(91) 酒井淳之助の剣劇の人

振り返ってみればもう1ヶ月以上も更新が滞っていますが、毎度ながら細々と調査は続けています。


近江二郎の痕跡をたどるべく、重要な資料である"FIFTH BORN SON"に、貧弱な英語力を総動員して向き合い、二郎の実父、近江友治さんが一家の出身地である広島県蘆名郡福相村(現福山市)を出て、横浜で事業(養鶏)を始めたことや、広島にある墓から遺骨を移して横浜にも墓を建てたこと(南太田の常照寺にある「第二墳墓」)などがわかってきました。

近江二郎については調査の本筋ではないので、資料や痕跡が見つかるたびに穴埋めをするような牛の歩みではあるものの、明治末期から終戦後までの彼の人生の全体像がぼんやりと見えてきたようにも思います。


さて、肝心の大高調査ですが、かねてからの方針の通り、川上好子の動向を調べることから手がかりをつかもうとしています。彼女が昭和12年頃に日吉劇を離れて独立し、横浜敷島座で舞台に立っていただろうことはわかってきましたが、ちょうどその頃の新聞に敷島座の詳細な公演情報が見当たらないので、そこに大高(高杉弥太郎)が関わっていたのかどうかがさっぱりわかりません。

どうやら新聞(横浜貿易新報)を活用した調査は、少なくとも大高に関しては限界にまで達したような気がします。


というわけで、ここで視点を変えて、本格的に当時の雑誌の劇評の中に大高が出てこないかどうかを探ってみることにしました。

そもそも当時の演劇雑誌に大衆演劇、それも剣劇の記事はそんなに多くないので、知名度からして大高の名前を見つけ出すのは確率的にかなり低いと思われます。それでも昭和16年9月から近江二郎一座が、不二洋子一座に助演する形で浅草松竹座に出ていますから、そのあたりを手がかりに劇評を探せば、なんらかの痕跡が見つかるかもしれない、というのが僕の思惑なのです。

そんなこんなで、まず手始めに、大高が横浜敷島座にやってくる昭和15年3月前後の、浅草の大衆演劇に関する記事をいくつか読んでみました。昭和16年9月の浅草松竹座における近江二郎一座『純情』(大江三郎脚色)の劇評は見つかったものの(『演藝画報』昭和16年11月号/「隅の報告」桂嬰生)、記事中、大高への言及はありませんでした。


あらためて横浜敷島座に近江二郎が登場した時の新聞記事を読み返すと、こうあります。

"久しぶりの近江二郎が一座を引連れ廿九日初日で開演。これへ深山百合子がコンビとして登場。更に横濱の名花川上好子の特別加盟あり。英榮子、大山二郎、高杉彌太郎等の豪華メンバーで、伊勢佐木興行街の人気を一手に占めようと凄いハリキリ方である"(昭和15(1940)年2月29日付 横浜貿易新報より)

以前にも書いたと思いますが、この記事を素直に読めば、高杉弥太郎(大高よし男)は「豪華メンバー」のひとりとして挙げられるほどの役者だったわけです。ですから、彼が近江一座に所属していたにしろ、フリーの立場だったにしろ、この記事より前の時期に、浅草なり名古屋なり、京都・大阪なりで、なんらかの媒体(新聞や雑誌)に記録が残るような活動していたと考えるのが自然です。のちに大高と共演する宮崎角兵衛(宮崎憲時)や三桝清、二見浦子は新聞・雑誌で言及されることもあるので、大高もきっと見つかるはずです。希望は捨てずに…


ところで、結論から言うと、今回の雑誌調査では大高の名前を見つけることはできませんでした。ですが、ひとつ気になる記事を発見したのです。

それは『演藝画報』昭和17年2月号に掲載された「盲目の俳優を見る」です。タイトルからして「もしや」と思いましたが、案の定、以前にも紹介した盲目の役者「林長之助」についての記事でした。

そこにはこう書いてあります。

"それは林長之助といふ人で、お父さんが鴈治郎の門弟であつたから、この人も同じ弟子になり、扇雀が京都で一座をこしらへてゐた時代には、相當な役までやつた娘形なのだが、中年から盲目になつたのださうである。今は籠寅興行部の専属になつて、暮には横濱の敷島座にかゝつてゐたので、Kさんに誘はれて見に行った。出し物は「安達の三」で、チャンと二役勤めてゐる"(同書, p.42)

