〔お知らせ〕 杉田劇場のポスター

現杉田劇場(磯子区民文化センター)のロビー壁面に、旧杉田劇場で美空ひばりが舞台に立った時のポスターが2枚掲示してあります。

この舞台こそ、大高よし男が座長を務めていた「暁第一劇団」の公演なのです。


この2枚のポスターの間に、新たに「大高ヨシヲを探しています」というチラシ(小ポスター)が掲示されました。


美空ひばりのデビューエピソードと合わせていろいろな資料に頻繁に名前が出る「大高ヨシヲ」ですが、現杉田劇場のスタッフも詳細はよくわからない謎の役者です。

これを機に大高よし男やその周辺に関する新しい資料が見つかることを期待しています!

ロビーにはどなたも自由に入れますので、当地へお越しの際はぜひお立ち寄りいただき、旧杉田劇場のいろいろな資料が展示してあるコーナーをご覧ください!


このブログ「大高ヨシヲを探せ!」は杉田劇場のスタッフとも連携しながら調査を進めています。

ちなみにブログ管理者の名前として使っている「FT興行商社」は、ちょっと怪しげな名前ですが、実はなぜか一時期だけ新聞広告に記載されていたもので、おそらく旧杉田劇場の運営団体じゃないかと思っています。
(この「FT興行商社」のことも詳細はまったく不明です。ブログを作るにあたって名前を使わせてもらいました)

昭和21年5月1日付神奈川新聞より


→つづく


(60) 戸田史郎のこと

このブログの「(56) 近江二郎、アメリカで映画を撮る」の投稿に、近江二郎の実弟、戸田史郎のご親族の方からコメントをいただきました。大高よし男のことも、近江二郎や戸田史郎のことも、横浜の図書館で閲覧可能な文献や新聞記事はほとんど調べ尽くした感がありますので、あとは関係者のお話が頼りです。

とてもありがたいことです。

というわけで、今回はこれまでもいくつか書いた「戸田史郎」に関する事柄をまとめてみたいと思います。


冒頭にも書いた通り、戸田史郎は大高よし男とも縁の深い「近江二郎」の実弟にあたる人です。

戦後、弘明寺の銀星座で開場記念興行を近江二郎一座が担った時も、その広告に名前がありますし、「日本の古本屋」や「ヤフオク」に出品されている、昭和2年・名古屋帝国座での興行のポスターにも名前があります。また、戦前、公園劇場での「グロテスク劇場」などの新聞広告にも名前が出ています。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より

昭和7年8月20日付都新聞より

近江一座がアメリカ巡業した際の広告にも名前がありますから、さすがに実弟というだけあって、座長の信頼も厚かったのでしょう。

1930(昭和5)年10月26日付邦字新聞「日米」より


ただ、大高よし男が高杉彌太郎の名前で近江一座に参加していた時期の興行には、戸田史郎の名前がないのが不思議なところです。軍隊に行っていたなど、何らかの事情があるのかもしれません。


さて、戸田史郎の経歴については、昭和16年5月4日付の神奈川県新聞(神奈川新聞)が一番詳しいと思われます。

それによれば

戸田史郎
本名 笠川四郎
四十五歳(註:近江二郎と5歳違いで、おそらく明治30年か31年生まれ)
中区井土ヶ谷町近江洋服店主人(註:当時はまだ南区が分区していなかったので「中区」)
近江二郎の実弟なり

ということです。

昭和16年5月4日付神奈川県新聞より

井土ヶ谷で「近江洋服店」の主人をしていたということなので、この店の所在地を古い地図などで調べていますが、残念ながらまだ見つかっていません(※同じ出典によれば、近江二郎は「井土ヶ谷中町に自宅あり」とあります。なお、日吉良太郎も同じ「井土ヶ谷中町」に住んでいました)。

また、アメリカ巡業の役者の中に「戸田史郎」がいる一方で、アメリカ渡航の際の秩父丸船客名簿の中には「戸田史郎」も「笠川四郎」も記載がありません。ただ横浜から乗船した三等船客の中に「近江資郎(?)」という名前があるので、これが戸田史郎と同一人物だと考えていいでしょう。

