(42) 大高よし男のいた劇場は今

大高よし男が東京・横浜あたりで舞台に立った劇場は、わかっている範囲で

浅草・金龍館
横浜・敷島座
川崎・大勝座

の三館です。

資料調査も行き詰まっているので、現地調査で気を紛らわそうと、先日、このうちの二館、浅草と横浜の劇場跡地を訪ねてみました(いや、別の用事があったついでなんですけどね)。


浅草・金龍館

まずは浅草の金龍館

この劇場は戦後「ROXY」「浅草松竹」という映画館になったそうですが、とても歴史のある建物で、昔の写真を見ると、とても洒落たファザード(正面)からは、かつての浅草六区の賑わいが感じられます。

建物としては1990年代までは残っていたようで、「都市徘徊blog」というブログに再開発前の写真が掲載されています。また別のブログ「ぼくの近代建築コレクション」には以前の劇場の側面の写真など、貴重な写真も掲載されています。


大高よし男は(おそらく)剣劇の役者で、金龍館に出演した時も女剣劇・伏見澄子一座に参加していました。そんな彼の出る舞台ですから、いまの大衆演劇の劇場や演芸場をイメージしがちですが、写真を見るともっとモダンな劇場だったことがわかります。

ここには金龍館のほかに「常盤座」「東京クラブ」という劇場(映画館)が並んで建っていたそうで、中が通路でつながっていたため、外に出なくても移動が可能ということで、「三館共通チケット」なんかもあったそうです。

歴史ある立派な建物でしたが、三館とも六区の再開発にともなって解体され、現在、跡地は「ROX・3G」というショッピングビルになっています。




壁面の色合いや質感などに若干の面影を残しているのかもしれませんが、劇場があったという記憶はほとんど感じられません。

もっとも、観光地としての浅草は大変な賑わいで、六区あたりもたくさんの人であふれていました。木馬館や浅草演芸ホールをはじめ、いくつかの劇場がいまも営業を続けていて、劇場街としての記憶がしっかり受け継がれている印象でした。

浅草公会堂前にある「スターの手型」には、横浜ゆかりの芸能人も結構いて、大高を調べ始めてからあらためて見ると、感慨深いものがあります(磯子区にゆかりのある人を中心にピックアップしてみました:敬称略)。

横浜出身の女剣劇スター・大江美智子(南区南太田出身)

言わずもがなの美空ひばり(磯子区滝頭出身)

これも横浜出身、往年の大歌手・渡辺はま子(西区平沼出身)

これまた言わずもがなの桂歌丸(南区真金町出身)
(横浜敷島座によく行ったらしい)

高峰秀子は、磯子区岡村出身の松山善三と結婚
(一時期岡村に住んでいて、蕎麦店「浜松屋」によく行っていたそう)

最期まで磯子区山王台に住んでた田中邦衛
(浜中学校裏のバッティングセンターに通っていたらしい)

戦後、磯子区中原に住んでいたことのある三船敏郎
(古老に聞くと、杉田商店街を歩く姿を見たことがあるとか)

旧杉田劇場に出演していた浪曲師の三門博

ちなみに、近江二郎が不二洋子一座に参加していたのが「松竹座」で、これは「ROX」が建っているところにありました(金龍館の向かい)。また、前々回の投稿で紹介した近江二郎の「グロテスク劇」を上演していたのは「公園劇場」で、 現在は「ROXDOME」となっています(金龍館の裏手)。

位置関係がわかる地図


横浜・敷島座

一方の横浜ですが、敷島座というのは当時の住所で「賑町2-5」、現在の住所でいうと「伊勢佐木町4-112」にありました。

曙町のいわゆる「親不孝通り」と伊勢佐木町通りの間にあって、牛鍋で有名な「荒井屋」のすぐそばです。


このエリアですから、当然、昭和20年5月29日の横浜大空襲で焼けてしまって、面影も何もありません。

いまはコンビニや美容室がならぶ一角で、このブロックは伊勢佐木町側が「112番地」、親不孝通り側が「113番地」となっていますので、敷島座は伊勢佐木町通りに面していたことがわかります(古いクリーニング店「松屋クリーニング」の地番が伊勢佐木町4-113)。

横浜敷島座跡地(面影はありませんが)

都市発展記念館が発行している図録「シネマ・シティ -横浜と映画-」には大正時代の敷島座(当時は「敷島館」)の絵葉書が掲載されています。

大正中期というキャプションがあるので、関東大震災前でしょうから、これがそのまま大高のいた時代の建物ではないと思いますが、少なくとも街の雰囲気はそう遠いものではないような気がします。

図録『シネマ・シティ』(横浜都市発展記念館刊)より

僕が学生だった35年ほど前までは、馬車道から伊勢佐木町にかけては、まだ劇場街だった雰囲気が残っていて、敷島座の跡地近くには、伊勢佐木町東映(旧賑座/朝日座)、横浜にっかつ・横浜オスカー(旧喜楽座:日活会館は現存)、横浜ニューテアトル、オデオン座(再興)、若葉町の横浜日劇、東映名画座、長者町の横浜松竹、横浜ピカデリー、羽衣町の関内アカデミー、馬車道の東宝会館、横浜市民ホール(旧 横浜宝塚劇場、現 関内ホール)などが林立し、関内・伊勢佐木町といえば映画街という印象が強かったものです(サイト「消えた映画館の記憶」横浜市中区に詳細な情報があります)。

僕の知るかぎり、伊勢佐木町近辺の実演の劇場や演芸場は「CROSS STREET」くらいなもので、いわゆるブラックボックス的な劇場空間は皆無です(ライブハウスやキャバレーのステージはいくつかあるのだろうけど)。

イセビルの地下や吉田町に劇場的な空間ができたこともありましたが、いまはもう活用されていないと思います。

「街の記憶」という言葉がしばしば話題になるこの頃ですから、若い演劇人や芸人たちが活躍できる劇場やライブハウスがたくさんできて(行政が税制面や助成金で支援してもいいと思う)、伊勢佐木町が劇場街として再興し、第二の大高よし男が出てくる土壌が育つといいな、なんて思っていたりもします。

(アクセスもいいし、きっと下北沢や池袋に匹敵する劇場街になると思う)

ちなみに、大高よし男が舞台に立った記録はありませんが、日吉良太郎一座が拠点としていた「横浜歌舞伎座」は黄金町から阪東橋へ抜ける「藤棚浦舟通り」に面したところにあって、跡地には「末吉町4丁目公団住宅」が建っています。

横浜歌舞伎座跡地(末吉町4丁目公団住宅)

ありがたいことに、このビルに入居している会社が入口に銘板を設置してくれているので、ここが劇場跡地だとわかります。

入口脇の柱に横浜歌舞伎座跡を示す銘板

記念碑のような大々的なものでなくても、こういう銘板があるだけで歴史が継承されていると感じられ、とても嬉しくなります。

(横浜歌舞伎座については、「はまれぽ」に詳しい情報が掲載されています)

ついでに言えば、現在の中郵便局は「横浜座(旧雲井座)」という劇場の跡地に建っています。伊勢佐木町やその近くが劇場街だったことがよくわかります。


というわけで、今回は資料調査の合間に、簡単な現地調査の報告となりました。


→つづく

(41) 「よし子」ではありません

新しい発見ではありませんが、「寶塚文藝圖書館月報」(『明治・大正・昭和前期雑誌記事索引集成 人文科学編 第20巻』収録)の中に、大高の名前を見つけました。

この月報がどういうものなのか、正直、よくわかっていないのですが、ここには昭和10年代の何年か分の『演劇年鑑』が収録されています。

そのうちの昭和17年度版(昭和18年5月の月報に掲載)。9月から10月にかけての「上演演劇索引」の中に大高の名前があったのです。

しかし、そこに書かれていた名前は

「昭和17年度演劇年鑑(『寶塚文藝圖書館月報』収録)」より

大高よし子!

