(104) グロテスク劇場の内幕

近江二郎はアメリカ巡業から帰国して一年後の昭和7年夏「グロテスク劇場」というシリーズをスタートさせ、人気を博します。一時期は「グロの近江」とも言われ、近江一座の代名詞とも言われるシリーズだったようです。

このグロテスク劇場については、以前も書いたことがありましたが、メイエルホリドとの関係など頓珍漢なことを書いていて恥ずかしくなるばかりで、これがどんな意図で始まったのかなど、これまで詳細はよくわかっていませんでした。


先日、旧杉田劇場の総合プロデューサーというべき、鈴村義二の書いた『浅草昔話』(南北社事業部, 1964)という本を手に入れました。なんと、そこに「グロテスク劇場」の内幕が書かれていたのです。




それによると

"劇場の正面全体を、岩窟のこしらえにして、近江二郎一座に伴淳三郎、長田健が加入、映画から浅香新八郎、衣笠淳子特出、出し物は全部怪談劇で、グロテスク劇場と看板をあげて、昭和七年八月の公演劇場のフタをあけた。"(同書,p.65)

要するに怪談劇を「グロテスク劇場」と呼んでいただけのことらしいです。

1932(昭和7)年8月20日付都新聞より

もっともこの広告には伴淳三郎などの名前がないので、当初は近江一座だけの企画だったのかもしれません。その後、8月30日付の新聞に伴淳らが日活の争議を嫌ってグロテスク劇場に参加したという記事が出ます。

1932(昭和7)年8月30日付読売新聞より

鈴村によれば、前年の7月に大谷友三郎・遠山満・近江二郎・酒井淳之助を集めたお盆の興行が不入りだったことから、この怪談劇も期待薄で、興行主の木内興行部としては「まあやってみれば」という程度の思い入れだったそうです(それまで正月と盆は稼ぎ時だったのに、この頃から夏は海や山への旅行に客を取られてしまったということらしい)。

ただ、これまで調べた範囲では前年つまり昭和6年夏の近江二郎は、7月7日に帰国したばかりで、合同公演をやっているような記録がないので(むしろ凱旋公演のように近江二郎一座で興行している)、不入りだった興行とは、以下の広告にある昭和7年正月の合同公演(剣劇大合同)のことを指しているのかもしれません。

1931(昭和6)年12月29日付読売新聞より


さて、そんな期待薄だった「グロテスク劇場」ですが、これが予想外に当たって

"連日の大入り、八月一ヶ月だと、開場前に宣告されたのが、今度は劇場側からの頼みで、九月十月と打ち続け、相変わらずの大入り"(同書,p.66)

になったのだそうです(鈴村は木内興行の相談役だったようなので、グロテスク劇場は木内が公園劇場を借りて興行していたのだと思います)。

とはいっても、そもそもがそんなに入るとは思っていなかった興行なので、さすがにロングランとなると演目も底をつき、

"これまで客を引き寄せたのだから、大丈夫という事で、十一月に忠臣蔵通しをやった"(同書,p.66)

ということですから、行き当たりばったりというか、いい加減というか。

それが10月31日初日を告げるこの興行のようです。

1932(昭和7)年10月31日付都新聞より


"舞台稽古に一日休場して、大張り切りで初日をあけた。
序幕、二場目と進んで松の廊下、伴淳の師直、浅香の判官、
(中略)
判官が刀に手をかけようとしたが、腰に小刀がない、これを袖で見た茶坊主が、小刀を持って舞台へ飛んで出て
「判官殿」
と小刀を差し出す。ドッと客席は大笑い。それを引ったくって師直に斬りつける。その時師直の長袴を踏んづけていたので、逃げる師直は、舞台へつんのめる。客席は爆笑、爆笑"(同書)

 

というのだから、「今秋劇界震撼の帝王篇」などと大仰なキャッチコピーが書かれた立派な広告からは想像もできない、かなりハチャメチャな舞台だったようです。

こんなこともあってか、浅草での「グロテスク劇場」はこれで幕引きということになったようですが、近江一座は人気にあやかって、名古屋などの旅公演ではその後も「グロテスク劇場」の看板でしばらく興行を続けていたようです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第16巻(八木書店, 2022)より

ちなみに、鈴村によればこの『忠臣蔵』の

"失敗の爆笑が、ヒントになったのか、松竹爆笑隊が生れ、翌月笑いの王国と改めて常盤座に数年続演する全盛を築いた"(同書,p.67)

