(33) 二見浦子のことなど

これまた以前の投稿で、昭和16年の新聞に「石川静枝改め二見浦子」という記載があったことを紹介しましたが、その折に “昭和14年の段階ですでに「二見浦子」の名前が出ているからどうもおかしい” というような趣旨のことを書きました。

で、その昭和14年の記事を精査していたら、こんなのが出てきたのです。

昭和14年8月28日付横浜貿易新報より

5月にアメリカ巡業から帰国した石川静枝が、横浜(敷島座)〜名古屋と巡演し、8月21日からの大阪浪花座で、籠寅演芸部の代表である保良浅之助の命名により、二見浦子に改名したというニュース。

その翌月、昭和14年9月の浪花座が「籠寅演芸部 女流剣戟競演大会 二見浦子、月形陽子、花柳須磨子、大内洵子合同一座」の興行になるわけですから、ドンピシャ(死語?)で時系列にも合致します。

つまり、後年、昭和17年に京都・三友劇場、伏見澄子一座で大高よし男と共演することになる「二見浦子」は、昭和13年秋から8ヶ月にわたるアメリカ巡業を成功させて帰国し、横浜敷島座の舞台にも立った「石川静枝」で間違いない、と言えそうです。

(戦後は「石川静枝」に戻したのかもしれません。大江美智子の公演などのプログラムに「石川静枝」の名前を見かけます)

ちなみに二見浦子(石川静枝)はこんな人です。

石川静枝(昭和14年1月20日付横浜貿易新報より)

二見浦子の経歴と写真が見つかったことで、また一歩、大高よし男の実像に近づいた気がします。

それにしても、三桝清にしろ二見浦子にしろ、はたまた近江二郎にしろ、いずれもアメリカでの巡業を経験しているわけで、そうした人々と同じ舞台に、しかも同じレベルで立っていた大高です。彼もやはりそれなりの役者だったと考えていいでしょう。

ここまでわかってみると、旧杉田劇場が連日大入になるほどの人気者だったというのも、なるほど頷けるところです。


さて、ついでにわかった日吉良太郎の情報も少しだけ。

彼の経歴はよくわからないところが多く、このブログでも「愛知県半田市出身」と書きましたが、紙上座談会で彼が発言しているのは、自分の生家が岐阜県神戸町(岐阜県安八郡神戸町)の造り酒屋だということです。

昭和14年8月15日付横浜貿易新報より

実際、神戸町には日吉神社というのがありますが、日吉神社からとって「日吉良太郎」を名乗ったというような話をどこかで読んだ覚えがあります(それもちゃんと特定せねば)。

これで、日吉良太郎の経歴もだんだんはっきりしてきました。

調べが進むにつれ、情報が徐々に修正されていくのは、ジグソーパズルのピースが合うような感じで、ちょっと心地いいものです。


→つづく

〔番外〕弥太郎最中本舗に行ってきました!

前回の投稿で書いた黒川弥太郎ゆかりの「弥太郎最中」。

さっそく行ってきました。中村橋商店街の「弥太郎最中本舗」。

午後6時過ぎで閉店間際だったのかもしれませんが、磯子区中原から来たとお伝えしたら、とても喜んでくださって、黒川弥太郎のことはもちろん、そのほかのこともいろいろお話ししてくださいました。

大映映画『刃傷未遂』(1957)のスチール写真みたいです

黒川弥太郎の写真はもっとたくさんあったそうなのですが、誰かにあげたりして、もうこの2枚しか残っていないのだとか(許可をいただいて撮らせてもらいました)。

そのほかにも彼の描いた絵もあるそうなので、また行った時に見せてもらおうと思います。

ちなみに横宝(横浜宝塚劇場)に出た時の記事のことはご存知なかったようで、驚いておられました。

記事中の「弥太郎まんじゅう」は今はないそうですが、「弥太郎最中」は健在。

餡は3種類で、1個200円。


「横浜名物」と銘打ってありますからね。差し入れに持っていくのにちょうどいいかもしれません。


それにしても黒川弥太郎は磯子出身のスターなのに、地元で彼の話を耳にすることはあまりありません。磯子区の有名人としてあげられるのは美空ひばりとゆずばかりです(そのほかにもいろいろなジャンルのいろいろな人がいるのに)。

区役所あたりが音頭をとって、地元の著名人としての黒川弥太郎をもっとアピールしてもいいんじゃないかしらん。映画会、写真展、トークショー…彼をテーマとしたイベントだっていろいろ考えられると思います。


ということで、今回は大高と同時期に活躍していた磯子出身の映画スター、黒川弥太郎のことを取り上げてみました。


(32) ゆかりのある人々の記事

今日はこれまで調べきれていなかった昭和14年春から夏にかけての新聞記事を閲覧。

一日ずつ調べないといけないのが難点ですが、その分、面白い記事に出くわす機会も多いのだと、一日数時間の作業で、目の疲れが限界に達しつつある老身を慰めております。

結果としては大高よし男(高杉彌太郎)に出会うことはありませんでした。

残念。

この頃の伊勢佐木町の主な劇場(敷島座と横浜歌舞伎座)では、酒井淳之助一座と日吉良太郎一座が長期の連続興行をしていて、どちらにも大高は参加していないようです。

その代わり、と言ってはなんですが、戦後の杉田劇場や銀星座にゆかりのある人々の記事がいくつか見つかりましたので、余談的にちょっと紹介。


まずは、大高一座に参加していた「藤川麗子」。

この人が日吉一座にいたことは別の資料(『郷土よこはま』No.115)で承知していましたが、新聞記事の中に名前を見つけたのはこれが最初かもしれません。

横浜で実際に起こった「ミラー事件」を題材とした芝居に、藤川麗子が「チャブ屋女」役で出演していると書かれています。

昭和14年8月4日付横浜貿易新報より

ミラー事件は、横浜の居留地で外国人が起こした殺人事件で、犯人であるロバート・ミラーは死刑となりますが、これが日本の法律による在留外国人の死刑第1号なんだそうです。

