(143) 銀星座と深見千三郎

深見千三郎といえばビートたけしの師匠として有名で、テレビに出なかったことから映像資料がほぼなく、「幻の浅草芸人」「伝説のコメディアン」といわれているそうです(こちら)。


伊藤精介『浅草最終出口 浅草芸人・深見千三郎伝』にはこんな記述があります。

"そんな深見が、昭和二十三年ごろ、銀星座に出演していた前澤稲子一座の楽屋にひょっこり現れたのである" (178ページ)

浅草のストリップ劇場で活躍する前の話で、地元北海道のほか全国を巡業した「深見千三郎一座」を率いた後のことです。

この「銀星座」は言うまでもなく弘明寺の銀星座で、前澤稲子は女剣劇の若き座長。"おんな長谷川一夫" と呼ばれて人気があった役者です。その一座に深見が参加していたと書かれているのです。

しかし、昭和23年といえば、銀星座では専属の「自由劇団」がほぼ毎日興行を行っていた時期で(昭和21年8月から昭和25年7月まで)、ここに前澤一座の入り込む余地はありません。

調べた範囲では、前澤稲子一座が銀星座に来演するのは、自由劇団の連続興行が終わった翌年、1951(昭和26)年4月11日が最初だと思われます(おそらく4月25日まで)。

1951(昭和26)年4月11日付神奈川新聞より

その後、同じ年の10月に三吉劇場、11月には再び銀星座での興行がありましたから、この年は一座にとって横浜での舞台が多い年だったのかもしれません。


上掲『浅草最終出口』には、一座のマネージャーだった高橋徳子さんの発言として

"結局、深見は昭和二十三年から二十五年までの足かけ三年間ほど、前澤稲子一座にいたことになるんじゃないですか" (179ページ)

と書かれていますが、上記の通り、広告の内容からすると「昭和26年から28年」が正しいように思います。


詳細は省きますが、わけあって一座を離れた深見千三郎は、どういう縁か再び銀星座の楽屋に姿を現すことになるのです。

銀星座で青柳竜太郎一座が出演していたときのことだそうで、上掲書にはこう書かれています。

"それは昭和二十六年の夏から秋にかけてのころだったろうか。一座が横浜・弘明寺にあった劇場、そう、あの銀星座に出演していたとき、座長の楽屋に深見千三郎が訪ねてきたのだ" (191ページ)

この記述も年代が曖昧で、上述のように昭和26年の段階では深見はフリーもしくは前澤一座に所属していた可能性が高く、実際、調べた範囲では昭和26年に銀星座で青柳竜太郎一座が公演をした記録は見つかりません。

青柳一座が銀星座に出たのは、開場間もない昭和21年7月1日から5日間で、今のところ、それ以外、記録が見当たらないのです。

1946(昭和21)年6月30日付神奈川新聞より

しかも、この事実を語ったのが「二代目青柳竜太郎」で、

"初代・青柳竜太郎が復員してくるのを待って青柳一座に復帰し、数年後、初代が亡くなったのを機に二代目・青柳竜太郎を名乗ることになった" (191ページ)

"二代目に率いられた青柳一座は、昭和二十年代の半ばころ、横浜地区を中心に公演してまわっていた"(191ページ)

とありますが、青柳龍太郎の映画出演は1963年まで記録があるので、この記述もまた初代と二代目、そして年号もよくわからないところです。

(もう少し詳しく調べてみなければなりません)

概して戦後横浜の興行については、美空ひばりのデビュー時期に象徴されるように、証言者の記憶がベースとなった記述がそのまま事実として流布しているきらいがあって、新聞広告などから時系列や事実関係の確認整理が必要です。


