(135) 市川小太夫と市川栄舛

終戦後、神奈川県歌舞伎連盟というのができたという話は、以前ここで書きました(→こちら)。

1951(昭和26)年6月のことです。

この連盟は市川小太夫が呼びかけたもののようですが、一方で、当初、連盟公演の広告に名前のあった市川栄舛が、まったく同じ日程で、弘明寺銀星座で「東京名題大歌舞伎公演」と銘打った興行をやっていて、この両者に何らかのトラブルがあったのではないかと、下衆の勘ぐりみたいなことも想像していたところです。

その後、栄舛の方は同じ座組でたびたび銀星座の舞台に立っていましたが、小太夫の方は横浜の劇場では、しばらく名前を見ることがなくなっていました。


それがその年の10月、ふたたび三吉劇場・市川小太夫劇団の「第二回公演」と銘打った興行が新聞で告知されるのです。4ヶ月ぶりの横浜興行ということになるのでしょうか。

1951(昭和26)年10月23日付神奈川新聞より

しかし不思議なことに、ここには「神奈川県歌舞伎連盟」の文字がまったく見られないのです。4ヶ月前の華々しい宣伝がなかったかのようです。ですが「第二回公演」とあることから、これが6月の「連盟結成第一回公演」の次の興行であることは間違いなさそうです。

もしかしたら、6月の結成公演をめぐるトラブルで連盟自体が頓挫してしまったのでしょうか。それ以降、神奈川の歌舞伎(小芝居)は小太夫一派と栄舛一派に分裂してしまったかのようにも見えます。

断続的に銀星座で興行していた栄舛一座には

市川女猿
尾上大助
片岡燕之助
坂東亀久之丞
市川蔦之助
沢村清枝
関花三郎

らの名前が連なり、一方の小太夫劇団には

沢村清之助
市川猿十郎
市川門三郎
市川秀猿

らが出演していて、主な役者は重複していません。少なくとも「連盟」として一体感のある状況のようには感じられません。

興行の世界ですから、感情の行き違いや思惑の差などでトラブルが起こるのはままあることでしょう。

一方で、時が経つと自然と手打ちになるのもよくある話で。

翌年、昭和27年の銀星座新春興行、市川栄舛大一座の広告には、小さいながら「市川小太夫劇団応援出演」と書かれているので、このあたりで和解が成立したのかな、と、これまた下衆の勘ぐりで思ったりもするのです。

1952(昭和27)年1月1日付神奈川新聞より

6月の「連盟結成公演」の際には、同じフォーマットの広告で「他の劇場には出演は致しません」と強い表現で、連盟との断絶を宣言していた同じ箇所に「応援出演」の文字が記されていることからも、そんな妄想が湧いてきてしまうわけです。

1951(昭和26)年6月1日付神奈川新聞より

それがきっかけになったのでしょうか。「応援出演」の出た後の銀星座では「市川栄舛大一座」ではなく、「新生歌舞伎公演」「市川女猿・尾上大助躍進劇」と銘打たれる形に変わっていきます。若手歌舞伎という印象ですから、栄舛が前面に出ずともいい状況になったのかな、なんて、またまた下衆の勘ぐりをしそうにもなります。

1952(昭和27)年1月16日付神奈川新聞より

1952(昭和27)年1月17日付神奈川新聞より

もっとも、市川小太夫劇団が三吉劇場で第二回公演を行なっていた時期、銀星座は10月13日から「浅間劇団」、21日からは「前沢稲子一座」の興行が続きました。栄舛一座が小太夫劇団に興行をぶつけるようなことはしていないわけで、そもそも確執のようなものは最初からなかったとも言えます。僕の推測はやはり勝手な妄想なのかもしれません。


さて、この件を調査する過程で興味深いことが3つ見つかりました。

ひとつめは昭和26年秋、銀星座で興行していた市川栄舛大一座が、突然、11月21日から八丁畷の「大成座」という劇場で興行を始めることです。

1951(昭和26)年11月20日付神奈川新聞より

八丁畷の劇場というのは初耳です。川崎も空襲の被害が甚大でしたから、中心部ではなく周縁に劇場ができていたのでしょうか。とはいえ、かなり唐突に新聞広告が出たので驚かされました。


もうひとつは、栄舛一座が八丁畷の劇場に出ていた頃、銀星座では「福島一男一座」が興行をしていたということです。

1951(昭和26)年11月20日付神奈川新聞より

実は、この名前には覚えがあります。杉田商店街の菓子店「菓子一」の相原一郎さんが書かれた本の中に、戦前の杉田で興行した旅まわりの一座として登場するのです(→こちら)。

