(59) オール横浜芸能コンクール

大高よし男は昭和15年3月から、横浜敷島座で近江二郎一座の舞台に立っていたことがわかっています。それ以前の大高の消息を知るには、昭和14年と昭和15年1月と2月の近江二郎一座の動向を確認することが第一歩で、目下最大の課題ですが、これがなかなか判明せずに苦慮しています。

地方巡業を続けていたのか、都市部でも広告など出さないくらいの場末の劇場で公演していたのか、はたまた近江自身が徴兵されて戦地にいたのか。手がかりがないので、調べようがないというのが現実です。


そんなこんなで、大高調査もすっかり停滞しています。とはいえ少しでも前進をと、大高没後の昭和21年10月以降の暁第一劇団(暁劇団)の動きなどから、逆算的に大高よし男の正体に迫ることができないだろうか考えているところです。

というわけで、手始めに昭和21年10月と11月の新聞記事を調べてみました。

その結果、広告からは目新しいものは見つかりませんでしたが、記事の中に新たな手がかりになるかもしれない情報を得ることができたのです。


さて、昭和21年秋の横浜で、新聞の文化芸能欄を賑わしていたのが「オール横浜総合芸能コンクール」です。

戦後の復興にあたって、建物の再建やインフラの整備など物的な復興にあわせて、人心の復興を期したということでしょうか、この年の11月に「オール横浜総合芸能コンクール」というイベントが開催されました。名前は大仰ながら、乱暴に要約してしまえば、素人演芸コンテストみたいなものです。

戦後民主的な新規事業のようにも見えますが、戦時中も末期になるとプロの芸能人ではなく、地元のアマチュアが芸を披露する慰問公演が頻繁に行われるようになっていましたから、それが底流にあってのコンクールにも思えます。実際、「オール横浜」に出演していた人の中には、戦時中の素人演芸慰問会に出演していた人の名前もみられるのです。

このコンクールは娯楽の少なかった時代背景もあってか、大盛況だったようですが、何よりもこれが歴史に刻まれているのは、「加藤和枝」のちの美空ひばりが出場していたからです(杉田劇場のブログに記載があります)。すでにこの年の3月には杉田劇場で舞台デビューを果たしていますから、コンクールはさらなる高みを目指してのチャレンジという意味合いなのでしょうね。


このコンクールは、音楽・舞踊・歌謡曲・演芸・演劇の5部門に分かれていて、それぞれの部門での予選会を経て、昭和21年11月23日から25日にかけて、横浜公園にあった野外音楽堂で本選が行われました。

1946(昭和21)年10月24日付神奈川新聞より

各部門とも深掘りすれば興味深いネタが出てきそうですが、ひとまずこの項で検証したいのは演劇部門です。

演劇の予選は11月1日と2日、桜木町のサクラポート(紅葉閣)という会場で行われました(サクラポートは「中区花咲町4-111」にあったキャバレーです:こちらのブログを参照してください)。

その参加団体は以下の通り。

1日目

  • ひらがな座『脚本朗読 大尉の娘』
  • 横浜貯金支局・そろばん座『父帰る』
  • 三村利雄『柿の種物語』
  • 堀口町内会『貞操』
  • 横浜高工演劇部『吃又の死』
  • 東洋電機演劇部・青春劇団『弁天■■時雨』
  • 安立電気青年会演劇研究部『故郷の声』
  • いくしろ文化クラブ『脚本朗読 沈丁花』
  • 根本茂『脚本朗読 修善寺物語』
  • 日本自動車工業演劇部『流れ星』

2日目

  • 杉田町青年団演劇部『名人長次』
  • 杉田町青年団演劇部『国定忠治』『車夫の代診』
  • オリオン劇団『名月赤城山』『沈丁花』
  • 青年会演劇部『暗黒の人生』
  • 青年団演劇部『兄弟』
  • 戦災者同盟本部『太陽』
  • 坊ちゃん劇団『裏町人生』
  • 東京急行横浜支社演芸部『兄と妹』『■ふ清水港』
  • 狭間徳義『婿■人』『二人はかくして』
  • 勅使河原道夫『脚本朗読 狂女』

