(127) ひばりはアテネの舞台に立ったのか・2

ひばりプロの公式プロフィール、「1945年9月 父、増吉が復員。"ミソラ楽団"を結成」の欄に小さな写真が載っています(→こちら

大きく「美空楽団」のロゴが描かれた背景幕の前に立つ楽団員との集合写真です。ここには「歳末慰安会」の文字があることから、時期が年末だとわかります。また背格好や服装、楽団の編成からして、昭和20年の年末(12月)ではないかと思われます(参考までに昭和21年11月の「オール横浜総合芸能コンクール」も出演した際の写真が→こちら/美空楽団の編成については→こちら

これをアテネ劇場の舞台とする説もあるようですが、昭和20年の年末にアテネ劇場は存在しません。また杉田劇場もまだ開場していません。

つまり、この写真は杉田でもアテネでもない、もうひとつの劇場の写真で、これこそが美空ひばりの本当の舞台デビューではないかと考えているのです。

写真を見て気づくのは、このステージはかなりタッパ(高さ)があるということです。幕の吊り位置も勘案すると、舞台の額縁はさらに上部まで続いているだろうと思います。仮に中央の男性の身長を160cmくらいとすると、その倍、3メートル以上はあるはずです。

旧杉田劇場の写真と比べてみても、タッパの差は歴然です。

旧杉田劇場舞台(現杉田劇場所蔵)

バランスからするともっと間口があるようにも思えますが、これと同じ写真は自伝『虹の唄』にも掲載されていて、そこには下手側に「めくり」が写っていることから、おそらくそれほどの間口ではなく、やはり相対的に高さのある会場だと考えてよさそうです。

いささか短絡的かもしれませんが、この当時の、タッパがある建物として、真っ先に思いつくのが「銭湯」です。つまり、この写真に写っているのは、銭湯の浴槽をステージにしたという上大岡の「大見劇場」ではないか、というのが僕の見立てなのです。

大見劇場はもともと大見湯という銭湯で、終戦後、浴槽にフタをして、その上でさまざまな演芸をやっていたそうです。その演者の中には幼き日の美空ひばりもいたそうで、その経緯は大見湯を開業した上大岡の有名な旧家である北見家のウェブサイトに書かれています(「水車屋」ウェブサイトより「先祖の事業」/大見湯写真)。

それによると、大正後期に開業したという大見湯は

"終戦直後の昭和20年当時、銭湯は燃料がなく営業できずにいた様で、8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました(中略)小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。その盛況ぶりもあり劇場に改装された"

とのこと。

美空ひばりが「浴槽のフタ」の上で歌った時期と、劇場に改装された時期がいずれも明確ではないので、判断に迷うところですが、父、増吉さんの復員が8月末か9月で、公式プロフィールにある舞台写真は年末と思われますから、その間に銭湯が劇場に改装されていたのだとしたら、美空ひばりの舞台デビューは新しい定説の「杉田劇場」ではなく「大見劇場」ということになります。

ひばりと楽団は昭和21年3月か4月には杉田劇場へ出演することになるので、「その盛況ぶりもあり劇場に改装された」というのは、それより前の話という気がします(杉田劇場に出演した3ヶ月間は上大岡には出られないと思うので、その時期の改装ではないでしょう)。ちなみに「大見劇場」の新聞広告はいまのところ3つ見つかっていて、いずれも昭和21年6月以降のものです。

そうした事実からすると、大見湯は少なくとも昭和21年2月までには劇場に改装されていたと考えられそうです。

つまり

昭和20年9月頃 美空楽団結成
昭和20年秋 大見湯のフタの上で唄う(盛況)
昭和20年晩秋 ひばりの人気を受けて劇場に改装(大見劇場)
昭和20年暮 歳末慰安会に美空楽団出演

という時系列が一番しっくりくるように思えるのです(あくまでも推測です)。


さて、風間知彦著『実録ひばりファミリー』(双葉社, 1974)には、昭和23年に大見劇場を譲り受け、ふたたび銭湯に改装したという方へのインタビューが掲載されています。それによると

"あの当時の造りは、男湯と女湯のしきりも脱衣所のあいだのガラス戸もなかったんですよ。そして、湯殿から奥の元湯までが当時の舞台の奥行きだったんです。五メートルちょっとはありましたかね。幅は四間でした。そして湯船のフタが舞台ですが、当時のフタはヒバ材というのを使っていましてね、厚さ八センチメートルぐらいの一枚板(中略)洗い場と脱衣所にはゴザがしいてあって、その上に、小さな板でつくった長椅子が並んでいたんですよ。そこが客席だったわけですねえ" (179ページ)