「安達の三」は『奥州安達原』の三段目、通称「袖萩祭文」「安達三(あださん)」と呼ばれる演目で、安倍貞任の盲目の妻・袖萩が登場することから、林長之助のレパートリーになっていたのだと思われます。雑誌は昭和17年2月号ですが、文中「暮には」とあることから、これが昭和16年12月頃の敷島座であることがわかります(ちなみに「Kさん」とはおそらく小林勝之丞氏のことでしょう)。

この劇評に気になる記述があるのです。以下の一文です。

"片岡松右衛門といふ人の宗任が出てくる。堂々たる體格だが、その比例で恐ろしく聲が太く、狭い小屋で呶鳴るのが田舎くさい(中略)そこへ八幡太郎が出て来た。この人だけ變に棒だと思つたら、酒井淳之助の剣劇の人が勤めてゐるのださうで"

林長之助は昭和16年10月から敷島座に登場します。その際、酒井淳之助一座も合流していました。ここに「酒井淳之助の剣劇の人」という一文が出るのはそういう事情です。

昭和16年9月29日付神奈川県新聞より

一方、大高はその前月、9月から松園桃子一座に参加する形で敷島座の舞台に出ています(10月の興行にも松園一座が参加しているので、10月は三座合同公演ということになります)。


上述の『演藝画報』に記載された舞台(昭和16年暮)に大高がいたのかどうかははっきりしません。ただ、11月21日からの舞台では、林長之助一座の『伽羅先代萩』に大高(高杉弥太郎)が出ていることはわかっています。

"片岡松右衛門の八汐、仁木。雲井星子の頼兼、沖の井。高杉彌太郎の絹川谷蔵、男之助。いずれも二役づゝ受持つての熱演に、敷島座のお客様は大よろこびである"(昭和16(1941)年11月24日付神奈川県新聞)

ですから暮の『奥州安達原』にも大高が出ていた可能性は否定できません。とすると、もしかしたら「この人だけ變に棒だと思つたら、酒井淳之助の剣劇の人が勤めてゐるのださう」の役者は大高(高杉弥太郎)なのかもしれません。もちろん大高とは別の酒井淳之助一座の誰かという可能性もありますが、もし仮にこれが大高だとしたら、大高は近江二郎一座ではなく酒井淳之助一座の人ということになるのです(また謎が深まりました)。

しかし、この人が大高だとしたら「變に棒」と酷評されているのが腑に落ちないところです。調べた範囲では、いずれの新聞でも剣劇役者として大高の評判はとても良いわけですから、いくら畑違いの歌舞伎とはいえ、ここだけ「棒」と書かれるほどの酷評だというのはいかにも不可思議です。やはり別人と考えるのが妥当なのでしょうか。


この年の敷島座12月興行についての新聞記事には「八日より新番組」と書かれている上に、松園桃子の名前が消え、雲井星子の名前が前面に出ることから、松園桃子一座は11月いっぱいで敷島座を去ったとも考えられます(11月24日の新聞記事でも松園桃子の名前が出てこないことから、10月末までだったのかもしれません)。

昭和16年12月8日付神奈川県新聞より

林長之助らが来演する10月より前、9月の松園一座から大高は参加しているわけですから、松園一座とともに大高も敷島座を離れたのかもしれません。だとすると、この「變に棒」の役者は大高ではないことになります。

逆に、大高は年明けの昭和17年1月から川崎大勝座での伏見澄子一座に参加しますから、11月まで敷島座、1月から川崎というスケジュールを勘案すると、12月はまだ敷島座に残っていたという可能性も否定できません。

(ううむ)

毎度ながらあと一歩のところで大高の姿は捉えきれません。

ですが、今回の調査を経て、雑誌の記事にもうっすらと痕跡が感じられるようになりました。この線をもう少し進めてみることにします。


→つづく


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(90) 新潮劇の近江二郎

多忙を言い訳にすっかり更新が滞っておりますが、日々、細々とながら調査は続いています。台風のせいで本業がままならない中、間隙を縫っての更新です。


さて、そんなこんなで、先日、昭和初期の「松竹各座 九月劇場御案内」を入手しました。

これは1929(昭和4)年9月の、大阪にあった松竹系の劇場や映画館の番組案内小冊子です(昭和4年9月〜11月と昭和5年2月のものを同時入手しました)。


でもって、この号の最終ページには「楽天地」での演目が掲載されています。

楽天地というと東京錦糸町のイメージがありますが、調べてみると大阪にも「楽天地」があったそうです(こちら)。言うなれば当時の総合レジャー施設で、その中に劇場もあったのだとか(大阪のことは詳しくありませんが、いま千日前の「ビッグカメラ」があるところだそう)。見るからに楽しそうなところです。

