(121) シキシマ・ニュース入手!

ダジャレみたいなタイトルですが、一応、ちゃんとしたお話(のつもり)です。

ただ、ちょっとだけ興奮気味ではありますが…


というのも、先日、なんと、大高よし男ゆかりの伊勢佐木町・敷島座のチラシ(パンフ?)を入手したからで、今回はその話。

手に入れたのは、1941(昭和16)年3月、近江二郎一座が参加した興行のもので、まさに大高が前名「高杉彌太郎」で出演していた時のものというのだから、たまりません!

これらの公演の概要はすでに新聞記事でチェック済みですが、チラシを見るのは初めてだし、そもそもを言えば戦前・戦中の伊勢佐木町での芝居興行のチラシやパンフを現物で見るのも(たぶん)初めてです。

戦前・戦中の横浜の劇場資料はあまり多くなくて、馬車道の横浜宝塚劇場の「ニュース」は、図書館の「デジタルアーカイブ」にかなりな数(200以上)が掲載されていますが、とりわけ関東大震災後の喜楽座や朝日座のものは、これまでほとんど目にしたことがありませんでした。ましてや、より大衆的な敷島座に至っては、演劇史でもあまり顧みられてこなかったようで、映画館時代の資料はあるようですが、劇場時代のものは新聞記事以外のデータはほぼないのが現状だと思います(おそらくまとまった調査や研究もされていない気がします)。


この頃の敷島座は籠寅演芸部(興行部)の経営で、昭和14年末か、15年の初頭に籠寅と専属契約を結んだと思われる近江二郎は、昭和15年3月、弥生興行の目玉(?)として敷島座に初登場します。

1940(昭和15)年2月29日付横浜貿易新報より

記事では大正15年の喜楽座以来、15年ぶりの来浜のように書かれていますが、実際は昭和5年9月の由村座での渡米記念興行がありますから、10年ぶりということになります(伊勢佐木町へは15年ぶりということになるのかな)

近江二郎も親族も横浜(井土ヶ谷)に住んでいたはずなのに、どういうわけか仕事上での横浜との縁は長らくなかったということのようです。

この昭和15年の興行にも高杉弥太郎時代の大高よし男が参加していることは以前にも書きました。その後、これまでいろいろ調べた中では、大高が横浜に登場するのもこの時が最初だっただろうと考えています。それ以前の横浜の公演データに彼の名前を見つけることができないのです。


そもそもの大前提として、大高よし男の前名が本当に高杉弥太郎なのかという疑問は残りますが、以前にも書いたように「高杉彌太郎改め大高義男」という文言が新聞に載っているし、その後、少なくとも横浜や川崎では「高杉弥太郎」の名前を見ることがないので、新たな証拠が出てこない限り、これを信じるしかありません。

1942(昭和17)年1月26日付神奈川県新聞より

(このあたりで行き詰まっていて、一向に前進しません…)


さて、入手したチラシは3種で、いずれも昭和16年3月のものです(この時も大高はまだ前名の高杉弥太郎でした)。


この年(昭和16年)の敷島座は、初春興行としてこの三座(田中介二・和田君示・近江二郎)の合同公演からスタート。そのまま3月いっぱいまで三座の公演が続きました。

1941(昭和16)年1月19日付神奈川県新聞より

チラシは3月のものですから、まもなく御名残で敷島座を去る直前ということになります。

紙面には「大政翼賛」だの「演劇報国」だの「防諜標語」だの、時代を感じさせる勇ましい言葉がならんでいます。

(横浜での「演劇報国」は横浜歌舞伎座の「愛国劇」、日吉良太郎一座が有名ですが、敷島座でも同じフレーズが掲げられていたのですね)


チラシの時期を詳細に特定すべく、新聞と突き合わせてみたところ、この3種は、

3月12日〜18日
3月19日〜25日

の興行のものであるということがわかりました。

なお、12日からの興行では途中、漫才のメンバーが変わったようで、上の2つのチラシは中面がまったく同じ内容で、裏表紙の漫才の部分だけ変更されています。


このチラシにはこれまで調べてきた馴染みの名前がいくつか見られます。

田中介二は言うまでもなく新国劇出身の剣劇役者で、川上好子は日吉劇から出た女優。

深山百合子は近江二郎の妻で、衣川素子は二郎のいとこの子(従姪)。この時期は夫妻の養子になっていました(のちに養子縁組は解消)。

大江三郎はこれまで何度も言及していますが、杉田劇場の大高一座にも参加していた(おそらく)近江一座の文芸部員で、大山二郎は一座の幹部だと思われます。

朝日五郎、小東金哉、東堂好郎も、各地の新聞などでしばしば目にする役者ですが、不勉強で詳しい経歴などはよくわかりません。小東金哉は役柄からして女形だったと推測できそうです。


