(109) 大高は蒲田にいたのか?

「東京新聞・中日新聞記事データベース」で、過去記事が閲覧できるようになったので、横浜からでも名古屋圏の新聞が見られるようになったのと、都新聞が東京新聞になって以降の記事も確認できるようになりました。

(嬉しい)

もっとも名古屋については、情報のほとんどが『近代歌舞伎年表』の名古屋篇に収録されているので、新たな発見はありませんでしたし、大高よし男の記述も見つかりませんでした。

ただ、文字情報だけではなく、実際の記事や広告を見ることで、その公演の性格がわかることもあって、意義深いものはあります。今後、小さなネタを重ねて、いずれこの場で報告できればと思います。


一方の東京新聞ですが「都新聞」は新聞事業令により強制的に「國民新聞」と統合され、昭和17年10月から「東京新聞」となったので、都新聞の縮刷版やマイクロフィルムでは、それ以降のデータが閲覧できない状態でした。

大高よし男に限っていえば、昭和18年3月に浅草金龍館で、伏見澄子一座に加盟参加していることから、この広告や劇評を確認することが、調査の重要ポイントでしたが、横浜ではこれが閲覧できず、もどかしい思いをしていたところです(国会図書館に行けばいいだけの話なんですけどね…)。

データベースの閲覧ができたことで、新規の情報が得られると期待はしたものの、実際は既知の公演のいくつかの広告に「大高よし男」の名前を確認したことと、演目が判明したことくらいで、大高のプロフィールや活動内容に関わる新しい発見は、残念ながらありませんでした。


ところで、関東圏における大高調査の、最後の「未踏の地」だったのは、神奈川新聞で時折短文で紹介されていた蒲田「愛国劇場」です。ここはもともと映画館だったのが昭和17年7月1日から籠寅興行が経営する実演劇場となった小屋で、お隣の川崎大勝座、横浜の敷島座と並んで、籠寅の興行戦略上、京浜地区の重要拠点になっていたようです。実際、出演する役者の顔ぶれは、多くが大勝座、敷島座と重なっていて、近江二郎、伏見澄子など、大高と縁の深い座長もたびたび舞台に立っていました。

1942(昭和17)年6月25日付都新聞より

大高よし男は、昭和18年5月いっぱいまで京都三友劇場の舞台に立っていましたが、それ以降の消息がわからなくなります。これまでの調査で神奈川県内では足跡がまったく見つからない上に『近代歌舞伎年表』を精査しても、大阪・京都・名古屋のいずれの地にも彼の名前は登場しませんから、可能性としてもっともありそうなのは東京(浅草)ということになります。

しかしながら、もし浅草の舞台に立っていたなら、新聞を精読するなんていうことをせずとも、もう少し早く情報が掴めそうなものです。実際、東京新聞のデータベースから浅草の劇場を調べてみても、昭和18年初夏以降、大高の名前を確認することはできません。つまり京都の後、大高が浅草の劇場に出ていたとは考えにくいのです。

わかっている範囲での活動履歴から、彼が籠寅の所属俳優だったことは想像できますので、浅草以外と考えると、ありそうなのが蒲田。つまり上述の愛国劇場ということになります。そしてその愛国劇場の全貌を知る上で、期待すべきは東京新聞ということになるわけです。

もっとも、姉妹劇場ともいうべき大勝座や敷島座に大高の名前が出てこないことから、そもそもが愛国劇場も期待薄ではあるばかりか、蒲田は東京の中心部から離れているということで、内容は情報欄に載るだけで、広告はほぼ出ません。ハナから情報は限られています。

1944(昭和19)年3月1日付東京新聞より


そんなこんなで、結局、蒲田にも大高の名前を見つけることはできませんでした(経験上、もう一度見落としがないか確認した方がよさそうだけど)。やはり昭和18年6月以降に出征したという可能性が一番高そうです。


ただ、かすかな可能性があるとしたら、以下の新聞記事です。

1943(昭和18)年7月17日付東京新聞より

松竹が青年俳優を集めて合同公演をするというものです。

基本的には歌舞伎や新派の役者のことを想定しているのでしょうが、同年2月に松竹と籠寅が提携して「昭和演劇株式会社」を作っていることを思えば、大高のような役者がここに参加していたとしてもおかしくない気はします(ちょうど大高が三友劇場での公演を終えたすぐ後という時期でもあるし)

また、翌年1月にはこんな記事も出ます。

1944(昭和19)年1月27日付東京新聞より

昭和演劇(事実上「籠寅」)の所属劇団が一年を通じて移動演劇に注力するという内容です。ここにも大高が何らかの形で参加していそうな気がしてきます。

どうやら、この線を調べていくのが、次のステップになるのでしょうか。とはいえ、移動演劇については具体的な資料が少ないので難航しそうです。


そんなこともあって、戦前の調査は暗中模索で停滞しがち。この先ひとまずは、またしばらく戦後に戻って、暁劇団のその後を調べ、その中から大高の生前の姿を逆算していきたいと思います。

なお、愛国劇場の広告には「京浜出村駅前」とありますが、これは現在の京浜急行・京急蒲田と雑色の間にあった駅で、1945年戦災の影響で休止、1949年に廃止となったそうです。


→つづく
(次回は5/30更新予定)
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(108) 人間ポンプ、ふたたび