とのことだそうです。


ともあれ、このエピソードからも、鈴村義二と近江二郎はもともとかなり近い関係にあったことがわかります。旧知の仲といってもいいでしょう。本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、杉田劇場オーナーの高田菊弥が、戦前、浅草松竹座で役者の後援会長をやっていたと書かれていますが、鈴村義二と高田菊弥だけでなく、近江二郎も含めた三者は、浅草時代から何らかの関わりがあったと考えてもおかしくない気がします。

つまり、杉田劇場の開場直後、昭和21年1月下旬から、近江二郎一座が来演しているのは、単に近江二郎が横浜に住んでいて、人気があったからというだけではなく、鈴村や高田と昔からの関係があったからだと考えても間違いはない気がするのです。

そして、やはり大高よし男が杉田劇場の専属となった経緯にも、この三者の縁が絡んでいたという推測も、そんなに大きく的外れだとは言えない気もするのです。

さらには、何度も引用しているように、近江二郎の養女だった元子さんの手記にある

"二代目を名乗るべき人が交通事故で他界"(George Omi "FIFTH BORN SON"より)

という文言が、大高を指しているような気がしてならないのです。

→つづく


前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(103) 近江二郎の戦後

昭和23年11月16日に横浜国際劇場不二洋子一座公演の広告が出ます。ここに興味深い名前が登場するのです。

近江二郎です。

1948(昭和23)年11月16日付神奈川新聞より

印刷が不鮮明ではっきりしませんが、右に大きく書かれた「不二洋子一座」の下に、かすれた「近江二郎加盟」の文字を読み取ることができます。

戦時中、近江二郎はやはり「加盟」の立場で、不二洋子一座にしばしば参加していましたが、戦後もその流れは継続していたようです。

不二洋子一座が初めて横浜国際劇場に来演したのは前年の昭和22年9月26日で、二度目が同年12月17日。これが三度目の登場ということになります。

1947(昭和22)年9月27日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年12月2日付神奈川新聞より

ですが、最初の公演も二度目の公演も、近江二郎が参加していたかどうかはいまのところ不明です。


以前も書いたように、近江二郎の戦後の活動は

昭和21年
 1月 杉田劇場
 3月〜5月 銀星座(弘明寺)・杉田劇場
 7月〜8月 宝生座(名古屋)

昭和22年
 3月 堀田劇場(名古屋)
 5月 宝生座(名古屋)
 8月 観音劇場(名古屋)

がわかっています。断続的ながら精力的に活動している様子がわかります。

その後の調査で、不二洋子の評伝『夢まぼろし女剣劇』(森秀男著)に掲載されている、昭和23年2月の京都南座での不二洋子一座公演のパンフレットにも近江二郎の名前があることがわかりました(同書, P.181)。

森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房,1992/ P.181)より

となると、時期的に近い不二洋子の二度目の横浜国際劇場(昭和22年12月)にも近江二郎が参加していた可能性は否定できませんし、最初の来演である9月興行もスケジュール的にはあり得ない話ではなくなってきます。

『夢まぼろし女剣劇』によれば、戦後の不二洋子はライバルである大江美智子に比べると活躍の場が少なくなっていて、かつてあんなにも人気を誇った浅草に復帰するのも、昭和21年12月の松竹座からで、昭和20年2月以来、実に1年10ヶ月ぶりだったそうです。

不二洋子が浅草の舞台に復帰した昭和21年の年末、近江二郎がどこにいたのかははっきりしません。『松竹七十年史』の記録には、不二洋子一座に近江二郎の名前はありませんが、8月の宝生座(名古屋)と翌年3月の堀田劇場(同)までの間ですから、ここでも近江二郎が出演していた可能性もまた否定できません。

話が前後するので、時系列を整理するために、まず『夢まぼろし女剣劇』と『松竹七十年史』から、戦後、昭和24年までの不二洋子一座の公演をまとめてみます。

昭和21年
 12月 浅草・松竹座  
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座

昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座

となります。

ここに横浜での興行と近江二郎の足跡を加えてみると(※黒文字:近江二郎、赤文字:不二洋子、緑文字:不二洋子一座に近江二郎が参加)