そのほかで言えば、近松精次郎と坂本小二郎が少し気になるところです。というのも、近江二郎の内弟子だったという平参平のその頃の芸名が「近松小二郎」だからです。もしかしたら内弟子時代の平参平がこの興行に参加していたのかもしれません。


大高調査の視点でこのチラシを見ると、まず最初に気づくのは、高杉弥太郎の名前が、表紙の座長クラスの下にそこそこ大きな文字で書かれていることです。並びは「大山二郎」「小東金哉」「東堂好郎」で、大高よし男は駆け出しの若手やただの所属俳優ではなく、一定のキャリアを積んだ人たちと並ぶくらいの人気や実力があったものと考えられます。


大山二郎や小東金哉、東堂好郎といった人たちのことを調べていけば、もしかしたら昭和15年より前の大高の足跡がわかるかもしれません。

ただ、上述の通り残念ながらいまのところ彼らの詳細もよくわかっておらず、このチラシが入手できたとて大きな進展とはならないのが現実です(どなたかわかる人がいたら教えてください)。


さて、チラシからもうひとつ気になるのは、「高田光太郎」という役者です。

このチラシには大江三郎の名前があるので、戦後の大高一座(暁第一劇団)との細いつながりが感じられるところではありますが、大高一座のポスターに書かれたメンバーとここに掲載された役者の名前にピタリと合致する重複はありませんでした。


ただ、よく見てみると大高一座のポスターに「高田孝太郎」という名前があるのです。「孝太郎」と「光太郎」ですから、おそらく読み方は同じでしょう。これはもしかしたら同一人物なのかもしれません。おまけに芸名とはいえ姓が「高田」で、杉田劇場のオーナー・高田菊弥と同じ。このあたりにも関連があると推測することもできます。

さらにはこの興行のお目見得、昭和16年の新春興行の記事の配役の中には「高田光彌」という名前も見られるのです。

もしかしたら、当初「高田光彌」だった名前を3月までの間に「高田光太郎」に変えたのかもしれません。

1940(昭和15)年12月29日付神奈川県新聞より

そんな視点で見ると

高田菊弥・高田光彌・高田光太郎・高田孝太郎

これらの名前が同一人物か、少なくとの何らかの関係があったと考えてもおかしくないように思えてきます。

本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』(講談社, 1987)には

「高田(菊弥)は若いころから芝居好きで、戦前は浅草松竹座に出入りして、役者の後援会長を引き受けたりしていた」(同書 49ページ)

とあります。

近江二郎は敷島座出演の後、不二洋子一座に加盟する形で、浅草松竹座にもしばしば出演していましたから、高田菊弥が近江二郎の後援会長というのもあり得ない話ではありません。もしかしたら、それ以前、昭和15〜16年の段階で高田菊弥が近江一座と何らかの関係を持っていた可能性もあるし、高田菊弥が籠寅との縁をつないだのかもしれない…なんていうのは少し妄想が過ぎるでしょうか。

杉田劇場のプロデューサーである鈴村義二と近江二郎は浅草時代から関係があったと考えられますから(こちら)、このあたり、高田菊弥も含めた三者の関係について、さらに突っ込んで調べる必要がありそうです。


そんなこんなで、入手の興奮でいささか精査が足りていませんが、今回は入手した敷島座のチラシについてのお話でした。



→つづく
(次回は11/28更新予定)

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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(120) 町田市収蔵の旧杉田劇場資料

舘野太朗さんのX(旧Twitter)の投稿を通じて、町田市のデジタルミュージアムに旧杉田劇場の台本が掲載されている事実を教えていただいたので、思い切って所管課に連絡をしたところ、現物を閲覧する許可をいただくことができました。

(とはいえ、専門家でもないおっさんが一人で行っても不審がられそうなので、現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」を担当しているSさんに同行してもらいました。深謝)


