(111) 藤村正夫、その後

劇団公演が終わって残務に追われていたため、今回もちょっと余録めいたお話です(スミマセン)。


大高亡き後、紆余曲折を重ねていた暁劇団は藤村正夫のもとで再起を図り、順調に公演を重ねていたことは前にも書きました(→こちら)。それが昭和23年の年末を最後にどういう事情か、藤村との関係が切れてしまったことも、ここでお知らせしたところです(→こちら)。


その後の藤村正夫がどうなったのかはわかりませんでしたが、意外なところでまたその名前を見ることになります。

昭和24年3月19日付の新聞に「河井劇団 大好評再上演」という広告が掲載されますが、ここに藤村の名前が出てくるのです。会場は「港映」。

1949(昭和24)年3月19日付神奈川新聞より

港映(こうえい)とは「港北映画劇場」の略称で、東横線妙蓮寺駅前にあった「菊名池」(いまも半分は残っていますが)のほとりに昭和21年10月開館した映画館です。もっとも、昭和30年代の明細地図では館の存在が確認できないので、旧杉田劇場同様、比較的短命の小屋だったと思われます。

どうやら港映は上掲の広告が出た時期に実演劇場への改装を進めていたらしく、その嚆矢が「河井劇団」だったのかもしれません。4月8日付の新聞広告では「設備完成の本舞台」という惹句が見られます。一般的に実演では入りが悪いので、客を呼びやすい映画館に改装、という流れが推測されがちですが、意外にもその逆の例もあったようですね(のちに「港映」は「妙蓮寺劇場」と改名し、市川門三郎一座の興行なども行なっています)。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

実はここに書かれている「河井劇団」というものがどういう存在なのか、さっぱりわかりません。この先の調査でわかってくることもあるかもしれませんが、いまのところは港映だけに突然現れた劇団という印象です(わかる方がいたらぜひ教えてください)。

劇団名の横に「横浜(?)歌舞伎直営の」という文言がありますが、この意味もよくわかりません。横浜大空襲で焼失するまで、日吉良太郎一座が根城にしていた劇場が「横浜歌舞伎座」ですから、その流れなのでしょうか。もしかしたらこれもまた銀星座の自由劇団のように日吉劇の残党による劇団だったのかもしれません。


余談になりますが、この日(4月8日)、港映の広告の隣には、横浜国際劇場の「松竹歌劇団」があり、その横には横浜オペラ館での星十郎の「新星座」公演が並んでいます。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

星十郎は『日本映画俳優全集』(キネマ旬報社刊)にも名前が掲載されている役者で、後年は映画やテレビドラマなどでも大活躍した人ですが、この時期、横浜オペラ館で頻繁に公演をしています。

なぜ横浜なのか、ずっと不思議に思っていましたが、戦前の新聞記事をひもとくと

「前名美崎重郎、甲府の生れ、十七歳の時日吉良太郎一座に初舞臺。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む」

とあることから、もともと日吉劇との縁があったために、戦後、横浜での舞台が多かったということなのかもしれません。

1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より

手元にある昭和12年の日吉良太郎一座のプログラムにはたしかに「美崎重朗」の名前があります(新聞記事では「重郎」とありますが、実際は「重朗」だったようです)。

星十郎は1917年、甲府生まれなので、17歳で日吉劇に入座したとすれば、単純計算で1934(昭和9)年ですから、1933年に日吉良太郎が横浜に進出する頃、役者の道に進んだということになります。甲信地方で絶大な人気があり「信州の団十郎」の異名をとった日吉良太郎に憧れて、青年時代の星十郎が劇団の門を叩いたと考えられそうです。


さて、話を戻すと、河井劇団に参加した藤村正夫は、どうやらこの劇団との関係も短命だったようで、同年6月29日初日の銀星座・自由劇団の広告に「巨星 藤村正夫」として名前が登場します。出戻りの出戻りみたいな感じで、藤村はこれ以降、再び自由劇団に参加することになるのです(ちなみにその横の「元老 渡辺実」も日吉劇の重鎮)。

1949(昭和24)年6月28日付神奈川新聞より

どうも藤村正夫という人は、ひとつ所に落ち着いて、というよりは、あちこちを渡り歩く性癖(?)がある役者だったのかもしれませんね。

それはそれとして、藤村正夫、星十郎、自由劇団…戦後まで続く影響を思うと、あらためて日吉良太郎一座の横浜演劇界での存在の大きさを感じるところでもあります。


そんなこんなで、今回もまたちょっと余談めいたお話でした。


→つづく
(次回は6/27更新予定)
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(110) 杉田劇場のロビー掲出資料

