五歳/前名美崎重郎/甲府の生まれ/十七歳の時日吉良太郎一座に初舞台。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む/中区野毛町

関谷妙子
本名:馬場妙子/二十歳/中区千歳町/三吉小学校卒業後、日吉良太郎の門に入り、昨年より志賀廼家淡海一座に加入。五月一日より浅草萬盛座に出演

近江二郎
本名:笠川二郎/五十歳/中区井土ヶ谷町に自宅あり/川上音二郎の門より出て大正九年横浜に初出演。のちに座長となり現在は籠寅専属。五月一日より名古屋宝生座出演
※全国を巡業していた近江二郎ですが、実父が井土ヶ谷で養鶏業を営んでいたこともあり、井土ヶ谷に自宅があったようです。前年に敷島座に来演して以来、好劇家の間では横浜在住の役者という認識になっていたのでしょう。

深山百合子
四十三歳/近江の夫人/以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる芸妓なり
※深山百合子の本名は笠川ヒデ(秀子)で、近江二郎は笠川家に婿養子に入る形だったようです。そのせいか、南太田の常照寺にある近江家の墓の墓誌に二郎の名はなく、二郎の遺骨は笠川家の墓所に納められたものと思われます。

衣川素子
十一歳/近江の娘。子役
※近江二郎と深山百合子には子がなかったので、二郎のいとこの子である「元子」を養女にして子役として舞台に立たせたそうです。元子さんは旅まわりの役者稼業が嫌で、のちに養子縁組を解消し、二郎の甥(妹・孝子の子)にあたる邦夫さんと結婚します。平成十二年に七十歳で亡くなり、今も常照寺の近江家の墓所に眠っています。

藤原かつみ
本名:小林ひろ子/中区中村町/二十二歳/巴玲子門下。目下は北海道を農民劇にて巡業中

伊藤三千三
本名:稲垣(?)音二/中区間門町/四十二歳/故山崎長之輔夫人の実弟。剣劇の人気者。現在は賀川清、英栄子とともにアメリカに在り

伊藤登
本名:伊藤重郎/中区弘明寺町/日吉良太郎一座の喜劇俳優として活躍せるが廃業して、中区通町鶴巻橋際にトンカツ屋開業

竹田玉子
本名も同じ/二十一歳/中区山田町/子役の時より芸達者の評あり。のちに日吉劇へ入り大いに認められしが、現在は東京よし町にて左褄をとる身なり

勝川三次
本名:加藤実/三十歳/中区宿町/武田正憲門下/新劇俳優として名ありしが廃業。伊勢佐木町日活館前の山田貴金属店が姉の家なれば同店員となる

戸田史郎
本名:笠川四郎(注:誤り。正しくは近江資朗)/四十五歳/中区井土ヶ谷町/近江洋服店主人。近江二郎の実弟なり
※この記事では引退したことになっているようですが、戦後の銀星座にも出演しているので引退というわけではなさそうです。役者と並行してやっていた仕事は、洋服店というよりシャツ・ブラウスの縫製業が正しく、戦後もその仕事を続けていましたが、昭和30年代に井土ヶ谷の家が火災になり、磯子区中原(杉田の隣町)に転居します。

尾上羽多丸
祖父は梅幸門人にて羽多蔵。兄は故羽多之助。現在は中区二葉町にて酒井三味線店営業

松本米世
女優をやめて中区高根町に舞踏指南をしている

青柳早苗
本名:梅原イト/中区伊勢町/はじめは朝日座専属なりしが震災直後、故市川荒二郎夫人になり、丹羽イトを名乗り女優廃業。現在はある宗旨の行者として起つ

三井一枝
本名:■井一枝/中区日ノ出町/松尾次郎門下の女優。のちに■井タクシーを営業。今は会社員の妻

久松勝代
同じく松尾次郎門下の女優、娘形なり/中区曙町/酒の家勝花を開き、今は若葉町角にコーヒー店を開業


そんなこんなで、今回も前回に引き続き、戦前の新聞を引用する形で、当時、横浜に住んでいた役者たちを紹介しました。役者の人生の紆余曲折はとても面白いエピソードに溢れています。頃合いを見て、今後も何人か紹介できればと思います。


次回は大高よし男の周辺について、調査の成果をほんの少し。


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(129) 横浜在住の俳優たち(1)

これまで調べた限り、大高よし男が(前名の高杉彌太郎として)近江二郎一座に参加する形で横浜の劇場(敷島座)に初登場したのは、1940(昭和15)年3月です。翌年、1941(昭和16)年1月にも近江二郎一座とともに来演し、同年9月からは松園桃子一座に参加する形で、横浜の舞台に立っています。