昭和21年
 1月 横浜・杉田劇場
 3月〜5月 横浜・銀星座
 7月〜8月 名古屋・宝生座
 12月 浅草・松竹座
 
昭和22年
 3月 名古屋・堀田劇場
 5月 名古屋・宝生座
 8月 名古屋・観音劇場
 9月 横浜国際劇場
 12月 横浜国際劇場
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座
 11月 横浜国際劇場
 
昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座


こうして時系列で見ていくと、いささか強引かもしれませんが、昭和21年の浅草は別として、昭和22年の秋以降、近江二郎はずっと不二洋子一座に帯同していたと考えてもいいような気がしてきます。

妄想を逞しくすると、昭和22年9月、横浜国際劇場にやってきた不二洋子の楽屋を近江二郎が訪ね、久々の再会に意気投合して、そこからまた不二洋子一座に近江二郎が参加するようになった、というストーリーも成り立ちそうですが、あくまでも悪癖の妄想ということで…

ただ、昭和24年5月29日に近江二郎は急逝してしまいますから、上記、昭和24年11月の常盤座公演には近江二郎の姿はなかったわけで、両者の戦後の共演は短期間で終わってしまったということになります。


こうしてみると、いまのところ近江二郎の記録として残っている一番新しいものが、冒頭にあげた横浜国際劇場の広告になります(最後が横浜というのも、なんとなく妄想を掻き立てられるところですし、亡くなったのが、横浜大空襲と同じ日という事実にも運命的な何かを感じてしまうのは…やはり悪い癖のようです)。

戦前・戦中、大衆演劇の世界で剣劇や新派の一座をなし、人気を誇っていた役者たちが、戦後はワキに回るなどして映画や舞台で活躍していたことを思うと、近江二郎もあと10年生きていたら、いまでもスクリーンの中にその姿を見ることができたのかもしれません。運命とはいえ、残念でなりません。


そんなこんなで、ここまで調べてきて、ざっくりとではありますが、明治の末に川上音二郎や藤沢浅二郎の俳優学校を出た後から、昭和24年に亡くなるまで、大正時代の前半を除けば、近江二郎の足跡の全容がうっすらとわかってきました。大正時代に東京で新派の舞台に出ていた時期を精査すれば、近江二郎についてはある程度の年譜ができそうな気がします。

その精査の中で大高との接点、出会いの時期を確定することができればいいのですが、果たしてそううまくいくかどうか。やはり近江二郎の足跡という線も、大高調査の重要なポイントになりそうです。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(102) 市川雀之助のこと

前回の投稿で、昭和23年は杉田劇場にとっても横浜の興行界にとっても、変化の年だったと書きました。

これ以降、たびたび名前の出てくる「市川雀之助」が杉田劇場に登場したのもこの年で、新聞広告をたどると2月1日が初のお目見得のようです。

1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より

大高亡き後、杉田劇場は歌舞伎興行で起死回生をはかりますが、地域性や劇場規模などもあったのでしょうか、昭和22年いっぱいまでは歌舞伎を主軸としつつ、翌年になると大衆演劇の割合がぐっと増えてきます。方針転換が明らかです。

その第一弾というべき存在が「市川雀之助」なのです。

6月には「新生暁劇団」との合同公演も行なっていることから、劇場側としては雀之助を大高の後釜として考えていたのかもしれません。

1948(昭和23)年6月29日付神奈川新聞より

市川雀之助がどういう経緯で杉田劇場にやってきたのかはよくわかりません。普通に考えればプロデューサーの鈴村義二が目をつけて呼んだということなのでしょう。

この後、杉田劇場のプログラムに頻繁に名前が出ることからしても、その目論見は当たり、かなりな人気を博していたことがわかります。

杉田劇場が閉鎖された後は、後述の通り、横浜の小屋掛け芝居に出ていたようです。今につながる「大衆演劇」のはしりとも言っていい存在だったと思われます。


ところで、現杉田劇場の自主事業に「いそご文化資源発掘隊」というものがあります。講座や街あるきなど、地元の歴史や地理をネタにした人気シリーズです。

数年前の発掘隊で、旧杉田劇場についての座談会(トークショー)がありましたが、その際、雀之助の孫という方が新潟からわざわざ杉田劇場に来られ、貴重なお話をされました(幸運にも私もその場にいました。座談会の内容はアーカイブとしてウェブサイトに残されています→こちら)。

それによると雀之助はファン(追っかけ)の女性と結婚した後、福島〜新潟と転居し、お孫さんが1歳半くらいの頃に亡くなったそうです。しかしながら、資料は失われてしまったそうで、ご家族でも雀之助の経歴の詳細はよくわからないご様子でした。


