(99) 美空ひばりのデビュー再考・その2

美空ひばりが杉田劇場で幕間に唄っていたと話す澤村鐡之助は、1930(昭和5)年生まれだそうです。

上記リンク先(『歌舞伎俳優名鑑』)によれば「実家は横浜の青果商」となっていますが、『演劇界』(1997年1月号「星霜抄」)のインタビュー記事ではより詳しく「金沢八景」と書かれています(はっきりと八景出身とはなっていないけれど)。

ちなみに、昭和5年に湘南電気鉄道(黄金町〜浦賀間)が開通しているので、杉田と八景の往来はそれ以前よりずっと楽になっていたはずです。

鐡之助は幼少時に両親を亡くしたそうで

「おじとおばが私達姉弟の後見人になって、毎月の生活費をくれたのでしょう。母が存命中は畑がいっぱいあったのに、おばあさんが言いました。お松が死んだら何も無くなってしまった、って」

また彼の本名は北見良重といい、インタビューでは

「本家の北見は八つあった村の豪族で」

と述べています。

北見家は上大岡や港南台あたりの有名な旧家です(後述)。金沢文庫・八景では「泥亀(でいき)」という地名の由来でも知られる「永島家」が有名で、北見家については聞いたことがありません。今後、詳しく調査が必要な事項です。

「本家」とあることから、上大岡が本家で八景にあった分家の出身ということなのかもしれませんが、いずれにしても鐡之助の幼少期は金沢八景に住まいがあったということのようです。

「お寺の和尚さんのところで小坊主の修行もしたのですよ。竜源寺って真言宗です」

竜源寺は龍華寺のことです。もともと龍華寺だったのを、来訪した徳川家康に寺号を伝える際「りゅうげんじ」と言い間違えたことから龍源寺とも呼ばれていたようで、『新編武蔵風土記稿』にも「龍源寺」の項目でその旨が記載されています。金沢文庫で有名な称名寺に至る道沿いにいくつかある寺社のひとつです。

また役者を志すにあたって

「うちのそばに第六天という女の神様があって、そこへ私願をかけました。立派にこの道でやっていけるように」

とも話しています。「第六天」というのは『新編武蔵風土記稿』に「第六天社」と記載されたものだと考えられますが、調べると現在の「洲崎神社」のようで、これもまた龍華寺に隣接する神社ですから、どうやら鐡之助(北見良重)は洲崎村(金沢区洲崎町)の出身と言えそうです。

『新編武蔵風土記稿』より


そんな鐡之助が芝居に魅せられたのは

「小学校三年の時に、姉さんからお小づかいをもらって、お芝居を見に行ったの。初めは敷島座に入ったら剣劇をやっていて、いやだなァと思い、次に黄金座(こがねざ)に行くと『鏡山』をやっていて、さあたちまちとりこになっちゃった」

のがキッカケだそうです。前述の通り、すでに湘南電気鉄道が開通していますから、金沢八景から伊勢佐木町あたりへ行くのも容易だったはずで、劇場の位置からして黄金町(こがねちょう)駅で下車したのではないかと思います。

小学校3年生といえば8歳か9歳ですから、昭和13年か14年頃ということになります。大高よし男や近江二郎が敷島座に出た少し前、伏見澄子(昭和13年2月〜7月・昭和14年10月〜12月)、酒井淳之助(昭和14年2月〜6月)、巴玲子(昭和14年7月〜9月)などが興行をしていた時期に当たると考えられます。彼が見た「剣劇」というのはこうした一座だったのでしょう。

一方で「黄金座」というのはよくわかりません。その頃に歌舞伎をやっていたことからすると、横浜歌舞伎座か金美劇場だと思われますが、金美劇場が映画館から実演に移行するのは昭和16年10月ですから、時期的には横浜歌舞伎座とそこで公演を続けていた「更生劇」を指していると考えるのが妥当です(ちなみに横浜歌舞伎座は黄金町駅のすぐ近く)。

「二度目の時は一円持って行くと、横浜歌舞伎座の子供の値段(観劇料)が上がって四十五銭、往復の電車賃のほかにクリームコーヒーを飲んで、いくらか残りました」

ともあるので、やはり鐡之助は横浜歌舞伎座のことを「黄金座」と称しているのかもしれません。

横浜歌舞伎座だとすると、昭和13年6月からは日吉良太郎一座の連続興行が始まるので、鐡之助が剣劇や歌舞伎(更生劇)を見たのはその前、昭和12年の後半から13年の初旬と考えられそうです(このあたりも記事中にある役者名と演目を照合すればはっきりするかもしれません)。


