少し前に横浜映画研究家の山岸丈二さんと知り合う機会を得ました(ちなみに山岸さんの肩書きはこれにとどまらない、とても多才な方です)。
世代が近いこともあって、気さくにお話しできる間柄にもなりましたが、ひょんなことからあるパンフを巡ってヤフオクで競り合った仲であることもわかって、より親しくなったりしたのですから、なんとも不思議な縁です。
そんな事情があったおかげ(?)で、ありがたくもお手持ちのパンフ類のうち、戦前の横浜の演劇がらみのものをデータ化して送ってくださることになり、さらにはブログで公開してもいいとの許可をいただいておりますので、これから折を見て、小出しにご紹介してみたいと思います。
(山岸さん、ありがとうございました)
これまで杉田劇場の閉場時期を確認すべく、戦後の調査をぼちぼちと続けてきましたが、もはや大高ヨシヲを探す使命とは大きくかけ離れてしまっているので、最近はこれまでの資料をあらためて読み直して、見落としがないか検証する作業をスタートしております。
いずれ詳述しますが、大高よし男が前名の高杉弥太郎時代に横浜に来演したのは、近江二郎一座の座員としてだったことは、あたらめてほぼ間違いないと言えそうです。またそれより以前に、他の一座の横浜興行に高杉弥太郎の名前が見られないことから、来浜前に近江二郎一座が名古屋あたりで盛んに興行を打っていた頃、一座に参加したのではないかと推測されるところです。
というわけで、ひとまずは高杉弥太郎、大高よし男の記述のある新聞記事やパンフ類の見直し、さらには近江二郎の動向を調べてみたわけですが、大高とは直接関係ないものの、1942(昭和17)年5月の新聞記事に、近江二郎・市川栄升・前澤稲子の3人の名前が並ぶ公演についての告知を見つけたのです。
| 1942(昭和17)年5月18日付神奈川新聞より |
この3名の共通点は、いうまでもなく戦後、弘明寺銀星座で興行したことですが、戦前の横浜でも接点があったというのが面白いところです。
さて、このうちの市川栄升は、戦後の活躍はもとより、戦前の横浜では末吉町の横浜歌舞伎座の更生劇で活躍したことで知られています。
実は、山岸さんから送っていただいた資料の中に、横浜歌舞伎座の引札(?)もあって、なんと、その中に「新加入 市川栄升」の文言があるものが含まれていたのです。
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| 山岸丈二氏所蔵資料(抜粋) |
横浜演劇史研究家の小柴俊雄さんの労作、『郷土よこはま』115号に掲載された横浜歌舞伎座の番組一覧と付き合わせると、この引札は1935(昭和10)年8月19日からの興行を告知しているものだとわかります。
ずいぶん前ですが、かつてこのブログで言及したことのある『花柳演藝かゞみ』には、市川栄升のプロフィールが掲載されていて、その中には「昨年七月に更生劇に加入」と書かれています。
『花柳演藝かゞみ』の発行は昭和11年9月なので、引札の日付と記載内容は合致していると言えます。
掲載されているプロフィールを一部抜粋すると
"いつも沈思してゐる。楽屋の静かな人で大きな聲を聞かない"
"故小團次の門に入り最初は莚登満女と名乗り米次と變へ、大正九年明次(ママ)座で左團次が『信長記』を出した時池田輝正を勤め名題披露して市川栄升と改名した"
とあり、また
"中村歌蔵、市川莚三郎は栄升の實兄に當る"
"本名森田友之助"
(『花柳演藝かゞみ』自治新報社, 1936より)
とも書かれています。
『越境する歌舞伎』に記述のあるような(おそらく)一般に知られるプロフィールとは少し違うところもあるようですが、専門外で詳細の確認はできていません。いずれにしても大正期に名題披露した栄升は、昭和10年代には主に横浜を拠点に活動していたことは間違いなさそうです。
そんな栄升の所属していた更生劇は横浜で大きな人気を博しますが、1938(昭和13)年5月いっぱいまで、135回の連続興行を重ねたのちに横浜歌舞伎座での公演を休止します。ハマの團十郎と呼ばれた市川荒二郎が昭和10年に他界したことが影響したのかもしれません。
横浜歌舞伎座ではその後、それまで敷島座で興行していた日吉良太郎一座が専属となって、以後、終戦間際まで6年にわたる連続興行を続けることになります。
更生劇のメンバーはその後、日活館(旧喜楽座)のアトラクションに出演するなど、それなり活動は続けていたようです。以前にも書いたように南吉田町の金美劇場での歌舞伎興行も更生劇の影響が見られますし、戦後の杉田劇場、銀星座での歌舞伎興行にも、更生劇時代からの役者が多く参加しており、横浜の歌舞伎における更生劇の影響はかなり大きなものがあったと言えそうです。
とはいえ活動休止の当座は、根城を失った影響が大きかったようで、翌年の1月にはその後の役者としての体たらくを揶揄するように
"森野五郎は一昨年の十一月に舞䑓を退いたまま、小石川白山で『山楽』といふ待合の主人で、納つて。芝居を忘れてしまつてゐる"
"市川栄升は、東京の高田の馬場へ松栄館といふアパート、及び、旅館を開業して、安穏の日をおくり"
(1939(昭和14)年1月26日付横浜貿易新報より)
などの記事も出たりします。
しかしながら、上述のように横浜では戦後も更生劇やそのメンバーが影響を持ち続けていたわけですし、その後も、舞台や映画の世界で、市川栄升、森野五郎の両名ともが、かなり長い間、活躍を続けていたわけですから、いろいろありながらも、紆余曲折、山あり谷ありの役者人生をまっとうしたのだなという印象もまた強く感じるところです。
そんなこんなで、山岸さんの資料から思いがけず調査範囲が広がりましたが、戦後の横浜の歌舞伎の動向をふまえると、逆算するかのように戦前の更生劇のこともなんとなくわかってくるのが不思議で、それらも含めて、東京とは違う一種独特な個性を持った横浜演劇界の姿がぼんやりと理解でき始めてきたところです。
今回は大高調査に戻る予定が、またぞろ市川栄升といった歌舞伎寄りの話になりましたが、次回こそは大衆演劇の再調査に戻り、近江二郎周辺あたりのお話ができればと思います。
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