1930(昭和5)年10月31日付邦字新聞「日米」より

近江二郎の本名は「笠川次郎」ですから、昭和16年の新聞記事で戸田史郎の本名を「笠川四郎」としているのは合理的な気がします。もしかしたら戸田史郎とは別の芸名として「近江資郎」を使っていたのかもしれません。

近江二郎の妻は、同じ一座で女優をしていた深山百合子(本名は笠川ヒデ)で、娘は衣川素子。それぞれ戸田史郎の義姉、姪にあたるわけです。

また、以前に近江二郎がアメリカで違法な狩猟をして捕まったという話を投稿しましたが、その新聞記事の中には、令弟「近江藤吾」という人が語っている話が出てくるほか、渡航前の邦字新聞には

「ボーク街で洋服クリーニング業を営む近江兄弟は近江二郎丈の肉親の兄弟に当る」

の記述もあり、近江二郎自身、渡米直後のインタビューで

「兄弟が二人も永年お世話になっている在留邦人の方々へお礼心で一生懸命にやる」

と述べていることからも、渡米以前からアメリカに住んで仕事をしていた兄弟がいたこともわかります。

なお、ここで書かれている「兄弟」と同一人物かどうかは不明ですが、近江二郎が帰国した後の邦字新聞には慰問演芸会のような催しの出演者の中に「近江兄弟」(近江雪夫と近江文衛)の名前が出てきます。芝居や落語をやっていますから、近江二郎の兄弟と考えてもおかしくはありませんね。

(もっとも、兄弟がみな「近江」姓を名乗っているので、いくつかの資料で近江二郎の本名としている「笠川」姓は何なのだろう、という疑問も浮かびます)


ところで、近江一座に関して僕が調べた中で一番古い記録は、「浜松市史」に掲載されている、1917(大正6)年、浜松歌舞伎座での上演記録です。

また、一番新しいものは1959(昭和34)年秋、福井県武生市(現在は越前市)で行われた「たけふ菊人形」での公演記録です。

近江二郎は1892(明治25)年生まれですから、この時は67歳くらいでしょうか。戸田史郎がいつまで役者を続けていたのかははっきりしませんが、少なくとも兄の近江二郎は還暦を過ぎても舞台に立っていたようです。

戦後もずっと井土ヶ谷の自宅から旅公演に出ていたのかどうか、そのあたりもまだ調べが及んでいません。ですが、少なくとも戦後しばらくは、近江二郎やその関係者が井土ヶ谷や弘明寺あたりに住んでいたものと思われますから、地域文化・地域史を考える上でも、事実関係を洗い直してみる必要がありそうです。


そんなこんなで、今回は近江二郎の実弟、戸田史郎についてまとめてみました。


お願い:冒頭に書いた通り、(56)の投稿 でコメントをいただきましたが、その後、直接の連絡ができていません。もしコンタクトをしていただいているようでしたら、何らかの原因でこちらに届いていないようです。申し訳ありませんが、このブログの問い合わせフォームからお知らせください。よろしくお願いいたします。


→つづく

〔番外〕情報をお待ちしています

大高よし男やその周辺の調査は、当地(横浜)の図書館などで得られる情報はほぼ調べ尽くしてきた感があります。

大高が杉田劇場の舞台に立ったのは、昭和21年春から夏すぎまでの活動期間ですから、実際に彼の舞台を見た方もかなり高齢になっているはずです。

大高や彼の周辺について、何かご存じのことがありましたら、ぜひ、下記の問い合わせフォームからお知らせください。

問い合わせフォーム→ https://findyoshio.blogspot.com/p/blog-page.html

現在、杉田劇場(磯子区民文化センター)のスタッフの方々とも連携しながら、旧杉田劇場の全貌を明らかにすべく、調査を進めています。

よろしくお願いいたします。

(59) オール横浜芸能コンクール

大高よし男は昭和15年3月から、横浜敷島座で近江二郎一座の舞台に立っていたことがわかっています。それ以前の大高の消息を知るには、昭和14年と昭和15年1月と2月の近江二郎一座の動向を確認することが第一歩で、目下最大の課題ですが、これがなかなか判明せずに苦慮しています。

地方巡業を続けていたのか、都市部でも広告など出さないくらいの場末の劇場で公演していたのか、はたまた近江自身が徴兵されて戦地にいたのか。手がかりがないので、調べようがないというのが現実です。


