深見千三郎といえばビートたけしの師匠として有名で、テレビに出なかったことから映像資料がほぼなく、「幻の浅草芸人」「伝説のコメディアン」といわれているそうです(こちら)。
伊藤精介『浅草最終出口 浅草芸人・深見千三郎伝』にはこんな記述があります。
"そんな深見が、昭和二十三年ごろ、銀星座に出演していた前澤稲子一座の楽屋にひょっこり現れたのである" (178ページ)
浅草のストリップ劇場で活躍する前の話で、地元北海道のほか全国を巡業した「深見千三郎一座」を率いた後のことです。
この「銀星座」は言うまでもなく弘明寺の銀星座で、前澤稲子は女剣劇の若き座長。"おんな長谷川一夫" と呼ばれて人気があった役者です。その一座に深見が参加していたと書かれているのです。
しかし、昭和23年といえば、銀星座では専属の「自由劇団」がほぼ毎日興行を行っていた時期で(昭和21年8月から昭和25年7月まで)、ここに前澤一座の入り込む余地はありません。
調べた範囲では、前澤稲子一座が銀星座に来演するのは、自由劇団の連続興行が終わった翌年、1951(昭和26)年4月11日が最初だと思われます(おそらく4月25日まで)。
| 1951(昭和26)年4月11日付神奈川新聞より |
その後、同じ年の10月に三吉劇場、11月には再び銀星座での興行がありましたから、この年は一座にとって横浜での舞台が多い年だったのかもしれません。
上掲『浅草最終出口』には、一座のマネージャーだった高橋徳子さんの発言として
"結局、深見は昭和二十三年から二十五年までの足かけ三年間ほど、前澤稲子一座にいたことになるんじゃないですか" (179ページ)
と書かれていますが、上記の通り、広告の内容からすると「昭和26年から28年」が正しいように思います。
詳細は省きますが、わけあって一座を離れた深見千三郎は、どういう縁か再び銀星座の楽屋に姿を現すことになるのです。
銀星座で青柳竜太郎一座が出演していたときのことだそうで、上掲書にはこう書かれています。
"それは昭和二十六年の夏から秋にかけてのころだったろうか。一座が横浜・弘明寺にあった劇場、そう、あの銀星座に出演していたとき、座長の楽屋に深見千三郎が訪ねてきたのだ" (191ページ)
この記述も年代が曖昧で、上述のように昭和26年の段階では深見はフリーもしくは前澤一座に所属していた可能性が高く、実際、調べた範囲では昭和26年に銀星座で青柳竜太郎一座が公演をした記録は見つかりません。
青柳一座が銀星座に出たのは、開場間もない昭和21年7月1日から5日間で、今のところ、それ以外、記録が見当たらないのです。
| 1946(昭和21)年6月30日付神奈川新聞より |
しかも、この事実を語ったのが「二代目青柳竜太郎」で、
"初代・青柳竜太郎が復員してくるのを待って青柳一座に復帰し、数年後、初代が亡くなったのを機に二代目・青柳竜太郎を名乗ることになった" (191ページ)
"二代目に率いられた青柳一座は、昭和二十年代の半ばころ、横浜地区を中心に公演してまわっていた"(191ページ)
とありますが、青柳龍太郎の映画出演は1963年まで記録があるので、この記述もまた初代と二代目、そして年号もよくわからないところです。
(もう少し詳しく調べてみなければなりません)
概して戦後横浜の興行については、美空ひばりのデビュー時期に象徴されるように、証言者の記憶がベースとなった記述がそのまま事実として流布しているきらいがあって、新聞広告などから時系列や事実関係の確認整理が必要です。
ともあれ、評伝の記載と新聞広告の内容を合わせると、正確な時期は別として「幻の浅草芸人」深見千三郎が弘明寺銀星座の舞台に立ったか、少なくとも楽屋を訪問した可能性は高く、あのビートたけしの師匠が弘明寺に、と不思議な感覚も覚えますが、これまでの調査からすると、戦後、浅草で活躍した役者や歌手・芸人にとって、杉田や弘明寺など横浜の劇場が(結果として)ステップアップのための「ゆりかご」となっていたのも事実で、浅草と横浜の関係は、もう少し深掘りした方がよさそうです。
そんなこんなで、今回はちょっとざっくりとした内容ですが、銀星座と深見千三郎の関わりについてのお話でした。
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