(138) 肉の石川のはなし

杉田劇場の地元には、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」駅を結ぶ杉田商店街があって、乗り換え客が比較的多いせいか、人通りのある賑やかな商店街です。

地元の歴史などを調べてみると、杉田が商店「街」というような形で成立したのは昭和初期からで、さらには今のようなにぎわいは、戦後、杉田駅前に闇市ができた頃からだろうと思われます(そもそも新杉田は昭和45年にできた新しい駅だし)。


杉田の地を大きく変貌させたきっかけは、市電の延伸(大正14年〜昭和2年)と京浜急行(当時は湘南電気鉄道)の開通と駅設置(昭和5〜6年)、さらに海軍の軍需工場であった日本飛行機(昭和9年)や石川島航空工業(昭和16年)の開設が影響したのだろうと僕は思っています。市電の延伸や京浜急行の開通も、横浜南部や横須賀の軍施設の設置と無関係ではないだろうとも考えています。

旧杉田劇場のオーナーであった高田菊弥からして、もともと戦時中、同地で日本飛行機の下請け工場を経営していた人ですから、杉田の街と軍需工場とが大きく関わっていたことは間違いなく、街としての成り立ちの原点は企業城下町のようなものだったと考えられます。


僕が転居してきた1970年代の終わり頃、杉田には企業の社宅や寮がたくさんありました。そもそも、それ以前の戦前・戦中から、杉田には前述の石川島や日本飛行機の社宅や寮が多くあったのです。

昭和6年刊の『土地宝典』を確認すると、商店や住宅の建ち並ぶ杉田エリアの大半は田や畑だったことがわかります。おそらく、工場建設にともなって、従業員の住宅確保のために、そうした田畑を住宅地にしていったのだろうと思われます。それが、大正時代頃までは梅林で名高い観光地として、また住民の暮らしとしては半農半漁の「村」としてあった杉田が、近代的な「街」へと変貌する第一歩だったのだろうと思います。

そのように、工場労働者や家族の衣食を賄うための商店が増えていったことで「杉田商店街」ができ上がっていったのだろうし、戦後は高度経済成長の中、多彩な商店があるという利便性とそれにともなう生活のしやすさが、各企業の社宅や寮を杉田に引き寄せたとも考えられます。

30〜40年前までは、商店街の賑わいからその頃の息吹が感じられたものです。


さて、このブログでも何度か言及していますが、現存する旧杉田劇場の記録の中に、新調された緞帳の写真があります。長らく昭和23年のものとされてきましたが、実際は昭和25年1月のものであることがわかっています(→こちら)。

旧杉田劇場緞帳(現杉田劇場所蔵)

ここには数々の個人名、店名が書かれていますが、その中に

「石川の牛豚肉」

があります。

拡大写真

写真が鮮明ではないものの、現物をよく見ると、店名の右肩には「杉田駅踏切際」、上に「うまいのである」と書かれていることがわかります。この店は「肉の石川」の看板を掲げて、杉田駅踏切近くで長らく営業を続けてきた精肉店です。

去る6月29日、多くの人に惜しまれながら、その「肉の石川」は閉店となりました。

店頭に貼り出された「閉店のお知らせ」によれば、開店は昭和24年だそうです。つまり緞帳に名前が書かれたのは開店から間もない頃だったわけです(そのことからも緞帳が新調されたのが昭和23年ではないことがはっきりします)


前述の通り、僕がこの街に転居してきたのは45年ほど前ですが、その頃の商店街には「肉の石川」のような個人商店がたくさんありました。商店街の成り立ちとともに開業した店がまだ多く残っていたとも言えます。

しかし、いろいろな事情があるのでしょう。ほとんどがいわゆるチェーン店に変わり、さらには杉田・新杉田両駅前の再開発などもあって、商店街の雰囲気は大きく様変わりしました。

旧杉田劇場の緞帳に書かれた店舗も、先年、隣町、白旗商店街の川崎青果店が閉店してしまいましたし、杉田にあった銭湯関係者の名前もすっかり過去のものとなってしまいました。これで「肉の石川」もなくなってしまったとなると、それとともに旧杉田劇場の記憶はもちろん、僕の知る杉田の街の様相もはるか彼方へ消え去ってしまうようにさえ思えてきます。

(昭和は遠くなりにけり)

とはいえ、それでもなお緞帳に名前のある深野力蔵商店(深野金物店)、平野歯科医院政寿司(伊藤政治)は変わらず営業を続けていますから、全国的に苦境が伝えられる地域の商店街の中では、杉田はまだまだ伝統を引き継ぎ、賑わいを維持する商店街として健闘している方なのでしょう。せめて、こんなマイナーなブログの中ででも、旧杉田劇場の記憶を継承することで、街の歴史を伝えつつ、地元の発展に寄与できれば嬉しいところです。


