(147) 近江二郎と新派と横浜

横浜市が発行していた『市民グラフ ヨコハマ』は1971年から刊行が始まり、のちに季刊誌『横濱』として継承されていましたが、2022年に休刊(事実上の廃刊)となって現在に至ります。

グラフ誌ですから写真がメインの誌面でしたし、各号、さまざまな切り口で横浜を再発見するような内容でしたから、とても面白かったのですが、財政難の余波ということなのでしょうか、ちょっと残念な気もします。


さて、『市民グラフ ヨコハマ』のNo.58(1986年12月号)は「きらめく大正時代 横浜の大衆文化」というタイトルで、大正時代の横浜文化を特集しています。


横浜の文化というと、西洋文化の影響という「いかにも」な視点で、映画や建築、小説や美術などが取り上げられがちですが、この号ではめずらしく(?)演劇についても章立てして言及されているのです。


この章は横浜演劇史研究家の小柴俊雄さん(この時の肩書は"「横浜学」を考える会常任理事")が執筆していることもあって、劇場を軸に歌舞伎から新派、花月園少女歌劇からゲーテ座まで、短いながらも内容が多岐にわたっているので、大正期の横浜演劇の概要や雰囲気がよくわかります。

この中の「喜楽座」に関する記述の末尾にはこうあります。

"大正四年四月から歌舞伎・新派・映画の三本立て興行の「高等劇場」になった。歌舞伎は市川荒二郎・尾上紋十郎、新派は松尾次郎(喜楽座新派主任)・近江二郎という一座が長いこと公演を続けた" (『市民グラフヨコハマ』No.58, 1986年12月/横浜市市民局市民情報センター広報室発行より)

1986年のグラフ誌に近江二郎の名前が出てくるのはかなり意外な気もしますが、大正9年から大正12年まで喜楽座に出演していたわけですから、大正期の横浜を代表する役者として彼の名前が挙がっていてもおかしくはありません(さほどに彼の名前は「忘れらた存在」で、その傾向には拍車がかかっています)。


小柴さんによれば「歌舞伎・新派・映画の三本立て」とありますが、近江二郎が喜楽座に出ていた時期の広告を参照すると、この頃の喜楽座の演目は「子供芝居」と「歌舞伎」「新派」の三本立て(だいたい4演目)で、近江二郎は新派、以前言及した坂東音芽は主に歌舞伎、時折新派にも出演するという形でした。

(いずれこの時期の上演記録をまとめたいと思います)


大正時代の近江二郎については以前に書きましたが(→こちら)、彼は明治の終わりに川上音二郎が大阪の帝国座内に作った俳優学校に入ったものの、何らかの事情で藤沢浅二郎の東京俳優養成所に移ったようです。

音二郎の死に伴う転学と考えていましたが、白川宣力編著『川上音二郎・貞奴:新聞にみる人物像』に掲載された、明治44年2月11日付大阪毎日新聞の記事には、

"帝国座附属養成所生徒近江次郎外十名は座長川上音二郎の所為に不平を抱き昨十日一同退所届を差出し来る十四日より南地春日座に出演する由"(※下線太字引用者)

とありますから、こんな事情があって藤沢の俳優養成所に移ったのかもしれません(おそらく三期生)。

しかしながら、田中栄三『明治大正新劇史資料』によれば、

"第二、第三期生は(明治)44年の11月、第五回の「試演劇場」が終ると間もなく学校が解散になったので、卒業を迎えることができなかった"

"浅野長、窪田源梧、近江次郎は新派の舞台へ出ることになった"(同書, P.89)

ということなので、近江二郎は大阪・東京ともに短期間の養成所生活しか送っておらず、いきなり新派の舞台に出ることになったのだと思われます。

そこで頭角を表したということですから、もともと芝居の才があったということなのでしょうか。結果として数年後には横浜喜楽座に迎えられ、その後は深沢恒造一座などに客演しつつ、自分の一座を結成、という流れになるのは以前に書いたとおりです。


そもそも近江二郎がなぜ役者を目指したのかはよくわかりません。ただ、川上音二郎らによる新派の舞台に惹かれていたのは間違いなさそうで、

"藤沢校長の最初の目的は新派の後継者を作るつもりだったが、小山内、桝本両氏の指導で、生徒は皆な新劇をやることになったのである"(上掲書)

とあることから、卒業生の多くが新劇の道を進む中、あえて新派を選んだのだろうし、後年、新聞紙上に「新派劇の正しい道」を寄稿することからも(→こちら)、角藤定憲や川上音二郎らによる初期の新派への憧れは相当に強かったものと想像できます。

