大高よし男は昭和15年3月から、横浜敷島座で近江二郎一座の舞台に立っていたことがわかっています。それ以前の大高の消息を知るには、昭和14年と昭和15年1月と2月の近江二郎一座の動向を確認することが第一歩で、目下最大の課題ですが、これがなかなか判明せずに苦慮しています。
地方巡業を続けていたのか、都市部でも広告など出さないくらいの場末の劇場で公演していたのか、はたまた近江自身が徴兵されて戦地にいたのか。手がかりがないので、調べようがないというのが現実です。
そんなこんなで、大高調査もすっかり停滞しています。とはいえ少しでも前進をと、大高没後の昭和21年10月以降の暁第一劇団(暁劇団)の動きなどから、逆算的に大高よし男の正体に迫ることができないだろうか考えているところです。
というわけで、手始めに昭和21年10月と11月の新聞記事を調べてみました。
その結果、広告からは目新しいものは見つかりませんでしたが、記事の中に新たな手がかりになるかもしれない情報を得ることができたのです。
さて、昭和21年秋の横浜で、新聞の文化芸能欄を賑わしていたのが「オール横浜総合芸能コンクール」です。
戦後の復興にあたって、建物の再建やインフラの整備など物的な復興にあわせて、人心の復興を期したということでしょうか、この年の11月に「オール横浜総合芸能コンクール」というイベントが開催されました。名前は大仰ながら、乱暴に要約してしまえば、素人演芸コンテストみたいなものです。
戦後民主的な新規事業のようにも見えますが、戦時中も末期になるとプロの芸能人ではなく、地元のアマチュアが芸を披露する慰問公演が頻繁に行われるようになっていましたから、それが底流にあってのコンクールにも思えます。実際、「オール横浜」に出演していた人の中には、戦時中の素人演芸慰問会に出演していた人の名前もみられるのです。
このコンクールは娯楽の少なかった時代背景もあってか、大盛況だったようですが、何よりもこれが歴史に刻まれているのは、「加藤和枝」のちの美空ひばりが出場していたからです(杉田劇場のブログに記載があります)。すでにこの年の3月には杉田劇場で舞台デビューを果たしていますから、コンクールはさらなる高みを目指してのチャレンジという意味合いなのでしょうね。
このコンクールは、音楽・舞踊・歌謡曲・演芸・演劇の5部門に分かれていて、それぞれの部門での予選会を経て、昭和21年11月23日から25日にかけて、横浜公園にあった野外音楽堂で本選が行われました。
1946(昭和21)年10月24日付神奈川新聞より |
各部門とも深掘りすれば興味深いネタが出てきそうですが、ひとまずこの項で検証したいのは演劇部門です。
演劇の予選は11月1日と2日、桜木町のサクラポート(紅葉閣)という会場で行われました(サクラポートは「中区花咲町4-111」にあったキャバレーです:こちらのブログを参照してください)。
その参加団体は以下の通り。
1日目
- ひらがな座『脚本朗読 大尉の娘』
- 横浜貯金支局・そろばん座『父帰る』
- 三村利雄『柿の種物語』
- 堀口町内会『貞操』
- 横浜高工演劇部『吃又の死』
- 東洋電機演劇部・青春劇団『弁天■■時雨』
- 安立電気青年会演劇研究部『故郷の声』
- いくしろ文化クラブ『脚本朗読 沈丁花』
- 根本茂『脚本朗読 修善寺物語』
- 日本自動車工業演劇部『流れ星』
2日目
- 杉田町青年団演劇部『名人長次』
- 杉田町青年団演劇部『国定忠治』『車夫の代診』
- オリオン劇団『名月赤城山』『沈丁花』
- 青年会演劇部『暗黒の人生』
- 青年団演劇部『兄弟』
- 戦災者同盟本部『太陽』
- 坊ちゃん劇団『裏町人生』
- 東京急行横浜支社演芸部『兄と妹』『■ふ清水港』
- 狭間徳義『婿■人』『二人はかくして』
- 勅使河原道夫『脚本朗読 狂女』
そして、本選に出場したのは
- いくしろ文化クラブ『脚本朗読 沈丁花』
- 東京急行横浜支社演芸部『兄と妹』
- 戦災者同盟本部『太陽』
- 杉田町青年団演劇部『名人長次』
- 横浜貯金支局・そろばん座『父帰る』
- 安立電気青年会演劇研究部『故郷の声』
の6団体でした(職場演劇や地域の青年団など、顔ぶれが多彩で時代を感じさせます)。
また、予選の審査員のメンバーは以下の通りでした。
いま思うと、素人のコンクールにしては審査員が豪華なのと、演劇のジャンルに偏りが出ないよう、新劇と商業演劇から1名ずつ選定しているところも、フェアな感じがして面白いところです。