台本が保管されているのは、小田急線の鶴川駅からバスで10分ほどのところにある「三輪の森ビジターセンター」内、郷土資料展示室の収蔵庫です。

ちなみに「三輪の森」というのは町田市と横浜市・川崎市の市境にある里山の一角で、横浜市で言えば青葉区の「寺家ふるさと村」や「こどもの国」に隣接する地域です。


ビジターセンターはその里山散策の拠点(休憩地?)のようなもので、その中に郷土資料展示室があり、そこに民俗資料の収蔵庫もあるということのようです(なお収蔵資料の閲覧には事前申請が必要です)


デジタルミュージアムには、旧杉田劇場の台本が10冊、杉田劇場での市川門三郎一座のチラシ(パンフ?)が2つ掲載されていますが、実際にはデジタル化されていない台本もまだあって、一覧は「町田市立博物館所蔵・民俗資料目録」に掲載されています。

当日は、とても親切に対応してくださった学芸員の方が、未デジタル化のものも含めて杉田劇場に関わるものも用意しておいてくださいました。


そんなわけで、今回閲覧させていただいたのは以下の台本です(☆は未デジタル化のもの)。

平家女護島 島の俊寛
おその六三 恋の逢引
島田左近
絵本太閤記
怪猫伝 岡崎の猫
恋慕地獄 延命院日当
舞踊 忍逢恋事寄 将門
侠客春雨傘
常盤津竹本出語り 所作事 京人形
清水一角
☆め組の喧嘩
☆毛谷村六助
☆蝿坊主と木村長門守重成
☆二月堂良弁杉
☆十六夜清心 花街模様薊色縫

 

いずれも「杉田劇場」の記載やスタンプがあるもので、すべてにGHQの検閲印がありました。

台本に押された印には郵趣家の間で金魚鉢と呼ばれているらしいエンブレム型の検閲パス印のほか、「CCDJ-2036」「CCDJ-2037」「CCDJ-2039」「CCDJ-2040」のいずれかのスタンプもあって、当初、その意味はよくわかりませんでしたが、後日、こちらのサイトを参照させていただいたところ、どうやらこれは東京地区の検閲官の番号で(第三次配給分)、それぞれの番号に割り当てられた検閲官がいたということのようです。「2039」には「Sakamoto」と読める署名も付記されていたので、この番号の検閲官が「サカモト」という人だったことが推測されます(M.M.Sakamotoとも書かれているので、日系人なのかもしれません)。

その他、検閲の有効期限(上演可能期間?)を記したと思われる数字(日付)も見られましたが、詳細はよくわかりません。


さて、閲覧させていただいた台本のほんとどすべてに「尾上大助」の記名なり印があります。

デジタルではよくわかりませんでしたが、いくつかの台本では尾上大助の下に「新星暁座」と書かれてあって、それを修正するような形で尾上大助の名が上書きされていました。

この理由はよくわかりません。もしかしたら検閲は個人名で申請するもので、修正を指示されたということなのかもしれません(演劇博物館に保管されている九州地区のGHQ検閲台本をざっと見ても、申請者は個人名になっているようです)

中には「Shinsei Akatsukiza」とメモ書きされたものもあるので、尾上大助が杉田劇場で活動していた時期、専属劇団には「暁第一劇団」でも「暁劇団」でもなく「新星暁座」という名称が使われていたとも考えられます。ただ、その頃の広告にはそっけない「杉田専属劇団」としか書かれていないのです。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

検閲台本では「新星暁座」とあるのですから、「杉田専属劇団・新星暁座」という認識だったのかもしれません。

それ以前の、藤村正夫が参加していた頃の広告には「新生暁座」と書かれることがありました。「新星」なのか「新生」なのかははっきりしませんが、いずれにしても大高よし男生前からの「アカツキ」の名称は、かなり後年まで使われていたことがわかります。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より


デジタルミュージアムの資料説明欄にもある通り、これらの台本は1949(昭和24)年のものが大半です。検閲官の番号からしても時期的には大きくズレていないと考えられます。しかし、この年の新聞広告に掲載された演目と合致しない作品も多いので、検閲は通したものの実際は上演しなかったり、後年に上演したものも含まれているのかもしれません(このあたりは再度調査が必要です)


