歌舞伎学会の夏の企画に参加してきたので、ひとまず備忘録的に。
話題の書『越境する歌舞伎』の合評会ということで、こういう集まりに出るのは初めてでしたから、どんなことをするんだろうと不安を抱きながら、母校の、しかも4年間通っていたキャンパスにもかかわらず、圧倒的なアウェー感の中、それでも実に得るものの多い会でした。
(ありがとうございました)
そんなこんなで、会の後に、いろいろ調べてみたことや考えたことを、不勉強の門外漢ながらこの先、何回かに分けて投稿してみようと思います。
まずは、市川市蔵やその周辺の役者と横浜の関わりについて。
『越境する歌舞伎』は、市川市蔵劇団という小芝居(中芝居)の劇団の話を中心に小芝居や女役者などについて丁寧に書かれた名著で、市蔵の子である三代目岩井小紫、二代目市川団四郎らへの聞き取り調査がベースになっています。本文中には横浜への言及もありますが、あまり多くはありません。
ですが、横浜のことを調べている身としては、わずかとはいえ言及がある以上、一応確認してみなくてはと、溜め込んだ新聞記事のコピーをひっくり返してみたところ、思いがけず市蔵と岩井小紫(初代)ではないかと思われる名前に出くわすこととなったのです。
『越境する歌舞伎』によれば、市川市蔵(本名藤田栄)は1901(明治34)年生まれで
"大歌舞伎での名題を目指して修行をし、五代目澤村田之助から澤村田左衛門の名をもらった"(同書67ページ)
とあり、そのほかの芸名として嵐傳二郎、市川團四郎などがあったそうです。
また、岩井小紫は、この本の聞き取り調査の対象である兼元多恵子が三代目、その姉(智子)が二代目で、初代は市蔵(藤田栄)の兄である竹本巽太夫(藤田謙治郎)の妻の妹の夫、
"小芝居で活躍後に松竹大歌舞伎に入り名題になったと藤田家では伝えられている"(同書70ページ)
とのことです。
"昭和十三(一九三八)年後半あるいは十五(一九四〇)年前後、まだ藤田栄が市川市蔵以外の芸名で活動していた時期に栄の実兄巽太夫が義理の弟の小紫に声をかけたことで、栄が率いる劇団に入ったと考えられる"(同書72ページ)
とあり、さらには
"昭和十五(一九四〇)年以降、大歌舞伎に入った、あるいは戻った時期があった可能性がある"(同)
ともあるので、戦前の活動についてはあまりはっきりしないようです。
ちなみにこの頃(昭和13〜15年頃)の横浜では、横浜歌舞伎座での歌舞伎興行が終わり、本格的な歌舞伎は見られなくなって、日吉劇(日吉良太郎一座)や剣劇・女剣劇など、どちらかというと大衆演劇の興行が盛んに行われていました。
それでも念のために、その前後の時期を確認してみたところ、1942(昭和17)年から翌年にかけて、南吉田町の金美劇場(金美館)での興行に関する新聞記事の中に、両名の(と思われる)名前を見つけたというわけです。
1942(昭和17)年11月9日付神奈川新聞より |
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1943(昭和18)年2月8日付神奈川新聞より |
(年代的に田左衛門時代の市蔵と初代小紫だと考えていいと思うのだけど…)
南吉田町の金美劇場は、もともとは1929(昭和4)年に開場した「横浜キネマ」という映画館で、のちに南座と改名し、さらに金美館と名を改めて、昭和16年10月から実演に転向した劇場です(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)。
実演劇場になったとされる昭和16年の10月興行は剣劇二座合同公演で、顔ぶれは
"新國劇の鳥居正、新鋭座の牧野映二、春野勇、女流剣劇の二見歌子、これへ嵐吉蔵、新星、花柳好太郎といふ連名。舞台を見ると更生劇の市川荒右衛門、黒川匠、日吉劇の小國龍太郎、映画畑の中川五郎。いやなかなかの豪華メンバー"(1946(昭和16)年10月6日付神奈川県新聞より)
かなりごったな混成メンバーという印象です。
さらに、その2か月後、同年12月になると「澤村清之助一座」が金美館に登場します。
澤村清之助について『越境する歌舞伎』では、阿部優蔵の『東京の小芝居』を引用して
"田ん圃の太夫こと四代目澤村源之助の弟子(中略)小芝居では名の残る女方で、小芝居関連書では必ず取り上げられる名題役者である。昭和十(一九三五)年過ぎから市川鶴之助と組んで東海道や房総方面を巡業し、戦後は横浜で市川栄升と組んで芝居をしていたという"(同書88ページ)
と書かれていますが、実は横浜の郷土史(演劇史)において「澤村清之助」の名は、戦後ではなく、どちらかというと戦前、昭和9年から横浜歌舞伎座の専属劇団であった「更生劇」の中心メンバーとして記憶・記録されています。