そんなこんなで、今回もまた傍流の話かつノスタルジーばかりになりましたが、旧杉田劇場の緞帳に書かれた「肉の石川」のお話でした。


2024年撮影


→つづく
(次回は7/17更新予定)

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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(137) 山本小道具店のこと

 旧杉田劇場の従業員で、高田菊弥の甥だった片山さんの記憶証言は、杉田劇場のウェブサイトにも掲載されていて(→こちら)、これまでもたびたび参照してきました。

詳しく読むと、記憶違いなどもいくつかありますが、実際にその場にいた方の言葉ですから、不明な点の多い旧杉田劇場の推移を知るには貴重な証言で、この内容の事実関係を再確認することが僕の調査の基本線のひとつでもあるわけです。


昭和21年2月、大高よし男が専属劇団の座長と決まって、あわただしく準備が進められていった経緯を語る中に、こんな発言があります。

"小道具類は、弘明寺観音様のウラの方に山本小道具店があり、狂言の変るごとに店に借り入れに行き、リヤカーを引っぱり栗木の坂道を通り(浜中学校手前の切り通し・杉田3丁目29から栗木2丁目の笹下道路)、上大岡の花街を通って山本小道具店に通いました"

具体的な名前は大高につながる可能性もありますから、弘明寺観音の裏にある山本小道具店は当然、大きな手がかりになるだろうと、あれこれ調べていましたが、これまでその場所を特定することはおろか、どんな店だったのかも確認できずにいました。


それが先日、別件で、長く横浜のアマチュア演劇で活動してきた知り合い(大先輩=80代男性)と話している際、役者が激しく動いても衣装が乱れない着方という話題の中で、そのやり方を「山本のおばさんに教わった」と話してくれたのです。

「山本の」と、あたかも僕がその人を知っているかのように言うので、恥を忍んで尋ねて見たところ、弘明寺に衣装や小道具を貸す店があったんだ、と話してくれたわけです。

なんと、その方は子どもの頃、山本小道具店に出入りして、かわいがられていた上に、芝居に関わるさまざまなことを教えてもらっていたと言うのです。さらに聞いてみると、芝居小屋だった銀星座にもよく出入りしていたのだとか。

まったく思いがけない話で、本題も忘れてあれこれと興奮気味に聞いてましたが、いかんせんその日は別件。銀星座のことはひとまず後日ということにして、それでも山本小道具店の位置だけはざっくりと場所を聞き出しておいたわけです。

で、先日、昭和30年代の明細地図を確認してみた結果…

ありました!

昭和35年 南区明細地図より

地図には「山本小道具店」ではなく「演劇用品 山本」とあります。明細地図の作成は現地調査に基づくそうですから、実際、そういう名称の看板なり表札なりが掲げられていたのだと思います。

片山さんの証言にあった「弘明寺観音のウラ」というのは、文字通りの裏ではなく、杉田や上大岡から見れば「手前」にあたる場所で、住所でいうと中里町、現在の住所だと南区中里3丁目付近、京急の高架下にある「みうら湯」の近くだったのです(現在地図の星印のあたり)。

Googleマップより

山本小道具店がこの場所にあったのならば、杉田新道の切り通しを抜けて、笹下道路(笹下釜利谷道路)から上大岡の花街を通って行ったという片山さんの話もうなずけます。


南区の明細地図は昭和32年、35年、39年と続きますが、昭和39年の地図にはただ「山本」とだけ書かれているので、昭和35年から39年の間に廃業したのだと思われます。実際、私が話を聞いた方も、昭和30年代の後半には店を閉めていたはずだと言っていました。

山本小道具店の少し先には梅沢劇場があり、その先は弘明寺商店街で、銀星座もすぐ近くです。どちらの劇場にも山本小道具店がさまざまな衣装や小道具を貸し出していたのだそうです。

昭和20年代の終わりから昭和30年代のはじめにかけて、劇場は軒並み閉場しますから、時流を受けて山本小道具店も廃業・引退ということになったのでしょう。

それでも後年、その知り合いがアマチュア演劇を始めてからも、上述のように衣装や小道具などのアドバイスは受けていたようだし、当然、大高よし男や鈴村義二が山本小道具店に出入りしていた可能性もあるわけで、そのあたりも含めて、疑問点などまとめて、じっくり話を聞いておきたいと思っています。

(大高の葬儀写真に山本さんが写っていたりするのかも)


