(126) ひばりはアテネの舞台に立ったのか・1

大高よし男の足跡がなかなか見つからないので、もはや神頼み(仏頼み)というわけでもないのですが、今年の初詣は、大高の葬儀写真が撮られた弘明寺観音へ行ってきました。


年末に放送されたアド街の影響があるのかないのかはわかりません。山門から商店街にかけて長い行列ができていて、賑やかな雰囲気の中での参詣となりました(予想よりは早く参拝できました)。

弘明寺には、旧杉田劇場に遅れること3ヶ月ほどで開場した銀星座がありました。近江二郎一座が柿落としを担い、大高一座も一度だけ一週間の興行を打ったとされているほか、幼き日の美空ひばりも、自由劇団の幕間という形になるのでしょうか、美空和枝の名前で舞台に立っています。

1947(昭和22)年1月14日付神奈川新聞より

杉田と弘明寺はともに市電の終点であり、京浜急行(当時はいわゆる「大東急」の湘南線)でも3駅しか離れていません(杉田=屏風浦=上大岡=弘明寺)。大きく見れば同じエリアで、賑やかな商店街がある点など、似た街でもあります。

横浜大空襲で中心部は焼け野原となり、戦後は米軍の接収で、劇場はもとより街の再建もままならぬ中、空襲の被害が少なかった郊外の杉田や弘明寺が戦後の娯楽の担い手となったということなのでしょう。

終戦からほどなく、ほぼ同じ時期に

杉田劇場(杉田)
銀星座(弘明寺)
アテネ劇場(磯子)
大見劇場(上大岡)

が相次いで開場しています。横浜国際劇場もマッカーサー劇場もまだない頃の話です。


さて、相変わらず大高の足跡についてはめぼしい進展がないので、今回は年末に提示した今年の重点調査項目から、またぞろ美空ひばりのデビューについての考察です。


ひばりのデビューについてはこれまでも何度か言及してきました。かなり前から定説とされていた「アテネ劇場デビュー説」が誤りで、近年は、昭和21年3月か4月に、杉田劇場の舞台に立ったのが実質的な初舞台である、というのが確定的な説となってきました。

それでもアテネ説が消えることはなく、杉田劇場に出演した後、同年9月にアテネ劇場を3日間借りて昼夜2公演、舞台に立ったという修正型で残されています。

しかし(昨年の「いそご文化資源発掘隊」の講座でも少しお話ししましたが)、ややこしい性格の僕には、9月アテネ説というのがどうにも腑に落ちないのです。そもそも、アテネ説は(今のところ)すべて関係者の証言に基づくもので、芸人とのトラブルになったとされる看板や舞台の写真、新聞広告や記事などは、(おそらく)どこにも提示されていないはずです。

美空ひばりは本当にアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか。


あらためて基本情報を整理してみます。

アテネ劇場は、1946(昭和21)年9月9日、磯子区磯子町に開場した映画館です。開場式典には中村吉右衛門劇団が来演し、舞踊で柿落としをしています。

1946(昭和21)年9月8日付神奈川新聞より

昭和5年の火災保険図によれば、もともとこの地にあったのは日用品市場で、アテネ劇場は戦後、その近くで鉄工所を営んでいた長谷巌氏が(市場を買い取って?)映画館に改装したものとされています。

実は、美空ひばりの叔母にあたる西村克子さんが著書の中でこんなことを書いています。

"正子さん(註:杉山正子さん)のご両親は、戦前から磯子劇場(アテネ劇場)のそばで喫茶店を経営していました"(西村克子『愛燦燦・ひばり神話の真実』徳間書店,1993 より)

この一文を根拠のひとつとして、アテネ劇場の前身は磯子劇場であり、美空ひばりは杉田劇場より先に磯子劇場(のちのアテネ劇場)でデビューしたのだ、という話もあるようです。

しかし、昭和5年から昭和21年という戦争の時代に、市場を改造して劇場にするほどの物的・精神的余裕があったとは思えません。しかも、その頃の新聞をつぶさに調べても「磯子劇場」の開場を知らせる記事や広告を確認することができないのです。

