(94) 元映画スター・中野かほる

昭和21年10月22日に杉田劇場で行われた大高よし男の追善興行には「元映画スター」の中野かほるが出ています。

また、弘明寺で撮られた大高の葬儀写真の中に、ひとりだけちょっとオーラの違う人がいます。この人が中野かほるじゃないかと推測していましたが、戦後の画像・映像を確認してみると、やはり中央に写っているこの人物は「中野かほる」と断定してよさそうです。

大高よし男葬儀写真(弘明寺):赤丸が気になる女性

赤丸部分を拡大したもの

キネマ旬報の『日本映画俳優全集・女優編』によれば、中野かほるは1912(明治45)年4月9日、神戸生まれ。神戸第一高等女学校を卒業し、中華料理店の会計係をしているうちに1932年5月、東活(東活映画社)にスカウトされ、『丸の内お洒落模様』でデビュー。近代的美人女優として注目を集めたとのことです。イマドキの感覚で言えばアイドルみたいな存在だったのでしょう。


さて、その中野かほると大高よし男の接点は、いままでわかっている範囲では以下の3つです。

・昭和17年6月〜7月 
 川崎大勝座・名古屋歌舞伎座 海江田譲二一座(8協団)
・昭和18年3月 
 浅草金龍館 三座合同公演(伏見澄子・和田君示・中野かほる一座)
・昭和21年10月 
 杉田劇場・大高よし男追善興行

大高の生前に限れば、わかっているのは上の2回の共演だけです。


そんな中野かほるがなぜ大高の追善興行に出演し、葬儀にまで参列していたのか。

上掲の『日本映画俳優全集・女優編』には「(19)41年1月、大都が大映に吸収されたさい退社。この間、元・映画通信記者の泉雅夫と結婚。戦後の54年、東映に入り(中略)映画に復帰」とあります。

これが正しければ、大高よし男の追善興行に出た昭和21(1946)年10月22日は、中野かほるが映画界から離れていた時期ということになります。新聞広告の肩書きに「元映画スター」とあるのはそういう事情なのでしょう。


上述のように、中野かほるは昭和16年以降、映画界からは離れ、主に舞台で活躍していたようですが、これは中野かほるに限ったことではありません。戦争が激しくなるにつれてフィルム不足などから、映画を撮ることが難しくなり、映画スターが実演に移行した例は少なくないのです(上掲昭和17年の「8協団」などはまさにその好例です)。

時系列的には、中野かほるが映画から実演に軸足を移した頃に、大高と共演したということになります。

中野かほるの舞台での活躍は、調べた範囲では昭和18年の夏前くらいまでは記録が残っています(川崎大勝座)。その後はまだ精査できていませんが、戦争の悪化とともに活動を縮小せざるを得ない事情があったのかもしれません。


そんな中野かほるですから、大高よし男の追善興行に来演したのは、華を添えるべくプロデューサーの鈴村義二なりオーナーの高田菊弥なりが招聘したというのが一番ありそうな可能性ですが、葬儀にも参列していることからすると、ただ呼ばれて舞台に立ったというよりは、大高への追悼の思いがどこかにあったと考えてもおかしくありません。中野かほるの方から出演を申し出た可能性すらあります。

舞台公演の際に、映画スターだった中野かほるが、舞台での振る舞いやしきたりについて、大高よし男から助言を受けていたりした可能性もあります。そんな恩義が中野かほるを葬儀に参列させる動機だったとも考えられます(ちょっと妄想多めです)。


追善興行では「かんざし(簪)」が演目になっています。これは昭和17年・18年の舞台でも上演された演目で、大高との思い出と同時に、中野かほるの十八番というべき作品だったのかもしれません。

