(113) 銀星座のこと

このブログでもたびたび引用していますが、横浜の演劇史を調べる上で、基本的な資料のひとつになるのが小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年 ヨコハマ芸能外伝』です。

小柴さんはもともと神奈川県の職員で、県史編集室などで勤務されていた方ですから、県立図書館に収蔵されていた新聞の記事などから横浜の演劇史を調べていたのだと思います。長らく山手ゲーテ座で開催していた「横浜山手へフト祭」では、毎年、ゲーテ座にまつわるさまざまな講演をされていました。

この本の中には当然、杉田劇場や弘明寺の銀星座についての言及もあります。

杉田劇場の項には

「この大高一座が出ていた時、幕あいつなぎに、美空ひばりが美空一枝と名乗り、歌謡曲と踊りでこの舞台を踏んでいる。二十一年三月のことで、美空ひばりは八歳だった。初舞台である」

とも記載されています。

それまで美空ひばりのデビューは磯子のアテネ劇場とされていたのを、杉田の方が先だという説を新聞紙上などで積極的に発言したのが小柴さんで、後年、2005年にもこんな文章を神奈川新聞に寄稿しています。

新しい資料や証言が出てくれば、事実関係は修正されるものですから、上掲の引用でもひばりのデビューは「二十一年三月」(1946年3月)から「四十六年四月」へと変わっていますが、アテネではなく杉田でデビューという大筋に変わりはありません。

その正確な時期について、以前も書いたように(→こちら)、歌舞伎役者の澤村鐡之助の発言もあるので、3月か4月かははっきりしないところではありますが、個人的には美空ひばりは昭和21年4月から6月までの3ヶ月間、杉田劇場の舞台に立ち、大高一座だけではなく、市川門三郎一座の幕間にも出演していたと考えています。


さて、回り道が長くなりましたが、今回はひばりのデビューではなく、弘明寺にあった銀星座についてのお話です。銀星座や自由劇団のことは前にも何度か書いていますが、改めて。

小柴さんの本には、銀星座のオーナーの名前(杉山清)や、その人が戦前は役者をやっていたことなどが、事細かに書かれていて、その調査力に驚かされたものですが、先日、昭和24年の新聞記事に小柴さんの記述とほぼ同じ内容のものを見つけて、なるほど元ネタがここにあったのか、とようやく腑に落ちたところです。


見つけた記事は1949(昭和24)年7月4日付の神奈川新聞。「横浜劇場回り」と題する連載の2回目として「銀星座」が取り上げられているものです。

1949(昭和24)年7月4日付神奈川新聞より

余談ですが、連載の初回は6月27日で、取り上げられているのは、これまたこのブログで何度か言及している高根町の「横浜オペラ館」です。

劇場紹介というより新劇の「文化座」が来演した際の劇評が主な内容です。この時期、オペラ館では芝居とショウ(ストリップショーのようなものか?)を二本立て(?)で上演するのが一般的で、文化座の時も同じスタイルだったというのですから、今の感覚からするとかなり驚かされます。

1949(昭和24)年6月15日付神奈川新聞より

この連載はどうやら2回で終わってしまったようで、残念ながら杉田劇場をはじめ、このほかの劇場への取材記事は見つかっていません。


さて、それはさておき、当の銀星座。

小柴さんの本には

「地下鉄弘明寺駅を上がって弘明寺商店街を通り、瑞応山弘明寺へ向かうと橋にかかる。名を観音橋という。その橋を渡った右側にパチンコ弘明寺会館がある(註:いまはない)。ここが昭和二十一(一九四六)年、杉山清が建てた銀星座(定員二五〇人)といった実演劇場の跡である。杉山はかつて北村清峰という芸名を持った俳優で、太平洋戦争中は芸術報国と銘打って朝鮮・中国を巡業したこともあった」

