(144) いさみ座と市川門三郎一座

 前々回、市川栄舛の「いさみ座」について書いた項で、この時期、神奈川の小芝居は栄舛が取り仕切っていたように感じられる、と書きました。また杉田劇場と縁の深い市川門三郎はいさみ座には参加せず、自分の一座で興行していたことも書いたところです。


以前書いたように、市川小太夫と栄舛の間には「神奈川県歌舞伎連盟」をめぐってなんらかのトラブルがあったような気もしますが、門三郎と栄舛との関係は終始良好だったように感じられます。また、興行の広告から推察する限り、門三郎はそうしたトラブルから距離を取るようにしていたようにも思います。


そんな栄舛と門三郎ですが、いさみ座が誕生して2ヶ月後、1952(昭和27)年7月に、銀星座で合同公演を行います。

1952(昭和27)年7月16日付神奈川新聞より

広告に「壮挙! 遂に成る!」という惹句が見られように、それまで比較的すれ違いの多かった両一座の合同は、それなりのインパクトがあったのかもしれません。

座組を見ると、戦前、横浜歌舞伎座の更生劇や金美劇場の一座など、横浜の小芝居に関わった役者たちが一堂に会したという印象で、当時の横浜の歌舞伎ファンにとっては、心浮き立つような公演だったんじゃないかと、勝手な想像も湧いてきます。

とはいえ、この4ヶ月後には銀星座は閉場となりますから、斜陽になりつつある横浜の歌舞伎の最後の輝きのようにすら感じられます。横浜(神奈川)の歌舞伎役者にとっては、場がなくなっていくのを強く実感する時期だったのかもしれません。そんなこんなもあってか、栄舛や門三郎はかたばみ座に合流することになるのでしょう。

この後にできる梅沢劇場でどんな興行が行われたのかはさらに精査する必要がありますが、明治以降の横浜の歌舞伎は、事実上、銀星座とともに幕を下ろすことになったと考えられます。


まったくの余談ですが、座間市のデジタルミュージアムの中に「思い出の座間 人々の経済生活編」というページがあって、その最下段に昭和23年4月に座間小学校の運動場で行われた「農地祭」の写真が掲載されています。農地改革にあたった人々の集合写真ですが、その背景に市川門三郎一座の幕がかかっているのです。昭和23年ですからまだ杉田劇場などでの興行も頻繁に行なっていた時期ですが、こうした式典や祭礼での野外興行もやっていたのでしょう。

座間市は亡母の実家のある地で、農家でしたから、もしかしたら祖父母などはその場にいたのかもしれません。県央地区は古くから芸能の盛んな土地柄で、厚木や座間、大和などの郷土史を丹念に見ていけば、門三郎らの足跡をたどることもできるかもしれません。


そんなこんなで、今回は短めですが、市川栄舛と市川門三郎の合同公演についてのお話でした。


→つづく
(次回は10/9更新予定)

←前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
【こちら】

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(143) 銀星座と深見千三郎

深見千三郎といえばビートたけしの師匠として有名で、テレビにほとんど出なかったことから映像資料が極めて少なく、「幻の浅草芸人」「伝説のコメディアン」といわれているそうです(こちら)。


伊藤精介『浅草最終出口 浅草芸人・深見千三郎伝』にはこんな記述があります。

"そんな深見が、昭和二十三年ごろ、銀星座に出演していた前澤稲子一座の楽屋にひょっこり現れたのである" (178ページ)

浅草のストリップ劇場で活躍する前の話で、地元北海道のほか全国を巡業した「深見千三郎一座」を率いた後のことです。

この「銀星座」は言うまでもなく弘明寺の銀星座で、前澤稲子は女剣劇の若き座長。"おんな長谷川一夫" と呼ばれて人気があった役者です。その一座に深見が参加していたと書かれているのです。

しかし、昭和23年といえば、銀星座では専属の「自由劇団」がほぼ毎日興行を行っていた時期で(昭和21年8月から昭和25年7月まで)、ここに前澤一座の入り込む余地はありません。

調べた範囲では、前澤稲子一座が銀星座に来演するのは、自由劇団の連続興行が終わった翌年、1951(昭和26)年4月11日が最初だと思われます(おそらく4月25日まで)。

