(109) 大高は蒲田にいたのか?

「東京新聞・中日新聞記事データベース」で、過去記事が閲覧できるようになったので、横浜からでも名古屋圏の新聞が見られるようになったのと、都新聞が東京新聞になって以降の記事も確認できるようになりました。

(嬉しい)

もっとも名古屋については、情報のほとんどが『近代歌舞伎年表』の名古屋篇に収録されているので、新たな発見はありませんでしたし、大高よし男の記述も見つかりませんでした。

ただ、文字情報だけではなく、実際の記事や広告を見ることで、その公演の性格がわかることもあって、意義深いものはあります。今後、小さなネタを重ねて、いずれこの場で報告できればと思います。


一方の東京新聞ですが「都新聞」は新聞事業令により強制的に「國民新聞」と統合され、昭和17年10月から「東京新聞」となったので、都新聞の縮刷版やマイクロフィルムでは、それ以降のデータが閲覧できない状態でした。

大高よし男に限っていえば、昭和18年3月に浅草金龍館で、伏見澄子一座に加盟参加していることから、この広告や劇評を確認することが、調査の重要ポイントでしたが、横浜ではこれが閲覧できず、もどかしい思いをしていたところです(国会図書館に行けばいいだけの話なんですけどね…)。

データベースの閲覧ができたことで、新規の情報が得られると期待はしたものの、実際は既知の公演のいくつかの広告に「大高よし男」の名前を確認したことと、演目が判明したことくらいで、大高のプロフィールや活動内容に関わる新しい発見は、残念ながらありませんでした。


ところで、関東圏における大高調査の、最後の「未踏の地」だったのは、神奈川新聞で時折短文で紹介されていた蒲田「愛国劇場」です。ここはもともと映画館だったのが昭和17年7月1日から籠寅興行が経営する実演劇場となった小屋で、お隣の川崎大勝座、横浜の敷島座と並んで、籠寅の興行戦略上、京浜地区の重要拠点になっていたようです。実際、出演する役者の顔ぶれは、多くが大勝座、敷島座と重なっていて、近江二郎、伏見澄子など、大高と縁の深い座長もたびたび舞台に立っていました。

1942(昭和17)年6月25日付都新聞より

大高よし男は、昭和18年5月いっぱいまで京都三友劇場の舞台に立っていましたが、それ以降の消息がわからなくなります。これまでの調査で神奈川県内では足跡がまったく見つからない上に『近代歌舞伎年表』を精査しても、大阪・京都・名古屋のいずれの地にも彼の名前は登場しませんから、可能性としてもっともありそうなのは東京(浅草)ということになります。

しかしながら、もし浅草の舞台に立っていたなら、新聞を精読するなんていうことをせずとも、もう少し早く情報が掴めそうなものです。実際、東京新聞のデータベースから浅草の劇場を調べてみても、昭和18年初夏以降、大高の名前を確認することはできません。つまり京都の後、大高が浅草の劇場に出ていたとは考えにくいのです。

わかっている範囲での活動履歴から、彼が籠寅の所属俳優だったことは想像できますので、浅草以外と考えると、ありそうなのが蒲田。つまり上述の愛国劇場ということになります。そしてその愛国劇場の全貌を知る上で、期待すべきは東京新聞ということになるわけです。

もっとも、姉妹劇場ともいうべき大勝座や敷島座に大高の名前が出てこないことから、そもそもが愛国劇場も期待薄ではあるばかりか、蒲田は東京の中心部から離れているということで、内容は情報欄に載るだけで、広告はほぼ出ません。ハナから情報は限られています。

1944(昭和19)年3月1日付東京新聞より


そんなこんなで、結局、蒲田にも大高の名前を見つけることはできませんでした(経験上、もう一度見落としがないか確認した方がよさそうだけど)。やはり昭和18年6月以降に出征したという可能性が一番高そうです。