さて、肝心の記載内容ですが、その楽天地(中央館)で8月31日初日の「新潮劇」が公演するという広告(公演情報)です。

その演目は

「将軍の辻斬」
「悲惨なる家」

の2本(『松竹七十年史』とも照合しました)。

不勉強で「新潮劇」についてはぼんやりとしかわかっていないのですが、新派劇団か剣劇団のひとつと考えていいのでしょう。

この当時の大阪楽天地には「中央館」「コドモ館」の2劇場と、「キネマ館」という名の映画館、「地下室」という部屋(イベントスペース?)もあったようです。

「新潮劇」の公演はその「中央館」で行われたようですが、演目の下には役者の名前が記されています。


その連名をよく見ると、中央になんと

「近江二郎」

の名前があるではありませんか! そればかりか「深山百合子」の名前まであるのだから驚きです。つまり、この興行には近江二郎・深山百合子夫妻がともに参加していたわけです。


役者の中に「筒井徳二郎」がいることから、かねてよりたびたび引用している田中徳一『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』を確認してみたところ、以下のような記述がありました。

「昭和三年七月末より、筒井は山口俊雄、野沢英一等の新潮座(松竹所属)に加入し、八月、九月、十一月と大阪・弁天座に出演している。この頃から新潮座も剣劇と新派劇の混合をねらうようになるが、翌昭和四年一月の弁天座から、山口が出て都築文男が入り、新潮座が新潮劇に改称すると、いよいよ新派色が強くなって行く」(同書 83ページ)

なるほど、たしかに入手した資料にも「野澤英一」「都築文男」の名前が見られます。

ですが、上掲書を含め、これまで調べた資料には、新潮劇に近江二郎が参加していたことは書かれておらず、そんな関係があったとはまったく知りませんでした。「新派色が強くなって行く」という記述からして、新派俳優としての近江二郎が招かれたのかもしれません。

ちなみにここには浪花千栄子の名前があります。また上掲書によれば「水町清子」は三益愛子の前名だそうですし、原健作(原健策)はご承知のとおり松原千明の父としても知られる往年の映画スターで、いまからするとかなり錚々たるメンバーの中に近江二郎がいたことになります。


話は変わりますが、これまた何度か引用している近江家のファミリーヒストリーである「FIFTH BORN SON」の巻末にある、元子さん(衣川素子)の手記には、近江二郎と深山百合子(本名:笠川秀子)が結婚するまでの経緯がこう書かれています。

「二郎の妻は四国の坂本龍馬の姪光江と云う人が妻でした。が、いつも女中を連れて桟敷で芝居を見ている秀子と何か引かれる赤い糸が有ってとうとう二人は手に手をとって駆け落ちしました。
当時の新聞は大変大きくあつかったと聞いて居ります。その秀子は笠川家の一人娘で育っていましたが、父が遊び好きで金がなく、新橋の鈴の家と云う芸妓屋へ売られてしまったのです。器量よし三味線も巧く唄が巧く鈴香という名で、鈴香大明神と云われたそうです。
あまた群がる旦那衆の中で横浜市議第一号上條修と言う金持が落籍しましたが、上條氏は長男、秀子は一人娘、日本の法律では結婚はできません。秀子は上條氏が嫌いで嫌いで。とは申せ金で縛られた体。ストレスの吐く場は喜楽座通いだったのです。
舞台と桟敷とを結ぶ恋は舞台に穴を開け、秀子は秀子で横浜に住む事もできず、二郎の前妻は狂い、秀子を呪ったと聞いています。そして昭和五年(一九三〇年)巡業しながら座を固め米国へ旅立っています」 

記憶に基づいた身内向けの手記なので、そっくりそのまま信用することができない点は多々あって、特に近江二郎の前妻が坂本龍馬の姪というのは、さすがにちょっと年代的に無理があるし、横浜市議・上条修(実際は上条治)の逸話もいささか眉唾な印象を受けます。これも精査が必要なところです。

ただ深山百合子が芸妓であったのは、横浜貿易新報に掲載されているプロフィールにもあって、ここには「以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる芸妓」とあります。


