(140) 横浜グランド劇場と大江美智子

野毛(花咲町)にある寄席「横浜にぎわい座」は、公募によって決まった名称ですが、伊勢佐木町(賑町)にあった劇場「賑座」に由来するとされています。「にぎわい座」は市の施設で、横浜市芸術文化振興財団が管理していますから、管理上も地理的にも「賑座」とは直接の縁はありません。

伊勢佐木町の「賑座」は市川荒二郎らの芝居に女性たちが熱狂したという「ハンケチ芝居」で名高い劇場ですが、その後、名称を「朝日座」と変え、さらに吉本興業の傘下となって「横浜花月劇場」となります。

横浜大空襲で大きな被害を受けた横浜花月劇場は、戦後、1946(昭和21)年11月26日、横浜グランド劇場という映画館として再出発することとなります。

横浜グランド劇場は、その後「横浜東映」さらに「伊勢佐木町東映」と名前を変え、2006年まで映画館としての営業を続けました。

僕の学生時代までは、馬車道には横浜宝塚劇場(横宝)の建物をそのまま使った市民ホールがあったし(現在は関内ホールに改築)、その斜向かいには横浜東宝会館がありました。伊勢佐木町・長者町にも松竹、日活、東映の映画館があって、映画を見るなら馬車道か伊勢佐木町というイメージの方が強かったように思います(横浜駅西口のムービルもあったけど)。

そう思うと、伊勢佐木町を中心とする戦前の劇場街の記憶は、戦後の復興を経て、1990年代あたりまでは継承されていたのかもしれません。残念ながら、今では街にそうした空気を感じることはありません。


さて、その横浜グランド劇場ですが、映画館として営業していたのが、1952(昭和27)年4月、突如、実演劇場へと転向したようで、その第一弾として鈴鳳劇・大江美智子一座の興行を始めます。

1952(昭和27)年4月1日付神奈川新聞より

興行は2ヶ月続き、その間、大江美智子への取材記事が新聞に掲載されます。

1952(昭和27)年4月7日付神奈川新聞より

この中で、浅草での女剣劇の凋落を引き合いに、一座の横浜公演を「横浜落ち」と揶揄する記者に対し

"下火になったのは邪道のストリップ劇場ですよ。正統の女剣劇には長い伝統があるし(中略)秋まで純粋な芝居が売りものだから、ますますひいき筋も増えています"

と息巻いています。かつての勢いを失いつつあったのは事実でしょうが、女剣劇を牽引してきたスターの心意気を感じる発言です。

この同じ記事の中に

"横浜グランド劇場が実演に転向したのを機会に"

とあることから、同劇場の実演転向が推定されるわけですが、杉田劇場や銀星座が閉場の危機を迎える頃、伊勢佐木町では実演劇場再興の動きがあったというのも皮肉なものです。

こうした事実からも「映画の流行が実演劇場の凋落を招いた」という図式は、少なくとも興行サイドの気運としては必ずしも当てはまっていないように感じるところです。むしろ、伊勢佐木町あたりでは映画館が林立したので、差別化のために実演を、という思惑もあったのではないかと思います。

とはいえ、結果としては実演の再興は実現せず、グランド劇場からして、2ヶ月後には映画館に戻ってしまうし、その他の劇場もほとんどがストリップや映画へ転向し、上述の通り、1990年代以降、2000年前後に軒並み閉場することとなります。

余談ですが、閉場した映画館はパチンコ店になったところが多いように感じます。ところが最近はパチンコ店も閉場し、跡地が店舗やマンションに建て替わっているようです。娯楽空間が一極集中しているのか、娯楽そのものが家庭内にとどまる形になってきているのか。劇場の栄枯盛衰を見ているだけでもいろんなことを考えさせられます。


さて、大江美智子は戦前、女剣劇三羽烏として、不二洋子・伏見澄子と並び称される大スターでしたが、前述の通り、戦後、苦境にあった女剣劇の中でもひとりスターの座を守り、昭和45年に引退するまでトップであり続けた人です。

上掲記事の中に

"昭和十四年の敷島座が横浜の初舞台"

とありますが、これは初代大江美智子の急逝に伴い、経験の浅い中、二代目を襲名にするにあたって、その前に(おそらく)経験を積むという意味合いで、敷島座に出演したことを指していると思われます。この時はまだ前名、大川美恵子の名前で出演しています。