いやいや、よし子じゃないって。

劇場が京都三友劇場なので、念のため『近代歌舞伎年表 京都編』と照合してみました。

『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻』(八木書店刊)より

やはり「大高よし男」の誤植でした。

(ホッ)

いやはや、古い資料は誤植や誤記が多いので注意が必要です(実はこの年鑑には「大高よし子」が2ヶ所もある)。

(しかし、誤植などがあると検索しても見つからないわけですから、想定される誤記もチェックしないといけないのはなかなかのハードルです)

実はそれ以上に重要なのは、同書にあった「大高よしを」の記載です(昭和17年12月興行)。

昭和17年度演劇年鑑(『寶塚文藝圖書館月報』収録)」より

古い記録の中で、「よしを」とひらがなの名前が出てきたのはたぶん初めてじゃないかしらん。

しかも、この記録を『近代歌舞伎年表』と照合してみたところ、なんと年表には大高の名前がないのです。

『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻』(八木書店刊)より

「年表」は11月(30)日が初日ですが、これは12月興行と考えていいでしょう。「月報」収録の「年鑑」で「12月」となっていることと合致しますし、演目も同じですから、同じ公演の記録と考えられます。

しかし、「年表」には大高の名前がない。

これが「年鑑」の誤記なのか不明ですが、もし誤りではないのだとしたら、『近代歌舞伎年表』が典拠とした「京都新聞」以外に、「年鑑」が典拠とした「大高よしを」という記述のある資料が、必ずどこかにあるはずです。

それに行き当たれば、新たな情報が入手できるかもしれません。

(どこにあるのだろう…)


ところで、この興行には「松園桃子一座」の名前があります。

既述の通り、大高よし男は昭和16年の9月から年末まで、横浜敷島座で「松園桃子一座」に参加していることがわかっています。

上記の京都での記録が正しいとしたら、座組からしてここでも「松園桃子一座」に参加していたと考えるのが妥当な気はします。

やはりキーとなるのは…

近江二郎
伏見澄子
松園桃子

この三者になるでしょう(加えて大高の死後、追善興行に出た「中野かほる」も頭の隅に置いておきます)。

大高の名前をターゲットにした資料調査はそろそろ限界に達しています。上記三座の記録を精査することで、新たな大高の軌跡が見つかると期待したいところです。

ちなみにこの時(昭和17年12月)の演目、『第二の暁』は、旧杉田劇場の「暁第一劇団」を思わせる題名で、ちょっと気になります。

うーむ…

調査は続きます。


→つづく


(40) 近江二郎のグロテスク劇場

大高よし男の前名、高杉彌太郎は、僕の調べた範囲では昭和15年3月の横浜敷島座、近江二郎一座の俳優連名の中に初めて登場します。

後年の大高よし男が、だいたいどこかの一座へ「加盟」「加入」、つまり助演的な立場で参加していることから、近江一座へも助演していただけなのだろうと想像していましたが、もしかしたら近江一座に最初から座員としていたのではないかと、最近は考えています。

なので、昭和15年より前の近江二郎一座の公演記録を探すのが近頃の課題です。

これまでにわかっている昭和初期の近江二郎の足跡は、昭和5年にアメリカ(西海岸)とハワイを巡業したことくらいでしたが、演劇博物館(早稲田大学)の演劇情報総合データベース(デジタルアーカイブ)を検索して、昭和7年8月から浅草の公園劇場で興行している記録を見つけたので、『都新聞』で情報を探ってみたところ、次の広告が見つかりました。

昭和7年8月20日付 都新聞より

上記のデータベースにあったものと同じ公演ですが、この頃の近江二郎一座は「グロテスク劇場」と称した興行を展開していたようです。実際、名古屋・大須の劇場街についての聞き書き『大須物語』(大野一英 著/中日新聞本社刊 1979)にも

"演しものは特異というか『グロの弥之助』など。一流の台本は使えなかったにせよ、この一座独自の台本をだれかに書いてもらっておるらしく、小味のあるのをやりましたね"

とあることから、一時期の近江二郎は「グロ」すなわち「グロテスク」が売りだったことが想像されます。

昭和5年の渡米の際には「グロテスク」の文字は見られず、演目も剣劇や新派がメインでしたし、昭和15年に横浜に来た時も同様です。つまり、近江二郎はアメリカ巡業から帰国してから「グロテスク劇場」なる企画を始めたのではないかというのが僕の推測です。


ここで興味深いのは、西洋における「グロテスク演劇」は1910〜1920年代に流行したものだそうで、代表的人物の一人がロシアのメイエルホリドだということ。そして、そのメイエルホリドは近江二郎と同時期にアメリカ・ヨーロッパを巡演した筒井徳二郎の舞台に影響を受けたとされていることです。

グロテスク演劇の隆盛期から数年後が、筒井徳二郎や近江二郎の海外公演の時期なので、若干のズレはありますが、近江二郎が帰国後に「グロテスク劇場」を始めたのだとすると、筒井徳二郎が影響を与えたメイエルホリドの演劇が、今度は近江二郎を通じて日本に逆輸入されていた、とも考えられるわけで、当時の世界演劇と日本の大衆演劇のつながりは、そうそう軽視できないものなんじゃないかと思えてなりません。

事実、表現主義演劇の代表的作家であるゲオルグ・カイザーの『カレーの市民』を日本で初演したのは新国劇だそうで(図録『寄らぱ斬るぞ』/早稲田大学演劇博物館より)、"大衆"演劇と称されながら、むしろ当時の新国劇や剣劇は、僕らが考える以上にかなり先進的で前衛的だったのかもしれないと感じるところです(ただし、メイエルホリドのグロテスクと近江二郎のグロテスクはかなり意味合いの違うもののようです)。

もっとも、『カレーの市民』は大変な不入りだったようですし、前掲の『大須物語』によれば、グロテスクを売りにやっていた近江二郎一座も「やがて閉座」と書かれているので、先進的な取り組みも「興行」の前に頓挫したというのが実態なのかもしれません。


さて、話を大高探しに戻せば、上記、昭和7年8月の新聞広告に掲載された、近江一座の俳優連名には「大高よし男」はもちろん「高杉彌太郎」の名前もありません(近江の妻、深山百合子や実弟、戸田史郎の名前はありますし、後に大高と共演する「宮崎憲時(角兵衛)」と同一人物と思われる「宮崎憲司」の名前もあります)。

そのころの大高が名前も載らない若手俳優だったのかもしれないし、そもそも座員ではなかったのかもしれないし、そのあたりはまったく不明ですが、いずれにしても、この昭和7年から昭和15年までの間のどこかで「高杉彌太郎」の名前が出てくるはずです。

この先の調査はそのあたりがターゲットになりそうです。


→つづく


(39) 横浜敷島座と川崎大勝座

大高よし男を調べる上で、横浜の敷島座、川崎の大勝座はとても重要な劇場なのですが、昭和18年いっぱいで、なぜか敷島座の広告が新聞紙上から消えてしまいます。

といって劇場そのものがなくなったわけではなく、昭和19年の暮れまで営業を続けていたようです。他の劇場(横浜歌舞伎座や横浜花月など)の広告はそのまま残っているので、消えた理由はよくわかりません。

籠寅演芸部(昭和演劇株式会社)の方針なのかなとも考えましたが、同じ系列の川崎・大勝座の広告は依然残っているので、やはりちょっと不可解です。

東京の劇場ならば、朝日や読売といった全国紙のほかにも、都新聞(東京新聞)や『演芸画報』のような雑誌もあるし、神奈川新聞でもたまに劇評が出たりするので、調査の幅がありますが、横浜の敷島座となると、神奈川新聞以外に情報源がありませんから、昭和19年の敷島座はまったくもって闇の中、となっているのが現状です。

