(81) 川上好子のこと

大高よし男の経歴を探るにあたって、近江二郎との関係が鍵になると思っているところですが、昭和14年以前の手がかりが見つからず難航は続いています。

そんなこんなで、今回も周辺情報から。

昭和16年4月23日から神奈川県新聞で「横濱に住む俳優群を語る(横濱演劇懇話會調)」という連載が始まります。

1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より


ここで取り上げられている俳優は以下の方々です(掲載順)。

市川団之助
市川升紅
石原美津男
市川新升
市川荒右衛門
市川茂々市
市川三蔵
大谷門二郎
澤村清之助
市川莚蔦
澤村訥美太郎
中村芝梅
市川島蔵(?)
市川蔦之助
市川荒子
市川筆之助
佐久間實
澤村訥紀十郎
■川君之助
林重四郎
北島晋也
牧野映二
生島波江
藤代朝子
岡田梅男
小金井秀夫
水の江城子
※川上好子
曾我廼家明石
五月信夫
静間■
嵐傳五郎
嵐ひろ子
市川コズエ
橋本梅蔵
中島三浦右衛門
佐藤幾之助
佐藤新十郎
荒井信夫
尾上梅代
三島啓介
松井幾人
松岡壽美子
中川清
青木俊二
池田富雄
市川三之助
佐上善行
澤村清枝
大江美智子
藤原かつみ
伊藤三千三
吾妻千恵子
大江美加(?)子
星十郎
関谷妙子
★近江二郎
★深山百合子
★衣川素子
勝川三次
★戸田史郎
尾上羽多丸
松本米世
青柳早苗
三井一枝
久松勝代


この中には当時、すでに引退している俳優もいますが、昭和16年の段階でこれだけの役者が横浜に住んでいたというのは驚きです(この中には日吉良太郎や花柳愛子が含まれていませんし、当時の日吉劇メンバーも入っていないので、実態としてはもっと多くなるはずです)。


それぞれの方の経歴も演劇史的には興味深いものばかりですが、それはいずれ別にまとめるとして、やはり気になるのはこの中に「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前がないことです。

戦前、戦中、戦後と、大高がどこに住んでいたのかはまったく不明です。戦後はさすがに杉田や弘明寺あたりにいただろうとは想像できますが、それ以前については手がかりがありません。

ただ、上記の記事に彼の名前がないことからすると、大高は横浜に住んでいなかったか、少なくともこの記事をまとめた小林勝之丞を含む横濱演劇懇話會のメンバーは、大高を「横浜の俳優」とは認識していなかったのだと考えていいでしょう。近江二郎や妻・深山百合子、子・衣川素子、弟・戸田史郎が載っているのですから(★印)、大高が近江二郎のように横浜在住の役者だと思われていたとしたら、ここに載っていておかしくないはずです。

(もっとも、この記事自体、戸田史郎の本名を「笠川四郎」としている点など(実際は「近江資朗」)、誤りも多そうなので、資料としての信憑性には若干の疑義があります)


前回の投稿でも言及しましたが、ここには「川上好子」が掲載されています(※印)。川上好子という名前は昭和10年の「復興博の女神」コンテストで7位に入選した日吉劇の女優として、また昭和15年に近江二郎一座と共演している(つまり大高と共演している)一座の座長として記録がありますが、この両者が同一人物なのかはよくわかりませんでした。


ですが、復興博の女神コンテストの翌年、昭和11年1月に横浜貿易新報に掲載された「熱と力の俳優『日吉』を語る」という座談会記事の中で

北林(透馬)「『男は泣かぬ』に出てゐる、川上好子、あれは巧いですね」
小林(勝之丞)「横濱で生れた優です」

と言及されていることから、川上好子はもともと日吉一座にいたのが、独立して女剣劇の一座を成したのだと考えて間違いなさそうです。

1935(昭和10)年1月23日付横浜貿易新報より


大高一座に参加していた生島波江も同じような経過をたどっているように思われますが、全国的な知名度の上では川上好子の方がはるかに上だったようで、以前にも紹介した通り、木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)に人気の女剣劇座長として写真が掲載されています。復興博の女神に入選した昭和10年から、昭和15年までの間に川上好子は日吉劇から独立したのでしょう。