大正9年に横浜喜楽座に来たのも、もしかしたらこの地が新派に理解のある街だったからかもしれません。

(新派と新劇の定義が僕の中ではいつも混乱したまま不明ではありますが、藤沢の俳優養成所の顛末を見るに、新派も新劇も渾然一体となった「混沌期」のようなものがあったのだとわかってきましたし、近江二郎の役者としてのスタートがそういうところにあったのも実に興味深いものです)


いまのところ、大高よし男の師を近江二郎と想定(仮定)して調査を進めていますから、近江二郎の調査も今まで以上に重要になってきます。

次回以降しばらくは、東京俳優養成所を出た後の近江二郎の足跡と、その後に創設した一座の動向、さらにはメンバーの構成などから、近江二郎の活動の変遷を辿っていきたいと思います。そこに大高につながるヒントが見つかるような気がしています。


→つづく
(次回は11/20更新予定)

←前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
【こちら】

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(146) 宝生座の火災と大高の加入時期

これまでの調査から「大高よし男は横浜に来演した1940(昭和15)年3月以前から近江二郎一座に所属していたはずだ」ということはほぼ断定してもいいと考えています。

いずれにしても、横浜来演の直前、同年1月から2月末まで近江一座は名古屋で興行しており、そこには大高よし男(前名・高杉弥太郎)がいたはずで、昭和10年代の近江一座の動向を丹念に調べていけば、大高が参加する時期などの痕跡が見つかる確率は高いと思われます。


昭和初期の近江一座で特筆すべきは、1930(昭和5)年から翌年にかけてのアメリカ巡業ですが、それを終えた一座は、帰朝公演として浅草などで興行しています。

その流れの中で、1932(昭和7)年夏からスタートした浅草・公園劇場における「グロテスク劇場」というシリーズは同時期の近江一座の代名詞ともいうべきもので、この看板を掲げて名古屋や京都でも興行しています(その経緯などは→こちら)。


グロテスク劇場を掲げていた1932(昭和7)年から1934(昭和9)年にかけての近江一座に「高杉弥太郎」の名前が見当たらないことから、この頃はまだ一座に参加していなかったか、まだ名前が出ないような駆け出しだったと考えてもいいように思います。

調査対象はそれ以降ということになりそうです。


ところで、1935(昭和10)年、浅草金龍館での初春興行については、以前にも紹介しました。

この興行は光岡龍三郎・酒井米子・近江二郎の合同公演で、この広告に記載のある名前が、この時期の近江一座の主な座員だと考えられます。

1934(昭和9)年12月31日付讀賣新聞より

このうちから近江一座と思われる部分を抜き出すと

井村緑之助
石川好明
春山芳郎
戸田史郎
大山禮二郎
金井恭
米澤豊
菊田洋右
三村義彦
瀬山緑郎
御園艶子
西山光榮
春日早苗
酒井笑子
上野初子
小山美久子
絹川松代
和田小百合
深山百合子
近江二郎

で、「大高」や「高杉」、あるいはそれを類推させる名前が見当たらないわけです。

ですから、大高は1935(昭和10)年初春興行ののち、1940(昭和15)年正月までの間に近江一座に加わったと考えてよさそうです。


さて、金龍館での合同公演の一年後、1936(昭和11)年2月に近江一座は名古屋大須の宝生座で興行を打ちますが、不運なことに公演期間中、劇場火災に見舞われます。

この火災についてはこれまで『近代歌舞伎年表』(名古屋篇)を参照しただけでしたが、実際に当該の新聞記事を確認してみると、この頃の近江一座の様子がより詳しくわかってきました。

1936(昭和11)年2月11日付名古屋新聞より

火事は昭和11年2月10日の午前8時10分ごろに発生、出火場所は不明だそうですが、前茶屋2階ないし宝生座2階東桟敷または楽屋裏との報道がなされています。

この時の宝生座の所有者は水谷文治氏で、これも以前紹介しましたが、早大演劇博物館の企画展『寄らば斬るぞ!−新国劇と剣劇の世界』のTwitterアカウントに投稿された役者・市川右之助の写真のバックに、同氏の名前のある楽屋のれんが写っています(→こちら)。

ちなみに『新愛知』の記事によると水谷氏は名古屋市中区門前町で煙草小売業を営んでいたとあります。一方、『名古屋新聞』では座主は水谷銀次郎氏となっており、銀次郎氏と文治氏の関係はよくわかりませんが、同姓であることから親子関係だろうとは想像できます。