昭和11年発行の『花柳演藝かゞみ』には更生劇の人気俳優として、實川延蔵・澤村清之助・森野五郎・市川栄升・市川新之丞・市川筆之助・大谷門二郎(のちの友吉)・市川之四丸(のちの升紅)らが写真付きで紹介されています(もちろん、ハマの團十郎こと市川荒二郎も中心メンバーでしたが、この本の発行前年に亡くなっています)。
『花柳演藝かゞみ』より |
更生劇は昭和13年5月に4年間の活動を終え、同年6月からは日吉良太郎一座が横浜歌舞伎座に根を張って、昭和19年まで6年にわたる連続興行をスタートさせます。前述の通り、これ以降しばらく、日吉劇や敷島座の剣劇・女剣劇といった大衆演劇が横浜演劇界の中心となる時期が到来します(近江二郎一座とともに大高よし男が敷島座の舞台に立つのが昭和15年3月だからまさにこの時期)。
さて、金美館での澤村清之助一座に話を戻すと、そのメンバーは
澤村清之助嵐芳之助松岡壽美子生島波江大和愛子三田京子杉浦砂子水の江城子石原美津男林重四郎木田三千雄北島晋也福井哲郎西條悦郎畑中良光健二水田純一結城■司澤村清枝澤村清子黒川匠牧野映二春野勇(1941(昭和16)年12月1日付神奈川県新聞より)
といった顔ぶれです。
歌舞伎の一座というよりは大衆演劇寄りのメンバーが多い印象です。
生島波江は日吉劇の舞台にも立ち、戦後、大高一座にも参加している人。松岡壽美子は日吉劇のメンバーだし、水の江城子はこの時まだ13歳、横浜の大衆演劇では有名な子役で、のちには弘明寺の自由劇団にも参加する役者。木田三千雄は後年テレビドラマなどでも活躍し、近江二郎一座にいたこともあるそうですから(1963(昭和38)年7月1日付読売新聞より)、歌舞伎でも剣劇でも新派でも、とにかく横浜でお馴染みの役者を集めた混成一座、といったところでしょうか。
そんな澤村清之助一座は翌年、昭和17年の正月興行までの2ヶ月間、金美館での上演を続けますが、その間に劇場が籠寅演藝部と提携し、同年2月以降は籠寅主導による大衆演劇中心の興行に方向転換します。
1942(昭和17)年1月26日付神奈川新聞より |
(この頃から、籠寅は蒲田愛国劇場、川崎大勝座など京浜地区の小劇場を続々と傘下にしていったようですね)
しかし、大衆演劇への転向はわずか3ヶ月で終わり、昭和17年5月に「金美館」は「金美劇場」へと改名して、ふたたび澤村清之助、大谷友吉(前名大谷門二郎)らを中心とした「新進座」という劇団による歌舞伎専門の劇場へと再転向します。
新聞の劇評の中で紹介されている新進座の顔ぶれは
大谷門二郎改め友吉坂東市太郎澤村清之助市川五百三郎安田猛雄生島波江吾妻八重子中村正夫澤村亀音
市川紅升
(1942(昭和17)年5月18日付神奈川新聞より)
で、記事には「友吉を主體として」と書かれていますから、座頭ということになるのでしょうか。これも混成一座の印象は拭えませんが、澤村清之助一座をベースにしながらも歌舞伎色が濃くなっているように感じます(前回の投稿に書いた市川門三郎の弟、市川五百三郎(のちの坂東相十郎)の名前もここに出てきます)。
この時期、金美劇場は運営方針が右往左往している印象ですが、どうやら籠寅との提携は続いていたようなので、保良浅之助一流のひらめき(思いつき)で、同じ籠寅傘下の敷島座や、日吉劇の拠点・横浜歌舞伎座との差別化を図るために、金美劇場を歌舞伎専門という位置付けに変えたのではないかとも考えられます(新進座の興行は最終的には昭和18年4月までの約一年、安定して続きましたから、その方針はあながち間違っていなかったのかもしれません)。
いずれにしても、これで横浜に本格的な歌舞伎が戻ってきた、というのが当時の好劇家たちの思いだったようです(上掲記事にもあるとおり「ハマ唯一の歌舞伎芝居」という認識だったよう)。
余談ながら、昭和17年8月1日〜5日には「尾上菊五郎一門劇」と称し、菊五郎劇団のメンバーによる歌舞伎が上演されます。この公演はあまり良いものではなかったようで、「横浜の観客を舐めるな」という論調の、稽古不足を指摘するかなり辛辣な劇評が掲載されます(昭和17年8月10日付神奈川新聞『訓練不足の歌舞伎劇を難ず』横濱演劇懇話會の菊五郎一門批判)。
さて、前置きが長くなりすぎましたが、肝心の市蔵らのこと。
上に提示した記事の通り、昭和17年の秋以降、正確には金美劇場9月興行から新聞記事に「田左衛門」「小紫」の名前が見られるようになります。この年の夏に市蔵らと新進座の間で何らかの接点があったのでしょう。
その後もこの座組の興行は順調に続きますが、前述の通り、昭和18年4月いっぱいで劇場が松竹第三部の経営となって、またまた大衆演劇に方針転換。横浜の歌舞伎はこれで一旦終了となるわけです(前回書いたように、11月に市川門三郎が来てまたまた歌舞伎に戻り、二転三転の劇場経営という印象です)。
