(119) 自由劇団の栄枯盛衰

戦前・戦中の調査に戻りつつあるところですが、目ぼしい成果が得られていないので、ひとまず戦後をもう一度。


杉田劇場では大高一座こと「暁第一劇団(暁劇団)」が専属として活動し、弘明寺の銀星座では「自由劇団」が専属だったことはこれまで何度も書いてきました。

また、自由劇団のメンバーには日吉良太郎一座の残党が多く、事実上の後継団体、つまりは「第二日吉劇団」のような存在だったのではないかと考えていることも繰り返し書いてきたことです。

自由劇団の名前が最初に登場するのは、1946(昭和21)年8月で(この時はまだ「横浜自由座」)、広告から名前が消えて事実上の活動停止になるのが、1950(昭和25)年7月下旬ですから、まるまる4年間、銀星座でほぼ休みなく公演を続けていたことになります。

(杉田劇場の暁劇団も同じような活動を目指していたのでしょうが、結果としては大高よし男の死で頓挫してしまった形です)

自由劇団の充実した活動の背景として、日吉劇が昭和13年から19年まで、横浜歌舞伎座で6年も連続興行をした経験が活かされたのだろうと思います。

杉田劇場がいささか迷走気味になったり、高根町のオペラ館がこれまた迷走気味な時期を経て(このことはいずれ書きます)、ストリップ劇場(横浜セントラル劇場)へと落ち着く(?)のに対し、自由劇団がブレることなく興行を続けていたのはやはり経験がものをいったのでしょうか。結果的にこの地域で専属劇団を持つ劇場は銀星座だけになっていくわけです。


そんな背景もあってか、1949(昭和24)年から1950(昭和25)年初頭にかけての自由劇団は、それこそ破竹の勢いを感じさせる活躍ぶりで、新聞の特集記事にもしばしば登場しますし、根城としている銀星座のほかに、杉田劇場や港映(のちの妙蓮寺劇場)でも公演するようにもなります。

1949(昭和24)年7月12日付神奈川新聞より

1950(昭和25)年1月17日付神奈川新聞より

上掲「港映」の広告が銀星座と並んでいることからも、またそのほかの映画演劇情報欄などを確認しても、その時期に銀星座が休場していたような形跡が見られないので、どうやら銀星座での興行は続けたまま、同時並行で別の劇場の公演をしていたようなのです。つまり、自由劇団には本隊以外に別働隊があったということで、座員数の多さなど劇団としての充実ぶり、隆盛がうかがえます。いまでいう劇団四季みたいなものでしょうか(違うか)。

(もっとも、移動できない距離ではないので、昼夜で劇場を替えたという可能性も否定できません)

以前も書きましたが(こちら)、これらのうち、昭和25年1月の杉田劇場での興行については、新聞広告(情報)だけでなく、緞帳を新調した際のものと伝わる写真に演目の記録が残っているのです。

杉田劇場緞帳と間辺典夫氏

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1950(昭和25)年1月13日付神奈川新聞より

写真と新聞の情報欄の演目が一致しています。

「肉欲」は新派劇で「天保白浪」が剣劇、「日本晴れ」は喜劇だったようです。

杉田劇場の緞帳写真なのに、専属劇団ではなく自由劇団の公演時のものというのも皮肉な話ですが、杉田劇場の暁第一劇団にも、銀星座の自由劇団にも、日吉劇出身の役者がいたわけですから、劇場こそ違え、劇団員としてはどちらも同じ役者仲間という意識だったのではないかと思います(もしかしたら専属劇団にいた人もこの時の自由劇団の舞台に出ていたのかもしれません)。


そんな具合で、市内とはいえ巡業できるほどの隆盛を誇った自由劇団も、1950(昭和25)年7月いっぱいで新聞広告がなくなり、どうやらこの時期に活動を停止したと思われます。急転直下のジェットコースター的展開に、むしろこっちの方が驚くくらいですが、これもまた盛者必衰のことわりとでもいうのでしょうか。

しかし、ここにはおそらく自由劇団の「母体」とも言っていい、日吉劇の座長・日吉良太郎の死が何らかの影響をしていると僕は考えています。

日吉良太郎の亡くなった日については諸説あって、昭和25年という資料もあれば、昭和26年という話もあります。一番具体的なのは、たびたび引用する小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』で、ここには1951(昭和26)年8月29日没、とかなり明確な日付が記載されています。

小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』巻末年表より

いまのところこの日付を裏付ける資料を見つけることができていないので、もう一度精査する必要はありますが、いずれにしても昭和25〜26年頃に亡くなったのは間違いなさそうで、そのことが自由劇団の活動終了に影響したと考えるのもまた大きく間違っていないとは思います。

自由劇団の連続興行が終了した銀星座は、その後、しばらく新聞紙上からその名が消えてしまいますが、11月18日の市川門三郎一座の広告を皮切りに、剣劇、女剣劇、歌舞伎(小芝居)などの情報が断続的に新聞紙上で見られるようになり、どうやら、杉田劇場と同様、さまざまな劇団が入れ替わり立ち替わり登場する「貸し小屋」のような形になったものと考えられます。


ところで、この時期の杉田劇場について、これまではほぼ活動停止状態と言われてきましたが、実際はポツポツと思い出したように新聞広告が掲載され、その内容を見るに、おそらく広告が出ていないだけで、さまざまな興行は続いていたものと思われます。

昭和25年8月には杉田劇場の庭を使ったヌード撮影会(!)も行われます。

1950(昭和25)年8月8日付神奈川新聞より

この広告より前、8月4日付の新聞には撮影会についての記事も出ていて、そこには

「杉田劇場出演の大泉撮影所アーティストグループ丘寵児一座のニューフェイスが特にモデルになって参加」

と書かれているので、この時、杉田劇場では丘寵児一座の公演があったようなのです(公演の広告はないけれど)。

また唯一残る杉田劇場の正面からの写真は、現物を複写して拡大したところ「若月昇劇団」が来演した時のものと判明しています。

旧杉田劇場(杉田劇場所蔵)


まねき看板を拡大:「若月昇」と読める

しかしながら、この劇団については、昭和25年いっぱいまでの新聞広告には、その名がまったく見つかっていないことから、写真はそれ以降のものだと思われるのです(「若月昇」については詳細がまったくわかりません。どなたかわかる人がいらっしゃいましたら教えてください)。

このように、経営状況は別として、昭和26年以降も劇場の運営は定期的に続いていたと考えていいと思います(正月やお盆の時期には市川門三郎一座の広告が出ます)。

そもそも、上掲、緞帳新調時の写真とされるものが、本当に新調時のものであるならば、斜陽で閉場が近い劇場が緞帳を新調したとは考えにくく、やはりしばらくは劇場としての運営は続いていたと言えそうです。

これまで杉田劇場の方が先に閉場し、銀星座がその数年後に閉場というのが通説のようなものとされてきましたが、両劇場の閉場は、ほぼ同じ時期(昭和25年以降、おそらく27年頃)ではないかと推測されるところです。


近江二郎が昭和24年5月29日に亡くなり、日吉良太郎も遅くとも昭和26年には他界します。戦前の横浜の大衆演劇を支えた両座長の死に連動するかのように、杉田劇場と銀星座もなくなるわけで、この時期に明治から続いた横浜の新派〜剣劇〜大衆演劇の流れにピリオドが打たれたと言ったら、少し言い過ぎでしょうか。


そんなこんなで、今回は銀星座の自由劇団について、劇団の栄枯盛衰と劇場の命運について考えてみました。



→つづく
(次回は10/31更新予定)

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