そして、本選に出場したのは

  • いくしろ文化クラブ『脚本朗読 沈丁花』
  • 東京急行横浜支社演芸部『兄と妹』
  • 戦災者同盟本部『太陽』
  • 杉田町青年団演劇部『名人長次』
  • 横浜貯金支局・そろばん座『父帰る』
  • 安立電気青年会演劇研究部『故郷の声』

の6団体でした(職場演劇や地域の青年団など、顔ぶれが多彩で時代を感じさせます)。

また、予選の審査員のメンバーは以下の通りでした。

いま思うと、素人のコンクールにしては審査員が豪華なのと、演劇のジャンルに偏りが出ないよう、新劇と商業演劇から1名ずつ選定しているところも、フェアな感じがして面白いところです。


さて、この参加団体の中で気になるのは「杉田町青年団演劇部」です。

実は彼らはコンクールに先立って、9月16日に「戦災者引揚者慰問演芸大会」と称する公演を杉田劇場で行なっています。

1946(昭和21)年9月16日付神奈川新聞より

この時の演目は、コンクールと同じ『車夫の代診』『国定忠治・御存じ山形屋』『名人長治(長次)』ですから、もしかしたら、慰問演芸大会というのは建前で、コンクールのリハーサル的な意味合いがあったのかもしれません。

そんな事前準備の成果もあったのでしょうか、コンクール予選での評価はとても高かったそうです。

予選会での杉田町青年団の劇評が新聞に載っていましたので、少し長文ですが引用します。

“『忠治山形屋の場』は、玄人はだしのうまい芝居だつたそうである。審査會議のときも、うまい芝居だといふことに異議はなかつた。しかしこれが入選しなかつたのは、演技をした人たちが『名人長次』と重複してゐたからであつた。おなじ劇團が二つの劇をやることを避けさせた今度の豫選の建前から、これは惜しくも落ちたのである。しかし股旅ものでは、断然群を抜いてゐたことに異論はないのだから、この劇團のうまさは、實質的には高く買はれたといへる”

本選では1団体1演目の制限があったのでしょうか、どうやらそのためにこちらの演目は選ばれず、もう一本の『名人長次』が本選へ進みます。

その『名人長次』の劇評も載っていますが、実はここにかなり気になることが書かれているのです。

引用します。

“『名人長次』は豫選二日目の最大収穫だつた。この芝居は、川口松太郎の原作だが、新生新派のレコードテキストを台本にして、よくこれまでにやつたとおもふ。大高■■君の演出力に先ず■服する。■田■■(※註:横田幸蔵)君の長次もよかつたし、久保■四郎君の清兵衛、川原力松君のお柳、北■重子君のお島、みなよかつた。すこし難をいへば、長次は最初から、一本調子の熱のいれ方だつたが、後半を生かすために、前半はもつと落着いてやつたらいゝ。お島には、もう少し色気がほしかつた。清兵衛が長次の腕の疵を見るあたりからのせりふは、かんじんなのだから複雑な調子が必要だとおもふ。最終の場面で、死んだ筈のお柳が、現はれる瞬間、一同ハツと驚くところ、いかにも弱かつたのが残念だった。
この芝居も、『忠治山形屋の場』も、あまりうますぎてゐて悪くすると、商賣化するおそれがないかと村山氏も、進藤氏も心配してゐた。” 

1946(昭和21)年11月21日付神奈川新聞より

ここに書かれている演出担当の「大高■■君」とは一体誰なのか。

大高よし男はこの予選の1ヶ月前に事故死していますから、当人が現場で演出したということはあり得ません。しかし(印字が不鮮明なのがもどかしいところですが)この作品の演出者が「大高」であることは間違いなさそうです。「杉田町青年団」に「大高」とくれば、大高よし男が何らかの形で関わっていたと考えるのが妥当です。