昭和15年に敷島座で近江一座と共演した川上は、その後もしばらくは近江一座と行動を共にしています。大高の足跡は近江一座だけでなく、川上一座に刻まれている可能性も否定できません。その前後の川上好子の動向を調べることも、手がかりになりそうです。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(80) 復興博の女神

関東大震災からの復興をアピールする目的で、昭和10年3月26日から5月24日まで、山下公園を中心に「復興記念横浜大博覧会」という催しが開かれます。

これに先駆けて新聞社の「横浜貿易新報」が「復興博の女神」という、ミスコンみたいなことをやったそうです。そのことは小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』に書かれていたので、以前から情報としては知っていました。


先日、図書館で当時の新聞を閲覧してみたところ、これが想像以上に大きな扱いで(自社が主催しているのだから当然ですが)、しかも連日、過熱報道と言えるほどの記事が並んでいて、かなり驚かされました。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より

このコンテストは新聞に投票用紙が掲載されていて、読者がこれぞという女性に投票し、1ヶ月間の得票数で順位が決まるというものでした。ですから、審査員が1位を決めるようなミスコンとはちょっと毛色が異なり、人気投票のようなものだったのでしょう。対象も一般人ではなく、芸妓やカフェの女給などだったようです(いまと違って一般女性がそういう対象になるという概念がなかったのでしょうね)。

昭和10(1935)年2月26日付横浜貿易新報より
(投票用紙の横にいま朝ドラで話題の「明治大学女子部」の広告がある)

復興博の女神に選ばれると

  • 当選者30名を「復興博女神」として、横浜貿易新報社特製の帯留を贈呈
  • 1位〜5位には訪問着を贈呈
  • 当選者30名を新聞1ページのグラビアで紹介する
  • 復興博期間中に開催する「商工祭」の仮装行列で花車を作る

という特典があったそうです。賞品云々というより、新聞に写真が掲載されたり、仮装行列に出たりと、選ばれた人たちからすれば自分自身や店の宣伝の方が目的だったことでしょう。


演劇研究家である小柴さんがこれを取り上げている理由は、「復興博の女神」で第1位になったのが日吉劇の看板女優「花柳愛子」だったからです。

花柳愛子は座長・日吉良太郎の妻でもあり、コンテストにおいては日吉一座がかなり強力にバックアップ、というか組織票の取りまとめみたいなことをやったような気がします。そもそも女優が選ばれること自体、顔ぶれの中ではかなり異色だし、当初低迷していた花柳愛子の順位が急激に上がってくるのも、不自然と言えば不自然な感じがするところです。

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より

昭和10(1935)年3月27日付横浜貿易新報より


とはいえ、そもそもが人気投票という性格のものですから、組織票ではあってもそれだけの票を集めることが人気の証しなのでしょうし、これが日吉一座としては絶好の宣伝機会になったことでしょう。こういうものに目をつけるあたり、日吉良太郎の興行師としてのしたたかな戦略を感じさせます。

ともあれ日吉劇の看板女優はめでたく第1位を獲得したわけで、開票の翌日には日吉良太郎と敷島座(当時の日吉劇の拠点)の連名で当選御礼の広告が出ています。

昭和10(1935)年3月28日付横浜貿易新報より


実は、大高よし男を調べている僕としては、花柳愛子もさることながら、同時入選している「川上好子」の方が気になるのです(日吉劇団からは二人の女優が選ばれた)。

というのも、大高よし男が高杉弥太郎として近江一座とともに横浜敷島座に登場した時の座組が、酒井淳之助一座に近江二郎一座と川上好子一座が特別加盟した合同公演という形だったからです。