1939(昭和14)年2月7日付横浜貿易新報より

敷島座での経験を梃子に、この後、二代目襲名興行が続くわけです。


横浜出身の大江美智子ですから、大高よし男を調べ始めた当初から、大江美智子と大高よし男の関係についてはずっと検証し続けてきました。が、結論としては共演など、具体的な接点はない、というところに落ち着きます。

おそらく女剣劇を一手に引き受けていた籠寅の保良浅之助は、三羽烏のサポートとして、大江美智子には田中介二や海江田譲二や市川百々之助、不二洋子には近江二郎、伏見澄子には大高よし男、というような「割り振り」をしていたのではないかと推測しています。

その点からも大高よし男は近江二郎一座で力をつけた若手剣劇役者、という位置付けだったのではないかと思われ、近江二郎と大高の師弟関係を推測しているところです。


そんなこんなで、今回も余談のようなネタですが、昭和27年に実演転向した横浜グランド劇場での大江美智子一座についてのお話でした。


→つづく
(次回は8/14更新予定)

前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(139) 東機工の謎

かねてから引用している旧杉田劇場従業員で、オーナー高田菊弥の甥であった片山茂さんへの聞き書きですが、この中に高田菊弥が戦時中、日本飛行機の下請けとして経営していた「東機工」という企業名が出てきます。

東京深川の材木商であったという高田菊弥が、日本飛行機で製造していた戦闘機などのプロペラを木で作る工場をこの地(杉田町2184番地)で経営していたという、その社名です(昭和16年創業)。

ですが、この「東機工」という会社については、いくら調べても詳細がわからないままでした。何かの略称という気もしていましたが、それもなかなかわからないというのが実情でした。

ところが、先日、別件で終戦後の横浜の(というより磯子の)工場について調べていたところ、『横浜市史II』の「資料編5(戦時・戦後の労働と企業)」に、1945年10月1日付で神奈川県労務課が調査した『工場名簿』などをもとにした、終戦直後の横浜の工場一覧が掲載されていて、その磯子区(というより正確には磯子警察署管内)の項に、所在地が「杉田町2184番地」(旧杉田劇場と同じ)の工場が掲載されていたのです。

その名称は「東機工」ではなく

東航空機工業(株)

でした。

『横浜市史II』資料編5 P.569より

この会社の戦時中の業種は「航空機ノ木製部品製作」で、これまで伝えられてきた「木製のプロペラを作っていた」という話とも一致します。どうやら「東機工」の正式な名称は「東航空機工業」だったようです。

戦後については「木工家具、建具製作転換計画中」と業種転換についての記載ありますから、まだこの時点では劇場経営という方針は打ち出していなかったことになります。

片山さんの記憶では

"職人さんの思いつきで、工場に残されたアルミニュームの板で鍋を造り、叔父と二人で厚木・秦野方面まで食料と交換のために行き"

とありますが、上掲、業種転換の内容をみると、本当にアルミの鍋を作っていたのかは不明です。そもそも木材加工場であったと思われるこの工場に、アルミニウムがあったのかどうかもよくわかりません。


聞き書きにある「東機工(とうきこう)」の名称からして、おそらく「東航空機工業」というのは「とうこうくうきこうぎょう」と読むと思われ、その略称なり略称の聞き間違いが「東機工」となっているようにも思えます(アズマコウクウキコウギョウとは考えにくい)。

ただ「とうこうくうきこうぎょう」というのはどことなく語呂が悪く、もしかしたら「東京航空機工業」ないし「東都航空機工業」「東横航空機工業」といったものが正確な名称なのかもしれないとも思っています。このあたりももう少し調べてみる必要がありそうです。

いずれにしても10月1日付の県の調査では劇場への転換は記載されておらず、一方で11月30日付の新聞には磯子に劇場(映画劇場)ができるとの記事が載っていることからすると、10月から11月初旬にかけて工場を劇場にするという決定がなされたと考えられそうです。

1945(昭和20)年11月30日付神奈川新聞より

なお、『横浜市史』に掲載された内容によれば、「東航空機工業」の職員は3名で、工員も3名(うち男性2名、女性1名)です。工員の女性1名は高田菊弥の夫人、能恵子だったとも考えられますが正確なところは分かりません。いずれにしても全6名の社員のうち、高田菊弥と片山茂、それにもしかしたら能恵子もいたとすると、かなり家内工業的な会社だったようにも思えます。

