(145) 市川栄升と近江二郎と前澤稲子と

少し前に横浜映画研究家の山岸丈二さんと知り合う機会を得ました(ちなみに山岸さんの肩書きはこれにとどまらない、とても多才な方です)。

世代が近いこともあって、気さくにお話しできる間柄にもなりましたが、ひょんなことからあるパンフを巡ってヤフオクで競り合った仲であることもわかって、より親しくなったりしたのですから、なんとも不思議な縁です。

そんな事情があったおかげ(?)で、ありがたくもお手持ちのパンフ類のうち、戦前の横浜の演劇がらみのものをデータ化して送ってくださることになり、さらにはブログで公開してもいいとの許可をいただいておりますので、これから折を見て、小出しにご紹介してみたいと思います。

(山岸さん、ありがとうございました)


これまで杉田劇場の閉場時期を確認すべく、戦後の調査をぼちぼちと続けてきましたが、もはや大高ヨシヲを探す使命とは大きくかけ離れてしまっているので、最近はこれまでの資料をあらためて読み直して、見落としがないか検証する作業をスタートしております。

いずれ詳述しますが、大高よし男が前名の高杉弥太郎時代に横浜に来演したのは、近江二郎一座の座員としてだったことは、あたらめてほぼ間違いないと言えそうです。またそれより以前に、他の一座の横浜興行に高杉弥太郎の名前が見られないことから、来浜前に近江二郎一座が名古屋あたりで盛んに興行を打っていた頃、一座に参加したのではないかと推測されるところです。

というわけで、ひとまずは高杉弥太郎、大高よし男の記述のある新聞記事やパンフ類の見直し、さらには近江二郎の動向を調べてみたわけですが、大高とは直接関係ないものの、1942(昭和17)年5月の新聞記事に、近江二郎・市川栄升・前澤稲子の3人の名前が並ぶ公演についての告知を見つけたのです。

1942(昭和17)年5月18日付神奈川新聞より

この3名の共通点は、いうまでもなく戦後、弘明寺銀星座で興行したことですが、戦前の横浜でも接点があったというのが面白いところです。


さて、このうちの市川栄升は、戦後の活躍はもとより、戦前の横浜では末吉町の横浜歌舞伎座の更生劇で活躍したことで知られています。

実は、山岸さんから送っていただいた資料の中に、横浜歌舞伎座の引札(?)もあって、なんと、その中に「新加入 市川栄升」の文言があるものが含まれていたのです。

山岸丈二氏所蔵資料(抜粋)


横浜演劇史研究家の小柴俊雄さんの労作、『郷土よこはま』115号に掲載された横浜歌舞伎座の番組一覧と付き合わせると、この引札は1935(昭和10)年8月19日からの興行を告知しているものだとわかります。


ずいぶん前ですが、かつてこのブログで言及したことのある『花柳演藝かゞみ』には、市川栄升のプロフィールが掲載されていて、その中には「昨年七月に更生劇に加入」と書かれています。

『花柳演藝かゞみ』の発行は昭和11年9月なので、引札の日付と記載内容は合致していると言えます。

掲載されているプロフィールを一部抜粋すると

"いつも沈思してゐる。楽屋の静かな人で大きな聲を聞かない"

"故小團次の門に入り最初は莚登満女と名乗り米次と變へ、大正九年明次(ママ)座で左團次が『信長記』を出した時池田輝正を勤め名題披露して市川栄升と改名した" 

とあり、また

"中村歌蔵、市川莚三郎は栄升の實兄に當る"

"本名森田友之助"

(『花柳演藝かゞみ』自治新報社, 1936より)

とも書かれています。

『越境する歌舞伎』に記述のあるような(おそらく)一般に知られるプロフィールとは少し違うところもあるようですが、専門外で詳細の確認はできていません。いずれにしても大正期に名題披露した栄升は、昭和10年代には主に横浜を拠点に活動していたことは間違いなさそうです。


そんな栄升の所属していた更生劇は横浜で大きな人気を博しますが、1938(昭和13)年5月いっぱいまで、135回の連続興行を重ねたのちに横浜歌舞伎座での公演を休止します。ハマの團十郎と呼ばれた市川荒二郎が昭和10年に他界したことが影響したのかもしれません。

横浜歌舞伎座ではその後、それまで敷島座で興行していた日吉良太郎一座が専属となって、以後、終戦間際まで6年にわたる連続興行を続けることになります。


更生劇のメンバーはその後、日活館(旧喜楽座)のアトラクションに出演するなど、それなり活動は続けていたようです。以前にも書いたように南吉田町の金美劇場での歌舞伎興行も更生劇の影響が見られますし、戦後の杉田劇場、銀星座での歌舞伎興行にも、更生劇時代からの役者が多く参加しており、横浜の歌舞伎における更生劇の影響はかなり大きなものがあったと言えそうです。