何かと話題の大阪万博にちなんでというわけではありませんが、今回は博覧会ネタ。


戦後の横浜では、戦災からの復興を期して、3ヶ月にわたる「日本貿易博覧会」が開催されました(1949(昭和24)年3月15日〜6月15日)

1949(昭和24)年3月16日付神奈川新聞より

会場は野毛山と神奈川(反町)の二カ所。

博覧会ですから、今でいうパビリオンがさまざまな展示を行っていたわけですが、そのほかに、野毛山には「野毛山ホール(小劇場)」「野外劇場」「水中レビュー館」、反町には「演芸館(芸能館)」などがあって、レビューやら見世物やらお化け屋敷やら素人芸能大会やら、連日盛りだくさんのイベントが行われていたそうです。

特に神奈川会場の演芸館は東宝の直営で、エノケン一座などの興行も行われました。1,500名収容といいますから、事実上の「大劇場」だったのでしょうね。

その建物はもともと土浦海軍航空隊の格納庫だったのを貿易博のために移築したのだとか。博覧会後は体育館となり、のちには横浜市民に馴染み深い「神奈川スケートリンク」として長く使われていました(2014年閉館・改築)。いまになって思い起こせば、なるほどスケートリンクにしてはちょっと変わった形状の屋根が印象的でした。


上掲のように、当然ながら当時の新聞では、貿易博が大きなニュースとして取り上げられていました。関連記事も連日掲載されましたが、その中にちょっと目をひくものがありました。

貿易博の各施設におけるイベント(余興)に参加する芸人・芸能人たちの座談会です。

1949(昭和24)年3月29日付神奈川新聞より

記事の見出しにもあるように、なんとこの中に「人間ポンプ」こと、あの有光伸男が夫人、マネージャーとともに登場するのです!

同上

同上


人間ポンプ・有光伸男といえば、以前にもこのブログに書きましたが(こちら)、1941(昭和16)年、伊勢佐木町・敷島座の9月興行に松園桃子一座が来演した際、幕間の舞台に出ていた人で、その時の松園一座には高杉弥太郎時代の大高よし男も参加していたので、大きな意味で言えば、大高と共演していたと言ってもいい異色の芸人です(昭和17年1月にも川崎大勝座で大高と共演→こちら)。

鉄の胃を持つ男として浅草はじめ、全国的に人気のあった芸人といえましょう。

1941(昭和16)年9月15日付神奈川県新聞より

人間ポンプ有光伸男
1941(昭和16)年8月25日付神奈川県新聞より

そんな有光が、戦禍を生き延び、ふたたび「人間ポンプ」として横浜の舞台に登場したというわけです。大高の共演者という意味でも、感慨深いものがあります。


さて、戦後のこの記事では、有光の紹介もなされますが、胃の謎については九州帝大で診察(研究調査)をしてもらったことなど、戦前の情報とほぼ同じもので、こんなことがマネージャーの井口一夫氏によって語られます。

"有光は胃の中でも甘い辛いがわかるのです 九州帝大で診てもらった結果、学問的に神経過敏症というのだそうですが、刃物なぞ呑んでも粘液が多く出てくるんでしまうのであぶなくないのです"(原文ママ)

有光本人によれば、こうした芸ができるようになったのは

"七ツ位からですが、親兄弟みんな食べたものは牛みたいに反すうすることが出来ます。子供の時からサーカスが好きで興業に身を投じたのですが、一時教員をやつていた母に勘当されたこともあつた"(原文ママ)

のだそうです。

さらには、このブログとの関わりの中で、興味深い発言もありました。

"戦時中は健全娯楽でないと軍に止められたので、関東では十年振りです"

10年ということは、大高と同じ舞台に立った昭和17年あたりを最後に関東の舞台からは遠ざかっていたということなのでしょうか。

当時は、戦争にともなう大衆の不満が軍に向かないよう、政府がしきりに娯楽を奨励していました。戦時中というと歌舞音曲の禁止、といったイメージですが、むしろ庶民の目を逸らすための娯楽が盛んに行われていたのです。

とはいえ、人間ポンプのような芸は「健全娯楽ではない」と断じられていたことがこの発言からわかります。剣劇なども制限を受けていましたが「健全」を誰が決めるのか、また「不健全」の基準がどこにあるのか、いずれもよくわからないところで、有光もずいぶん悩まされたのだろうと推察します。


発言の中に「関東では」という保留のある通り、『松竹七十年史』によれば、昭和18年8月・弁天座(大阪道頓堀)、昭和18年9月・松竹劇場(京都新京極)に人間ポンプの記録がありますので、関西方面ではまだ活躍の場があったようです。

地方都市での興行もあったのだろうと推測されますが、浅草や横浜の興行が禁じられたのですから、苦しい時代だったことでしょう。

(その後の調査で、昭和18年7月16日付の東京新聞「八月の大衆劇壇」の欄にも有光の名前がありましたが、「警視廳が許可すれば人間ポンプ有光伸男が加はる」とあることからも、彼の置かれた状況が垣間見えます)


ところで、戦後のインタビュー記事によると有光伸男は「非常に立派な体格をしている」のだそうです。対談に同席していた夫人は

"舞台が終つて鶴見の花月園に帰るときは坂道を私を背負つて帰つてくれますわよ"