『新愛知』に掲載された水谷文治氏の談話によると、出火は10日の朝で

"九日夜は不寝番が二人泊まり十日朝出火時には従業員も既に十人ほど来てをり発見した時は既に前茶屋の天井一面火で手の下しようがありませんでした" (1936(昭和11年)年2月11日付新愛知より)

とのこと。

また近江一座については記事で

"一日から宝生座に開演してゐた近江二郎一座四十五名は名古屋市中区若松町國本旅館に滞在してゐる"(同)

と書かれています。

避難場所として旅館にいたのか、宿泊先が国本旅館だったのかははっきりしませんが、上の引用の「不寝番が二人」という記述からして、小屋泊まりではなかったようですから、後者だったのでしょう。座員は四十五名ですからなかなかの大所帯だったこともわかります。

さらにはこんな記載もあります。

"同座の所属している神戸吉原興行部からの指令を待ちながら"(同)

昭和15年3月の横浜・敷島座での興行は、近江一座が籠寅興行部に所属したことから実現したとされていますが、昭和11年の段階では、近江一座は神戸の吉原興行部に所属していたことがわかります。

ただ宝生座については

"大阪市の吉本興業部と下関の保良浅之助氏の共同経営"(同)

ともあることから、近江二郎と籠寅(保良浅之助)との縁はすでにこの頃からあったと考えてよさそうです。


この火災で衣装や小道具の一切を焼失し、公演の中止を余儀なくされた近江一座ですが、火災から6日後の2月16日から同じ名古屋の帝国座で興行を再開します。

1936(昭和11)年2月16日付新愛知より

新聞には「再建不能か」とも書かれた宝生座も同年11月には再建し、歌舞伎公演で柿落としの後、11月30日からの新装第二回公演は近江二郎一座が担うことになります。この興行は年を越して、昭和12年の初春興行へと続き、同年1月末まで続きました。

近江二郎の実弟、戸田史郎(近江資朗)のご親族からお借りした写真には、裏書に「昭和拾二年一月三日撮影」「名古屋市宝■■■」とあることから、この時の舞台写真と考えられます。


近江資朗氏旧蔵写真より

実は『近代歌舞伎年表』を調べる中では昭和14年の近江一座の情報がまったく見当たりません。ですが、この頃、近江一座が神戸吉原興行部に所属していたことを思うと、もしかしたら『年表』のエリア(大阪・京都・名古屋)の外、神戸や広島、九州あたりで興行していたのかもしれません。

この頃に大高が加盟したと推測されますので、神戸の新聞などから興行記録・劇評を調査することで、何か判明するようにも思われます。

少しずつ調査範囲と時期が絞られてきたように感じます。


←前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
【こちら】

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(145) 市川栄升と近江二郎と前澤稲子と

少し前に横浜映画研究家の山岸丈二さんと知り合う機会を得ました(ちなみに山岸さんの肩書きはこれにとどまらない、とても多才な方です)。

世代が近いこともあって、気さくにお話しできる間柄にもなりましたが、ひょんなことからあるパンフを巡ってヤフオクで競り合った仲であることもわかって、より親しくなったりしたのですから、なんとも不思議な縁です。

そんな事情があったおかげ(?)で、ありがたくもお手持ちのパンフ類のうち、戦前の横浜の演劇がらみのものをデータ化して送ってくださることになり、さらにはブログで公開してもいいとの許可をいただいておりますので、これから折を見て、小出しにご紹介してみたいと思います。

(山岸さん、ありがとうございました)


これまで杉田劇場の閉場時期を確認すべく、戦後の調査をぼちぼちと続けてきましたが、もはや大高ヨシヲを探す使命とは大きくかけ離れてしまっているので、最近はこれまでの資料をあらためて読み直して、見落としがないか検証する作業をスタートしております。

いずれ詳述しますが、大高よし男が前名の高杉弥太郎時代に横浜に来演したのは、近江二郎一座の座員としてだったことは、あらためてほぼ間違いないと言えそうです。またそれより以前に、他の一座の横浜興行に高杉弥太郎の名前が見られないことから、来浜前に近江二郎一座が名古屋あたりで盛んに興行を打っていた頃に一座に参加したのではないかと推測されるところです。

というわけで、ひとまずは高杉弥太郎、大高よし男の記述のある新聞記事やパンフ類の見直し、さらには近江二郎の動向を調べてみたわけですが、大高とは直接関係ないものの、1942(昭和17)年5月の新聞記事に、近江二郎・市川栄升・前澤稲子の3人の名前が並ぶ公演についての告知を見つけたのです。

