(15) 大高ヨシヲをめぐる人々(2) 〜日吉良太郎〜

今年は関東大震災からちょうど100年の節目だそうです。

100年というとずいぶん古い話に思えますが、阪神淡路大震災が28年前、東日本大震災でさえも12年前。100歳を超える高齢者が珍しくない時代ですから、つい最近のことともいえます。

震災で横浜の街は壊滅状態になりました。処理に困った大量の瓦礫を使って港の一部を埋め立て、それが山下公園になったというのは有名な話ですが、明治以降、居留地(関内)とその外側(関外)にそれぞれ独自の世界を築いていた新興都市の文化は、震災ですっかり失われてしまいました。

関外の劇場街もほとんどが倒壊して、震災前の横浜の演劇の灯は消えてしまったといっても過言ではありません。

ですが、その後、昭和初期に相次いで劇場が新設されたおかげで、かつての賑わいを取り戻したかのような隆盛期が再びやってきます。小柴俊雄さんの労作『横浜演劇百四十年』では、金美劇場の登場(昭和16年)のことを "従来の横浜宝塚劇場、敷島座、横浜花月劇場を加えて、横浜の中心部に演劇王国を出現させた" と紹介しています。

しかし、それもふたたび、昭和20年5月29日の横浜大空襲で灰燼に帰してしまいます。

たびたび引用する『演劇年鑑』(昭和18年版)には当時の主要劇場一覧が掲載されていますが、ありがたいことに劇場の間口とキャパ(席数)が載っているのです。横浜の主要劇場として挙げられている三館のデータは以下のとおりです。

横浜歌舞伎座(末吉町) 間口:六間半、席数:494人
金美劇場(南吉田町) 間口:八間、席数:478人
敷島座(伊勢佐木町四丁目) 間口:四間、席数400人

間口とキャパですべてがわかるわけではありませんが、サイズを知るだけでも、それぞれが個性的な面白い劇場だったことは容易に想像できます(間口八間でキャパ478って、すごい劇場ですよね)。

歴史に「もし」を持ち込んでも詮無いことですが、もしこれらの劇場が残っていたら、横浜の演劇文化はどうなっていただろうと、ないものねだりの空想と知りつつ、複雑な思いを抱かざるを得ません。


さて、日吉良太郎は、そんなふうに再び隆盛を見た昭和初期の横浜演劇界で、もっとも有名な人でした。伊勢佐木町四丁目の「敷島座」や末吉町の「横浜歌舞伎座」を拠点に、旺盛な活動をした劇団の座長です。彼らの舞台は「日吉劇」と呼ばれ、人気を博していました。にもかかわらず、日吉一座は終戦とともに解散して、日吉の名前は現在ではすっかり忘れられてしまったのです。

東京の文化を潮流の栄枯盛衰とするなら、横浜の文化は潮流の断絶と再建の連続といってもいいでしょう。劇場も劇団も、演劇のムーブメントも、壊れては立て直し、立て直しては壊すの連続です。その傾向は今でも続いている、と言ったら言い過ぎでしょうか。

本題に戻りましょう。


日吉良太郎一座


日吉良太郎とは

前掲の『演劇年鑑』(昭和18年版)によれば

日吉良太郎(北村喜七)
明治二〇年 岐阜生まれ
日吉團團長
俳優協會評議員
横濱市中區井土ヶ谷中町**
長者****
(電話番号まで掲載されているのがすごいところですが、一応、今回も伏せ字にしました)

井土ヶ谷中町は当時から住所表示が変わっていないはずなので、現在地の特定は簡単です。京急井土ヶ谷駅から南東に10分ほどの場所、その路地を少し入ったところが年鑑に載っている住所にあたります。

ちなみに、女剣劇の大スター、大江美智子(二代目)は、日吉の家とは反対側、井土ヶ谷駅から西へ5分ほどのところに居を構えていました。つまり、戦時中の井土ヶ谷には、有名な舞台俳優(しかも座長)が2人も住んでいたことになります。

さて、そんな日吉良太郎はどういう人だったのか。

この人についても古い本をあたる以外に調査の方法がないので、信憑性に若干の不安はありますが、複数の資料を突き合わせ、最大公約数の事実を列記してみます。

日吉良太郎の経歴と人となり

日吉良太郎は、本名を北村喜七といい、愛知県半田の旧家に生まれました。愛知医専(今の名古屋大学医学部)に進学したものの中退(叔父の選挙で応援演説をしたことを咎められ、学校に嫌気がさしたとか)。東京に出て活動写真の弁士となります。弁士時代は当初、芸名を「西郷北州」といったそうです。もちろん西郷南州(隆盛)にちなんだものですが、「北州」は浅草では吉原のことだと指摘され、のちには「西郷了堂」とも名乗ったそうです(西郷麗山という表記もみられます)。