と、惚気話のようなことも話しています。

上掲、昭和16年の新聞記事には、敷島座に来演した有光が「殊の外、横濱が好きになつて朝早くから市中の名勝を探つてゐる」とありますので、そんなのもあって鶴見の花月園あたりに居を構えたのでしょうか。

いずれにしても、大高がらみで注目していた有光伸男が横浜に再登場したというのは、身内でも関係者でもないのに、なんだかとても嬉しくなってしまいます。


さて、華々しく開幕した日本貿易博覧会ですが、収支でいうと大きな赤字で、その後の横浜市の財政をかなり苦しめる結果となったようです。

しかし、閉幕後、貿易博の施設が「野毛山動物園」や「野毛山プール」(2010年解体)、前述の「神奈川スケートリンク」(2014年閉館)など、数々の市民利用施設に転用されたことを思うと、長い目で見れば、横浜市民にとっては意味のある博覧会だったのかもしれません。

そういう記憶もすっかり薄れてしまいました…





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(107) 『今昔十二ヶ月』と近江二郎

暁劇団が素っ気ない名前の「杉田専属劇団」になった頃、昭和24年3月、劇団名や役者の名前なしに、演目だけが書かれた異色の新聞広告が出ます。

その前後にはそれまでと同じスタイルの広告が出ているので、これは単にスペースの問題で、同じ劇団つまり劇団新歌舞伎と杉田専属劇団の合同公演のものだと考えていいでしょう。

ここに記されているのは「名作アルバム 今昔十二ヵ月」という演目です。

昭和24年3月15日神奈川新聞より

1月から12月まで、各月にちなんだ名作舞台作品のさわりを連続上演するというプログラムで、「幕間ナシ 三時間半」とあることから、1作品およそ15分強を12本並べた形だったと思われます。

実はこの演目名、ちょっと珍しいので、見覚えがありました。

資料をひっくり返してみると、昭和17年7月に浅草の松竹座で上演された不二洋子一座の演目がこれと同じなのです(こちらは「名狂言抜粋 今昔十二月」となっていますが)。不二洋子一座の公演資料(新聞広告)をチェックしていたのは、そこに近江二郎が加盟出演していたからです。

昭和17年7月7日付都新聞より

大高一座(暁第一劇団)の支配人・大江三郎が、もともと近江二郎一座の文芸部員であったことは何度か書きました。上掲広告の、不二洋子一座の興行にも大江三郎がいたことは、ほぼ間違いないと思います。『今昔十二月』は二の替りで上演されたもので、その前、七月の御目見得興行では大江三郎の作品(『母子鳥』)も上演されています。ですから、不二洋子一座の七月興行には近江一座の文芸部員として大江三郎がいて、もちろん『今昔』の時もいたはずなのです。

そんなことからも、戦後、杉田専属劇団がこの作品を上演したのは、大江三郎の発案だったのかもしれません。鈴村義二が提案した可能性もありますが、大江三郎の方がこの作品のより近いところにいたわけですから。いずれにしても、戦前の浅草の不二洋子一座の演目が、終戦を挟んで杉田劇場に登場したのが、昭和24年3月の興行なのです。


杉田劇場での『今昔十二ヶ月』の演目は以下の通りです。

1月 『三河万才』
2月 『三人吉三』
3月 『恋の皿屋敷』
4月 『金比羅代参』
5月 『不如帰』
6月 『白浪五人男』
7月 『白虎隊』
8月 『忠治赤城の月』
9月 『■小袖』(晴小袖か?)
10月 『鈴ヶ森』
11月 『秋の踊り』
12月 『清水一角』


一方、戦前の不二洋子一座の方では

1月 所作事『羽根の禿』
2月 湯島の梅『婦系図』
3月 尊王櫻『児島高徳』
4月 不如帰『逗子の海岸』
5月 富士の五月雨『曽我兄弟』
6月 乱舞の牡丹『連獅子』
7月 ■原の夏『乃木将軍』
8月 月の五條橋『辨慶と牛若丸』
9月 悲愴飯盛山『白虎隊』
10月 赤城の紅葉『國定忠治』
11月 青柳硯『小野道風』
12月 雪の曙『清水一角』

重なる演目は『不如帰』『白虎隊』『国定忠治』『清水一角』の4本。さすがに、まったく同じものはできなかったのでしょう。座組の関係はもちろん、版権への配慮などもあったのかもしれません。

杉田劇場の広告には、不二洋子一座にあった「秋元六通 構成脚色」の文言がありません。月毎に名作のさわりを上演するというアイデアだけをもらって、中身は大江三郎が構成したということなのでしょうか。

余談ではありますが、この秋元六通という人、調べてみたら、不二洋子一座の文芸部員・高梨康之のペンネームという記録が出てきました(『著作権者名簿』昭和42年度版, p.391)。ということは、この作品は不二洋子一座のオリジナル作品と言っていいのでしょう。いずれにしても大江三郎にとっては戦前の浅草の、思い出の作品だったと思われます。


ところで、少し前に近江二郎の実弟・近江資朗のご家族からお話を聞いた際、保管されていた写真をお借りしたことがありました。すべてデータ化させてもらいましたが、その中にいくつかの舞台写真があったのです。

それがなんの舞台なのか、わからないものも多くありましたが、今回の調査の中で、改めてその写真を見返してみたら、舞台写真の大半が不二洋子一座の『今昔十二月』のものだとわかりました。

