(23) 振り出しに戻る

 関哲洲→関彌太郎→高杉彌太郎→大高よし男

という改名の流れはとても説得力がありそうだし、いい感じに思えます

が、

残念ながら再調査でいきなりの頓挫。

既報の通り、昭和17年1月26日の新聞記事には、2月の敷島座に「高杉彌太郎改め大高義男」が出演すると書かれていますが、そのすぐ横に「金美館が籠寅演藝部と提携」というタイトルの記事がありました。1月31日から中村吉十郎の歌舞伎と千葉蝶三朗の喜劇で開演するとの内容です。なんとその出演者に

関哲洲

の名前があったのです(画像の一番左)。

昭和17年1月26日付神奈川新聞より

伊勢佐木町の敷島座と南吉田町の金美劇場。

近いとはいえ、さすがに同時期に両方の舞台に立つことは、ちょっと難しいだろうと思います(敷島座の興行も1月31日初日)。

つまり、大高ヨシヲと関哲洲は別人であると判断せざるを得ません。


ただ、同年11月9日には同じ敷島座で杉山昌三九(すぎやま しょうさく)の劇団世紀座の興行があるとの記事があって、その中に出演者として

関彌太郎

の名前があるのです。

昭和17年11月9日付神奈川新聞より

これが関哲洲の異名なのかは不明ですが、少なくとも関彌太郎という人がいたことは間違いありません。

関彌太郎と関哲洲のことは少しわかりましたが、大高探しはこれで振り出しに戻ります。

(いい手がかりだと思ったんだけどなぁ…)


→つづく


(22) 伏見澄子一座の足跡を追って

 大高ヨシヲの前名が「高杉弥太郎」とわかったからには、弥太郎の活動履歴を探さなくちゃいけないわけですが、これがまったく見つかりません。

大高が川崎と横浜の舞台に立つのが昭和17年1月と2月。3月からは京都三友劇場に移ります。その前年、伏見澄子は「鈴新座」の座組で浅草の松竹座の舞台に立っていますが、前にも書いたようにそのパンフレットの中には大高ヨシヲの名前はないし、高杉弥太郎の名前も見当たりません。

ただ、字が潰れていてよく見えないのですが、「■彌太郎」という役者がいるのは確認できます。■は「関」のようにも「藤」のようにも見えますが、はっきりしません。仮に「関彌太郎」だと仮定して、さらに調べると、当時「関哲洲」という役者がいたことがわかって、

関哲洲→関彌太郎→高杉彌太郎→大高よし男

という変遷が想像できなくもありません。ですが、あくまでも想像。確証は何ひとつありません。

想像(妄想?)に拍車をかけるのが、戦時中に発行された『銃後の横浜』という(おそらく)横浜出身の前線の兵士に向けた雑誌(冊子?)。昭和13年刊。

その中の「横濱の演劇ルポタージュ/全盛は女剣劇でアリマス」という記事に、伏見澄子一座のことが書いてあって、俳優一覧に「関哲洲(州)」の名前があるのです。関弥太郎はいませんが、関哲洲はこの本が発行された昭和13年には伏見澄子一座にいたわけです。その役者が昭和16年までの間に「関彌太郎」さらに「高杉弥太郎」と改名した可能性は、妄想と断じるほどの荒唐無稽でもない気はするのですが…

『銃後の横濱』にある伏見澄子一座の俳優一覧には「宮崎憲時」という人もいて、昭和13年春、横浜敷島座に一座が出た際、新聞に何度か掲載されたキャスト表の中にも名前が見られますが、不思議なことに同年3月2日の新聞だけは「宮崎角兵衛」となっているのです(ぼやけていますが、すぐ横に「関哲洲」の名前もあります)。

昭和13年3月2日付横浜貿易新報


「宮崎角兵衛」は昭和16年、浅草松竹座での鈴新座の舞台に出ていた役者ですし、新聞で大高と一緒に名前が出る人でもあります。さらにさらに、宮崎角兵衛と関哲洲の名前は、昭和14年、伏見澄子も参加した「(初代)大江美智子追善興行」にも見られます。

昭和13年から17年の4年間、宮崎角兵衛と関哲洲、関彌太郎そして高杉彌太郎こと大高よし男のいずれの関係もほぼ同じ立ち位置にいたと言えるでしょう。つまり、宮崎憲時=宮崎角兵衛が確かならば、関哲洲=関彌太郎の可能性もなくはないし、関彌太郎が高杉彌太郎に改名し、大高義男になるという変遷にもいくばくかの説得力が出てくるわけです。

