(115) 三木タカシのこと

先日、昭和30年代の浅草常盤座などで行われた女剣劇大会のパンフレットを入手しました。

大高が亡くなってから10年以上も経った時期の興行ですから、大高の痕跡を見つけるための具体的な証拠が見つかるとは思えませんが、戦時中に大高よし男が参加していた一座の座長、伏見澄子が十年ぶりに浅草の舞台に立つなんていう記述もあって、じわじわと興味をひかれるところですし、もし大高が事故に遭うことなく生きていたなら…などと詮無いことを思ったりもするわけです。

1962(昭和37)年1月・浅草常盤座
「新春特別三座台合同公演」パンフレットより


そんな冊子をパラパラとページをめくりながら、ふと、気になる名前に出くわしました。

三木孝思。


1959(昭和34)年10月 浅草常盤座十月興行
「東西女剣劇合同公演」パンフレットより

1962(昭和37)年6月 浅草常盤座六月興行
「剣と笑いと踊りの大合同」パンフレットより

おそらく「みきたかし」と読むであろうその俳優は、どうやら浅香光代一座に参加していた人のようで、役柄からすると中堅どころという印象です。

なぜ、この名前が気になったかというと、現存する旧杉田劇場の2枚のポスターのどちらにも「三木タカシ」「三木たかし」の名前があるからです。


旧杉田劇場ポスター(杉田劇場所蔵)

何度も紹介しているこのポスターは、美空ひばりが杉田劇場の舞台に立った際のものとして有名ですが、僕にとってはひばり以上に大高一座の面々が気になるわけです。

ここに名前の出ている「三木タカシ(たかし)」と昭和30年代の浅香光代一座に出ていた「三木孝思」が同一人物なのかどうかはわかりません。でも「三木タカシ(たかし)」が、大高没後も役者を続けていて、後年は「三木孝思」になった…というのは考えすぎでしょうか。


前にも書いたように(→こちら)、昭和23年5月、浅香光代は杉田劇場に来演し、9日間にわたって一座の興行が行われます。その後は広告にも彼女の名前は出ないので、杉田劇場での興行はこれ限りだったようですが、注目を集め始めていた女剣劇の若きスターの舞台を、大高一座の座員たちが見ていたとしてもおかしくはありません。

この先は毎度ながらの悪い妄想ですが、浅香光代の舞台を見た大高一座の「三木タカシ」が、その後、彼女の一座の門を叩き、移籍していたと考えても、そんなに突飛なことではないようにも思います。

(やはり妄想がすぎるか…)


上掲の大高一座のポスターに名前のある役者たちのその後は、ほとんどわかりません。

壽山司郎のように銀星座の自由劇団へ移籍した人もいたかもしれません。尾上芙雀のように市川門三郎一座へ移って歌舞伎俳優になった人もいるのでしょうか。はたまた日吉劇出身の星十郎のもとで役者を続けるという選択肢もあったかもしれませんし、大高の死を契機に引退したなんていう人もいたことでしょう。

戦前から続く大衆演劇の流れを、そのままに続けるというのはとても大変だったのだろうと想像できます。

ポスターにある名前はいずれも芸名でしょうから、消息をたどるのは容易ではありません。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらぜひ教えてください。

ちなみに、パンフの広告欄には「市川雀之助」の名前も確認できます。杉田劇場で活躍していた役者たちが、後年、浅草の舞台を彩っていたのかと思うと、ちょっと誇らしい気持ちにもなります。

1961(昭和36)年11月 浅草常盤座十一月興行パンフレットより


そんなこんなで、今回は短めですが、昭和30年代の女剣劇のパンフレットから、大高一座の座員たちのその後について、妄想まじりの考察でした。


→つづく
(次回は8/22更新予定)

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