と、劇場内部の様子がかなり詳細に書かれています。

どうやら、大見劇場は永続的な「劇場」として大改装したものではなく、男湯と女湯の仕切りや脱衣所のガラス戸を撤去した程度、舞台も浴槽のフタをそのまま使っていたわけですから、いわば仮設劇場に近い形だったようです。燃料事情がよくなればまた銭湯に戻すつもりだったのかもしれません(実際、そうなるのです)。

実は、同書でさらに興味深いのは、叔父・諏訪重忠氏へのインタビューです。曰く

"初舞台はねえ…たしか、上大岡の風呂屋だったと思いますよ。"大岡風呂"って名前だったと思うよ。いや、風呂屋を改造して"アテネ劇場"っていっていたのかな"(176ページ)

この話をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、美空楽団の一員だった重忠氏ですから、まったく無視できる話でもありません。特に上大岡の風呂屋(大見湯)を改装した劇場の名称を「アテネ劇場」と誤解している点は見逃せません。

この中で彼はその劇場のことをこう言っているのです。

"二百人は入れるその風呂屋劇場は、ひばりちゃんが出る日は超満員でしたね、その頃は、美空ひばりとはいわずに、"美空和枝"というのが芸名でしたね"(180ページ)

これは、前回の投稿で引用した自伝(『虹の唄』)の中で、アテネ劇場のことを

"当時はおフロ屋さんを改造した、客席二百ぐらいの小さな小屋です。"

としているのとピッタリ符合します。

※余談ですが『実録ひばりファミリー』には磯子町のアテネ劇場や杉田劇場への言及がまったくないというのも興味深いところです。


そもそも、生前に出版されたふたつの自伝については、没後に出た3冊目の自伝『川の流れのように』(集英社 ,1990)の序章「自伝」の序に、

"今までにも何冊か私に関する本は出版されたと思いますが、すべて母が相手の方と話し、そして、その方の主観が入って出来上がったものばかり"(9ページ)

と書かれており、これらはいずれも母・喜美枝さんが関係者(「相手の方」?)に話を聞いた内容を、自伝作家(ライター)がまとめたものと考えられそうです。

ですから、デビューについてのエピソードも、おそらく親族や関係者の証言にもとづくものでしょう。

仮にその中に重忠氏の話の内容が含まれていたとすると、彼は大見劇場の名称を誤って「アテネ劇場」と記憶していたようですから、それをライターがそのまま「デビューはアテネ劇場」と書いた可能性はあるし、逆に本来は大見劇場の客席数である「二百」がアテネ劇場の席数として記録されているのも腑に落ちます(実際のアテネ劇場は324席)。「アテネ劇場」という固有名詞から、後日調査をして「磯子の映画館」と加筆した可能性さえあるのではないかと思っています。

「アテネ劇場」という、実際に存在する映画館の名前が出てくると、どうしてもそれに振り回されがちになりますが、デビューをめぐる話については、全体のトーンとして「市場」「映画館」よりも「銭湯」「風呂屋」の方が色濃いように感じられるのです。

自伝のほかにも、以前書いたように、昭和23年6月にひばり自身が新聞のインタビューで

"南太田のお風呂屋で唄つたのが初舞台"

と語っています。南太田(みなみおおた)は、語感からしておそらく上大岡(かみおおおか)の間違いでしょう。南太田は空襲の被害がかなり大きかった地域で、終戦直後、大見湯のように演芸をやるような銭湯があったのかどうかは疑問です。

というわけで僕は、ひばりの関係者(親族)が上大岡の大見劇場のことを「アテネ劇場」と誤解していたために、それをもとにした自伝の記述が「デビューは風呂屋を改装した磯子のアテネ劇場」になってしまったのではないか、と考えているわけです(もちろん、アテネではないという確証はないので、仮説に過ぎませんが)。


