(45) 大高の事故・詳報

大高よし男は、昭和21年10月1日、旅公演に向かう途中、長野県大桑村で事故にあって亡くなります。

事故を伝える新聞記事は読売新聞神奈川版にありましたが、追加で調べてみると長野版にもほぼ同じ内容で、少し詳しい記事がありました。

ここには大高たちを乗せたトラックが「東京都向島區東亞合資會社所有」で、「某劇團員廿一名その他三名」を乗せていたと記載されています。

また、目的地が長野県西筑摩郡(現在の木曽郡)「吾妻村」ともあります。たびたび参照する片山茂さんの証言に、氏の出身地が「吾妻村」であり、故郷の青年団が杉田で大高の芝居を見て感動し、吾妻村へ招聘したとありますから、このトラックは間違いなく大高一座を乗せて片山さんの故郷へ向かっていたわけです。

この記事中には怪我人として「乗客長四郎(三五)さん他三名は骨折、脱臼一名軽傷六名」とあります。

この「長四郎」が姓・名なのか名だけなのか、また誰なのかもまったく不明ですが(年齢も判別が難しいところですがおそらく「三五」)、もし大高のことを指しているとしたら、本名は「長四郎」ということになりそうです。


読売の地方版に載るくらいですから、大きな事故だったのでしょう。地元紙の「信濃毎日新聞」ならばさらに詳しい記事があるはずです。

(やはり長野に行くしかないか)

気になるのは、大高は亡くなっているはずなのに記事には死亡者があったとは記されていない点です。そのあたりも追加の調査で判明するかもしれません。


なお、怪我人が収容されたのは、片山さんの証言では「須原診療所」ですが、記事によれば「須原清水医院」。

この清水医院は島崎藤村の小説にも出てくる歴史的建造物だそうで、現在は愛知県の明治村に移築されています(→こちら

歴史遺産としての価値と同時に、大高が運び込まれた病院が現存しているかと思うと、感慨深いものがあります。

(明治村にも行くしかないか)


→つづく

追記:前回の投稿で美空ひばりの『伊豆の踊り子』に出ていた俳優片山明彦のことを紹介しましたが、折よく、杉田劇場でギャラリー展『ひばりさんと名優たち』が開催されます。片山明彦、黒川弥太郎など、このブログで紹介した昔の名優たちも映画や舞台で美空ひばりと共演しています(「共演」とは言えませんが、大高よし男もひばりと同じ舞台に立っています。大高の写真があれば展示してもらいたいくらいです)。


(44) カギを握るのは近江二郎か?

ずいぶん前に「キーマン 鈴村義二」のタイトルで3回連続の投稿をしました。

旧杉田劇場のオーナー・高田菊弥が、劇場立ち上げにあたって、浅草の芸能界と通じていた鈴村義二に相談していたという話から、鈴村が杉田劇場のキーマンだと思っていたのです。

実際に鈴村は杉田劇場に関わっていたわけですから(杉田に住んでいたことは昭和30年代の住宅地図から判明している)、キーマンというのは間違いではないのかもしれませんが、判明してきた事実を積み重ねていくと、意外にも鈴村義二の影はだんだんと薄くなっていくのです。

開場当初は鈴村が劇団や役者のブッキングなどで力を発揮していたのではないかと想像できますし、美空ひばりを抜擢した時にも彼の審美眼が決定打となったはずです。

ですが、少なくとも大高一座が座付きになって連続公演を始めてから、さらには大高の急死で劇場運営が迷走を始めたあとは、鈴村よりも終戦までの横浜演劇界を背負っていた日吉良太郎一座の残党あたりが中心に動いていたようにさえ感じられるのです。


実は、調査を重ねる中で、日吉だけではなく、大高がかつて出演していた一座の座長、近江二郎も大きな影響力を発揮していたのではないかと考え始めています。

それを裏付けるように、これまで情報はないものと思っていた昭和21年1月、杉田劇場の開館当初の新聞広告に、近江二郎の名前が見つかったのです。

昭和21年1月22日付読売新聞(神奈川版)より

つまり、近江二郎は同年3月、弘明寺・銀星座の開場記念興行より2ヶ月も前に、すでに杉田劇場の舞台に立っていたのです。

(個人的にはかなり重要な大発見です!)

前述の通り、大高よし男は、前名・高杉彌太郎時代に近江二郎一座に参加しています。それどころか一座の座員だったかもしれません。

大高よし男が杉田劇場の専属劇団の座長になるにあたって、近江二郎が関わっていたと考える方が自然な気すらしてきます。


片山茂さんの証言には「昭和21年2月に入り、大高ヨシヲ劇団の出演依頼があり」とあります。

一方で、広告によると、近江二郎一座は昭和21年1月26日から10日間(2月4日まで)杉田劇場で公演しています。大高がやってきたとされる「2月に入り」というのは近江二郎が杉田の舞台に立っていた時期と重なるわけです。