ただ、かすかな可能性があるとしたら、以下の新聞記事です。

1943(昭和18)年7月17日付東京新聞より

松竹が青年俳優を集めて合同公演をするというものです。

基本的には歌舞伎や新派の役者のことを想定しているのでしょうが、同年2月に松竹と籠寅が提携して「昭和演劇株式会社」を作っていることを思えば、大高のような役者がここに参加していたとしてもおかしくない気はします(ちょうど大高が三友劇場での公演を終えたすぐ後という時期でもあるし)

また、翌年1月にはこんな記事も出ます。

1944(昭和19)年1月27日付東京新聞より

昭和演劇(事実上「籠寅」)の所属劇団が一年を通じて移動演劇に注力するという内容です。ここにも大高が何らかの形で参加していそうな気がしてきます。

どうやら、この線を調べていくのが、次のステップになるのでしょうか。とはいえ、移動演劇については具体的な資料が少ないので難航しそうです。


そんなこともあって、戦前の調査は暗中模索で停滞しがち。この先ひとまずは、またしばらく戦後に戻って、暁劇団のその後を調べ、その中から大高の生前の姿を逆算していきたいと思います。

なお、愛国劇場の広告には「京浜出村駅前」とありますが、これは現在の京浜急行・京急蒲田と雑色の間にあった駅で、1945年戦災の影響で休止、1949年に廃止となったそうです。


→つづく
(次回は5/30更新予定)
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(108) 人間ポンプ、ふたたび

何かと話題の大阪万博にちなんでというわけではありませんが、今回は博覧会ネタ。


戦後の横浜では、戦災からの復興を期して、3ヶ月にわたる「日本貿易博覧会」が開催されました(1949(昭和24)年3月15日〜6月15日)

1949(昭和24)年3月16日付神奈川新聞より

会場は野毛山と神奈川(反町)の二カ所。

博覧会ですから、今でいうパビリオンがさまざまな展示を行っていたわけですが、そのほかに、野毛山には「野毛山ホール(小劇場)」「野外劇場」「水中レビュー館」、反町には「演芸館(芸能館)」などがあって、レビューやら見世物やらお化け屋敷やら素人芸能大会やら、連日盛りだくさんのイベントが行われていたそうです。

特に神奈川会場の演芸館は東宝の直営で、エノケン一座などの興行も行われました。1,500名収容といいますから、事実上の「大劇場」だったのでしょうね。

その建物はもともと土浦海軍航空隊の格納庫だったのを貿易博のために移築したのだとか。博覧会後は体育館となり、のちには横浜市民に馴染み深い「神奈川スケートリンク」として長く使われていました(2014年閉館・改築)。いまになって思い起こせば、なるほどスケートリンクにしてはちょっと変わった形状の屋根が印象的でした。


上掲のように、当然ながら当時の新聞では、貿易博が大きなニュースとして取り上げられていました。関連記事も連日掲載されましたが、その中にちょっと目をひくものがありました。

貿易博の各施設におけるイベント(余興)に参加する芸人・芸能人たちの座談会です。

1949(昭和24)年3月29日付神奈川新聞より

記事の見出しにもあるように、なんとこの中に「人間ポンプ」こと、あの有光伸男が夫人、マネージャーとともに登場するのです!

同上

同上


人間ポンプ・有光伸男といえば、以前にもこのブログに書きましたが(こちら)、1941(昭和16)年、伊勢佐木町・敷島座の9月興行に松園桃子一座が来演した際、幕間の舞台に出ていた人で、その時の松園一座には高杉弥太郎時代の大高よし男も参加していたので、大きな意味で言えば、大高と共演していたと言ってもいい異色の芸人です(昭和17年1月にも川崎大勝座で大高と共演→こちら)。

鉄の胃を持つ男として浅草はじめ、全国的に人気のあった芸人といえましょう。

1941(昭和16)年9月15日付神奈川県新聞より

人間ポンプ有光伸男
1941(昭和16)年8月25日付神奈川県新聞より

そんな有光が、戦禍を生き延び、ふたたび「人間ポンプ」として横浜の舞台に登場したというわけです。大高の共演者という意味でも、感慨深いものがあります。


さて、戦後のこの記事では、有光の紹介もなされますが、胃の謎については九州帝大で診察(研究調査)をしてもらったことなど、戦前の情報とほぼ同じもので、こんなことがマネージャーの井口一夫氏によって語られます。