ですから、上掲の西村克子さんの文章は、

「戦前から戦後磯子劇場(アテネ劇場)ができた場所のそばで〜」

と補足して読み解くのが正しいのではないかと思うのです。

さらには、かつてアテネ劇場でよく映画を見たという地元(芦名橋近辺)の年配者に話を聞いても、アテネ劇場のことを「磯子劇場」と呼ぶ人はいませんし、戦前に磯子劇場があったという話も耳にしません。

ただ、以前にも書いたように、アテネ劇場は昭和35年3月に「磯子映画劇場」に改称しており、その頃の明細地図には「映画館 磯子劇場」と明記されているので、昭和30年代後半以降ならば「アテネ劇場=磯子劇場」という認識はあったかもしれません。磯子劇場はアテネ劇場の前身ではなく、後身にあたるわけです。

1960(昭和35)年3月30日付神奈川新聞より

上掲の事実から、アテネ劇場は戦前からあった日用品市場を改装して、昭和21年9月に開場した映画館で、美空ひばりのアテネ劇場デビュー説は、同年4月に杉田劇場の舞台に立った証拠(ポスターや新聞広告)がある以上、完全な誤りであると再確認していいと思います。


ですが、それでも依然、本当にひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのか、という疑問は残ります。


生前に出版された美空ひばりの自伝は2つあって、最初の『虹の唄』(講談社,1957)にはこうあります。

"こうして楽団が出来てみると、私はもちろん両親もどこか人さまの見ているところで公演がしたくなりました。そこで横浜磯子町のアテネ劇場を借りることになったのです。この劇場はいまは映画館ですが、当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。 ここで、私は初めて“舞台”というものに出たわけで、九つの時のこと"

なお、昭和24年度版の『全国映画館名簿』によると、アテネ劇場の座席数は324となっており、「客席二百ぐらい」とは誤差があります(この数については後編で検証します)。


もうひとつの『ひばり自伝 わたしと影』(草思社,1971)には

"昭和二十一年九月。
忘れられない月です。
この時、わたしは、同じ磯子の町にある、小さな小屋、アテネ劇場の舞台に
立ったのでした。
劇場というものに出たのは、これがはじめてです"

と記されています。

これらを根拠にしているのでしょう。公式のプロフィールなどにもある通り、昭和21年9月にアテネ劇場を3日間借りて舞台に立ったというのが、デビューをめぐる「定説」となってきたわけです。

当時はまだ新聞に三行広告(と言っていいのでしょうか)の映画情報欄がなかったので、アテネ劇場の興行の状況は劇場サイドが出稿する広告しか手がかりがありません。

ですが、その数は杉田劇場や銀星座に比べて少なく、実態を知るのはなかなか困難です。それでもその情報からアテネ劇場の興行を確認してみると

1946年
9月9日 開場式(映画興行は翌日から)
9月10日〜16日 『麗人(監督:渡辺邦男、出演:藤田進、原節子ほか/1946 東宝)
9月17日〜23日 不明
9月24日〜30日 『韋駄天街道(監督:萩原遼、出演:長谷川一夫、榎本健一ほか/1944 東宝)
※10月1日〜 『舞踏会の手帖(監督:J・デュヴィヴィエ、出演:マリー・ベルほか/1937 フランス) 

ひばりが舞台に立ったとされる9月は上記のようになります。17日から23日が不明ですが、10月1日よりフランス映画を上映していることからすると、邦画・洋画の交互上映が推測され、この期間は何らかの洋画を上映していたとも考えられます。

ただ、現状では不明な時期なので、もし仮に劇場を昼夜2公演、3日間借りるとしたら、9月17日から23日の間だろうとは推測できます。

しかし、考えてみると、これは映画館の開場から2週目です。磯子町の人々にとっては、近くに映画館ができたわけですから、開場を心待ちにしていただろうし、集客も順調だったと思われます。開場したばかりの2週目に3日間も劇場を貸し出すというのは、経営的に考えて、あり得ないのではないかというのが僕の感想です。

