(56) 近江二郎、アメリカで映画を撮る

以前にも軽く触れたように、アメリカ巡業を好評のうちに続けていた近江二郎は、渡米から2ヶ月弱という時期にハリウッドで映画を撮影しています。このことは日本の新聞にも記事として掲載されていますが、ハワイの邦字新聞にもう少し詳しい内容が書かれています。

1931年3月1日付「日布時事」より

この記事そのものが、池内萍緑(いけうちひょうろく)という人の発言に基づいているので、真偽がはっきりしないところもありますが、ともかく記事には近江二郎が渡米中に2本の映画を撮ったと書かれているのです。


さて、この池内萍緑ですが、近江一座の渡米時から新聞に名前が出ていた人で、最初は興行師かと思っていましたが、調べてみると元々は新聞記者だそう。文士とされる時期もありつつ、浅草で役者もやっていたという、いまどきの言葉で「マルチ文化人」とでも言うのでしょうか、ちょっと変わった人です。

大正時代に自身の起こした心中事件を題材とする『情死するまで』という小説が評判になったようですが、どちらかというと遊び人でスキャンダラスな放蕩文士という印象です。久保田万太郎吉井勇といった文人とも親しく交友していましたが、そんな行状や性癖(?)のせいでしょうか、当時もその後もあまり評判のいい人ではなかったようです。

前述の通り、池内は浅草で「曾我廼家五九郎一座」の舞台に立ったこともあるし、役者の上山草人らとも交流があったので、映画や舞台とは関係が深い人だったのでしょう。その関係もあって近江一座とともに渡米したのではないかと想像されます。


さて、この新聞によると、近江二郎は1930年12月22日、サンフランシスコの「レーキマセド」(Lake Marced:マーセド湖)で映画を撮ったそうです(記事では実際の撮影地が「オーションビーチ」と書いてあります。おそらくマーセド湖近くの「オーシャンビーチ」ではないかと思われます)。

これは池内の『阿修羅剣』という原作を近江二郎が(一夜漬けで)脚色した短編剣劇映画だそうで、無声・トーキーの二種類を撮影したとのことです。短編(記事では「単編」)なので、撮影は一日で終わったのかもしれません。

この映画は公開されると大評判となったとかで、それに気をよくした近江が、アメリカでの稼ぎを注ぎ込み、100人もの白人エキストラを使って、『光は東方より』という白人向け剣劇映画(トーキー:新聞には「一大發聲映畫」と書かれています)を撮ったのだとか。

白人向け剣劇映画というのがどんなものなのか想像もつきませんが、ハリウッドのテックアート社のスタジオで撮影したとありますから、それなりの時間をかけた長編映画だったのでしょう。芝居興行の合間を縫っての撮影は正月いっぱいには終わり、この記事が出た3月1日頃には「カツティング」(編集のことか)が行われていたようです。

なお、記事にはこの映画の原作は池内萍緑、監督が南部邦彦青山雪雄、撮影がジョゼフ・ラッカーと書かれています。これは以前の投稿にあった情報と同じものです。

この映画については、池内がちょっと「盛って」話したという可能性も否定できません。ただ、これだけ詳細だと真実味がありますし、同じ時期の日本の新聞には近江自身の話として『光は東方より』のことが語られているので、彼が映画を撮ったことは間違いなさそうです。

1931(昭和6)年2月18日付読売新聞より

(前にも書きましたが、古いアメリカ映画のことは詳しくないので、この両作品が実際に公開されたのか、またフィルムなどが残っているのかどうかなどまったくわかりません。何かご存知の方がいたらぜひ教えてください)


この記事にはもうひとつ興味深い記載があります。

それは喜劇王チャップリンと、当時、新聞王と呼ばれたハースト(映画『市民ケーン』のモデルとされる)が近江一座の舞台を見て、とても感動していたということと、チャップリン邸で近江一座が大佛次郎原作の『赤穂浪士』を上演する予定だったのが、チャップリンが急遽、渡欧することとなったために中止となったことです。

チャップリンが実際に近江一座の舞台を見たのかどうか、いまのところその裏付けはありませんし、やはり池内が「盛って」いた可能性も残っているので、真偽は定かではありません。しかし、先行していた遠山満一座のことはチャップリンが評価していたので、近江一座に関心があったとしても不思議ではありません。また、チャップリンが1931年の初めに休暇をとってヨーロッパを訪れたのは事実なので、近江一座の上演が中止になった話もあり得ない話ではありません。