"有光は胃の中でも甘い辛いがわかるのです 九州帝大で診てもらった結果、学問的に神経過敏症というのだそうですが、刃物なぞ呑んでも粘液が多く出てくるんでしまうのであぶなくないのです"(原文ママ)

有光本人によれば、こうした芸ができるようになったのは

"七ツ位からですが、親兄弟みんな食べたものは牛みたいに反すうすることが出来ます。子供の時からサーカスが好きで興業に身を投じたのですが、一時教員をやつていた母に勘当されたこともあつた"(原文ママ)

のだそうです。

さらには、このブログとの関わりの中で、興味深い発言もありました。

"戦時中は健全娯楽でないと軍に止められたので、関東では十年振りです"

10年ということは、大高と同じ舞台に立った昭和17年あたりを最後に関東の舞台からは遠ざかっていたということなのでしょうか。

当時は、戦争にともなう大衆の不満が軍に向かないよう、政府がしきりに娯楽を奨励していました。戦時中というと歌舞音曲の禁止、といったイメージですが、むしろ庶民の目を逸らすための娯楽が盛んに行われていたのです。

とはいえ、人間ポンプのような芸は「健全娯楽ではない」と断じられていたことがこの発言からわかります。剣劇なども制限を受けていましたが「健全」を誰が決めるのか、また「不健全」の基準がどこにあるのか、いずれもよくわからないところで、有光もずいぶん悩まされたのだろうと推察します。


発言の中に「関東では」という保留のある通り、『松竹七十年史』によれば、昭和18年8月・弁天座(大阪道頓堀)、昭和18年9月・松竹劇場(京都新京極)に人間ポンプの記録がありますので、関西方面ではまだ活躍の場があったようです。

地方都市での興行もあったのだろうと推測されますが、浅草や横浜の興行が禁じられたのですから、苦しい時代だったことでしょう。

(その後の調査で、昭和18年7月16日付の東京新聞「八月の大衆劇壇」の欄にも有光の名前がありましたが、「警視廳が許可すれば人間ポンプ有光伸男が加はる」とあることからも、彼の置かれた状況が垣間見えます)


ところで、戦後のインタビュー記事によると有光伸男は「非常に立派な体格をしている」のだそうです。対談に同席していた夫人は

"舞台が終つて鶴見の花月園に帰るときは坂道を私を背負つて帰つてくれますわよ"

と、惚気話のようなことも話しています。

上掲、昭和16年の新聞記事には、敷島座に来演した有光が「殊の外、横濱が好きになつて朝早くから市中の名勝を探つてゐる」とありますので、そんなのもあって鶴見の花月園あたりに居を構えたのでしょうか。

いずれにしても、大高がらみで注目していた有光伸男が横浜に再登場したというのは、身内でも関係者でもないのに、なんだかとても嬉しくなってしまいます。


さて、華々しく開幕した日本貿易博覧会ですが、収支でいうと大きな赤字で、その後の横浜市の財政をかなり苦しめる結果となったようです。

しかし、閉幕後、貿易博の施設が「野毛山動物園」や「野毛山プール」(2010年解体)、前述の「神奈川スケートリンク」(2014年閉館)など、数々の市民利用施設に転用されたことを思うと、長い目で見れば、横浜市民にとっては意味のある博覧会だったのかもしれません。

そういう記憶もすっかり薄れてしまいました…





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(107) 『今昔十二ヶ月』と近江二郎

暁劇団が素っ気ない名前の「杉田専属劇団」になった頃、昭和24年3月、劇団名や役者の名前なしに、演目だけが書かれた異色の新聞広告が出ます。

その前後にはそれまでと同じスタイルの広告が出ているので、これは単にスペースの問題で、同じ劇団つまり劇団新歌舞伎と杉田専属劇団の合同公演のものだと考えていいでしょう。