(もっとも昭和19年12月に敷島座に大江美智子一座がやってきて興行していることは判明しています。小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』によれば、「実質的にはこれが敷島座の最終公演(中略)以後は休場したらしい」とのことです)

昭和18年5月いっぱいまで京都にいた大高が、横浜に戻っているとしたら敷島座なのですが、そんなこんなで敷島座とともに「横浜の」大高よし男も闇の中となります。


ところで前述の通り、敷島座と並んで重要な芝居小屋が川崎の大勝座です。大勝座は川崎駅近く、堀ノ内(堀ノ内42番地)にあった劇場で、籠寅演芸部と松竹が共同で設立した「昭和演劇株式会社」の直営館です。

(この会社、劇団や芸人を抱えながら劇場を持たなかった籠寅と、劇場はもっていたけれど劇団や芸人のマネジメントはやっていなかった松竹の思惑が一致して、両者が手を組んでできたということらしいです)

大高よし男は昭和17年の正月に伏見澄子一座への助演として大勝座に初お目見えします。その後、同年の6月に海江田譲二・中野かほる・大内弘といった映画スターによる実演の舞台にも立ちますが、判明している記録では、川崎での活動はこの2回のみです。


その大勝座は昭和18年6月29日から大規模な改装に着手します。劇場としての機能を高めて、敷島座とならぶ京浜地区の拠点にしようと考えていたのかもしれません。

昭和18年6月30日付神奈川新聞より

広告の文面には、改装後は「絶賛なる人氣百パーセントの専屬劇團を迎へまして」とあります。籠寅専属の人気劇団を呼ぶのでお楽しみに、という意味にも受け取れますが、その後の大勝座には近江二郎一座を基本とした座組が続くので、もしかしたら近江一座を大勝座の専属劇団にしたということなのかもしれません。

となると、改装後の川崎・大勝座の舞台に、京都から戻った大高よし男が立っていた可能性も出てきます。

そもそも大高と近江二郎は縁がありますし、実力派の近江一座に、人気者の大高を加えて専属劇団とすることは、籠寅の興行的見地からすると、至極妥当な気はします(ただ、人気者であるはずの大高よし男の名前が広告に出ないのがちょっとおかしい)。

この観点からの調査も大高探しの手がかりを知る上で、重要な作業になりそうです。

(しかし、大勝座の詳細な興行記録はどこで調べればいいのだろう)


そんな大勝座ですが、不運なことに改装から1年後、昭和19年7月10日、火災に見舞われます。どうやらタバコの不始末が原因のようですが、出火が午前2時半で発見が遅れたこともあってか、全焼という憂き目にあっています。

昭和19年7月11日付神奈川新聞より

この時は5月末から近江二郎と松本榮三郎の合同一座が興行を続けていました。

昭和19年7月9日神奈川新聞より(火災の前日)

火災を報じる新聞には劇団員が罹災したというようなことは書いてありませんので、大勝座では小屋泊まりではなく、座員は近隣の寮や旅館に宿泊していたか、近江二郎などは毎日、井土ヶ谷の家に戻っていたのかもしれません。まさに不幸中の幸いです。

とはいえ、劇場が全焼ということは、大道具や衣装・小道具、鬘なんかも焼けてしまったことでしょうから、一座にとっては大打撃だったと想像されます。


実は近江二郎、この8年前、昭和11年2月にも劇場火災に遭遇しているのです。

場所は名古屋。宝生座で公演していた際に火災に見舞われ、やはり衣装や小道具を焼失してしまいましたが、周囲の協力で、すぐに同じ名古屋の帝国座へ移って興行を続けたそうです。

新派劇についての寄稿でもそうでしたが、近江二郎という人はなかなか熱い男で、不屈の魂すら感じるところです(川上音二郎の弟子というだけのことはあります)。

大勝座の火災から2年後、終戦の混乱を乗り越えて、弘明寺の銀星座で開場記念興行(柿落とし)をやるわけですから、その情熱というか意地というか、肝の据わり具合には頭が下がります。


江戸時代から劇場と火災はつきものだったようです(だから劇場だけは瓦葺の屋根が許されていたと聞いたことがあります)。

昭和に入っても同じようなことは繰り返されたのですね。たしか、昭和15年に映画スターの澤田清が、横浜・敷島座に続いて興行した静岡の常盤劇場も、もともとは若竹座という芝居小屋で、火災の後に再建された劇場でした。


さて、その後、大勝座の新聞広告には「火災の為 休館中」の文言が連日掲載されることとなります。が、しばらくして広告欄から川崎大勝座の枠そのものが消えてしまうのです。再建は難しかったのかもしれません。

昭和19年7月12日付神奈川新聞より(火災の翌々日)

もっとも、仮に再建されていたとしても、昭和20年4月15日の空襲で市の中心部は壊滅状態となりましたから、いずれにしても大勝座の歴史は、悲しいかな戦争とともに消える運命にあったのです。


→つづく


(38) 大高よし男の公演記録(2) 昭和17〜18年

引き続き、公演記録の後半、昭和17年と18年の分を並べてみます。


大高よし男公演記録(2) 昭和17〜18年


昭和17年

1月14日〜 川崎・大勝座
伏見澄子一座 中村吉十郎・大高よし男加入(三の替り)

『源太仁義』四場 ※大高よし男出演の記載あり
『土屋主税』二場
『花川戸の人々』四場
〔昭和17年1月12日神奈川新聞より〕


1月20日〜 川崎・大勝座
伏見澄子一座 中村吉十郎・大高よし男加入

『仇討人情双六』五場
歌舞伎劇『良辯杉の由來』二場
『親戀女道中』四場
人間ポンプ 有光伸男
〔昭和17年1月19日神奈川新聞より〕


1月31日〜 横浜・敷島座
伏見澄子一座 高杉彌太郎改め大高義男加盟
時代劇『劍の光祭音頭』四場
現代劇『牧場の母』一幕
女劍飛躍『仇討こよみ』三場
バラバラ人間 
籠寅漫才大會
〔昭和17年1月26日神奈川新聞より〕


2月7日〜 横浜・敷島座
伏見澄子一座 大高義男出演
『仇討人情双六』四場
『銃後に咲く花』四場
『侠艶お吉ざんげ』三場
〔昭和17年2月9日神奈川新聞より〕


2月28日〜3月(9)日 京都・三友劇場
伏見澄子一座 市川百々之助特別出演 大高よし男・二見浦子加盟合同公演
時代劇『元禄辰巳の夜噺』四場(鈴木道太郎 作) ※主演大高よし男の記載あり
現代劇『牧場の母』一幕(英霧太郎 作)
時代劇『剣難』五場(葛飾百十八 作)
時代劇『疾風親恋峠』四場(佐々木憲 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


3月10日〜 京都・三友劇場
伏見澄子一座 市川百々之助特別出演 大高よし男・二見浦子加盟合同公演
時代劇『仁俠江戸桜』三場 ※主演大高よし男の記載あり
現代劇『皇国の母』三幕
時代劇『黎明二重奏』
時代劇『女夫駕東海晴れ』
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


3月(20)日〜 京都・三友劇場
伏見澄子一座 市川百々之助特別出演 大高よし男・二見浦子加盟合同公演
『二人旅春の雪解』四場
現代劇『土に親しむ』二幕
時代劇『海を護る者』一幕
時代劇『鳶女房 勇俠は組の纏』四場
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


3月(31)日〜 京都・三友劇場
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党 大高よし男・二見浦子加盟合同公演
時代劇『剣光祭音頭』四場 ※主演大高よし男の記載あり
時代劇『愛の銃剣』四場
現代劇『恩師の仇』四場(劇中劇)
時代劇『新月 賽河原 題目供養』六場
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


4月(9)日〜 京都・三友劇場
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党 大高よし男・二見浦子加盟大合同公演
時代劇『春霞武道往来』四場(鈴木道太 作並演出) ※主演大高よし男の記載あり
時代劇『故郷の夢』二場(小林勝之 作 安田弘 演出)
時代劇『祇園しぐれ』一幕(村上元三 作 小笠原譲二 演出)
時代劇『お駒格子』四場(大場章三郎 作 鈴木道太 演出)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


