(74) 大きな誤りに気づく

大高よし男については、現杉田劇場が開場してから、いろいろな人が資料を収集し、それが長らく保管されてきたわけで、そのデータなどから得られる情報が「大高ヨシヲを探せ」の調査を前に進めてくれているです。

ですが、現物を拝見することはほとんどありませんでした。写真の内容についても伝聞が多く、そこからさまざまな推測をすることが多かったのも事実です。

伝え聞いていたもののうち、最も解釈に難儀していたもののひとつが「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」というこの写真です。

大高の遺児が形見の背広を着ているとされる写真

先日の講座でもその旨をお伝えした上に、大高の葬儀で位牌を持っている子とこの背広姿の若者が同一人物に見える、ともお話ししたわけです。

左:葬儀写真の子ども/右:形見の背広を着た若者

特徴的な耳の形などが似ていると言えば似ていて、同一人物と考えてもいいような気もします。


昨日、現杉田劇場が保管していた写真の原本のいくつかを、直接確認する機会をいただきました。

そして、伝え聞いていた写真の意味の大きな誤りに気づいたわけです。

(嗚呼)

上掲の「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」写真、実は昭和24年に杉田劇場で行われた地元・浜中学校の学芸会の記録として、パネルに貼ってあった4枚のうちの1枚だったのです(浜中学校は私の母校でもあり、「浜中(はまちゅう)」と略されます)。

浜中学芸会(昭和24年)

そこに「形見の背広」とキャプションがあったために、「大高よし男の遺児が形見の背広を着ている」という話になったのかもしれません。

しかし、パネルをよく見れば、左の2枚が『別れのワルツ』という作品の出演者、右の2枚が『形見の背広』という作品の出演者を写した記念写真だということはすぐにわかります。

さらによく観察すれば、4枚のうち『別れのワルツ』の左から2番目と、『形見の背広』の下段の写真は同じ場所で撮影されたこともわかります。

つまり、この4枚はすべて、杉田劇場で行われた浜中学芸会の記念写真で、「形見の背広」は大高が遺した背広のことではなく、学芸会で上演された芝居の作品名だったのです!

(嗚呼)

さらには、ここに写っている大人が「大江三郎」なんじゃないかと勝手に推測していましたが、ここまで事実から、この人は当時の浜中の先生だと考えるのが妥当です。


もっとも、大高の葬儀から3年後の写真ですから、ここに写っている背広姿の生徒が、大高の子息ではないという確証はありません。

また、葬儀写真の裏書にはこの子どものことを「大高よし男の関係親族」という曖昧な表現で記述してあることからしても、大高には子どもはなく、位牌を持っていたのは大高の甥などという可能性も否定できません。

『別れのワルツ』も『形見の背広』もどんな作品だったのかわかりませんし、既成台本だったのか、オリジナル作品だったのかもわかりません。

ですから、大高の甥が杉田に住んでいて、浜中学校に進学し、大高の遺した背広を着て、この学芸会に参加していたというのも、まったくない話とも言えないわけです(葬儀写真の子どもの年齢を9歳から10歳と推定すると、3年後に中学生というのはおかしくないことです)。


昭和24年に中学生ですから、おおむね昭和10年前後に生まれたと考えられます。

写真に写った当時の中学生たちがご存命ならば、80代後半。浜中の歴史を紐解くとともに、この方々の話を伺うことができれば、大高につながる何かがわかるかもしれません。


いずれにしても、恥ずかしいくらいの大きな誤りでしたが、これまで誤解してきた写真の謎が判明したのですから、調査の精度が上がったとして前向きに方向に考えたいと思います。

(とほほ)


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。今回の投稿に関わる浜中学芸会のことも、ご存知のことがありましたらぜひ教えてください。 

2 件のコメント:

うめちゃん さんのコメント...

全体のパネルを見てビックリしました。

FT興行商社 さんのコメント...

まったくですね。驚きました。台紙から写真を剥がして、裏書の確認も必須ですね。