ともあれ、評伝の記載と新聞広告の内容を合わせると、正確な時期は別として「幻の浅草芸人」深見千三郎が弘明寺銀星座の舞台に立ったか、少なくとも楽屋を訪問した可能性は高く、あのビートたけしの師匠が弘明寺に、と不思議な感覚も覚えますが、これまでの調査からすると、戦後、浅草で活躍した役者や歌手・芸人にとって、杉田や弘明寺など横浜の劇場が(結果として)ステップアップのための「ゆりかご」となっていたのも事実で、浅草と横浜の関係は、もう少し深掘りした方がよさそうです。


そんなこんなで、今回はちょっとざっくりとした内容ですが、銀星座と深見千三郎の関わりについてのお話でした。


→つづく
(次回は9/25更新予定)

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(142) 市川栄舛の「いさみ座」

1952(昭和27)年5月、銀星座で市川栄舛大一座「劇団いさみ座」第一回旗上公演が行われるとの広告が出ます。

1952(昭和27)年5月10日付神奈川新聞より

そもそもが小芝居に詳しくない上に「いさみ座」という名称も初めて聞くものですから、唐突に出てきた劇団という印象を受けます。

ただ、座組を見るに、これまでの市川栄舛一座に「いさみ座」と名前をつけただけのようにも思えます。こうした売り出し方で、やや凋落気味の、地域での歌舞伎(小芝居)の再興をしようとした興行的な戦略だったのかもしれません。

「いさみ座」にどういういわれがあるのかは不明です。この一座が長い目で見ると喜楽座や横浜歌舞伎座の更生劇の流れを汲むものであることを思うと、その名前は明治期の「勇座」にちなんだもののように思われますが、関連があるのかどうかについてはよくわかりません。

この座組には市川女猿がいる一方で、市川門三郎の名前はありません。この時期、門三郎はどこかの劇場に腰を据えての興行というより、反町劇場や前回の投稿で言及した川崎花月座など、横浜や周辺地域の劇場を短期間で移動する、近郊の旅興行を続けていたようです。

以前、神奈川県歌舞伎連盟のことを書きましたが(こちら)、その顛末を経てなのでしょうか、横浜(神奈川)の歌舞伎(小芝居)は市川栄舛が取り仕切るようになったようにも感じられるところです。

下衆の勘ぐりで、市川小太夫と市川栄舛の間に何らかの確執があったのではないか、と考えていたわけですが、いずれにしてもこの時期になると、小太夫の姿は神奈川県の興行には見られなくなり、歌舞伎といえば市川栄舛か市川門三郎という形に収斂していきます。


実は資料を再調査していく中で、神奈川県歌舞伎連盟ができる少し前、昭和25年1月、杉田劇場での「東京若手花形歌舞伎」の広告に「市川小太夫口上」の文言があることに気づきました。「連盟結成」の一年半ほど前のことです。

1950(昭和25)年1月17日付神奈川新聞より

広告には「市川栄松」の名がありますが「栄舛」の誤りと思われます。

ここで小太夫がどんな口上を述べたのかわかりません。ただ、その後の展開を思うと、自分も横浜の地で歌舞伎を盛り上げたい、というようなことを言ったのかもしれません。そして、これを契機に小太夫が神奈川の歌舞伎(小芝居)との関わりを深めていったのではないかとも想像できます。

この頃の銀星座はまだ自由劇団が根城としていて、新派や剣劇ばかりを上演していた頃ですから、歌舞伎の入りこむ余地はなかったわけで、歌舞伎関係者にとっては、杉田劇場が頼みの綱というようなところがあったのかもしれません。


さて話は戻って市川栄舛の「いさみ座」ですが、5月11日に始まったこの興行は情報欄や広告を追っていくと、6月の下旬まで続いたものと思われます。1ヶ月ないし1ヶ月半の興行です。

1952(昭和27)年6月15日付神奈川新聞より

余談になりますが、いさみ座の後の銀星座ではストリップの興行が始まります。

1952(昭和27)年6月30日付神奈川新聞より

広告にも大きく出るような形のストリップは、杉田劇場や銀星座ではそれほど多くありませんから、珍しいものではありますが、実はそれ以上に興味深いのは隣の広告です。主にストリップの劇場としてすでに名高い存在であった「横浜セントラル劇場」で梅澤昇一座の興行が行われたというのです。