昭和15年5月4日付横浜貿易新報より

「鈴香」と「壽々香」はどちらも「すずか」と読むのでしょう。新橋と関外の差はありますが深山百合子が「すずか」という名前の芸妓であったことは間違いなさそうです。

ともあれ、横浜の喜楽座に出ていた近江二郎と芸妓の「すずか」がなんらかのきっかけで出会って、駆け落ちし、のちに「すずか」は「深山百合子」の芸名で舞台に立つようになったわけです。その時期ははっきりしていませんが、少なくともこの資料が発行された昭和4年には、役者として名が知られていたことになります。

元子さんの手記からすると駆け落ちのせいで横浜にいられなくなったように読み取れますが、それが大阪での新潮劇出演につながっているのでしょうか。そのあたりはまだよくわかりません。大正15年の喜楽座での剣劇大会以降の近江二郎の足取りについても追加調査が必要です。


余談になりますが、時期の特定を余計に混乱させるのが『浜松市史』に掲載されている興行記録(芝居興行表)です。

『浜松市史(三)』p.559より

ここでは大正6年に浜松の歌舞伎座で近江二郎と深山百合子が興行していることになっています。が、明治32年生まれの深山百合子はこの時まだ18歳あまり。おまけに近江二郎が横浜喜楽座に初出演するのが大正9年ですから、喜楽座より3年も前に近江二郎が単独で興行したというのはちょっと考えにくいことです。『浜松市史』の記載に誤りがあると考えた方がいいように思います(さらに精査します)。


近江二郎の実弟・近江資朗のご子女に取材した際、深山百合子は家事全般は苦手で、ほとんどやらなかったことや、三味線や長唄が得意で、晩年はそれらを教えたりしていたことを伺いました。生涯を芸事に捧げた人だったのでしょう。

見せていただいた位牌によれば、近江二郎は明治26(1893)年生まれ、昭和24(1949)年5月29日没。上述のとおり深山百合子は明治32(1899)年生まれ、昭和42(1967)年1月8日没。


横浜南太田の常照寺にある近江家の墓所を確認しましたが、墓誌に二人の名前がないので、おそらく深山百合子の実家である笠川家の墓か、近江二郎の故郷である広島県福山市の墓所に眠っているものと思われます。残念ながら場所はわかりません。


なお、今回入手した資料にも大高よし男(高杉弥太郎)につながる情報は見つかりませんでした。本来、大高よし男の足跡をたどるブログのはずですが、見つかるのは近江二郎の情報ばかり。それでも近江二郎からなんとか大高につながる線が見つかればと、根気よく調べて行きます。


そんなこんなで、今回は新潮劇に参加していた近江二郎についての話でした。


→つづく


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(89) 旧杉田劇場の幕について

今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕について。

現存する旧杉田劇場の写真の中で、おそらくもっとも情報量の多いのが、昭和23年に寄贈されたという引幕の写真です(現杉田劇場のウェブサイトやブログには「緞帳」と書かれていますが、実際は引幕が正しいと思います)。

旧杉田劇場引幕(杉田劇場所蔵)

この幕の絵は、地元・浜中学校の美術教師だった間邊典夫氏が描いたもので、梅とウミネコがモチーフになっているそうです。

写真をよく見ると、この引幕の上部にたくし上げたもうひとつの幕が見えるので、開場当初からあった幕と、この時寄贈された幕の2枚があって、双方を交互に使っていたのかもしれません。いずれにしても幕の材質、舞台のタッパや機構からして、昇降式の緞帳ではなく、引幕だろうとは思います。

ちなみに、弘明寺銀星座の引幕は横浜市図書館のデジタルアーカイブで閲覧することができます(こちらも「緞帳」となっていますが、やはり「引幕」が正しいと思います)。


さて、旧杉田劇場の幕にはさまざまな店舗名や個人名が記載されています。不明なものも多くて、すべてが判明したわけではないのですが、古い資料などを調べた結果、だいぶわかってきたので、詳細も含めここに書いておきます。


(舞台上手(向かって右側)から)


昭和木工所

詳しいことはわかりませんが、昭和27年の『全国工場通覧』など、いくつかの資料に同名の工場があります。南区睦町ですから、市電を使えば杉田へは乗り換えなし、車でも国道16号を使えば簡単に来られる距離ですので、この工場である可能性は高い気がします。

