「東京新聞・中日新聞記事データベース」で、過去記事が閲覧できるようになったので、横浜からでも名古屋圏の新聞が見られるようになったのと、都新聞が東京新聞になって以降の記事も確認できるようになりました。
(嬉しい)
もっとも名古屋については、情報のほとんどが『近代歌舞伎年表』の名古屋篇に収録されているので、新たな発見はありませんでしたし、大高よし男の記述も見つかりませんでした。
ただ、文字情報だけではなく、実際の記事や広告を見ることで、その公演の性格がわかることもあって、意義深いものはあります。今後、小さなネタを重ねて、いずれこの場で報告できればと思います。
一方の東京新聞ですが「都新聞」は新聞事業令により強制的に「國民新聞」と統合され、昭和17年10月から「東京新聞」となったので、都新聞の縮刷版やマイクロフィルムでは、それ以降のデータが閲覧できない状態でした。
大高よし男に限っていえば、昭和18年3月に浅草金龍館で、伏見澄子一座に加盟参加していることから、この広告や劇評を確認することが、調査の重要ポイントでしたが、横浜ではこれが閲覧できず、もどかしい思いをしていたところです(国会図書館に行けばいいだけの話なんですけどね…)。
データベースの閲覧ができたことで、新規の情報が得られると期待はしたものの、実際は既知の公演のいくつかの広告に「大高よし男」の名前を確認したことと、演目が判明したことくらいで、大高のプロフィールや活動内容に関わる新しい発見は、残念ながらありませんでした。
ところで、関東圏における大高調査の、最後の「未踏の地」だったのは、神奈川新聞で時折短文で紹介されていた蒲田「愛国劇場」です。ここはもともと映画館だったのが昭和17年7月1日から籠寅興行が経営する実演劇場となった小屋で、お隣の川崎大勝座、横浜の敷島座と並んで、籠寅の興行戦略上、京浜地区の重要拠点になっていたようです。実際、出演する役者の顔ぶれは、多くが大勝座、敷島座と重なっていて、近江二郎、伏見澄子など、大高と縁の深い座長もたびたび舞台に立っていました。
1942(昭和17)年6月25日付都新聞より |
大高よし男は、昭和18年5月いっぱいまで京都三友劇場の舞台に立っていましたが、それ以降の消息がわからなくなります。これまでの調査で神奈川県内では足跡がまったく見つからない上に『近代歌舞伎年表』を精査しても、大阪・京都・名古屋のいずれの地にも彼の名前は登場しませんから、可能性としてもっともありそうなのは東京(浅草)ということになります。
しかしながら、もし浅草の舞台に立っていたなら、新聞を精読するなんていうことをせずとも、もう少し早く情報が掴めそうなものです。実際、東京新聞のデータベースから浅草の劇場を調べてみても、昭和18年初夏以降、大高の名前を確認することはできません。つまり京都の後、大高が浅草の劇場に出ていたとは考えにくいのです。
わかっている範囲での活動履歴から、彼が籠寅の所属俳優だったことは想像できますので、浅草以外と考えると、ありそうなのが蒲田。つまり上述の愛国劇場ということになります。そしてその愛国劇場の全貌を知る上で、期待すべきは東京新聞ということになるわけです。
もっとも、姉妹劇場ともいうべき大勝座や敷島座に大高の名前が出てこないことから、そもそもが愛国劇場も期待薄ではあるばかりか、蒲田は東京の中心部から離れているということで、内容は情報欄に載るだけで、広告はほぼ出ません。ハナから情報は限られています。
1944(昭和19)年3月1日付東京新聞より |
そんなこんなで、結局、蒲田にも大高の名前を見つけることはできませんでした(経験上、もう一度見落としがないか確認した方がよさそうだけど)。やはり昭和18年6月以降に出征したという可能性が一番高そうです。
ただ、かすかな可能性があるとしたら、以下の新聞記事です。
1943(昭和18)年7月17日付東京新聞より |
松竹が青年俳優を集めて合同公演をするというものです。
基本的には歌舞伎や新派の役者のことを想定しているのでしょうが、同年2月に松竹と籠寅が提携して「昭和演劇株式会社」を作っていることを思えば、大高のような役者がここに参加していたとしてもおかしくない気はします(ちょうど大高が三友劇場での公演を終えたすぐ後という時期でもあるし)。
また、翌年1月にはこんな記事も出ます。
1944(昭和19)年1月27日付東京新聞より |
昭和演劇(事実上「籠寅」)の所属劇団が一年を通じて移動演劇に注力するという内容です。ここにも大高が何らかの形で参加していそうな気がしてきます。
どうやら、この線を調べていくのが、次のステップになるのでしょうか。とはいえ、移動演劇については具体的な資料が少ないので難航しそうです。
そんなこともあって、戦前の調査は暗中模索で停滞しがち。この先ひとまずは、またしばらく戦後に戻って、暁劇団のその後を調べ、その中から大高の生前の姿を逆算していきたいと思います。
なお、愛国劇場の広告には「京浜出村駅前」とありますが、これは現在の京浜急行・京急蒲田と雑色の間にあった駅で、1945年戦災の影響で休止、1949年に廃止となったそうです。
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。