(141) 川崎花月座の田毎一平

旧杉田劇場のプロデューサーとでもいうべき鈴村義二は、戦前、浅草の興行界で活躍した人ですが、戦後、高田菊弥に招かれて横浜に転居します。

鈴村義二

調べてみると、最初は磯子町の小字「峰」というところにいたようです。その後、杉田町の杉田八幡宮近くに移って、そこを拠点にさまざまな活動をしていたと思われます。


鈴村には浅草の芸能史を振り返るような著作がいくつかあって、その中でも『浅草昔話』は芸能界の裏話的な話が多く興味深いものですが、不思議なことに横浜や杉田劇場についてはまったく言及していません。そのため、一時は鈴村が本当に杉田劇場に関わっていたのか、疑問に思っていたほどです。


前にも紹介しましたが『浅草昔話』には鈴村の略歴が載っていて、その最後には

「大麻博之殿主の詩吟道場日本放光殿剣吟舞踊並びに舞踊田毎流宗家田毎一平と号す」

と書かれています。

大麻博之という人は詩吟の人のようで、調べてみると昭和10年、横浜八聖殿で行われた「第一回全国詩吟大会」にも参加しているとのことです(→こちら

詩吟のことについてはまったくの門外漢なのでよくわからないところですが、会場が本牧の八聖殿ですから横浜との縁も浅からぬものがあるのでしょう。


さらに調べると剣舞の世界では「日本放光殿田毎流」というのは鈴村義二が始めた流派とされていて、拠点は横浜市。昭和43年には『剣舞踊(剣舞踊振付集)』という本も出しています。

この本の奥付を見ると、編者が鈴村義二で、発行者は小川長治、発行所が「田毎会」となっています。どうやら「日本放光殿田毎流」の運営団体あるいは道場として「田毎会」が存在し、そのトップが小川長治という人だったようなのです。

ここにも末尾に鈴村の略歴が書いてありますが、やはり杉田劇場との関わりについてはまったく記載がありません。そして、田毎流については『浅草昔話』とは少し内容が変わっていて

「(昭和)二十九年 詩吟道場詩吟道場日本放光殿主大麻博之氏の要望で日本放光殿の剣舞踊宗家となる」

と書かれています。変化の要諦は「要望」の一言ですが、このあたりの事情はよくわかりません。眉唾の印象も拭いきれませんが、やはりよくわかりません。

田毎会の代表者(理事長)である「小川長治」についてもよくわかっていません。手がかりはこの本しかありませんが、鈴村の手になるあとがきには、彼について

「明治三十六年二月千葉県君津町に生まれ(中略)戦后七・八年して、同志百数人を得て小生と民主革新同志会を組織して活動しましたが政治運動より大切な事のある事を感じて解散して、三十五年親睦と相互扶助心身鍛錬を目的に一灯クラブを組織、その会長となって今日に至っている」

と書かれており、さらに

「親和一灯クラブに芸能部を設けたのをきっかけで白鳳氏(註:小川長治のこと)は五十二才の年齢を超越して剣舞踊の稽古に入り(中略)その熱心さは指導の小生も驚嘆著しい心境で三十年名取昇進高島屋ホールで披露白鳳と号し(以下略)」

とされています。田毎会の理事長である「田毎白鳳」が小川長治その人というわけです。


鈴村義二は戦前、芸能とともに政治活動も行なっていたようですから、戦後、横浜に転居した後も、芸能と政治の双方でいろいろな活動をしていたように思われます。

鈴村の書いていることが正しければ、昭和27〜28年ごろに小川長治と政治活動を始めたとのことですから、杉田劇場が閉場して具体的な活動の場がなくなった鈴村が新たな展開として、小川とともに政治運動と剣舞の活動を始めたということなのかもしれません。

小川長治についてさらに調べると、面白いことに杉田駅前で「大阪屋不動産」という会社を経営していたことがわかりました。『剣舞踊』の奥付にある電話番号と、大阪屋不動産の電話番号が同一でしたから、同じ人物であることは間違いなさそうです。

杉田劇場のオーナーであった高田菊弥もまた後年、「菊や不動産」を経営していたことと合わせると、鈴村義二をめぐっては、政治と芸能と不動産というのが不思議なリンクをしているように感じますが、具体的な調査が進んでいませんから、これも想像(妄想)の域を出ません。