1951(昭和26)年4月11日付神奈川新聞より

その後、同じ年の10月に三吉劇場、11月には再び銀星座での興行がありましたから、この年は一座にとって横浜での舞台が多い年だったのかもしれません。


上掲『浅草最終出口』には、一座のマネージャーだった高橋徳子さんの発言として

"結局、深見は昭和二十三年から二十五年までの足かけ三年間ほど、前澤稲子一座にいたことになるんじゃないですか" (179ページ)

と書かれていますが、上記の通り、広告の内容からすると「昭和26年から28年」が正しいように思います(もしくは銀星座ではない劇場での話か)。


詳細は省きますが、わけあって一座を離れた深見千三郎は、どういう縁か再び銀星座の楽屋に姿を現すことになるのです。

銀星座に青柳竜太郎一座が出演していたときのことだそうで、上掲書にはこう書かれています。

"それは昭和二十六年の夏から秋にかけてのころだったろうか。一座が横浜・弘明寺にあった劇場、そう、あの銀星座に出演していたとき、座長の楽屋に深見千三郎が訪ねてきたのだ" (191ページ)

この記述も年代が曖昧で、上述のように昭和26年の段階では深見はフリーもしくは前澤一座に所属していた可能性が高く、実際、調べた範囲では昭和26年に銀星座で青柳竜太郎一座が公演をした記録は見つかりません。

青柳一座が銀星座に出たのは、開場間もない昭和21年7月1日から5日間で、今のところ、それ以外、記録が見当たらないのです。

1946(昭和21)年6月30日付神奈川新聞より

しかも、この事実を語ったのが「二代目青柳竜太郎」で、

"初代・青柳竜太郎が復員してくるのを待って青柳一座に復帰し、数年後、初代が亡くなったのを機に二代目・青柳竜太郎を名乗ることになった" (191ページ)

"二代目に率いられた青柳一座は、昭和二十年代の半ばころ、横浜地区を中心に公演してまわっていた"(191ページ)

とありますが、青柳龍太郎の映画出演は1963年まで記録があるので、この記述もまた初代と二代目、そして年号もよくわからないところです。

(もう少し詳しく調べてみなければなりません)

概して戦後横浜の興行については、美空ひばりのデビュー時期に象徴されるように、証言者の記憶がベースとなった記述がそのまま事実として流布しているきらいがあって、新聞広告などから時系列や事実関係の確認整理が必要です。


ともあれ、評伝の記載と新聞広告の内容を合わせると、正確な時期は別として「幻の浅草芸人」深見千三郎が弘明寺銀星座の舞台に立ったか、少なくとも楽屋を訪問した可能性は高く、あのビートたけしの師匠が弘明寺に、と不思議な感覚も覚えますが、これまでの調査からすると、戦後、浅草で活躍した役者や歌手・芸人にとって、杉田や弘明寺など横浜の劇場が(結果として)ステップアップのための「ゆりかご」となっていたのも事実で、浅草と横浜の関係は、もう少し深掘りした方がよさそうです。


そんなこんなで、今回はちょっとざっくりとした内容ですが、銀星座と深見千三郎の関わりについてのお話でした。


←前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
【こちら】

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(142) 市川栄舛の「いさみ座」

1952(昭和27)年5月、銀星座で市川栄舛大一座「劇団いさみ座」第一回旗上公演が行われるとの広告が出ます。

1952(昭和27)年5月10日付神奈川新聞より

そもそもが小芝居に詳しくない上に「いさみ座」という名称も初めて聞くものですから、唐突に出てきた劇団という印象を受けます。

ただ、座組を見るに、これまでの市川栄舛一座に「いさみ座」と名前をつけただけのようにも思えます。こうした売り出し方で、やや凋落気味の、地域での歌舞伎(小芝居)の再興をしようとした興行的な戦略だったのかもしれません。

「いさみ座」にどういういわれがあるのかは不明です。この一座が長い目で見ると喜楽座や横浜歌舞伎座の更生劇の流れを汲むものであることを思うと、その名前は明治期の「勇座」にちなんだもののように思われますが、関連があるのかどうかについてはよくわかりません。