とはいえ、木工所がなぜ広告を出しているのかは不明です。もしかしたら劇場の椅子(長椅子=木製)を作った工場なのかもしれません。


1947(昭和22)年5月14日付神奈川新聞より


カワイボクシングクラブ

これは有名なボクシングジムで、1931年横浜山田町に設立。戦後、曙町に移転したそうです。杉田劇場元スタッフのTさんによれば、美空ひばりの父、増吉さんがここでボクシングを習っていたとの話もあるらしく、その関係で広告を出したのかもしれないとのこと。

現在は神奈川渥美ボクシングジムとして、その系譜がつながっているそうです。

横浜市中区曙町2-5 代表:河合鉄也


杉田公設市場際 平野歯科医院

平野歯科は現在も同じ場所にある歯科医院です。サイトをみたら1940年開院だそう。

平野歯科(2022.3撮影)

天ぷらの店 杉田町 伊藤政治

これは杉田にある「政寿司」の店主で、店は現在も同じ場所で営業を続けています。

中原に残る「政寿司」の古い電柱看板


茂呂真吉

この方についてはまったくわかりません。どなたか情報をお持ちでしたら教えてください。


土木建築 泉建設株式会社 長者町(3)三一五三

この会社についてもまったく不明です。


中華料理 森町  糸勝楼

これは白旗商店街にあった飲食店で、昭和30年代の明細地図には「氷のみもの 糸勝」と記載されています。後述の「川崎青果」でお話をうかがった際に、「糸勝」という店があったと確認できました。

『横浜市商工名鑑』(昭和35年)より

御下宿  丸山町広地7 豊石荘 長者町(3)一六八九

この下宿(アパート)については、住所も電話番号もわかっているのに、詳細は不明です。


安心して頼める店 杉田新道 野村電氣商会

この店は私の記憶にもある街の電器店で、杉田商店街の中にありました。いまはもうありません。


杉田聖天橋際 代々木屋呉服店 長者町(3)〇九〇七

この呉服店も杉田商店街の中にありました。ドラッグストア「ハック」の隣。現在は「おかしのまちおか」になっていますが、よく見ると外観に呉服店の風情が残っています。以前は国道16号線沿いにあったそうで、だからこの幕の表記が「杉田聖天橋際」となっているのだと思います。

1947(昭和22)年1月19日付神奈川新聞より


横浜桜木駅前 日晴樓 長者町(3)四一七〇

これはもともと伊勢佐木町にあった飲食店で、その当時は「日清楼」、戦後、桜木町に移転して「日晴楼」に改名したそうです(「横浜市商工名鑑・昭和35年版」によれば中区花咲町1-47)。

戦前の伊勢佐木町の写真(絵葉書)などにも写っている店で、サイト「横浜古壁ウォッチング」の「震災後・戦前期の伊勢佐木町」のページ下段、「その3 長者町×伊勢佐木町交差点」の写真、右側の電信柱のカゲに「日清楼」の看板が見えます。

戦後、桜木町に移転した際の新聞広告もあり、ここに描かれたイラストと同じものが杉田劇場の幕、「日晴楼」の店名上部にも描かれています。

1947(昭和22)年1月5日付神奈川新聞より

杉田劇場の元スタッフ、Tさんによれば、ここの店主が芝居好きで、よく杉田劇場に通っていたそうです。そんな関係もあって広告を出したのでしょう。


志村高明

幕の中央に、ほかよりも目立つ形で出ている個人名ですから、かなり気になる人です。この人は磯子区役所が出した『浜・海・道』に栗木町でカーネーションを栽培していた人として写真も載っていますが、土建業としても記録されている人で、昭和22年には市議選に立候補するなど、なかなかの野心家だったようです。いま風にいうと起業家という感じでしょうか(ちなみに選挙結果は落選)。

1947(昭和22)年4月11日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログにこの人について詳しく調べた記載があります→こちら


横濱市設 杉田公設市場

これは杉田のバス通り「中原本道」沿いにあった公設市場です。私もよく覚えています。いまはなく、跡地の手前側はつい先日まで駐車場でしたが、何かの工事が始まっているので、また何か別のものになるのかもしれません。

杉田公設市場跡地(2022.3撮影)


うまいのである 石川の牛豚肉

これは杉田商店街にある「肉の石川」です。現在も営業していて、メンチカツなどお惣菜も豊富な人気店です。

肉の石川(2022.3撮影)