台本の中身はすべて手書きで、薄い罫紙に書かれています(カーボンコピーのようにも見えました)。また検閲提出用ということなのでしょうか、書き込みは見られません(唯一『二月堂良弁杉』には包装紙の切れ端が挟まっていて、鉛筆書きのおそらく台本の修正部分か抜書きと思われるものが書かれていました)。

残念ながら台本を読んで内容を精査するほどの時間はなく、本文中にメモ書きなどがないかを確認するだけでしたが、じっくり読めばそれぞれの作品が大歌舞伎とどう異なっているか、演出的な違いがあるのかどうかなど、さらに詳しい情報が得られるのかもしれません(これもまた今後の宿題)


ところで、この台本の収集地は町田市の成瀬と記録されています。なぜ成瀬なのかがずっと疑問でしたが、学芸員の方に詳しく聞いてみると、成瀬を拠点に活動していた「大川一座」という劇団から寄贈されたものなのだそうで、台本のほかに一座の衣装や小道具なども収蔵されているとのことでした(大川一座については『成瀬 村の歴史とくらし』という本を紹介していただきました)

大川一座は成瀬の三ツ又という地域に住んでいた大川源治が始めた劇団で、近隣の村々にとどまらず、近県も含めたかなり広範なエリアで興行をしていたようです。源治はもともと草競馬をやっていた人でしたが

"「競馬なんかやんないで、芝居をやったらどうか」と人に勧められたことが契機だったそうである。源治氏の師匠は相模の市川花十郎だった"(『成瀬 村の歴史とくらし』365ページ)

とのことです(市川花十郎は現在の横浜市泉区を拠点に活躍した人です)

それがどうして横浜の杉田劇場とつながるのかはよくわかりません。おそらく杉田劇場で使っていた台本を譲り受けたというのが一番ありそうな可能性です。大川一座にはプロも出ていたそうなので、尾上大助あるいは杉田劇場に関わりのある別の役者が、何らかの縁で呼ばれていたのかもしれません(大川一座の調査をすればわかるかもしれません)。

また、ほぼすべての台本が「大橋繁夫脚色」となっていて、この人についてもよくわからないところですが、いくつかの台本では尾上大助の肩書きに「大橋家」と記載されているので(印になっているものもある)、もしかしたら尾上大助の本名が「大橋繁夫」なのかもしれません(このあたりも再調査が必要になりそうです)。


台本のほかに市川門三郎一座のチラシ(パンフ)2種も見せていただきました。これらはデジタルミュージアムにも掲載されていますが、画像は二つ折りになった表紙だけです。現物で情報の多い裏表紙・中面を拝見したところ、この興行の演目や配役がわかりました。それを後日、杉田劇場の番組一覧のデータと照合した結果、1947(昭和22)年7月と8月の興行のものであることが判明しました。

このうち7月興行は暁劇団と門三郎一座の合同公演で、チラシ中面の配役には「大江三郎」「高島小夜里」「大島ちどり」「高宮敏夫」「三木たかし」など、現杉田劇場に掲出してある大高一座のポスターに名前のある役者が確認でき、座長の没後も何人かは芝居を続けていたことがはっきりしました。

1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より

※このチラシ(パンフ)の配役の中に「大川喜久男」という役者がいます。暁劇団の座員と思われますが、その名前からして大川一座の関係者とも考えられます。大川一座と杉田劇場がもともとつながりを持っていたと考えれば、いろいろなことが腑に落ちるのですが…これもまた詳細調査が必要です。


この年、8月の門三郎一座興行の後には葡萄座の公演が行われましたが(8月29日〜31日/真船豊「見知らぬ人」ほか:詳細は→こちら)、チラシにはこの公演の予告も記載されていたので、町田の里山で思いがけず懐かしい知り合いに会ったような不思議な気持ちにもなりました。


調べきれないほど収穫と宿題のあった初訪問ではありましたが、町田にこういう資料が収蔵されていたというのはあらためて大変な驚きです。町田にあるのですから、もしかしたら藤沢や横須賀、鎌倉など近隣の市町村にも未公開の資料の中に同様のものがあったりするのかもしれませんが、乏しいネットワークの中では知る由もありません。