東漸寺の海側にあった海苔干し場で興行していた福島一夫一座。字は異なりますが、同じエリアの話ですから、おそらく同じ人だと思われます。

戦前の杉田と戦後の弘明寺で、同じ劇団が興行していたのを思うと、なかなか感慨深いものがあります。


最後は上掲の「新生歌舞伎公演」の広告です。よく見ると、この中に「岩井小紫」と読めそうな役者の名前があるのです。


横浜における小紫については以前も検証しましたが(→こちら)、『越境する歌舞伎』で詳述されている小芝居(中芝居)の役者です。

同書によると初代岩井小紫は戦死し、

"昭和二十五〜二十六(1950〜51)年頃から、二代目岩井小紫(智子)を看板とする「岩井小紫劇団」の名を使うようになっていった" (P.112)

"昭和二十六年(一九五一)年、二代目小紫(智子)が結核を発症し、一時休業することになった" (P.113)

とのことです。

さらには、三代目小紫の襲名が「昭和二十七(一九五二)年頃から」(P.113)とありますから、上掲、昭和27年2月の銀星座の舞台に立ったのは三代目ということになるのでしょうか。

もしそうだとすると、襲名からまもない頃だと思われます。そんな時期に郷里を離れて横浜の舞台に立った事情はどういうものだったのだろうと、興味が湧いてくるところです。


そんなこんなで、毎度のごとく大高調査は思わぬところへ広がっていきますが、当然ながら大衆演劇だけでは横浜の演劇界の全体像は見えず、歌舞伎や新劇、アマチュア演劇も含めて調べ、俯瞰していくことが必須なのだということが、このところよくわかってきました。

そんなこんなで、今回は「神奈川県歌舞伎連盟」のその後、というべきお話。次回は近江二郎の周辺情報などについて書ければと思います。

※なお、諸事情により次回更新は6月5日といたします。


→つづく
(次回は6/5更新予定)

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(134) 杉田劇場の少年防犯劇

1951(昭和26)年11月末、杉田劇場で「少年防犯劇」なるものが上演されます。パッと見では前回の投稿にあったような公的なイベントのようにも思えますが、11月27日から30日まで、昼夜2回公演というのですから、かつての大高一座のルーティンのように、4日間続く事実上の「興行」にも思えます。

この公演、新聞の催し物欄のようなところに小さく掲載されたものではありますが、これまでの調査の流れからすると実に驚くべきものだったのです。


少年防犯劇の主催は「磯子区少年成人保護司会」で、区・警察署・福祉協議会・新生活運動会その他が後援したもの。これも前回書きましたが、杉田劇場のオーナー、高田菊弥は長く保護司を務めていたので、その関係で企画されたものかもしれません。

芝居のタイトルは少年防犯実演『少年の血は燃えている』、上演団体は「劇団新国民座」。

その出演者として列記されているのは

・寿山良海
・荒川仁作
・大江三郎
・瀬川銀潮
・沢田一郎
・深山一夫
・深山登
・中村一郎
・江川町子
・大友マリ子
・深山百合子

という顔ぶれです。

1951(昭和26)年11月27日付神奈川新聞より

なんと、ここには大高一座の支配人であった「大江三郎」の名前があるほか、近江二郎の妻で女優の「深山百合子」の名前もあります。また、戦前の日吉劇や戦後の銀星座・自由劇団で幹部俳優だった「荒川仁作」もいます。

さらには「寿山良海」という名前は大高一座から自由劇団に移った「寿山司郎」と同姓で、彼が’改名したもののようにも思えますし、「大友マリ子」も大高一座の「高杉マリ子」を連想させます(そもそも「高杉」は大高の前名)。おまけに百合子のほかに「深山」姓が2人いることから、この人たちは百合子の弟子、または近江一座の残党とも考えられます。

※「寿山良海」というのは、調べてみると明治40年に鶴見区生麦の龍泉寺の堂宇を再興した住職と同じ名前なのだけど、何か関係があるのかしらん?