とはいえ活動休止の当座は、根城を失った影響が大きかったようで、翌年の1月にはその後の役者としての体たらくを揶揄するように

"森野五郎は一昨年の十一月に舞䑓を退いたまま、小石川白山で『山楽』といふ待合の主人で、納つて。芝居を忘れてしまつてゐる"

"市川栄升は、東京の高田の馬場へ松栄館といふアパート、及び、旅館を開業して、安穏の日をおくり"

(1939(昭和14)年1月26日付横浜貿易新報より)


などの記事も出たりします。

しかしながら、上述のように横浜では戦後も更生劇やそのメンバーが影響を持ち続けていたわけですし、その後も、舞台や映画の世界で、市川栄升、森野五郎の両名ともが、かなり長い間、活躍を続けていたわけですから、いろいろありながらも、紆余曲折、山あり谷ありの役者人生をまっとうしたのだなという印象もまた強く感じるところです。


そんなこんなで、山岸さんの資料から思いがけず調査範囲が広がりましたが、戦後の横浜の歌舞伎の動向をふまえると、逆算するかのように戦前の更生劇のこともなんとなくわかってくるのが不思議で、それらも含めて、東京とは違う一種独特な個性を持った横浜演劇界の姿がぼんやりと理解でき始めてきたところです。

今回は大高調査に戻る予定が、またぞろ市川栄升といった歌舞伎寄りの話になりましたが、次回こそは大衆演劇の再調査に戻り、近江二郎周辺あたりのお話ができればと思います。


→つづく
(次回は10/23更新予定)

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(144) いさみ座と市川門三郎一座

 前々回、市川栄舛の「いさみ座」について書いた項で、この時期、神奈川の小芝居は栄舛が取り仕切っていたように感じられる、と書きました。また杉田劇場と縁の深い市川門三郎はいさみ座には参加せず、自分の一座で興行していたことも書いたところです。


以前書いたように、市川小太夫と栄舛の間には「神奈川県歌舞伎連盟」をめぐってなんらかのトラブルがあったような気もしますが、門三郎と栄舛との関係は終始良好だったように感じられます。また、興行の広告から推察する限り、門三郎はそうしたトラブルから距離を取るようにしていたようにも思います。


そんな栄舛と門三郎ですが、いさみ座が誕生して2ヶ月後、1952(昭和27)年7月に、銀星座で合同公演を行います。

1952(昭和27)年7月16日付神奈川新聞より

広告に「壮挙! 遂に成る!」という惹句が見られように、それまで比較的すれ違いの多かった両一座の合同は、それなりのインパクトがあったのかもしれません。

座組を見ると、戦前、横浜歌舞伎座の更生劇や金美劇場の一座など、横浜の小芝居に関わった役者たちが一堂に会したという印象で、当時の横浜の歌舞伎ファンにとっては、心浮き立つような公演だったんじゃないかと、勝手な想像も湧いてきます。

とはいえ、この4ヶ月後には銀星座は閉場となりますから、斜陽になりつつある横浜の歌舞伎の最後の輝きのようにすら感じられます。横浜(神奈川)の歌舞伎役者にとっては、場がなくなっていくのを強く実感する時期だったのかもしれません。そんなこんなもあってか、栄舛や門三郎はその後、かたばみ座に合流することになるのでしょう。

この後にできる梅沢劇場でどんな興行が行われたのかはさらに精査する必要がありますが、明治以降の横浜の歌舞伎は、事実上、銀星座とともに幕を下ろすことになったと考えられます。


まったくの余談ですが、座間市のデジタルミュージアムの中に「思い出の座間 人々の経済生活編」というページがあって、その最下段に昭和23年4月に座間小学校の運動場で行われた「農地祭」の写真が掲載されています。農地改革にあたった人々の集合写真ですが、その背景に市川門三郎一座の幕がかかっているのです。昭和23年ですからまだ杉田劇場などでの興行も頻繁に行なっていた時期ですが、こうした式典や祭礼での野外興行もやっていたのでしょう。

座間市は亡母の実家のある地で、農家でしたから、もしかしたら祖父母などはその場にいたのかもしれません。県央地区は古くから芸能の盛んな土地柄で、厚木や座間、大和などの郷土史を丹念に見ていけば、門三郎らの足跡をたどることもできるかもしれません。