当時の新聞に載った劇評や配役表と写真を対比すると、さらにいろいろなことがわかってきます。

配役一覧:1942(昭和17)年7月10日付都新聞より


というわけで、近江資朗旧蔵写真から。

まず最初に一番わかりやすいのはこれでしょう。


いうまでもなく、10月の『國定忠治』の舞台写真です。

配役を見ると忠治は田中介二。後掲の劇評にも"田中介二の国定忠治の「赤城の山も今宵限り」は余りに気張りすぎて、これは見る方が面映ゆい位"と書かれていましたから、ここに写っている忠治は田中介二で間違いないでしょう。評の通りかなり気合の入った様子が見て取れます。


次にわかりやすいのはこれです。


8月の『辨慶と牛若丸』。これも配役を見ると、弁慶が不二洋子で牛若丸が不二時子。姉妹共演の舞台写真です。


これも比較的わかりやすいもので


4月の『不如帰』です。配役は川島武男が田谷耕一、浪子が中村扇子。


続いてわかりやすいのは

11月の『小野道風』です(『小野道風青柳硯』)。小野道風は濱原義明。


つづいてこちらは


5月の『曽我兄弟』。五郎が澤井五郎、十郎が大島伸也とあります。


この先はちょっとわかりにくいところです。


舞台装置などからして7月の『乃木将軍』だと思われますが、不勉強ではっきりはわかりません。配役を見ると乃木将軍は近江二郎。


そしてこれは、広告で「乱舞の牡丹『連獅子』」とあるものだと思われますが(背景幕も牡丹)、どうも連獅子のようには見えません。劇評を読んでみると、そちらには「勢獅子」と書かれていて、ようやく腑に落ちました。

中央、獅子頭を持っているのが不二洋子、その左が河村陽子。

と、以上が近江資朗旧蔵写真のうち、不二洋子一座の『今昔十二月』と思われる舞台写真です。


さて、この『今昔十二月』公演については、都新聞に写真入りで比較的長い劇評が掲載されています。

1942(昭和17)年7月16日付都新聞より

実は上掲の五條橋(弁慶と牛若丸)の写真は、新聞の劇評の中に掲載されている写真とまったく同じなのです(対比してみました)。やはりここに挙げた写真は『今昔十二ヵ月』の舞台写真で間違いなさそうです。

左:都新聞/右:近江資朗旧蔵写真

新聞社が撮って劇団員に焼き増ししたのか、劇団側が撮って新聞社に提供したのか。あるいはブロマイドや絵葉書として販売していたものなのか。いずれにしても近江資朗家に長く保管されていた当時の貴重な舞台写真です。


さて、この劇評にはこれらがどんな上演だったのか書かれています。

"歌舞伎、新派、舞踊等の一般に馴染深い場面を月々に因んで並べたもので、要はレビューのヴァラエテイみたいなものだが、ヴァラエテイにしてはそのツナギが暗輾の一點張りの上に、終始変らぬ黒バックに、切出しを押出しての舞薹構成"

だったそうで、

"気が変らず、せめて時には廻舞薹くらい使って、気の利いた輾換ができなかつたかと思ふ"

となかなか手厳しいものの、舞台の様子はよくわかります。大黒幕に書き割りなどのシンプルな舞台装置を出し入れして、舞台転換をしていたようです。

杉田劇場でも同じようなスタイルで上演していたのかもしれませんね。


ところで、これらの写真が一部変色しているのは、昭和30年代に近江資朗の井土ヶ谷の家が火事になった際に焦げてしまったものだそうで、それでもよく残してくださったのはありがたい限り。実はまだほかにも何枚かあったらしいのですが、『四谷怪談』などはあまりにも気味が悪くて処分してしまったのだとか。おそらく近江二郎一座の「グロテスク劇場」時代のものでしょうから、ちょっと惜しい気はします。

とはいえ、これだけの写真が残っていると、これまで確認できていなかった役者たちの姿もよくわかって、当時の舞台が一層身近に感じられるところです。


そんなこんなで、今回は戦後、杉田劇場で上演された『今昔十二ヵ月』から、戦前の不二洋子一座の舞台につながるエピソードでした。



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(106) 杉田専属劇団

前回書いたように、大高よし男の三回忌追善興行ののち、暁第一劇団(暁劇団)は藤村正夫を迎えて再出発します。昭和23年の年末には杉田劇場に引き続いて、横浜オペラ館でも公演するなど、藤村との蜜月というか、劇団運営の順調ぶりが感じられます。

ところが、翌年、昭和24年に入ると突然、広告から藤村の名前が消えてしまうのです。

何があったのかはわかりませんが、何かあったことは容易に想像できます。

藤村正夫の名前が消えると同時に「暁劇団」「暁第一劇団」「暁座」の名称も姿を消します。その代わりに登場したのが

「杉田専属劇団」

という味も素っ気もない劇団名です。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

新聞広告しか手がかりのないものですから、これがどんな劇団なのかさっぱりわからないのですが、もともと大高一座(暁第一劇団)が杉田劇場専属の劇団であったことからすると、その流れだろうことは容易に推測できます。