もっとも、長谷巌氏は鉄工所の経営者ですから、映画興行については素人で、そんな経営をしていたのだと言われればそれまでです(さらに検証を深めたいと思います)。

わずかな可能性があるとしたら、翌月のアテネ劇場の広告にある

「平日正午、日祭十時、夜は七時より」

という文言が根拠になるかもしれません。

1946(昭和21)年10月22日付讀賣新聞より

この言葉からは、当初のアテネ劇場は、現在のように、ひとつの映画を短いインターバルで連続上映するのではなく、昼夜の間に長い空き時間があったようにも見えるのです。

さらに、劇場の開場を予告する広告には

「明るいスクリーン 素的なアトラクションに御期待下さい」

の惹句が記されていることから、映画だけでなく、合間に実演を見せるのが基本の興行形態だったとも考えられます。

仮にアテネ劇場がそういうタイプの映画館だったとすると、9月の3日間をひばりと楽団に貸与するというのも、あり得ない話ではないように思えてきます。

とはいえ、いずれも確証がないのが現状で、この話もまた五里霧中になりそう、そんな気配をうっすら感じつつの年初です。

本当に美空ひばりはアテネ劇場の舞台に立ったのでしょうか(後編につづく)


→つづく
(次回は1/23更新予定)

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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(125) 尾上大助のことと年の瀬のごあいさつ

先日、大高調査の一環で、昭和13年の都新聞をチェックしていたら、こんな記事を見つけました。

1938(昭和13)年11月7日付都新聞より

町田に収蔵されている台本にも名前のあった「尾上大助」についての記事です。

引用すると、この年の5月に横浜歌舞伎座での更生劇が終了した尾上大助が、

"自ら大将になつて横濱笑楽座を開けたところ、今度更生劇の延蔵、新之丞等が俄に横濱日活館出演が極まり、大助の體が必要になつたので、止むなく両方を駈持ちと極め、一日に日活館が三回、笑楽座が二回合計五回の働きに大助ヘトヘト"

なんだとか。

そんなことが本当にあるものかと、横浜貿易新報を確認してみたところ、まずは尾上大助らが笑楽座で興行を始めたという記事が見つかりました。

1938(昭和13)年11月2日付横浜貿易新報より

続いて、日活館(旧喜楽座)でアトラクションとして更生劇による歌舞伎が上演されたという記事もありました。

1938(昭和13)年11月8日付横浜貿易新報より

この記事中にも「大助」の記述がありますから、尾上大助は同時期に笑楽座・日活館のどちらの舞台にも出ていたわけで、どうやら都新聞の記事内容は正確なもののようです。


笑楽座は昭和5年、西前商店街(当時は中区、今は西区)にできた小劇場(定員248)で、現在の位置でいうと、湘南信用金庫藤棚中央支店の裏手あたりにあったそうです(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)。

西前商店街(正確には西前中央商店街だそう)は、いわゆる「藤棚商店街」の一部らしいので、伊勢佐木町への移動は「藤棚」から市電を乗り継げばそんなに苦ではなかったと思います。とはいえ、移動した上に舞台に立つのですから、なかなかのハードワーク(?)だったことは間違いないでしょう。

笑楽座についての記事は、この劇場の観客は夕方になると晩御飯の支度のために帰ってしまうという「風習」を知らなかった大助らがひどく困惑したという話だし、日活館の記事は更生劇の面々が「大石内蔵助」山科の場を30分という超特急で上演しているのに苦言を呈しているのですから、都新聞の記事同様、どちらも笑い話のような批判(揶揄)のような内容ではあります。


それはそれとして、実は都新聞の記事にはかなり気になることが書かれているのです。

"大助は新國劇の丸茂三郎の實兄"

丸茂三郎という役者は新国劇の二枚目俳優で、残念ながら戦死してしまうのですが、生きていれば戦後の新国劇を支える重要な役者になっただろうと思われる人物です。昭和11年刊の『俳優大鑑』によれば、本名も丸茂三郎で、明治45(1912)年1月29日生まれだそうです。

その兄が尾上大助だというのです。

戦前の映画俳優のことを驚くほど精緻に調べておられる水沢江刺さんのXの投稿で、丸茂三郎の兄は「丸茂一郎」といって、松本時之助の名で映画俳優として活動していたと知りました(→こちら)。