と書かれています。

一方、上掲、昭和24年7月4日の新聞記事には

「こゝは二十一年の五月(註:実際は3月)現在の座主杉山清氏が自力によつてたてたもの」

とあり

「面白いのは座主杉山氏もかつては北村清峰という名をもつたれつきとした役者出身、藝術報国と銘うつて南米、朝鮮、中國を巡業したこともあるという」

とも書かれていて、内容的にほぼ同じもの。小柴さんはこの記事を参照して銀星座のことを書かれたのだと考えられます。


元ネタを読んでみれば、杉山清氏に話を聞いたのはどうやら小柴さんではなさそうだとわかるので、これまでの経験からして、裏づけをとらないと、正確な事実関係がはっきりしないことになります。

北村清峰という役者はどういう人だったのだろう、という疑問がループ再生のように繰り返し頭の中をよぎります。

手始めにインターネットなどを調べてみましたが、同名の役者がまったくヒットしないのも妙に気になるところです。

そうなると、またぞろ僕の悪い癖が出て、いささかうがった見方に傾斜しがちもなります。果たしてここに書かれている杉山清(北村清峰)のエピソードは事実なのでしょうか。

少しだけ検証してみます。

記事には

「横浜近傍の役者をあつめ座つき『自由劇団』をつくつた。同劇団の藤村正夫、安田猛雄は旧横浜歌舞伎座員だつた」

と書かれています。

以前にも書いたように(→こちら)、僕は銀星座の自由劇団は戦前の日吉良太郎一座の残党が中心となってできた劇団で、事実上の日吉劇団の後継団体だと考えています。日吉良太郎も自由劇団の背後で、さまざまな動きを見せていたのではないかとも思っているところです。

そもそもを言えば、戦前は「横浜の芝居といえば日吉劇」というほどの人気で、日吉良太郎の名前は横浜市民に広く知られていたはずなのに、戦後、日吉の名前は新聞紙上にもほぼ出なくなるばかりか、ここでも藤村正夫、安田猛雄を「旧横浜歌舞伎座員」としていて、日吉の名を敢えて書かないという強い意志すら感じるところです。

完全な妄想ですが、杉山清は実は日吉良太郎なんじゃないかとさえ思えてくるのです。

日吉一座が「愛国劇」と銘打って、演劇報国を旗印にしていたことと、北村清峰が「藝術報国」と銘打った巡業をしていたこと、また杉山清の芸名が「北村清峰」で、日吉良太郎の本名が「北村喜七」ということなども、悪癖の妄想に拍車をかけるところです。


北村清峰という役者が見つからないほか、銀星座と杉山清を結びつけるのも、上掲の記事のほかは、横浜市と横浜の空襲を記録する会が共同編集した『調査概報』第7集(1997)が、1950(昭和25)年5月の『月刊よこはま』を引用した一文くらいしか見つかりません(『月刊よこはま』が神奈川新聞の記事を引用している可能性は高いので、事実確認の根拠にはしづらいし、小柴さんが銀星座の定員を250人としているのは逆にこれが典拠なのかもしれません)。

もっとも、小柴俊雄さんは日吉劇の調査研究の第一人者でもありますから、その小柴さんが言及していないことからしても、やはり杉山清が日吉良太郎の偽名であるというのは、ちょっと妄想が過ぎるのでしょうね。

とはいえ、肝心なのは裏づけですから、もう少ししっかりと調査を重ねていきたいと思います(杉山清、北村清峰についてご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください)。


さて、新聞記事には小柴さんが引用されている内容のほかにも、銀星座について興味深いことが書かれています。曰く

「同座は自由劇団が定うちだが労基法などで月二回は休暇をとる必要があるのでこの日には浪曲とか漫才をかけている」

「団員は三十名、座方が四名。文藝部は小林重四郎一座にいた落合正義が一人週三本、月十五、六本をかきなぐつている」

「入りは七分、五人掛け木椅子(?)四十が全部埋つている上に、右手の『枡』(おゝ何となつかしいことよ)もほとんどふさがつている」

「二十年前の場末劇場の雰囲気満点だ。客は若い女が五、年寄り男女が四、あとの一が子供とアンちゃん連中で役者は自由活達な演技とセリフを喋り、観客の気持を完全につかみとつている」