その事件を題材にしたオリジナル劇を日吉一座が上演したわけです。

日吉良太郎一座は「愛国劇」と銘打って、国策に阿ったような芝居を作っていたようですが、こうした横浜を舞台にした芝居も結構上演していて、横浜の演劇史研究家・小柴俊雄さんも言っていますが、その面は再評価してもいいんじゃないかな、なんて感じます。

そんなこんなの芝居内容は別として、この記事には「生島波江」(「生崎波江」と誤植になっているけど)の名前も見られ、のちの大高一座のメンバーが並んでいるというのが僕にとっては妙に嬉しいところです(日吉一座のメンバーをさらに精査すると、大高一座の別の座員が見つかったりするかもしれませんね)。


さて、もうひとつは、戦後、弘明寺の銀星座に夫婦で登場する小林重四郎と月澄子。このことは以前、杉田劇場のブログを引用する形で紹介しました。

その小林重四郎が浅草金龍館での舞台をすっぽかしてクビになったという記事です。

昭和14年4月16日付横浜貿易新報より

どんな事情があったのかはよくわかりませんが、この頃の役者はよくこんな事件(?)を起こしていて、クビにするだの、それをどこが引き受けるだの、業界から追放するだの、復帰するだの、そんな記事をしばしば見かけます。

クビになったって、戦後も舞台で活躍するのだから、たくましいというか呑気というか。戦争の影が重くのしかかりつつあったのでしょうが、それでもどこかゆるい社会だったのかもしれません。


最後は、杉田劇場や銀星座には直接関係ありませんが、磯子区中原出身の俳優、黒川弥太郎が横浜宝塚劇場(のちの横浜市民ホール、いまの関内ホール)で実演の舞台に立った時の劇評。

昭和14年5月2日付横浜貿易新報より

「ハマの生まれと云っても、磯子區中原の生れだから離れてはゐる」とか「風采は上らないし前男(※たぶん「男前」の誤植)も左程によくはない」とか「どうした風の吹きまわしか、俄然賣出した」とか、ちょいちょい厳しい評を挟みながらの記事ではあるものの、黒川弥太郎が故郷に錦を飾ったということで、ただ持ち上げるだけでなく、地元出身の役者に喝を入れる意味合いもあったのかな、なんて、ちょっと素直じゃない評者の情を感じるところでもあります。

この記事には劇評だけでなく、二階売店で「彌太郎最中」「彌太郎まんぢう」を売っていたことも書いてあります。

昭和14年5月2日付横浜貿易新報より

弥太郎の伯父が販売していたものですが、実はこの「弥太郎最中」、現在でも吉野町(というか中村橋商店街)の、その伯父さんが開いた店(弥太郎最中本舗)で売られているのだから驚きです。

(今度買いに行ってみよう)

ちなみにこの店の元の名前は「金喜堂」。弥太郎の地元、中原に近い杉田駅の踏切の傍にある「カネキヤ」というパン屋さんは元々和菓子屋で、店名の正式な表記は「金喜屋」。これはきっと繋がりがあるに違いない!と妄想をフル回転させた上で聞いてみたら「関係はありません」だそうです。

いやはや、そう簡単に妄想は現実にはなりませんね。

なお、カネキヤさんは昔ながらのパン屋さんで、僕はとても好きなお店です。懐かしいシベリアも甘食もありますよ。ロングセラーのクリームメロンパンは「磯子の逸品」に認定されています。


→つづく


(31) 当時の新聞はいまの週刊誌のよう

大高よし男の活動履歴をさぐる作業は、その時期の東京・横浜での記録が尽きると一気に停滞します。

京都や大阪での活動については、たびたび引用する『近代歌舞伎年表』で把握できる部分もありますが、もうひとつの大きな興行地である名古屋については、まさにその年表の「名古屋篇」最新巻(第17巻:昭和14年〜昭和22年)がまだ出ていないのもあって、なかなか見えないところです。

そのほかの地方、特に籠寅演芸部の関係する広島の新天劇場や九州の各巡業先、また静岡の劇場などについては、最終的には現地の図書館で調べない限り、詳細はわからないだろうというのが、いまのところの観測です。

伏見澄子や大江美智子、不二洋子のような座長クラスならば、ネット上でもある程度は把握できそうですが、大高のように「加盟(加入)」という形で一座に参加するような役者の名前は、なかなか表に出てこないのが難しいところです。

そんなこんなではありますが、松園桃子一座に参加していた昭和17年の秋から冬にかけての活動が把握できたことで、昭和15年から昭和18年までの大高の動向が(かなり歯抜けはあるものの)大まかにわかってきた感があります。この先は「歯抜け」を埋めていくとともに、その前後、昭和14年以前と昭和19年以降の情報から「高杉彌太郎」もしくは「大高よし男」を探す作業に突入です。


以前にも書きましたが、大高を調べていると当時の演劇界(芸能界)のことがだんだんわかってきて面白いものです。当時の新聞はいまでいう週刊誌のような雰囲気で、社会面に掲載されている事件だって、「桜木町駅の女便所の梁に三吉演芸場に出ている芸人が潜んでノゾキをはたらいた」なんていうのまで出ているのだから、興味は尽きません。