前述の9月公演の段階では、大高はまだ存命です。とすると、考えられる可能性は

  1. 9月公演を大高が演出(演技指導)していて、コンクールでも敬意を表して大高を演出とした
  2. 大高に弟子入りしていた誰かが大高の姓をもらって芸名としていた
  3. 大高の子息など関係者が青年団に所属していた
  4. 実は大高は生きていたが、事故で負傷して役者を廃業した

です。

さすがに4番目は荒唐無稽にしても、残りの3つはどれもあり得る話です。

大高よし男は杉田劇場の専属劇団の座長です。地元の青年団が作った演劇部を指導していたとしてもおかしくありません。また、大高本人ではなくても、誰かが大高に弟子入りして演出を習っていたかもしれません。

3番目に挙げた可能性として、仮に子息なり親族が青年団に所属していたとすると、大高は杉田在住で、大高姓は本名ということになります。

新聞記事の小さな記載から、妄想がどんどんふくらんでいきます。

オール横浜芸能コンクールに参加した杉田町青年団演劇部の詳細はさらなる調査が必要です。もしかしたらここから大高につながるヒントが出てくるかもしれません。


→つづく


追記:

大高とは関係ありませんが、このコンクールの演芸部門の予選参加者に興味深い名前を見つけました。

  • 「山本幸栄、物真似」
  • 「山本幸栄、物語六個のにぎりめし」

1946(昭和21)年10月31日付神奈川新聞より

です。山本幸栄さんといえば、葡萄座の(たぶん二代目の)座長です。

意外なところで意外な名前に出会いました。

(58) 没後二年目の追善興行

 大高よし男は昭和21年10月1日の夜、旅公演に向かう途中の長野県西筑摩郡大桑村須原で、乗っていたトラックが横転して崖下に転落し、下敷きとなって圧死してしまいます。


大高の追善興行は、前回も書いたように元映画スターの中野かほるが参加したものも含め、その年に何度か行われていますが、別件を調べているうちに没後2年目にも追善興行が開催されていたことがわかりました(三回忌追善ということなのかな)。

昭和23年9月22日から24日まで、「暁劇団」の名前で公演が行われています。

1948(昭和23)年9月21日付神奈川新聞より

1948(昭和23)年9月22日付神奈川新聞より

最初の広告には「故大坂ヨシ男追善興行」とあります。が、これは明らかに「大高」の誤植です。翌日の三行広告ではちゃんと「大高ヨシ男」となっています。

没後2年経っても追善興行が行われるというのは、それだけ大高の人気が高かったという証しでもありますが、逆にいうと2年経ってもまだ大高の人気に頼らなければならなかった杉田劇場側の事情があったのかもしれません。この頃からすで経営は厳しかったのでしょう。


ところで、広告の中で「特別出演」として名前の出ている「藤村正夫」はかつて日吉良太郎一座に所属していた人で、横浜にもゆかりのある役者です。大高没後の暁劇団は、その後、藤村を座長に迎えて「新生暁劇団」となります。
※大高調査は生前の活動履歴をあたっているので、戦後の残された劇団については調査が足りていませんが、こうした追善興行も散見されるので、没後の調査も順次進めていきたいと思います。

その藤村正夫の名前をネットで調べていたら、「テレビドラマデータベース」というサイトがヒットしました。

これは1959(昭和34)年、梅田コマスタジアムにおける「大江美智子一座」の舞台を中継したもののデータで、藤村正夫のほかに「双見浦子」が出ていることが注目点です。

双見浦子は「二見浦子」と同一人物だと思われますが、前名を石川静枝といい、戦前から活躍していた女剣劇の役者です。大高よし男とはかつて伏見澄子一座の舞台で共演している人で、戦後は大江美智子一座の助演としても長く活動していたようです。