さて、前置きがかなり長くなりましたが、実は先日の調査で1952(昭和27)年5月の新聞に以下の広告を見つけたのです。

1952(昭和27)年5月10日付神奈川新聞より

川崎花月座という劇場での「劇団前衛座」の公演案内ですが、二番目の演目に「田毎一平・作」の文字が見られます。

もちろん同姓同名の可能性は否定できないものの、常識的に考えてこれは鈴村の異名・筆名であるとするのが妥当でしょう。

昭和27年といえば杉田劇場が閉場となったとされる時期で、小川長治とともに政治運動および田毎会を始めた時期にも近く、それにあわせて「田毎一平」としての芸能活動(作家活動)を始めていたとも考えられそうです。杉田劇場の次の場所を探していたのかもしれません。

この「川崎花月座」というのは劇場名からして吉本傘下のように見えますが、1947年版『映画芸能年鑑』によれば経営者は「美須鐄」とありますから、現在のチネチッタにつながる「美須興行」の劇場ということになります。

演目からして剣劇などの大衆演劇とストリップを上演していた劇場のようで、横浜でいえば横浜セントラル劇場のようなものだったのでしょうか。いずれにしても杉田劇場のように、やはり戦前からの流れを組む大衆演劇の世界で、鈴村は活動をしていたと言えそうです。

現段階でわかっていることはこれだけです。

戦後、横浜に転居したあとの鈴村義二についてはわからないことばかりです。ただ、高田菊弥と鈴村は旧知の仲だったことからも、横浜での鈴村の足跡をたどることは杉田劇場の謎を解明することにもつながりそうですから、地道に情報を拾い集めていきたいと思います。


そんなこんなで、今回は川崎花月座の広告に名前の出た「田毎一平」こと鈴村義二のその後についてのお話でした。


→つづく
(次回は8/28更新予定)

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(140) 横浜グランド劇場と大江美智子

野毛(花咲町)にある寄席「横浜にぎわい座」は、公募によって決まった名称ですが、伊勢佐木町(賑町)にあった劇場「賑座」に由来するとされています。もっとも「にぎわい座」は市の施設で、横浜市芸術文化振興財団が管理していますから、管理上も地理的にも「賑座」とは直接の縁はありません。

伊勢佐木町の「賑座」は市川荒二郎らの芝居に女性たちが熱狂したという「ハンケチ芝居」で名高い劇場ですが、その後、名称を「朝日座」と変え、さらに吉本興業の傘下となって「横浜花月劇場」となります。

横浜大空襲で大きな被害を受けた横浜花月劇場は、戦後、1946(昭和21)年11月26日、横浜グランド劇場という映画館として再出発することとなります。

横浜グランド劇場は、その後「横浜東映」さらに「伊勢佐木町東映」と名前を変え、2006年まで映画館としての営業を続けました。

僕の学生時代までは、馬車道には横浜宝塚劇場(横宝)の建物をそのまま使った市民ホールがあったし(現在は改築されて「関内ホール」)、その斜向かいには横浜東宝会館がありました。伊勢佐木町・長者町にも松竹、日活、東映の映画館があって、映画を見るなら馬車道か伊勢佐木町というイメージの方が強かったように思います(横浜駅西口のムービルもあったけど)。

そう思うと、伊勢佐木町を中心とする戦前の劇場街の記憶は、戦後の復興を経て、1990年代あたりまでは継承されていたのかもしれません。残念ながら、今では街にそうした空気を感じることはありません。


さて、その横浜グランド劇場ですが、映画館として営業していたのが、1952(昭和27)年4月、突如、実演劇場へと転向したようで、その第一弾として鈴鳳劇・大江美智子一座の興行を始めます。

1952(昭和27)年4月1日付神奈川新聞より

興行は2ヶ月続き、その間、大江美智子への取材記事が新聞に掲載されます。

1952(昭和27)年4月7日付神奈川新聞より

この中で、浅草での女剣劇の凋落を引き合いに、一座の横浜公演を「横浜落ち」と揶揄する記者に対し

"下火になったのは邪道のストリップ劇場ですよ。正統の女剣劇には長い伝統があるし(中略)あくまで純粋な芝居が売りものだから、ますますごひいき筋も増えています"

と息巻いています。かつての勢いを失いつつあったのは事実でしょうが、女剣劇を牽引してきたスターの心意気を感じる発言です。

この同じ記事の中に

"横浜グランド劇場が実演に転向したのを機会に"

とあることから、同劇場の実演転向が推定されるわけですが、杉田劇場や銀星座が閉場の危機を迎える頃、伊勢佐木町では実演劇場再興の動きがあったというのも皮肉なものです。

こうした事実からも「映画の流行が実演劇場の凋落を招いた」という図式は、少なくとも興行サイドの気運としては必ずしも当てはまっていないように感じるところです。むしろ、伊勢佐木町あたりでは映画館が林立したので、差別化のために実演を、という思惑もあったのではないかと思います。

