横浜市が発行していた『市民グラフ ヨコハマ』は1971年から刊行が始まり、のちに季刊誌『横濱』として継承されていましたが、2022年に休刊(事実上の廃刊)となって現在に至ります。
グラフ誌ですから写真がメインの誌面でしたし、各号、さまざまな切り口で横浜を再発見するような内容でしたから、とても面白かったのですが、財政難の余波ということなのでしょうか、ちょっと残念な気もします。
さて、『市民グラフ ヨコハマ』のNo.58(1986年12月号)は「きらめく大正時代 横浜の大衆文化」というタイトルで、大正時代の横浜文化を特集しています。
横浜の文化というと、西洋文化の影響という「いかにも」な視点で、映画や建築、小説や美術などが取り上げられがちですが、この号ではめずらしく(?)演劇についても章立てして言及されているのです。
この章は横浜演劇史研究家の小柴俊雄さん(この時の肩書は"「横浜学」を考える会常任理事")が執筆していることもあって、劇場を軸に歌舞伎から新派、花月園少女歌劇からゲーテ座まで、短いながらも内容が多岐にわたっているので、大正期の横浜演劇の概要や雰囲気がよくわかります。
この中の「喜楽座」に関する記述の末尾にはこうあります。
"大正四年四月から歌舞伎・新派・映画の三本立て興行の「高等劇場」になった。歌舞伎は市川荒二郎・尾上紋十郎、新派は松尾次郎(喜楽座新派主任)・近江二郎という一座が長いこと公演を続けた" (『市民グラフヨコハマ』No.58, 1986年12月/横浜市市民局市民情報センター広報室発行より)
1986年のグラフ誌に近江二郎の名前が出てくるのはかなり意外な気もしますが、大正9年から大正12年まで喜楽座に出演していたわけですから、大正期の横浜を代表する役者として彼の名前が挙がっていてもおかしくはありません(さほどに彼の名前は「忘れらた存在」で、その傾向には拍車がかかっています)。
小柴さんによれば「歌舞伎・新派・映画の三本立て」とありますが、近江二郎が喜楽座に出ていた時期の広告を参照すると、この頃の喜楽座の演目は「子供芝居」と「歌舞伎」「新派」の三本立て(だいたい4演目)で、近江二郎は新派、以前言及した坂東音芽は主に歌舞伎、時折新派にも出演するという形でした。
(いずれこの時期の上演記録をまとめたいと思います)
大正時代の近江二郎については以前に書きましたが(→こちら)、彼は明治の終わりに川上音二郎が大阪の帝国座内に作った俳優学校に入ったものの、何らかの事情で藤沢浅二郎の東京俳優養成所に移ったようです。
音二郎の死に伴う転学と考えていましたが、白川宣力編著『川上音二郎・貞奴:新聞にみる人物像』に掲載された、明治44年2月11日付大阪毎日新聞の記事には、
"帝国座附属養成所生徒近江次郎外十名は座長川上音二郎の所為に不平を抱き昨十日一同退所届を差出し来る十四日より南地春日座に出演する由"(※下線太字引用者)
とありますから、こんな事情があって藤沢の俳優養成所に移ったのかもしれません(おそらく三期生)。
しかしながら、田中栄三『明治大正新劇史資料』によれば、
"第二、第三期生は(明治)44年の11月、第五回の「試演劇場」が終ると間もなく学校が解散になったので、卒業を迎えることができなかった"
"浅野長、窪田源梧、近江次郎は新派の舞台へ出ることになった"(同書, P.89)
ということなので、近江二郎は大阪・東京ともに短期間の養成所生活しか送っておらず、いきなり新派の舞台に出ることになったのだと思われます。
そこで頭角を表したということですから、もともと芝居の才があったということなのでしょうか。結果として数年後には横浜喜楽座に迎えられ、その後は深沢恒造一座などに客演しつつ、自分の一座を結成、という流れになるのは以前に書いたとおりです。
そもそも近江二郎がなぜ役者を目指したのかはよくわかりません。ただ、川上音二郎らによる新派の舞台に惹かれていたのは間違いなさそうで、
"藤沢校長の最初の目的は新派の後継者を作るつもりだったが、小山内、桝本両氏の指導で、生徒は皆な新劇をやることになったのである"(上掲書)
とあることから、卒業生の多くが新劇の道を進む中、あえて新派を選んだのだろうし、後年、新聞紙上に「新派劇の正しい道」を寄稿することからも(→こちら)、角藤定憲や川上音二郎らによる初期の新派への憧れは相当に強かったものと想像できます。
大正9年に横浜喜楽座に来たのも、もしかしたらこの地が新派に理解のある街だったからかもしれません。
(新派と新劇の定義が僕の中ではいつも混乱したまま不明ではありますが、藤沢の俳優養成所の顛末を見るに、新派も新劇も渾然一体となった「混沌期」のようなものがあったのだとわかってきましたし、近江二郎の役者としてのスタートがそういうところにあったのも実に興味深いものです)
いまのところ、大高よし男の師を近江二郎と想定(仮定)して調査を進めていますから、近江二郎の調査も今まで以上に重要になってきます。
次回以降しばらくは、東京俳優養成所を出た後の近江二郎の足跡と、その後に創設した一座の動向、さらにはメンバーの構成などから、近江二郎の活動の変遷を辿っていきたいと思います。そこに大高につながるヒントが見つかるような気がしています。
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