4月(18)日〜 京都・三友劇場
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・雲井星子一党 大高よし男・二見浦子加盟大合同公演
時代劇『冴える三日月』三場(鈴木道太 作並演出) ※大高よし男主演の記載あり
時代劇『出世の纏』五場(伊藤晋平 作 安田弘 演出)
時代劇『十六夜三人旅』五場(平野万太郎 作 小笠原譲二 演出)
時代劇『春月妻折笠』二場(鈴木道太 作並演出)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


6月19日〜 川崎・大勝座
■協團?(海江田譲二・中野かほる・大内弘・大高よし男出演)
現代劇『かんざし』三場
時代劇『冴ゆ■三日月』三場
『次郎長京へ上る』七場
〔昭和17年6月22日神奈川新聞より〕


8月(31)日〜 京都・三友劇場
剣戟二座合同劇
河合菊三郎一座・伏見澄子一座 二見浦子・大高よし男加盟
現代劇『慈愛の紀念樹』一幕二場(一堺漁人 作)
時代劇『清吉大名異変』一幕四場(坂本晃一 作)
時代劇『建設の使車(ママ)』五幕(末広薫 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


9月(10)日〜 京都・三友劇場
剣戟二座大合同劇公演
河合菊三郎一座・伏見澄子一座 大高よし男・谷明子加盟
時代劇『鼓の里』二場(榎本寅彦 作)
時代劇『月朧仇夢譚』四場(坂本晃一 作)
時代劇『女心愛染塔』六幕(高梨康之 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


9月(19)日〜 京都・三友劇場
剣戟二座合同劇大公演
河合菊三郎一座・伏見澄子一座 大高よし男・谷明子加盟
時代劇『新吉捕物異聞』六場(平野万太郎 作)
現代劇『新地の姉弟』四場(安達彰夫 作)
時代劇『烈女小竹』二幕(青葉秀風 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


9月(30)日〜 京都・三友劇場
剣戟二座大合同劇
伏見澄子大一座・河合菊三郎一座 大高よし男・谷明子加盟
時代劇『風雲熊本城 西南余聞 谷村と千葉健二郎』三場(行友李風 作)
時代劇『利根川染 子負い道中』五場(巽義夫 作)
時代劇『暁の鍔鳴り』六幕(末広薫 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


10月(10)日〜 京都・三友劇場
剣戟二座大合同劇
伏見澄子大一座・河合菊三郎一座 大高よし男・谷明子加盟
時代劇『深川伊達男』四場(細見正逸 作) 主演 大高よし男
『野狐三次』五場(井上平凡 作)
怨恨恩愛 お滝双六』六場(青葉秀風 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


10月20日〜 京都・三友劇場
剣戟二座大合同劇
伏見澄子大一座・河合菊三郎一座 大高よし男・谷明子加盟
時代劇『唄ふ若様』七景(長一郎 作) 主演 大高よし男
時代劇『泣き濡れ長脇差』五場(藍島千里 作)
時代劇『源九郎狐』五場(末広薫 作並演出)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 第十巻より〕


この時期に参加していた伏見澄子一座も横浜と縁がありますが、伏見澄子との共演は横浜よりも京都の方が多かったようです。

伏見澄子の横浜初登場は昭和13年。その時、大高よし男はまだ伏見一座との関係はなかったと考えられます。

伏見澄子は明治34年生まれなので、この頃は40代半ば。「東西女剣戟銘々傳」を特集した『パンフレット文藝』によると、広島県福山市の出身で、広島の新天地で見た芝居がこの道に入るきっかけだったそうです。

そんな伏見はこんな人。

伏見澄子
(木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年)より)


昭和18年

3月1日〜 浅草・金龍館
伏見澄子一座・河合菊三郎一座・和田君示一座・松旭斉天華一行
『撃ちてし止まむ』
『街道時雨』
『仇討禁止令』
『夫婦駕東海晴』
〔「松竹七十年史」「演劇年鑑」昭和22年版より〕 ※推定


3月16日〜 浅草・金龍館
三座合同競演大会
伏見澄子一座(大高よし男・三桝清特別加盟)・和田君示一座・松旭斉天華一行・中野かほる一座
『鶴亀功名噺』
『簪』
『源九郎狐』
〔ブログ「西条昇教授の芸能史研究」・「松竹七十年史」「演劇年鑑」昭和22年版より〕


3月(31)日〜 京都・三友劇場
剣劇歌舞伎大競演四月特別公演
伏見澄子一座・林長之助一座 大高よし男・三桝清加盟 特別出演 片岡松右衛門
『元禄士道鑑』三場(長田午狂 作) 三桝清・大高主演
吾妻与五郎 寿門松』一幕(近松門左衛門 作)
『子育道中』七場(末広薫 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 別巻より〕


4月10日〜 京都・三友劇場
剣劇歌舞伎大合同劇
伏見澄子一座・林長之助一座 三桝清・大高よし男・筑紫美津子加盟 特別出演 片岡松右衛門
『情の助人』四場 三桝清・大高主演
『岸姫松轡鑑』一幕
『渚の喜見城』三場
『春怨お吉ざんげ』二場
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 別巻より〕


4月(20)日〜 京都・三友劇場
剣戟歌舞伎大競演 三の替り
時代劇『情怨おけさ小唄』五場(坂本晃一 作) 三桝・大高主演
歌舞伎『廓文章』二場 吉田屋の段
時代劇『嬬恋天龍』一幕六場(藍島千里 作)
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 別巻より〕


4月30日〜 京都・三友劇場
剣戟歌舞伎合同公演 四の替り狂言
伏見澄子一座・林長之助一座 三桝清・大高よし男・中村時江・筑紫美津子・片岡松右衛門加盟
『血縁ふるさと記』五場 三桝・大高主演
『水天宮恵深川』二幕
『伏見の高田の馬場』五場
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 別巻より〕


5月11日〜 京都・三友劇場
剣戟歌舞伎合同大競演
伏見澄子一座・林長之助一座 三桝清・大高よし男・中村時江・筑紫美津子・片岡松右衛門加盟
『足軽剣法』五場
『妹背山婦女庭訓』一幕 三笠山御殿の場
『明暗振分旅』七場 伏見澄子主演 大高よし男助演
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 別巻より〕


5月(21)日〜 京都・三友劇場
剣劇歌舞伎合同大競演 六の替り
伏見澄子一座・林長之助一座 三桝清・大高よし男・筑紫美津子・片岡松右衛門加盟
『愛憎妻恋峠』五場 大高・筑紫主演
『生写朝顔日記』二場
『黎明新日本』七場 伏見澄子主演 三桝・大高助演
〔「近代歌舞伎年表」京都篇 別巻より〕


以上が、今わかっているすべての情報です。

並べてみると、それなりの数になりますが、調査範囲が横浜・川崎・京都・東京に限られているので、このほかにも他地域、特に名古屋や広島あたりで活動していることが予想されます。

また、ここに列記した時期の前後ですが、現段階では

昭和15年2月以前:近江二郎一座の座員として各地で公演していた
昭和18年6月以降:召集されて軍隊に行っていた

と推測しています。

もちろん「推測」ですから誤りの可能性もかなり高いです。いずれにしてもこの前後の時期をきっちり調査して、彼の舞台活動の全貌を明らかにし、なんとか手がかりを探して、大高よし男という人物の伝記的資料を収集するのが次の段階です。

→つづく


(37) 大高よし男の公演記録(1) 昭和15〜16年

調査が行き詰まっているところで、これまでの調査で判明した大高よし男(高杉彌太郎)の公演記録を整理してみたいと思います。

僕の調べた範囲で、大高よし男(高杉彌太郎)の名前が初めて登場するのは、昭和15年3月の横浜敷島座、近江二郎一座の興行を報じる新聞記事。一方、終戦前の最後は昭和18年5月、京都三友劇場における伏見澄子一座への加盟(助演)の記録です。