さて、前述の通り、澤村鐡之助の本名は「北見良重」で、旧家北見家の人。横浜の北見家といえば、一般には上大岡の北見家が有名で、横浜市歴史博物館に収蔵されている古文書が『北見家文書』として出版もされています。

現在の北見家は、屋敷の一部を和風レンタルスペース「水車屋」として貸し出すなどの事業をやっておられるようですが、同サイトから同家の歴史をみれば、明治以降も数々の事業を展開していて、上大岡をはじめとする近隣の開発に大きく貢献していることがわかります。

地元民に馴染みの深いレジャー施設「赤い風船(現・アカフーパーク)」の創業も北見家です。


一方、このブログに関係することでいえば、戦後、銭湯「大見湯」を改装してできた「大見劇場」です。

実のところ、大見劇場のことはよくわかっていませんが、大見劇場(正確には大見湯)が美空ひばりのデビューしたところという話があるので、無視できません。

水車屋のサイトにある「先祖の事業」の中に「大見湯」の項目があって、それによれば劇場に改装したのは昭和20年で

「8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました。それによると終戦後、父親が復員して「美空楽団」を結成し、戦後最初に人前で美空和枝が歌ったのがこの「大見湯」だった様です」

とされています。

「おそらく当時横浜の市街地は空襲により焼け野原となって銭湯も焼け、住んでいた滝頭から一番近くにあって焼け残っていた銭湯がこの「大見湯」だったのでしょう。小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。その盛況ぶりもあり劇場に改装されたそうです」

ともありますが、磯子区は空襲の被害が小さかった地域なので、"焼け野原となって銭湯も焼け"というは誤解ではないかと思います。上大岡まで行かずとも、もっと近くに銭湯はあったはずです。

ですが、それはそれとして、ここでは大見湯で美空ひばりが唄い、それが初舞台とされていることに注目したいと思います。


ところで、その美空ひばりは、1948(昭和23)年6月1日から7日まで横浜国際劇場の「グランドショウ」に出演します。新聞広告には、はっきりと芸名の最終形「美空ひばり」が記録されていています。

1948(昭和23)年6月1日付神奈川新聞より


で、その折に取材を受けた記事が神奈川新聞に掲載されているのです。

1948(昭和23)年6月7日付神奈川新聞より

この記事は比較的有名なものですが、よく読んでみると「ひばりちゃんは商賣熱心だね」やら「大きくなつたらハダカレビューにでる?」など、まだ11歳になったばかりの少女になかなか失礼な質問もある上に、そもそも名前からして「青空ひばり」と書かれているのですから、かなりいい加減な記事という気もします。

一方のひばりも

「男は女の子を誘惑する魔物だつてお母さんがいつたわ」
「女の子だから年はいえないの」
「商賣じやないわ、藝術よ」

など大人顔負けの返答で、すでに大スターの片鱗がうかがえます。

実はこの記事では、ひばりのデビューについて

「八ツの時に南太田のお風呂屋で唄つたのが初舞台」

と書かれているのです。

「お風呂屋」というのはひばりデビューのキーワードで、上掲の「大見湯」のほか、アテネ劇場が銭湯を改装してできたという話(誤解)も、ここから出ているように思います(アテネ劇場の前身は日用品市場で間違いないと考えています→こちらを参照)。

記事が「上大岡のお風呂屋」なら大見湯で確定ですが、「南太田の」とあるのが悩ましいところです。「みなみおおた」と「かみおおおか」は、どことなく語感も字面も似ているので、上大岡を南太田と聞き違えたかのかもしれませんし、上述のとおり記事の精度からして取材メモの誤記なんていうのもありそうです。

いずれにしても記事中に「杉田劇場」の名前は出てこないので、ひばりの意識の中では銭湯で唄ったことが「デビュー」という感覚だったのかもしれません。ですが、銭湯で唄ったことを「デビュー」とはなかなか言い難いところで、やはり一応ちゃんとしたステージのある杉田劇場での歌唱を「デビュー」とする方が妥当な気はします。