そんなこんなで、今回は短めですが、市川栄舛と市川門三郎の合同公演についてのお話でした。


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(143) 銀星座と深見千三郎

深見千三郎といえばビートたけしの師匠として有名で、テレビにほとんど出なかったことから映像資料が極めて少なく、「幻の浅草芸人」「伝説のコメディアン」といわれているそうです(こちら)。


伊藤精介『浅草最終出口 浅草芸人・深見千三郎伝』にはこんな記述があります。

"そんな深見が、昭和二十三年ごろ、銀星座に出演していた前澤稲子一座の楽屋にひょっこり現れたのである" (178ページ)

浅草のストリップ劇場で活躍する前の話で、地元北海道のほか全国を巡業した「深見千三郎一座」を率いた後のことです。

この「銀星座」は言うまでもなく弘明寺の銀星座で、前澤稲子は女剣劇の若き座長。"おんな長谷川一夫" と呼ばれて人気があった役者です。その一座に深見が参加していたと書かれているのです。

しかし、昭和23年といえば、銀星座では専属の「自由劇団」がほぼ毎日興行を行っていた時期で(昭和21年8月から昭和25年7月まで)、ここに前澤一座の入り込む余地はありません。

調べた範囲では、前澤稲子一座が銀星座に来演するのは、自由劇団の連続興行が終わった翌年、1951(昭和26)年4月11日が最初だと思われます(おそらく4月25日まで)。

1951(昭和26)年4月11日付神奈川新聞より

その後、同じ年の10月に三吉劇場、11月には再び銀星座での興行がありましたから、この年は一座にとって横浜での舞台が多い年だったのかもしれません。


上掲『浅草最終出口』には、一座のマネージャーだった高橋徳子さんの発言として

"結局、深見は昭和二十三年から二十五年までの足かけ三年間ほど、前澤稲子一座にいたことになるんじゃないですか" (179ページ)

と書かれていますが、上記の通り、広告の内容からすると「昭和26年から28年」が正しいように思います(もしくは銀星座ではない劇場での話か)。


詳細は省きますが、わけあって一座を離れた深見千三郎は、どういう縁か再び銀星座の楽屋に姿を現すことになるのです。

銀星座に青柳竜太郎一座が出演していたときのことだそうで、上掲書にはこう書かれています。

"それは昭和二十六年の夏から秋にかけてのころだったろうか。一座が横浜・弘明寺にあった劇場、そう、あの銀星座に出演していたとき、座長の楽屋に深見千三郎が訪ねてきたのだ" (191ページ)

この記述も年代が曖昧で、上述のように昭和26年の段階では深見はフリーもしくは前澤一座に所属していた可能性が高く、実際、調べた範囲では昭和26年に銀星座で青柳竜太郎一座が公演をした記録は見つかりません。

青柳一座が銀星座に出たのは、開場間もない昭和21年7月1日から5日間で、今のところ、それ以外、記録が見当たらないのです。

1946(昭和21)年6月30日付神奈川新聞より

しかも、この事実を語ったのが「二代目青柳竜太郎」で、

"初代・青柳竜太郎が復員してくるのを待って青柳一座に復帰し、数年後、初代が亡くなったのを機に二代目・青柳竜太郎を名乗ることになった" (191ページ)

"二代目に率いられた青柳一座は、昭和二十年代の半ばころ、横浜地区を中心に公演してまわっていた"(191ページ)

とありますが、青柳龍太郎の映画出演は1963年まで記録があるので、この記述もまた初代と二代目、そして年号もよくわからないところです。

(もう少し詳しく調べてみなければなりません)

概して戦後横浜の興行については、美空ひばりのデビュー時期に象徴されるように、証言者の記憶がベースとなった記述がそのまま事実として流布しているきらいがあって、新聞広告などから時系列や事実関係の確認整理が必要です。


ともあれ、評伝の記載と新聞広告の内容を合わせると、正確な時期は別として「幻の浅草芸人」深見千三郎が弘明寺銀星座の舞台に立ったか、少なくとも楽屋を訪問した可能性は高く、あのビートたけしの師匠が弘明寺に、と不思議な感覚も覚えますが、これまでの調査からすると、戦後、浅草で活躍した役者や歌手・芸人にとって、杉田や弘明寺など横浜の劇場が(結果として)ステップアップのための「ゆりかご」となっていたのも事実で、浅草と横浜の関係は、もう少し深掘りした方がよさそうです。


そんなこんなで、今回はちょっとざっくりとした内容ですが、銀星座と深見千三郎の関わりについてのお話でした。


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