劇団公演が終わって残務に追われていたため、今回もちょっと余録めいたお話です(スミマセン)。
大高亡き後、紆余曲折を重ねていた暁劇団は藤村正夫のもとで再起を図り、順調に公演を重ねていたことは前にも書きました(→こちら)。それが昭和23年の年末を最後にどういう事情か、藤村との関係が切れてしまったことも、ここでお知らせしたところです(→こちら)。
その後の藤村正夫がどうなったのかはわかりませんでしたが、意外なところでまたその名前を見ることになります。
昭和24年3月19日付の新聞に「河井劇団 大好評再上演」という広告が掲載されますが、ここに藤村の名前が出てくるのです。会場は「港映」。
1949(昭和24)年3月19日付神奈川新聞より |
港映(こうえい)とは「港北映画劇場」の略称で、東横線妙蓮寺駅前にあった「菊名池」(いまも半分は残っていますが)のほとりに昭和21年10月開館した映画館です。もっとも、昭和30年代の明細地図では館の存在が確認できないので、旧杉田劇場同様、比較的短命の小屋だったと思われます。
どうやら港映は上掲の広告が出た時期に実演劇場への改装を進めていたらしく、その嚆矢が「河井劇団」だったのかもしれません。4月8日付の新聞広告では「設備完成の本舞台」という惹句が見られます。一般的に実演では入りが悪いので、客を呼びやすい映画館に改装、という流れが推測されがちですが、意外にもその逆の例もあったようですね(のちに「港映」は「妙蓮寺劇場」と改名し、市川門三郎一座の興行なども行なっています)。
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1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より |
実はここに書かれている「河井劇団」というものがどういう存在なのか、さっぱりわかりません。この先の調査でわかってくることもあるかもしれませんが、いまのところは港映だけに突然現れた劇団という印象です(わかる方がいたらぜひ教えてください)。
劇団名の横に「横浜(?)歌舞伎直営の」という文言がありますが、この意味もよくわかりません。横浜大空襲で焼失するまで、日吉良太郎一座が根城にしていた劇場が「横浜歌舞伎座」ですから、その流れなのでしょうか。もしかしたらこれもまた銀星座の自由劇団のように日吉劇の残党による劇団だったのかもしれません。
余談になりますが、この日(4月8日)、港映の広告の隣には、横浜国際劇場の「松竹歌劇団」があり、その横には横浜オペラ館での星十郎の「新星座」公演が並んでいます。
1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より |
星十郎は『日本映画俳優全集』(キネマ旬報社刊)にも名前が掲載されている役者で、後年は映画やテレビドラマなどでも大活躍した人ですが、この時期、横浜オペラ館で頻繁に公演をしています。
なぜ横浜なのか、ずっと不思議に思っていましたが、戦前の新聞記事をひもとくと
「前名美崎重郎、甲府の生れ、十七歳の時日吉良太郎一座に初舞臺。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む」
とあることから、もともと日吉劇との縁があったために、戦後、横浜での舞台が多かったということなのかもしれません。
1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より |
手元にある昭和12年の日吉良太郎一座のプログラムにはたしかに「美崎重朗」の名前があります(新聞記事では「重郎」とありますが、実際は「重朗」だったようです)。
星十郎は1917年、甲府生まれなので、17歳で日吉劇に入座したとすれば、単純計算で1934(昭和9)年ですから、1933年に日吉良太郎が横浜に進出する頃、役者の道に進んだということになります。甲信地方で絶大な人気があり「信州の団十郎」の異名をとった日吉良太郎に憧れて、青年時代の星十郎が劇団の門を叩いたと考えられそうです。
さて、話を戻すと、河井劇団に参加した藤村正夫は、どうやらこの劇団との関係も短命だったようで、同年6月29日初日の銀星座・自由劇団の広告に「巨星 藤村正夫」として名前が登場します。出戻りの出戻りみたいな感じで、藤村はこれ以降、再び自由劇団に参加することになるのです(ちなみにその横の「元老 渡辺実」も日吉劇の重鎮)。
1949(昭和24)年6月28日付神奈川新聞より |
どうも藤村正夫という人は、ひとつ所に落ち着いて、というよりは、あちこちを渡り歩く性癖(?)がある役者だったのかもしれませんね。
それはそれとして、藤村正夫、星十郎、自由劇団…戦後まで続く影響を思うと、あらためて日吉良太郎一座の横浜演劇界での存在の大きさを感じるところでもあります。
そんなこんなで、今回もまたちょっと余談めいたお話でした。
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