なお、大見湯を改装した大見劇場については、これまでに3つの新聞広告を確認しています。

ひとつ目は杉田劇場や銀星座にも来演した「森野五郎一座」で、昭和21年6月5日から15日。森野五郎といえば澤村鐡之助が見たかもしれない横浜歌舞伎座の「更生劇」のメンバーで、広告にも「お馴(染?)深き」とあるように、横浜に所縁のある役者です。

1946(昭和21)年6月6日付神奈川新聞より

もうひとつはこれも杉田劇場に来演している松本榮三郎一座と元大都映画のスター・大岡怪童一座の共演。昭和21年6月29日から7月9日までの興行です。

1946(昭和21)年6月29日付神奈川新聞より

大都映画の怪優として、大山デブ子とのコンビでも人気の高かった大岡怪童ですが、戦後は映画に数本出たのみで、最期は1951(昭和26)年1月3日、秦野の劇場に出演中、心臓麻痺で亡くなったそうです。

そして三つ目が昭和21年10月23日の天勝大一座と10月25日の玉川勝太郎。

1946(昭和21)年10月23日付神奈川新聞より

初代松旭斎天勝は昭和19年に亡くなっているので、この天勝は二代目でしょう。玉川勝太郎も二代目。

この頃の大見劇場には結構な大物スターが来演していたことがわかります(大見劇場跡の現在は→こちら(中央の4階建てのビル))。


そんなこんなで、結局のところひばりのデビューについては謎が深まるばかりではありますが、仮に澤村鐡之助が上大岡の北見家の縁者だとすると、北見家の大見湯で唄ったひばりを、後日、鐡之助が杉田劇場で見たという、三者の不思議な縁を感じたりもします。

杉田に杉田劇場、磯子にアテネ劇場(映画館)、上大岡に大見劇場、弘明寺に銀星座と、終戦直後のこの地域(横浜南部)には大衆演劇の劇場や映画館が続々と誕生しており、そんな環境下で国民的歌手・美空ひばりの胎動が始まったのですね。


→つづく


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(98) 美空ひばりのデビュー再考・その1

美空ひばりの舞台デビューについては諸説あって、なかなか確定しないところでしたが、横浜の演劇研究家、小柴俊雄さんなどの精緻な調査で、ひとまず昭和21年4月10日の新聞広告をもって、この頃がデビューであろうというのが地元の郷土史家などの間で定説になっています(こちらの記事でも)。

1946(昭和21)年4月10日付神奈川新聞より

でも、ややこしい性格の僕には、それでも気になるところがいくつかあって、なかなか腑に落ちないので困ります。


気になる点の第一は、片山さんの証言にある、3月中旬にひばり親子が杉田劇場を訪れて出演交渉をしたという話です。

証言では「3月中旬から2週間、加藤和枝は「織帳の前」で唄った」とされ、それが大高一座の幕間ということになっていますが、大高一座の3月興行の記録がないのではっきりしません。残念ながら3月の杉田劇場の新聞広告は、松本榮三郎と坂本武の実演のほかは見当たらないので、それを確認する術がないのです…

1946(昭和21)年3月23日付読売新聞より

それにしたところで、上掲の広告のように3月23日には坂本武・松本榮三郎の公演が「上演中」となっているし、その前々日、3月21日の広告でも「上演中」となっているので、「3月中旬から2週間」大高一座の幕間で唄ったというのがどうにも腑に落ちないのです(3月21日の広告には「松竹大船スター坂本武実演」とあり、「松本榮三郎一座に加盟出演」となっているので、この時期に大高一座の興行があったとは考えにくい)。


そんな中、またぞろ『演劇界』のバックナンバーを調べていたら、1997年2月号に掲載されている「星霜抄」澤村鐵之助の項の第二回にこんなことが書かれていたのです。

"で、戦後二十歳くらいだったかしら、市川門三郎さんのところへ私顔を出して、何か(舞台へ)出してくれって頼んで(中略)門三郎さんは杉田劇場へ出ていて、お弓(どんどろ)や与三郎や朝顔をなさって(中略)美空ひばりがね、出ていたのよ。芝居と芝居の間にうす汚れたドレスを着て、『マリネラ』を唄っていたわ"