とはいえ、結果としては実演の再興は実現せず、グランド劇場からして、鈴鳳劇のすぐ後、2ヶ月後には映画館に戻ってしまうし、その他の劇場もほとんどがストリップ劇場や映画館へ転向し、上述の通り、それも1990年代以降、2000年前後に軒並み閉場することとなります。

余談ですが、閉場した映画館はパチンコ店になったところが多いように感じます。ところが最近はパチンコ店も閉場し、跡地が店舗やマンションに建て替わっているようです。娯楽空間が一極集中しているのか、娯楽そのものが家庭内にとどまる形になってきているのか。劇場の栄枯盛衰を見ているだけでもいろんなことを考えさせられます。


さて、大江美智子は戦前、女剣劇三羽烏として、不二洋子・伏見澄子と並び称される大スターでしたが、前述の通り、戦後、苦境にあった女剣劇の中でもひとりスターの座を守り、昭和45年に引退するまでトップであり続けた人です。

上掲記事の中に

"昭和十四年の敷島座が横浜の初舞台"

とありますが、これは初代大江美智子の急逝に伴い、経験の浅い中、二代目を襲名にするにあたって、その前に(おそらく)経験を積むという意味合いで、敷島座に出演したことを指していると思われます。この時はまだ前名、大江美恵子の名前で出演しています。

1939(昭和14)年2月7日付横浜貿易新報より

敷島座での経験を梃子に、この後、二代目襲名興行が続くわけです。


横浜出身の大江美智子ですから、大高よし男を調べ始めた当初から、両者の関係についてはずっと検証し続けてきました。が、結論としては、共演など具体的な接点はない、というところに落ち着きます。

おそらく女剣劇を一手に引き受けていた籠寅の保良浅之助は、三羽烏のサポートとして、大江美智子には田中介二や海江田譲二や市川百々之助、不二洋子には近江二郎、伏見澄子には大高よし男、というような「割り振り」をしていたのではないかと推測しています。

その点からも大高よし男は近江二郎一座で力をつけた若手剣劇役者、という位置付けだったのではないかと思われ、近江二郎と大高の師弟関係を推測しているところです。


そんなこんなで、今回も余談のようなネタですが、昭和27年に一時的に実演転向した横浜グランド劇場での大江美智子一座についてのお話でした。


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(139) 東機工の謎

かねてから引用している旧杉田劇場従業員で、オーナー高田菊弥の甥であった片山茂さんへの聞き書きですが、この中に高田菊弥が戦時中、日本飛行機の下請けとして経営していた「東機工」という企業名が出てきます。

東京深川の材木商であったという高田菊弥が、日本飛行機で製造していた戦闘機などのプロペラを木で作る工場をこの地(杉田町2184番地)で経営していたという、その社名です(昭和16年創業)。

ですが、この「東機工」という会社については、いくら調べても詳細がわからないままでした。何かの略称という気もしていましたが、それもなかなかわからないというのが実情でした。

ところが、先日、別件で終戦後の横浜の(というより磯子の)工場について調べていたところ、『横浜市史II』の「資料編5(戦時・戦後の労働と企業)」に、1945年10月1日付で神奈川県労務課が調査した『工場名簿』などをもとにした、終戦直後の横浜の工場一覧が掲載されていて、その磯子区(というより正確には磯子警察署管内)の項に、所在地が「杉田町2184番地」(旧杉田劇場と同じ)の工場が掲載されていたのです。

その名称は「東機工」ではなく

東航空機工業(株)

でした。

『横浜市史II』資料編5 P.569より

この会社の戦時中の業種は「航空機ノ木製部品製作」で、これまで伝えられてきた「木製のプロペラを作っていた」という話とも一致します。どうやら「東機工」の正式な名称は「東航空機工業」だったようです。

戦後については「木工家具、建具製作転換計画中」と業種転換についての記載ありますから、まだこの時点では劇場経営という方針は打ち出していなかったことになります。

片山さんの記憶では

"職人さんの思いつきで、工場に残されたアルミニュームの板で鍋を造り、叔父と二人で厚木・秦野方面まで食料と交換のために行き"

とありますが、上掲、業種転換の内容をみると、本当にアルミの鍋を作っていたのかは不明です。そもそも木材加工場であったと思われるこの工場に、アルミニウムがあったのかどうかもよくわかりません。


聞き書きにある「東機工(とうきこう)」の名称からして、おそらく「東航空機工業」というのは「とうこうくうきこうぎょう」と読むと思われ、その略称なり略称の聞き間違いが「東機工」となっているようにも思えます(アズマコウクウキコウギョウとは考えにくい)。

ただ「とうこうくうきこうぎょう」というのはどことなく語呂が悪く、もしかしたら「東京航空機工業」ないし「東都航空機工業」「東横航空機工業」といったものが正確な名称なのかもしれないとも思っています。このあたりももう少し調べてみる必要がありそうです。