手元にあるキネマ旬報の『日本映画俳優全集』の「松本時之助」の項にも「戦前、新国劇の幹部として活躍した丸茂三郎は実弟である」書かれています。また、上掲の投稿にもありますが、映画俳優ののちは本名の丸茂一郎に戻り、すわらじ劇園(一燈会を母体とした劇団)に参加していたそうです。

さすがにこれを尾上大助と同一人物だと考えることはできません。

となると、丸茂三郎には2人(以上)の兄がいて、ひとりは丸茂一郎、もうひとりが尾上大助ということになりそうです。ありうる可能性は、尾上大助は一郎と三郎の間、一郎の弟で三郎の兄ということです(順当に考えれば本名は「丸茂二郎」なのかしらん)。

前掲の『日本映画俳優全集』によれば、丸茂一郎(松本時之助)の生年は1903(明治36)年6月20日なので、尾上大助が次兄であれば、生年は両者の間、1904(明治37)年から1910(明治43)年の間と考えられます。旧杉田劇場に出ていた頃は30代後半から40代前半という感じになるのでしょうか。


さらにこの記事の冒頭には「故幸蔵門下の腕達者尾上大助」ともあります。

幸蔵とは昭和9年に亡くなった二代目尾上幸蔵のことだと思われます。幸蔵の屋号は大橋屋で、本名が大橋幸蔵なのだそうです。

「大橋」という姓と屋号には見覚えがあります。

町田で閲覧した旧杉田劇場のほとんどの台本には尾上大助の名前が書かれていましたが、その横に肩書きのように「大橋家」と印字されているものがあったのです。しかも台本のほぼすべてを脚色しているのは「大橋繁夫」でした(こちら)。

尾上大助が幸蔵門下だとすると、彼の屋号もまた「大橋屋」であったと考えられそうですし、大橋繁夫という人物も、尾上幸蔵と関わりのある誰か、ということになりそうです。

あの調査からずっと謎だった尾上大助と「大橋」の関係を知る手がかりがやっと見つかった気がします。

旧杉田劇場での歌舞伎公演に関しては、尾上大助がかなり大きな役割を担っていたように感じています。尾上幸蔵と大助の関係、また大橋繁夫の正体を探ることで、旧杉田劇場の動向がさらに詳細にわかってくるかもしれません。来年以降の課題ですが、大高調査と並行して、尾上大助の調査も進めて行きたいと思います。


さて、今年の投稿はこれが最後です。

2025年最初の投稿は1月8日の「美空ひばりのデビュー再考・その1」でした。ほぼ2週間に一度の更新ペースなので、28回の投稿はほぼ予定通りということになります。

結局のところ今年も大高の正体に迫ることはできなかったわけで、普通に考えればこの一年は無為な時間とも言えますが、結果的には、旧杉田劇場や周辺の劇場、はたまた戦後芸能界の動向なども知ることができ、さらには戦後の磯子のことがより具体的にわかるようになったのですから、個人的な思いとしては望外の収穫があった一年でした。

現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」の講座をやらせてもらったのをきっかけに、歌舞伎(小芝居)のことを少し調べ始めたのもまた新たな展開で、大高だけではない杉田劇場の姿が見えてきたのも得たもののひとつです。

さらには、舘野太朗さんの情報から、町田で旧杉田劇場の台本を閲覧できたのも貴重な体験でした。また小針侑起さんから大事な資料をお借りできたことも、調査を前進させる大きな一歩となりました。

ご協力いただきましたみなさま、ありがとうございました。

基礎知識が不足しているせいでしょうが、調べれば調べるほど謎が深まる沼に陥っております(笑)

調査項目は増えるばかりではありますが、当面、

・大高よし男と近江二郎の最初の接点はどこか
・尾上大助と旧杉田劇場はどういう関係なのか
・美空ひばりは本当にアテネ劇場に出演したのか

といったあたりを重点項目にして、この先も飽きずにコツコツ調べていきたいと思います。


今年もこの取り留めのないブログをご愛読いただき、ありがとうございました。

来るべき年がみなさまにとって幸せに満ちたものとなりますよう。



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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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(124) 小針さん所有の資料から(つづき)