ここに藤村と双見の名前があるわけですから、もし大高が生きていたら、人気と実力からして、彼もこの舞台に助演として参加していた可能性は十分に考えられます。

そう思うと、なかなか切ない思いにも駆られてきます。

大高の死は僕らが考えている以上に、演劇界(芸能界)にとっては大きな喪失だったのかもしれません。


→つづく


(57) 名古屋の大高よし男

大高よし男の足跡をたどる際に最もデータの充実した資料が『近代歌舞伎年表』です。

このシリーズはこれまでに「大阪篇」「京都篇」「名古屋篇」が出ているようですが、僕が大高の名前を書籍の中で最初に見つけたのがこの『年表』の「京都篇」なのです。

今夏、「名古屋篇」の最新刊(第17巻)が出版されるということで、とても楽しみにしていました。この巻は昭和14年から22年までの9年間の、名古屋での舞台興行をほぼ網羅したもので、近江二郎一座に参加する前の大高(前名の高杉弥太郎)がどのようにして近江一座と出会うのか、その時期やキッカケを探る上で重要な情報だと考えていたからです。


高杉弥太郎の名前の登場は、僕の調べた範疇では、昭和15年3月、横浜敷島座における近江一座の俳優一覧を掲載した「横浜貿易新報」の記事が最初です。

つまりその前年、昭和14年の高杉弥太郎の動向がわかれば、近江一座との関係が見えてくるかもしれないと考えているわけです。


近江二郎が昭和15年に敷島座に来た際には、かなり久しぶりの来浜だったそうなので、仮に大高(高杉)がそれ以前から近江一座に関わっていたとしたら、横浜の情報の中に高杉が出てくることはないはずです。

実際、昭和13年の伏見澄子一座には参加していませんし、昭和14年の横浜の新聞広告にも高杉弥太郎の名前を見出すことはできません。

また、上記『年表』の「京都篇」を調べても、昭和14年以前に大高の名前が見られないことから、残された可能性は(大都市に限るならば)「名古屋」か「東京」となるわけです。

「東京」については今のところ『都新聞』を頼りにしていますが、昭和14年の1月から3月くらいまでの間に、近江一座や大高の名前を東京の劇場に出演する面々の中に見つけることはできませんでした。


で、名古屋。


最新刊ということもあって、なかなか図書館に収蔵されないというもどかしさがあったものの、これが「横浜市立大学学術情報センター」というところにあったばかりか、このセンターには「市民利用制度」というものがあるということを知って、さっそく行ってきました。

市大生の利用が基本であることと、市民にはあまり知られていないこともあってか、土曜の午後のセンターはとても静かで、落ち着いた調査ができました。

その結果、書籍としては「京都篇」にしか見られなかった「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前をこの「名古屋篇」にも見つけることができたのです!

ただ、やはり昭和14年には名古屋での近江一座の興行はまったくなかったようで、その他の劇団の情報の中にも、大高ないし高杉の名前は見られませんでした。つまり、「名古屋篇」でも大高と近江一座の関係を明らかにすることはできなかったわけです。


「名古屋篇」に掲載されていた大高(高杉)の情報は年代順に以下の通りです。


(1)昭和15年7月8日〜 名古屋・歌舞伎座「剣戟・現代劇合同一座 二の替わり興行」

この興行は近江二郎一座、酒井淳之助一座、川上好子一座による合同公演で、演目は『元禄女大名』『新四谷怪談』『青春の叫び』『蝙蝠』です。このうち、『新四谷怪談』『青春の叫び』は近江一座の他の興行でも見られるものなので、近江のレパートリーと考えられます。

この興行の情報に「高杉弥太郎」の名前が出てくるのです(典拠は「名古屋新聞」広告)。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