その後は、京都や浅草などで活躍することになるわけで、不二洋子や伏見澄子といった女剣劇の役者たちと同様、横浜を試金石として、その人気を背景に全国区に飛躍するというキャリアアップの流れが大高にもあったのかもしれません。


さて、この時期(昭和16年春)、神奈川県新聞(神奈川新聞)紙上で横浜在住の俳優たちを紹介する面白い特集記事が連載されます(全6回)。

横浜の舞台に立つ人ではなく、横浜に住んでいる役者たちを紹介するというもので「横濱演劇懇話會調」とありますから、当時、さかんに劇評などを書いていた小林勝之丞らの一派によるもののようです。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より

この連載からは、これまでにも部分的に何度か引用してきましたが、情報の整理と後学のために、ここで記事に挙げられた役者をまとめて引用しておきたいと思います。


連載は上掲の通り、昭和16年4月23日が初回で「横濱に住む俳優群を語る」というタイトルでした。第2回は4月25日で「ハマの長老俳優を描く」と題して、岡田梅男と市川新昇(?)を紹介しています。第3回が翌26日で「埋もれる俳優の妙技」として、昔の俳優技術を回顧する内容に、付録として「第1回」の横浜在住の役者紹介の続きが掲載されています。

どういうわけか第4回が飛んでいて、4月28日に第5回「有為轉變の横濱在住俳優」として、主に引退した役者を紹介。第6回は5月4日「脚光を浴びる人 舞臺を退いた人」、最終回が5月12日で「過ぎにし笑話 松井幾人初舞臺」。それぞれの回に付録めいた形で役者紹介が掲載されていて、歌舞伎(小芝居)だけではなく、大衆演劇の方も取り上げられているので、横浜の演劇史や俳優の経歴を知る上で貴重な資料と言えそうです。


というわけで、今回はひとまず初回に挙げられている役者を引用列記したいと思います。記事中の住所には番地も書かれていましたが、いまなお存続しているものもありますので、その部分は削除して紹介します。