横浜セントラルではこの直前、ストリップと大倉千代子一座の合同公演(?)がしばらく行われていました。かつては三吉劇場や杉田劇場で大々的に公演を打っていた大倉千代子も、この頃になると単独興行が難しくなっていたのか、ストリップとの併演で凌いでいたようにも見えます。

しかし梅澤昇ともなるとさすがにそうした形態での興行はできなかったのでしょうか。梅澤一座を迎えて、ストリップが上演できなくなった分、銀星座が替わりにそれを引き受けたようにさえ思えてきます(「セントラルにておなじみの」という文言も見える)。

そんな梅澤昇一座からして、この少し前には川崎花月座でも興行をしていますし、浅草などでの実演が厳しさを増す中、神奈川など周辺に活路を見出していたようにも感じられます。その行き着く先が数年後の弘明寺・梅沢劇場ということになるのかもしれません。

戦前から続く実演の、受難の時期が本格的に始まったような印象を受けます。

1952(昭和27)年5月31日付神奈川新聞より

さて、この年の11月10日には銀星座が閉場してしまうので、栄舛の「いさみ座」の名称での歌舞伎はおそらく半年ほどの短期間の活動で終わってしまったのではないかと思われます。

とはいえ、歌舞伎の興行はしぶとく(?)残っていて、この先、銀星座でも歌舞伎は細々とながら続いていたようです。

ちなみに、昭和29年に開場して、33年には閉場してしまう弘明寺・梅沢劇場の最後はかたばみ座の公演でした。


そんなこんなで、今回は市川栄舛の劇団いさみ座についてのお話でした。


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(141) 川崎花月座の田毎一平

旧杉田劇場のプロデューサーとでもいうべき鈴村義二は、戦前、浅草の興行界で活躍した人ですが、戦後、高田菊弥に招かれて横浜に転居します。

鈴村義二

調べてみると、最初は磯子町の小字「峰」というところにいたようです。その後、杉田町の杉田八幡宮近くに移って、そこを拠点にさまざまな活動をしていたと思われます。


鈴村には浅草の芸能史を振り返るような著作がいくつかあって、その中でも『浅草昔話』は芸能界の裏話的な話が多く興味深いものですが、不思議なことに横浜や杉田劇場についてはまったく言及がありません。そのため、一時は鈴村が本当に杉田劇場に関わっていたのか、疑問に思っていたほどです。


前にも紹介しましたが『浅草昔話』には鈴村の略歴が載っていて、その最後には

「大麻博之殿主の詩吟道場日本放光殿剣吟舞踊並びに舞踊田毎流宗家田毎一平と号す」

と書かれています。

大麻博之という人は詩吟の人のようで、調べてみると昭和10年、横浜八聖殿で行われた「第一回全国詩吟大会」にも参加しているとのことです(→こちら

詩吟のことについてはまったくの門外漢なのでよくわからないところですが、会場が本牧の八聖殿ですから横浜との縁も浅からぬものがあるのでしょう。


さらに調べると剣舞の世界では「日本放光殿田毎流」というのは鈴村義二が始めた流派とされていて、拠点は横浜市。昭和43年には『剣舞踊(剣舞踊振付集)』という本も出しています。

この本の奥付を見ると、編者が鈴村義二で、発行者は小川長治、発行所が「田毎会」となっています。どうやら「日本放光殿田毎流」の運営団体あるいは道場として「田毎会」が存在し、そのトップが小川長治という人だったようなのです。

ここにも末尾に鈴村の略歴が書いてありますが、やはり杉田劇場との関わりについてはまったく記載がありません。そして、田毎流については『浅草昔話』とは少し内容が変わっていて