さて、この参加団体の中で気になるのは「杉田町青年団演劇部」です。
実は彼らはコンクールに先立って、9月16日に「戦災者引揚者慰問演芸大会」と称する公演を杉田劇場で行なっています。
1946(昭和21)年9月16日付神奈川新聞より |
この時の演目は、コンクールと同じ『車夫の代診』『国定忠治・御存じ山形屋』『名人長治(長次)』ですから、もしかしたら、慰問演芸大会というのは建前で、コンクールのリハーサル的な意味合いがあったのかもしれません。
そんな事前準備の成果もあったのでしょうか、コンクール予選での評価はとても高かったそうです。
予選会での杉田町青年団の劇評が新聞に載っていましたので、少し長文ですが引用します。
“『忠治山形屋の場』は、玄人はだしのうまい芝居だつたそうである。審査會議のときも、うまい芝居だといふことに異議はなかつた。しかしこれが入選しなかつたのは、演技をした人たちが『名人長次』と重複してゐたからであつた。おなじ劇團が二つの劇をやることを避けさせた今度の豫選の建前から、これは惜しくも落ちたのである。しかし股旅ものでは、断然群を抜いてゐたことに異論はないのだから、この劇團のうまさは、實質的には高く買はれたといへる”
本選では1団体1演目の制限があったのでしょうか、どうやらそのためにこちらの演目は選ばれず、もう一本の『名人長次』が本選へ進みます。
その『名人長次』の劇評も載っていますが、実はここにかなり気になることが書かれているのです。
引用します。
“『名人長次』は豫選二日目の最大収穫だつた。この芝居は、川口松太郎の原作だが、新生新派のレコードテキストを台本にして、よくこれまでにやつたとおもふ。大高■■君の演出力に先ず■服する。■田■■(※註:横田幸蔵)君の長次もよかつたし、久保■四郎君の清兵衛、川原力松君のお柳、北■重子君のお島、みなよかつた。すこし難をいへば、長次は最初から、一本調子の熱のいれ方だつたが、後半を生かすために、前半はもつと落着いてやつたらいゝ。お島には、もう少し色気がほしかつた。清兵衛が長次の腕の疵を見るあたりからのせりふは、かんじんなのだから複雑な調子が必要だとおもふ。最終の場面で、死んだ筈のお柳が、現はれる瞬間、一同ハツと驚くところ、いかにも弱かつたのが残念だった。
この芝居も、『忠治山形屋の場』も、あまりうますぎてゐて悪くすると、商賣化するおそれがないかと村山氏も、進藤氏も心配してゐた。”
1946(昭和21)年11月21日付神奈川新聞より |
ここに書かれている演出担当の「大高■■君」とは一体誰なのか。
大高よし男はこの予選の1ヶ月前に事故死していますから、当人が現場で演出したということはあり得ません。しかし(印字が不鮮明なのがもどかしいところですが)この作品の演出者が「大高」であることは間違いなさそうです。「杉田町青年団」に「大高」とくれば、大高よし男が何らかの形で関わっていたと考えるのが妥当です。
前述の9月公演の段階では、大高はまだ存命です。とすると、考えられる可能性は
- 9月公演を大高が演出(演技指導)していて、コンクールでも敬意を表して大高を演出とした
- 大高に弟子入りしていた誰かが大高の姓をもらって芸名としていた
- 大高の子息など関係者が青年団に所属していた
- 実は大高は生きていたが、事故で負傷して役者を廃業した
です。
さすがに4番目は荒唐無稽にしても、残りの3つはどれもあり得る話です。
大高よし男は杉田劇場の専属劇団の座長です。地元の青年団が作った演劇部を指導していたとしてもおかしくありません。また、大高本人ではなくても、誰かが大高に弟子入りして演出を習っていたかもしれません。
3番目に挙げた可能性として、仮に子息なり親族が青年団に所属していたとすると、大高は杉田在住で、大高姓は本名ということになります。
新聞記事の小さな記載から、妄想がどんどんふくらんでいきます。
オール横浜芸能コンクールに参加した杉田町青年団演劇部の詳細はさらなる調査が必要です。もしかしたらここから大高につながるヒントが出てくるかもしれません。
→つづく
追記:
大高とは関係ありませんが、このコンクールの演芸部門の予選参加者に興味深い名前を見つけました。
- 「山本幸栄、物真似」
- 「山本幸栄、物語六個のにぎりめし」
1946(昭和21)年10月31日付神奈川新聞より |
です。山本幸栄さんといえば、葡萄座の(たぶん二代目の)座長です。
意外なところで意外な名前に出会いました。