そんなこんなで、大高調査もすっかり停滞しています。とはいえ少しでも前進をと、大高没後の昭和21年10月以降の暁第一劇団(暁劇団)の動きなどから、逆算的に大高よし男の正体に迫ることができないだろうか考えているところです。

というわけで、手始めに昭和21年10月と11月の新聞記事を調べてみました。

その結果、広告からは目新しいものは見つかりませんでしたが、記事の中に新たな手がかりになるかもしれない情報を得ることができたのです。


さて、昭和21年秋の横浜で、新聞の文化芸能欄を賑わしていたのが「オール横浜総合芸能コンクール」です。

戦後の復興にあたって、建物の再建やインフラの整備など物的な復興にあわせて、人心の復興を期したということでしょうか、この年の11月に「オール横浜総合芸能コンクール」というイベントが開催されました。名前は大仰ながら、乱暴に要約してしまえば、素人演芸コンテストみたいなものです。

戦後民主的な新規事業のようにも見えますが、戦時中も末期になるとプロの芸能人ではなく、地元のアマチュアが芸を披露する慰問公演が頻繁に行われるようになっていましたから、それが底流にあってのコンクールにも思えます。実際、「オール横浜」に出演していた人の中には、戦時中の素人演芸慰問会に出演していた人の名前もみられるのです。

このコンクールは娯楽の少なかった時代背景もあってか、大盛況だったようですが、何よりもこれが歴史に刻まれているのは、「加藤和枝」のちの美空ひばりが出場していたからです(杉田劇場のブログに記載があります)。すでにこの年の3月には杉田劇場で舞台デビューを果たしていますから、コンクールはさらなる高みを目指してのチャレンジという意味合いなのでしょうね。


このコンクールは、音楽・舞踊・歌謡曲・演芸・演劇の5部門に分かれていて、それぞれの部門での予選会を経て、昭和21年11月23日から25日にかけて、横浜公園にあった野外音楽堂で本選が行われました。

1946(昭和21)年10月24日付神奈川新聞より

各部門とも深掘りすれば興味深いネタが出てきそうですが、ひとまずこの項で検証したいのは演劇部門です。

演劇の予選は11月1日と2日、桜木町のサクラポート(紅葉閣)という会場で行われました(サクラポートは「中区花咲町4-111」にあったキャバレーです:こちらのブログを参照してください)。

その参加団体は以下の通り。

1日目

  • ひらがな座『脚本朗読 大尉の娘』
  • 横浜貯金支局・そろばん座『父帰る』
  • 三村利雄『柿の種物語』
  • 堀口町内会『貞操』
  • 横浜高工演劇部『吃又の死』
  • 東洋電機演劇部・青春劇団『弁天■■時雨』
  • 安立電気青年会演劇研究部『故郷の声』
  • いくしろ文化クラブ『脚本朗読 沈丁花』
  • 根本茂『脚本朗読 修善寺物語』
  • 日本自動車工業演劇部『流れ星』

2日目

  • 杉田町青年団演劇部『名人長次』
  • 杉田町青年団演劇部『国定忠治』『車夫の代診』
  • オリオン劇団『名月赤城山』『沈丁花』
  • 青年会演劇部『暗黒の人生』
  • 青年団演劇部『兄弟』
  • 戦災者同盟本部『太陽』
  • 坊ちゃん劇団『裏町人生』
  • 東京急行横浜支社演芸部『兄と妹』『■ふ清水港』
  • 狭間徳義『婿■人』『二人はかくして』
  • 勅使河原道夫『脚本朗読 狂女』

そして、本選に出場したのは

  • いくしろ文化クラブ『脚本朗読 沈丁花』
  • 東京急行横浜支社演芸部『兄と妹』
  • 戦災者同盟本部『太陽』
  • 杉田町青年団演劇部『名人長次』
  • 横浜貯金支局・そろばん座『父帰る』
  • 安立電気青年会演劇研究部『故郷の声』

の6団体でした(職場演劇や地域の青年団など、顔ぶれが多彩で時代を感じさせます)。

また、予選の審査員のメンバーは以下の通りでした。

いま思うと、素人のコンクールにしては審査員が豪華なのと、演劇のジャンルに偏りが出ないよう、新劇と商業演劇から1名ずつ選定しているところも、フェアな感じがして面白いところです。