僕の知る限り、旧杉田劇場の資料で公的に保管されているのは現杉田劇場にある元従業員・片山茂さん寄贈の11点と、今回拝見したものだけです。

現杉田劇場は指定管理者制度下で運営されていますから、仮に指定管理者が変わったら、あの資料の行く末がどうなるか、大変心許ないものがあります。

いっそのこと市史資料室や市歴史博物館や都市発展記念館あたりが引き受けてくれればいいのですが、なかなかそうもいかないのが現状のようです。今後のことを考えれば、あれだけのものを町田市が収蔵・保管してくれていることはまさしく天恵のようです。

町田市の資料について、まだ詳細な調査は進んでいないようです。大川一座の研究も含め、今後に期待するところです。

それにしても、ご対応くださった学芸員さんがとても親切で助かりました。いつでもまたきてください、とも言っていただいたので、この先、調査項目をしっかり整理するなど、準備万端にして、ぜひまた伺いたいと思います(できることなら1ヶ月くらいあそこに篭って調べたい)。


そんなこんなで、今回は町田市収蔵の杉田劇場資料の初調査についてでしたが、未消化のものも多いので、今後、もう少し整理して改めて報告したいと思います。

今回はひとまずこれにて。

関係各位、ありがとうございました。



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(119) 自由劇団の栄枯盛衰

戦前・戦中の調査に戻りつつあるところですが、目ぼしい成果が得られていないので、ひとまず戦後をもう一度。


杉田劇場では大高一座こと「暁第一劇団(暁劇団)」が専属として活動し、弘明寺の銀星座では「自由劇団」が専属だったことはこれまで何度も書いてきました。

また、自由劇団のメンバーには日吉良太郎一座の残党が多く、事実上の後継団体、つまりは「第二日吉劇団」のような存在だったのではないかと考えていることも繰り返し書いてきたことです。

自由劇団の名前が最初に登場するのは、1946(昭和21)年8月で(この時はまだ「横浜自由座」)、広告から名前が消えて事実上の活動停止になるのが、1950(昭和25)年7月下旬ですから、まるまる4年間、銀星座でほぼ休みなく公演を続けていたことになります。

(杉田劇場の暁劇団も同じような活動を目指していたのでしょうが、結果としては大高よし男の死で頓挫してしまった形です)

自由劇団の充実した活動の背景として、日吉劇が昭和13年から19年まで、横浜歌舞伎座で6年も連続興行をした経験が活かされたのだろうと思います。

杉田劇場がいささか迷走気味になったり、高根町のオペラ館がこれまた迷走気味な時期を経て(このことはいずれ書きます)、ストリップ劇場(横浜セントラル劇場)へと落ち着く(?)のに対し、自由劇団がブレることなく興行を続けていたのはやはり経験がものをいったのでしょうか。結果的にこの地域で専属劇団を持つ劇場は銀星座だけになっていくわけです。


そんな背景もあってか、1949(昭和24)年から1950(昭和25)年初頭にかけての自由劇団は、それこそ破竹の勢いを感じさせる活躍ぶりで、新聞の特集記事にもしばしば登場しますし、根城としている銀星座のほかに、杉田劇場や港映(のちの妙蓮寺劇場)でも公演するようにもなります。

1949(昭和24)年7月12日付神奈川新聞より

1950(昭和25)年1月17日付神奈川新聞より

上掲「港映」の広告が銀星座と並んでいることからも、またそのほかの映画演劇情報欄などを確認しても、その時期に銀星座が休場していたような形跡が見られないので、どうやら銀星座での興行は続けたまま、同時並行で別の劇場の公演をしていたようなのです。つまり、自由劇団には本隊以外に別働隊があったということで、座員数の多さなど劇団としての充実ぶり、隆盛がうかがえます。いまでいう劇団四季みたいなものでしょうか(違うか)。

(もっとも、移動できない距離ではないので、昼夜で劇場を替えたという可能性も否定できません)

以前も書きましたが(こちら)、これらのうち、昭和25年1月の杉田劇場での興行については、新聞広告(情報)だけでなく、緞帳を新調した際のものと伝わる写真に演目の記録が残っているのです。

杉田劇場緞帳と間辺典夫氏

矢印部分を拡大

1950(昭和25)年1月13日付神奈川新聞より

写真と新聞の情報欄の演目が一致しています。

「肉欲」は新派劇で「天保白浪」が剣劇、「日本晴れ」は喜劇だったようです。

杉田劇場の緞帳写真なのに、専属劇団ではなく自由劇団の公演時のものというのも皮肉な話ですが、杉田劇場の暁第一劇団にも、銀星座の自由劇団にも、日吉劇出身の役者がいたわけですから、劇場こそ違え、劇団員としてはどちらも同じ役者仲間という意識だったのではないかと思います(もしかしたら専属劇団にいた人もこの時の自由劇団の舞台に出ていたのかもしれません)。