市川團之助
本名:羽田久太郎/六十七歳/中区榎町/吉右衛門一座に所属
※中区榎町は現在では南区になっていて、市営地下鉄蒔田駅の近くです

市川升紅
本名:岡村榮一/二十六歳/中区西中町/松竹國民移動劇團
※中区西中町も現在は南区で、京急黄金町駅のそば

石原美津男
本名:石原光世/三十三歳/中区曙町/桜木翠香門下の女形。主に市内出演。目下は伊豆巡業

市川新升
六十七歳/中区通町/故新蔵門下。祭禮等に出演。
※通町はいまは南区。井土ヶ谷と弘明寺の中間あたり

市川荒右衛門
本名:岩崎近弘/中区西前町/六十五歳/故荒二郎門下。義士劇の座頭。太夫元。
※西前町は現在は西区

市川茂々市
七十歳/中区睦町/故市川團蔵門下。主に舞踊温習會の講師。振付。
※睦町も現在、南区

市川三蔵
本名:芋川貞男/四十歳/中区榎町/三升門下
※榎町は南区で、最初に挙げた市川団之助の近くに住んでいたよう

大谷門二郎
本名:椎名豊吉/三十五歳/中区三春台/友右衛門と同じ行動
※以前も何度か言及しましたが、後に「友吉」→「友十郎」となる役者で、更生劇の主要メンバー

澤村清之助
本名:鈴木虎太郎/五十八歳/中区花咲町/時々巡業に出づ
※清之助についても以前何度か言及しましたが、更生劇の主要メンバーです

市川莚蔦
本名:近藤/五十二歳/中区中村町/主として巡業
※中村町も現在は南区

澤村訥美太郎
五十二歳/神奈川区子安大口/近県のみ巡業

中村芝梅
故雀右衛門の弟子/中区末吉町/主として巡業

市川島蔵
莚升門下
※記事には「右に同じ」とあって「中村芝梅」と同じ、ということのようです

市川蔦之助
本名:平尾/中区末吉町/日吉劇の歌舞伎劇振付
※更生劇のメンバー

市川荒子
筑紫奈美子とも称す/三十五歳/中区末吉町/故荒二郎門下。主に近県巡業。

市川筆之助
本名:長谷川/中区曙町/三河家一門。近県巡業
※更生劇のメンバー

佐久良實
中区前里町/近県巡業、女形にて座長。
※前里町は現在南区

澤村訥紀十郎
六十五歳/上州の人/中区浅間町/巡業
※浅間町はいまは西区

静川君之助
二十八歳/九州熊本出身/中区浅間町/巡業
※同上

林重四郎
本名:林重男/早大文科中退/四十一歳/中区長者町/近県巡業

北島晋也
本名:小林/三十五歳/中区永楽町/故関三十郎門下、巡業
※永楽町も現在は南区

牧野映二
本名:木村基/三十一歳/中区白妙町/森野五郎門下、巡業
※白妙町も現在南区

生島波江
本名:小島キク/二十二歳/中区立野町/巡業を主とする
※日吉劇や大高一座(暁第一劇団)にも名前の出る人

藤代朝子
二十五歳/中区松影町/名古屋へ出張中、笑ひの王国出身


以上が初回に掲載された役者たちです。更生劇の関係者が多いのかな、という印象を受けます。取り上げる基準として、記事中に「横浜に家がある人で、横浜歌舞伎座(日吉劇所属)や敷島座(籠寅所属)ではない人」と注記されています。ただ、生島波江などは日吉劇のメンバーだった時期もあるので、この辺の基準は少し曖昧なようです。


多くの劇場が伊勢佐木町とその周辺にあったせいでしょうか、現在の南区に住んでいた人が多いように感じます。日吉良太郎や近江二郎も井土ヶ谷(南区)に住んでいたし、大江美智子(二代目)の家もまた井土ヶ谷からほど近い南区永田町にありました。

劇場にも近く、交通の便のいい場所として、現在の南区にあたるエリアには多くの芸能関係者が住んでいたのでしょうね。

ちなみに、全6回の連載に大高よし男の名前はまったく登場しません。前名の高杉彌太郎もありません。注目度も影響しているとは思いますし、実際、横浜に住んでいなかったのだとも思いますが、いずれにしても懇話会のメンバーからは「横浜在住の役者」として認識されていない人で、この当時、大高と横浜との縁はそれほど深くなかったと思われます。


そんなこんなで「調査報告」というにはかなり手抜きですが、今回は戦前の新聞からの引用で、当時、横浜に住んでいた役者たちを紹介しました。次回はこの続きの予定です。


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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(128) 神奈川県歌舞伎連盟とは?

よんどころない事情で、ひと月ほど図書館に足を運ぶことができなかったので、大高よし男の調査はまったく進んでおりません。ようやく時間がとれるようになってきて、来週あたりから調査再開の予定ですが、どうも頭がまだこっちの世界(?)に戻りきれていないようで、ちょっとしたリハビリ気分で投稿してみます。


というわけで、今回は年末までに収集していた資料から、1951(昭和26)年6月の三吉劇場における「神奈川県歌舞伎連盟結成第一回公演」について考えてみたいと思います。

この公演の広告が最初に出るのは同年5月30日で、「三吉劇場開場一週年記念特別大興行」とも銘打たれています。この連盟についてはかねてからしばしば引用している、小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』の「三吉演芸場」の項目にも言及がありますが、公演があったという記述だけですので、それ以上の詳しいことはわかりません。

そんなわけで、そもそも神奈川県歌舞伎連盟というものがどういうものかわからない上に、これがその後、どんな展開をしたのかも未調査ですから、現段階ではほぼ何もわかっていないと言ってもいい状態です。広告には「市川小太夫劇団」という文字が大きく記されているので、市川小太夫が呼びかけて結成されたように思われます。

広告に掲載されているメンバーは順に

市川小太夫
 
沢村清之助
沢村訥美太郎
市川栄舛
 
市川女猿
市川門三郎
 
森川順三
沢村十次郎
山﨑撫子
市川内弥
市川小鼻
中村芝寿
河部信乃
 
沢村清枝
市川紅昇
 
紫小春
鶴葉子
港君代
窪登美江

です。

1951(昭和26)年5月30日付神奈川新聞より

「歌舞伎連盟」でありながら、出演者に不二洋子一座の森川順三の名前があるなど、歌舞伎の枠をはみ出しているようにも感じます。一体、どういう団体だったのでしょうか。

歌舞伎役者に限れば、並んでいる名前はいずれも杉田劇場や銀星座でお馴染みの顔ぶれで、戦前の横浜歌舞伎座における「更生劇」の流れと、市川門三郎一座が合わさった合同一座のようにも見えます。杉田や弘明寺で続けられていたいくつかの一座を、戦後の時代に合わせて「連盟」という形で結集させ、横浜(神奈川)における歌舞伎の発展を期した、というようことなのでしょうか。