1946(昭和21)年10月22日付神奈川新聞より

『近代歌舞伎年表 名古屋編』第17巻より


再度『日本映画俳優全集・女優編』を参照すると、中野かほるは「(19)62年の「三百六十五夜」を最後に引退した。数年前に死去を伝えられたが、没年は不詳」とあります。『全集』はキネマ旬報増刊 1980年12月31日号ですから、これもこの記述が正しいとすると1970年代の後半に亡くなったと思われます。

「国会図書館デジタルアーカイブ」で検索してみると、中野かほるの経歴のうち、自宅で閲覧できる(送信サービスで閲覧可能)範囲内では、『出演者名簿 昭和49年度版』(著作権資料協会刊)が一番新しいもので、館内限定公開の同書「昭和50年版」にも、また『タレント名簿録 : 芸能手帳 1976年度版』(連合通信社編/音楽専科社刊)にも記録があり、それ以降は名簿記載が見当たらなくなることから、1975(昭和50)年頃に亡くなったと考えられそうです(新聞などを確認してみます)。


上掲『出演者名簿』の記録では「大1.4.9生」(掲載年によっては「明45.4.9」:こちらが正しい)となっているので、同姓同名の別人という可能性は低そうです。この頃の所属は「俳協」でその後「放芸協」所属となります。映画からは1962(昭和37)年に引退していますが、その後も舞台やテレビ・ラジオなどには出ていたのかもしれません。

※同名簿の昭和36年版には掲載がなく、昭和38年版では所属が「俳協内」、昭和43年版では「俳協」となっています。昭和37年に映画界から引退、その後、俳協に所属してテレビやラジオで活動していたと考えるのが一番ありそうな可能性です。


ところで、大高一座(暁第一劇団)は当初、巡業先の長野から帰ってすぐ、10月4日初日で10月興行をスタートさせる予定でした。

1946(昭和21)年10月1日付神奈川新聞より

一座の演目は四日替りでしたから、順当に行けば

4日〜7日 御目見得
8日〜11日 二の替り
12日〜15日 三の替り
16日〜19日 四の替り

と続いたはずです。

しかし実際は座長亡き後、公演を続けるのは難しかったようで、10月5日からは急拵えにも見える歌舞伎・映画スター・邦楽団の合同公演が始まります(映画スターの中には黒田記代の名前が見えます)。

1946(昭和21)年10月6日付神奈川新聞より

これもやはり4日間で(8日まで)、9日からは「劇団新進座」との合同公演という形で、暁第一劇団が興行を始めます(おそらく12日まで)。演目や座組からは、なんとなくバタついている様子もうかがえますが、広告には大高の死を知らせる言葉や、追善興行の記載はありません。

1946(昭和21)年10月8日付神奈川新聞より

四日替りのスケジュールを考えると、その後、13日から16日までも公演があったのではないかと推測されます。そこに「追善興行」の冠が付いていた可能性はありますが、記録がないのではっきりしません。

そして記録のある「17日〜20日」の追善興行になるわけです。

1946(昭和21)年10月15日付神奈川新聞より

これに続くのが中野かほる出演の追善興行(10月22日)ですが、彼女の出演は一日のみだったと思われます。というのも10月23日には読売新聞主催の「在外同胞引揚援護金募集 東京大歌舞伎」(座長沢村宗十郎)が開催されているからです。

ただ、月末、10月30日の暁第一劇団の公演では、追善興行と同じ演目である「蛇姫様」が上演されているので、このあたりまで中野かほるが出演していた可能性はあります。ですが、いまのところ確証はありません。

中野かほるが出演したのは、17日〜20日の追善興行の後、1日空けての22日ですから、彼女が写真に写っていることも考えると、21日に葬儀を行なったのではないかと推測しているところです。なんとかそれを確定したいところですが、弘明寺にも記録はなさそうで、手がかりがないのが現状です。


と、そんなこんなで、今回は中野かほるについてわかってきたことを書いてみましたが、大高よし男との関係にはまだまだ謎が多く、わからないことばかりです。中野かほるを追っていけば何かわかるのかもしれません。調査は続きます。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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