北州のエピソードが書かれている昭和8年発行の『映画の倒影』(小林いさむ著)では、こうも書かれています。

"この人は全く英語が読めなかったが、この道へ入っては必要を感じ、勉強して到頭それをものにして、ハリービールの探偵劇「ブラウン」や(中略)イタリー物「ファザー」等で、人気をとった"

これによると英語が読めなかったことになっていますが、愛知医専に入るくらいですから、それなりの学力はあったのだろうと思います。むしろ、ある程度の素養があったからこそ、洋画の弁士にもすぐ対応できたという方が正確な気がします。

弁士としての人気が高まっていった北村青年(日吉)は、そのうち弁士では飽きたらなくなり、当時、流行していた壮士芝居に感化され、経験もないまま、一座を旗揚げします。当初の一座には学生なども多くいたようですが、総勢20数名という堂々たる劇団として活動がスタートします。とはいえ、ぽっと出の劇団が、いきなり都会で売れるような甘い世界でもなく、しばらくは地方回りの劇団として、主に長野、山梨あたりの芝居小屋や、時には河川敷に小屋を立てての興行などしていたようです。

後述もしますが、彼には興行の才覚があったのでしょう。甲信地方では相当な人気で、長野県各地の市史や町史には、当時の日吉劇についての記載があちこちにみられます(松本市史、松代町史、大町市史など)。「信州の団十郎」と呼ばれていたほどですから、当時の人気ぶりがうかがえます。

その後、昭和8年に横浜へ来て、敷島座で公演。これまた高い人気を獲得し、東京の浅草や江東劇場でも公演を行ったのち、昭和13年から拠点を横浜歌舞伎座に移して、その後、7年もの長きにわたる「日吉劇」の興行が、終戦の年まで続くこととなります。


ところで、調べた書物の中で、彼についてもっとも詳細に書かれているのが、飯田文化財の会編『郷土の百年』(南信州新聞社出版局発行)です。

そこには日吉の人物像がこう記述されています。

"日吉の人となりが当時の俳優には珍しく物堅く統率力もあり、学殖のあることなど、芸よりもむしろ人間をしたって座員になるものが多かった。当時、旅役者といえば歌舞伎も新派も兎角品性の下劣なものが多く、芝居がハネると楽屋が即賭博場と化し興業主までが加って花札あそびに夜を明す(中略)地方の浮気娘を次から次とだまして浮名を流すものもあり、そうしたふしだらな行状が一座全体の名をけがすのを日吉は極端にきらった"

"座長に対して座員は師匠とか親方と呼ぶならわしがあったが、日吉一座は「先生」と呼んで座長をあがめ、外来者に対しては辞をひくく礼儀を正した。勿論、賭博厳禁、女遊びも禁じてあった。"

"序幕からハネるまで舞台装置は大道具から小道具まで座付の道具師などに委せず、座員総出でやってのけるから舞台は、たちまちできあがる。幕間がないから観客は喜ぶ(中略)これでは役者も天晴れ勤労精神旺盛な労働者で、日吉の芝居が健康的で面白く、座員の品行のよいことなどが評判となり、各地とも大入満員"

"芸術家としての日吉には兎角の難点はあるが、興業師としての演劇事業家として彼は成功した。給金が他の座よりよく遅配がないから座員にも、それが魅力となり一度座員になったものは、よほどの事情がない限り動かなかった"

イマドキの言葉でいうと「働き方改革」みたいなものなんでしょうか。別の旅回り一座のエピソードでは、ちゃんと高い給金を払うのだけど、給料日に座長が賭博で座員の給金の大半を巻き上げてしまうために実質は安月給、なんていう話もありますから、そうした前時代的な劇団に比べて、日吉劇団は近代的な運営をしていたのがわかります。

一方で、前掲の引用に "芸よりも人間をしたって"とか "芸術家としての日吉には兎角の難点" とあるように、日吉良太郎の芸術家(創造者)としての才覚には若干の難があったのかもしれません(古川ロッパ昭和日記には "それから江東楽天地の日吉劇をのぞく。入り三分。その芝居も大間違ひなり"と書かれています/昭和12年12月23日)。