そんなこんなで、今回は旧杉田劇場もお世話になったという弘明寺の山本小道具店についてのお話でした。


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(136) 横浜近江養鶏株式会社

近江二郎の父は近江友治といい、広島県芦品郡福相村(現福山市)の出身です(古い住所では芦品郡有磨村のよう)。もともと戸田家に生まれましたが、近江家の娘・千枝と婿養子に入る形で結婚したことで、近江姓を名乗ることになります。

友治と千枝の間には長男・一雄、次男・二郎、三男・郁三、四男・資朗、五男・謙吾、六男・六郎、長女・富江、次女・孝子の六男二女が生まれ、次男の二郎がのちに役者となる近江二郎というわけです。また四男の資朗も兄の劇団に参加して「戸田史郎」の芸名で役者となります。芸名が戸田なのは父方の実家の姓をとったと思われます。


友治は郷里で学校の教員(訓導)をしていましたが、かなり進取の精神を持った人だったようで、貧しい家の子供に教育を授けるための資金集めとして、養鶏を提案したり、妻・千枝の反対を押し切って一家揃って横浜に転居するなど、アグレッシブな人生を送ったと思われます。

進取の精神とはいえ、教職にあったことや、養鶏で資金集めを考えるなど、堅実で真面目な一面もあったはずで、二郎が役者になると言い出した時には、激怒して二郎を勘当したのだそうです。


広島出身ということもあるのでしょうか、友治は子どもたちを積極的に海外へ渡航させます。

長男の一雄、三男の郁三、五男の謙吾、六男の六郎は、いずれもハワイやアメリカ西海岸へ渡り、クリーニング業や養鶏など、さまざまな仕事をしてアメリカで暮らすことになります(何度か引用している近江家のファミリーヒストリー "FIFTH BORN SON" はその経緯などを謙吾の子、ジョージが著した本です)。

これも以前から何度か書いている近江二郎一座のアメリカ興行は、実は五男の謙吾を中心に、アメリカ在住の兄弟たちが招聘したもので、その成功はひとつには日系社会の中で確固たる地位を得ていた兄弟の人脈が物を言ったとも考えられそうです。

おそらく大正に入ってから、父・友治も渡米して養鶏を学んだそうで、大正9年の「日米住所録」には、カリフォルニア州のペタルマ在住の日系人として、一雄とともに名前が記録されています。

「日米住所録 1920年」(日米新聞社)より

広島から出た時期や、渡米、横浜に転居した時期など、詳細な時系列はまだ調査途中ですが、アメリカから帰国後、大正12年、友治は横浜井土ヶ谷に「横浜近江養鶏株式会社」を設立します。

官報(1923年8月3日付)より

内容を転記します。

●株式会社設立
一 商号 横浜近江養鶏株式会社
一 本店 横浜市井土ヶ谷町八九八番地
一 目的 初生雛親鳥百日雛●●卵食卵販売其他之レニ附帯する営業
一 設立年月日 大正十二年四月三日
一 資本総額 金四万円
一 一株ノ金額 金二十円
一 各種払込額 金二十円
一 公告方法 横浜貿易新報ニ掲載ス
一 取締役ノ氏名住所
 近江友治 横浜市井土ヶ谷町八九八番地
 末房増太郎 広島県御調郡栗原村字竹屋九七七六番地
 三村軍蔵 横浜市万代町三丁目五七番地
 渡井政次 同市黄金町一丁目四番地
 直江亀吉 同市西戸部町字御所一二九番地
 笠川源蔵 同市大岡町一一九番地
一 監査役ノ氏名住所
 戸田保 広島県芦品郡有磨村字下有地北一一一三番地
 武安正和 横浜市弘明寺町二八九番地
一 存立時期 設立ノ日ヨリ満三十箇年


この会社が設立された大正12年4月といえば、横浜喜楽座で絶大な人気を博していた近江二郎が喜楽座を去って2ヶ月後ですから、もしかしたらその人気にあやかって会社を作ったのかもしれません(すでにこの頃には二郎の勘当は解けていたそうです)。


さて、この会社の取締役と監査役についても少し調べてみたところ、なかなか興味深いことがわかりました。

友治に次いで名前が記載されている「末房増太郎」という人は、上掲の「日米住所録」に近江友治と同じペタルマ在住の日系人として名前が記録されていますから、同じ時期にアメリカに渡った同郷の士ということになります。

後年は郷里に製材や下駄製造の会社を設立したようです。

つづく「三村軍蔵」「渡井政次」「直江亀吉」の3人は、横浜のタクシー会社、神奈川都市交通の前身で、大正7年に設立された「横浜市街自動車」の取締役として名を連ねています。