「(昭和)二十九年 詩吟道場詩吟道場日本放光殿主大麻博之氏の要望で日本放光殿の剣舞踊宗家となる」

と書かれています。変化の要諦は「要望」の一言ですが、このあたりの事情はよくわかりません。眉唾の印象も拭いきれませんが、やはりよくわかりません。

田毎会の代表者(理事長)である「小川長治」についてもよくわかっていません。経歴などの手がかりはこの本しかありませんが、鈴村の手になるあとがきには、彼について

「明治三十六年二月千葉県君津町に生まれ(中略)戦后七・八年して、同志百数人を得て小生と民主革新同志会を組織して活動しましたが政治運動より大切な事のある事を感じて解散して、三十五年親睦と相互扶助心身鍛錬を目的に一灯クラブを組織、その会長となって今日に至っている」

と書かれており、さらに

「親和一灯クラブに芸能部を設けたのをきっかけで白鳳氏(註:小川長治のこと)は五十二才の年齢を超越して剣舞踊の稽古に入り(中略)その熱心さは指導の小生も驚嘆著しい心境で三十年名取昇進高島屋ホールで披露白鳳と号し(以下略)」

とされています。田毎会の理事長である「田毎白鳳」が小川長治その人というわけです。


鈴村義二は戦前、芸能とともに政治活動も行なっていたようですから、戦後、横浜に転居した後も、芸能と政治の双方でいろいろな活動をしていたように思われます。

鈴村の書いていることが正しければ、昭和27〜28年ごろに小川長治と政治活動を始めたとのことですから、杉田劇場が閉場して具体的な活動の場がなくなった鈴村が新たな展開として、小川とともに政治運動と剣舞の活動を始めたということなのかもしれません。

小川長治についてさらに調べると、面白いことに杉田駅前で「大阪屋不動産」という会社を経営していたことがわかりました。『剣舞踊』の奥付にある電話番号と、大阪屋不動産の電話番号が同一でしたから、同じ人物であることは間違いなさそうです。

杉田劇場のオーナーであった高田菊弥もまた後年、「菊や不動産」を経営していたことと合わせると、鈴村義二をめぐっては、政治と芸能と不動産というのが不思議なリンクをしているように感じられますが、具体的な調査が進んでいませんから、これも想像(妄想)の域を出ません。


さて、前置きがかなり長くなりましたが、実は先日の調査で1952(昭和27)年5月の新聞に以下の広告を見つけたのです。

1952(昭和27)年5月10日付神奈川新聞より

川崎花月座という劇場での「劇団前衛座」の公演案内ですが、二番目の演目に「田毎一平・作」の文字が見られます。

もちろん同姓同名の可能性は否定できないものの、常識的に考えてこれは鈴村の異名・筆名であるとするのが妥当でしょう。

昭和27年といえば杉田劇場が閉場となったとされる時期で、小川長治とともに政治運動および田毎会を始めた時期にも近く、それにあわせて「田毎一平」としての芸能活動(作家活動)を始めていたとも考えられそうです。杉田劇場の次の場所を探していたのかもしれません。

この「川崎花月座」というのは劇場名からして吉本傘下のように見えますが、1947年版『映画芸能年鑑』によれば経営者は「美須鐄」とありますから、現在のチネチッタにつながる「美須興行」の劇場ということになります。

演目からして剣劇などの大衆演劇とストリップを上演していた劇場のようで、横浜でいえば横浜セントラル劇場のようなものだったのでしょうか。いずれにしても杉田劇場のように、やはり戦前からの流れを組む大衆演劇の世界で、鈴村は活動をしていたと言えそうです。

現段階でわかっていることはこれだけです。

戦後、横浜に転居したあとの鈴村義二についてはわからないことばかりです。ただ、高田菊弥と鈴村は旧知の仲だったことからも、横浜での鈴村の足跡をたどることは杉田劇場の謎を解明することにもつながりそうですから、地道に情報を拾い集めていきたいと思います。


そんなこんなで、今回は川崎花月座の広告に名前の出た「田毎一平」こと鈴村義二のその後についてのお話でした。


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