振り返ってみればもう1ヶ月以上も更新が滞っていますが、毎度ながら細々と調査は続けています。
近江二郎の痕跡をたどるべく、重要な資料である"FIFTH BORN SON"に、貧弱な英語力を総動員して向き合い、二郎の実父、近江友治さんが一家の出身地である広島県蘆名郡福相村(現福山市)を出て、横浜で事業(養鶏)を始めたことや、広島にある墓から遺骨を移して横浜にも墓を建てたこと(南太田の常照寺にある「第二墳墓」)などがわかってきました。
近江二郎については調査の本筋ではないので、資料や痕跡が見つかるたびに穴埋めをするような牛の歩みではあるものの、明治末期から終戦後までの彼の人生の全体像がぼんやりと見えてきたようにも思います。
さて、肝心の大高調査ですが、かねてからの方針の通り、川上好子の動向を調べることから手がかりをつかもうとしています。彼女が昭和12年頃に日吉劇を離れて独立し、横浜敷島座で舞台に立っていただろうことはわかってきましたが、ちょうどその頃の新聞に敷島座の詳細な公演情報が見当たらないので、そこに大高(高杉弥太郎)が関わっていたのかどうかがさっぱりわかりません。
どうやら新聞(横浜貿易新報)を活用した調査は、少なくとも大高に関しては限界にまで達したような気がします。
というわけで、ここで視点を変えて、本格的に当時の雑誌の劇評の中に大高が出てこないかどうかを探ってみることにしました。
そもそも当時の演劇雑誌に大衆演劇、それも剣劇の記事はそんなに多くないので、知名度からして大高の名前を見つけ出すのは確率的にかなり低いと思われます。それでも昭和16年9月から近江二郎一座が、不二洋子一座に助演する形で浅草松竹座に出ていますから、そのあたりを手がかりに劇評を探せば、なんらかの痕跡が見つかるかもしれない、というのが僕の思惑なのです。
そんなこんなで、まず手始めに、大高が横浜敷島座にやってくる昭和15年3月前後の、浅草の大衆演劇に関する記事をいくつか読んでみました。昭和16年9月の浅草松竹座における近江二郎一座『純情』(大江三郎脚色)の劇評は見つかったものの(『演藝画報』昭和16年11月号/「隅の報告」桂嬰生)、記事中、大高への言及はありませんでした。
あらためて横浜敷島座に近江二郎が登場した時の新聞記事を読み返すと、こうあります。
"久しぶりの近江二郎が一座を引連れ廿九日初日で開演。これへ深山百合子がコンビとして登場。更に横濱の名花川上好子の特別加盟あり。英榮子、大山二郎、高杉彌太郎等の豪華メンバーで、伊勢佐木興行街の人気を一手に占めようと凄いハリキリ方である"(昭和15(1940)年2月29日付 横浜貿易新報より)
以前にも書いたと思いますが、この記事を素直に読めば、高杉弥太郎(大高よし男)は「豪華メンバー」のひとりとして挙げられるほどの役者だったわけです。ですから、彼が近江一座に所属していたにしろ、フリーの立場だったにしろ、この記事より前の時期に、浅草なり名古屋なり、京都・大阪なりで、なんらかの媒体(新聞や雑誌)に記録が残るような活動していたと考えるのが自然です。のちに大高と共演する宮崎角兵衛(宮崎憲時)や三桝清、二見浦子は新聞・雑誌で言及されることもあるので、大高もきっと見つかるはずです。希望は捨てずに…
ところで、結論から言うと、今回の雑誌調査では大高の名前を見つけることはできませんでした。ですが、ひとつ気になる記事を発見したのです。
それは『演藝画報』昭和17年2月号に掲載された「盲目の俳優を見る」です。タイトルからして「もしや」と思いましたが、案の定、以前にも紹介した盲目の役者「林長之助」についての記事でした。
そこにはこう書いてあります。
"それは林長之助といふ人で、お父さんが鴈治郎の門弟であつたから、この人も同じ弟子になり、扇雀が京都で一座をこしらへてゐた時代には、相當な役までやつた娘形なのだが、中年から盲目になつたのださうである。今は籠寅興行部の専属になつて、暮には横濱の敷島座にかゝつてゐたので、Kさんに誘はれて見に行った。出し物は「安達の三」で、チャンと二役勤めてゐる"(同書, p.42)