さらに興味深いのは、いまの新聞なら演劇などは「文化欄」に掲載されるところ、当時の「文化」は美術に限って使われている印象で、演劇・映画・音楽(クラシックも含む)は「娯楽」と位置付けられている点です。

それが戦後になると、軒並み「文化」のオンパレードとなり、「娯楽」欄で大きく扱われていた演劇や映画は「芸能」記事として小さい扱いになっていきます。文化と芸能がどうやって分かれていったのかも、詳細に検討すると面白いテーマになるかもしれません。


さて、そんな娯楽記事の中から、いくつか紹介。

横浜歌舞伎座で日吉良太郎一座が長期間の興行を行う前に、同じ劇場で人気を博していたのが「更生劇」という歌舞伎の一座ですが、昭和14年1月の新聞には、彼らの活動が収束しつつあることを伝える記事の中で、その役者たちがいま何をしているかということが記されています。一部を引用すると

"市川榮升は、東京の高田の馬場へ、松榮館といふアパート、及び、旅館を開業して、安穏の日をおくり、市川蔦之助は中區末吉町に、釣具商を開き、森野五郎は一昨年十一月に、(舞薹?)を退いたまゝ、小石川白山で『山(楽?)』といふ待合の主人で、納まつて、芝居を忘れてしまつてゐる。その他、(藝?)名は書けないが、屋薹店の焼とり屋に轉業したり、軍需工業の方へ行つたり(後略)" 

昭和14年1月26日付横浜貿易新報より
 

このうち、森野五郎は戦後、一座を率いて、旧杉田劇場や弘明寺の銀星座、上大岡の大見劇場にもやってくる元映画スターで、横浜の更生劇でも人気の高かった人ですが、こういう記事を読むとそんな時期もあったのかと感慨深いものがあります。

昭和21年5月10日付神奈川新聞より

昭和21年6月6日付神奈川新聞より

いつの世でも役者稼業はなかなかつらいものなのかもしれません。

もうひとつは、この年(昭和14年)の1月に神戸松竹劇場の舞台公演中に亡くなった、女剣劇の大スター、初代大江美智子の後継者についての記事です。

後年のいろいろな本によると、初代大江美智子の急逝を受けて、籠寅演芸部の代表であった保良浅之助が、初代に似ているという理由で、まだほとんど新人の「大川美恵子」を、鶴の一声で二代目に据えたとされていますが(Wikipediaには「大江の父、松浪義雄の希望」ともあります)、新聞記事には、山田五十鈴を後釜に据えようとしていたり、市川百々之助を据えたり、と、二転三転している様子が掲載されています。もちろん、ゴシップネタでもあるので、記事を真相と鵜呑みにはできませんが、当時の空気と伝わっている歴史との差異を感じたりすることができるのも面白いところです。

昭和14年1月15日付横浜貿易新報より

昭和14年1月26日付横浜貿易新報より

そんなわけで、今回はちょっと横道に外れましたが、当時の興行界の空気を感じながら、この先も地道な調査作業を続けていきます。

さて、新しい「大高」が見つかるかどうか。


→つづく


(30) 大高よし男と横浜の縁!

活動の痕跡との出会いはいつも突然です。

今回は予定通り、昭和16年9月と10月に、近江二郎一座が浅草松竹座で不二洋子一座に参加した時、高杉彌太郎(大高よし男)が出演していたのかどうかをチェックしました(「都新聞」の復刻縮刷版で確認)。


残念ながら証拠は見つからなかったワケですが、そっちの線は一旦諦めて、昭和16年の残りの新聞記事を追う作業に戻ったとたん、いきなり高杉と遭遇。


まったく想定していませんでしたが、同年9月、松園桃子一座に参加しているという記事があったのです!


昭和16年9月15日付神奈川新聞より

近江一座でもなく、伏見一座でもなく、松園一座!


新しい展開です!


松園桃子は女剣劇の座長で、父親は市川桃蔵という東京歌舞伎の役者だそうですから、血筋といいますか、なるべくしてなった舞台人ともいえます。妹の八重子・光子とともに「女剣劇松園三姉妹」として売り出していたようです。桃子は特に美貌で有名だったらしく、麗人女剣士として、一座を率いるほどの人気もあったのでしょう。新聞広告でもしばしば名前を目にします。


そんな松園三姉妹ですが、実はこの年の5月に妹の光子を16歳で亡くすという不幸に見舞われています。


昭和16年5月28日付神奈川新聞より


それでも姉の桃子は一座を率いて芝居を続けなければいけないのですから(敷島座での興行には八重子も参加)、役者の業というものは厳しくも哀しいものだとあらためて感じさせられます。


さて、この時(9月)の松園桃子一座は、人間ポンプの有光伸男、籠寅漫才などとの共演でしたが、翌月からは盲目の俳優、林長之助の率いる一座と酒井淳之助一座とともに敷島座の舞台に立ち、どうやら年末までその座組の興行が続いたようです(ちなみに人間ポンプ・有光伸男はこの時が横浜初登場だそうです)。


つまり、高杉彌太郎も年末までずっと横浜にいただろうことが高い確度で推測されます(11月末の『伽羅先代萩』の劇評に名前が出ます)。


昭和16年11月24日付神奈川新聞より


ということは、なんとこの年は1月〜3月、9月〜12月と、1年の半分以上も横浜の舞台に立っていたことになるのです。さらに翌年の正月は伏見澄子一座とともに川崎、2月がまた横浜ですから、この時期の高杉彌太郎(大高よし男)はかなりな長期間を横浜近辺で過ごしていたことになります。


それだけの期間になると、近江二郎のように自宅が別の地域にあったとしても、横浜市内に別邸を構えていたかもしれません。しかも、この時期に彼は「高杉彌太郎」から「大高よし男」へと改名するのですから、彼にとっては思い出深い地だったろうと思います。横浜と大高の間には浅からぬ縁があったと断言してもいい。戦後、横浜に初めて新設された劇場(旧杉田劇場)に売り込みに行くのも、ごく自然な行動に思えてきます。


これで、やっと、やっと大高と横浜のつながりが見えてきました!