追加で調べてみると「関哲洲」の名前は大正15年の雑誌(『劇と映画』)にも記載があります。仮に大正15年で20歳だとすると、昭和17年の段階では37歳。昭和21年の杉田劇場に出た時は41歳。自分自身、以前の投稿で「子息と思われる少年の年恰好からして、亡くなった時の大高の年齢は30代から40代と推定しています」と書いていますので、このあたり、大きな誤差はありません。とすると、

関哲洲→関彌太郎→高杉彌太郎→大高よし男

の流れが俄然現実味を帯びてくるわけで、調査の行き詰まりを打開する大きなポイントに差し掛かっているのかもしれません。


さて、大高探しを伏見澄子の活動履歴から洗い出すために、彼女の一座が横浜に登場した頃の新聞をチェックしてみました。伏見一座にいたという作家の窪田精が書いた自伝的小説『夜明けの時』では、伏見澄子は浅草に進出する前に横浜で「半年ほど」興行したとありました。昭和13年4月を基準とした記述なので、前年の11月頃にはもう横浜にいたのだろうと想定して調べていましたが、昭和13年2月25日付の神奈川新聞の劇評には

"酒井淳之助が去って、十六日からの敷島座は関西から上って来た女剣劇伏見澄子一座におなじみの英榮子、土地ツ子の瀬山緑郎といふ組合せ、その初日を見に行った"

とあることから、実際は2月16日が横浜での興行のスタートで、これまでに調べた範囲では6月までは敷島座にいたようです(7月以降は今後調べます)。同年7月末に浅草公園劇場に出るので、関西で見出された伏見は東上の途、横浜で4ヶ月か5ヶ月の地固めをし、満を持して浅草に進出したのでしょう。

彼女は身長が五尺四寸というのだから約162センチ。当時の女性としてはかなり大きい方だと思います。その座長が敵役の俳優を両手で持ち上げて振り回すのが評判で、「怪力」女剣劇と呼ばれるだけの理由はあったわけです。演技で見せるというより、そうしたアクロバティックな見世物が一座の売りだったのかもしれません。大江美智子や不二洋子がしっかりと芝居を見せていたのに比べて、伏見一座の格がやや下がる感じなのも、そのあたりに理由があるのでしょうか。

(伏見澄子の足跡は、後日整理して一覧にします)

そんなこんなで、伏見澄子の足取りがだいぶわかったところで、まずは字がはっきりしない「関弥太郎」を確認し(本当に「関」なのかどうか)、「関哲洲」との関係を調べ(「関哲洲」が「関弥太郎」になったのかどうか)、「関弥太郎」から「高杉弥太郎」への改名を辿ることができれば、大高の経歴がかなりわかりそうです。

「大高ヨシヲを探せ」は「高杉弥太郎を探せ」となり、いつの間にか「関弥太郎と関哲洲を探せ」になっていました。


→つづく

(21) そして彼は川崎にもいたのだ

新たな資料の発見で、大高探しは伏見澄子一座の活動記録調査に絞られました。

さっそく「伏見」を新聞で洗い直したところ、新たに3つの記事に大高の名前を見つけることができました。

(ま、見落としがあったということでもあるのですが…)


ひとつ目は昭和17年1月12日の記事。

川崎の「大勝座」という劇場の初春興行に伏見澄子一座が出演していて、そこに大高よし男と中村吉十郎が出ているという内容です。

昭和17年1月12日付神奈川新聞より

14日から三の替狂言というのですから、川崎に来てから3回目の演目変更ということになります。あとで紹介する1月19日の記事には20日から番組替りとありますので、6日ごとに変えていたのでしょう。逆算すると年明け2日くらいからが川崎での興行と推定されます。

大勝座はこの直前に籠寅興行部(演芸部)と提携し、その縁で伏見澄子一座の演劇興行が始まったようです。記事中にも「演劇に恵まれなかった川崎市にこの豪華メンバーは非常に歓迎され」とあります。

後年、蒲田の愛国館という映画館が実演劇場(愛国劇場)に変わった時も、リニューアル後の興行は伏見澄子が担っていますので、「三羽烏」のひとりとして、新しい劇場のスタートダッシュみたいな局面では重宝されたのだろうと思います。


先に紹介したように、1月19日にも大勝座の初春興行の記事が出ます。前回の投稿の通り、2月からは横浜の敷島座に出ますので、1月いっぱいが川崎だったのでしょうね。

僕にとっては「大高よし男」の名前のあることが最重要ですが、この記事そのものは、川崎大勝座に「人間ポンプ」が来ることの方がメインの内容です。

昭和17年1月19日付神奈川新聞より

人間ポンプという芸は僕らの子どもの頃にもテレビなどで目にする機会があったように思いますが、この記事で紹介されているのは、まさに元祖人間ポンプとでもいうべき「有光伸男」という芸人です(僕は知りませんでしたが、ネットを調べてみたらこんなサイトがありました)。