前回の続編なので更新スパンを短くしての投稿です。

今回も小針侑起さんにお借りしている資料から、大高よし男に関するものを見ていきたいと思います。


前回最後に紹介した、謎の残る1942(昭和17)年9月興行のパンフに続くのは、同年10月1日からの興行のものです。

このパンフ(筋書)から大高の名前も太字で表記されるようになります。8月31日のものでも伏見澄子、二見浦子、河合菊三郎といった役者はすでに太字になっているので、三友劇場ではこの頃からこうした表記が始まったのかもしれません。

演目は

時代劇『風雲熊本城 西南餘聞 谷村と千葉健三郎』(行友李風作)
時代劇『子負ひ道中』(巽義夫作)
時代劇『暁の鍔鳴り』(末廣薫作)

大高は『谷村と千葉健三郎』『暁の鍔鳴り』の2本に出演しています。

実はこの配役の中に気になる名前があります。

高田光太郎

です。彼は大高が出演した2本ともに出演しています。

この名前、実は少し前にも紹介したことがありました(→こちら)。

1941(昭和16)年3月、横浜敷島座の筋書(シキシマ・ニュース)に大高の前名、高杉彌太郎とともにその名が掲載されているのです。

ただ、この時は大高同様(おそらく)近江二郎一座の一員として出演していたはずなので、上掲の伏見澄子一座にこの名前があるのは少し奇妙な気がします(彼以外、重複した名前はなさそうだし)。

もっとも、そもそもを言えばこれが同一人物なのかもはっきりしません。

仮に同一人物だとして、ここに名前があるということは、前回人物像を推察したように「杉田劇場のオーナー・高田菊弥本人」とする説や「その関係者」説は、時期や地理的に少し考えにくくなってきます。安易な短絡は慎むべきですが、高田光太郎は大高よし男と直接つながりのあった役者、ことによると大高の直弟子やごく身近な弟弟子で、大高が近江一座以外に出演する際に帯同するような関係だった可能性もあります。

役柄からして子供ではなく、比較的若いの成人男性のようです。

同一人物かどうかも含め、この人についても、新たな調査対象として出演記録を追いかけるなど、もう少し調べてみなければなりません。そのことで大高の痕跡につながる可能性があるかもしれません。


さて、その次は10月20日からのもの。

ここでも大高の名前は太字で、「高田光太郎」の名前も見られます。

演目は

時代劇『唄ふ若様』(長一郎作)
時代劇『泣き濡れ長脇差』(藍島千里作)
時代劇『源九郎狐』(末廣薫作・演出)

大高は『唄ふ若様』『源九郎狐』の2本に出演。高田光太郎の方は3本すべてに出演しています。


小針さんの資料の中にある大高の名前が掲載されたパンフ(筋書)の最後は、これまでのものから半年ほど経った1943(昭和18)年4月20日からのものです。


同じ三友劇場ニュースですが、形状やサイズが変化していて、以前、僕が個人的に入手したパンフ(筋書)と同じ時期、同じ座組の興行のものと考えられます。

ここでも大高の名前は太字で記載されています。太字は伏見澄子、林長之助、三桝清、片岡松右衛門、筑紫美津子ですから、いずれも座長クラスか、かなり実力のある役者で、大高の役者としての格がかなり上がった印象です(なぜか宮崎角兵衛は太字ではなくなっています)。

この興行は伏見澄子一座と林長之助一座の合同公演です。以前も紹介しましたが、林長之助は盲目の歌舞伎役者なので、演目は

時代劇『情怨おけさ小唄』(坂本晃一作)
歌舞伎『廓文章』
時代劇『嬬戀天龍』(藍島千里作)

と、歌舞伎を挟む3本となっています。大高は『嬬戀天龍』の1本だけに出演しています。

なお、この興行に高田光太郎は参加していません。

半年の間に、高田の身に何かあったのでしょうか。時期的には召集・出征などが考えられますが、理由はどうあれ、この時は大高と別行動ということだったようです。近江二郎一座に参加していたということなのかもしれません。