この時の近江二郎一座に大高よし男が参加していたか、少なくとも、この公演を大高よし男が見にきていた可能性は大です。

つまり「2月に入り」という証言の時期が正しければ、杉田劇場には確実に近江二郎と大高よし男が一緒にいたのです。

旧知の二人のはずだし、大高からすれば近江二郎は師匠か大先輩にあたる人です。大高がひどい不義理でもしていない限り、一種の師弟関係があったといって間違いありません。

その関係性からすると、近江二郎が劇場オーナーの高田菊弥やプロデューサーの鈴村義二に大高を売り込んだとも考えられます。

銀星座の柿落とし(開場)は3月23日ですから、時期的にすでに近江二郎は銀星座の話を受けていたでしょう。

杉田は大高に任せ、自分は銀星座で、車の両輪のようにこの地域の演劇を盛り上げる。そんな計画を提案したとしても、なんら不自然ではありません。


さらには、以前「横浜の大高よし男」の投稿で妄想したように、ともに井土ヶ谷に住んでいた日吉良太郎と近江二郎。戦前の剣劇や大衆演劇のことを書いた本などでは、両者ともに名前の挙がる人です。お互いに知らないわけはありません。町内ですれ違うこともあったでしょう。もしかしたら、互いの家を行き来していたかもしれません。

その両者が戦後の横浜演劇界のこと、日吉一座の残党や近江一座の面々の生活を考え、銀星座に日吉一座残党による「自由劇団」、杉田劇場に大高よし男を中心とした「暁第一劇団」をつくり、彼らの生活を守ろうと相談していたとしても、これまたなんら不思議ではありません(それが正しければ大高一座に日吉一座の残党がいる理由も説明がつきます)。


キーマンは鈴村義二のつもりでいましたが、どうやらカギを握るのは近江二郎なのかもしれません。

近江二郎と日吉良太郎、終戦間際からのこの二人の動きを探ることが、杉田劇場と大高よし男の真実に迫るキーになることは間違いなさそうです。


余談ながら、上記広告にある「片山明彦」は戦前から映画の子役として活躍していた俳優で、後年、美空ひばり主演の映画『伊豆の踊り子』(1954)にも出演しています。その後は70年代まで数々の映画やテレビドラマに出演、2014年に88歳で没しています。

杉田劇場は常設劇場としては、わずか5年で閉場してしまいますが、この舞台に立った人たちが、戦後の芸能界を支えたのだといっても過言ではありません。


→つづく

(43) 大高一座の事故報道

大高よし男の戦前・戦中の活動はだいぶわかってきましたが、プロフィールについての手がかりはほぼありません。

もはや大高を知る人に話を聞くしか手立てがないのかもしれませんが、旧杉田劇場で芝居を見たという方々も、80代くらいの方でさえ昭和21年前半だとまだ10歳になるかならないか。大高の舞台を見るにはちょっと早かったようで、実際に彼の姿を見たという人にはまだ出会えていません(もう少し早く調査を始めていればと悔やまれます)。

残る手がかりは、大高が事故で亡くなった時の情報ですが、これもなかなか見つからない。

親族や劇場が出したかもしれない「死亡広告」があれば、大高の本名や葬儀の日時・場所がわかるのではないかと考えていますが、まだそこまで至っていません。

ですが

その調査の過程で、ようやく大高の事故を報じたと思われる新聞記事を発見しました。

昭和21年10月3日付読売新聞(神奈川版)より

これは長野県松本からの電話による記事なので、「磯子区」がなぜか「木曽木」となっていたり、いくつかの混乱が見られますが、事故は10月1日の夜9時頃に発生、現場は「長野県西筑摩郡大桑村須原(現・長野県木曽郡大桑村)」。これは、現杉田劇場のウェブサイトに掲載されている、片山茂さんの証言ともほぼ一致します。

記事には大高の名前も劇団名もなく、「農村慰問劇団」と記されているだけですが、さまざまな情報を突き合わせると、大高一座であることはほぼ間違いないだろうと思います。また記事には運転していたドライバーの名前が書かれています。住所も年齢もあるので、これも大きな手がかりのひとつになりそうです。


ちなみに、以前も記したとおり、大高の葬儀は弘明寺で執り行われたのではないかと考えています。また杉田劇場での「大高よし男追善興行」が

(1) 昭和21年10月17日〜20日
(2) 昭和21年10月22日〜(終演日は不明) 

というスケジュールであると思われることから、葬儀はその合間の10月21日に行われたのではないか、というのが僕の推測です。

(1) 昭和21年10月17日〜20日の追善興行

(2) 昭和21年10月22日の新聞広告
(杉田劇場ウェブサイトより)

そして上記 (2)の追善興行には、かつて大高と共演したこともある元映画スターの「中野かほる」が出ていることから、葬儀の写真の中央やや奥にいる女性が「中野かほる」本人ではないかとも推定しているところです。

大高よし男葬儀写真
(中央、僧侶の左奥にいる女性が「中野かほる」ではないか?)


一歩一歩、地道な作業ですが、戦前と戦後、生前と没後、それぞれの時期を丹念に調べていけば、きっと大高よし男の正体に迫れるはずだと信じて、今日も調査は続きます。


→つづく