こうした座員連名から推測できるのはこの「劇団新国民座」というのは、高田菊弥か大江三郎が大高一座や自由劇団、近江一座などの役者に声をかけて集めた劇団ではないかということです。

この芝居のために臨時に即席で作られた団体なのかもしれませんが、あたかも、戦前からの横浜の大衆演劇を牽引してきた日吉良太郎一座と近江二郎一座が、ここで奇跡的な合同公演をやっているかのようにも見えてきます。

その事実を見るに、杉田劇場はもちろん、大高一座の面々も演劇界を去ったわけではなかったことがわかって、なんとなくホッとするような、嬉しいような、不思議な気持ちにもなります。


ところで、戦後もこの頃になると実演は下火になって、映画が全盛を迎える、というのが一般的な定説ですが、一部の人にとって実演への夢は捨てきれないものがあったようで、この時期、井土ヶ谷に「百万弗劇場」ができたり、広告に突然「根岸劇場」(根岸橋)の名前が出てきたりします(いずれもまもなく映画館になってしまうようですが)

綱島では温泉場の健全化から「関東の宝塚」を目指したレジャーセンター構想みたいなものもあったようで、その中には「大衆バレエ劇場」なる大劇場をつくろうとしていたほどです。

1951(昭和26)年12月14日付神奈川新聞より


1952(昭和27)年1月7日付神奈川新聞より


1951(昭和26)年12月19日付神奈川新聞より

実演といえばストリップ一色になりつつある時代、かろうじて定期的な興行の内容がわかる銀星座では、剣劇や歌舞伎(小芝居)もまだまだ健闘しています(昭和27年11月までは興行が続いていたようです)

実演は斜陽というのは、結果としては事実だったとしても、当時の劇場建設の動向や興行主の心情を推し量ると、そんなに単純なものではなかったような気もしてきます(銀星座のあった弘明寺には後年、昭和29年に「梅沢劇場」が開場)


さて、本題の少年防犯劇に戻ります。

この芝居がどんな中身だったのかはわかりませんが、「防犯劇」というスタイルの芝居は、かつて銀星座の自由劇団が何度か上演しています(→こちら)。警察との提携で実際に起こった事件などを劇化し、防犯につなげようという一種の道徳劇みたいなものなのでしょう。荒廃した戦後の世相を反映しているようにも思えます。この少年防犯劇自体、もしかしたら自由劇団の防犯劇にヒントを得て上演されたのかもしれません。

振り返ってみれば、新聞小説や実際の事件を題材にするのは新派の常套でもあるので、いささか暴論ではありますが、この時期の「防犯劇」自体が新派の直系と言ってもいいような気すらします。

さらに言えば、高田菊弥はこうした公的事業の中で芝居を生かしていくことに実演の生きる道を見出していたのかもしれませんし、あわよくばこの劇団でもう一度かつての栄光を取り戻したいと考えていたんじゃないかとさえ思えてきます(妄想多め)。

戦前の近江二郎が、息巻いて「本来の新派」の復興を期していたことを思うと、少年防犯劇もそうした近江の目指す「新派」の伏流が、激動の戦後にあって顕現化したものだったのかもしれません(さらに妄想多め)。


その後、この劇団が継続したのかどうか、またそうだったとして、どういう方向に進んだのかは今のところ不明です。この先の調査でその痕跡が見つかるのかもしれません。

この芝居に出ていた深山百合子は昭和42年1月8日に亡くなりますが、晩年を知る方によれば、三味線を教えたりしていたものの、舞台に立っていたような話は聞いていないので、近江二郎亡き後、この杉田劇場での防犯劇が彼女にとっての最後の舞台になったのかもしれません。


小さな記事も丹念に拾っていくと、思いがけない情報に出くわすものです。

そんなこんなで、今回も戦後の杉田劇場についての話でした。



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(133) 昭和26年の杉田劇場

大高の周辺情報というには時期がずれ過ぎていますが、今回は久しぶりの旧杉田劇場ネタです。あまり新味はないものの、ひとまず。


1951(昭和26)年になると、杉田劇場の新聞広告はほぼ見られなくなります。従業員だった片山茂さんの証言ではすでに株式発行の頃(昭和23年8月)には経営が傾いていて、青息吐息だった様子が語られていますが、広告を見る限りでは昭和25年の秋まではある程度の頻度で興行が行われていたことがわかっています。


年が明けて、昭和26年の正月にはお馴染み、市川門三郎一座の初春興行がありましたから、劇場としてこれまで通りの新年を迎えていたようにも思えます。しかし、この年、広告らしい広告はこれが最後と言ってもいいくらいの状況になっていきます。