日吉良太郎一座のことを「剣劇劇団」とする資料も少なからずありますが、実際のところ、上演するジャンルは多岐にわたっていて、劇団のこだわりというか個性というか、表現の芯みたいなものはあまり感じられないのが正直な感想です。

言い換えれば節操がない。小難しい自分の主張より、みんなが面白いもの、楽しいもの、わかりやすくて、大衆にウケるものを見せる。それが日吉劇のポリシーと言っていいかもしれません。

それを裏づけるように、昭和13年、横浜貿易新報のインタビューで日吉はこう答えています。

"けれども観客がついて来られない様な演じ方もどうかと思ひます、それに御当地では矢張り割切れる芝居でなければ到底お客様が承知してくれませぬですよ、インテリ層から時々いろいろの注文を受けまして、月に一本位は、野心的な作品や演出を試みて見ますが、多数大衆には何時もそれには不平不満を鳴らされますのです"(『郷土よこはま』No.115より引用)

そんな日吉の芝居は、逆に「主張」を持った人々には好都合だったようで、戦前、政治家で実業家の武藤山治が、選挙活動と政治啓蒙のために、日吉に劇の上演を依頼していたことが記録に残っていますし(『武藤山治全集』増補, 1966 新樹社)、公演する地元の歴史や偉人を題材にした芝居を作ったり、時には内容とは関係ない事柄の宣伝文句を芝居の中に織り込んだりすることもあったようです(生CMみたいな感じかしらん?)。

また国策に準じて「愛国劇」というジャンルの作品を盛んに上演し、日吉一座といえば愛国劇と認識されていました。昭和12年に東宝が錦糸町に新設した大劇場「江東劇場」の開場記念興行を日吉一座が担っていますが、その写真に写っている幟にも「愛国劇日吉一座」の文字が見られます(演目は『銃後の護』『乃木将軍と一等卒』)。

昭和12年12月 東京錦糸町・江東劇場開場時の写真

そんなわけですから、日吉良太郎の評価には、功罪含め毀誉褒貶が激しいという特徴があります。戦後、日吉一座が演劇の歴史から消えていったのも、単に国策協力の問題以上に、そうした劇団の特性が一因だったのかもしれません。

とはいえ、横浜における日吉一座の人気は相当なもので、「下町で日吉良太郎の悪口を耳にしたものは承知しない、下手をするとなぐられる」(『一世紀の軌跡 : 横貿・神奈川新聞の紙面から』より引用)と新聞記事に書かれるほどでした。

日吉一座のメンバー

横浜における日吉劇については、上にも挙げた『郷土よこはま』No.115、小柴俊雄さんによる日吉劇の論文がもっとも詳細です。そこに掲載されている日吉一座のメンバーは以下の通りです。

朝川浩成(のちに銀星座専属・自由劇団に参加)
東光
荒川仁作(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
生島波江(のちに大高一座に参加)
伊藤登(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
井上正雄
大平正美
勝川三次
川島吉子
雲井春敬
橘川五十鈴
熊谷修
小桜豆子
五条隆
小寺てる子
酒井ゆき江
関谷妙子
武雄健蔵
武田正憲(元文芸協会技芸員・演出担当)
谷本章
中小路文雄
新納正夫
花島紀美子
花園麗子
蜂須賀輝之
鳩川すみ子(のちに銀星座専属・自由劇団に参加)
花柳愛子
林礼三郎
平野元
藤川麗子(のちに大高一座に参加)
穂高のぼる(元宝塚女優のこの人か?)
堀重明
松岡寿美子
松の六郎
松山みどり
美崎重朗
三井秀雄
都田省司
三輪晃
村田進
八重垣小静
安田猛雄(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
大和玉枝
山本進二
若柳武男
渡辺実 
【文芸部】
四国政房
関根智恵蔵
高野まさ志
遠近破
原野左太夫
水野一葉
三好策太郎
松本肇

横浜歌舞伎座の専属劇団のようになっていた日吉一座ですから、座員のほとんどは横浜に住んでいたことだろうと思います。座長のように井土ヶ谷近辺にいたのかもしれません。戦災もさることながら、終戦を機に一座が解散し、座員たちはどういう思いで戦後の日々を過ごしたのでしょう。

そして、終戦から半年前後で開場した杉田劇場と銀星座。その専属劇団に日吉一座のメンバーがこれほどいるというのは、行き場を失った彼らにとっては、両劇場の開場がまさに渡りに船だったようにも思えます。