「月二、三十円の手取りで活躍している団員連中に記者も激励の拍手をおくりたかつた」

などなど。銀星座や自由劇団の実像が垣間見られるようで、とても面白い内容です。

以前にも紹介しましたが、横浜市立図書館 デジタルアーカイブ(都市横浜の記憶)に銀星座の緞帳写真が掲載されています(→こちら)。これまで気づきませんでしたが、引用した記事の「右手に『枡』」というのは、写真の右隅に見える欄干のようなもので区切られた席なのかもしれません。

杉田劇場と銀星座は似たような劇場だと思っていましたが、「バラック」と評される杉田に比べると、銀星座の方がもう少し劇場らしい小屋だったような印象も受けます。


そんな杉田劇場と銀星座の違いは、やはり座付き(専属)劇団の存在です。大高よし男の死によって一座が立ちいかなくなってしまったことが、杉田劇場の閉場を早めたことは間違いないでしょう。大高が生きていたら、杉田の命運もかなり違ったものになっただろうし、銀星座との交流や切磋琢磨がこの地域の演劇文化をもっと活発なものにしたはずだと思います。


戦後の調査については、ようやく昭和24年末まで終わったところです。この頃になると杉田劇場の広告はお正月の初春興行など特別なものを除けば、新聞にほとんど載らなくなります。

一方の銀星座は継続的に広告が載りますが、自由劇団のロングランを続けつつも、昭和25年夏には専属というスタイルを終えることとなります。その後は市川門三郎などが登場することから、杉田劇場が事実上の閉場となった後の受け皿としての銀星座があったのだということも感じ取られるところです。

結局のところ、昭和24年から25年にかけてが、杉田劇場・銀星座の分岐点という印象です。

大衆演劇のスタイルが変化してきた時期なのかもしれませんし、演劇的娯楽の方向が実演から映画にはっきりとシフトしたのもこの時期なのでしょう。1950年代になると磯子区内でも、丸山町に根岸シネマ(1954)・映画座(1952)、杉田町に東洋劇場(1950)・杉田東映(1957)など、映画館が続々とオープンします。

そうした社会の変化が、杉田劇場や銀星座の斜陽の原因になったのかもしれません。

この先もさらに調査を続けていきます。


そんなこんなで、今回は弘明寺の銀星座について再考してみました。



→つづく
(次回は7/25更新予定)
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(112) 『小芝居の思い出』再考

以前、劇評家・三宅三郎の『小芝居の思い出』に描かれた旧杉田劇場の様子について、このブログに書きました(→こちら)。

同書には

「私は終戦後、間もないころであったが、横浜市外の杉田劇場に行ったことがある」(国立劇場調査養成部芸能調査室編/歌舞伎資料選書5『小芝居の思い出』三宅三郎著 / 1981, p.126)

とあり、そこでは市川門三郎一座の芝居を見たのだと書かれています。「終戦後、間もないころ」の記述から、その時期を昭和21年か22年頃と推定していました。

杉田劇場での市川門三郎一座の新聞広告は昭和21年6月1日付のものが最初で、そこには三宅が挙げている演目が見当たらないばかりか、それ以降、昭和23年までの広告にも同じ演目がなかったので、逆に昭和21年1月から3月の、新聞広告をほとんど出していなかった時期に門三郎が杉田劇場に来演していて、それを三宅が見たのではないか、とも推測したわけです。


ところが、先日、昭和24年の調査をしているうちに、どうもその推測が間違っていたのではないかと思わせる広告に行き当たったのです。

『小芝居の思い出』には彼が見た演目として

「茂々太郎時代の九蔵と市川門三郎などの一座であった。九蔵の牛若丸、門三郎の弁慶で、義太夫の「橋弁慶」や「十六夜清心」などをしていた」(同書, p.126)

と書かれています。

そして、見つけた新聞広告は

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

昭和24年7月14日から17日まで、杉田劇場の昼の部で『十六夜清心』と『橋弁慶』が上演されていたのです。

上の引用には『番町皿屋敷』についての言及がありませんが、これ以外に門三郎一座が杉田劇場で『十六夜清心』『橋弁慶』を上演した記録が見当たらないので、三宅が見たというのはこの舞台のことではないかと思われます。