この座組には市川女猿がいる一方で、市川門三郎の名前はありません。この時期、門三郎はどこかの劇場に腰を据えての興行というより、反町劇場や前回の投稿で言及した川崎花月座など、横浜や周辺地域の劇場を短期間で移動する、近郊の旅興行を続けていたようです。

以前、神奈川県歌舞伎連盟のことを書きましたが(こちら)、その顛末を経てなのでしょうか、横浜(神奈川)の歌舞伎(小芝居)は市川栄舛が取り仕切るようになったようにも感じられるところです。

下衆の勘ぐりで、市川小太夫と市川栄舛の間に何らかの確執があったのではないか、と考えていたわけですが、いずれにしてもこの時期になると、小太夫の姿は神奈川県の興行には見られなくなり、歌舞伎といえば市川栄舛か市川門三郎という形に収斂していきます。


実は資料を再調査していく中で、神奈川県歌舞伎連盟ができる少し前、昭和25年1月、杉田劇場での「東京若手花形歌舞伎」の広告に「市川小太夫口上」の文言があることに気づきました。「連盟結成」の一年半ほど前のことです。

1950(昭和25)年1月17日付神奈川新聞より

広告には「市川栄松」の名がありますが「栄舛」の誤りと思われます。

ここで小太夫がどんな口上を述べたのかわかりません。ただ、その後の展開を思うと、自分も横浜の地で歌舞伎を盛り上げたい、というようなことを言ったのかもしれません。そして、これを契機に小太夫が神奈川の歌舞伎(小芝居)との関わりを深めていったのではないかとも想像できます。

この頃の銀星座はまだ自由劇団が根城としていて、新派や剣劇ばかりを上演していた頃ですから、歌舞伎の入りこむ余地はなかったわけで、歌舞伎関係者にとっては、杉田劇場が頼みの綱というようなところがあったのかもしれません。


さて話は戻って市川栄舛の「いさみ座」ですが、5月11日に始まったこの興行は情報欄や広告を追っていくと、6月の下旬まで続いたものと思われます。1ヶ月ないし1ヶ月半の興行です。

1952(昭和27)年6月15日付神奈川新聞より

余談になりますが、いさみ座の後の銀星座ではストリップの興行が始まります。

1952(昭和27)年6月30日付神奈川新聞より

広告にも大きく出るような形のストリップは、杉田劇場や銀星座ではそれほど多くありませんから、珍しいものではありますが、実はそれ以上に興味深いのは隣の広告です。主にストリップの劇場としてすでに名高い存在であった「横浜セントラル劇場」で梅澤昇一座の興行が行われたというのです。

横浜セントラルではこの直前、ストリップと大倉千代子一座の合同公演(?)がしばらく行われていました。かつては三吉劇場や杉田劇場で大々的に公演を打っていた大倉千代子も、この頃になると単独興行が難しくなっていたのか、ストリップとの併演で凌いでいたようにも見えます。

しかし梅澤昇ともなるとさすがにそうした形態での興行はできなかったのでしょうか。梅澤一座を迎えて、ストリップが上演できなくなった分、銀星座が替わりにそれを引き受けたようにさえ思えてきます(「セントラルにておなじみの」という文言も見える)。

そんな梅澤昇一座からして、この少し前には川崎花月座でも興行をしていますし、浅草などでの実演が厳しさを増す中、神奈川など周辺に活路を見出していたようにも感じられます。その行き着く先が数年後の弘明寺・梅沢劇場ということになるのかもしれません。

戦前から続く実演の、受難の時期が本格的に始まったような印象を受けます。

1952(昭和27)年5月31日付神奈川新聞より

さて、この年の11月10日には銀星座が閉場してしまうので、栄舛の「いさみ座」の名称での歌舞伎はおそらく半年ほどの短期間の活動で終わってしまったのではないかと思われます。

とはいえ、歌舞伎の興行はしぶとく(?)残っていて、この先、銀星座でも歌舞伎は細々とながら続いていたようです。

ちなみに、昭和29年に開場して、33年には閉場してしまう弘明寺・梅沢劇場の最後はかたばみ座の公演でした。


そんなこんなで、今回は市川栄舛の劇団いさみ座についてのお話でした。


←前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
【こちら】

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。