杉田新道 満るや 深野金物店

これも杉田商店街で営業を続けている「深野力蔵商店」です。「満るや」というのが屋号で、杉田劇場の隣にあった「吐月館」(丸屋)という旅館は、ご親族が経営していたようです。

吐月館についても杉田劇場のブログに記載があります→こちら


神浴専務理事長 江尻良蔵

この先はどういうわけか銭湯の関係者が多く登場します。
江尻良蔵は根岸にあった「江陽館」という銭湯の経営者だそうで、現在はありませんが、江陽館の二号店(?)で、磯子区中浜町にある「第二江陽館」は江尻から経営を引き継いだ方がいまも営業を続けているようです。

『毎夕企業総覧 昭和27年版』(東京毎夕新聞社)より

引用した上掲書の記述からすると「神浴」は神奈川県浴場商業協同組合のことを指すと思われます。

ちなみに、江尻という姓は横浜の銭湯経営者によく見られます。親戚が銭湯経営をしていたということなのでしょうか。


石橋寅四郎

個人名しか情報がないので、この人のこともよくわからないところですが、前述の志村高明と同じく昭和22年の市議選に立候補しています(ちなみに選挙結果はこちらも落選)。


元日飛(日本飛行機)の組合関係者と書かれている資料もあって、これが同一人物なのかはよくわからないところです。

また、別の資料には磯子の衣料品製造業の代表者としても名前が見られます。これが同一人物なのかどうか、詳しいことはよくわかりません。上に引用した新聞の立候補者名の欄には「工場長」とあるので、組合関係者というよりはこちらの繊維工場の経営者という方が合致しているような気もします。戦前に日飛の組合員だった人が、戦後になって繊維工場を始めたということなのかもしれません。

「全国工場通覧」昭和25年版より

兵頭一刀

この方も個人名だけなので、詳しいことはわかりませんが、『全国工場通覧(昭和25年版)』によれば、以下のとおり磯子区にあった縫製工場の代表者として同じ名前が出てきますので、その人だろうと推測しています。

『全国工場通覧』(昭和25年版)より


長谷川好祐

この方についてもまったく情報がありません。おわかりの方がいたらぜひ教えてください。


谷津坂温泉 平田佐太郎 長者町(3)七八〇一

これについてもまったく不明です。「谷津坂温泉」という名前からして、谷津坂(現在の能見台)にあった銭湯ではないかと推測していますが、地図を見ても出てこないのではっきりしたことはわかりません。

ただ、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館の共同企画店「銭湯と横浜」の図録には、平田佐太郎という名前が、戦前、神奈川区平川町にあった「日ノ出湯」という銭湯の経営者として記録されているので、同じ人が戦後、金沢区で銭湯を経営していたということかもしれません。


杉田町 山本熊太郎

これも名前だけなので、なかなかわかりづらいところでしたが、昭和34年の「横浜商工名鑑」に杉田の銭湯「梅之湯」の経営者として出てくるので、この方だろうと思います。梅之湯は杉田劇場のすぐそばにあったので、役者や従業員が利用していたのかもしれません。

『横浜商工名鑑』(昭和34年)より


森町 川崎果實店

これは白旗商店街にあった「川崎青果店」のことで、惜しまれながら昨年3月に閉店してしまいましたが、その直前にお邪魔してお話を伺ったところ、間違いないとのことで確認できました。

川崎青果店(2023.2撮影)


杉田町 山口自轉車店

これは杉田にある「山口モータース」のことだと思われます。山口モータースは現在も杉田で営業しています。


以上がこれまでの調査結果です。


銀星座の引幕にも同じように店舗や個人名が描かれていますが、あちらはほとんどが弘明寺商店街の関係者であるのに対して、杉田劇場の引幕にある名前は、杉田だけでなくむしろ磯子町や根岸の方が多いような印象で、しかも繊維関係者や銭湯関係者が多いというのも気になるポイントです(もしかしたら「たくし上げている」最初の引幕には杉田商店街の店舗名が多く描かれていたのかもしれません)。

昔の劇場にはたいてい浴室があって、旧杉田劇場にもありましたから、役者が化粧を落とすのに銭湯を使うようなことはなかったと思います。銭湯関係者とは単なる付き合いがあっただけなのかもしれませんし、杉田劇場の経営者だった高田菊弥との関わりがあるのかもしれません。詳しいところはよくわかりません。

旧杉田劇場についても引き続き調査を続けていきたいと思います。


というわけで、今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕に書かれた店舗名や個人名について調べてみました。


→つづく


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