この間、横浜にはのべ12ヶ月、川崎に1ヶ月半、東京に1ヶ月、京都に7ヶ月滞在していたようです。約3年間のうちの3分の1以上を横浜・川崎で過ごしているわけですから、既述の通り、この地域との縁は深くなるだろうし、横浜に家を構えていてもおかしくない気はします。

そんなこんなで、さっそく公演記録の前半、昭和15年と16年の分を列記してみます(ちなみにこの時期の芸名はまだ「高杉彌太郎」です)。


大高よし男公演記録(1)


昭和15年

2月29日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助一座・近江二郎一座合同公演 川上好子加盟
『子は誰のもの』
『■■■■舟』(「帰雁一葉舟」か?)
『人生双六』
〔昭和15年2月29日付・3月3日付横浜貿易新報より〕


3月7日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・近江二郎合同公演 川上好子特別出演(二の替り)

『黒髪峠』四場
現代劇『海の王者』四場
『旗本と町奴』二場
籠寅まんざい
〔昭和15年3月7日付横浜貿易新報より〕


3月14日〜19日 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎合同公演(三の替り)

『淡路島水滸傳』六場 ※高杉彌太郎出演の記載あり
新派劇『逆巻く浪』五場
『呑気な用心棒』
籠寅特選まんざい
〔昭和15年3月14日付・3月17日付横浜貿易新報より〕


3月21日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎合同公演
『故郷の山河』四場
『光り世界』四場
『變化七分賽』
籠寅特選漫才
〔昭和15年3月21日付横浜貿易新報より〕


4月(20)日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎合同公演
『娘やくざ』四場
『二筋道』三場
『時雨笠』五場
〔昭和15年4月20日付横浜貿易新報より〕


5月1日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎合同一座
剣劇『裏切者』五場
新派『沈丁花』七場
時代劇『辰巳の夜嵐』五場
〔昭和15年5月3日付横浜貿易新報より〕


5月15日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎合同公演
女剣劇『佐渡おけさ』五場
新派『放浪の人々』六場
剣劇『元禄秘刃録』三場
籠寅まんざい
〔昭和15年5月19日付横浜貿易新報より〕


5月29日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎合同公演

新派劇『己ケ罪』
剣戟『百両飛沫』
『悲戀小櫻お玉』 ※高杉彌太郎出演の記載あり
籠寅特選まんざい
〔昭和15年5月31日付・6月1日付横浜貿易新報より〕


6月12日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎合同公演

時代劇『加茂の夕映え』二場
裁判劇『喜久子の審判』
現代劇『暁の牧場』 ※高杉彌太郎出演の記載あり
時代劇『刃傷情夜話』
籠寅まんざい
〔昭和15年6月14日付・6月18日付横浜貿易新報より〕


6月19日〜 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎一座
喜劇『青春』一幕
時代劇『天人お松』二場
現代劇『網代木』一幕
剣劇『次郎長の賣出し』四幕
籠寅まんざい
〔昭和15年6月20日付横浜貿易新報より〕


6月25日〜29日 横浜・敷島座
酒井淳之助・川上好子・近江二郎一座 お名残狂言
喜劇『嫁と嫁』一幕
時代劇『峠の馬子唄』二場
新派劇『狂戀』二幕
剣劇『抜き討ち■八』四場
籠寅まんざい
〔昭和15年6月28日付横浜貿易新報より〕

この後、近江二郎一座は名古屋〜大阪と巡演します(その先は不明)。大高よし男(高杉彌太郎)も一座に帯同しただろうと推定しています。

なお、この年によく共演していた川上好子は横浜の剣劇女優で、当時は26歳か27歳。こんな人です。

川上好子
(木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)より)


昭和16年

(昭和15年)12月30日〜 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演
『漁村の曙』
『榮五郎日本晴』
『ちょんなめ長助大手柄』
〔昭和15年12月29日付神奈川県新聞より〕


1月?日〜13日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演
現代劇『鳩の家』
『忠治子守唄』 ※高杉彌太郎出演の記載あり
『粗忽使者御前■仕合』
〔昭和16年1月10日付神奈川県新聞より〕


1月?日〜21日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演

『天下の手品師』
『兵隊さん 有難う』四景 ※高杉彌太郎出演の記載あり
『春風二度の雁』
〔昭和16年1月19日付神奈川県新聞より〕


1月29日〜 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演
現代劇『岩に咲く花』五場(小島政二郎原作)
時代劇『東海の顔役』五場
『浮世長屋とぼけた連中』
籠寅特選まんざい
〔昭和16年1月29日付・1月30日付神奈川県新聞より〕


2月5日〜11日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演

現代劇『岩に咲く花』後編 五場
『香椎馬方』三場(一堺漁人作)
時代劇『次郎長受難』九場
まんざい
〔昭和16年2月5日付・2月10日付神奈川県新聞より〕


2月12日〜18日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演
『一心太助大賣出し』四場
時代劇『森の石松代参』六場
現代劇『家なき児』四場
まんざい
〔昭和16年2月12日付神奈川県新聞より〕


2月19日〜25日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演(八の替り)
時代劇『追分の仇討』四場
現代劇『呼子鳥』四場
『狐に踊らされた彌次喜多』八景
まんざい
〔昭和16年2月19日付神奈川県新聞より〕


2月26日〜3月4日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演
日満親善劇『甦へる人生』四場
現代劇『あゝ無情』一幕
時代劇『鬼吉喧嘩状』七場
まんざい
〔昭和16年2月26日付神奈川県新聞より〕


3月5日〜11日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演
『鯨と争ふ金太郎』一幕
時代劇『仁吉男の唄』五場
現代劇『土と青年』全篇
まんざい
〔昭和16年3月5日付神奈川県新聞より〕


3月12日〜18日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演

時代劇『風吹き鴉』三場
勤王劇『武士の血』一幕 ※高杉彌太郎出演の記載あり
軍事劇『噫!鐡火部隊』五景
〔昭和16年3月12日付・3月17日付神奈川県新聞より〕


3月19日〜25日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演

現代劇『明けゆく一家』二場
『とぼけた仇討』七景
時代劇『身代り春太郎』五場
まんざい
〔昭和16年3月21日付神奈川県新聞より〕


3月25日〜30日 横浜・敷島座
田中介二・和田君示・近江二郎合同公演
 お名残狂言
『犠牲の舟』一幕
時代劇『泣くな左門』三場
現代劇『闘ふ男』四場
漫才
〔昭和16年3月26日付神奈川県新聞より〕

この後、近江二郎一座は大阪〜名古屋〜岐阜と巡演。大高(高杉)が同行していたかは不明ですが、可能性は高いと思われます。


9月1日〜7日 横浜・敷島座
松園桃子一座(高杉彌太郎加入)

『仇討叢雲峠』七場
かぼちゃ部隊『梅の井ショウ』
人間ポンプ 有光伸男
籠寅漫才大会
〔昭和16年9月15日付神奈川県新聞より〕


9月?日〜25日 横浜・敷島座
松園桃子一座
『仇討馬鹿囃子』
人間ポンプ 有光伸男
〔昭和16年9月24日付神奈川県新聞より〕


9月30日〜 横浜・敷島座
林長之助一座・酒井淳之助一座・松園桃子一座 片岡松右衛門特別出演
『生寫し朝顔日記』
『任俠茂三時雨』
『繪姿巴草紙』
籠寅演芸部特選漫才
〔昭和16年9月29日付神奈川県新聞より〕


10月8日〜14日 横浜・敷島座
林長之助一座・酒井淳之助一座・松園桃子一座
『朱房仁義』五場
『玉藻前三段目』一幕
『徳さん■■■』五場
〔昭和16年10月8日付神奈川県新聞より〕