6名というのはかなり小規模な印象を受けますが、他の工場のデータと比較すると、当時の下請け工場としては平均的な規模だったようです。

一方の旧杉田劇場は、本田靖春『戦後 美空ひばりとその時代』によれば、

「営業、宣伝、経理、舞台装置、照明の各部署に計十五名を配した」(同書 P.50)

とありますし、大高一座の座員も20名ほどいたようなので、団体としての規模はかなり大きくなった印象です。新時代を迎え、大所帯の劇場経営を始めて、好きなことを仕事にした高田菊弥の心には、沸き立つような思いがあったのではないかとも想像できます(妄想です)。


旧杉田劇場については、新聞広告を除けば情報がかなり少なく、詳細がよくわからないところありますが、当時の出版物としてはほぼ唯一『昭和22年 映畫・藝能年鑑』(時事通信社)に具体的な劇場データが掲載されています。

昭和22年『映画・芸能年鑑』より

「全国演芸場総覧」の項にあるこの記載によれば、杉田劇場の経営者は高田菊弥、支配人は中澤春男、定員は320。また凡例記号では演劇専門劇場となっています。

ここに「支配人」として掲載されている「中澤春男」という人についてはよくわかりません。もしかしたら大高一座の支配人と目される「大江三郎」の本名なのかもしれません。大江三郎という名前自体、近江二郎にちなんだ筆名(芸名)ではないかと考えられますし、大高の没後も杉田劇場との関わりを持っていたことからすると、中澤=大江というのも突飛な推測ではなく、この「中澤春男」という人名も大高につながる重要な手がかりのひとつになりそうです。


ところで、新聞を中心とした調査は現在、旧杉田劇場の終焉(閉場時期)を確認すべく、1952(昭和27)年の前半あたりまでは確認してきましたが、この頃になるともはや杉田劇場という名前はまったく見られなくなります。完全に閉場してしまったのか、細々とでも経営は続いていたのかわかりません。

昭和27年に浜中が学芸会をやったという記録(写真)があるので、その情報が確認できれば、開場していたかどうかが判明しますが、未だに見つかっていないところです。そもそも「昭和27年」という写真のキャプションからして、これまでの調査からするといささか不確かなもので、今のところ杉田劇場の終わりの日付は確定情報がないままです。

ちなみに弘明寺では1952(昭和27)年11月11日から銀星座が大規模な改装に入り、翌年の11月には同地に有楽座という映画館ができますから、銀星座閉場の日付は1952年11月10日ということで確定できそうです。開場が1946(昭和21)年3月23日ですから、6年8ヶ月弱の経営だったということになります。

それでも弘明寺には、1954(昭和29)年に梅沢劇場が開場して、一時的に演劇が息を吹き返したようにも感じられます。ただ、その2年後に梅沢一座は解散し、梅沢劇場自体も1958(昭和33)年には閉場するので、戦前から連なる横浜の大衆演劇の歴史は、昭和30年代前半に完全に終息したと考えて間違いないでしょう。

同じ頃、1957(昭和32)年、聖天橋交差点に「杉田東映」ができて、杉田の街は「東洋劇場(杉田トーヨウ)」と合わせて映画館2館体制になります。

このように、杉田や弘明寺を基準に見れば、昭和30年前後が大衆の求める娯楽が、演劇から映画へとはっきり転換する時期だということがはっきりとわかります。横浜における大衆演劇の終息時期は、新劇を基調としたアマチュア演劇の隆盛や横浜演劇研究所の創設、演劇連盟や鑑賞団体の発足などとも重なり、少なくとも横浜では戦前から戦後にかけての演劇文化の、明確な転換期がこの頃だったのだろうなと感じられるところです。


杉田東映跡(建物はそのまま転用され、現在はパチンコ店「DAYS」)
2026/6/23撮影


前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(138) 肉の石川のはなし

杉田劇場の地元には、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」駅を結ぶ杉田商店街があって、乗り換え客の通り道であるせいか、人通りの多い賑やかな商店街です。

地元の歴史などを調べてみると、杉田が商店「街」というような形で成立したのは昭和初期からで、さらには今のようなにぎわいは、戦後、杉田駅前に闇市ができた頃からだろうと思われます(そもそも新杉田は昭和45年にできた新しい駅だし)。


