新聞記事が社会を反映させているとしたら、戦時中、昭和17年あたりはかなり迷走している感じで、「高杉彌太郎改め大高義男」が2月に横浜敷島座に出るという記事(1月26日付)のあと、2月、3月、4月それから5月の中旬まで、神奈川新聞での演劇関係の記事はほぼ皆無となります。
僕自身、この時期について背景の検証が進んでいませんが、戦争が始まって数ヶ月、ミッドウェイ海戦の直前ですから、まだ連戦連勝の時期で、娯楽より戦争の記事の方が求められていたのかもしれません。
しかし、それが突如として5月18日から、演劇をはじめとする娯楽関連の記事が再開し、以後、毎週掲載されるようになります。これまた想像ですが、数ヶ月とはいえ毎日の戦時体制の生活にさすがの国民にも我慢の限界が近づいてきたのでしょうか。その空気を察した国や軍部が演劇や映画といった娯楽で気を逸らそうとしたのではないかと感じます。
昭和17年5月25日付の神奈川新聞には、大高をはじめとする剣劇、女剣劇のほとんどが所属している「籠寅演藝部(興行部)」が「国民演藝報國會」を結成したという記事があって、籠寅代表の保良浅之助が会長に就任したとあります。内務省、陸軍省の後援を得ていて、その目的は
"演劇、演藝を通じて、日本精神の昂揚と防■、海事、防空其他國策遂行上必要なる事項の普及徹底に貢献し、併せて健全なる娯楽を提供、国策演藝を提唱する"
ことなのだそうです。
目的は国威高揚のように書かれていますが、演劇記事の再開とこの記事の掲載がほぼ同時期であることを考えると、僕には上記のように国民の不満や疲弊から目を逸らすために演劇や演芸を利用しようとした国側の目論見が感じられますし、これを機に戦時体制の中での娯楽(舞台活動)という「メシのタネ」を、なんとか延命させたい興行側の思惑も見え隠れします。
これ以降、演劇の記事のほかに演劇や演芸による工場や農村への慰問の記事も増えてきます。
いまは大高の調査が最優先ですから手を出しませんが、戦時下で演劇がどのように位置づけられ、どのように上演されていたかは、大きな研究対象だと思います。
戦時下は娯楽が制限されていたというのは、検閲などの面では間違いなくあったことです。しかし娯楽そのものが封じられていたかというと、そういうことはなくて、戦時下の横浜でも、大空襲までは毎日興行が続いていたし、後年には「空襲警報で公演が中止になったら入場料を返金するか」についてのルールも決められるほどでした。
戦時中=娯楽のない灰色の世界
というのは、必ずしも全面的な正解ではない気がします。
それにしても、こういう記事を追うにつけ、果たして自分がこの環境にいたらどうするだろうと、真剣に考え込んでしまいます。
いまのようにプロアマの境目が曖昧な活動はほとんど見られないわけですから、舞台に関わるとしたらプロ=職業演劇人という立ち位置になります。その立場で、国策に協力せよ、と言われた場合、断ることは職を失うことと同義です。舞台の仕事から離れることになっても、いや、そればかりか舞台での表現活動を封じられたとしても、疑問に感じる国策からは身を遠ざけるのか。難しい選択を迫られた演劇人もいたことでしょう。
さて、前フリが少し長くなりましたが、昭和17年5月18日に演劇記事が再開して以降の新聞を調べてみたら、同年6月22日に、19日初日の川崎大勝座に大高が出演しているという記述を見つけることができました(小さな記事は見落としがちです)。
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昭和17年6月22日付神奈川新聞より |
この興行には伏見澄子の名前がないので、伏見一座とは別の座組だったようです。これまで調べてきた中では、大高は常に伏見澄子の助演的な立場でしたから、僕にはちょっと異色の舞台というふうに感じられます。でも籠寅所属の俳優ですから、僕の知らないあちこちの一座で助演していたと考えられます。きっと各地でこういう舞台にも出ていたのでしょうね。
ここに出てくる「海江田譲二」は当時の映画スターですが、この時期くらいからでしょうか、実演の舞台にも出るようになっています。戦争が長引くにつれフィルム不足などもあって映画の撮影もままならなくなり、映画俳優が実演に移行する例は多くみられたようです(前にも登場した、杉山昌三九や青柳龍太郎ももともとは映画俳優です)。
ところで、海江田譲二は自分の事務所「海江田プロダクション」を設立してますが、実は旧杉田劇場のプロデューサー、鈴村義二の経歴に「昭和六年 海江田プロ理事長」という記述があるのです。鈴村自身が書いた経歴なのでどこまで信じていいものかわかりませんが(海江田プロの設立は昭和8年みたいだし)、もしその通りであれば
鈴村義二=海江田譲二=大高よし男
というラインが見えてきます。
またこの舞台には「中野かほる」も出演していますが、既報の通り彼女は大高ヨシヲの死後、杉田劇場での追善興行に出演している人です。
「大内弘」も映画俳優で、Wikipediaの記述の中には「第二次世界大戦中、(中略)海江田譲二、あるいは中野かほるらとともに一座を組み、実演の巡業を行なっていたようである」ともありますから、まさにこの川崎での興行がそれにあたるのでしょう。
そんなわけですから、大高の視点からこの記事にタイトルをつけるとしたら
大高ヨシヲ、映画スターと共演!
てな感じになるでしょうか。
同時にこれは、大高ヨシヲと杉田劇場を結びつけるラインが明確になった記事でもあります(このブログの最初の頃に「鈴村と大高は無関係だったはず」という断定をしたのが恥ずかしくなります)。ありきたりな公演情報のようですが、これからの大高調査には結構重要な内容になるのかもしれません。
これで昭和17年から18年前半にかけての大高の活動状況のうち、やっと6〜7割くらいが判明しました(どこにいて、どの一座に出ていたのか)。
今後のターゲットは昭和18年後半の「大高よし男」と、昭和17年以前の「高杉弥太郎」、この両名の調査ですが、「大高」に関していえば、伏見澄子を追うとともに、他の興行にも目を向けてみる必要がありそうです。
→つづく