それにしても、伏見澄子一座との関わりだけかと思っていたのが、近江二郎一座、松園桃子一座、海江田譲二や中野かほるなどとも共演していたことがわかって、調査の範囲が広がるとともに、大高の存在感がどんどん大きくなっていきます。いったい、どんな役者だったのか、ますます興味が深まります。



ところで、今回は、昭和16年6月から11月までの敷島座興行について調べてきましたが、その短期間だけでも面白い役者や芸人がたくさん舞台に立っていました。


上に紹介した「林長之助」は盲目の役者で有名でしたし(といって障害を見世物にするような舞台ではなく、ごく普通の役者として舞台に立っていたみたいです)、また8月に出る「津田五郎」という人はもともと「糸井光彌」という名前で、浅草オペラで人気のあった声楽家のようです(こんな歌声です)。


前にも書きましたが、この時期の演者を見るだけでも、人間ポンプから麗人女剣士から盲目の役者から声楽家まで、当時の劇場は、まさにバラエティ空間だったというのがよくわかります。


つづく


(29) 昭和16年の高杉彌太郎を探せ

近江二郎一座に帯同していたと思われる高杉彌太郎(大高よし男)は、昭和16年1月から再び横浜・敷島座に戻ってきます。前回の投稿の通り、劇評の内容からして、3月末まで敷島座の舞台に立っていたのは間違いなさそうです。

実は、その後の動きがよくわからなくなるのですが、新聞によると近江二郎一座は、4月には大阪の聚楽座(5月には名古屋の宝生座)に移るので、高杉も近江一座とともに大阪へ行ったと考えるのが妥当です。

聚楽座というのは市岡というところにあった劇場だそうで、いわゆる大衆演劇の小屋なんでしょうか。道頓堀の大劇場などに比べると少し格下なのかもしれません。ただ、横浜・敷島座や京都・三友劇場、名古屋・黄花園などとならんで、時々、新聞に名前が出るので、おそらく籠寅演芸部の関係する劇場で、主に当時の剣劇や新派の劇団が出演していた小屋なのだと思います(大阪に詳しい方、教えてください)。


そんなわけで、高杉のはっきりした情報は昭和16年3月で途絶え、次に出るのが昭和17年1月の川崎・大勝座での、伏見澄子一座への助演の告知ということになります。さらにその後は敷島座、京都三友劇場と、ずっと伏見澄子一座と一緒に行動することになるので、高杉が近江二郎一座から離れ、伏見澄子一座に移った時期の特定が次の課題です。

伏見澄子一座は昭和13年に敷島座に登場して、6か月のロングランを成し遂げ、浅草に進出するわけですが、その後もほぼ年に一度のペースで横浜に来ています。昭和16年にも、近江一座が横浜を去った後、6月から7月上旬まで敷島座にやってきて、1か月半ほどの興行がありました。しかし、その時には高杉彌太郎は出演していません。

つまり高杉は、その年の3月に近江一座が横浜での興行を打ち上げた段階では、おそらく伏見澄子一座には移っていないし(前述の通り、大阪へ行ったのでしょう)、6月・7月の段階でもまだ伏見澄子とは行動をともにしていないのです。


一方の近江二郎一座は、大阪・聚楽座、名古屋・宝生座の後、たぶんどこか別の地域での巡業を経て(名古屋にずっといたのかもしれないけど)、その年の9月から、当時、大江美智子と人気を二分していた女剣劇「不二洋子一座」に参加して、浅草・松竹座の舞台に立つようになります。その時に高杉がいたのかどうか。その確認が課題解決への次のステップです。

実をいうと、調査の過程で、高杉(大高)は伏見澄子一座と帯同していたに違いないと思い込んでいたため、伏見澄子が浅草の劇場に出ていた時期の「都新聞」(現在の東京新聞)で、伏見一座のキャスト一覧は確認したのですが(高杉の名前はなかった)、不二洋子一座については確認しなかったのです(とほほ)。

なので、近いうちにあらためて調べ直してみたいと思います。そこに高杉がいるかどうかで、近江一座から伏見一座へ移る彼の行動経過が見えてくる気はします(もしいなかったら、近江・伏見以外の一座に関わってたはずですから、それを特定しなければなりません)。


ところで、前の投稿の通り、当時の新聞には横浜に在住の役者のことが、個人情報なんてまったく保護せず、惜しみなく出しながら掲載されてるわけですが、おかげで近江二郎についていろいろわかってきました。

のちに出版される『演劇年鑑』(昭和18年版)にも、近江二郎のプロフィールが掲載されています。そこにある彼の住所は大阪ですが、こちらの新聞によると中区井土ヶ谷町在住ということになっています(当時はまだ南区がないので中区です)。

あくまでも想像ですが、日本全国を旅していた近江は、本拠地を大阪としつつ、横浜や浅草での興行が続くときは井土ヶ谷に住んでいたんじゃないでしょうか。横浜や浅草での仕事が軌道に乗ったことを受けて、井土ヶ谷に家を借りたか買ったか、いずれにしろ、二拠点生活を選択したように想像されるところです(昭和18年あたりの近江一座は大阪・京都と横浜・川崎を行き来していました)。

近江一座にいる「深山百合子」が彼の妻であることは承知していましたが、今回追加でわかったのは、一座のメンバーで、戦後、弘明寺・銀星座の開場記念興行の広告にも名前の出る「戸田史郎」が近江二郎の実弟だということです。