しかし、皮肉なことに、どちらの劇場も十年と保たずに閉場となるのです。

戦前・戦中の日吉劇は、明治以降、断絶と再建を繰り返してきた近代横浜の演劇界が、すっかり消えてしまう前の最後の輝きだったのかもしれませんね。


ところで、前掲の『郷土の百年』(1968年刊)、日吉良太郎の項の末尾にはこうあります。

"その後、日吉劇団は松竹の手に属して横浜へ行き敷島座に拠って連続開演、もはや地方巡業に出ることもなかった。その後打ち絶えて消息もないが、日吉をはじめ座員の大半はもう此の世にいないのではなかろうか。当時をしのべば感慨もひとしをのものがある"

日吉は昭和26年に亡くなりますが、1985年刊行の『中区史』には、座員の花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されています。上掲書の執筆者の予想に反して、その後も健在の座員はいたわけです。


それにしても、日吉良太郎という人は実に不思議な人物です。医学生から弁士になり、劇団を立ち上げて大変な人気を誇りながら、あっという間に忘れられてしまう…

また、日吉の生涯を調べれば調べるほど、現在の横浜のこと、演劇界のこと、興行のことについて、深く考えさせられることになります。まだまだわからないことはありますが、この先も調べ続けるべき人物だという思いを強くするばかりです。

そして日吉と大高の関係を探ることが、大高探しの大きなキーポイントになるのではないかという予感もしているところです。

そんなわけで、今回は過去のことばかりではなく、横浜の演劇界について、少し踏み込んだ私見も書きました。日吉良太郎に対する毀誉褒貶さまざまな評価を俯瞰することは、横浜演劇界の未来の指針になるのかもしれません。


さて、次回は大高よし男が参加していた、伏見澄子一座について考えてみます。

→つづく

(14) 大高ヨシヲをめぐる人々(1) 〜近江二郎〜

さて、今回からは、予告通り「大高ヨシヲをめぐる人々」について再考察してみたいと思います。

以前、大高の痕跡が見つかる前の投稿「大高ヨシヲは剣劇一座の座員?」で、調査範囲を横浜に縁のある剣劇一座にしぼると書きました。大江美智子一座(二代目)、近江二郎一座、梅沢昇一座、日吉良太郎一座の四座です。

このうち、近江二郎一座と日吉良太郎一座については、その後の調査で関係が裏づけられたので、僕の勘もそんなに大きく的を外れていたわけではなかったことになります(自画自賛)。

この二座に加えて、大高が関わっていた「伏見澄子一座」と、杉田劇場との関わりが深かったと思われる弘明寺の実演劇場「銀星座」。その4つについて、これから4回に分けて整理してみたいと思います。


近江二郎一座


近江二郎とは

『演劇年鑑』(昭和18年)の「演劇人総覧(舞台人の部)」にはこう記されています。

近江二郎(笠川次郎)
明治25年 広島生まれ
無所属
大阪市生野区鶴橋南王町*-****

イマドキのご時世を考えて、番地は伏せておきましたが、原本にはバッチリ書かれています。個人情報もへったくれもない時代でしたね。とはいえ、おかげでこの調査では具体的なことがわかるのでとてもありがたいです(もっとも「生野区鶴橋南王町」というのがどこなのか、いくら調べても全然わかりません。わかる人、教えてください)。

近江二郎は本名を笠川次郎といい、若い頃、大阪・北濱の帝国座にあった川上音二郎の俳優養成所に通って芸を磨きました。やがて一座を結成し、剣劇(チャンバラ)や新派の芝居をもって、全国の芝居小屋で興行をしていたのです。

ネットで調べられる範囲だけでも、東京、大阪、京都、横浜、名古屋、青森、静岡…と全国各地での公演記録が出てきますし、驚くことに1930年から半年近く、アメリカのカリフォルニアとハワイでも興行しています。近江二郎一座は全国を股にかけて活躍していた旅回りの劇団です。

横浜や川崎でも頻繁に公演をしていて、戦後、昭和21年3月23日が初日の弘明寺・銀星座開場記念興行の際には新聞広告に「ヨコハマの人気者」とも書かれています。

大野一英『大須物語』(中日新聞本社, 1979.3)には、名古屋の古老の証言として以下のような記述があります。

"宝生座といえば近江二郎もよく来ました。ちょっとニヒルな、いい男。女房の深山百合子は新派の人で、楚々たる女。可憐でしたね。元帝劇女優の水野早苗もこの一座です。演しものは特異というか『グロの弥之助』など。一流の台本は使えなかったにせよ、この一座独自の台本をだれかに書いてもらっておるらしく、小味のあるのをやりましたね。だが、次第に不振となり、関西劇団の中堅どころの特志を仰いで応援出演してもらったりしてしのいでいたが、やがて閉座。『四谷怪談』だけは大入りだったのを覚えています"