記憶にもとづく話ですから、はっきりしないところがありますが、ここに挙げられている演目、どんどろ(傾城阿波鳴門)、与三郎(与話情浮名横櫛)、朝顔(生写朝顔日記)の杉田劇場での門三郎一座による上演は、新聞広告に載っている限りで言えば

傾城阿波鳴門 昭和22年5月11日頃〜
与話情浮名横櫛 昭和21年6月1日〜
生写朝顔日記 昭和21年8月9日〜

が最初です。

仮に言及されている演目の時に美空ひばりが出たというなら、いずれの興行も記録のある大高一座でのデビュー(4月9日)よりずっと後になりますから、デビュー日の特定には大きな影響はありません(ちなみに唄っていたという『マリネラ』はこんな曲)。


澤村鐡之助は昭和5年生まれだそうなので、引用文にある「二十歳くらいだったかしら」をそのまま受け取れば昭和25年になりますが、杉田劇場はすでに斜陽で経営が苦しく、美空ひばりも全国的な知名度を得ていた頃なので、時期としてはもっと早いと考えられます。

鐡之助自身、学校を出て磯子区役所金沢出張所に勤めていた頃に門三郎のもとを訪ねたそうですから、昭和21年から22年くらいではないかと思われます。そもそも金沢区が磯子区から分区したのが昭和23年5月なので、それ以前であることは間違いありません。


引用文のうち「出ていたのよ。芝居と芝居の間に」が、誰の何の芝居を指しているのかがわからないので困ります。門三郎一座に顔を出した頃に大高一座の舞台に出ていたひばりを見た、とも受け取れますが、素直に文脈通りに読めば門三郎一座の芝居の間に出たとする方が自然です。

以前にも書いたように、1月から3月末までの広告のない時期に門三郎一座が杉田劇場に出ていた可能性は高いので、その時、ひばりが出ていた可能性も同時に高まります。


『演劇界』の記事は、前段に同じ内容で

"私は門三郎さん(のちの白蔵)の一座に顔を出して、何の役でもいいから出して下さいと頼んだのです。すると澤村長十郎さんが阿古屋をしていらして、誰か後見がいないかしら、ってあたしがやらされました"

とあります。これが鐵之助の門三郎一座との最初の関わりだというのです。

阿古屋』も昭和21年の門三郎一座の広告には出てきません。記憶にもとづく話とはいえ、自身の初舞台についてですから、さすがに演目を間違えるようなことはないと思います。

なので、1月から3月の間に、門三郎一座が杉田劇場で『阿古屋』を含む興行をしていたのではないかと推測されるのです。


その時に美空ひばりが出ていたとなると、片山さんの証言とは異なり、大高一座の幕間より前に、市川門三郎一座の幕間で唄ったというのが最初、という可能性も出てきます。


記事はこう続きます。

"後日ひばりが出世して、ご自分が『男の花道』(註:『女の花道』の誤りか?)をした時に、関三十郎の役に門三郎を呼びましたよ、えらいわよね"

つまり、美空ひばりは杉田劇場での市川門三郎への恩や義理を感じて、後年、自分の出演作に門三郎を呼んだというのです。

もっとも、ざっくりと調べてみた範囲では、美空ひばりが『男の花道』をやったという記録が見当たらないし、『女の花道』には関三十郎は出ないはずです。もしかしたら映画『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』に中村菊之丞役で出たことと取り違えているのかもしれません(『男の花道』『女の花道』でのひばりと門三郎の関係をご存知の方がいたらご教示ください)。

ちなみに、市川門三郎一座は杉田劇場で『男の花道』を上演しています。

1946(昭和21)年6月19日付神奈川新聞より

いずれにせよ(多少の誤解はあるにしても)ひばりが後年、門三郎と共演したのは、彼女が義理や恩を感じてのこと、と鐵之助は考えていたわけですから、時期の問題は別として、ひばりは門三郎一座の幕間でも舞台に立っていたと考えていいように思います。

(これまでの調査からすると、両者の接点として一番可能性の高いのは、昭和21年6月の市川門三郎一座の興行の際に、ひばりが幕間で舞台に出たということです。彼女の杉田劇場出演は3ヶ月続いたとされているので、4月から6月というのは時間的には符合します。ただし門三郎一座の新聞広告には加藤和枝の名前もミソラ楽団の名前もまったく出てこないのです)