杉田の地を大きく変貌させたきっかけは、市電の延伸(大正14年〜昭和2年)と京浜急行(当時は湘南電気鉄道)の開通と駅設置(昭和5〜6年)、さらに海軍の軍需工場であった日本飛行機(昭和9年)や石川島航空工業(昭和16年)の開設が影響したのだろうと僕は思っています。市電の延伸や京浜急行の開通も、横浜南部や横須賀の軍施設の設置と無関係ではないだろうとも考えています。

旧杉田劇場のオーナーであった高田菊弥からして、もともと戦時中、同地で日本飛行機の下請け工場を経営していた人ですから、杉田の街と軍需工場とが大きく関わっていたことは間違いなく、街としての成り立ちの原点は軍関係企業城下町のようなものだったと考えられます。


僕が転居してきた1970年代の終わり頃、杉田には企業の社宅や寮がたくさんありました。そもそも、それ以前の戦前・戦中から、杉田には前述の石川島や日本飛行機の社宅や寮が多くあったのです。

昭和6年刊の『土地宝典』を確認すると、商店や住宅の建ち並ぶ杉田エリアの大半は田や畑だったことがわかります。おそらく、工場建設にともなって、従業員の住宅確保のために、そうした田畑を住宅地にしていったのだろうと思われます。それが、大正時代頃までは梅林で名高い観光地として、また住民の暮らしとしては半農半漁の「村」としてあった杉田が、近代的な「街」へと変貌する第一歩だったのだろうと思います。

そのように、工場労働者や家族の衣食を賄うための商店が増えていったことで「杉田商店街」ができ上がっていったのだろうし、戦後は高度経済成長の中、多彩な商店があるという利便性とそれにともなう生活のしやすさが、各企業の社宅や寮を杉田に引き寄せたとも考えられます。

30〜40年前までは、商店街の賑わいからその頃の息吹が感じられたものです。


さて、このブログでも何度か言及していますが、現存する旧杉田劇場の記録の中に、新調された緞帳の写真があります。長らく昭和23年のものとされてきましたが、実際は昭和25年1月のものであることがわかっています(→こちら)。

旧杉田劇場緞帳(現杉田劇場所蔵)

ここには数々の個人名、店名が書かれていますが、その中に

「石川の牛豚肉」

があります。

拡大写真

写真が鮮明ではないものの、現物をよく見ると、店名の右肩には「杉田駅踏切際」、上に「うまいのである」と書かれていることがわかります。この店は「肉の石川」の看板を掲げて、杉田駅踏切近くで長らく営業を続けてきた精肉店です。

去る6月29日、多くの人に惜しまれながら、その「肉の石川」は閉店となりました。

店頭に貼り出された「閉店のお知らせ」によれば、開店は昭和24年だそうです。つまり緞帳に名前が書かれたのは開店から間もない頃だったわけです(そのことからも緞帳が新調されたのが昭和23年ではないことがはっきりします)


前述の通り、僕がこの街に転居してきたのは45年ほど前ですが、その頃の商店街には「肉の石川」のような個人商店がたくさんありました。商店街の成り立ちとともに開業した店がまだ多く残っていたとも言えます。

しかし、いろいろな事情があるのでしょう。ほとんどがいわゆるチェーン店に変わり、さらには杉田・新杉田両駅前の再開発などもあって、商店街の雰囲気は大きく様変わりしました。

旧杉田劇場の緞帳に書かれた店舗も、先年、隣町、白旗商店街の川崎青果店が閉店してしまいましたし、杉田にあった銭湯関係者の名前もすっかり過去のものとなってしまいました。これで「肉の石川」もなくなってしまうとなると、それとともに旧杉田劇場の記憶はもちろん、僕の知る杉田の街の様相もはるか彼方へ消え去ってしまうようにさえ思えてきます。

(昭和は遠くなりにけり)

とはいえ、それでもなお緞帳に名前のある深野力蔵商店(深野金物店)、平野歯科医院政寿司(伊藤政治)は変わらず営業を続けていますから、全国的に苦境が伝えられる地域の商店街の中では、杉田はまだまだ伝統を引き継ぎ、賑わいを維持する商店街として健闘している方なのでしょう。せめて、こんなマイナーなブログの中ででも、旧杉田劇場の記憶を継承することで、街の歴史を伝えつつ、地元の発展に寄与できれば嬉しいところです。


そんなこんなで、今回もまた傍流の話かつノスタルジーばかりになりましたが、旧杉田劇場の緞帳に書かれた「肉の石川」のお話でした。


2024年撮影


前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。