もうひとつ。アテネ劇場を3日間借りて興行した際に、看板の名前をめぐって漫才師とトラブルになったという話も伝わっています。

"初日の朝、トリの漫才師がやって来て、「とても出られたもんじゃない」とプンプンおこって言うのだそうです。母は、狐につままれたようになって、それの理由を探しあぐねていましたが、やがてそのわけがわかりました。看板が美空和枝よりも字が小さい、ということなのです(中略)その方々はプロですし、こちらはまだしろうとなわけです。先方の言うことはもっともなことで、母たちはびっくりして、あわてて看板を書き直したそうです"(『ひばり自伝』42ページより)

が、これについても、いささかの疑問を感じているところです。

この事件はアテネ劇場で起こったこととされているので、時期は昭和21年9月です。しかし、それより半年も前、杉田劇場で実際の興行の現場に接してきた美空楽団のエピソードとしては、少し奇妙にも感じます。

杉田劇場には戦前から浅草興行界で仕事をしてきた鈴村義二がいました。大高よし男にしたところで、大衆演劇の第一線でキャリアを積んできた役者です。3ヶ月もの期間ですから、ひばり母娘が芸能界のしきたりを知る機会は十分にあったはずです。看板やポスターの記載についても、デリケートな事情があることは杉田で経験してきただろうと思います(実際、現存する2枚のポスターでも、美空楽団の表記内容や色(カラー化)などの変化がある)。

いくら売り出しのための単独興行とはいえ、杉田劇場の舞台を経た楽団がそんな初歩的なミスをするでしょうか。これが、大見劇場(大見湯)と思われる写真の年末興行や、その後、杉田劇場を訪れるまでの間の話ならば、わかるような気はします。

さらには、その『ひばり自伝』の中に書かれている

"わたしは扮装して三度笠で花道にでてくるのです"(41ページ)

"ここは普通は映画館ですが、申しこめば三日間とかそのくらいなら、色ものやそんなもので貸してくれるところだったようです"(41ページ)

の記述にも疑問を抱かざるを得ません。

そもそも映画館のアテネ劇場に花道があったとは思えないし(これは杉田劇場の話じゃないかと思う)、「そのくらいなら」「貸してくれるところだったようです」というのも、頼めば借りられそうだと誰かから聞いたような書きぶりで、開場したばかりのアテネ劇場についての言及としては、かなり違和感があります。

むしろ、自伝で「アテネ劇場」とされるエピソードは、大見劇場(ないし大見湯)や杉田劇場やその他の劇場での出来事をごちゃ混ぜにしてひとつにまとめたもの、と考えた方がしっくりきます(うがった見方をすれば、「大見」「杉田」よりも、古代ギリシャを想起させる「アテネ」の方が芸能的だし、スターのイメージにふさわしいと考えたのかもしれません)


ふたたび、『実録ひばりファミリー』に戻ると、諏訪重忠氏の話はさらに続きます。

"ひばりちゃんがはじめて浅草へ進出したときなんかは、義兄さん(註:増吉さん)が自分でカネを出して出演させたくらいですからね。ところが、"美空和枝"がいくらうまくっても、ひばりちゃんひとりじゃ客なんか呼べませんよ。そこで、色物を一組だけ呼びましてね。"好声会"という、セミプロ的な集団で、落語や漫才、浪曲などをやる人たちなんです。浅草の、なんという劇場でしたかねえ。とにかく、これが本物の劇場への初進出なんです"(180ページ)

”その後『寿美乃屋』という芸能社へ『美空楽団』が入って、"天才少女美空和枝と美空楽団"と銘打って、興行するようになったんです(中略)ほとんど毎日のように、あっちこっち、興行してまわりましたね。空地に建てた小屋だとか、海岸のよしず張りの舞台でしたけどね”(181ページ)

この話の時期がはっきりしませんが、四国・高知でバス事故に遭うよりは前の話のようなので、昭和21年から22年初め頃のことだと思います。

※この時期の浅草進出については、情報がないのではっきりしません。"好声会"や"寿美乃屋"のこともよくわかりません(どなたかわかる人がいたら教えてください)。

ここで語られている内容は、多くが生前の自伝と重なるのです。

例えば「義兄さんが自分でカネを出して出演させたくらい」は

"父はこの二日間の興行で「魚のもうけを一ぺんになくしちゃったよ」と苦笑していました"(『虹の唄』30ページ)

に通じますし、「ひばりちゃんひとりじゃ客なんか呼べませんよ」や「"好声会"という、セミプロ的な集団で、落語や漫才、浪曲などをやる人たち」は

"もちろん、楽団や私の名前などをご存じの方があるわけでもなく、春木つや子さん、叶家洋月さんという漫才や浪曲の方にも出て頂きました"(『虹の唄』29ページ)