ちなみに、この時のチャップリンの旅は16ヶ月に及んだそうで、ヨーロッパからシンガポールなどを経て1932年5月には日本にもやってきます。その際、五・一五事件になかば巻き込まれるような形になったのはよく知られた話です。

それにしても、チャップリン来日の1年以上前に彼と近江との出会いがあったかと思うと、ちょっと不思議な感じがしますし、チャップリンの来日の時にはすでに帰国して各地で興行を続けていた近江が、どんな思いでその報に接していたのかも興味深いところです。

余談ですが、同じくすでに帰国していた遠山満は、チャップリンが離日した後の1932(昭和7)年7月、名古屋の歌舞伎座で、一座公演の幕間に「チャツプリンの帰米真相暴露」(遠山満の毒舌)という演し物をやっています(『近代歌舞伎年表 名古屋篇』第十六巻より)。これがどんなものなのかはよくわかりません。世話になった喜劇王に関してどんな「毒舌」を吐いたのか、ちょっと不思議な感じもしますが、いずれにしてもチャップリンと遠山が近い関係にあったことは、日本の人たちには周知の事実だったようで、それがこういう演目を可能にしたのでしょうね。


そんなこんなで、今回は近江一座のアメリカ巡業についての最終回。彼の撮ったという映画について考察してみましたが、近江のアメリカ滞在には世界史や日本史にもつながるようなさまざまな出来事が付随していて、とても驚かされます。

剣劇一座の巡業から見る世界史というのは、重要な研究テーマになるのかもしれません。


さて、1931(昭和6)年7月、近江二郎は帰国します。大高よし男が横浜敷島座の近江一座に名を連ねるのはそれから9年後です。

この9年間のどこかで、大高よし男は近江二郎と出会うはずなのです。

その出会いの時期を特定するのが次のステップです。

果たして大高よし男の新たな足跡は見つかるのか。


→つづく


(55) 近江二郎、捕まる

このブログは謎の俳優「大高よし男」を調査するのが目的ですが、大高関係の資料が底をつきつつあるのもあって、このところ近江二郎ネタが続いてしまっています。

そろそろ本流に戻らないといけませんね。

とはいえ、アメリカの近江一座には興味深い話が多いので、今回を含め、あと2回ほど続けてみたいと思います。


1930(昭和5)年10月30日にアメリカに到着した近江一座はすぐに興行をスタートさせ、11月1日にはサンフランシスコの「暁星ホール」という劇場で初日をあけます。渡航から2日後で本番というのは大変だったろうなと感じてしまいますが、船旅なので時差ボケのようなものがなかったでしょうし、船の中で稽古などもできたのかもしれません。

その後は当たり前のように連日の舞台が続きます。

近江一座の巡業はカリフォルニア州の諸都市を巡るもので、各都市の日系社会が歓迎したのだと想像されますが、いずれにしても各地で大好評を博します。1ヶ月後には「一萬圓」(現在のお金で約2,500万円)を日本に送金するほどだったというのは前回の投稿に書きました。

数ヶ月前に先行していた「筒井徳二郎一座」はサンフランシスコではなくロサンゼルスで公演した後、すぐにニューヨークへ移動してしまうので、もしかしたらほぼ素通りされてしまったサンフランシスコやその周辺都市の日系人たちは、観劇欲が高まっていたのかもしれません。筒井一座が巡業しなかった西海岸のエリアを、近江一座が埋めていったという印象もあります。

筒井一座については、日大の田中徳一先生の著書に詳細を極めた調査がありますが、それらをまとめた本のタイトルは『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』です。

しかし「知られざる」役者は筒井だけではなく、近江二郎の活躍もすっかり忘れられてしまっているように感じます。近江一座に参加していた「大高よし男」に至っては、すっかり歴史の闇の中に消え去ってしまったような印象です。

筒井一座の欧米巡業で活躍していた「三桝清」と、近江一座に参加していた「大高よし男」は、後年、浅草で共演します。

狭い世界とはいえ、不思議な縁で結ばれているかのようです。

戦後、新設された杉田劇場に大高がやってきたのも、近江二郎のつながりがあったからと推定されますので、昭和5年の筒井一座、近江一座の渡米は、遠いところで大高の運命を動かす出来事だったのかもしれません。


さて、好評を受けた近江は、気持ちにもちょっとゆとりが出てきたのでしょうか。サンノゼで気晴らしに出かけた折に、思いがけず当局に逮捕されてしまいます。

理由は、狩猟に出かけた先でアメリカの保護鳥(シギ)を撃ったということだそう。しかも猟にに必要な鑑札(狩猟許可証のようなものか)も現地の日系人のものを借りていたというのだから、二重の罪だったそうです。