戸田史郎は本名を「笠川四郎」といい(近江二郎の本名は笠川次郎)、やはり井土ヶ谷に住んで、「近江洋服店」という店を経営していたそうです。副業があったわけですね。

当時の新聞の情報は不確かなところもたくさんありますが、少なくとも「近江洋服店」という新しいキーワードが見つかったことで、新たな展開が期待できそうです。近江洋服店が具体的にどこにあったのか、近江洋服店と大高よし男に何か関係があったのか、あるいは戸田史郎のご子息が存命で、大高よし男のことを知ってないだろうか…妄想と好奇心は際限なくふくらみます。

昭和16年5月4日付神奈川新聞より

ちなみに、その頃の近江一座に出ていた「衣川素子」という人は、近江の子で昭和16年当時11歳。近江は50歳で、深山百合子は43歳(彼女については「以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる藝妓なり」との記載もあります)。

個人情報保護が緩かった時代のおかげで、近江二郎の家族のことまで、息遣いを感じられるほどにわかってきたのがありがたいところです。

ともあれ、まずは近江二郎の線から「昭和16年の高杉彌太郎を探せ」のミッションがスタートします。

近江二郎
昭和15年3月2日付横浜貿易新報より)

ついでですが、昭和16年5月7日付の神奈川新聞には「横濱太陽座」の公演についての劇評があります。

この劇団の演出は「梨地四郎」。戦後、劇団「葡萄座」を創設した人ですし、その後は劇団「創芸」を率い、戦後横浜の演劇界に大きな足跡を残した方です。


戦中の記事にこういう名前を見つけると、思わずハッとしますね。


→つづく


(28) 情報豊富な昭和16年

高杉の軌跡が見えてきたことで、調査はちょっと先走りすぎている感が否めません。
敷島座の毎月の興行について月末と月初だけを先行して調べてきましたが、ここでひと息、じっくり調べる体制に戻りたいところです(公演案内じゃないところに意外な情報がありますからね)。

とはいえ、先走りにも成果はあるもので、昭和16年に入ると演劇関連記事の内容が(僕にとって)とても充実してくるのです。


先述の通り、昭和16年の1月に近江二郎一座が再びやってきて、高杉彌太郎と大江三郎も参加した興行がスタートします。

近江一座の興行は3月いっぱいまで続き、4月は実演に移っていた日活の映画スター・澤田清が敷島座にも登場します。この興行に助演として参加するのが「三桝清」です。彼は昭和18年の3月に浅草金龍館で大高と共演しますが、大高と入れ替わりで来たこの時が横浜初登場だったようです。

前にも書いたように、昭和5年、筒井徳二郎一座とともに渡米して、アメリカ巡業では相当な好評を博した三桝が、11年後、伊勢佐木町・敷島座の舞台に立っていたのです。大高との関係もさることがながら、あの三桝清が横浜にいたかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。

澤田一座は4月いっぱいで横浜を去り、5月からは静岡に新しくできた「常盤劇場」に移っています(火事になった劇場を再建したようです)。

そのあと、5月には河合菊三郎一座がやってきますが、この時に「石川静枝」という剣劇女優が参加します。彼女も昭和14年にアメリカ・ハワイを巡業した人です。筒井徳二郎、近江二郎、石川静枝と、戦前・戦中の劇団は思いのほか、海外公演(とりわけアメリカ巡業)を頻繁にやっていたことに驚かされます。新聞記事を追っていくと、アメリカもハワイも巡業先のひとつくらいに思われていたのかな、なんて錯覚してしまいそうです(ちなみに澤田清もアメリカ巡業をしています)。

さて、その石川静枝ですが、記事によると「石川静枝改め二見浦子」になったというのです。二見浦子といえば、翌昭和17年に京都で、伏見澄子一座の助演として、大高よし男と共演する女優です。その前名が石川静枝だったというのです。

昭和16年4月30日付神奈川新聞より

ただ、ちょっとおかしいのは、昭和14年の大阪・浪花座の「籠寅演芸部 女流剣戟競演大会」に二見浦子の名前があることです。渡米の際にはたしかに「石川静枝」の名前で巡業していますから、石川静枝と二見浦子を使い分けていたのか、二見浦子を石川静枝に変えて、また二見浦子に戻したということなのか。このあたりは再調査が必要です。

そんなこんなで、昭和16年の年頭から初夏にかけては、後年の大高とつながりを持つことになる人々が、すれ違うように横浜の舞台に立っていたワケです。ベテランから若手まで、実力派が揃ったこの時期の敷島座は、「わかったふう」の僕から見ても、なんだかいつになくすごい興行が続いていた時期に感じられてなりません。


別の話になりますが、その頃の新聞に「横浜在住の役者」を紹介する連載がありました。残念ながら大高の名前は見当たりませんが、その中に「生島波江」の名前があったのです。当時、彼女は横浜に住んでいたのです。

それによると、生島波江は本名を「小島キク」といい、住所は中区立野町**(例によって番地まで書いてあるけど一応伏せておきます)。年齢は22歳だそう。昭和16年で22歳なのだから、日吉劇団の一員として東京の江東劇場に出た昭和13年は19歳、旧杉田劇場の舞台に立った昭和21年には27歳くらい。まだまだ若い役者だったことがわかります。

昭和30年代の住宅地図で住所を探してみましたが、そこにあった名前は「小島」ではありませんでした。具体的には示しませんが、今のJR山手駅の駅前です。結婚して姓が変わったのか、戦後、どこかに転居したのか、事情はよくわかりません。