そんな具合で、市内とはいえ巡業できるほどの隆盛を誇った自由劇団も、1950(昭和25)年7月いっぱいで新聞広告がなくなり、どうやらこの時期に活動を停止したと思われます。急転直下のジェットコースター的展開に、むしろこっちの方が驚くくらいですが、これもまた盛者必衰のことわりとでもいうのでしょうか。

しかし、ここにはおそらく自由劇団の「母体」とも言っていい、日吉劇の座長・日吉良太郎の死が何らかの影響をしていると僕は考えています。

日吉良太郎の亡くなった日については諸説あって、昭和25年という資料もあれば、昭和26年という話もあります。一番具体的なのは、たびたび引用する小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』で、ここには1951(昭和26)年8月29日没、とかなり明確な日付が記載されています。

小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』巻末年表より

いまのところこの日付を裏付ける資料を見つけることができていないので、もう一度精査する必要はありますが、いずれにしても昭和25〜26年頃に亡くなったのは間違いなさそうで、そのことが自由劇団の活動終了に影響したと考えるのもまた大きく間違っていないとは思います。

自由劇団の連続興行が終了した銀星座は、その後、しばらく新聞紙上からその名が消えてしまいますが、11月18日の市川門三郎一座の広告を皮切りに、剣劇、女剣劇、歌舞伎(小芝居)などの情報が断続的に新聞紙上で見られるようになり、どうやら、杉田劇場と同様、さまざまな劇団が入れ替わり立ち替わり登場する「貸し小屋」のような形になったものと考えられます。


ところで、この時期の杉田劇場について、これまではほぼ活動停止状態と言われてきましたが、実際はポツポツと思い出したように新聞広告が掲載され、その内容を見るに、おそらく広告が出ていないだけで、さまざまな興行は続いていたものと思われます。

昭和25年8月には杉田劇場の庭を使ったヌード撮影会(!)も行われます。

1950(昭和25)年8月8日付神奈川新聞より

この広告より前、8月4日付の新聞には撮影会についての記事も出ていて、そこには

「杉田劇場出演の大泉撮影所アーティストグループ丘寵児一座のニューフェイスが特にモデルになって参加」

と書かれているので、この時、杉田劇場では丘寵児一座の公演があったようなのです(広告はないけど)。

また唯一残る杉田劇場の正面からの写真は、現物を複写して拡大したところ「若月昇劇団」が来演した時のものと判明しています。

旧杉田劇場(杉田劇場所蔵)


まねき看板を拡大:「若月昇」と読める

しかしながら、この劇団については、昭和25年いっぱいまでの新聞広告には、その名がまったく見つかっていないことから、写真はそれ以降のものだと思われるのです(「若月昇」については詳細がまったくわかりません。どなたかわかる人がいらっしゃいましたら教えてください)。

このように、経営状況は別として、昭和26年以降も劇場の運営は定期的に続いていたと考えていいと思います(正月やお盆の時期には市川門三郎一座の広告が出ます)。

そもそも、上掲、緞帳新調時の写真とされるものが、本当に新調時のものであるならば、斜陽で閉場が近い劇場が緞帳を新調したとは考えにくく、やはりしばらくは劇場としての運営は続いていたと言えそうです。

これまで杉田劇場の方が先に閉場し、銀星座がその数年後に閉場というのが通説のようなものとされてきましたが、両劇場の閉場は、ほぼ同じ時期(昭和25年以降、おそらく27年頃)ではないかと推測されるところです。


近江二郎が昭和24年5月29日に亡くなり、日吉良太郎も遅くとも昭和26年には他界します。戦前の横浜の大衆演劇を支えた両座長の死に連動するかのように、杉田劇場と銀星座もなくなるわけで、この時期に明治から続いた横浜の新派〜剣劇〜大衆演劇の流れにピリオドが打たれたと言ったら、少し言い過ぎでしょうか。


そんなこんなで、今回は銀星座の自由劇団について、劇団の栄枯盛衰と劇場の命運について考えてみました。


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