昭和15(1940)年3月7日付横浜貿易新報より

この時の川上好子と日吉劇にいた川上好子が同一人物なのか、はっきりしませんが、別の記事には「横浜の名花」と形容されていますし、さらに後年の記事では横浜在住の俳優として紹介されているので、川上好子はもともと日吉劇にいたのが、独立して一座を成したと考えるのが妥当な気はします(この時は「籠寅演芸部専属」となっています)。

昭和16(1941)年4月26日付神奈川県新聞より

同じ舞台で共演していることからして、当然、川上と大高は知り合いだったと考えられます。川上好子が日吉劇にいたとすれば、戦後の大高一座に日吉劇のメンバー(藤川麗子・生島波江・壽山司郎)が参加した経緯に、川上の存在が何らかの形で影響したのかもしれません。

そんなことも含めて、川上好子の詳しいプロフィールや、大高よし男との関わりについても、もう少し深く調べてみる必要がありそうです。


余談ですが、復興博の女神・花柳愛子は本名を「北村きく」といい(日吉良太郎の本名は北村喜七)、1985年、横浜市中区役所が『中区史』を発刊する際、彼女は資料提供や聞き取り調査で協力をしていました。

『中区史』より資料提供者リスト(一部)


『中区史』には花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されているほか、日吉一座が拠点としていた横浜歌舞伎座の写真も載っています。

『中区史』より横浜歌舞伎座

掲載されている横浜歌舞伎座の写真をよく見ると、入口の看板には

「兄妹の心」
「何が彼女を殺した?」
「血達磨伝令兵」

の三演目が掲げられていて、これを小柴さんのまとめた資料(『郷土よこはま』No.115)と照らし合わせると、撮影されたのは、日吉一座が横浜歌舞伎座に初お目見得して数ヶ月後、昭和13年10月7日から13日の間だとわかりました。

写真の奥には劇場前に自転車が並んでいるのが写っています。また、その前の壁面には「演劇報国」という字が大きく書かれているように見えます。「演劇報国」は日吉一座のモットーで、こんなふうに劇場前に掲げていたのかと思うと、やはり時代を感じさせるところですね。


『中区史』に載っているこの写真は、残念ながら市立図書館のデジタルアーカイブでは公開されていないようで、原本がちゃんと保管されているのかどうかいささか心配になります。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。



(79) 中野かほると市川門三郎と美空ひばりと

大高よし男の調査は昭和14年、つまり大高よし男が前名・高杉彌太郎の名前で横浜敷島座に登場する前の年、その近江二郎一座の動向を探ることに専念していますが、これがどうにもわからない。『都新聞』の芸界往来に記載がないのは、一座が活動を休止していたか、もしくは東京や大阪、京都、名古屋といった都市部とは違うところで活動していたかのどちらかではないかと考えられます。

というわけで、まとまった報告も難しい時期ではありますが、更新が滞ってもいけないので、今回は地元磯子と芸能の関わりなどを簡単に。


磯子と芸能といえば第一に挙げられるのは「美空ひばり」です。彼女のデビューについては諸説あって、「アテネ劇場」や「上大岡の銭湯」(大見湯、のちに大見劇場に改装)などとも言われていて、特にアテネについてはあちこちの本で書かれていますが、昭和21年4月10日の杉田劇場の広告に「美空一枝」の名前があることから、同年9月開場のアテネ劇場でデビューというのは確実に誤りだと言えます(そのことについて最新の考察が杉田劇場のブログにあります→こちら)。

それ以前に、滝頭の祭りの櫓で歌ったとか、岡村天満宮の神楽殿で歌ったとか、杉田商店街の和菓子屋(菓子一)の店先でみかん箱に乗って歌ったというような話や、緑区中山にある神社の祭礼の時に歌ったなどという話もあるようですが、どれも「デビュー」と言っていいか微妙な線です。

