大高よし男の三回忌追善興行が行われた昭和23年は、横浜でかなりエポックメイキングな公演が続いた年です。
今回は少し余談めきますが、そんなお話。
以前書いたように、杉田劇場でデビューした加藤和枝は3月に「美空ヒバリ」、5月に「美空ひばり」として横浜国際劇場の舞台に立ちます。
1948(昭和23)年3月8日付神奈川新聞より |
大高よし男一座の幕間で唄っていた少女は、2年という短期間で、この舞台から全国区のスターになる第一歩を踏み出すわけです。
一方、杉田(中原)にゆかりのあるもう一人の大スターが、この年の9月、同じ横浜国際劇場の舞台に立ちます。
三船敏郎です。
同年4月に公開された黒澤明監督『酔いどれ天使』の実演版(!)が横浜国際劇場で上演されたのです。この舞台は三船敏郎の生涯唯一の実演だとも言われていて、かなり珍しい公演です(9月7日〜13日)。
1948(昭和23)年9月7日付神奈川新聞より |
出演者がほぼ映画と同じメンバーというのも驚きですが、それよりも驚愕なのが「演出 黒沢明」の文字です。文字通りに受け取れば、黒澤明が実演の演出もやったということになります。詳しいことはわかりませんが、これも黒澤唯一の舞台演出なんじゃないでしょうか。
この舞台についてネットで調べてみたところ詳しい情報に行き当たりました(こちら)。
追加で調べますと、当時、東宝争議(第3次)があって映画の撮影がままならぬ環境だったようです。その影響と言っていいのでしょう、こうした実演の企画が持ち上がったと思われます。9月4日に静岡歌舞伎座で初日を開け(4日・5日の二日間)、全国巡業の予定だったのが、不入りのせいか、ほかの理由でか、2番目の巡業地である横浜国際劇場での公演をもって打ち切りになったのだとか。
Wikipediaの三船敏郎の項では
「デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。しかし、東宝争議が激化したため撮影部転属を諦め、黒澤、志村と共に『酔いどれ天使』の舞台実演で全国を巡業する」(下線引用者)
と書かれています。ちなみに『酔いどれ天使』の項では、舞台版として2021年の明治座と大阪歌舞伎座のものしか書かれていませんから、昭和23年の舞台は知る人ぞ知る幻の公演だったのかもしれません。
なお、三船敏郎と磯子の関わりについては、郷土史研究家、葛城峻さんの本に詳しく書かれていますが、戦後、復員してきたのが磯子で、杉田の隣町の中原に下宿して、進駐軍関係の仕事をしていたそうです。
"国道十六号線のバス停「境橋」の山側の入口に熊野神社の御神木が残っています。ここを百メートル入った先の四筋に別れる中央道路左側に池田邸がありますが(引用者註:今はマンションになっている)、ここに敗戦直後満州から引き揚げて来た三船敏郎が住んでいました"(葛城峻『やぶにらみ磯子郷土誌』/磯子区郷土研究ネットワーク, 2015より)
別の資料から三船自身の発言など、ふたつほど引用してみます。
“そのうち兵隊仲間で、数年前に除隊したやつが横浜に住んでいたんです。弟も帰ってきて、連絡とりあって、それで横浜に一緒に住んでいたんです(中略)近所に池田組という、横浜の輸送のほうを引き受けていたおやじさんがいたわけです。磯子の奥の方に発動機、エンジンつくっていた石川島というのがあったんですよ。爆撃でめちゃくちゃになっていましたけど(中略)そこへ米軍が入ってきて、アメリカの兵隊たちにコカ・コーラを飲ますから、ここへ機械を据えるということで(中略)三船君手伝ってくれということでそれを手伝っていたんですよ”(講座日本映画5『戦後映画の展開』/岩波書店, 1987より)
“三船は九州の駅から蒸気機関車に乗り、熱い釜の近くに掴まって、横浜へ向かった。そこに、自分の弟と妹がいることが分かったからだ。「兄妹が数年ぶりに再会できたんですが、しばらくは、横浜の磯子に住み、下宿しながら、肉体労働をしていたそうです(中略)その工場にしばらくいてから、大山さんを訪ねたんです。そのときは、横浜の磯子から、(世田谷区)砧の東宝撮影所まで歩いていったと話してました」(史郎)」”(松田美智子『サムライ 評伝三船敏郎』/文藝春秋,2014より)
のちに黒沢映画でたびたび共演する三船敏郎と千秋実が杉田にいた奇縁については、以前このブログにも書きました→こちら。
両者のいた時期はズレていると思っていましたが、三船が東宝撮影所を訪れるのが昭和21年5月で、上記引用によればまだ磯子に下宿していたようなので、昭和21年2月、千秋実の薔薇座の公演時、三船敏郎も杉田にいたことになります。となると、街ですれ違うようなこともあったかもしれません(中原から石川島の工場へ行く途中に杉田劇場があった)。つくづく不思議な縁です。