一方で、前年、杉田劇場に「同生座」の名前で華々しく登場した「鳩川すみ子・朝川浩成」のコンビは、これまた華々しく銀星座に登場します。もともと日吉良太郎一座にいた二人ですから、これでめでたく古巣に戻ったということになるのでしょうか。

1949(昭和24)年1月18日付神奈川新聞より

逆にこの時期を境に、かつて杉田の暁第一劇団から銀星座の自由劇団に移った「壽山司郎」の名前が、自由劇団の広告の連名から消えてしまうのです(12月22日から鳩川・浅川が自由劇団に参加するという広告の後、壽山の名前が消える)。

いったい何があったのだろう…

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より
この広告まで座員連名の中に「壽山」の名前がある

広告を追うだけでも離合集散の劇団事情が垣間見えるようです(もしかしたら壽山は杉田専属劇団に復帰したのかもしれない)。


さて、上掲のように杉田専属劇団が初登場するのは「劇団新歌舞伎」という劇団との合同公演です。「劇団新歌舞伎」はメンバーからして、おそらく戦前の横浜歌舞伎座の更生劇や金美劇場の「新進座」の流れと考えていいと思います。開館当初の銀星座にもほぼ同じメンバーが「御當地おなじみ 新歌舞伎」として出演しています。

1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より

大高亡き後の杉田劇場はさまざまな手を打ちますが、歌舞伎だけではダメ、暁劇団の再生も不調、という経験を重ねた結果、歌舞伎と剣劇・新派を組み合わせた番組で勝負しようと考えたのかもしれません。いずれにしても、このあと、しばらくは歌舞伎と専属劇団の合同公演でプログラムが組まれていきます。


杉田専属劇団と劇団新歌舞伎の合同公演は、2月に入ると広告にも惹句が増えて情報量が多くなります。

そしてその中に

「高島小夜里」

という名前が登場します。

1949(昭和24)年2月8日付神奈川新聞より

見覚えのあるこの名前、実は大高一座のポスターの中に出てくる役者の名前と同じなのです。

所蔵:杉田劇場

所蔵:杉田劇場

高島小夜里は大高一座の座員だったわけですから、「杉田専属劇団」はやはり暁第一劇団の残党による団体と考えてよさそうです。

大高の後継者として、さまざまな座長候補をトップに据えて再起を図りますが、いずれもうまくいかず、最終的には自分たちだけでやっていこうと思ったのかもしれません。人気のあった座長の後釜に入るのはなかなか難しかったのかな、なんていう想像も働きます。

(追記:その後、よく見たら広告の「晴小袖」の惹句には「燕之丞尾崎梅川高島」とあります。燕之丞は「片岡燕之丞」で、梅川が不明なものの、「尾崎」はポスターにある「尾崎幸郎」、「高島」は「高島小夜里」でしょう。梅川も「藤川(麗子)」の誤植かもしれません)


2月下旬になると、広告から「杉田専属劇団」の名前が消えてしまいますが、演目からして歌舞伎の一座がやったとは考えにくいものもあることから、広告には記載しないものの、やはり合同公演の形は継続していたと思われます。

1949(昭和24)年2月26日付神奈川新聞より

そしてこの「杉田専属劇団」は4月下旬になると突然「港劇団」という名前を付け加えるようになります。

1949(昭和24)年4月22日付神奈川新聞より

最初これは「暁劇団」の誤植ではないかと思っていましたが、その後、日をおいて何度も登場することから、間違いとは考えにくく、この時期、大高一座はとうとう「暁」の名前を捨て、新しい名前のもと、再スタートを切ったと考えてもよさそうです。

ここまでの流れを見ると、三回忌を機に、さまざまなやり方で大高の影響からは決別して、独り立ちしようという劇団の決意みたいなものも感じるところです。


ところで、杉田劇場は昭和23年8月に株券を発行して資金集めをはかっていることや、片山さんの証言などからも、この頃には劇場が経営不振に陥っていた、というのがこれまでの定説でしたが、新聞広告から一年を通じての番組をデータ化してみたところ、昭和23年はほとんど休みなく公演が入っていることがわかりました。

1948(昭和23)年の杉田劇場スケジュール(抄)

とても経営不振には見えないし、賑わいが失われたようにも見えません。個々の興行の入りがどうだったかはわかりませんが、少なくとも劇場は連日オープンしていて、ほぼ毎日なんらかの公演が行われていたことは間違いありません。

昭和23年には、一時的にエロに傾斜して「りべらるショウ」などを上演したり、集客が見込まれる映画も何度か開催されていますが、年間を通じたプログラムを眺めると、やはり歌舞伎や剣劇などの興行が圧倒的に多く、年の後半になるとエロもほとんど消え、完全に実演劇場として経営していたことがわかります。

今後の調査によりますが、杉田劇場の経営難が表立ってわかるようになるのは、昭和24年以降なのではないかと思われます。


杉田劇場に限らず、近隣の劇場も名前を変えたり、プログラムを工夫したり、試行錯誤している時期ですから、苦境は杉田に限ったことではなく、むしろ先行していた上に、市のはずれという立地ながら、杉田劇場は健闘していた方なんじゃないかとさえ思えるところです。



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(105) 藤村正夫と新生暁劇団

昭和23年9月に大高よし男三回忌追善興行を終えた暁第一劇団は、その後、精力的に活動を再開します。三回忌追善に特別出演した藤村正夫を迎えて「新生暁座」の名前で次々と公演を打っているのです。