「安達の三」は『奥州安達原』の三段目、通称「袖萩祭文」「安達三(あださん)」と呼ばれる演目で、安倍貞任の盲目の妻・袖萩が登場することから、林長之助のレパートリーになっていたのだと思われます。雑誌は昭和17年2月号ですが、文中「暮には」とあることから、これが昭和16年12月頃の敷島座であることがわかります(ちなみに「Kさん」とはおそらく小林勝之丞氏のことでしょう)。
この劇評に気になる記述があるのです。以下の一文です。
"松岡松右衛門といふ人の宗任が出てくる。堂々たる體格だが、その比例で恐ろしく聲が太く、狭い小屋で呶鳴るのが田舎くさい(中略)そこへ八幡太郎が出て来た。この人だけ變に棒だと思つたら、酒井淳之助の剣劇の人が勤めてゐるのださうで"
林長之助は昭和16年10月から敷島座に登場します。その際、酒井淳之助一座も合流していました。ここに「酒井淳之助の剣劇の人」という一文が出るのはそういう事情です。
昭和16年9月29日付神奈川県新聞より |
一方、大高はその前月、9月から松園桃子一座に参加する形で敷島座の舞台に出ています(10月の興行にも松園一座が参加しているので、10月は三座合同公演ということになります)。
上述の『演藝画報』に記載された舞台(昭和16年暮)に大高がいたのかどうかははっきりしません。ただ、11月21日からの舞台では、林長之助一座の『伽羅先代萩』に大高(高杉弥太郎)が出ていることはわかっています。
"片岡松右衛門の八汐、仁木。雲井星子の頼兼、沖の井。高杉彌太郎の絹川谷蔵、男之助。いずれも二役づゝ受持つての熱演に、敷島座のお客様は大よろこびである"(昭和16(1941)年11月24日付神奈川県新聞)
ですから暮の『奥州安達原』にも大高が出ていた可能性は否定できません。とすると、もしかしたら「この人だけ變に棒だと思つたら、酒井淳之助の剣劇の人が勤めてゐるのださう」の役者は大高(高杉弥太郎)なのかもしれません。もちろん大高とは別の酒井淳之助一座の誰かという可能性もありますが、もし仮にこれが大高だとしたら、大高は近江二郎一座ではなく酒井淳之助一座の人ということになるのです(また謎が深まりました)。
しかし、この人が大高だとしたら「變に棒」と酷評されているのが腑に落ちないところです。調べた範囲では、いずれの新聞でも剣劇役者として大高の評判はとても良いわけですから、いくら畑違いの歌舞伎とはいえ、ここだけ「棒」と書かれるほどの酷評だというのはいかにも不可思議です。やはり別人と考えるのが妥当なのでしょうか。
この年の敷島座12月興行についての新聞記事には「八日より新番組」と書かれている上に、松園桃子の名前が消え、雲井星子の名前が前面に出ることから、松園桃子一座は11月いっぱいで敷島座を去ったとも考えられます(11月24日の新聞記事でも松園桃子の名前が出てこないことから、10月末までだったのかもしれません)。
昭和16年12月8日付神奈川県新聞より |
林長之助らが来演する10月より前、9月の松園一座から大高は参加しているわけですから、松園一座とともに大高も敷島座を離れたのかもしれません。だとすると、この「變に棒」の役者は大高ではないことになります。
逆に、大高は年明けの昭和17年1月から川崎大勝座での伏見澄子一座に参加しますから、11月まで敷島座、1月から川崎というスケジュールを勘案すると、12月はまだ敷島座に残っていたという可能性も否定できません。
(ううむ)
毎度ながらあと一歩のところで大高の姿は捉えきれません。
ですが、今回の調査を経て、雑誌の記事にもうっすらと痕跡が感じられるようになりました。この線をもう少し進めてみることにします。
→つづく
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