新聞記事によると、この芸人、金魚を飲んで生きたまま出す、みたいな、僕のイメージする人間ポンプだけではなく、

"水を五六升呑んで、猛火を消す位のことは最早、楽々とやってのける程である"

なんてこともしていたそうです。五六升ですから10リットルくらいになりますか。大量の水を飲んで吐き出し、舞台上の火を消すのが彼の主な芸だったようです(リンクしたサイトに写真があります)。

いやはや、大高の時代にはいろんな人がいたんですね。


話を戻しましょう。

新たに見つけた記事の最後は同年1月26日のもので、これは2月に敷島座に出るという予告です。

昭和17年1月26日付神奈川新聞より

実はこちらも記事内容のメインはこの興行に特別出演する「バラバラ人間」のことです。人間ポンプといい、バラバラ人間といい、アメリカとの戦争が始まって1ヶ月というのに新春から呑気なものだと思いますが、逆にまだこの時期は世の中はそれほど切迫しておらず、のちに「富士」と改題する雑誌『キング』、「作文館」と改称する『ムーランルージュ新宿座』もそのままだし、野球用語だってアウト、セーフ、ストライク、ボールを使っていました。

余談ですが、昭和16年から昭和20年までの間、時系列に記事を追いかけていると、世の中がだんだんおかしくなるさまがよくわかります。とりわけ昭和18年の後半から昭和19年にかけては、それこそ急坂を転がり落ちるように日常が変わっていきます(日常語から敵対する外国の言葉が排除されるのも昭和18年から)。貯蓄も報国とか、散髪も報国とか、冷静になればまったくもって意味不明なスローガンが頻発したり、三溪園を農場として開放するとか、横浜公園を畑にするとか、いくらなんでも無理があるでしょ、というような話が美談として新聞で報じられたりもするのです。

もっとも、そうした記事をまとめて一気に読むから変化に気づくのであって、毎日少しずつ、徐々に変わる中で日々を過ごしていたら、そのおかしさに気づかない人や、いつの間にか不自然さに慣れてしまう人も多かったのだろうとは思います。ホント、戦争はダメですね。


さて、また話が脱線しましたので、記事に戻りますと、問題の(?)バラバラ人間というのは

"堂々たる男子の関節が自由自在に曲折して、思ふがまゝの姿態を見せるという醫科学上、一大驚異なる人物"

なんだそうです。

この興行にはバラバラ人間と「怪力」の女剣劇・伏見澄子一座(3本上演)と漫才までもが出たそうです。なんという盛りだくさんと思いますが、当時の劇場は、今でいうテレビやラジオやネット動画のように、なんでもありのごた混ぜだったのでしょうね。夜の部がだいたい6時に始まって、終演は10時くらいだったそうですから、集中して一本の芝居を見るというよりは、いろんな芸を楽しむバラエティ空間があの頃の劇場だったのだと思います。


ところで、実を言うとこの記事には、バラバラ人間よりも、興行の仕組みよりも、僕にとって非常に重要なことが書かれているのです。それが

"高杉彌太郎改め大高義男加盟"

当時の新聞記事には誤植や誤報が多いので、鵜呑みにするのは危険ですが、この記事を信じるとすれば、大高ヨシヲはこの時期に芸名を変えていたことなります。以前の芸名は

高杉彌太郎(たかすぎ やたろう)

もしかしたらこれが本名なのかもしれませんが、高杉晋作と岩崎弥太郎を混ぜ合わせたようで、明治維新を彷彿とさせる芸名のようにも思えます。

さらに気になるのは旧杉田劇場のポスターに「高杉マリ子」という名前があること(大高の妻か?)。そして、ひとまずネットでざっと調べた結果、「高杉彌太郎」という名前の役者が引っかからないこと(なぜだ?)。

(なんだろう、このモヤモヤ感…)

うーん、ますます謎が深まります。

いずれにしても、大高はおそらく昭和17年の正月を機に芸名を変えたのだろう思います。

そうなると昭和17年以降が「大高ヨシヲを探せ」、昭和16年以前は「高杉弥太郎を探せ」というミッションになるわけです。


→つづく 

(20) やはり彼は横浜にいたのだ

前々回の投稿で「ここに大高の活動がまったく残っていないとしたら、少なくとも横浜や川崎で彼が活動していたことは「ない」と断定していいと思います」などと書いたわけですが、これまで4ヶ月の調査で得た教訓は、僕が断定(もしくは高い確度で推定)することはたいてい間違っている、ということです。

(トホホ…)

そんなこんなで、その後もコツコツと調べ続けた結果、ようやく昭和17年2月9日の新聞に大高ヨシヲ(記事では「義男」)の名前を見つけることができました!