10月15日〜21日 横浜・敷島座
林長之助一座・酒井淳之助一座・松園桃子一座
『■の門松』一幕
『あばかれ行燈』四場
『カクテルショウ』
漫才
〔昭和16年10月15日付神奈川県新聞より〕

※これ以降の公演に高杉彌太郎が参加していたかどうかは不明ですが、11月の新聞記事に名前が出ることから、参加していたとするのが妥当だろうと推定しています。


10月31日〜11月6日 横浜・敷島座
林長之助一座・酒井淳之助一座・松園桃子一座
『狂■お■■』三場
『壷坂霊験記』三場
『士魂』四場
〔昭和16年10月29日付神奈川県新聞より〕


11月7日〜13日 横浜・敷島座
林長之助一座・酒井淳之助一座・松園桃子一座
『故郷の仇夢』二幕
『合邦ケ辻』一幕
『旅姿一本刀』三場
漫才各種
〔昭和16年11月5日付神奈川県新聞より〕


11月21日〜 横浜・敷島座
林長之助一座
・酒井淳之助一座・松園桃子一座
『伽羅先代萩』 ※高杉彌太郎出演の記載あり
〔昭和16年11月24日付神奈川県新聞より〕


(興行は以下のように続きますが、大高が参加していたかどうかは不明)

11月29日〜12月6日 横浜・敷島座
林長之助一座・酒井淳之助一座・松園桃子一座
『小鼓狂亂』二幕
『忠臣蔵』三幕
『仇討兄弟鑑』五場
〔昭和16年11月26日付神奈川県新聞より〕


12月8日〜 横浜・敷島座
林長之助一座・酒井淳之助一座・松園桃子一座 雲井星子(一座?)
『■■七』三場
『引窓』
『縁結揖■川堤』四場
漫才
〔昭和16年12月8日付神奈川県新聞より〕



→つづく


〔番外〕お知らせ

おかげさまで、このブログもようやくGoogleで検索されるようになりました。

大高よし男については、わからないことばかりですので、みなさんからの情報をいただけると嬉しいです。

情報の間違いなどもあるかもしれませんので、誤りを見つけたらぜひご指摘ください。

その他、お問合せなどは、「お問合せ」ページから、フォームを通じてお知らせください(返信が必要な場合は、メールアドレス欄に入力をお願いします)。

よろしくお願いします。

(36) あれは本来の新派じゃない、と近江二郎は語った

これでも学生時代は演劇学を専攻していたはずなんですが、不勉強ゆえに演劇の基本的な知識が欠落しているため、大高よし男のことを調べていても、わからないことばかりが出てきて、自己嫌悪に陥ることもしばしばです。

とりわけわからないのは「新派」というジャンル。

特に昔の新聞記事では、歌舞伎を「旧劇」「旧派」と捉えているのは共通していても、それ以外の演劇を総称して「新派」と呼んだり「新劇」としたりしているから、ちょっと混乱してしまいます。

たとえば大衆演劇である「剣劇」のことも「新劇」なんて書いているところもあって、西洋近代演劇から影響を受けた、いわゆるリアリズム演劇を「新劇」だと思っていた浅学の薄っぺらい脳内には、疑問符ばかりがあふれます。


新派というのが、川上音二郎らの書生芝居・壮士芝居あたりが原点であることは、浅い知識としては持ち合わせていましたが、現在の「劇団新派」からイメージする『金色夜叉』『不如帰』『滝の白糸』『婦系図』などと、川上音二郎の間には大きな隔たりがあると感じながら、愚かにもその違いについては深く考えてきませんでした。

このブログで調べている大高よし男は「剣劇俳優」のようですが、近江二郎は「新派俳優」とされています。前回の投稿で書いた筒井徳二郎も、本のサブタイトルからして「知られざる剣劇役者の記録」となのに、当時の報道では「新派俳優」なのです。

演目の頭書にも「時代劇」「剣劇」「喜劇」「社会劇」「明朗劇」とは別に「新派」というのがあったりもして、そのあたりにも僕の頭を混乱させる一因があります。

新派ってなんだ?


手探りでいろいろな本やら資料をあたる中、いまの段階の理解では、「新派」というのは、歌舞伎とは違うスタイルで明治期に登場した演劇を総称していたようで、固有名詞ではなく、いま風にわかりやすい言葉にすると、「ニューウェーブ」みたいな言葉なのでしょう。演劇のニューウェーブ、それが「新派」なのです(たぶん)。

どのジャンルの「ニューウェーブ」にもさまざまなスタイルがあるように、明治の演劇の「ニューウェーブ」にもさまざまなものがあり、そのいずれもが「新派」と呼ばれていたことが混乱の始まりだし、その人たちが一般名詞であったはずの「新派」を自分たちの団体名として固有名詞化するにあたって、離合集散を繰り返したことが、混乱に拍車をかけたのだろうと思います。

(新派の歴史には「新組織新派」「新生新派」「本流新派」「新派正劇」などの劇団名が見られ、一種の主導権争いのようなものがあったことを感じさせます)


先日、早稲田大学の演劇博物館に行って、過去の企画展『新派 アヴァンギャルド演劇の水脈』の図録を購入しましたが、「展示趣旨」にはこうありました。

“いま、新派といえば、泉鏡花が象徴するような、花柳界が舞台の作品をイメージされる向きが多いかもしれない(中略)しかし、新派には、それだけにとどまらない豊かな鉱脈がある”

“百三十年を超えて命脈を保ちつづけてきた歴史を繙くと(中略)後世からみればまるで異なるジャンルかと見紛う演目群がひとつの興行に並んでいた時期もあった”

このように、専門家でさえ「新派」を一括りで説明するのが難しそうなわけですから、浅学の僕なんぞ理解が及ばないのは当然です。やはり、現在の「劇団新派」だけから「新派」という演劇運動を考えると、いささかの誤解が生じるということなのかもしれません。


前置きがずいぶん長くなりましたが、昭和17年1月12日付の神奈川新聞に、近江二郎が「新派」について寄稿しています。タイトルはズバリ『新派劇の正しい道』。

昭和17年1月12日付神奈川新聞より

新派の祖とされる川上音二郎が作った俳優学校出身の近江としては、その当時の新派には思うところがあったようで、自説を滔々と述べるわけですが、要約すると

「あれは本来の新派じゃない」

ということになろうかと思います。

いくつか引用してみます。

“日清戦争に生まれた新派劇は、初めの内は地方から上京した壮士によって地盤を築いたものです(中略)粗野であり、生地のまゝのような演出が、東京人を喜ばせたものだと思ひます”

“處が、この創始者たちは、四十代の若さで歿してしまひ、残つたのが東京生まれの伊井蓉峰、喜多村緑郎、河合武雄等であつたので、新派劇は東京人に依つて占められ、それが現在にまで及んで居ります。で、ありますから粗野の藝風が小味な江戸前に移り、いつまで経つても『湯島の境内』であり『白鷺』であります”

“恩師川上が『瀧の白糸』を初演した折は、今のような『瀧の白糸』では無かつた筈です”

“清元浄瑠璃を使つて繪のような場面を見せる新派劇は、東京人新派俳優に依つて完成されましたが『強■の書生』(註:『剛膽の書生』か?)『又意外』のような地方から生まれた新派劇は消えてしまひました”

と嘆き、憤ったその上で

“新派劇を、もッと、活潑に、昔に還元させ、それへ昭和十七年の空気を吹ッ込むのが私の望みで、及ばずながら今年こそ、それへ力を入れたいと思ってゐます”

と決意を述べています。

近江二郎、なかなか熱い男です。

さらには

“横濱は新派劇を温かく、育んでくれた土地で失敗した新派の戦士を欣んで迎へて、更生させた歴史あるところです”