「閉座」というのが何を意味するのかは不明ですが、上記の『演劇年鑑』で、近江二郎は無所属となっているので、一座は解散していた時期があるのかもしれません。
(「元帝劇女優の水野早苗」は、のちに「春日早稲」「春日早苗」「春野早苗」と改名しているのではないかと推測しています。ちなみに帝劇女優時代の絵葉書がネットショップに出ていました→こちら

近江二郎の人となりについては、ハワイ興行の際の新聞記事にもこんな記述があります。

"近江は廣島縣備後の代々醫者である家に生れた人で若い時に親から勘當まで受けて藝術研究に浮身をやつしたといふ話である本島には殊に備後人の有力者が多いから同君の為め歓迎會でも開いてはとの説もあるが彼が十五年ぶりで備後に歸つた時は俳優としての成功者として町内から大歓迎を受けて面くらつたという挿話もある。一座中のスターは磯島美津子深山百合子春日早苗野島咲子志村眞子などである"
(Maui Shinbun, 1931.04.17)

実家が医者の家系というのは意外でした。広島出身者が多いハワイではかなり歓迎されていた様子もわかります。役者や演劇人というとお調子者や社会のはみ出し者みたいな印象がありますが、他の記事ではインタビューの際、「兄弟がアメリカにいるので米公演は念願だった。日本での契約を解消してやってきた。ギャラの多寡は関係ない」(意訳)などと答えていることからも、近江二郎という人は意外と誠実で真面目だったんじゃないかと感じます。


一座のメンバーと演目

アメリカ興行の際には、現地の新聞が大々的に広告を出していて、そこには彼らの演目や座員の名前が掲載されています。

渡米した座員は以下の通りです。

野島左喜子
小磯美代
月村菊子
春日早稲(改名した水野早苗か?)
松尾葛子
松岡初子
志村貞子
深山百合子
井村六之助
池田恭
戸田史郎
米川豊
高橋十郎
瀧田隆二
田代竹治
松藤栄治
藤川満寿雄
近衛修
明石照男
近江二郎
(邦字新聞『日米』/昭和5(1930)年10月26日付より) 

このアメリカ公演は昭和5〜6年。それから15年あまり、銀星座公演の新聞広告には「深山百合子」「戸田史郎」「中村国太郎」「春野早苗(春日早稲の改名か?)」の名前があります。近江の妻の深山百合子は別としても、長く一座に在籍していた人がいたことからも、人望の厚い座長というのがわかります。

昭和6(1931)年4月20日付 馬哇新聞より

また、新聞広告に掲載されていた一座の演目は以下のようなものです。

時代劇
・美男村正
・梅野由兵衛
・時世は移る
・天瀧の血煙
・赤鞘安兵衛
・観音長次
・渦紋流し(これと同じ?)
・白浪三巴
・白痴の生涯
・小野派一刀流
・傳馬問答
・刺青奉行
・暗殺組
・赤穂浪士
・小松龍三
現代劇
・あの丘越へて
・黄金地獄(この映画と同じか?)
・乃木将軍
・呪われる一家
・青春の叫び
・狂戀
・海賊
・一本杉
・作造の家
・月下の人
・罪を着て
・野球狂時代
・兄と妹
※このほかに、「教訓的児童劇」というのを無料上演しています
(邦字新聞『馬哇新聞』/1931(昭和6)年4月20日付より)

分類の「時代劇」がおそらく剣劇(ちゃんばら)、「現代劇」というのが新派や軽演劇なのだろうと思います。『黄金地獄』『呪われる一家』『野球狂時代』なんて、どんな芝居だったのだろうかと興味をそそられますね。

演目のうち、現代劇の『兄と妹』は銀星座の開場記念興行でも上演されています。15年後も同じものを演じているということは、一座にとってお得意のレパートリーだったのかもしれません。


近江二郎一座の文芸部員

この近江二郎一座の文芸部員(台本を書いたり演出をしたりする人)に大江三郎という人がいます。記録に出てくるのが昭和17年からなので、この頃、一座に入ったと思われます。東京・大阪・京都の公演記録に大江の名前が出てきますので、近江二郎一座の文芸部員として、劇団に帯同して全国を飛び回っていたのでしょう。