それにしても三船はよほど印象の強い人だったのでしょう、まだ一般人だった彼が商店街を歩いていたのを見た、なんていう人が地元に結構いらっしゃいます。有名人でもないのになぜわかったのかが不思議でしたが、一種のオーラみたいなものがあったのでしょうし、数年後には銀幕に登場したのですから、すぐにピンときたのでしょうね。
美空ひばり・三船敏郎とも、杉田(中原)の街で過ごしてから2年あまり、この年を境に一気にスターダムを駆け上がるのですから、「ゆりかご」としての杉田、「ステップ」としての横浜国際劇場とも考えられ、戦後の大スターを育てた街として、いささか誇らしくも感じます。
ちょっと身贔屓が過ぎますが…
さて、この年、杉田劇場に限って言えば、5月20日から女剣戟・浅香光代一座の興行が特筆すべき舞台です(5月20日〜28日)。
浅香光代といえば、晩年まで歯に衣せぬ発言で人気を集めたタレントとして有名でしたが、そもそもは女剣劇の役者で、浅香新八郎・森静子夫妻の一座(新生国民座)に入団したのち、自分の一座を立ち上げた人です。
戦前の女剣劇「三羽烏」(大江美智子・不二洋子・伏見澄子)は、戦後「四天王」(大江美智子・不二洋子・中野弘子・浅香光代)へと変わり、彼女こそ戦後のブームの一翼を担った第一人者です。殺陣の最中に、着物の裾がめくれて内股がチラリと見える「チラリズム」でも人気が高かったそうです。
1948(昭和23)年5月22日付神奈川新聞より |
残念ながら、彼女が杉田劇場に来演したのはこれが最初で最後だったと思われます。
公演の内容は実演に映画の併映で、映画も後半は「裸体映画」ですから、剣劇のチラリズムと相まって、杉田劇場としては「エロ」を売りにした興行だったのかもしれません。
1948(昭和23)年5月28日付神奈川新聞より |
余談の余談ですが、浅香光代一座の興行は5月28日までで、その翌日、5月29日からは横浜のアマチュア劇団「葡萄座」の公演が3日間続きます。葡萄座の千秋楽(31日)の夜は「浪曲の夕」だし、翌日からは『りべらるショウ』が始まるので、なかなか混沌としたプログラムの合間に葡萄座の公演が行われていたことがわかります。
1948(昭和23)年6月1日付神奈川新聞より |
この年の杉田劇場におけるもう一つの大きなトピックは、6月10日から14日までの「通し狂言『仮名手本忠臣蔵』」です。この興行は『神奈川県史』の年表にも記載されているほどのもので、戦後初の忠臣蔵通し上演として名高い舞台です。広告も大きく、劇場側もかなり力を入れていた印象です。
1948(昭和23)年6月12日付神奈川新聞より |
広告だけでなく記事にもなるほどの話題だったようですが、記事中「横浜では終戦後最初の」と書かれているので、実際にどこまでのレベル(範囲)で「戦後初」なのかは、もう少し検証した方がよさそうですね。
1948(昭和23)年6月10日付神奈川新聞より |
これだけ話題性のある忠臣蔵の通し上演ですし、広告にも「連日満員」とあることから、さぞかし客入りも良かったのだろうと想像しますが、4日目(5月13日)と千秋楽の「映画演劇情報欄」には前日までの情報に追記するような形で「当日賣有り」と書かれているので、集客自体はそれほど芳しくなかったのかもしれません。杉田のような街では、もう少しわかりやすいものが好まれたのかな、なんて想像するところです。
1948(昭和23)年6月14日付神奈川新聞より |
以前にも書いた「朝川浩成・鳩川すみ子の同生座」が登場したのもこの年ですし、歌舞伎オペレッタの看板を掲げる「市川雀之助一座」が登場するのもこの年からです(市川雀之助についてはまた改めて)。
1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より |
さらには、杉田劇場で(おそらく)初めてエロを前面に出した公演(新世紀座の『肉体の街』。ですが、この劇団や作品の詳細はよくわかりません)があったり(2月)、映画の上映が多くなるのもこの年。
1948(昭和23)年2月24日付神奈川新聞より |
また新しい緞帳(引幕)が寄贈されたのもこの年とされています(その経緯は杉田劇場のブログに詳しく書かれています)。
大高よし男の三回忌に当たる昭和23年は、杉田劇場でもその他の劇場でも激動の時期で、戦後の興行が大きな転換期を迎えた年だともいえそうです。
そんなこんなで、今回は昭和23年の横浜興行界について少し考えてみました。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
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