そんな雀之助ですが、彼の名前は意外なところに登場します。

横浜演劇研究所が発行していた機関誌『よこはま演劇』No.4(昭和29年3月1日発行)に「庶民演劇の表情 −小屋掛芝居の現状と将来ー」と題した珍しい対談が掲載されているのですが、ここに出てくるのが「市川雀之助」なのです。

『横浜演劇研究所の30年 : 1952~1982』(横浜演劇研究所刊, 1982)より

『よこはま演劇』N0.4(1954)より

対談のメンバーは雀之助の他に、同座の幹部・松平長八郎と横浜演劇研究所の加藤衛所長という顔ぶれで、1953(昭和28)年12月26日、雀之助らの出演していた南座(南区にあった芝居小屋)の楽屋で行われたものです。

これによれば

"市川雀之助氏は新演舞座の座長であり、神奈川縣實演興行組合の副組合長を勤め"

ており、この実演興行組合というのは

"一昨年(引用者註:1951(昭和26)年)に出来、組合員は縣下で六百名程で。相互の連絡と当局との交渉が大きな仕事になっています"

とあります。

横浜演劇研究所の機関誌に、大衆演劇の記事が載るのはとても珍しいことで、おそらくこれが最初で最後だと思われますが、こういう企画が実現したのは、その年(1954(昭和29)年)の1月31日をもって、小屋掛芝居(仮設劇場)が禁止されるという事態を受けてのことのようです。記事をまとめた所員の神笠さんが強く推しての企画だと考えれられます。

余談ながら、神笠(神笠起康)さんとは直接お会いしたことはないものの、僕の友人の叔父(伯父?)でもあるので、しばしば名前を聞いていましたし、とても近いところにいた方ではあります。

神笠さんの本業は測量士で(僕の友人はその下で測量助手みたいな仕事をしていた)、記憶が正しければ事務所は吉野町にあったはずです。戦前からの横浜の大衆文化に詳しい方でもあり、三吉演芸場創立五十年記念誌『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)に「横浜の芝居・つれづれの記」を、また横浜市の『調査季報60号』特集/横浜の盛り場(1978年12月発行)に「盛り場であった伊勢佐木町-横浜盛り場小史」を寄稿しています。

横浜演劇研究所は主に戦後の新劇との関わりが強く、またアマチュア演劇の拠点としての活動をしていたわけですから、彼の存在はかなり異色だったと思われます。


『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)より

対談記事に戻ると、記事の後記に雀之助らが活動していた当時の、横浜の小屋掛芝居の劇場が列記されています。貴重な記録でもありますので、まずはここに引用して並べてみます。

三吉劇場(南、万世町二の三七)
南座(南、庚台)
友樂座(南、堀ノ内)
横浜劇場(西、浅間町)
戸部劇場(西、西戸部)
伊勢町劇場(西、伊勢町)
山元劇場(中、山元町)
ホームラン劇場(神、六角橋)
入江劇場(神、入江町)
佛向劇場(保、佛向町)
京浜座(鶴、末吉町)
市場劇場(鶴、市場町)
旭劇場(戸、旭町)
寿劇場(金、六浦町)

当然ながら、ほとんどが聞いたこともない芝居小屋で、所在地も含めかなり驚かされます。上述の通り、昭和29年1月31日をもって法令(建築基準法・消防法)によりこれらの劇場は三吉劇場(三吉演芸場)を除いてすべて閉鎖となったそうです(ただし、昭和31年の明細地図には浅間町の「横浜劇場」が掲載されているので、すべてが閉鎖というわけではなかったようです)。

神笠さんは、こうした大衆演劇の小屋が失われていくことを惜しみ、戦前からの大衆文化が一掃されるような風潮を懸念していたのだと思います。それがこの記事となったのでしょう。

またまた余談ではありますが、以前、横浜演劇研究所の事務所(福富町)から演劇資料室へ荷物を運ぶお手伝いをした際、資料の中に聞いたことのない名前の劇場図面(青写真)が数枚あったのを思い出しました。あれはきっと神笠さんが作成したものなのでしょう(資料室の未整理の段ボール箱のどこかに入っているはず)。