1950(昭和25)年12月31日付神奈川新聞より

市川門三郎一座に次いで、新聞紙上に杉田劇場の名前が登場するのは、昭和26年2月22日付の催し物欄で、屏風ヶ浦地区広報委員会による「市民の集い」のお知らせです。

1951(昭和26)年2月22日付神奈川新聞より

この「屏風ヶ浦地区広報委員会」については、現杉田劇場に所蔵されている写真の中に「発会式記念」と付記された一枚が残されています。日付は昭和24年5月20日で、杉田劇場のロビーで撮られたものです。最前列の左端に劇場オーナーの高田菊弥と思われる人物がいることから、その縁で杉田劇場が利用されたものと考えられます。

屏風ヶ浦地区弘報委員会発会式記念 24.5.20 杉田劇場
(現杉田劇場所蔵)

高田菊弥は磯子区で長く保護司を務めるなど、地域活動に積極的に関わっていたようで、おそらくその縁でしょう、その他の残された写真をよく見ると「赤十字奉仕団結成式」などの文字が確認できます。

日本赤十字磯子区屏風ヶ浦地区奉仕団結成式記念 25.1.19
(現杉田劇場所蔵)

さて、話は戻って、昭和26年。

この年の杉田劇場は、そのほかに「オール横浜総合芸能コンクール」(「市民芸能コンクール」という名称に変わっている)の予選会場としても利用されていましたし(10月6日)、コロムビアの「全国歌謡コンクール」の予選会場としても使われています(9月16日)。

1951(昭和26)年9月22日付神奈川新聞より

1951(昭和26)年9月15日付神奈川新聞より

こうした状況を見ると、民間劇場というよりは公的な事業の会場としての利用が多い印象で、公共施設の色合いが濃くなったようにも感じられますが、実際のところはよくわかりません。

旧杉田劇場の写真として最も知られている劇場正面を写したものは、拡大して「若月昇劇団」が来演したときのものだと判明していますが、この「若月昇劇団」についてはこれまで新聞広告にまったく出てきませんから、広告に出ない興行がまだ他にもあったのではないかというのが、僕の見立てです。

旧杉田劇場正面(現杉田劇場所蔵)

経営が傾いていたという片山さんの話が残っているわけですから、安定して興行が続いていたとは考えにくいところでもありますが、「広告が出ない=公演がない」というのもいささか短絡的で、近隣の銀星座や三吉劇場ですら、広告掲載の頻度は下がってきますから、むしろ掲載にかかる費用が値上がりして、広告出稿を見送っていたのではないかとも思えるのです。


さて、同じ昭和26年には、アマチュア劇団の葡萄座も公演を行なっています。4月14日(土)・15日(日)の二日間で、演目は菜川作太郎『闘鶏』、木下順二『彦市ばなし』、田中澄江『ほたるの歌』の三本。

1951(昭和26)年4月14日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログによれば、この葡萄座の公演記録によって、旧杉田劇場がこの時期まで存続していたことがわかると記されています(→こちら)。実際は上掲の通り、この年の9月と10月、2つのコンクール会場としても使われているので、少なくとも昭和26年秋までは劇場として存続していたと言えそうですし、「昭和27年」とキャプションのある浜中学校学芸会の写真もあるので、その頃までは継続していたのだと考えてもよさそうです(ただし、このキャプションが正確かどうかは未確認です)。

昭和27年 浜中学校学芸会@杉田劇場庭園「安寿と厨子王」
(現杉田劇場所蔵)


余談ですが、4月に杉田劇場で公演をした葡萄座は、同年9月にはオデヲン座で「創立五周年記念公演」を行います。「全横浜演劇フアン待望の新劇」「戦後始めてオデヲン座の舞台で本格的演劇公演」というキャッチコピーには、相当な力の入れようが感じられるところですし、「北林透馬氏特別解説講演」があったというのも、興味深いところです。

1951(昭和26)年9月3日付神奈川新聞より

北林透馬は戦前から横浜文化の中心人物のような人でしたが、戦後は一時期、磯子の間坂に住み、アテネ劇場の支配人をやっていたという話もあるので、その頃から劇作家の神谷量平氏ら地元の文化人との交流が生まれ、それを通じて葡萄座など市民文化団体との関わりを深めていたのかもしれません。


ちなみに戦前から長者町にあったオデヲン座は米軍に接収され「オクタゴン劇場」となっていたので、この広告にある「オデヲン座」は1947年、曙町に新設されたものです(その経緯は→こちら



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