自分の劇団の公演が近いので、十分な調査時間が取れず、今回はちょっと余録みたいなお話。


現杉田劇場(横浜市磯子区民文化センター)のロビーには、片山茂さんから寄贈された資料が掲出されています。旧杉田劇場の舞台に美空ひばりが立った際のポスターなど、大変貴重なものです。しかし、以前、このブログで「大高の遺児」とされてきた写真が、実はまったくの誤解だったと書いたように(こちら)、掲出されている資料のキャプションにはいささかあやしいものがあります。

現杉田劇場も、開館からすでに20年を越えましたので、寄贈された当初(開館当時)の職員はおらず、キャプションの根拠となる証言(資料)や、そもそも誰がこれを書いたのかもよくわからないのだそうです。


その中で、ずっと気になっていたのは、杉田劇場が出した株券と一緒に展示されている市川門三郎一座のチラシ(?)です。

市川門三郎一座チラシ(寄贈:片山茂氏)

ここには演目と配役一覧と日程が書かれていますが、年号の記載がありません。いつのものだったのかがはっきりしなかったのです。

と、戦後の杉田劇場の新聞広告をずっと追いかけていたら、先日、ようやくこのチラシとの照合ができました。

これは昭和23年12月の「歳末特別興行」と題された公演のものだったのです。

1948(昭和23)年12月21日付神奈川新聞より

1948(昭和23)12月25日付神奈川新聞より


チラシには「御好評に依り 市川門三郎 日延べ」とだけありますが、12月25日の広告には演目も書かれています。逆に新聞では日延べの正確な日程がわかりませんでしたが、チラシにははっきりと

「廿四日 廿五日(二日間)」

と書かれています。


21日から23日までが本来の「歳末特別興行」、好評を受けて2日間の日延べをし、24日と25日に『重の井子別れ』『新皿屋敷』を上演したということのようです。

好評だったから大入袋が出て、それも一緒に展示されているということなのでしょうね。

ちなみにこの年、門三郎一座の日延べ興行の後は、12月26日〜29日が「湊川みさよ歌劇団」のグランドレビュー『吉田御殿』。30日は休館で、大晦日から市川雀之助一座の初春興行が始まります。


さて、ロビー掲出資料でもうひとつ気になっていたのは、杉田劇場の緞帳とそれを描いた間辺典夫氏の写真です(ご本人の寄贈)。

キャプションにもありますが、緞帳が完成・寄贈されたは昭和23年で、その際にこの写真を撮ったと伝わっています。

これも正確な時期を裏付ける証拠がなかなかありませんが、写真の右隅に演目の書かれたボードがわずかに見えるので、これを手がかりに調べてみれば撮影時期が判明しそうです。


そこで例によって新聞記事を追ってみたら、昭和25年1月13日付の神奈川新聞の「映画演劇情報欄」にこれと思われる演目があったのです。

そこに記載されていたのは

「肉欲」(新派)
「天保白浪」(剣劇)
「日本晴れ」(喜劇)

の3本(13日〜16日興行)。

杉田劇場のウェブサイトにも出ている上掲の写真では右端が切れていてよくわかりませんが、ロビーに掲出されている写真をよく見ると、その部分がはっきり写っています。

上記広告の演目で間違いなさそうですね。

しかし、これが緞帳寄贈の際に撮影された写真だとすると、時期は昭和25年1月ということになります。これまで「昭和23年」と書かれていたキャプションとは1年以上の誤差が出てしまいます。

もちろん寄贈時ではなく、後年に記念撮影したものとも考えられますが、これほかに正面からの緞帳写真もあることからして、寄贈時に同時に撮ったと考えるのが妥当かなという気はします(キャプションの修正が必要かもしれません)。

これらの資料は旧杉田劇場や大高よし男のことを調べる上で、重要な一次資料になりますから、これからも細かく調べていきたいところです。


そんなこんなで、今回は杉田劇場のロビー資料をめぐる、ちょっと余談めいたお話でした。



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(109) 大高は蒲田にいたのか?