大江三郎はのちに杉田劇場の「暁第一劇団(大高ヨシヲ一座)」でも演出をしている上に(出演もしている)、残された写真の裏書には「支配人」とも書かれているので、大高一座にとって重要人物であることは間違いありません。ただし、昭和19年4月の段階では近江二郎一座公演の演出をしている記録がありますから(神奈川新聞記事)、終戦をはさんで大高の一座に移ったのか、もしくは近江二郎一座に籍を置いたまま大高の手助けをしていたのか、そのあたりは不明です。

ひとつ気になるのは、近江二郎と大江三郎の名前です。

近江二郎(おうみじろう)
大江三郎(おおえさぶろう)

どう見てもそっくりです。僕自身、一時期は同一人物だと思っていました。

ですが、昭和21年の3月に近江二郎一座は弘明寺の銀星座で開場記念興行をやっていて、大高ヨシヲ一座もまったく同時期に杉田劇場で連日興行を行なっています。近江が自分の劇団の公演をしながら大高の劇団の演出をするというのは、かなり困難だと思われますので、やはり別人と考えるのが妥当です。

近江二郎一座には「大山二郎」なんていう役者もいましたし、近江の内弟子を経て、のちに吉本興業に入り、新喜劇で活躍する平参平の旧芸名が「近松小二郎」で、これも字面がよく似ています。座長の名前の一部をもらって芸名や筆名にするようなことは頻繁にあったのでしょう。

大高葬儀の写真を見る限りでは、大江三郎は30代くらいの若い人のように感じられます。大高が亡くなって、一座が解散した後、大江が何をしていたのか、いまのところ記録が見たらないのでよくわかりません。

引退して別の仕事に就いたのか、名前を変えて活動を続けていたのか。いずれにしても、斜陽になりつつあった実演演劇の世界ですから、戦後、演劇の興行界で生き残っていくのはそう簡単ではなかっただろうと思います。


近江二郎一座と渥美清

渥美清が杉田劇場の舞台に立った、という話があるものの、それを裏付けるものがない、ということは以前にも書きました。

実は、近江二郎の孫にあたるのが、大衆演劇の「近江飛龍劇団」 座長、近江飛龍という人です。その方が

"僕の祖父に当たる初代近江二郎が近江劇団を作ったのが明治時代で、僕の父の兄弟弟子には、渥美清さん、平参平さんなどがいたと聞いています。詳しいことは文献がないのでわからないのですが…"
(KANGEKI /「はじめての大衆演劇」講座レポ~近江飛龍座長トークと実演付き!~より)

と話しているのです。

ということは、渥美は近江二郎一座の座員として杉田劇場に来たのかもしれません。しかし、やはり文献がないと述べていることからも、正確なところは不明なままです。

渥美清という人は、自分のことを語りたがらない人だったそうで、自伝はありますが、浅草のフランス座に入る前の話は(いささか後ろ暗いところもあるのか)、詳しい記述がありません。

下積み時代のエピソードとして、大宮の日活館における『阿部定一代記』が初舞台であること、川崎の劇団で「パンツの匂いを嗅ぐ男」というバラエティーショウに出たことは、渥美ファンならば有名な話でしょうが、少なくともこの2作品については、タイトルからして近江二郎一座の演目ではないように感じます。

当時、渥美清はいくつもの劇団を渡り歩いていたようなので、近江二郎一座もそのひとつだったのかもしれません。そんなに長期の所属ではないと思われる中、たまたま杉田劇場での興行にあたったというのも相当な奇縁ですから、なんとか確証を得たいところですが、なかなか判明しません(ちなみに、戦時中、剣劇の舞台に立っていた役者に「渥美清一郎」という人がいます。この人と混同しているんじゃないかという疑念も浮かびますが、残念ながらこちらも確証はありません)。

余談ですが、渥美清が初舞台を踏んだ劇場、大宮の日活館は、作家の太宰治が通っていた映画館なんだそうです。

さて、以上のような整理ですが、近江二郎のことは、まだまだ調べ尽くせてはいません。ただ、こうして時系列で並べてみると、近江二郎という人の人物像と一座の活動の様子が少しわかってきたように感じています。

いかがでしょう。

次回は近江二郎以上に横浜と縁の深い「日吉良太郎一座」について考えてみます。


→つづく

(13) 旧杉田劇場のこと

あけましておめでとうございます。

今年こそ絶対に大高の正体に迫るぞ、というほどの熱さはありませんが、尽きない興味をゆるりとなだめながら、大高ヨシヲの探索を通じて、戦前、戦中、戦後の興行界のことなど、乏しい知識を深めていきたいと思う年頭でございます。