杉田劇場では

10月6日〜27日
11月22日〜12月13日

が「藤村正夫外三十数名」の「新生暁座」の公演日程で、それまで歌舞伎の市川門三郎一座や大衆演劇の市川雀之助一座に頼りきっていた杉田劇場に、ふたたび暁第一劇団の灯がともったような印象を受けます。

ちなみに10月9日からの興行では『涙雨五千両』が上演されます。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より

これは現杉田劇場に残されているポスターにも載っている演目で、大高一座の得意なレパートリーのひとつだったのかもしれません。

所蔵:杉田劇場


以前も書いたように、藤村正夫はもともと日吉良太郎一座にいた人で、昭和11年にいろいろあって独立し、自分の一座を由村座で旗揚げしますが、どうやらその後は日吉劇時代ほどの人気にはならなかったようです。

とはいえ、初代大江美智子が倒れた時(昭和14年1月)には一座に参加していたようですし、役者としてはやはり特筆すべき人気と実力を兼ね備えていたのでしょう、銀星座の自由劇団(この時は「自由座」)の旗揚げ公演(事実上、戦後の日吉劇団の再出発と考えていいと思う)にも特別出演の形で出ています。

1946(昭和21)年8月15日付神奈川新聞より

そんな藤村がどういう経緯で大高の三回忌追善興行に出演し、その後の暁劇団を事実上率いるようになったのかは不明ですが、元・日吉劇の鳩川すみ子と朝川浩成による劇団が杉田劇場で公演していることからも(詳細はこちら)、銀星座と杉田劇場、あるいは鈴村義二と日吉良太郎の間にはなんらかの関わりがあり、その中でこういった流れになったのかもしれません。


11月1日からは「中村喜昇一座」が杉田劇場に出演しますが、中村喜昇といえば日吉劇にも「少年歌舞伎」の一座として出演していた人ですから、このあたりにも杉田劇場における日吉劇の影響が垣間見られます(杉田劇場に出た時には「青年歌舞伎」になっているのが面白い)。

1944(昭和19)年2月24日付神奈川新聞より

1948(昭和23)年11月2日付神奈川新聞より

〜余談〜

尾上芙雀の話によると、大高一座には日吉劇の子役たちがいたとあるので、中村喜昇も戦後は名前を変えて一座に参加していたのが、ここで元の名前に戻り一座を復活させたという可能性も否定できません(調べてみると映画『明治一代女』(1955)の劇中劇出演者に中村喜昇の名前がある)。

閑話休題

いずれにしても、三回忌追善興行以降、暁第一劇団は藤村正夫を事実上の座長として、再出発を図ったようです(この時期は「新生暁座」となっている)。

新生暁第一劇団の活動は、杉田劇場にとどまらず、南区高根町の横浜オペラ館(元「オリエンタル劇場」)にも広がっています。11月13日から17日までのスケジュールで興行が行われているのです。

上述の2つの期間の合間に、別の劇場にも出るほどですから、活動が充実していた印象を受けます。さらには驚くことに、この広告にあの「大江三郎」の名前が出てくるのです。

1948(昭和23)年11月13日付神奈川新聞より

いうまでもなく大江三郎は大高一座の支配人で、近江二郎一座でも作・演出などを担当した文芸部員です。大高調査における最重要人物のひとりとも言っていいでしょう。

おそらく大高亡き後、大江三郎の名前が新聞紙面などに出るのはこれが初めてではないでしょうか。座長の没後も活動を続けていたことがわかりましたし、このことからも藤村正夫率いる新生暁劇団が、大高一座の残党によって成り立っていたことがわかります。

なお、この広告では「藤村正夫と新生劇團 第一回公演」となっていますが、大江三郎がいることからしても、またスケジュール的にも、この新生劇団は杉田劇場の新生暁座と同じものと考えていいと思います。

その後、11月下旬からの興行では、広告でも「藤村正夫」が前面に出て、新生暁劇団はさながら「藤村正夫一座」の様相を呈してきます。

1948(昭和23)年11月22日付神奈川新聞より

さらに年末の12月14日からはふたたびオペラ館での興行が始まります(おそらく19日まで)。そして、ここにも「大江三郎」の名前が登場しています。

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より

杉田劇場とオペラ館のスケジュールを合わせると、大高の三回忌追善興行以降、藤村正夫をトップに据えた暁劇団の公演は

10月6日〜27日 杉田劇場
11月13日〜17日 オペラ館
11月22日〜12月13日 杉田劇場
12月14日〜19日 オペラ館

となり、ほぼ休みなく、といってもいいほどの興行が続いていたわけです。

これですっかり軌道に乗ったかに思えたこの関係は、しかしそう長くは続かず、年明け1月から劇団はまた新たな展開を見せることになるのです。




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(104) グロテスク劇場の内幕

近江二郎はアメリカ巡業から帰国して一年後の昭和7年夏「グロテスク劇場」というシリーズをスタートさせ、人気を博します。一時期は「グロの近江」とも言われ、近江一座の代名詞とも言われるシリーズだったようです。

このグロテスク劇場については、以前も書いたことがありましたが、メイエルホリドとの関係など頓珍漢なことを書いていて恥ずかしくなるばかりで、これがどんな意図で始まったのかなど、これまで詳細はよくわかっていませんでした。


