野毛(花咲町)にある寄席「横浜にぎわい座」は、公募によって決まった名称ですが、伊勢佐木町(賑町)にあった劇場「賑座」に由来するとされています。「にぎわい座」は市の施設で、横浜市芸術文化振興財団が管理していますから、管理上も地理的にも「賑座」とは直接の縁はありません。
伊勢佐木町の「賑座」は市川荒二郎らの芝居に女性たちが熱狂したという「ハンケチ芝居」で名高い劇場ですが、その後、名称を「朝日座」と変え、さらに吉本興業の傘下となって「横浜花月劇場」となります。
横浜大空襲で大きな被害を受けた横浜花月劇場は、戦後、1946(昭和21)年11月26日、横浜グランド劇場という映画館として再出発することとなります。
横浜グランド劇場は、その後「横浜東映」さらに「伊勢佐木町東映」と名前を変え、2006年まで映画館としての営業を続けました。
僕の学生時代までは、馬車道には横浜宝塚劇場(横宝)の建物をそのまま使った市民ホールがあったし(現在は関内ホールに改築)、その斜向かいには横浜東宝会館がありました。伊勢佐木町・長者町にも松竹、日活、東映の映画館があって、映画を見るなら馬車道か伊勢佐木町というイメージの方が強かったように思います(横浜駅西口のムービルもあったけど)。
そう思うと、伊勢佐木町を中心とする戦前の劇場街の記憶は、戦後の復興を経て、1990年代あたりまでは継承されていたのかもしれません。残念ながら、今では街にそうした空気を感じることはありません。
さて、その横浜グランド劇場ですが、映画館として営業していたのが、1952(昭和27)年4月、突如、実演劇場へと転向したようで、その第一弾として鈴鳳劇・大江美智子一座の興行を始めます。
| 1952(昭和27)年4月1日付神奈川新聞より |
興行は2ヶ月続き、その間、大江美智子への取材記事が新聞に掲載されます。
| 1952(昭和27)年4月7日付神奈川新聞より |
この中で、浅草での女剣劇の凋落を引き合いに、一座の横浜公演を「横浜落ち」と揶揄する記者に対し
"下火になったのは邪道のストリップ劇場ですよ。正統の女剣劇には長い伝統があるし(中略)秋まで純粋な芝居が売りものだから、ますますひいき筋も増えています"
と息巻いています。かつての勢いを失いつつあったのは事実でしょうが、女剣劇を牽引してきたスターの心意気を感じる発言です。
この同じ記事の中に
"横浜グランド劇場が実演に転向したのを機会に"
とあることから、同劇場の実演転向が推定されるわけですが、杉田劇場や銀星座が閉場の危機を迎える頃、伊勢佐木町では実演劇場再興の動きがあったというのも皮肉なものです。
こうした事実からも「映画の流行が実演劇場の凋落を招いた」という図式は、少なくとも興行サイドの気運としては必ずしも当てはまっていないように感じるところです。むしろ、伊勢佐木町あたりでは映画館が林立したので、差別化のために実演を、という思惑もあったのではないかと思います。
とはいえ、結果としては実演の再興は実現せず、グランド劇場からして、2ヶ月後には映画館に戻ってしまうし、その他の劇場もほとんどがストリップや映画へ転向し、上述の通り、1990年代以降、2000年前後に軒並み閉場することとなります。
余談ですが、閉場した映画館はパチンコ店になったところが多いように感じます。ところが最近はパチンコ店も閉場し、跡地が店舗やマンションに建て替わっているようです。娯楽空間が一極集中しているのか、娯楽そのものが家庭内にとどまる形になってきているのか。劇場の栄枯盛衰を見ているだけでもいろんなことを考えさせられます。
さて、大江美智子は戦前、女剣劇三羽烏として、不二洋子・伏見澄子と並び称される大スターでしたが、前述の通り、戦後、苦境にあった女剣劇の中でもひとりスターの座を守り、昭和45年に引退するまでトップであり続けた人です。
上掲記事の中に
"昭和十四年の敷島座が横浜の初舞台"
とありますが、これは初代大江美智子の急逝に伴い、経験の浅い中、二代目を襲名にするにあたって、その前に(おそらく)経験を積むという意味合いで、敷島座に出演したことを指していると思われます。この時はまだ前名、大川美恵子の名前で出演しています。
| 1939(昭和14)年2月7日付横浜貿易新報より |
敷島座での経験を梃子に、この後、二代目襲名興行が続くわけです。
横浜出身の大江美智子ですから、大高よし男を調べ始めた当初から、大江美智子と大高よし男の関係についてはずっと検証し続けてきました。が、結論としては共演など、具体的な接点はない、というところに落ち着きます。
おそらく女剣劇を一手に引き受けていた籠寅の保良浅之助は、三羽烏のサポートとして、大江美智子には田中介二や海江田譲二や市川百々之助、不二洋子には近江二郎、伏見澄子には大高よし男、というような「割り振り」をしていたのではないかと推測しています。
その点からも大高よし男は近江二郎一座で力をつけた若手剣劇役者、という位置付けだったのではないかと思われ、近江二郎と大高の師弟関係を推測しているところです。
そんなこんなで、今回も余談のようなネタですが、昭和27年に実演転向した横浜グランド劇場での大江美智子一座についてのお話でした。
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