「東京新聞・中日新聞記事データベース」で、過去記事が閲覧できるようになったので、横浜からでも名古屋圏の新聞が見られるようになったのと、都新聞が東京新聞になって以降の記事も確認できるようになりました。

(嬉しい)

もっとも名古屋については、情報のほとんどが『近代歌舞伎年表』の名古屋篇に収録されているので、新たな発見はありませんでしたし、大高よし男の記述も見つかりませんでした。

ただ、文字情報だけではなく、実際の記事や広告を見ることで、その公演の性格がわかることもあって、意義深いものはあります。今後、小さなネタを重ねて、いずれこの場で報告できればと思います。


一方の東京新聞ですが「都新聞」は新聞事業令により強制的に「國民新聞」と統合され、昭和17年10月から「東京新聞」となったので、都新聞の縮刷版やマイクロフィルムでは、それ以降のデータが閲覧できない状態でした。

大高よし男に限っていえば、昭和18年3月に浅草金龍館で、伏見澄子一座に加盟参加していることから、この広告や劇評を確認することが、調査の重要ポイントでしたが、横浜ではこれが閲覧できず、もどかしい思いをしていたところです(国会図書館に行けばいいだけの話なんですけどね…)。

データベースの閲覧ができたことで、新規の情報が得られると期待はしたものの、実際は既知の公演のいくつかの広告に「大高よし男」の名前を確認したことと、演目が判明したことくらいで、大高のプロフィールや活動内容に関わる新しい発見は、残念ながらありませんでした。


ところで、関東圏における大高調査の、最後の「未踏の地」だったのは、神奈川新聞で時折短文の記載があった蒲田「愛国劇場」です。ここはもともと映画館だったのが昭和17年7月1日から籠寅興行が経営する実演劇場となった小屋で、お隣の川崎大勝座、横浜の敷島座と並んで、籠寅の興行戦略上、京浜地区の重要拠点になっていたようです。実際、出演する役者の顔ぶれは、多くが大勝座、敷島座と重なっていて、近江二郎、伏見澄子など、大高と縁の深い座長もたびたび舞台に立っていました。

1942(昭和17)年6月25日付都新聞より

大高よし男は、昭和18年5月いっぱいまで京都三友劇場の舞台に立っていましたが、それ以降の消息がわからなくなります。これまでの調査で神奈川県内では足跡がまったく見つからない上に『近代歌舞伎年表』を精査しても、大阪・京都・名古屋のいずれの地にも彼の名前は登場しませんから、可能性としてもっともありそうなのは東京(浅草)ということになります。

しかしながら、もし浅草の舞台に立っていたなら、新聞を精読するなんていうことをせずとも、もう少し早く情報が掴めそうなものです。実際、東京新聞のデータベースから浅草の劇場を調べてみても、昭和18年初夏以降、大高の名前を確認することはできません。つまり京都の後、大高が浅草の劇場に出ていたとは考えにくいのです。

わかっている範囲での活動履歴から、彼が籠寅の所属俳優だったことは想像できますので、浅草以外と考えると、ありそうなのが蒲田。つまり上述の愛国劇場ということになります。そしてその愛国劇場の全貌を知る上で、期待すべきは東京新聞ということになるわけです。

もっとも、姉妹劇場ともいうべき大勝座や敷島座に大高の名前が出てこないことから、そもそもが愛国劇場も期待薄ではあるばかりか、蒲田は東京の中心部から離れているということで、内容は情報欄に載るだけで、広告はほぼ出ません。ハナから情報は限られています。

1944(昭和19)年3月1日付東京新聞より


そんなこんなで、結局、蒲田にも大高の名前を見つけることはできませんでした(経験上、もう一度見落としがないか確認した方がよさそうだけど)。やはり昭和18年6月以降に出征したという可能性が一番高そうです。


ただ、かすかな可能性があるとしたら、以下の新聞記事です。

1943(昭和18)年7月17日付東京新聞より

松竹が青年俳優を集めて合同公演をするというものです。

基本的には歌舞伎や新派の役者のことを想定しているのでしょうが、同年2月に松竹と籠寅が提携して「昭和演劇株式会社」を作っていることを思えば、大高のような役者がここに参加していたとしてもおかしくない気はします(ちょうど大高が三友劇場での公演を終えたすぐ後という時期でもあるし)

また、翌年1月にはこんな記事も出ます。

1944(昭和19)年1月27日付東京新聞より

昭和演劇(事実上「籠寅」)の所属劇団が一年を通じて移動演劇に注力するという内容です。ここにも大高が何らかの形で参加していそうな気がしてきます。

どうやら、この線を調べていくのが、次のステップになるのでしょうか。とはいえ、移動演劇については具体的な資料が少ないので難航しそうです。


そんなこともあって、戦前の調査は暗中模索で停滞しがち。この先ひとまずは、またしばらく戦後に戻って、暁劇団のその後を調べ、その中から大高の生前の姿を逆算していきたいと思います。

なお、愛国劇場の広告には「京浜出村駅前」とありますが、これは現在の京浜急行・京急蒲田と雑色の間にあった駅で、1945年戦災の影響で休止、1949年に廃止となったそうです。




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