先日、旧杉田劇場の総合プロデューサーというべき、鈴村義二の書いた『浅草昔話』(南北社事業部, 1964)という本を手に入れました。なんと、そこに「グロテスク劇場」の内幕が書かれていたのです。




それによると

"劇場の正面全体を、岩窟のこしらえにして、近江二郎一座に伴淳三郎、長田健が加入、映画から浅香新八郎、衣笠淳子特出、出し物は全部怪談劇で、グロテスク劇場と看板をあげて、昭和七年八月の公演劇場のフタをあけた。"(同書,p.65)

要するに怪談劇を「グロテスク劇場」と呼んでいただけのことらしいです。

1932(昭和7)年8月20日付都新聞より

もっともこの広告には伴淳三郎などの名前がないので、当初は近江一座だけの企画だったのかもしれません。その後、8月30日付の新聞に伴淳らが日活の争議を嫌ってグロテスク劇場に参加したという記事が出ます。

1932(昭和7)年8月30日付読売新聞より

鈴村によれば、前年の7月に大谷友三郎・遠山満・近江二郎・酒井淳之助を集めたお盆の興行が不入りだったことから、この怪談劇も期待薄で、興行主の木内興行部としては「まあやってみれば」という程度の思い入れだったそうです(それまで正月と盆は稼ぎ時だったのに、この頃から夏は海や山への旅行に客を取られてしまったということらしい)。

ただ、これまで調べた範囲では前年つまり昭和6年夏の近江二郎は、7月7日に帰国したばかりで、合同公演をやっているような記録がないので(むしろ凱旋公演のように近江二郎一座で興行している)、不入りだった興行とは、以下の広告にある昭和7年正月の合同公演(剣劇大合同)のことを指しているのかもしれません。

1931(昭和6)年12月29日付読売新聞より


さて、そんな期待薄だった「グロテスク劇場」ですが、これが予想外に当たって

"連日の大入り、八月一ヶ月だと、開場前に宣告されたのが、今度は劇場側からの頼みで、九月十月と打ち続け、相変わらずの大入り"(同書,p.66)

になったのだそうです(鈴村は木内興行の相談役だったようなので、グロテスク劇場は木内が公園劇場を借りて興行していたのだと思います)。

とはいっても、そもそもがそんなに入るとは思っていなかった興行なので、さすがにロングランとなると演目も底をつき、

"これまで客を引き寄せたのだから、大丈夫という事で、十一月に忠臣蔵通しをやった"(同書,p.66)

ということですから、行き当たりばったりというか、いい加減というか。

それが10月31日初日を告げるこの興行のようです。

1932(昭和7)年10月31日付都新聞より


"舞台稽古に一日休場して、大張り切りで初日をあけた。
序幕、二場目と進んで松の廊下、伴淳の師直、浅香の判官、
(中略)
判官が刀に手をかけようとしたが、腰に小刀がない、これを袖で見た茶坊主が、小刀を持って舞台へ飛んで出て
「判官殿」
と小刀を差し出す。ドッと客席は大笑い。それを引ったくって師直に斬りつける。その時師直の長袴を踏んづけていたので、逃げる師直は、舞台へつんのめる。客席は爆笑、爆笑"(同書)

 

というのだから、「今秋劇界震撼の帝王篇」などと大仰なキャッチコピーが書かれた立派な広告からは想像もできない、かなりハチャメチャな舞台だったようです。

こんなこともあってか、浅草での「グロテスク劇場」はこれで幕引きということになったようですが、近江一座は人気にあやかって、名古屋などの旅公演ではその後も「グロテスク劇場」の看板でしばらく興行を続けていたようです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第16巻(八木書店, 2022)より

ちなみに、鈴村によればこの『忠臣蔵』の

"失敗の爆笑が、ヒントになったのか、松竹爆笑隊が生れ、翌月笑いの王国と改めて常盤座に数年続演する全盛を築いた"(同書,p.67)

とのことだそうです。


ともあれ、このエピソードからも、鈴村義二と近江二郎はもともとかなり近い関係にあったことがわかります。旧知の仲といってもいいでしょう。本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、杉田劇場オーナーの高田菊弥が、戦前、浅草松竹座で役者の後援会長をやっていたと書かれていますが、鈴村義二と高田菊弥だけでなく、近江二郎も含めた三者は、浅草時代から何らかの関わりがあったと考えてもおかしくない気がします。

つまり、杉田劇場の開場直後、昭和21年1月下旬から、近江二郎一座が来演しているのは、単に近江二郎が横浜に住んでいて、人気があったからというだけではなく、鈴村や高田と昔からの関係があったからだと考えても間違いはない気がするのです。

そして、やはり大高よし男が杉田劇場の専属となった経緯にも、この三者の縁が絡んでいたという推測も、そんなに大きく的外れだとは言えない気もするのです。

さらには、何度も引用しているように、近江二郎の養女だった元子さんの手記にある

"二代目を名乗るべき人が交通事故で他界"(George Omi "FIFTH BORN SON"より)