記事は同年2月7日初日、横浜・敷島座(伊勢佐木町四丁目)での伏見澄子一座の興行に大高が出演しているという内容です。

やはり大高ヨシヲは、横浜で芝居をしたことがあったのです!

昭和17年2月9日付神奈川新聞より引用

大高の名前は『近代歌舞伎年表 京都篇』(第10巻:昭和11年〜17年)で、京都・三友劇場での伏見澄子一座の公演記録の中に見つけていましたが(この時は「よし男」)、そこに掲載されていたのは昭和17年2月28日から4月末までと、同年8月31日から10月末までの興行です。また、別の資料から翌18年の3月には浅草・金龍館で伏見澄子一座が参加した合同公演に出演し、4月と5月は再び京都・三友劇場に出ていることも判明していますが、それ以外の記録は見つからないのです。

僕の誤算は、『近代歌舞伎年表』が参照した京都日出新聞の記事に

"若手幹部総出演には『元禄辰巳の夜噺』を出してゐるが、中でも大高よし男、二見浦子は客の目を引いてゐる"

とあったのを、早合点して、この時の大高は新人でこれがほぼ初舞台だったんじゃないか、と勝手な想像(妄想)をしたことです。なので、昭和17年3月以前の記録を調べることなく、痕跡が消えた昭和18年の初夏以降の記録ばかりを調べていたわけです。

(悪しき妄想癖…)

さて、やっと見つけた神奈川新聞の記事にはこうあります。

"敷島座(七日より)伏見澄子一座(中略)『侠艶お吉ざんげ』三場宮崎角兵衛の脇役、大高義男(両?)優の登場はこの劇団なほハマ(の?)フアンをより魅するに充分"

この記事からも大高ヨシヲがまだ「おなじみ」と呼ばれるほどのキャリアではなく、どちらかといえば魅力的な新人で、少なくとも横浜には初登場に近い存在という印象を受けます。そして、京都や浅草の記録を踏まえれば、昭和17年から18年にかけてのこの時期の彼は、伏見澄子一座に帯同していたと考えて間違いなかろうと思います。

そうなると、いつから大高が伏見澄子一座に参加し、どのくらいの期間横浜の舞台に立っていたのかを特定することが次のステップのような気もするので、そのままさかのぼって調査してみましたが、昭和16年の夏くらいまで見ても、横浜で伏見澄子が興行した記録は見つかりませんでした。これまでの反省から安易に断定するのは危険ですが、昭和17年の2月に「登場」と書かれている大高が、半年以上前に横浜の舞台に立っていた可能性は低いような気がします。


ところで、伏見澄子は昭和16年の夏(7月と8月)に、浅草の松竹座で青柳龍太郎、市川百々之助、田中介二といった当時の剣劇界のスターとともに「鈴新座」という一座を組んで興行しています(『松竹七十年史』より)。

幸運なことに「日本の古本屋」のサイトに、この興行のパンフレットが販売されていた痕跡が残っていて(こちら:ただし売り切れ)、画像検索で出てくるデータを参照すると、出演者の名前がぼんやりですがわかります。

残念ながらその中に「大高よし男」または「大高義男」らしき名前は見当たりません。ですが大高とともに新聞記事に出てくる「宮崎角兵衛」の名前はあるので、宮崎は横浜で大高と共演する以前から伏見澄子一座に帯同していたと思われるし、大高はその時にはまだ伏見澄子一座と関わりがなかったか、もしくは鈴新座のパンフには名前が出ないほどの立場(新人など)だったのかもしれないと推測できます。

大高ヨシヲの初舞台をどう特定するかは難しいところですが、伏見澄子一座の舞台で彼の名前が注目されるようになったと仮定すると、昭和16年の後半から昭和17年の正月にかけてが大高の飛躍の時期と考えていいでしょう。


伏見澄子は前にも書いたように、大江美智子、不二洋子とともに戦時中の女剣劇ブームの中で「三羽烏」と呼ばれた存在ですが、大江や不二に比べると若干格下という感が拭えません。

伏見澄子を見出したのは籠寅興行部の代表である保良浅之助で、聞き書き調の伝記にはこう書かれています。

"伏見は、大阪の新世界にあるシネマ・パレスという小さな劇場に出ていたが、非常に大柄な女で、なかなかの力持ちだった。その癖、可愛い顔をしているし、姿容(すがたかたち)も悪くない。私は伏見を、一風変つた女剣劇で、世に送り出すことにした(中略)二人の先輩(註:大江美智子と不二洋子)に対して、伏見の持ち味は、全然、違つていた。私は、それが却って面白いと思い、そのゲテモノ的な要素を活かすことに努めた。だが、大江や不二に較べると、伏見は何と言っても、芝居がドロ臭くて仕方がない(後略)"
(長田午狂『侠花録:勲四等籠寅・保良浅之助伝』)