ですが、少なくとも記事の出たその当時は立野に住んでいたのです。ポスターに列記されている名前だけだった人が、だんだんと息づかいを感じられる存在になってきました。この調査の醍醐味ですね。


そうそう、このブログのタイトルは「大高ヨシヲを探せ」ですが、どうやら大高の名前は「よし男」または「義男」が正しいようで、ブログタイトルは変えないものの、この先の本文中での大高はひとまず「よし男」で統一していこうと思います。


→つづく

(27) 疑問符が一気に消える

その後の継続調査の結果、昭和15年の3月に敷島座に登場した近江二郎一座は、6月いっぱいまで同座で興行していたことがわかりました(正確には6月29日まで)。劇評などの記事内容からして、高杉彌太郎(大高よし男)もずっと敷島座にいたようです。

彼らが去った後の敷島座、7月興行は6月30日初日で、漫才大会と黒田幸子一座(安来節)とメトロ・ショウ、津田五郎とそのグループ、という組み合わせです。

さらにその先は

8月 佐藤天右(ダンス)、黒田幸子(安来節)ほか
9月 伏見澄子一座
10月 伏見澄子一座
11月 澤田清一座
12月 松園桃子一座、和田君示一座

となります。

ここでの最大の注目は、9月と10月に来演する「伏見澄子一座」ですが、それを紹介する新聞記事にある「主なる俳優」一覧の中に、「宮崎角兵衛」はあるものの「高杉彌太郎」の名前はありません。

昭和15年8月30日付横浜貿易新報より

ということは、高杉彌太郎も近江二郎一座に帯同して、6月いっぱいで敷島座を去り、どこか別の地域の舞台に立っていた、と考えるのが妥当です。


4ヶ月にわたる久々の敷島座興行で大きな好評を得たその近江二郎一座は、巡演を経て翌年1月に満を持して敷島座に戻ってきます。そして、その情報を伝える新聞記事が年末、12月29日に出るのです。

実は、その記事中にある「俳優連名」の記載が、ここまでの疑問のかなりな部分を氷解させることになりました。

昭和15年12月29日付神奈川新聞より

ここには、近江一座に帯同していたと考えるのが妥当とした僕の推測のとおり、「高杉彌太郎」の名前があるばかりか、なんと、あの「大江三郎」の名前が書かれているのです!

高杉(大高)と大江三郎は以前から接点があったのです!

ついでに言えばここに「大山二郎」の名前もあることから、「大山二郎」と「大江三郎」が別人であるとわかるし、以前、大高ではないかと推測した「関哲洲」の名前もあるので、「関哲洲」と「大高ヨシヲ」が別人であることも確認できます。

モヤモヤと疑問符だらけの推測を重ねてきたことが、この記事ひとつで一気に氷解! 調査は大きく前進しました!

(ついでの妄想を加えれば「高田光彌」という、旧杉田劇場のオーナー高田菊彌を彷彿とさせる名前もあったりします)


これによって、完全に

近江二郎=大江三郎=大高ヨシヲ

のラインが、旧杉田劇場の開場よりずっと前から存在していたと証明できたわけです。


ところで、昭和16年の近江二郎や伏見澄子の活動状況はこれまでの調査で比較的はっきりしています。

近江二郎:昭和16年9月から不二洋子一座に助演で参加。
伏見澄子:昭和16年7月と8月、鈴進座の座組に参加。

実のところ、上記のいずれの公演にも高杉(大高)が参加していた形跡はありません。「高杉彌太郎」の名前をふまえた上での追加調査が必要ですが、この時期、大高は別の座組に参加していたと考えたほうがいいのかもしれません。

その後、昭和17年になると1月の川崎大勝座興行あたりから、高杉彌太郎は大高よし男と改名し、伏見澄子一座に帯同して横浜・京都と各地を巡演するわけですが、そのあたりの経緯も含めて、どうやら調査が手薄だった昭和16年の前半というのが大高(高杉)の活動を探るキーポイントになりそうです。

ひとまず、いくつかの疑問が一気に解消し、大高ヨシヲや大江三郎の横浜との接点もかなり明確に見えてきました。


→つづく


(26) 高杉彌太郎がいた!

ついに!

新聞記事に「高杉彌太郎」の名前を見つけました!(昭和15年2月29日付・横浜貿易新報)


しかも!

近江二郎一座の舞台に立っていたというのです!


昭和15年3月の横浜・敷島座(伊勢佐木町四丁目)!


後年、大高が頻繁に助演する伏見澄子一座の横浜初登場が昭和13年の2月で、その時には高杉彌太郎の名前はありませんでした。だからこの時点では伏見澄子一座と高杉(大高)の接点はなかったと考えるのが妥当だろうと思います。

それから2年後。

昭和15年の春に高杉(大高)は、戦後、弘明寺・銀星座で開場記念の舞台を勤める、あの近江二郎とともに横浜の舞台に立っていたのです。

なんという出会いでしょう!


