以前にも軽く触れたように、アメリカ巡業を好評のうちに続けていた近江二郎は、渡米から2ヶ月弱という時期にハリウッドで映画を撮影しています。このことは日本の新聞にも記事として掲載されていますが、ハワイの邦字新聞にもう少し詳しい内容が書かれています。
1931年3月1日付「日布時事」より |
この記事そのものが、池内萍緑(いけうちひょうろく)という人の発言に基づいているので、真偽がはっきりしないところもありますが、ともかく記事には近江二郎が渡米中に2本の映画を撮ったと書かれているのです。
さて、この池内萍緑ですが、近江一座の渡米時から新聞に名前が出ていた人で、最初は興行師かと思っていましたが、調べてみると元々は新聞記者だそう。文士とされる時期もありつつ、浅草で役者もやっていたという、いまどきの言葉で「マルチ文化人」とでも言うのでしょうか、ちょっと変わった人です。
大正時代に自身の起こした心中事件を題材とする『情死するまで』という小説が評判になったようですが、どちらかというと遊び人でスキャンダラスな放蕩文士という印象です。久保田万太郎や吉井勇といった文人とも親しく交友していましたが、そんな行状や性癖(?)のせいでしょうか、当時もその後もあまり評判のいい人ではなかったようです。
前述の通り、池内は浅草で「曾我廼家五九郎一座」の舞台に立ったこともあるし、役者の上山草人らとも交流があったので、映画や舞台とは関係が深い人だったのでしょう。その関係もあって近江一座とともに渡米したのではないかと想像されます。
さて、この新聞によると、近江二郎は1930年12月22日、サンフランシスコの「レーキマセド」(Lake Marced:マーセド湖)で映画を撮ったそうです(記事では実際の撮影地が「オーションビーチ」と書いてあります。おそらくマーセド湖近くの「オーシャンビーチ」ではないかと思われます)。
これは池内の『阿修羅剣』という原作を近江二郎が(一夜漬けで)脚色した短編剣劇映画だそうで、無声・トーキーの二種類を撮影したとのことです。短編(記事では「単編」)なので、撮影は一日で終わったのかもしれません。
この映画は公開されると大評判となったとかで、それに気をよくした近江が、アメリカでの稼ぎを注ぎ込み、100人もの白人エキストラを使って、『光は東方より』という白人向け剣劇映画(トーキー:新聞には「一大發聲映畫」と書かれています)を撮ったのだとか。
白人向け剣劇映画というのがどんなものなのか想像もつきませんが、ハリウッドのテックアート社のスタジオで撮影したとありますから、それなりの時間をかけた長編映画だったのでしょう。芝居興行の合間を縫っての撮影は正月いっぱいには終わり、この記事が出た3月1日頃には「カツティング」(編集のことか)が行われていたようです。
なお、記事にはこの映画の原作は池内萍緑、監督が南部邦彦・青山雪雄、撮影がジョゼフ・ラッカーと書かれています。これは以前の投稿にあった情報と同じものです。
この映画については、池内がちょっと「盛って」話したという可能性も否定できません。ただ、これだけ詳細だと真実味がありますし、同じ時期の日本の新聞には近江自身の話として『光は東方より』のことが語られているので、彼が映画を撮ったことは間違いなさそうです。
1931(昭和6)年2月18日付読売新聞より |
(前にも書きましたが、古いアメリカ映画のことは詳しくないので、この両作品が実際に公開されたのか、またフィルムなどが残っているのかどうかなどまったくわかりません。何かご存知の方がいたらぜひ教えてください)
この記事にはもうひとつ興味深い記載があります。
それは喜劇王チャップリンと、当時、新聞王と呼ばれたハースト(映画『市民ケーン』のモデルとされる)が近江一座の舞台を見て、とても感動していたということと、チャップリン邸で近江一座が大佛次郎原作の『赤穂浪士』を上演する予定だったのが、チャップリンが急遽、渡欧することとなったために中止となったことです。
チャップリンが実際に近江一座の舞台を見たのかどうか、いまのところその裏付けはありませんし、やはり池内が「盛って」いた可能性も残っているので、真偽は定かではありません。しかし、先行していた遠山満一座のことはチャップリンが評価していたので、近江一座に関心があったとしても不思議ではありません。また、チャップリンが1931年の初めに休暇をとってヨーロッパを訪れたのは事実なので、近江一座の上演が中止になった話もあり得ない話ではありません。
ちなみに、この時のチャップリンの旅は16ヶ月に及んだそうで、ヨーロッパからシンガポールなどを経て1932年5月には日本にもやってきます。その際、五・一五事件になかば巻き込まれるような形になったのはよく知られた話です。
それにしても、チャップリン来日の1年以上前に彼と近江との出会いがあったかと思うと、ちょっと不思議な感じがしますし、チャップリンの来日の時にはすでに帰国して各地で興行を続けていた近江が、どんな思いでその報に接していたのかも興味深いところです。
余談ですが、同じくすでに帰国していた遠山満は、チャップリンが離日した後の1932(昭和7)年7月、名古屋の歌舞伎座で、一座公演の幕間に「チャツプリンの帰米真相暴露」(遠山満の毒舌)という演し物をやっています(『近代歌舞伎年表 名古屋篇』第十六巻より)。これがどんなものなのかはよくわかりません。世話になった喜劇王に関してどんな「毒舌」を吐いたのか、ちょっと不思議な感じもしますが、いずれにしてもチャップリンと遠山が近い関係にあったことは、日本の人たちには周知の事実だったようで、それがこういう演目を可能にしたのでしょうね。
そんなこんなで、今回は近江一座のアメリカ巡業についての最終回。彼の撮ったという映画について考察してみましたが、近江のアメリカ滞在には世界史や日本史にもつながるようなさまざまな出来事が付随していて、とても驚かされます。
剣劇一座の巡業から見る世界史というのは、重要な研究テーマになるのかもしれません。
さて、1931(昭和6)年7月、近江二郎は帰国します。大高よし男が横浜敷島座の近江一座に名を連ねるのはそれから9年後です。
この9年間のどこかで、大高よし男は近江二郎と出会うはずなのです。
その出会いの時期を特定するのが次のステップです。
果たして大高よし男の新たな足跡は見つかるのか。
→つづく