少なくとも舞台のある劇場やホールで初めて歌ったのは旧杉田劇場、というのが地域史を研究されている方々の中では定説です。

美空ひばり(浅草公会堂・スターの手形)

いうまでもなく大高一座(暁第一劇団)の幕間がそれに当たるわけですが、開場当初の杉田劇場に出演していた人たちが後年、映画などで美空ひばりと共演している例が結構あって、大高サイドから調べている身としては、不思議な縁も感じてしまうところです。


大高よし男の追善興行に、当時は芸能界を離れていたとされる中野かほるが出演したことは以前も書きましたし、大高の葬儀の写真に写っているのが中野かほるではないかという仮説も何度かお伝えしています。彼女のプロフィールを調べると、1962(昭和37)年の『三百六十五夜』を最後に引退、とあります。実はこの映画について詳しく調べていませんでしたが、先日、確認したところ、なんと主演が美空ひばりだということに気づきました。

大高よし男と縁のある二人が映画で共演していたということになるわけです(ちょっと強引だけど)。


また、杉田劇場で大高よし男と同時期、さらにその後も頻繁に興行していた市川門三郎は、これまた有名な話ですが、『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』で雪之丞の師・菊之丞役として美空ひばりと共演しています。

さらには、ひばり親子が杉田劇場にやってくる前、昭和21年1月に「かもしか座」の一員として杉田の舞台に立った片山明彦は後年『伊豆の踊り子』で共演します。


杉田劇場と直接の縁はありませんが、横浜出身の女剣劇役者・大江美智子も『大江戸千両囃子』でひばりと共演していますし、杉田劇場のすぐ近く、磯子区中原出身の黒川弥太郎はコマ劇場での特別公演に常連といってもいいほど出演しています。

大江美智子(浅草公会堂・スターの手形)

以前、劇団若獅子の笠原章さんに伺ったところ、黒川弥太郎は喜美枝さんに大変気に入られていたようです。もちろん彼の芸や人柄があってのことでしょうが、同じ磯子区出身というのもどこかで喜美枝さんの思いの中にあったのじゃないかと、いささか地元贔屓の推測もしてしまうところです。


磯子出身者といえば美空ひばりのほかにも、最近では岡村出身のゆずも有名ですし、向井理、井上真央といった若手俳優、EXILEのHIRO、今年生誕100年を迎える高峰秀子の夫・松山善三が磯子区岡村出身だったり、先年亡くなった田中邦衛が長く磯子台に住んでいたことも地元ではよく知られています(浜中裏のバッティングセンターに「田中邦衛」の名前が書いてあることは都市伝説のように伝わっています:こちら)。

田中邦衛(浅草公会堂・スターの手形)

渥美清が杉田劇場の舞台に立ったという話は、裏付けが取れないのでペンディング状態ですが、1970年代の週刊誌上で近江二郎一座と森野五郎一座にいたとあることから、この両劇団が杉田劇場に来演した際、渥美清が座員であったことが判明すれば、渥美清も杉田の舞台に立ったということになります。

Wikipediaなどで渥美清のプロフィールを見ると「新派の軽演劇の幕引き」とありますから、新派を自認していた近江二郎の方が可能性は高いように思います。

近江二郎の養子であった元子さん(芸名・衣川素子)の手紙でも近江二郎一座に渥美清(手紙では「書生田所」とあります)が所属していたと記録されているので、近江二郎一座にいたことは間違いなさそうです。ただ、近江二郎一座が杉田劇場の舞台に立ったのは、昭和21年1月26日からの10日間と同年5月1日からの10日間の計20日間。この時期に渥美清が座員であればいいのですが、彼の68年の人生の20日間です。杉田にいたというのはかなり奇跡的な偶然になるかもしれません。


そんなこんなで、大高よし男を通じて、地元の歴史を掘り起こしているうちに、磯子は芸能の街なんだという思いを強くするこの頃です。

(「いそご芸能史マップ」みたいなのを作ってもいいのかしらん)


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。