実際、興行の記録を調べてみても、先輩格である大江美智子と不二洋子が、互いに切磋琢磨するライバルのように浅草の松竹座や大阪の弁天座を入れ替わりで興行していた一方、伏見澄子は京都の三友劇場や蒲田の愛国劇場、川崎の大勝座など、大江や不二があまり出ない、やや格下の劇場を回っている印象です。

そうした小規模な劇場での公演記録(の詳細)が新聞や本にはほとんど載っていないことから、伏見澄子の記録は多くなく、それにともなって、大高の足どりもわかりにくくなっていると言っていいのかもしれません。

とはいえ、大高を探す手がかりは昭和16年秋以降の伏見澄子一座の活動の中にあると思われます。やはり調査の原点は伏見澄子一座なのです。終戦までの一座の記録の中に、再び大高の名前を見つけることができれば、戦後、杉田劇場に至る彼の動向の全貌が見えてくるはずです。

調査は続きます。


→つづく

(19) 暁第一劇団の人々(1) 生島波江

 旧杉田劇場の専属(座付)、暁第一劇団の座員(と思われる人)は、現存する2枚のポスターから名前を拾うと以下のようになります。

生島波江
大江三郎
大島ちどり
大高ヨシヲ
小高美智代
尾崎幸郎
春日謙二郎(謙太郎)
壽山(寿山)司郎
高島小夜里
高杉マリ子
高田孝太郎
高田小夜里
長谷川国之助
藤川麗子
三木たかし(タカシ)
宮田菊弥
(五十音順)

芸名を変えたりして、重複している人がいるのかもしれませんが、ひとまず羅列したところで総勢16名。

戦前・戦中の著名な劇団は40名とか60名とかいった役者を抱えていたようなので、大高一座は比較的小規模な劇団といってもいいのかもしれません。


に挙げた役者のうち「宮田菊弥」は、字面からして劇場の経営者である「高田菊弥」の芸名じゃないかと、杉田劇場のTさんが推測していますが、高田が芸事好きだったことを思えば、説得力がある推論だと思います。

また、こうして五十音順に並べ替えてみると、「高田」が2人いることにも気づきます。「高」の付く芸名が多いことは前にも指摘しましたが、「大高」の「高」であると同時に、「高田」の「高」の意味もあったのでしょうか。ふたりいる「高田」の「孝太郎」と「小夜里」が高田菊弥・能恵子夫妻の芸名だったりしたら面白いのですが、確証がないのでこれまた推論止まりというのが歯痒いところではあります。

いずれにしても「高」の付く芸名は、劇場経営者なり座長なりの名前から一文字とっているような気はします。


さて、上にあげた名前のうち、戦時中からの演劇活動がわかっているのは、いまのところ

生島波江
大江三郎
大高ヨシヲ(よし男)
壽山司郎
藤川麗子

の5名。判明した範囲での各人の履歴は次の通りです。

  • 生島波江…劇団新進座の座員として、また日吉良太郎一座の座員として名前が挙げられています。
  • 大江三郎…近江二郎一座の文芸部員だったと推測されます。
  • 大高ヨシヲ…伏見澄子一座に助演で出演していた若手剣劇俳優だと思われます。
  • 壽山司郎…神奈川県芸能報国挺身隊で漫談をやった人として名前が出ますが、曾我廼家五郎一座にも所属していたようです。
  • 藤川麗子…日吉良太郎一座の座員として名前が挙げられています。

前回の投稿のように、大高ヨシヲを除けば、いずれも何らかの形で神奈川県(横浜市)の興行界とつながりを持った人たちです。

そんなこんなで、大高ヨシヲの正体がつかめないことから、周辺を調べることが最近の調査の主流になっていますが、今回からは一座の座員のうち、わかっていることを書き連ねてみたいと思います。


まずは、生島波江。

生島波江について語るにも資料が乏しいので、わかっている範囲でしか書けません。生没年も出身地もわかりませんが、戦前、戦中の新聞を細かく調べると、そこここに彼女の名前が出てきます。

前にも書きましたが、『郷土よこはま』No.115に収録されている小柴俊雄氏による「日吉劇」についての記述の中に、日吉良太郎一座・演技班のメンバーとして生島波江の名前が見られます。

また、昭和10年代の新聞には劇団新進座の出演者のひとりとして掲載されてもいます。新進座は南吉田町にあった金美劇場の座付劇団とされていますが、座組がずいぶん変わってすいるように感じられるので、彼女が参加したのはもしかしたら「第二次」新進座なのかもしれません。広告では生島の名前は座長と目される春野勇とともに名前がしばしば挙がりますし、それ以外にも地元横浜の青年座長として紹介されている「花柳好太郎一座」にも客演していることがわかっています。