と当地を持ち上げるあたり、営業上のそつがない座長という一面も感じさせ、好感度が上がります。


とは言いつつ、結局のところ、近江二郎が批判した「東京人の新派」が生き残り、近江ら「地方出の味の違った新派劇」(同記事より)は消えていった、というの新派の歴史です。

ですが、近江がここで提唱している、「粗野であり、生地のまゝのような演出」を求める心や気骨は、戦後、新劇全盛時代のカウンターとして登場した「アングラ」にも遠くつながっているような気がしてなりません。平田オリザの「静かな演劇」が出てきた時の批判にも同じ空気を感じます。

上品で情感あふれ観客の涙を誘う舞台も、エネルギッシュな熱量で観客を圧倒する舞台も、そのどちらもが見たいのだ、というのが演劇を愛するすべての人たちの本音なのでしょう。

近江二郎は世間から忘れられても、彼のこの寄稿から発する熱は、時代を超えて生きているのだと、僕はそう感じます。


→つづく


(35) 共感の涙あふれる 〜筒井徳二郎のこと〜

ここしばらく本業というか余業というか、忙しい時期が続いたので、図書館通いも間が空いてしまいましたが、ゴールデンウィークになってようやく再開。

とはいっても、大高よし男が横浜や川崎で活動していた時期とその周辺の調査はほぼ終わっているので、見直し以外に調べようがなくて、ほぼ行き詰まりの状態。

雑誌『演芸画報』も調べ始めましたが、そもそも大衆演劇の記事が少ない上に、東京・大阪・京都の大劇場が中心で、大高どころか大江美智子や不二洋子の記事に出会うのすら、稀なくらいですから、ほとんどが「空振り」となります。

何度目かの「途方に暮れる」時期が再来しました。

もっとも、別件(本業)の調べものもあるので、そんなに時間的余裕はないんですけどね。


そんな折、早じまいの図書館からのハシゴで、毎日のように通う「ブックオフ」の書架に、かねてから探していた田中徳一著『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』を発見し、昂る心を抑えつつ即購入。

500ページ超の大部、6,000円(税抜)の定価本が、20%オフのセール中とはいえ2,500円弱で入手できたのだから、「途方に暮れる」迷走期にもそれなりの意味があったのかもしれません。

(ありがたや)

筒井徳二郎のことは、大高よし男と共演したことのある「三桝清」についての項( (11) 大江三郎と三桝清)でも簡単に触れましたが、1930(昭和5)年1月から1年3ヶ月にわたって欧米を巡業した剣劇役者(座長)で、当時の海外の演劇人(ブレヒトやメイエルホリドやジャック・コポーなど)に影響を与えた人として評価されています。

ですが、その後(特に没後)はすっかり忘れられてしまったのです。

その点、大高と似たところもありますが、筒井徳二郎や大高よし男に限らず、戦前・戦中の新派(現在の劇団新派を除く)や剣劇の役者たちは、その多くが今ではもう忘れられてしまっているのです(熱烈なファンからは反論があるかもしれませんが)。

彼ら・彼女らの経歴を調べるに、「没年不詳」という人が結構いることからも、その忘れられ具合が察せられて、なんとも言えない気分に襲われます。


この本の巻末にある筒井徳二郎の年譜には記載がありませんが、後年、筒井は横浜の舞台にも立っていて、当地の無遠慮な劇評家から手厳しい言われ方をしている記事なども散見されます。

同じく、筒井一座のメンバーとして渡航し、その演技を高く評価されていた三桝清も、大高とすれ違うような時期に横浜の舞台に登場します。

本来ならば、東京や大阪の大劇場だけで興行するような活躍があってしかるべきだったのかもしれませんが、そう簡単ではなかったのでしょう。

なお、筒井は昭和20年8月、広島への原爆投下を知って、知り合いか弟子を探しに、翌日には現地に入ったらしく、そこで被曝したのか、昭和28年に白血病で亡くなったそうです(享年七十二)。


ところで、この大部の本を読み通すにはそれなりの時間がかかるとは思いますが、パラパラとページをめくりつつ、「あとがき」に目をやれば、ただいまの「途方に暮れる」僕の気持ちを代弁するかのような苦闘が列記されていて、思わず共感の涙が溢れてきました。

曰く

「最初は演劇書にあれこれ当たっても、筒井のツの字も出てこなかった」

「新派役者だったらしいことがわかってから、ちらほら影や尻尾が見えてきた」

「しかし筒井の伝記的なことについては、しばらく皆目わからなかった」

「古くからありそうな商店の方に筒井という役者について聞いて回ったが、何ら目ぼしい手掛かりは掴めなかった」

「新聞を調べていて、筒井が欧米巡業後、大阪JOBKのラジオ番組に出演した時のプロフィール記事が見つかったのだ。国会図書館のマイクロフィルム・リーダーを前にして、涙が止まらなかったことを覚えている」

まさに、僕が現在進行形でやっていることを、20〜30年前(初版は2013年)に田中徳一先生はすでに経験していたわけです。

(ちなみに、謝辞の中で言及されている日大教授の高山茂先生は、僕が大学時代に教わったことのある先生で、そのあたりにも奇縁を感じるところです)


僕の調べた範囲で考えてみると、筒井徳二郎という役者が特異なのは、アメリカの東海岸とヨーロッパまで巡業した点だろうと思います。

意外なことに、当時の海外巡業自体はそれほど珍しいものでもなく、筒井がまだヨーロッパにいた昭和5年に、我らが(と言いたくなる)近江二郎がアメリカ巡業に出ているほか(1930年11月〜1931年6月?)、同じ剣劇役者の遠山満や、映画スターの澤田清、さらにはつい最近の投稿で言及した石川静枝(二見浦子)、巴玲子など、アメリカ西海岸とハワイへの長期巡業を行っていた役者(や芸人)は相当数いたようです。

ただ、(繰り返しになりますが)そうした役者たちの巡業先は、日系人の多いハワイや西海岸が中心で、どちらかというと国内巡業の延長線上にあったと考えられる一方、筒井一座の巡業は、その枠を大きくはみ出していて、「日本文化の紹介」というの位置付けになるほどのものだったと言えます。ただの巡業ではなく、文化使節と言ってもいいくらいです。

その点が他の役者と違うところで、筒井徳二郎という人は大袈裟に言えば、世界演劇史の中に登場してもいい日本の大衆演劇の役者、ということになります。

その筒井の舞台は海外では「歌舞伎」として扱われたようですが、むろん、大衆演劇(剣劇)は歌舞伎ではないので、それに伴う批判や軋轢も多くあったようです。

ですが、いずれにしても筒井徳二郎という人が、アメリカやヨーロッパに新しい演劇観をもたらしたのは事実のようで、その功績をもって、しかるべき正当な評価をされてもいいんじゃないかと感じるところです。

そんな人が忘れられてしまうことに、僕も強い憤りと悲しみを感じないわけにはいきませんし、その忘却の趨勢を押しとどめ、押し返すのが地道な研究や調査なのだということを、最近、つとに実感しています。

(筒井徳二郎しかり、近江二郎しかり、日吉良太郎しかり、大高よし男しかり)

そういう人々のことを調べ、次代に伝えていくことは、近年、しばしば議論になる「役に立つ」とか「役に立たない」とかではなく、連綿と続く生命、それも知性を持った人間という生命の「本能」のようなものじゃないかと、この頃の僕は考えているところです。

当たり前のことですが、名のある人だけで歴史ができているわけじゃないのです。


そんなこんなで、今回の投稿は全体が余談みたいな回になりましたが、行き詰まりの産物とご容赦ください。

さて、明日も調べるぞ。


→つづく


(34) 横浜の大高よし男

やっとこさ昭和13年1月から昭和17年12月までの新聞記事(横浜貿易新報/神奈川新聞)の閲覧が終わりました。1日ずつ、娯楽ページをじっくりと、他のページもさらりと、すべてをチェックしたわけです(見落としはあると思うけど)。