さて、小針さん所有の大高関係資料はここまでですが、実は中には不二洋子一座に近江二郎一座が加盟参加しているパンフもありました。

これは大高が京都の舞台に出ていたのと同じ時期、1942(昭和17)年10月1日から、大阪弁天座での興行のものです。

ここには近江二郎のほかに、深山百合子、大山二郎といった(おそらく)近江一座の幹部俳優のほかに、のちに大高一座の支配人となる「大江三郎」の名前も見られます。

また、以前「今昔十二ヶ月と近江二郎」のタイトルで投稿した際に、写真と照合した役者の名前(澤井五郎、濱原義明、大島伸也、河村陽子、中村扇子)らの名前も見られます。彼らは不二洋子一座の座員だったのでしょうね。

この興行では、大江三郎の作による『青春の叫び』も上演されています。この作品はこれまでも広告などでたびたび目にしてきました。おそらく近江一座の人気レパートリーだったのでしょう。ただどんな内容なのかはさっぱりわからないままでした。

ありがたいことに、このパンフには梗概が掲載されていたので、今回、ようやくそのストーリーを知ることができたのです。

掲載されていた梗概をさらにざっくりまとめると

画才のある苦学生が芸者と恋に落ちるが、旧友によって画家としての未来も恋人も奪われる。年月が経ち、ふとしたことで再会した三人。男たちは激しい闘いになる…

といった形になるでしょうか。いかにも典型的な新派芝居といった内容です。終場、教会の鐘の音が葛藤やわだかまりを一気に解消するくだりは、劇作上、デウス・エクス・マキナの手法ともいえ、とても興味深い芝居です(全編を読んでみたい)。


なお、小針さんの著作『浅草の灯よいつまでも 浅草芸能人物列伝』の「不二洋子」の章に、1941(昭和16)年7月、京都南座での興行のパンフが掲載されています(※176ページ/時期は『松竹七十年史』で確認)

この時は「近江二郎加盟」の形ではなかったので、上述のような近江一座の幹部役者の名前は見られません。大江三郎の名前もありません。これまでの調査でも「大江三郎」の名前は常に近江二郎一座とセットで登場していて、やはり彼は近江一座の文芸部員だったと断定してもよさそうです(名前の近似からしてもそう考えられる)


こうしてみると、戦前から大高とともに名前の出る人のうち、少なくとも大江三郎と高田光太郎は、近江二郎と大高よし男をつなぐ重要な人物だったように思えます。逆に、近江二郎と大高よし男の関係は、人的交流のあるほどかなり密接なものだったとも言えます。

前にも書いていますが、近江二郎が最初に杉田劇場で興行をしたのが1946(昭和21)年1月26日〜2月4日。大高が杉田劇場を訪れた時期は「2月に入り」とされていますから(片山さんの証言による)、近江一座の千秋楽の頃です。

大高が杉田劇場に来たというのは、自身を売り込みに来たというよりは、近江二郎を訪れたと考えた方がいいでしょう。もしくはその段階ですでに戦後の近江一座に大高が参加していたのかもしれません。

いずれにしても、その大高を近江二郎が、高田菊弥や鈴村義二に専属劇団の座長として紹介(推薦)した、というのが自然な流れのように思えるのです。

それが決まったことで、近江二郎は、自分の一座の文芸部員・大江三郎や役者・高田光太郎(孝太郎)を大高の暁第一劇団に参加させたのではないでしょうか。

大高の出生地や居住地などはまだわかりませんが、少なくとも彼が戦後、浅草や京都ではなく、横浜にやって来たのは、近江二郎がいたから、という考えは、かなり確度の高い推論で、大高よし男の師匠は近江二郎である、という自説の信憑性も、かなり高いと自負していいように思います。


これまでの調査では、戦前・戦中、大高よし男が座長として一座を率いていた記録は見つかっていません。もしそうだとすると、大高にとって杉田劇場の暁第一劇団は初めて座長をつとめる劇団ということになるわけです。

戦争が終わり、新しい時代の中で、自分の一座ができたというのは、大高にとってどれほどの喜びだったかと思うと、彼の希望に満ちた姿が目に浮かぶようで、こちらまで心が浮き立ってきます(妄想です)。


そんなわけで、今回は前回に引き続き、小針侑起さんの資料から大高の足跡を辿ってみました。小針さん、あらためて、ありがとうございます(もうしばらく他座の調査も続けさせてください。なるべく早急にお返しいたします)



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