ここに記されているのは「名作アルバム 今昔十二ヵ月」という演目です。

昭和24年3月15日神奈川新聞より

1月から12月まで、各月にちなんだ名作舞台作品のさわりを連続上演するというプログラムで、「幕間ナシ 三時間半」とあることから、1作品およそ15分強を12本並べた形だったと思われます。

実はこの演目名、ちょっと珍しいので、見覚えがありました。

資料をひっくり返してみると、昭和17年7月に浅草の松竹座で上演された不二洋子一座の演目がこれと同じなのです(こちらは「名狂言抜粋 今昔十二月」となっていますが)。不二洋子一座の公演資料(新聞広告)をチェックしていたのは、そこに近江二郎が加盟出演していたからです。

昭和17年7月7日付都新聞より

大高一座(暁第一劇団)の支配人・大江三郎が、もともと近江二郎一座の文芸部員であったことは何度か書きました。上掲広告の、不二洋子一座の興行にも大江三郎がいたことは、ほぼ間違いないと思います。『今昔十二月』は二の替りで上演されたもので、その前、七月の御目見得興行では大江三郎の作品(『母子鳥』)も上演されています。ですから、不二洋子一座の七月興行には近江一座の文芸部員として大江三郎がいて、もちろん『今昔』の時もいたはずなのです。

そんなことからも、戦後、杉田専属劇団がこの作品を上演したのは、大江三郎の発案だったのかもしれません。鈴村義二が提案した可能性もありますが、大江三郎の方がこの作品のより近いところにいたわけですから。いずれにしても、戦前の浅草の不二洋子一座の演目が、終戦を挟んで杉田劇場に登場したのが、昭和24年3月の興行なのです。


杉田劇場での『今昔十二ヶ月』の演目は以下の通りです。

1月 『三河万才』
2月 『三人吉三』
3月 『恋の皿屋敷』
4月 『金比羅代参』
5月 『不如帰』
6月 『白浪五人男』
7月 『白虎隊』
8月 『忠治赤城の月』
9月 『■小袖』(晴小袖か?)
10月 『鈴ヶ森』
11月 『秋の踊り』
12月 『清水一角』


一方、戦前の不二洋子一座の方では

1月 所作事『羽根の禿』
2月 湯島の梅『婦系図』
3月 尊王櫻『児島高徳』
4月 不如帰『逗子の海岸』
5月 富士の五月雨『曽我兄弟』
6月 乱舞の牡丹『連獅子』
7月 ■原の夏『乃木将軍』
8月 月の五條橋『辨慶と牛若丸』
9月 悲愴飯盛山『白虎隊』
10月 赤城の紅葉『國定忠治』
11月 青柳硯『小野道風』
12月 雪の曙『清水一角』

重なる演目は『不如帰』『白虎隊』『国定忠治』『清水一角』の4本。さすがに、まったく同じものはできなかったのでしょう。座組の関係はもちろん、版権への配慮などもあったのかもしれません。

杉田劇場の広告には、不二洋子一座にあった「秋元六通 構成脚色」の文言がありません。月毎に名作のさわりを上演するというアイデアだけをもらって、中身は大江三郎が構成したということなのでしょうか。

余談ではありますが、この秋元六通という人、調べてみたら、不二洋子一座の文芸部員・高梨康之のペンネームという記録が出てきました(『著作権者名簿』昭和42年度版, p.391)。ということは、この作品は不二洋子一座のオリジナル作品と言っていいのでしょう。いずれにしても大江三郎にとっては戦前の浅草の、思い出の作品だったと思われます。


ところで、少し前に近江二郎の実弟・近江資朗のご家族からお話を聞いた際、保管されていた写真をお借りしたことがありました。すべてデータ化させてもらいましたが、その中にいくつかの舞台写真があったのです。

それがなんの舞台なのか、わからないものも多くありましたが、今回の調査の中で、改めてその写真を見返してみたら、舞台写真の大半が不二洋子一座の『今昔十二月』のものだとわかりました。