杉田劇場に来た三宅を驚かせたのが、幕間に観客が潮干狩りをしていたということですが、実は上掲の広告が出る少し前、7月1日付の新聞に、杉田海岸の海の家が営業を始めたという記事があって、その中に

「梅雨もあがつたようなお天気つづきに、各海岸は潮干狩の人々でにぎわつているが、横浜杉田海岸も潮流異変で押し寄せたサバの子が逃げ場を失い、小さな子供でも手づかみで取れるので、思わぬ漁獲に人々は大よろこび」(下線筆者)

とあることから、三宅三郎が杉田劇場へ来た頃もまだ杉田海岸で潮干狩りをしていた可能性は高く、記述内容と合致するのです。

1949(昭和24)年7月1日付神奈川新聞より

やはり彼が杉田劇場に来たのは、昭和24年7月ということで間違いなさそうです。


ところが、推定していたより時期がかなり後ろにズレたことで、新たな疑問が湧いてきました。

前回も引用しましたが、三宅によれば当時の杉田劇場の客席は

「見物席は土の上に腰を下すのだが、後方の席は坐れるようになり」(同書, p.127)

となっていたそうです。

当初は昭和21年頃のことだと思っていましたから、開場すぐの杉田劇場には、客席前方に椅子がなかったのかもしれないと考えていましたが、これが昭和24年のこととなると話が変わってきます。

再掲になりますが、現存する昭和25年1月の写真を見る限りでは、後方のみならず前方の席にも椅子があるように思えるのです(背もたれのない長椅子のようなものか)。

旧杉田劇場客席:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

旧杉田劇場舞台:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

となると、前年夏まで椅子はなかったことになるのでしょうか?

さすがにそれはちょっと考えにくいことで、もしかしたら、夏場のみ暑さ対策で客席を取り払って土間に座ったということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。

いずれにしても三宅三郎が「土の上に腰を下す」と書いているのだから、少なくともこの時期の市川門三郎一座の公演時には、客席前方の椅子はなかったということになります(旧杉田劇場で市川門三郎の舞台を見たという地元の方がいらっしゃるので、確認してみます)


なお、上掲の広告にある通り、楽日は昼夜で演目を入れ替えたようなので、7月17日の『十六夜清心』『橋弁慶』は午後5時以降の上演ですから、幕間の潮干狩というのは現実的ではありません。つまり、三宅三郎が来場したのは7月14日(木)から16日(土)のいずれかということになりそうです。


これまで、旧杉田劇場は株を発行した昭和23年8月にはすでに経営が傾き始めていたとされてきましたが、新聞広告をもとにプログラムをデータ化してみても、ほとんど絶え間なく興行が続いているし、三宅三郎の文章からも「場末感」は読み取れこそすれ「斜陽」を感じることはできません。

株式会社杉田劇場 株券/昭和23年8月1日発行(杉田劇場所蔵)

ただ、この年(昭和24年)の10月以降、杉田劇場の新聞広告は激減します。「映画演劇情報」欄にも杉田劇場の名が出る頻度が急激に下がります(ほとんどなくなったと言っていいほど)。はっきりとした事情はわかりませんが、この頃から経費削減が顕在化しているようにも思えるのです。

間辺典夫氏が緞帳を寄贈した時期も含め、杉田劇場の経営状況の推移については、もう少し精査した方がよさそうです。






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(111) 藤村正夫、その後

劇団公演が終わって残務に追われていたため、今回もちょっと余録めいたお話です(スミマセン)。


大高亡き後、紆余曲折を重ねていた暁劇団は藤村正夫のもとで再起を図り、順調に公演を重ねていたことは前にも書きました(→こちら)。それが昭和23年の年末を最後にどういう事情か、藤村との関係が切れてしまったことも、ここでお知らせしたところです(→こちら)。