本年もよろしくお願いいたします。

それにしても、かなりマイナーなテーマな上に、自分勝手に書いているブログなので、わかりにくいこと甚だしく、読者のことなどほとんど考えていない自分のためのメモみたいな書き物ですが、あちこち飛躍する大量の情報を前に、自分自身の頭の中もやや混乱気味。これを整理するためにも、これまで出てきた事柄を振り返る必要があると感じ始めているこの頃です。

そんなこんなもあって、更新日をちょっと前倒しし、今回は大高調査の原点「旧杉田劇場」について整理してみたいと思います。


旧杉田劇場とは


基本情報

あえて「旧」と付けているのは、現在、「磯子区民文化センター」として磯子区新杉田にある文化施設の愛称が「杉田劇場」だからです。この愛称はたしか4つくらいの候補の中から公募で選ばれた記憶がありますが、そのうちのひとつであった「杉田劇場」は、もちろん旧杉田劇場の名前にちなんでのものです。

旧杉田劇場は終戦から約4ヶ月後、1946(昭和21)年の1月1日に開場した実演劇場、つまり映画ではなく生身の人間が演じる芝居や演芸を上演する劇場です。

所在地は旧番地「磯子区杉田町2184番」で、横浜市電・杉田線の終点のすぐそば。現在の住所でいうと「磯子区杉田4丁目4番」にあたり、ちょうどJR根岸線が国道16号線と交わる地点です。

JRの橋脚下に跡地を示す説明板があります

幸いなことに当時の写真がいくつか残っていますが、そのうちの劇場正面写真を見ると、入口は国道16号線に面しているのがわかります(よく見ると市電の線路があります)。ですが、奥で建物は左へL字に折れて、そこが劇場空間となっていました。

旧杉田劇場正面

同じ地点の現在の様子(高架の橋脚部分が旧杉田劇場正面)/Googleマップより

劇場内部について

正面入口を入って突き当たりに客席への出入口があり、そこを入ると客席を横切る中通路になっています(入口の敷居は丸太だったそうです)。中通路の右手(後方)は桟敷席、左手が前方の椅子席と舞台です。座席は今のような個別席ではなく、木製5人がけの長椅子でした。キャパ(収容人数)は320ですから、数だけで言えば現在の杉田劇場とほぼ同じです(ただし、もっと狭かったと思います)。

もともと「映画劇場」として計画されていたフシもあるので、客席の後方には映写室もあったんじゃないかと推測しています。

旧杉田劇場客席(杉田劇場ウェブサイトより)

客席から見た舞台の写真を参考に、僕なりに推測したステージのサイズは、間口(幅)がだいたい4間(7メートル強)、奥行が2.5間(4.5メートル)、プロセニアム(額縁)の高さが1.5間(2.7メートルくらい)。かなり狭い印象です。

下手側には斜めに走る花道があって、花道に沿ってその奥は下座(囃子方の席:三味線や太鼓などの音楽を演奏するスペース)です。舞台上手奥には大道具置き場と別棟の楽屋があって、浴室も完備されていました。おそらく宿泊できるスペースもあったと思われます。

旧杉田劇場舞台(杉田劇場ウェブサイトより)

ちなみに現在の杉田劇場のステージは、間口が約6.5間(12メートル)、奥行が約4.5間(8メートル)、プロセニアムアーチの高さが約3.5間(6.5メートル)ですから(劇場資料による)、数字を比較してみても旧杉田劇場の狭さがよくわかります。

日本庭園と海

客席に戻って、中通路をそのまま進むと、屋外へ出る扉があって、狭いながら日本庭園がありました。その向こうは海です。当時の杉田海岸はまだ埋立が進んでおらず、幕間に庭へ出れば湾の向こうに本牧岬が見えたことでしょう。左手には屏風浦から根岸にかけての海岸線や海苔の養殖棚が見えていたはずです。海水浴もできた海で、出番を終えた役者が化粧をしたまま泳いでいた、なんていう逸話も残っています。

そんな風光明媚な劇場ですが、庭には劇場の建物に接した便所もあって、その香しい匂いが劇場内にも漂っていたというのですから、なかなかに時代を感じさせます。しかし、振り返ってみれば、少し前の場末の映画館もそんな感じでしたね。