美空ひばりの舞台デビューは昭和21年3月か4月の大高ヨシヲ一座の幕間、という地元で確定しつつある定説は、また少し揺らいできました。

「アテネ劇場でデビュー」という話は誤りが修正されつつありますが、一方で「大高ヨシヲ一座の幕間でデビュー」が事実として敷衍しつつあります。しかし、上の引用からして「市川門三郎一座の幕間でデビュー」の可能性も否定できなくなってきましたから、このあたりは地元の人間としてもう少し深掘りして調べてみたいところです。(→その2へ)



→つづく


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(97) 尾上芙雀と大高一座

インターネットで「日吉良太郎」を調べていて、歌舞伎役者の「尾上芙雀」に行き当たりました。「歌舞伎 on the web」というサイトの「歌舞伎俳優名鑑」に掲載されている情報です。

そこに掲載されている尾上芙雀の経歴は

"昭和17年日吉良太郎劇団に入団、昭和18年横浜歌舞伎座で初舞台を踏むが1年程で退団。昭和22年三代目市川門三郎(三代目白蔵)一座に入座、市川芳次郎を名乗る(以下略)"

となっています。

出てくる名前が日吉良太郎と市川門三郎ですから、この調査のど真ん中に関係しているではありませんか。この経歴、歌舞伎通の方々にはよく知られていることなのかもしれませんが、僕は寡聞にして知らなかったので驚きでした。


さて、芙雀は市川門三郎一座では「市川芳次郎」を名乗っていたとありますから、確認はそれほど困難ではなさそうです。

片山茂さんが現杉田劇場(横浜市磯子区民文化センター)に寄贈した資料の中に、門三郎一座に関するものが比較的多くあるからです(おそらくオーナー高田菊弥の遺品と思われます)。


まず、ロビーに掲出されている市川門三郎一座のプログラムを見ると、たしかに「市川芳次郎」の名前が確認できます。

市川門三郎一座プログラム(杉田劇場所蔵)

また、昭和22年に撮影されたとされる門三郎一座の集合写真にも「市川芳次郎」がいます。

市川門三郎劇団(杉田劇場所蔵)

この写真に対応する人名対照図が残されていて(おそらく片山さんが作成したもの)、芳次郎を特定することができるのです。

人名対照図(杉田劇場所蔵)


ところで、雑誌『演劇界』1978年2月号の「ここに役者あり」連載26で、その尾上芙雀が取り上げられ、インタビュー記事が掲載されているのです。

『演劇界』1978年2月号より

実はそこに驚くべきことが書かれていたのです。

上掲の経歴にある「昭和18年横浜歌舞伎座で初舞台を踏むが1年程で退団」ですが、こんなに短期間で辞めてしまった理由は、兵役のためだそうで

"北支に渡り、慰問隊へ入る。やがて脚気になって病院へ入り、終戦で現地除隊、昭和二十二年ごろ復員"

とのことです(後述の内容から昭和二十二年は不正確で、昭和二十一年には復員していたと思われます)。

復員後は

"横浜の芝居が懐かしく、かつての子役たちが横浜の杉田劇場で興行しているというので訪問、そこで誘われるままに役者に復帰"

したとあります。

杉田劇場で芝居をやっていることを聞いて訪問した、というケースが確かにあったのです(大高よし男も近江二郎の公演を知って杉田を訪れたのではないかと思っているので、心強い証言です)。

「かつての子役たち」というのは日吉良太郎一座にいた藤川麗子や生島波江のことでしょうか。「子役」というのが少し腑に落ちないところですが、もしかしたら、日吉一座にいた子役が大高一座にも参加していたのかもしれません(大高一座と日吉一座の座員の比較対照をもう一度やる必要がありそうです)。

いずれにしても芙雀はこのインタビューの中で、杉田劇場の専属劇団、つまり大高よし男一座で役者復帰し、戦後の舞台活動をスタートさせたと述べているのです。

しかも

"この一座が信州・長野県の、どこかの、なにかの慰問に買われて、トラック一台に道具、衣装とともに乗り込んで出発した。正確な日時・場所は例の得意わざで忘れたが(註:記事の冒頭で芙雀は「時、ところなど、こまかいことを忘れちゃう名人である」とある)、どこかの険しい山道でこのトラックが崖下へ転落した"

というのですから、なんと、昭和21年10月、大高よし男が事故死したあの巡業に、芙雀も同行していたのです!