こうなるとどこが主たる所属なのかわからなくなりますが、日吉良太郎一座のメンバーと、新進座のメンバーには重なるところがある上に、日吉劇が拠点としていた横浜歌舞伎座(末吉町)と、新進座の拠点、金美劇場(南吉田町)はそれほど遠くもないので、両劇場・両劇団内での行き来が頻繁にあったのかもしれません。彼女以外の例でも、どこかの劇団に所属しているはずの俳優が、別の劇団に客演するようなことはよく見られるので、ひとつの劇団に所属したらずっと専属、みたいな、いまの劇団や俳優の価値観とはだいぶ違うのかもしれません。

さらに、戦前、昭和13年の演劇雑誌『演芸画報』にも彼女の名前が出ます。ここには東京の江東劇場の柿落としを担った日吉良太郎一座(二の替り)の劇評が載っていますが、演目のひとつがチャップリンの名作『街の灯』を翻案したレビュー作品だったようで、こんな記述です。

"日吉のルンペンはモジャモジャ頭髪にガニ股歩きが、チャップリン其儘で大受です。女優は喜劇の芸者になる関谷妙子でも悲劇の主役の花柳愛子でも、盲の花売り娘生島波江でも確りしたもの"(『演芸画報』昭和13年2月号/小谷青楓「春の浅草(とその延長)の演藝概観」)

ご承知のように『街の灯』に登場する盲目の花売り娘は、主役といってもいい存在ですから、生島波江にはその役にキャスティングされるだけの実力があったのでしょうね。

一方、前回の投稿で横浜新進座の広告では「麗人剣士」と紹介されていることから、剣劇もできる女優だったのだろうと思います。多彩な芸の持ち主だったことが想像されます。

ただ、新聞広告以外で生島波江の名前が見られる資料はごくわずかです。戦前には自ら一座を組んで地方巡業にも行っていたようですが、東京や大阪、京都などの劇場には記録がないので、小都市の巡業が中心の一座だったのでしょう(地方紙を丹念に調べれば名前が見つかるかもしれません)。

以上の情報から、ざっくりまとめると、生島波江は日吉良太郎一座に所属し、神奈川を拠点に活動していた女優で、戦後、大高ヨシヲ一座に参加した、ということになります。


暁第一劇団には、大高が声をかけたのか、誰か知り合いを通じて参加することになったのか、そのあたりが不明なのですが、いずれにしても横浜近在の役者ということで大高一座の舞台に立つことになったのだろうことは推測されます。

生没年がわからないので、これも推測になりますが、日吉良太郎の妻である花柳愛子が戦後も長く横浜に住んでいたことを思えば、大高一座が解散した後、生島波江も横浜のどこかで暮らしていた可能性は低くありません。それなりに活躍していた女優であったにもかかわらず、証言などの記録が残っていないことから、役者であったことを語ることもなく、ひっそりと日々を送っていたのでしょう。

歴史の彼方に消えていく演劇人の人生を思うと、切ない思いが込み上げてきます。

せめてどこかに写真や手紙でも残っていたらいいのにな。


→つづく

(18) 戦地か慰問団か

戦後、昭和21年1月1日にオープンした旧杉田劇場。

その座付劇団の座長として活躍していた大高ヨシヲ(よし男)。

彼が亡くなるのは同年10月で、それまでの間に杉田劇場の舞台に立ったのは、これまでわかっている範囲で以下の通りです。

大高ヨシヲ一座(暁第一劇団)
春日井梅鶯(浪曲)
劇壇おかめ座
三木歌子とその楽団
近江二郎一座
紫多志美会(邦楽舞踊)
森野五郎一座
神田ろ山(講談)
林家正蔵(落語)
木村松太郎(浪曲)
市川門三郎一座
三門博(浪曲)
曾我廼家五九郎
醍醐楽劇団
日劇ダンシングチーム
櫻井潔楽団(司会:横尾泥海男)
相模太郎(浪曲)
藤澤洋志一座
杉田青年団
中村吉右衛門劇団
森永楽劇団

ここに挙げた人や団体の大半が戦前・戦中の横浜で活動した実績があるか、横浜には来ずとも全国的に知名度が高い人たちです。

そんな中、異彩を放っているのが「大高ヨシヲ」なのです。

たしかに大高は剣劇の世界でそれなりの活動をしていましたが、当時の剣劇で有名だった梅沢昇や金井修、あるいは女剣劇の大江美智子や不二洋子と肩を並べるほどの知名度かといえば、失礼ながらおそらくそれほどでもない気はします。

そんな大高がなぜ横浜の杉田劇場にやってきたのか。

戦争が終わって、活動する劇場を探していたのだとしたら、東京にもいくつかの劇場が残っていたし、大阪や京都や名古屋にもあったはずです。もっと地方に行けば空襲の被害がなかった劇場もあったことだろうと思います。