以上の情報から、現在の航空写真の上に当時の杉田劇場を落とし込むとこんな感じかなと思います。


演目について

この劇場には、当時のそれなりに有名な芸人や役者たちが来て、喜劇、剣劇、歌舞伎、漫才、落語、浪曲など、さまざまな演目を上演していました。横浜の中心部は約半年前(1945年5月29日)の大空襲で壊滅状態となり、ほとんどの劇場は焼失・崩壊していましたから、市電の終点という市街のはずれにあった劇場でも、終戦直後の娯楽に飢えていた市民にとってはほとんど唯一無二の憩いの場で、開場当初はかなりの賑わいだったそうです(旧杉田劇場の演目は現杉田劇場のウェブサイトにある「杉田劇場とアテネ劇場そして美空ひばり」のページに詳しく掲載されています)。

劇場の経営陣

劇場のオーナーは高田菊弥という人で、この人は長野県南木曽の出身。東京に出て深川で材木会社を経営していたとの話もあります。その彼が戦争の始まる頃、杉田劇場と同じ場所で、その近くにあった「日本飛行機」という海軍の航空機製造を担う軍需工場の下請けを始めます。ベニヤ板を貼り合わせて飛行機のプロペラを作っていたらしいのですが、具体的なことはよくわかりません。

終戦にともなって、日本飛行機は閉鎖となり、当然、下請け工場も仕事がなくなります。高田は工場に残っていたアルミ(飛行機の胴体を作る材料)で鍋を作って厚木あたりまで売りに行ったりもしていたそうですが、やがてその工場を改装して劇場を作る計画を立てます。

実は高田菊弥という男、芸事が好きで、深川時代は浅草に通って松竹座によく出入りし、役者の後援会長をしていたなんていう話もあります(本田靖春『「戦後」 美空ひばりとその時代』より)。その縁があってか、もしくは戦争中の演芸慰問の縁でか、浅草芸能界でそれなりの顔役だった鈴村義二という人の知遇を得ていて、劇場開設の相談を持ちかけます。

浅草というと、いまでは昔の風情を残す下町みたいな印象ですが、戦前・戦中はそれこそ、今でいう日比谷や新宿や池袋や渋谷といった、時代の先端を行く繁華街・劇場街で、そこで活動していた鈴村を現代風にたとえると「吉本興業やジャニーズ事務所に顔のきく人」くらいになるのかもしれません(ちょっと盛りすぎかな)。

いずれにしても、高田菊弥という実業家が、鈴村義二というプロデューサー(アドバイザー)を得て、磯子の地に杉田劇場という実演劇場を作ったのが「旧杉田劇場」の始まりです。いまから77年前の話です。

そして大高ヨシヲ

開場からひと月後、自ら杉田劇場へ売り込みに来た男がいます。

大高ヨシヲ。

戦前から各地の劇場で剣劇の舞台に立っていた旅回りの役者です。おそらく横浜近在の役者を集めて一座を立ち上げたのでしょう。劇場幹部は協議の末、大高と専属契約を結び、杉田劇場は開場からまもなく、「暁第一劇団(大高ヨシオ一座)」と称する座付劇団の興行をスタートさせることになります。

男振りのよかった座長の大高は、たちまち人気者となり、熱狂的なファンもついて劇場は連日満員の大盛況。大高目当ての客で京浜急行(当時はまだ東京急行電鉄=いわゆる「大東急」)の売り上げが増えたなんていうエピソードも残っているくらいです。

なのに、大高ヨシヲのことは今となっては誰に聞いてもよくわからない。大変な人気だったにも関わらず、年齢も出身地も、どんな役者だったのかも、どんな経歴で、またどんな経緯で座長になったのかも…

そんな彼のこと、旧杉田劇場の忘れられてしまった座付劇団の座長のことを、こうして地道に調べているのがこのブログ、というわけです。

(なんとなく旧杉田劇場のことは整理できたような気がしますが、どうでしょうね)


さて次回は、これまでにわかった「大高をめぐる人々」について整理してみたいと思います。

乞うご期待!


追記:YouTubeを検索していたら1951年(杉田劇場の開場から5年後)のニュース映像が出てきました。「女剣げき(女剣劇)」の流行を伝えるものですが(前半1:12くらいまで)、狭い舞台での立ち回りや満員の客席が映っていて、当時の劇場の様子がよくわかります(おそらく浅草でしょう)。杉田劇場で女剣劇の劇団が興行したことはないと思いますが、大高ヨシヲを含め、男性の剣劇は上演されていました。こんな感じだったのかもしれませんね。

→つづく