実は、金美劇場での歌舞伎興行が終了する1ヶ月前、昭和18年3月に大谷友吉は新進座を離れ、松尾国三の富士興行に入社し、4月1日から名古屋歌舞伎座(市松延見子一座)に出演するのです。
1948(昭和18)年3月8日付神奈川新聞より |
そしてこの記事の最後には
"岩井小紫、澤村田左衛門も行動を共にして名古屋へ赴く"
とも書かれています。
つまり市蔵と小紫は横浜・金美劇場の後、市松延見子一座に参加したようなのです。
その巡業の一環でしょうか、半年後の昭和18年9月には横浜花月劇場(旧朝日座)に延見子一座が来演します。
1943(昭和18)年9月1日付神奈川新聞より |
そしてそれを紹介する新聞記事には、小見出しから友吉、小紫の来演が報じられているのです。
1943(昭和18)年8月30日付神奈川新聞より |
とても興味深いのは、この記事の中で、岩井小紫が「市川猿之丞」に改名したと書かれていることです。
市松延見子一座の興行は三の替り、9月28日まで続きますが、その間に、これも横浜演劇懇話会の小林勝之丞によるかなり厳しい劇評が出ます。その中には改名についての言及もあって
"どうも見當違ひの気味もある。たとえば市川新之丞が段枝、岩井小紫が市川猿之丞、門二郎(筆者注:友吉)が大谷友十郎と改名してゐるのにその事に觸れていない。七年ぶりの市川左莚出演も歌舞伎愛好者には懐しい筈だが、誰も彼も十把一からげである"(1943(昭和18)年9月6日付神奈川新聞「初秋決戦下劇壇」より)
つまり、岩井小紫は市川猿之丞に、大谷友吉は大谷友十郎に改名したというのです(澤村田左衛門のことは書いていないので改名していないと思われる)。
(ちなみにこの劇評を受けてなのか、二の替りの広告はこんな感じになります)
1943(昭和18)年9月19日付神奈川新聞より |
追えたのはここまでですが、もし本当に大谷友十郎が大谷友吉で、市川猿之丞が岩井小紫だとしたら、彼らは横浜金美劇場の後、一年以上、市松延見子一座に帯同していたと言えそうです(5月がちょっと異例だけど)。
一方の市川市蔵(澤村田左衛門)は昭和18年6月でこの一座を離れたように見えます。『越境する歌舞伎』に書かれている
"(市蔵は)同じ頃(筆者註:昭和18年から19年頃)、やはり小芝居の大物、澤村清之助を上置きとする座組をみずから行い、地方巡業をした"(同書112ページ)
という時期がこの頃にあたるのでしょうか。詳しいことはわかりません。
また、同書には岩井小紫の出征について、
"おそらく戦争末期の四十歳前後での出征だったと思われる"(72ページ)
とありますが、(くどいようですが)小紫が市川猿之丞だとすると、昭和19年5月初頭までは舞台に立っていたわけですから、召集・出征はその後ということになります。
ちなみに、大谷友十郎はその後どうしたかわかりません。昭和13年刊の『銃後の横浜』(皇軍慰問号)には門二郎時代に出征した話が面白おかしく書かれていますが(「俳優の出征いろいろ」)、終戦間際に何をしていたのかは、詳しい調査ができていません。
ですが、いずれにしても戦禍を生き延びたようで、戦後、昭和22年にオリエンタル劇場(のちのオペラ館、横浜セントラル劇場)で、大谷友十郎一座の興行が行われています。
1947(昭和22)年6月29日付神奈川新聞より |
この時も「友吉改め大谷友十郎劇団」となっていることから、友十郎という名前は少なくとも横浜ではあまり定着していなかったのかもしれませんね。
ところで、『越境する歌舞伎』でひとつ疑問だったのは、昭和10年代の横浜で市川市蔵が中村幹尾の一座に参加していたと書いてあることです。
昭和10年代の横浜の歌舞伎は、上述の通り昭和9年から13年までの更生劇(横浜歌舞伎座)と昭和16年10月からの金美館(金美劇場)の新進座(澤村清之助一座)以外はほぼなないと思われます。
しかしながら、(まだざっくりとではありますが)これらの興行について調べた範囲では「中村幹尾」の名前が見つけられないのです。中村幹尾は改名していないということなので、横浜関係の記事のどこかに名前があるはずです(更生劇に出ていたのかな?)。
新聞記事の精査も、大高よし男が横浜に登場する昭和15年以降が中心だったので、更生劇のことも含め、もう一度ちゃんと調べ直さないといけませんね。
そんなこんなで、今回も回りくどい長文になりましたが、敷島座や日吉劇ばかり注目していた中、金美劇場の動きをざっとおさらいしてみたことで、戦時中の横浜演劇界を少し俯瞰して見ることができたのは、思いがけない収穫でした。
(それにしても歌舞伎のことは(も?)不勉強でわからないことばかり…付け焼き刃、ご容赦)
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