記事によれば近江二郎は大正時代から横浜で頻繁に興行をしていて、絶大な人気を誇っていたとのこと(これも調べねば)。

それが、その後はなかなか機会に恵まれず(アメリカ公演などもしていたので)、横浜とは疎遠になっていたのが、この年の春に籠寅演藝部に所属したことで、敷島座(籠寅の劇場)の舞台で横浜へ久々に戻ってきたのだそうです。

記事の見出しの大きさからもわかるように、横浜の演劇ファンにとっては、懐かしの、待望の近江二郎一座、というわけです。

そんなドラマチックな興行に、大高が参加していたというのは、なんという偶然、いや必然でしょうか。大高を調べている身としては、大高と近江の接点がこんなところにあったのかと思わず仰天してしまう記事でした。


なお、この舞台には「大山二郎」という役者も出ています。大江三郎と字がよく似ていますが、大山はやがて近江一座を離れるので、大江とは別人だと思っています。

しかしまだ確証はありません。もし仮に同一人物だとしたら

近江二郎=大江三郎=大高ヨシヲ

が同じラインでつながることなります。

もちろんこの三者のつながりがなくとも、大高と近江、近江と大江がつながっているワケですから、相互の関係はかなり密接です。

もはや杉田劇場と銀星座は「ライバル」なんていうものではなく、戦前・戦中の横浜演劇界における「人脈のるつぼ」みたいなところに生まれた華、兄弟劇場といってもいいくらいだと感じ始めています。


昭和15年の春から横浜での興行をスタートさせた近江二郎一座は、その後、横浜の敷島座あるいは川崎の大勝座でしばしば興行します。

うかつにも伏見澄子一座にばかり目がいって、近江一座を詳細に調べることを怠っていましたが、こっちに大高が参加している可能性も十分にあるわけです。調査の「鉱脈」みたいなものがまた見つかったように思います。

これで、旧杉田劇場で大高と組んだ相手が、近江二郎一座の文芸部にいた大江三郎というのも、すっかり腑に落ちる話となりました。


昭和15年の近江一座の興行も、これまで調べた限りで、3月から5月までずっと続いていますし、その2年後、昭和17年の伏見一座の興行も川崎・横浜で2ヶ月。おまけに海江田譲二や中野かほるとも川崎で1ヶ月。

大高ヨシヲ(よし男)、前名高杉彌太郎は、京浜地区でそれなりの長期間、演劇の興行に参加していたわけです。

つまり、彼にとって横浜は「馴染みの土地」だったのだと言っても、あながち間違いではない気がします。

それをふまえれば、戦後の活動再開にあたって、小屋として、横浜で最初に開場した杉田劇場を選んだ理由もよくわかります。もしかしたら、銀星座のオープニングを近江二郎一座にしたのも、大高の助言があったからじゃないかと思うくらいです。

(スゴイ前進だ!)


昭和15年から16年、ここの情報をしっかりと精査して、大高の横浜での活動の空隙を埋めていく。

これからのミッションの方向性が決まってきました。


→つづく


(25) 生島波江はこんな人

継続は力なりとはよく言ったもので、戦前・戦中の横浜演劇界のことなどまったく知らなかった僕が、最近は昔の新聞を調べるにつけ、「ああ、この小屋にこの人が来てたんだ」などとわかったふうな口をきけるようになったのも、まさに「継続」のなせる技なのだと思います。

大高の調査はかねてから書いている通り、昭和16年以前は「高杉弥太郎」を、昭和17年以降は「大高よし男」を探すという基本姿勢で進んでいますが、いまのところ先日の川崎での大高の出演を除けば、残念ながら記録に出会うことはできていません。

その代わり、「わかったふう」な情報は日々更新されています。


今日は記事の中に「生島波江」の写真を見つけました。大高一座(暁第一劇団)に出演していた人で顔と名前が明確に一致したのは今回が初めてかもしれません。

生島波江は南吉田町・金美劇場の「横浜新進座」のメンバーであると同時に、末吉町・横浜歌舞伎座で連続公演をしていた日吉良太郎一座のメンバーでもあったようです。当時の神奈川新聞は(前身の横浜貿易新報も)演劇関連記事では、いま風に言うと圧倒的な「日吉劇推し」で、日吉一座の劇評はほぼ毎回載るくらいの勢いでした。何しろ数年にわたって横浜で連続公演していた劇団ですから、他の街では日吉の芝居を見ることはできなかったわけで、地元の新聞が「横浜の劇団」として日吉一座を推すのもわからないではありません。

そんなわけで、生島波江の名前もおのずと頻繁に記事の中に出ることになります。横浜で芝居好きな人ならば生島波江の名前を知らない人はいなかっただろうと思います。

大高ヨシヲがどうやって座員を集めたのかはわかりませんが、生島が日吉一座で活躍していた同じ時期に、横浜や川崎で舞台に立っていた大高はきっと生島の評判を聞いていただろうし、それだけでなく個人的な面識もあったかもしれません。


で、写真。生島波江はこんな女優さんです。

キリッとした顔つきで、なるほど剣劇もやりそうな雰囲気を感じますね。

ところで、顔がわかったとなると、大高の葬儀の写真の中に生島波江がいるかどうが気になるところですが、なにしろ写真の載った記事(昭和14年)から葬儀(昭和21年)まで、7年の時間が経過していますから、判別できるかどうか微妙なところです。

候補として考えられるのは、中央の遺骨を持った男性(おそらく大江三郎)とお坊さん(住職?)の間にいる女性ですが(いかにも女優っぽい雰囲気です)、生島とはちょっと違うような気がするし、どちらかといえば映画スターの「中野かほる」の方が似ているようにも思えます。

(う〜ん、難しい)

ひとまず保留かな。


そんなこんなで、小さな積み上げの毎日ですが、だんだんと大高や旧杉田劇場がとても身近に感じられるようになってきました。

ナニゴトも一歩一歩ですね。


→つづく

(24) 大高、映画スターと共演!