話を戻します。

この対談が行われたのは昭和28年の年末ですから、すでに杉田劇場は閉場となっていたはずです。残念ながら雀之助の発言の中に杉田劇場の名前は出ませんが

"大体、此ういう小屋(引用者註:仮設劇場)が建つたのは終戦後で、当時は何を演つてももうかりましたから何處でも素人が建てたんです(中略)小屋主にしても、野天で板囲いの頃はもうかり、金をかけて劇場らしく、屋根を造つた頃からもうけが薄くなり"

と言っているのは、いささか文脈が違うものの、杉田劇場や銀星座のような劇場が経営難で閉鎖されていったことも、多少は念頭にあったのかもしれません。

一方、雀之助自身や劇団については

"私と長八郎さんとは幼馴染なんで、それで二人で新国劇の島田辰巳の少し小規模なものをと話し合って一座をつくり"

"私は大体歌舞伎畑なんですが、あそこはノレンが無いと…"

"ですから種々な試みもしました。何人か楽士を入れてオペレッタもやりましたし、新舞踊を始めたのも横浜では私達が最初なんです"

など、興味深い発言をしています。

昭和23年、杉田劇場に登場した際、市川雀之助一座は「歌舞伎オペレッタ」を掲げていましたし、演目の中に「舞踊劇」もたびたび登場することから、この雀之助の発言は杉田劇場で興行していた頃の話だと思われます。

1948(昭和23)年4月20日付神奈川新聞より

さらに国会図書館のデジタルコレクションで検索してみると、雀之助のことが比較的詳しく書かれている雑誌記事が見つかりました(『新婦人』1961年6月号(文化実業社))。

それによると、市川雀之助は

"その昔浅草に宮戸座という芝居小屋があつたころ立ちまわりがうまいので人気のあつた市川市十郎の一座にいた二代目市川雀之助の息子で、十四の年に初舞台をふんでから約二十四年間、剣劇ひと筋に生きてきた男"

とあるので、上に引用した「私は大体歌舞伎畑なんですが」というのは、このことだと思われます。

1961年の段階で24年前が14歳ということは当時38歳。逆算すると1923(大正12)年頃の生まれということになります。旧杉田劇場に登場した時はまだ25歳くらいの若い座長だったわけですね。

別の本(『風流乗りあいバス : 浮世粋談寄せ書帖 酔筆名人集』(あまとりあ社編集部, 1956))では「居守うらない」という小文を雀之助自身が寄稿していて、内容からすると戦時中は出征し、南方戦線にいたようです。1923年生まれであれば、年齢的にもおかしくはありません。

『新婦人』に戻ると

"今年の正月(引用者註:1961年1月)、思いがけないチャンスから立ちまわりのうまさを買われて新宿コマ劇場の春日八郎ショウに特別出演。これが認められてこんど念願の常盤座出演がかなつたもの"

ともありますから、横浜での活動時期を終えてからの雀之助は、東京でもかなりな人気を得ていたようです(浅香光代一座などとも合同公演を行っています)。掲載されている写真からも、また記事の「大川橋蔵と川路竜子をまぜ合わせたような男つぷり」という一文からしても、いかにも人気の出そうな男前です。


さて、『よこはま演劇』では、対談の最後に加藤所長が自身のテリトリーでもある新劇について尋ねています。それに対して雀之助は

"もっと積極的に大衆に溶け込まなければどうしようも無いんぢゃないですか。大衆より偉い、大衆を引張つてやる、という態度が一番良くないと思います。新劇の人にはそういう点が共通していますね"

"以前「火山灰地」を観に行きましたがダラダラしてて退屈しましたよ。新劇の人はそれに自己満足しているんぢゃないですか。そういう陶酔感を少なくしてもう少し観せる芝居を演るようにしなければ…"

と答えていますが、加藤所長への言葉と考えると、なかなか遠慮のない辛辣な批判で、よく掲載したものだと驚かされます。

そんな対談の後記を、神笠さんはこんな指摘で締めくくります。

"(仮設劇場の閉鎖)の代償に、多くの人々が自分の家の近くの劇場を、芝居を、失つたのである。今はそれしかいうことが出来ない"

この時期、戦後復興の名のもとに、さまざまなものが急速に失われていったわけです。状況は違うものの、ここ数十年の横浜でも、スカイ劇場、電業会館、相鉄本多劇場、教育文化センター…と、なくなった劇場・会館は少なくなく、同じような傾向は、いまなお続いているような気もします。


そんなこんなで、今回は昭和23年に初登場した「市川雀之助」についての考察から、戦後横浜演劇などについても考えてみました。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。