昭和15年3月から6月まで、近江二郎一座は横浜敷島座で興行を続けていたので、これはその座組が名古屋に移動したものと考えていいでしょう。

以前から推測していた通り、この時期の大高(高杉)が近江一座の興行にずっと帯同していたことは間違いなさそうです。



(2)昭和17年7月4日〜 名古屋・歌舞伎座「映画人の実演 8協団 海江田譲二一座 お目見得狂言」

この興行は以前にも「大高、映画スターと共演!」の項で書きましたが、同年6月下旬から始まった川崎大勝座での興行と同じ座組が、そっくりそのまま名古屋に移動した形のようです。川崎での興行が短期間であるのに対して、名古屋はこの後、ほぼ1か月の興行が続くので、もしかしたら川崎は試演的な舞台で、名古屋が本命だったのかもしれません(ちなみに大高は昭和17年正月に「高杉弥太郎」から「大高よし男」へと改名しています)。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

前にも書いた通り、ここで重要なのは「中野かほる」との共演です。中野かほるは戦前の美人女優ですが、引き抜きやら移籍やらのゴタゴタなどもあってか、映画女優としては完全に花開くまで至らず、その後は舞台出演や映画での助演的な出演などを経て、戦後、1962年頃に引退することとなります(『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)より)

既報の通り、この中野かほるが大高よし男の死後、旧杉田劇場で行われた追善興行に出演しているのです。

1946(昭和21)年10月22日付神奈川新聞より

終戦直後はイマドキの言葉でいう「あの人はいま」に近い状態だったのかもしれませんが、1912年生まれですから終戦時は33歳。まだまだ若い女優で、人々の記憶にもあったはずです。ゲストとはいえ、追善興行に参加するというのは、それなりの思いがあったからではないかと推測しています。

大高よし男と中野かほるの関係も、少し探ってみたいところです。

この情報の典拠は「新愛知」の広告と「名古屋新聞」の広告だそうです。川崎での興行の広告では読み取れなかった団体名「8協団」もこれではっきりしました。

ちなみにこの興行は映画スターが出演するせいか、二の替り・三の替りも新聞広告が出ていたようで、7月12日〜、7月22日〜のそれぞれの広告にも「大高よし男」の名前が出ています。スターであった「海江田譲二」「大内弘」「中野かほる」と同列ですから、この頃すでに、大高はそれなりの知名度があったと思われます。


(3)昭和17年12月31日〜 宝生座「初春興行 伏見澄子一座・河合菊三郎一座」

この興行もすでに情報のある伏見澄子一座への助演(特別出演)の名古屋版ということになります。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

大高よし男は昭和17年の1月からは、ずっと伏見澄子一座に参加していたようです(6月と7月だけは上記の海江田譲二一座に参加)。

伏見一座とともに、東京(浅草)、大阪、横浜、名古屋と、長期にわたってほぼ休むことなく旅興行をしていたことが記録からわかります。

昭和18年5月の京都・三友劇場での伏見澄子一座への参加という情報を最後に大高の消息はわからなくなりますから、戦前・戦中の大高にとって、この伏見一座との共演の時期が最も人気があり、脂が乗っていたと言っていいのかもしれません。

この情報でも伏見澄子一座のベテラン剣戟俳優「宮崎角兵衛」と並列で名前が載っていますから、やはり大高の実力の程がわかるというものです。

典拠は「中部日本新聞」の広告です。


というわけで、『近代歌舞伎年表』名古屋篇からは、大高のプロフィールがわかるような追加の新情報は見つかりませんでしたが、各地で行っていた舞台の多くは名古屋でも行われていたことがわかったし、さらにいえば、各地で共演する俳優たち(たとえば松園桃子や三桝清、二見浦子など)が、大高と同時期に名古屋の別の座組で舞台に立っている例も少なくなく、大高にとって名古屋は次のチャンスを掴む「ハブ」のような地だったのかもしれないということがわかってきました。

大高に限らず、名古屋は彼らの所属していた籠寅興行部が全国での興行を見据えて、座組を考える実験的な地だったのかもしれません。


この先は引き続き、昭和14年以前の大高よし男(高杉弥太郎)の調査になります。

『都新聞』で浅草の状況を調べたあとは、広島・福岡など、これまで着手していなかった新たな興行地の情報を調べたいと思います。

大高の実像は、まだ見えない。


→つづく