これだけの労力を使ってわかったのは、結局

大高よし男は横浜に縁があった

ということだけです(生年、出身地などはあいかわらずまったく不明)。

これを労多くして功少なしとするか、労力に見合うものが得られたとするか、なんとも言えないところですが、個人的には達成感を感じています。

もっとも、その前後がやはり不明なので、昭和12年以前と昭和18年以降は、継続して調べなくてはなりません。


これまでの調査で大高(実際には前名の高杉彌太郎だけど)が横浜に初めて登場するのは、昭和15年3月、敷島座での「近江二郎一座」の興行で、それ以前の2年間、横浜の芝居興行に彼の名前は見られないことがわかりました。以上の結果から大高よし男は

1、その時期に他地域で活動していた
2、もともと近江二郎一座の座員だった

という2つの可能性が考えられます。

「1」の場合、東京以外の地域だとなかなか調べが難しいところですが、少なくとも『近代歌舞伎年表』を調べた結果、昭和14年以前と昭和18年以降の京都と大阪には、彼の痕跡は発見できなかったので、あるとしてもそれ以外の地域だろうと考えられます。

よって、何度も述べていますが、この先は『年表』の「名古屋篇」最新刊を待つことと、『都新聞』を精査して「東京にいたかもしれない大高」を探す作業に注力したいと思います。

「2」の場合も調べは難しいところですが、近江二郎一座が横浜に来たのは、籠寅演芸部に所属したことがきっかけですから、そこで大高が注目されて、近江一座以外の籠寅系劇団の座組に参加するようになった、という可能性は否定できません。

昭和14年以前の近江二郎一座に高杉彌太郎の名前があればビンゴですが、前述の『年表』から、昭和13年まで年に二度くらいのペースで、名古屋・宝生座に近江一座が出演していたことはわかっているものの、座員連名などは不明なので、なんとも言えないところです。

仮に大高が近江二郎一座のメンバーだったとしたら、戦後、杉田劇場や銀星座への彼らの出演は、事前に近江二郎と大高よし男と日吉良太郎あたりが相談して売り込んだ話、という風にも思えてきます。

日吉良太郎は井土ヶ谷中町に住み、近江二郎の横浜の家も井土ヶ谷にありました。大高もそのあたりに住んでいた可能性は低くありません。その三者が相談して、横浜で自分たちの活動を続けるための方策を考えていたかもしれません。


ところで、以前も書いたように、近江二郎一座の座員に「高田光彌」という人がいました。

昭和15年12月29日付神奈川県新聞より

旧杉田劇場の経営者は「高田菊弥」で、一文字違い。

そして本多靖春の『戦後 −美空ひばりとその時代−』によれば、高田菊弥は「若いころから芝居好きで、戦前は浅草松竹座に出入りして、役者の後援会長を引き受けたりしていた」とあります。

近江二郎が後年、不二洋子一座の助演として松竹座に出ていることを考えると、高田が近江二郎の後援会長だったのかもしれないし、「高田光彌=高田菊弥」の可能性も出てきます(戦後、「宮田菊弥」の名前で大高一座の舞台に出ていたのではという推論もあるし)。

となると

高田菊弥−近江二郎−大高よし男

のラインも見え隠れします。

どうやら近江二郎を軸に調査を見直す必要がありそうです。


一方の日吉良太郎は戦後、演劇界からは引退したと言われています。「愛国劇」なんていうものを掲げていた以上、表立った活動はしにくかったろうと思いますが、僕には銀星座や杉田劇場との関わりの中で、カゲのプロデューサーとして仕事をしていたようにも感じられます。

銀星座の専属「自由劇団」はメンバーを見る限り、日吉一座の残党による劇団といって間違いはないし、大高よし男が亡くなった後、その劇団(暁劇団)の再生に、かつて日吉一座のメンバーだった藤村正夫が関与していることも、そんな印象を強くするところです。

それでありながら銀星座の柿落しが近江二郎一座であることを考えると、戦争が終わって、日吉良太郎と近江二郎、高田菊弥が膝突き合わせ、杉田劇場と銀星座の陣容を相談した、なんていうのも、あながちあり得ない話ではないような気がします。

(以下、久しぶりの妄想劇)

高田「日吉先生、横浜の芝居をもう一度盛り上げましょう」
日吉「うむ。しかし、ウチは愛国劇なんていうものをやっていた以上、そのまま復活というのは世間が許さないだろうし、GHQだって黙ってはいないだろう。ほとぼりが冷めるまで私は表に出るのを控えようと思っているんだ」 
高田「そうですか…」
近江「そう落胆なさるな。そこは私がなんとかする」
高田「近江先生にやっていただけるんですか! それは願ったり叶ったりだ」
日吉「いやいや、実を言うと、弘明寺に銀星座という新しい劇場ができるんだが、近江先生にはそちらをお願いしてある」
高田「え? じゃあ、杉田はどうなるんです?」
近江「うちにいた若い役者の大高よし男、覚えているでしょう?」
高田「大高?」
近江「高杉彌太郎ですよ」
高田「ああ、あの高杉! 男前で人気のあった!」
近江「彼に座長をやらせて、専属の一座を立ち上げる。そうだ、日吉先生のところからも役者をお借りできませんか?」
日吉「もちろん。そうだな、生島波江と藤川麗子あたりに声をかけてみます」
近江「そんなベテランを!」 
日吉「彼女らだって、芝居がやりたくてうずうずしているんです」 
高田「大高よし男に日吉一座の名女優! 杉田劇場も安泰だ。ありがとうございます! これで、いよいよ横浜演劇も新しい夜明けを迎えるわけですね!」
近江「暁」 
高田「え?」 
近江「横浜芝居、新時代の暁だな」
高田「暁…そうだ、新しい劇団の名前は暁劇団! どうでしょう?」 
近江「暁劇団か…うん、悪くない」
日吉「いや、ただの暁じゃない。最初の暁です。どうせなら大きく出て、暁第一劇団なんてどうです?」 
高田「暁第一劇団! いい! それで決まりです! ありがとうございます!」

(妄想劇、おわり)

そんなヘタな妄想は別としても、役者たちの顔ぶれを見れば、戦前・戦中の横浜の実演劇場、横浜歌舞伎座の日吉良太郎一座、敷島座の近江二郎一座、金美劇場の横浜新進座、その系譜は杉田劇場と銀星座に確実に受け継がれていたのがよくわかります。

両劇場は戦後の新設劇場ながら、その実、戦前から続く横浜演劇の芝居小屋そのものであり、両者の衰退は明治以降の横浜大衆演劇文化の消滅と同義といってもいいのかもしれません。

日吉良太郎は昭和26年に亡くなりますが、奇しくもそれは杉田劇場の実質的な閉場とほぼ同じ時期です。


さて、毎度の余談。

戦後、葡萄座の立ち上げなどで活躍する梨地四郎さんのことは前にも書きましたが、新しい記事を見つけました。

昭和13年9月23日付横浜貿易新報より

この時の劇団名は「横濱舞臺」、演目は田中千禾夫『おふくろ』と田口竹男『高梁一家』、会場は吉田町の「都南ビル講堂」だそう。

都南ビルは現存しますが、あの中に講堂があったとは知りませんでした(まだあるのかなぁ)。

2022年5月4日撮影

いつまでも残してほしい横浜の古い建築物のひとつです(吉田町もずいぶん雰囲気が変わりました)。


余談2。

戦後横浜のアマチュア演劇にとって重要な拠点のひとつだった、長者町の「電業会館」が解体だそうです。

2014年4月6日撮影

もちろん僕は話に聞くだけで利用したことなどありませんが、かつて「土曜小劇場」という企画で、春秋の2シーズンは毎週土曜にアマチュア演劇の公演が行われていたそうです(→こちら)。

ファザードのモザイクが特徴的なビルでしたが、横浜の歴史はあっという間に壊されてしまいます。残念。


→つづく