いずれにしても10月1日付の県の調査では劇場への転換は記載されておらず、一方で11月30日付の新聞には磯子に劇場(映画劇場)ができるとの記事が載っていることからすると、10月から11月初旬にかけて工場を劇場にするという決定がなされたと考えられそうです。

1945(昭和20)年11月30日付神奈川新聞より

なお、『横浜市史』に掲載された内容によれば、「東航空機工業」の職員は3名で、工員も3名(うち男性2名、女性1名)です。工員の女性1名は高田菊弥の夫人、能恵子だったとも考えられますが正確なところは分かりません。いずれにしても全6名の社員のうち、高田菊弥と片山茂、それにもしかしたら能恵子もいたとすると、かなり家内工業的な会社だったようにも思えます。

6名というのはかなり小規模な印象を受けますが、他の工場のデータと比較すると、当時の下請け工場としては平均的な規模だったようです。

一方の旧杉田劇場は、本田靖春『戦後 美空ひばりとその時代』によれば、

「営業、宣伝、経理、舞台装置、照明の各部署に計十五名を配した」(同書 P.50)

とありますし、大高一座の座員も20名ほどいたようなので、団体としての規模はかなり大きくなった印象です。新時代を迎え、大所帯の劇場経営を始めて、好きなことを仕事にした高田菊弥の心には、沸き立つような思いがあったのではないかとも想像できます(妄想です)。


旧杉田劇場については、新聞広告を除けば情報がかなり少なく、詳細がよくわからないところありますが、当時の出版物としてはほぼ唯一『昭和22年 映畫・藝能年鑑』(時事通信社)に具体的な劇場データが掲載されています。

昭和22年『映画・芸能年鑑』より

「全国演芸場総覧」の項にあるこの記載によれば、杉田劇場の経営者は高田菊弥、支配人は中澤春男、定員は320。また凡例記号では演劇専門劇場となっています。

ここに「支配人」として掲載されている「中澤春男」という人についてはよくわかりません。もしかしたら大高一座の支配人と目される「大江三郎」の本名なのかもしれません。大江三郎という名前自体、近江二郎にちなんだ筆名(芸名)ではないかと考えられますし、大高の没後も杉田劇場との関わりを持っていたことからすると、中澤=大江というのも突飛な推測ではなく、この「中澤春男」という人名も大高につながる重要な手がかりのひとつになりそうです。


ところで、新聞を中心とした調査は現在、旧杉田劇場の終焉(閉場時期)を確認すべく、1952(昭和27)年の前半あたりまでは確認してきましたが、この頃になるともはや杉田劇場という名前はまったく見られなくなります。完全に閉場してしまったのか、細々とでも経営は続いていたのかわかりません。

昭和27年に浜中が学芸会をやったという記録(写真)があるので、その情報が確認できれば、開場していたかどうかが判明しますが、未だに見つかっていないところです。そもそも「昭和27年」という写真のキャプションからして、これまでの調査からするといささか不確かなもので、今のところ杉田劇場の終わりの日付は確定情報がないままです。

ちなみに弘明寺では1952(昭和27)年11月11日から銀星座が大規模な改装に入り、翌年の11月には同地に有楽座という映画館ができますから、銀星座閉場の日付は1952年11月10日ということで確定できそうです。開場が1946(昭和21)年3月23日ですから、6年8ヶ月弱の経営だったということになります。

それでも弘明寺には、1954(昭和29)年に梅沢劇場が開場して、一時的に演劇が息を吹き返したようにも感じられます。ただ、その2年後に梅沢一座は解散し、梅沢劇場自体も1958(昭和33)年には閉場するので、戦前から連なる横浜の大衆演劇の歴史は、昭和30年代前半に完全に終息したと考えて間違いないでしょう。

同じ頃、1957(昭和32)年、聖天橋交差点に「杉田東映」ができて、杉田の街は「東洋劇場(杉田トーヨウ)」と合わせて映画館2館体制になります。

このように、杉田や弘明寺を基準に見れば、昭和30年前後が大衆の求める娯楽が、演劇から映画へとはっきり転換する時期だということがはっきりとわかります。横浜における大衆演劇の終息時期は、新劇を基調としたアマチュア演劇の隆盛や横浜演劇研究所の創設、演劇連盟や鑑賞団体の発足などとも重なり、少なくとも横浜では戦前から戦後にかけての演劇文化の、明確な転換期がこの頃だったのだろうなと感じられるところです。


杉田東映跡(建物はそのまま転用され、現在はパチンコ店「DAYS」)
2026/6/23撮影


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