余談ですが、私が少しだけ関わってきた横浜のアマチュア演劇の世界では、1952年に横浜演劇研究所が設立され、同年(第二次)横浜演劇懇話会ができます。『神奈川県演劇連盟四〇年史』によれば、この懇話会は

「<横浜市教育委員会社会教育課>が推し進めていた市内文化団体の組織化の呼びかけに、市民演劇と職場演劇が賛同するという行政主導で結成された」

のだそうです。

横浜演劇懇話会はのちに「横浜アマチュア演劇連盟」となり(1967〜)、また1960年には全県組織としての「神奈川県演劇連盟」(県演連)が結成されます。これは横浜演劇研究所の加藤衛所長の呼びかけによる「県民劇場建設促進実行委員会」の動きとも連動していたと考えられます。「県民劇場建設促進実行委員会」は「県立青少年センター」の建設(1963)をもってその目的が達成されたとして解散しますが、県演連は存続し、その後、横浜アマチュア演劇連盟と神奈川県演劇連盟が両輪となって、現在に至るまで横浜・神奈川の市民演劇(アマチュア演劇)の発展に寄与してきたわけです(のちに「横浜アマチュア演劇連盟」は「横浜・演劇の会」と名称を変え、現在はほぼ活動休止状態のようですが)

「神奈川県歌舞伎連盟」に同じような背景があったのかどうかはよくわかりません。文化団体の組織化といった流れの中で、(行政の指導の有無は不明ながら)歌舞伎界もまたその時流に乗ろうと考えたのかもしれません。

以前、市川雀之助についての投稿で、彼が「神奈川県実演興行組合」の副組合長を務めていたことと、その組合が1951(昭和26)年にできたことを紹介しました(まさに歌舞伎連盟の結成と同じ年)。この時期、市民演劇・職場演劇・歌舞伎・大衆演劇のいずれもが戦後の激動の中で、劇団単体ではなく連盟や組合を結成して、時代の変化に対応しようとしていたようにも見えます(行政の関わりの濃淡はまた別の課題として、別途調査が必要な事柄と感じています)


閑話休題。


さて、華々しく宣伝していた「神奈川県歌舞伎連盟」の結成公演ではありますが、興行初日の6月1日、新聞紙上に弘明寺銀星座のこんな広告が登場するのです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

「東京名題大歌舞伎公演 市川栄舛大一座」と銘打たれたこの公演の出演者の中には、なんと

市川栄舛
市川女猿
沢村清枝

の「連盟」の公演に名を連ねていた3人がいるばかりか(尾上大助の名前もある)、

「他の劇場に出演は致しません」

とはっきり書かれてもいるのです。具体的な劇場名は記されていませんが、明らかにこれは彼らが三吉劇場の「連盟」の公演には出ないという強い注意喚起(または意思表示)です。

一体何があったのでしょうか。

単にブッキングの行き違いなのか、そもそも連盟結成の方針にまつわる意見の違いなのか。いずれにしても何かがあったことは間違いなさそうです。


結果、「連盟」の公演の顔ぶれから、上記3名の名前は消え

市川小太夫

沢村清之助
市川猿十郎
中村喜昇
市川秀猿

市川門三郎

市川紅昇
市川立十郎
市川八左衛門
市川桔梗
市川小昇

紫小春
鶴葉子
港春代
坂東寿美子
窪登美子

となって、予定通り、6月1日に幕を開けたようです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

(同じ日の広告ですから、かなり混乱します)

そのほかの大きな変化として、森川順三の名前が消えて、中村喜昇らの名前が登場し、二の替りの最初の演目が「女河内山」から「朧河岸」に変更されています。もしかしたら剣劇を嫌ったのかもしれませんし、森川順三と歌舞伎役者たちの間に何かあったようにも思えますが、これもまた詳しいことはわかりません。


市川小太夫は昭和12年から昭和21年まで「厚生劇団」を主宰していたほか、それ以前には新国劇に客演したり、映画に出たり、関西で大衆劇の劇団(新興座)を立ち上げ、探偵劇などで全国を巡演して人気があったそうですから、そもそもが歌舞伎にとどまらず、ジャンルを越境する人だったようですし、その越境を好んでいたようにも感じます。

そう思うと、新しいものを受け入れる(と思われがちな)土地柄の横浜で、境界を取り払ってさまざまなジャンルを統合し、歌舞伎界(演劇界)に新風を巻き起こそうという目論見で結成されたのが「神奈川県歌舞伎連盟」だったのかもしれません。

そんなこんなで、今回はよくわからないまま「神奈川県歌舞伎連盟」について考えてみました。いまのところ、これ以上の情報がないので、どなたか詳細をご存知の方がいましたら教えてください。


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