裁判にかけられ(たぶん略式の裁判でしょう)、1,000ドルの罰金で釈放されたと、現地の邦字新聞に記事があります。

1930(昭和5)年12月17日付邦字新聞「日米」より

サンディエゴで鉄砲を買って、サンノゼで鴨打ちに行ったところが、知らずに保護鳥を撃って逮捕という顛末のようです。

まったく、アメリカまで行って何をやっているんだか、とも思いますが、好評を受けての気の緩みみたいなものなのでしょうか。ちょっと人間味を感じて微笑ましくもなります。

その記事の中に、近江二郎の弟「近江謙吾」という人のコメントがあって、それによると

「兄は日本に居るときから馬乗りやハンチングがすきでした」

とあります。

前にも書きましたが、大正時代に横浜喜楽座に出演していた時、劇場へ馬に乗ってきていたというエピソードもあるくらいですから、乗馬と狩猟が近江の趣味だったことも、この「事件」からわかります。

剣劇の役者というと、ちょっと時代がかかった和風のイメージもありますが、どちらかというとモダンな人だったのかもしれませんね。

近江二郎の人となりが垣間見えるエピソードです。


→つづく


(54) 続・アメリカの近江二郎

さて、アメリカに渡った近江二郎一座は、現地で想像以上の大歓迎を受けます。

実は興行主はそれほどの歓迎を予想していたわけではなかったようです。以前にも引用した帰国直後の横浜貿易新報は、渡米当初の状況を語る近江の言葉を掲載しています。

昭和6年7月7日付 横浜貿易新報より

「昨年十月4秩父丸にて桑港に到着した時は丁度不景気風が同地に襲来して居た時であつてアチラの興行主は此不景気に斯く多數の男女優を連れて來ては困つたものだとて顔を渋めて居た」

考えてみると、近江一座の渡米した1930年といえば、1929年に始まった世界恐慌の真っ只中で、日本でも昭和恐慌と呼ばれる経済暗黒の時代。ほんの数人でやってくると思ったところが、20人以上の大所帯に興行主の顔が曇ったのもわからないではありません。

ところが蓋を開けてみると、一座の舞台は大評判で、同じ記事には

「一ヶ月の後に早くも一万圓と云ふ金を日本に送つて渡航費その他の債務を返済した」

ともありますから、興行主もさぞかしほくほくだったろうと想像できます。

そんなこともあって、おそらく本来はもっと短かったであろう渡米の期間は、好評に合わせて延長されていったのではないかと、僕は推測していますが、詳しい裏付けはとれていません。今後の調査が必要です。

結局、一座の興行は太平洋沿岸の諸都市を三巡するほどだったそうで、帰途にハワイ公演が実現したのも西海岸での成功を受けてのことだと思われます。


ところで、昭和5年の一万円がどのくらいの金額か調べてみると、当時、公務員(高等官)の初任給が75円で(『値段史年表 明治・大正・昭和 週刊朝日編』/朝日新聞社刊,1988 より)、2022年が大卒総合職で約19万円弱だそうですから(人事院『国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))』より)、約2,500倍。単純計算すると、近江二郎一座は渡米1ヶ月にして、2,500万円も日本に送金できるほど稼いだ、ということになります。

もっとも20数名を渡米させるには渡航費も相当なものだったでしょうから、その大半は返済に充てられたとしても、さらに興行が続くので近江一座の儲けもかなりなものだったはずです。

前にも引用した帰国後の読売新聞には

昭和6年7月7日付読売新聞より

「非常な人気を博し十万圓許り儲け」

ともありますから、渡米していた8ヶ月の間、コンスタントに稼ぎを上げていたのでしょう。新聞記事の通りであれば、これまた単純計算するとアメリカ公演で2億5000万円も儲けたということになります。


好評を受けて、翌年4月に再渡米する契約を結んだというのは、以前にも書きましたが、それが本当に実現したかどうかはまだ調査ができていません。

ただ、彼らの帰国から約2ヶ月後、1931(昭和6)年9月18日に満州事変が起こり、翌年3月にはリットン調査団が派遣され、1933年には日本が国際連盟から脱退するという時期に当たるわけですから、何らかの支障があったとしてもおかしくはありません。

とはいえ、この海外公演の成功を足がかりに、近江一座は浅草や名古屋あたりで剣劇の劇団として人気を博すようになり、そして、彼らがアメリカから横浜港へ戻ってきて9年後、昭和15年になってようやく横浜での興行が実現、その舞台に大高よし男(前名の高杉彌太郎)が立っていたというわけです。


→つづく