とほぼ同じです(この記述からすると、看板の文字にクレームをつけたのは、漫才師の「叶家洋月・春木艶子」ということになるのでしょうか)。

※実は冒頭に紹介した「大見劇場」と思われる舞台写真で、ひばりの両サイドに立っている男女は件の漫才師ではないかとも思っています。ただ、衣装からして洋月・艶子とは違う気がします。

さらには、「"天才少女美空和枝と美空楽団"と銘打って」は、トラブルのもととなったとされる看板の文言

"スター美空楽団演奏会、豆歌手美空和枝出演"(『虹の唄』29ページ)

にかなり近い表現とも言えます。

これらのことからも、ふたつの「自伝」は、やはり客観的な裏付けに基づくものではなく、親族や関係者の曖昧な記憶に、さまざまな時期のさまざまな興行のエピソードを付け加え、それらをミックスして再構成された記述ではないかと考えられます。そしてこれを根拠に書かれた多くの書籍によって「美空ひばりのデビューは風呂屋を改装した磯子のアテネ劇場」という話が広まることになったような気がするのです。

前回投稿したアテネ劇場のスケジュールや、今回挙げた事柄を照合してみても、開場したばかりの磯子町の映画館「アテネ劇場」の舞台に美空和枝が立った、という話は、やはりかなり疑わしいものだ、というのが現時点での結論です(そもそもアテネ劇場に出た時期からして『虹の唄』では「年の暮」、『ひばり自伝』では「9月」とブレが見られます。大見劇場をアテネ劇場と誤解していたならば、『虹の唄』が「年の暮」と表記しているのは腑に落ちます)

さらに事実関係を調査するなど、もう少し慎重に検証を重ねた方がいいのでは、と思っているところなのです。


そんなこんなで、かなり妄想まじりに(しかも疑問符付きで)ひばりデビューについての時系列をまとめると

昭和20年9月頃 美空楽団結成(近所のお祭り屋台などで歌う)
昭和20年秋 上大岡・大見湯で歌う(評判になる)
昭和20年晩秋 大見湯、大見劇場に改装?
昭和20年12月 美空楽団、大見劇場で歳末慰安会に出演?(事実上の初舞台)
昭和21年1〜2月 浅草の劇場に出演?(この時漫才師とトラブルか)
昭和21年3月初旬 杉田劇場へ売り込み(幕間に出演)
昭和21年4〜6月 杉田劇場で大高一座等の幕間に出演
昭和21年夏〜 各地で興行か?(アテネには出ていない?)
昭和21年11月 オール横浜総合芸能コンクールに出演
昭和21年12月 NHKのど自慢大会予選に出演
昭和22年1月 弘明寺銀星座で自由劇団の幕間に出演
昭和22年春 井口静波・音丸夫妻に会い、巡業に出る
昭和22年4月 四国巡業の際、バス転落事故に遭う
昭和22年6月 戸部・復興会館に出演
昭和22年7月 辻堂・湘南映画劇場に出演
昭和22年夏〜 各地で興行か?
昭和22年10月 日劇小劇場「新風ショウ」に出演、芸名・美空ひばりとなる
昭和23年3〜6月 横浜国際劇場に出演

と、こんな感じでしょうか。

まだまだ不明の時期があるし、漫才師とのトラブルを浅草でのことと仮定している点も、その真偽や時期も確かめなければいけませんから、かなり妄想過多な仮説です(妄想に輪をかければ、浅草で「横浜の人なら杉田劇場に鈴村さんがいるから、そこを訪ねたらどうか」などのアドバイスをもらったのかもしれません)。

ともあれ、現段階ではこの時系列が比較的しっくりくるように感じています。

(あらためて並べてみて、戸部の横浜復興会館と辻堂の湘南映画での舞台は、四国で生死を分けるほどの大事故に遭ってからまもない頃なのだと気づきました。驚異的な回復力を感じます)


美空ひばりのデビューを探る調査は、大高ヨシヲを探すこのブログの趣旨からすると「スピンオフ」みたいなものではありますが、旧杉田劇場との関係も深いことから、デビュー期の年譜の空白を埋め、時系列を正確に並べ替えることは、今年の重点調査項目のひとつ、ということになりそうです。



→つづく
(次回は2/6更新予定)

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