なぜ、そういう劇場を選ばず、杉田劇場に現れたのか。

何をおいても、これが最大の問題です。


当初より推測していたのは、大高は戦前・戦中から横浜に縁があったのだろうということです。そうじゃないと、上にあげた最大の疑問の説明がつかない。

それをたしかめるために、昭和18年6月以降(つまり大高の活動が不明になってから)の新聞をつぶさに見て、活動(興行)の痕跡を探っているところですが、現段階で、昭和18年6月から昭和19年2月いっぱいまでを精査してみた結果、残念ながら新聞紙上に大高の名前はまったく出てきません。銀星座の開場を担った近江二郎や、のちに杉田劇場で連続公演する市川門三郎などは、戦時中、伊勢佐木町の敷島座や南吉田町の金美劇場における興行が盛んに宣伝されているのに、どういうわけか大高の名前だけが見つからないのです。

旧杉田劇場の開場時期まで調べ続けるつもりでいますが、昭和19年からは戦争が激化する上に、昭和20年5月29日の横浜大空襲以降は、ほとんどの劇場が焼失して、横浜の興行界は壊滅状態になったし、新聞の発行さえもままならない状況になりますから、昭和19年春から1年間くらいがギリギリのラインで、ここに大高の活動が記録されていないとしたら、少なくとも横浜や川崎で彼が活動していたことは「ない」と断定していいと思います。

もしそうだとしたら、戦後、大高は縁もゆかりもない横浜に突然現れたことになります。

もちろん、狭い演劇界での話ですから、大高自身、近江二郎や森野五郎などとは多少なりと知り合いだったでしょうし、そもそも籠寅興行部にいたと思われることからして、横浜に劇場ができたという話は、仲間内から聞いていたでしょう。浅草芸能界に顔がきいたという杉田劇場のプロデューサー鈴村義二や、オーナーの高田菊弥とも何らかの関係があったかもしれません。そんなツテから横浜に来たとも考えられますが、あくまでも推測。どうして大高が横浜の杉田に来たのかという疑問に、合理的な説明がつく資料にはまだ出会うことができません。

ふぅ。


話は変わりますが、近刊のちくま文庫に田中小実昌の『ひるは映画館、よるは酒場』があります。この本の「横浜の映画館」という項の末尾に、美空ひばりがデビューした頃、杉田の劇場を「ほんとになかのいい友だち」が手伝っていた、と書いてあるのです。

美空ひばりが出ていた頃というのは、つまり大高ヨシヲが杉田劇場の専属劇団を率いていた時期と一緒です。この「友だち」が誰を指すのかを探す作業も重要なポイントですが、今回はそれより重視したいのが、著者である田中小実昌の復員時期です。

田中小実昌は招集されて中国戦線に送られ、途中、マラリアにかかったりして、復員は昭和21年の7月になったのだそうです(氷川丸に乗って久里浜に復員したとか)。

戦後の横浜演劇界でとても大きな仕事をされた、劇団麦の会初代代表の高津一郎さんも中国にいて、復員したのは昭和21年3月でした。生前、幸運なことに親しくお話をうかがう機会を持つことができましたが、高津さんの所属していた部隊の復員はそれでも「早い」方だったそうです(参考記事:カナロコ→演劇の部隊 (1)演劇の部隊(2)

一方、美空ひばりの父、増吉も兵隊に取られましたが、横須賀海兵団に配属されていたために、終戦後、すぐに復員できたようです。だから、昭和21年の3月か4月に、杉田劇場で愛娘が唄うバックで演奏したバンド、美空楽団を編成することができるほどの時間的余裕があったわけです。

仮に大高ヨシヲが昭和18年5月末で役者をやめて、軍隊に入っていたとしたら、外地ではなく内地の部隊に配属されていたのではないかと推測できます。上の3人の例から見ても、外地にいたとしたら、昭和21年2月に杉田劇場へ売り込みに来て、座員を集めてすぐに興行開始というのは、時間的に相当難しかったのではないかと思われるからです。

戦地へ行っていた、あるいは国内のどこかの部隊に配属されて働いていた、はたまた軍需工場などで勤務していた、など、当時の時勢から考えられる大高の「転業先」はいくつかありますが、軍関係だとしたら、横浜か横須賀近辺の部隊や施設にいたのかもしれません。それが杉田との「縁」なのかもしれませんが、大高の本名がわからない今は、軍の記録の中から彼の手がかりを探す方法はありません。