その後の藤村正夫がどうなったのかはわかりませんでしたが、意外なところでまたその名前を見ることになります。

昭和24年3月19日付の新聞に「河井劇団 大好評再上演」という広告が掲載されますが、ここに藤村の名前が出てくるのです。会場は「港映」。

1949(昭和24)年3月19日付神奈川新聞より

港映(こうえい)とは「港北映画劇場」の略称で、東横線妙蓮寺駅前にあった「菊名池」(いまも半分は残っていますが)のほとりに昭和21年10月開館した映画館です。もっとも、昭和30年代の明細地図では館の存在が確認できないので、旧杉田劇場同様、比較的短命の小屋だったと思われます。

どうやら港映は上掲の広告が出た時期に実演劇場への改装を進めていたらしく、その嚆矢が「河井劇団」だったのかもしれません。4月8日付の新聞広告では「設備完成の本舞台」という惹句が見られます。一般的に実演では入りが悪いので、客を呼びやすい映画館に改装、という流れが推測されがちですが、意外にもその逆の例もあったようですね(のちに「港映」は「妙蓮寺劇場」と改名し、市川門三郎一座の興行なども行なっています)。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

実はここに書かれている「河井劇団」というものがどういう存在なのか、さっぱりわかりません。この先の調査でわかってくることもあるかもしれませんが、いまのところは港映だけに突然現れた劇団という印象です(わかる方がいたらぜひ教えてください)。

劇団名の横に「横浜(?)歌舞伎直営の」という文言がありますが、この意味もよくわかりません。横浜大空襲で焼失するまで、日吉良太郎一座が根城にしていた劇場が「横浜歌舞伎座」ですから、その流れなのでしょうか。もしかしたらこれもまた銀星座の自由劇団のように日吉劇の残党による劇団だったのかもしれません。


余談になりますが、この日(4月8日)、港映の広告の隣には、横浜国際劇場の「松竹歌劇団」があり、その横には横浜オペラ館での星十郎の「新星座」公演が並んでいます。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

星十郎は『日本映画俳優全集』(キネマ旬報社刊)にも名前が掲載されている役者で、後年は映画やテレビドラマなどでも大活躍した人ですが、この時期、横浜オペラ館で頻繁に公演をしています。

なぜ横浜なのか、ずっと不思議に思っていましたが、戦前の新聞記事をひもとくと

「前名美崎重郎、甲府の生れ、十七歳の時日吉良太郎一座に初舞臺。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む」

とあることから、もともと日吉劇との縁があったために、戦後、横浜での舞台が多かったということなのかもしれません。

1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より

手元にある昭和12年の日吉良太郎一座のプログラムにはたしかに「美崎重朗」の名前があります(新聞記事では「重郎」とありますが、実際は「重朗」だったようです)。

星十郎は1917年、甲府生まれなので、17歳で日吉劇に入座したとすれば、単純計算で1934(昭和9)年ですから、1933年に日吉良太郎が横浜に進出する頃、役者の道に進んだということになります。甲信地方で絶大な人気があり「信州の団十郎」の異名をとった日吉良太郎に憧れて、青年時代の星十郎が劇団の門を叩いたと考えられそうです。


さて、話を戻すと、河井劇団に参加した藤村正夫は、どうやらこの劇団との関係も短命だったようで、同年6月29日初日の銀星座・自由劇団の広告に「巨星 藤村正夫」として名前が登場します。出戻りの出戻りみたいな感じで、藤村はこれ以降、再び自由劇団に参加することになるのです(ちなみにその横の「元老 渡辺実」も日吉劇の重鎮)。

1949(昭和24)年6月28日付神奈川新聞より

どうも藤村正夫という人は、ひとつ所に落ち着いて、というよりは、あちこちを渡り歩く性癖(?)がある役者だったのかもしれませんね。

それはそれとして、藤村正夫、星十郎、自由劇団…戦後まで続く影響を思うと、あらためて日吉良太郎一座の横浜演劇界での存在の大きさを感じるところでもあります。


そんなこんなで、今回もまたちょっと余談めいたお話でした。




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