という文言が、大高を指しているような気がしてならないのです。

つづく

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(103) 近江二郎の戦後

昭和23年11月16日に横浜国際劇場不二洋子一座公演の広告が出ます。ここに興味深い名前が登場するのです。

近江二郎です。

1948(昭和23)年11月16日付神奈川新聞より

印刷が不鮮明ではっきりしませんが、右に大きく書かれた「不二洋子一座」の下に、かすれた「近江二郎加盟」の文字を読み取ることができます。

戦時中、近江二郎はやはり「加盟」の立場で、不二洋子一座にしばしば参加していましたが、戦後もその流れは継続していたようです。

不二洋子一座が初めて横浜国際劇場に来演したのは前年の昭和22年9月26日で、二度目が同年12月17日。これが三度目の登場ということになります。

1947(昭和22)年9月27日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年12月2日付神奈川新聞より

ですが、最初の公演も二度目の公演も、近江二郎が参加していたかどうかはいまのところ不明です。


以前も書いたように、近江二郎の戦後の活動は

昭和21年
 1月 杉田劇場
 3月〜5月 銀星座(弘明寺)・杉田劇場
 7月〜8月 宝生座(名古屋)

昭和22年
 3月 堀田劇場(名古屋)
 5月 宝生座(名古屋)
 8月 観音劇場(名古屋)

がわかっています。断続的ながら精力的に活動している様子がわかります。

その後の調査で、不二洋子の評伝『夢まぼろし女剣劇』(森秀男著)に掲載されている、昭和23年2月の京都南座での不二洋子一座公演のパンフレットにも近江二郎の名前があることがわかりました(同書, P.181)。

森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房,1992/ P.181)より

となると、時期的に近い不二洋子の二度目の横浜国際劇場(昭和22年12月)にも近江二郎が参加していた可能性は否定できませんし、最初の来演である9月興行もスケジュール的にはあり得ない話ではなくなってきます。

『夢まぼろし女剣劇』によれば、戦後の不二洋子はライバルである大江美智子に比べると活躍の場が少なくなっていて、かつてあんなにも人気を誇った浅草に復帰するのも、昭和21年12月の松竹座からで、昭和20年2月以来、実に1年10ヶ月ぶりだったそうです。

不二洋子が浅草の舞台に復帰した昭和21年の年末、近江二郎がどこにいたのかははっきりしません。『松竹七十年史』の記録には、不二洋子一座に近江二郎の名前はありませんが、8月の宝生座(名古屋)と翌年3月の堀田劇場(同)までの間ですから、ここでも近江二郎が出演していた可能性もまた否定できません。

話が前後するので、時系列を整理するために、まず『夢まぼろし女剣劇』と『松竹七十年史』から、戦後、昭和24年までの不二洋子一座の公演をまとめてみます。

昭和21年
 12月 浅草・松竹座  
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座

昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座

となります。

ここに横浜での興行と近江二郎の足跡を加えてみると(※黒文字:近江二郎、赤文字:不二洋子、緑文字:不二洋子一座に近江二郎が参加)

昭和21年
 1月 横浜・杉田劇場
 3月〜5月 横浜・銀星座
 7月〜8月 名古屋・宝生座
 12月 浅草・松竹座
 
昭和22年
 3月 名古屋・堀田劇場
 5月 名古屋・宝生座
 8月 名古屋・観音劇場
 9月 横浜国際劇場
 12月 横浜国際劇場
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座
 11月 横浜国際劇場
 
昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座


こうして時系列で見ていくと、いささか強引かもしれませんが、昭和21年の浅草は別として、昭和22年の秋以降、近江二郎はずっと不二洋子一座に帯同していたと考えてもいいような気がしてきます。

妄想を逞しくすると、昭和22年9月、横浜国際劇場にやってきた不二洋子の楽屋を近江二郎が訪ね、久々の再会に意気投合して、そこからまた不二洋子一座に近江二郎が参加するようになった、というストーリーも成り立ちそうですが、あくまでも悪癖の妄想ということで…

ただ、昭和24年5月29日に近江二郎は急逝してしまいますから、上記、昭和24年11月の常盤座公演には近江二郎の姿はなかったわけで、両者の戦後の共演は短期間で終わってしまったということになります。


こうしてみると、いまのところ近江二郎の記録として残っている一番新しいものが、冒頭にあげた横浜国際劇場の広告になります(最後が横浜というのも、なんとなく妄想を掻き立てられるところですし、亡くなったのが、横浜大空襲と同じ日という事実にも運命的な何かを感じてしまうのは…やはり悪い癖のようです)。

戦前・戦中、大衆演劇の世界で剣劇や新派の一座をなし、人気を誇っていた役者たちが、戦後はワキに回るなどして映画や舞台で活躍していたことを思うと、近江二郎もあと10年生きていたら、いまでもスクリーンの中にその姿を見ることができたのかもしれません。運命とはいえ、残念でなりません。


そんなこんなで、ここまで調べてきて、ざっくりとではありますが、明治の末に川上音二郎や藤沢浅二郎の俳優学校を出た後から、昭和24年に亡くなるまで、大正時代の前半を除けば、近江二郎の足跡の全容がうっすらとわかってきました。大正時代に東京で新派の舞台に出ていた時期を精査すれば、近江二郎についてはある程度の年譜ができそうな気がします。

その精査の中で大高との接点、出会いの時期を確定することができればいいのですが、果たしてそううまくいくかどうか。やはり近江二郎の足跡という線も、大高調査の重要なポイントになりそうです。



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