一方で、一般の興行ではなく、当時盛んだった「芸能慰問団」の一員として活動していた可能性も否定できません。

大高が所属していたと思われる籠寅興行部にも慰問団があって、各地の軍需工場などに役者や芸人を派遣していました。このブログの最初の頃に旧杉田劇場のプロデューサー鈴村義二が、戦時中、林家正蔵らを率いて山北町へ行った話を引用しましたが、大高ヨシヲがそういう活動をしてたことも考えられます。ただ、籠寅興行部にいたことからすると、専属の慰問団というよりは、各地で興行をしつつ、日程のあったタイミングで慰問を行う、という方が合理的な気はします(不二洋子などもそのような慰問活動をしていたようです)。

だとしたら、やはりどこかの劇場の新聞広告に大高の名前が出ているはずです。

(それがないということは…)


芸能慰問団は大政翼賛会などの肝入りでできたという「日本移動演劇連盟」「日本移動文化協会」といった全国組織が、大手興行会社などを通じて劇団や芸人(または映画など)を派遣する形で運用されていたようですが、やがて、それではまかないきれなくなってきたのか、神奈川県でも昭和18年9月に「神奈川県巡演興行(協?)会」が、昭和19年2月には「神奈川県芸能報国挺身隊」が結成されます。

この「挺身隊」に参加した劇団は、新聞記事によると

横浜新進座
国伸劇 島村和朗
中村登良三一座
花柳好太郎一座
紀の国家劇団
歌舞伎 坂東調之助一座

であり、役員も列記されています(日吉良太郎の名前もあります)。しかし、「大高ヨシヲ」の名前はどこにも見当たりません。ここにも大高の名前、あるいは劇団の名前がないということは、やはり、終戦までの大高と横浜の縁は「ない」とするのが妥当な結論かもしれません。

(ここでも大高の手がかりが見つからない…)


ところで、挺身隊発足直後、昭和19年2月9日付神奈川新聞には「藝能報國挺身隊旗上」という記事があって、慰問公演の公演内容が以下のように書かれています。

「公演の順序は久しぶりに返り咲の森野五郎氏の司会。壽山司●氏の漫談。平塚の舞踊家、島千夜子一座。中郡大野村の中村登良三、浪花千代子の漫才。移動演劇は横濱新進座牧野晃三。生島波江。春野勇。市川七百蔵の時代劇『おけさ櫻』喜劇『新世帯』」

この記事中に列記されている役者は、当然ながらいずれも横浜や神奈川に縁のある人たちで、その頃の新聞ではお馴染みの名前ばかりです(神奈川県下を巡演する慰問団ですからね)。

その中のひとり、「壽山司●」(この名前は広告では見たことがありませんが)。
最後の字が不明瞭ですが、おそらく「壽山司郎」だと思われます。そして、この人物はなんと旧杉田劇場の大高ヨシヲ一座のポスターの中に出てくるのです。

旧杉田劇場のポスター:「大高ヨシヲ」の左に「壽山司郎」

戦後、新聞に出る杉田劇場の広告のうち、大高一座の公演には「じゃがいもコンビ」の名前が見られますが、劇団員であった壽山ともうひとりでやっていた劇団内ユニットのようなものじゃないかと推測しています。大高の没後、弘明寺銀星座の自由劇団の広告に「壽山じゃがいも」の名前が見られるからです。


「じゃがいもコンビ」は単体でも人気があったことから、杉田劇場だけでなく、銀星座にも呼ばれて出演していたのではないでしょうか。慰問公演の舞台に立つくらいですから、以前からそれなりの人気があったはずで、漫談をやったという壽山司郎は、もしかしたら横浜の地の喜劇役者か芸人だったのかもしれません(この広告にある不思議なタイトルの芝居『娘?アイドントノー』も、後年、銀星座の自由劇団が上演しています)。

記事中に名前の出るもうひとり「生島波江」。
彼女のことは前にも書きましたが、戦時中の新聞広告や記事に頻繁に名前の出る女優です。「麗人剣士」と書かれていることもありますから、剣劇女優といったところでしょうか。

劇団新進座特別公演:「おなじみの 春野勇/麗人剣士 生島波江」


一座を組んで地方巡業に出るなんていう記事もあるので、やはり横浜では有名な人だったのでしょう。以前も紹介した通り、彼女の名前も大高一座のポスターに載っているのです。

つまり、壽山司郎も生島波江も、大高一座に参加する前は、戦中の横浜(神奈川)で盛んに活動していた役者・芸人だったと言って間違いなさそうです。

こうして大高についての調べが進むうちに、大高一座の座員の経歴は、横浜(や神奈川)に深い縁があるということが、だんだんとわかってきました(日吉良太郎一座にいた「藤川麗子」もいますし)。そういう面々が集まって開場から間もない旧杉田劇場に、専属の「暁第一劇団」ができたわけです。

しかし

肝心の座長、大高ヨシヲが横浜とどんなつながりを持っているのか、これがまったくの不明なのです。


→つづく