"前後左右、怪我人が助けて!などと呼んでいる中で、奇跡的にひとり無傷無痛。あとは夜っぴて救護に走りまわった"

片山さんの証言の中には、大高の遺体をあばら屋のような火葬場に運んだら、管理人の老婆が出てきて、こんな目にあったというエピソードが書かれています。

"目をつむって本日の火葬のお願いをするが、この日暮時に来ても今日は駄目だ…と断わられる。同行の青年団の一行には、夜の公演もあるので帰ってもらう。また意を決して鬼婆の所に行き、何とかと頼むが一向に開き入れてもらえず、火葬は明日だとのことである。ならば、遺体を預かってもらえないかと頼むが全然聞き入れてくれない。再び、旅先きのことで遺体を連れて行く所がないことを話す。老婆は、「それなら遺体の側で伽をしろ!」と言われ、 仕方なく遺体に寄り添い一夜を明かすことになった"

ひょっとすると、この現場に芙雀もいたのかもしれません。あるいは怪我人が運び込まれた須原の清水医院にいたのかもしれません。「救護に走りまわった」というのですから、後者の方がありそうな気はします。いずれにしても、あの現場で、若き日の芙雀は交通事故の事後処理に奔走していたのです。

上述の通り、事故後の行動は正確にはわかりません。ですが、一座のメンバーだったのですから、少なくとも葬儀には参列していたはずです。

そこで、例の弘明寺の集合写真の登場となります。芙雀が写っているに違いありません。

もちろん当時の芙雀の写真と対照しなければ正確なところはわかりませんが、この写真のひとりひとりをじっくり見てみると…最後列中央やや左寄りの男性、それが芙雀ではないかと思われるのです(赤丸の人)。

大高よし男葬儀写真(杉田劇場所蔵)

赤丸の人物を拡大したもの

『歌舞伎俳優名鑑』(1973)より

どうでしょう? 間違いないと思うのだけど…

(まだ推定が多いものの、大江三郎、高田菊弥、中野かほる、尾上芙雀…と葬儀参列者の特定も徐々に進んできました)


さて、『演劇界』の記事はこう続きます。

"杉田劇場一座もこれで一頓挫。座主夫人の口ききで(中略)市川門三郎、後の白蔵の弟子になり吉右衛門劇団に出るようになる。昭和二十四年五月のことで、芳二郎の名をもらい、二十六年九月には名題となり市川おの江"

(少し時系列が曖昧ですが、芳二郎(正確には芳次郎)になったのは門三郎一座に参加したときです)

この文章で気になるのは、「座主夫人の口ききで」という一文です。座主夫人とは高田菊弥の妻、能恵子夫人のことでしょう。

本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、大高よし男が事故死した際、トラックには能恵子夫人も同乗していたと書かれています。劇場主の妻がなぜ巡業に同行していたのかがずっと腑に落ちないところでしたが、こういう記述を読むと、杉田劇場の経営(および大高一座のマネジメント)には能恵子夫人がかなりの手腕を発揮していたのではないかと思えてきます。能恵子夫人はもともと、なんらかの形で芸能界に関わっていた人なんじゃないかとすら思えます。

高田菊弥・能恵子夫妻(1972)

さて、以上のことから、尾上芙雀という人は

日吉良太郎一座→大高よし男一座→市川門三郎一座

というステップで歌舞伎役者へのキャリアを積んでいったということがわかりました。

経歴に大高一座が載らないのは少し残念な気はしますが、大高とともにいた期間はとても短かったのでしょう。それでも、あの事故のおかげで彼の記憶に残り、こうして記録されているのですから、手がかりのない中で調べている者にとっては、この証言は奇跡とも思えることです。

仮に大高が亡くなっていなければ、尾上芙雀(本名:笠原興一)は歌舞伎の道に進まず、そのまま大衆演劇の役者になっていたのかもしれないわけですから、つくづく運命というのはわからないものですね。


というわけで、今回は『演劇界』の記事から、歌舞伎役者の尾上芙雀が若い頃、大高一座に参加していたという、驚きのお話でした。


→つづく



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