当時の新聞に載った劇評や配役表と写真を対比すると、さらにいろいろなことがわかってきます。

配役一覧:1942(昭和17)年7月10日付都新聞より


というわけで、近江資朗旧蔵写真から。

まず最初に一番わかりやすいのはこれでしょう。


いうまでもなく、10月の『國定忠治』の舞台写真です。

配役を見ると忠治は田中介二。後掲の劇評にも"田中介二の国定忠治の「赤城の山も今宵限り」は余りに気張りすぎて、これは見る方が面映ゆい位"と書かれていましたから、ここに写っている忠治は田中介二で間違いないでしょう。評の通りかなり気合の入った様子が見て取れます。


次にわかりやすいのはこれです。


8月の『辨慶と牛若丸』。これも配役を見ると、弁慶が不二洋子で牛若丸が不二時子。姉妹共演の舞台写真です。


これも比較的わかりやすいもので


4月の『不如帰』です。配役は川島武男が田谷耕一、浪子が中村扇子。


続いてわかりやすいのは

11月の『小野道風』です(『小野道風青柳硯』)。小野道風は濱原義明。


つづいてこちらは


5月の『曽我兄弟』。五郎が澤井五郎、十郎が大島伸也とあります。


この先はちょっとわかりにくいところです。


舞台装置などからして7月の『乃木将軍』だと思われますが、不勉強ではっきりはわかりません。配役を見ると乃木将軍は近江二郎。


そしてこれは、広告で「乱舞の牡丹『連獅子』」とあるものだと思われますが(背景幕も牡丹)、どうも連獅子のようには見えません。劇評を読んでみると、そちらには「勢獅子」と書かれていて、ようやく腑に落ちました。

中央、獅子頭を持っているのが不二洋子、その左が河村陽子。

と、以上が近江資朗旧蔵写真のうち、不二洋子一座の『今昔十二月』と思われる舞台写真です。


さて、この『今昔十二月』公演については、都新聞に写真入りで比較的長い劇評が掲載されています。

1942(昭和17)年7月16日付都新聞より

実は上掲の五條橋(弁慶と牛若丸)の写真は、新聞の劇評の中に掲載されている写真とまったく同じなのです(対比してみました)。やはりここに挙げた写真は『今昔十二ヵ月』の舞台写真で間違いなさそうです。

左:都新聞/右:近江資朗旧蔵写真

新聞社が撮って劇団員に焼き増ししたのか、劇団側が撮って新聞社に提供したのか。あるいはブロマイドや絵葉書として販売していたものなのか。いずれにしても近江資朗家に長く保管されていた当時の貴重な舞台写真です。


さて、この劇評にはこれらがどんな上演だったのか書かれています。

"歌舞伎、新派、舞踊等の一般に馴染深い場面を月々に因んで並べたもので、要はレビューのヴァラエテイみたいなものだが、ヴァラエテイにしてはそのツナギが暗輾の一點張りの上に、終始変らぬ黒バックに、切出しを押出しての舞薹構成"

だったそうで、

"気が変らず、せめて時には廻舞薹くらい使って、気の利いた輾換ができなかつたかと思ふ"

となかなか手厳しいものの、舞台の様子はよくわかります。大黒幕に書き割りなどのシンプルな舞台装置を出し入れして、舞台転換をしていたようです。

杉田劇場でも同じようなスタイルで上演していたのかもしれませんね。


ところで、これらの写真が一部変色しているのは、昭和30年代に近江資朗の井土ヶ谷の家が火事になった際に焦げてしまったものだそうで、それでもよく残してくださったのはありがたい限り。実はまだほかにも何枚かあったらしいのですが、『四谷怪談』などはあまりにも気味が悪くて処分してしまったのだとか。おそらく近江二郎一座の「グロテスク劇場」時代のものでしょうから、ちょっと惜しい気はします。

とはいえ、これだけの写真が残っていると、これまで確認できていなかった役者たちの姿もよくわかって、当時の舞台が一層身近に感じられるところです。


そんなこんなで、今回は戦後、杉田劇場で上演された『今昔十二ヵ月』から、戦前の不二洋子一座の舞台につながるエピソードでした。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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