1942(昭和17)年5月18日付神奈川新聞より

この3名の共通点は、いうまでもなく戦後、弘明寺銀星座で興行したことですが、戦前の横浜でも接点があったというのが面白いところです。


さて、このうちの市川栄升は、戦後の活躍はもとより、戦前の横浜では末吉町の横浜歌舞伎座の更生劇で活躍したことで知られています。

実は、山岸さんから送っていただいた資料の中に、横浜歌舞伎座の引札(チラシ?)もあって、なんと、その中に「新加入 市川栄升」の文言があるものが含まれていたのです。

山岸丈二氏所蔵資料(抜粋)


横浜演劇史研究家の小柴俊雄さんの労作、『郷土よこはま』115号に掲載された横浜歌舞伎座の番組一覧と突き合わせると、この引札は1935(昭和10)年8月19日からの興行を告知しているものだとわかります。


ずいぶん前ですが、かつてこのブログで言及したことのある『花柳演藝かゞみ』には、市川栄升のプロフィールが掲載されていて、その中には「昨年七月に更生劇に加入」と書かれています。

『花柳演藝かゞみ』の発行は昭和11年9月なので、引札の日付と記載内容は合致していると言えます。

ちなみに掲載されているプロフィールを一部抜粋すると

"いつも沈思してゐる。楽屋の静かな人で大きな聲を聞かない"

"故小團次の門に入り最初は莚登満女と名乗り米次と變へ、大正九年明次(ママ)座で左團次が『信長記』を出した時池田輝正を勤め名題披露して市川栄升と改名した" 

とあり、また

"中村歌蔵、市川莚三郎は栄升の實兄に當る"

"本名森田友之助"

(『花柳演藝かゞみ』自治新報社, 1936より)

とも書かれています。

『越境する歌舞伎』に記述のあるような(おそらく)一般に知られるプロフィールとは少し違うところもあるようですが、専門外で詳細の確認はできていません。いずれにしても大正期に名題披露した栄升は、昭和10年代には主に横浜を拠点に活動していたことは間違いなさそうです。


そんな栄升の所属していた更生劇は横浜で大きな人気を博しますが、1938(昭和13)年5月いっぱいまで、135回の連続興行を重ねたのちに横浜歌舞伎座での公演を休止します。ハマの團十郎と呼ばれた市川荒二郎が昭和10年に他界したことが影響したのかもしれません。

横浜歌舞伎座ではその後、それまで敷島座で興行していた日吉良太郎一座が専属となって、以後、終戦間際まで6年にわたる連続興行を続けることになります。


更生劇のメンバーはその後、日活館(旧喜楽座)のアトラクションに出演するなど、それなり活動は続けていたようです。以前にも書いたように南吉田町の金美劇場での歌舞伎興行も更生劇の影響が見られますし、戦後の杉田劇場、銀星座での歌舞伎興行にも、更生劇時代からの役者が多く参加しており、横浜の歌舞伎における更生劇の影響はかなり長期間にわたる大きなものであったと言えそうです。

とはいえ活動休止の当座は、根城を失った影響も大きかったようで、翌年の1月にはその後の役者としての体たらくを揶揄するように

"森野五郎は一昨年の十一月に舞䑓を退いたまま、小石川白山で『山楽』といふ待合の主人で、納つて、芝居を忘れてしまつてゐる"

"市川栄升は、東京の高田の馬場へ松栄館といふアパート、及び、旅館を開業して、安穏の日をおくり"

(1939(昭和14)年1月26日付横浜貿易新報より)


などの記事も出たりします。

しかしながら、上述のように横浜では戦後も更生劇やそのメンバーが影響を持ち続けていたわけですし、その後も、舞台や映画の世界で、市川栄升、森野五郎の両名ともが、かなり長い間、活躍を続けていたわけですから、いろいろありながらも、紆余曲折、山あり谷ありの役者人生をまっとうしたのだなという印象もまた強く感じるところです。


そんなこんなで、山岸さんの資料から思いがけず調査範囲が広がりましたが、戦後の横浜の歌舞伎の動向をふまえると、逆算するかのように戦前の更生劇のこともなんとなくわかってくるのが不思議で、それらも含めて、東京とは違う一種独特な個性を持った横浜演劇界の姿がぼんやりと理解でき始めてきたところです。

今回は大高調査に戻る予定が、またぞろ市川栄升といった歌舞伎寄りの話になりましたが、次回こそは大衆演劇の再調査に戻り、近江二郎周辺あたりのお話ができればと思います。


←前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
【こちら】

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。