官報(1919年1月16日付)より

このうち、「三村軍蔵」は同社の二代目社長になる人で、会社の基盤を作った人とも言っていいようです。その時の専務取締役が「直江亀吉」ですから、横浜のタクシー業界の先駆者たちが近江友治の会社の取締役も兼務していたということになります。

渡井政次」は横浜市街自動車の取締役だけではなく、本業は西洋料理店の経営で、現在も桜木町駅の構内にある「川村屋」の創業者の娘婿でした。

有名な話ですが、桜木町の立ち食いそば店・川村屋はもともと西洋料理店で、横浜で名高い富貴楼お倉の弟で、列車内の貸座布団業を営んでいた渡井八太郎の妻、渡井つるが開業しました。その後、伊藤博文の口利きで当時の横浜駅(現在の桜木町駅)構内にレストラン(川村屋洋食店)を開き、それが現在の川村屋につながるのです。

甲府出身の政次は中学卒業後に横浜へ出て、渡井八太郎のもとで働いているうちに、信頼を得て娘婿になったということだそうです。

こうした当時の横浜財界人が、どういう理由で近江友治の養鶏会社の取締役になったのか、その経緯はまったくわかりませんが、いずれにしても当時の最先端というような事業の経営者たちとのつながりがあったことは間違いなさそうで、そこに喜楽座の人気役者、近江二郎の存在があったと考えてもいいような気はします。

ちなみに現在の川村屋の名物は「とり肉そば」ですが、友治の養鶏と何らかの関係があるのかもしれない…なんていうのは悪癖の妄想でしょうね。

さて、取締役の最後に名前があるのは「笠川源蔵」ですが、この人のことはよくわかりません。ただ「笠川」という姓は近江二郎の妻、深山百合子の本名と同じで(笠川ヒデ)、おそらくこの頃の近江二郎は前妻と離婚し、百合子と結婚して笠川家に婿養子に入っていますから、もしかしたら笠川源蔵は二郎の義父ということなのかもしれません。


残る二人の監査役も興味深い存在です。

「戸田保」は姓や住所からもわかるように、友治の実兄です。二郎にとっては伯父にあたる人です。兄に監査役を頼むのはごく自然なことのように思えます。

「武安正和」は横浜英和女学校(現在の横浜英和学院、以前の成美学園)の二代目教頭で、同校の校歌を作詞した人だそうです。

調べてみると実は友治とは同郷で(広島県芦品郡福相村出身)、広島師範学校を出ている人ですから、友治からすると郷里の教育者として大先輩というべき人だったようです。両者の間にどこでどんな縁があったのかはよくわかりません。横浜在住の広島出身者ですから、何らかのつながりはあったと想像できます。

友治の会社が設立された大正12年には、武安はすでに横浜英和女学校を退職し、弘明寺に「光華女学校」を創立しています。横浜英和女学校も同年、山手から現在の蒔田に移転していますから、その頃に具体的なつながりができたのかもしれません。いずれにしても同郷のよしみで、監査役を頼んだのでしょう。ただ、武安正和は大正12年11月に亡くなっているので、近江友治との関わりはごく短期間だったようです。

ちなみに武安の創立した「光華女学校」は創立年の9月に起こった関東大震災で被災し、存続ができなくなりましたが、總持寺がその運営を引き受け、戦後は鶴見女子中学校・高等学校となって、現在まで続いています。


友治の会社に話を戻します。

官報によると、横浜近江養鶏株式会社は、昭和4年6月19日をもって解散したとのことです。

官報(1929年8月31日付)より


もっとも、会社としては解散したものの、養鶏は続けていたようで、戦後も同地に鶏舎はあったそうです。近江家の人々は多くがその鶏舎の周辺に住み、横浜の地に根を下ろして、戦後もずっと暮らしました。

現在、西光院というお寺のある谷戸の一角です。

役者のかたわら縫製業を営んでいた近江資朗(戸田史郎)の家も近くにありましたが、火災に見舞われて磯子区中原(杉田の隣町)に転居します。

近江二郎の家はよくわかっていませんが、やはり井土ヶ谷、弘明寺あたりに住んでいたと思われます。二郎没後の深山百合子は鶴巻橋の近く、通町一丁目あたりに住んでいたそうで、戦前の活躍を知る人も少なくなっていた中、ひっそりと晩年を過ごしていたようです。

二郎夫妻と在米の兄弟を除く一族の墓は、南太田の常照寺にあります。



そんなこんなで、今回は近江二郎の父が設立した養鶏会社についてのお話でしたが、思いのほか幅広い人間関係が垣間見られて、とても興味深い調査となりました。取締役・監査役の人たちのことをもう少し深掘りすると、近江二郎をめぐる横浜の人脈がさらにはっきりするのかもしれません。


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