新聞記事が社会を反映させているとしたら、戦時中、昭和17年あたりはかなり迷走している感じで、「高杉彌太郎改め大高義男」が2月に横浜敷島座に出るという記事(1月26日付)のあと、2月、3月、4月それから5月の中旬まで、神奈川新聞での演劇関係の記事はほぼ皆無となります。

僕自身、この時期について背景の検証が進んでいませんが、戦争が始まって数ヶ月、ミッドウェイ海戦の直前ですから、まだ連戦連勝の時期で、娯楽より戦争の記事の方が求められていたのかもしれません。

しかし、それが突如として5月18日から、演劇をはじめとする娯楽関連の記事が再開し、以後、毎週掲載されるようになります。これまた想像ですが、数ヶ月とはいえ毎日の戦時体制の生活にさすがの国民にも我慢の限界が近づいてきたのでしょうか。その空気を察した国や軍部が演劇や映画といった娯楽で気を逸らそうとしたのではないかと感じます。

昭和17年5月25日付の神奈川新聞には、大高をはじめとする剣劇、女剣劇のほとんどが所属している「籠寅演藝部(興行部)」が「国民演藝報國會」を結成したという記事があって、籠寅代表の保良浅之助が会長に就任したとあります。内務省、陸軍省の後援を得ていて、その目的は

"演劇、演藝を通じて、日本精神の昂揚と防■、海事、防空其他國策遂行上必要なる事項の普及徹底に貢献し、併せて健全なる娯楽を提供、国策演藝を提唱する"

ことなのだそうです。

目的は国威高揚のように書かれていますが、演劇記事の再開とこの記事の掲載がほぼ同時期であることを考えると、僕には上記のように国民の不満や疲弊から目を逸らすために演劇や演芸を利用しようとした国側の目論見が感じられますし、これを機に戦時体制の中での娯楽(舞台活動)という「メシのタネ」を、なんとか延命させたい興行側の思惑も見え隠れします。

これ以降、演劇の記事のほかに演劇や演芸による工場や農村への慰問の記事も増えてきます。

いまは大高の調査が最優先ですから手を出しませんが、戦時下で演劇がどのように位置づけられ、どのように上演されていたかは、大きな研究対象だと思います。

戦時下は娯楽が制限されていたというのは、検閲などの面では間違いなくあったことです。しかし娯楽そのものが封じられていたかというと、そういうことはなくて、戦時下の横浜でも、大空襲までは毎日興行が続いていたし、後年には「空襲警報で公演が中止になったら入場料を返金するか」についてのルールも決められるほどでした。

戦時中=娯楽のない灰色の世界

というのは、必ずしも全面的な正解ではない気がします。 


それにしても、こういう記事を追うにつけ、果たして自分がこの環境にいたらどうするだろうと、真剣に考え込んでしまいます。

いまのようにプロアマの境目が曖昧な活動はほとんど見られないわけですから、舞台に関わるとしたらプロ=職業演劇人という立ち位置になります。その立場で、国策に協力せよ、と言われた場合、断ることは職を失うことと同義です。舞台の仕事から離れることになっても、いや、そればかりか舞台での表現活動を封じられたとしても、疑問に感じる国策からは身を遠ざけるのか。難しい選択を迫られた演劇人もいたことでしょう。


さて、前フリが少し長くなりましたが、昭和17年5月18日に演劇記事が再開して以降の新聞を調べてみたら、同年6月22日に、19日初日の川崎大勝座に大高が出演しているという記述を見つけることができました(小さな記事は見落としがちです)。

昭和17年6月22日付神奈川新聞より

この興行には伏見澄子の名前がないので、伏見一座とは別の座組だったようです。これまで調べてきた中では、大高は常に伏見澄子の助演的な立場でしたから、僕にはちょっと異色の舞台というふうに感じられます。でも籠寅所属の俳優ですから、僕の知らないあちこちの一座で助演していたと考えられます。きっと各地でこういう舞台にも出ていたのでしょうね。

ここに出てくる「海江田譲二」は当時の映画スターですが、この時期くらいからでしょうか、実演の舞台にも出るようになっています。戦争が長引くにつれフィルム不足などもあって映画の撮影もままならなくなり、映画俳優が実演に移行する例は多くみられたようです(前にも登場した、杉山昌三九や青柳龍太郎ももともとは映画俳優です)。

ところで、海江田譲二は自分の事務所「海江田プロダクション」を設立してますが、実は旧杉田劇場のプロデューサー、鈴村義二の経歴に「昭和六年 海江田プロ理事長」という記述があるのです。鈴村自身が書いた経歴なのでどこまで信じていいものかわかりませんが(海江田プロの設立は昭和8年みたいだし)、もしその通りであれば

鈴村義二=海江田譲二=大高よし男

というラインが見えてきます。

またこの舞台には「中野かほる」も出演していますが、既報の通り彼女は大高ヨシヲの死後、杉田劇場での追善興行に出演している人です。

大内弘」も映画俳優で、Wikipediaの記述の中には「第二次世界大戦中、(中略)海江田譲二、あるいは中野かほるらとともに一座を組み、実演の巡業を行なっていたようである」ともありますから、まさにこの川崎での興行がそれにあたるのでしょう。

そんなわけですから、大高の視点からこの記事にタイトルをつけるとしたら

大高ヨシヲ、映画スターと共演!

てな感じになるでしょうか。

同時にこれは、大高ヨシヲと杉田劇場を結びつけるラインが明確になった記事でもあります(このブログの最初の頃に「鈴村と大高は無関係だったはず」という断定をしたのが恥ずかしくなります)。ありきたりな公演情報のようですが、これからの大高調査には結構重要な内容になるのかもしれません。


これで昭和17年から18年前半にかけての大高の活動状況のうち、やっと6〜7割くらいが判明しました(どこにいて、どの一座に出ていたのか)。

今後のターゲットは昭和18年後半の「大高よし男」と、昭和17年以前の「高杉弥太郎」、この両名の調査ですが、「大高」に関していえば、伏見澄子を追うとともに、他の興行にも目を向けてみる必要がありそうです。


→つづく