さて、この参加団体の中で気になるのは「杉田町青年団演劇部」です。

実は彼らはコンクールに先立って、9月16日に「戦災者引揚者慰問演芸大会」と称する公演を杉田劇場で行なっています。

1946(昭和21)年9月16日付神奈川新聞より

この時の演目は、コンクールと同じ『車夫の代診』『国定忠治・御存じ山形屋』『名人長治(長次)』ですから、もしかしたら、慰問演芸大会というのは建前で、コンクールのリハーサル的な意味合いがあったのかもしれません。

そんな事前準備の成果もあったのでしょうか、コンクール予選での評価はとても高かったそうです。

予選会での杉田町青年団の劇評が新聞に載っていましたので、少し長文ですが引用します。

“『忠治山形屋の場』は、玄人はだしのうまい芝居だつたそうである。審査會議のときも、うまい芝居だといふことに異議はなかつた。しかしこれが入選しなかつたのは、演技をした人たちが『名人長次』と重複してゐたからであつた。おなじ劇團が二つの劇をやることを避けさせた今度の豫選の建前から、これは惜しくも落ちたのである。しかし股旅ものでは、断然群を抜いてゐたことに異論はないのだから、この劇團のうまさは、實質的には高く買はれたといへる”

本選では1団体1演目の制限があったのでしょうか、どうやらそのためにこちらの演目は選ばれず、もう一本の『名人長次』が本選へ進みます。

その『名人長次』の劇評も載っていますが、実はここにかなり気になることが書かれているのです。

引用します。

“『名人長次』は豫選二日目の最大収穫だつた。この芝居は、川口松太郎の原作だが、新生新派のレコードテキストを台本にして、よくこれまでにやつたとおもふ。大高■■君の演出力に先ず■服する。■田■■(※註:横田幸蔵)君の長次もよかつたし、久保■四郎君の清兵衛、川原力松君のお柳、北■重子君のお島、みなよかつた。すこし難をいへば、長次は最初から、一本調子の熱のいれ方だつたが、後半を生かすために、前半はもつと落着いてやつたらいゝ。お島には、もう少し色気がほしかつた。清兵衛が長次の腕の疵を見るあたりからのせりふは、かんじんなのだから複雑な調子が必要だとおもふ。最終の場面で、死んだ筈のお柳が、現はれる瞬間、一同ハツと驚くところ、いかにも弱かつたのが残念だった。
この芝居も、『忠治山形屋の場』も、あまりうますぎてゐて悪くすると、商賣化するおそれがないかと村山氏も、進藤氏も心配してゐた。” 

1946(昭和21)年11月21日付神奈川新聞より

ここに書かれている演出担当の「大高■■君」とは一体誰なのか。

大高よし男はこの予選の1ヶ月前に事故死していますから、当人が現場で演出したということはあり得ません。しかし(印字が不鮮明なのがもどかしいところですが)この作品の演出者が「大高」であることは間違いなさそうです。「杉田町青年団」に「大高」とくれば、大高よし男が何らかの形で関わっていたと考えるのが妥当です。

前述の9月公演の段階では、大高はまだ存命です。とすると、考えられる可能性は

  1. 9月公演を大高が演出(演技指導)していて、コンクールでも敬意を表して大高を演出とした
  2. 大高に弟子入りしていた誰かが大高の姓をもらって芸名としていた
  3. 大高の子息など関係者が青年団に所属していた
  4. 実は大高は生きていたが、事故で負傷して役者を廃業した

です。

さすがに4番目は荒唐無稽にしても、残りの3つはどれもあり得る話です。

大高よし男は杉田劇場の専属劇団の座長です。地元の青年団が作った演劇部を指導していたとしてもおかしくありません。また、大高本人ではなくても、誰かが大高に弟子入りして演出を習っていたかもしれません。

3番目に挙げた可能性として、仮に子息なり親族が青年団に所属していたとすると、大高は杉田在住で、大高姓は本名ということになります。

新聞記事の小さな記載から、妄想がどんどんふくらんでいきます。

オール横浜芸能コンクールに参加した杉田町青年団演劇部の詳細はさらなる調査が必要です。もしかしたらここから大高につながるヒントが出てくるかもしれません。


→つづく


追記:

大高とは関係ありませんが、このコンクールの演芸部門の予選参加者に興味深い名前を見つけました。

  • 「山本幸栄、物真似」
  • 「山本幸栄、物語六個のにぎりめし」

1946(昭和21)年10月31日付神奈川新聞より

です。山本幸栄さんといえば、葡萄座の(たぶん二代目の)座長です。

意外なところで意外な名前に出会いました。

(58) 没後二年目の追善興行

 大高よし男は昭和21年10月1日の夜、旅公演に向かう途中の長野県西筑摩郡大桑村須原で、乗っていたトラックが横転して崖下に転落し、下敷きとなって圧死してしまいます。


大高の追善興行は、前回も書いたように元映画スターの中野かほるが参加したものも含め、その年に何度か行われていますが、別件を調べているうちに没後2年目にも追善興行が開催されていたことがわかりました(三回忌追善ということなのかな)。

昭和23年9月22日から24日まで、「暁劇団」の名前で公演が行われています。

1948(昭和23)年9月21日付神奈川新聞より

1948(昭和23)年9月22日付神奈川新聞より

最初の広告には「故大坂ヨシ男追善興行」とあります。が、これは明らかに「大高」の誤植です。翌日の三行広告ではちゃんと「大高ヨシ男」となっています。

没後2年経っても追善興行が行われるというのは、それだけ大高の人気が高かったという証しでもありますが、逆にいうと2年経ってもまだ大高の人気に頼らなければならなかった杉田劇場側の事情があったのかもしれません。この頃からすで経営は厳しかったのでしょう。


ところで、広告の中で「特別出演」として名前の出ている「藤村正夫」はかつて日吉良太郎一座に所属していた人で、横浜にもゆかりのある役者です。大高没後の暁劇団は、その後、藤村を座長に迎えて「新生暁劇団」となります。
※大高調査は生前の活動履歴をあたっているので、戦後の残された劇団については調査が足りていませんが、こうした追善興行も散見されるので、没後の調査も順次進めていきたいと思います。

その藤村正夫の名前をネットで調べていたら、「テレビドラマデータベース」というサイトがヒットしました。

これは1959(昭和34)年、梅田コマスタジアムにおける「大江美智子一座」の舞台を中継したもののデータで、藤村正夫のほかに「双見浦子」が出ていることが注目点です。

双見浦子は「二見浦子」と同一人物だと思われますが、前名を石川静枝といい、戦前から活躍していた女剣劇の役者です。大高よし男とはかつて伏見澄子一座の舞台で共演している人で、戦後は大江美智子一座の助演としても長く活動していたようです。

ここに藤村と双見の名前があるわけですから、もし大高が生きていたら、人気と実力からして、彼もこの舞台に助演として参加していた可能性は十分に考えられます。

そう思うと、なかなか切ない思いにも駆られてきます。

大高の死は僕らが考えている以上に、演劇界(芸能界)にとっては大きな喪失だったのかもしれません。


→つづく


(57) 名古屋の大高よし男

大高よし男の足跡をたどる際に最もデータの充実した資料が『近代歌舞伎年表』です。

このシリーズはこれまでに「大阪篇」「京都篇」「名古屋篇」が出ているようですが、僕が大高の名前を書籍の中で最初に見つけたのがこの『年表』の「京都篇」なのです。

今夏、「名古屋篇」の最新刊(第17巻)が出版されるということで、とても楽しみにしていました。この巻は昭和14年から22年までの9年間の、名古屋での舞台興行をほぼ網羅したもので、近江二郎一座に参加する前の大高(前名の高杉弥太郎)がどのようにして近江一座と出会うのか、その時期やキッカケを探る上で重要な情報だと考えていたからです。


高杉弥太郎の名前の登場は、僕の調べた範疇では、昭和15年3月、横浜敷島座における近江一座の俳優一覧を掲載した「横浜貿易新報」の記事が最初です。

つまりその前年、昭和14年の高杉弥太郎の動向がわかれば、近江一座との関係が見えてくるかもしれないと考えているわけです。


近江二郎が昭和15年に敷島座に来た際には、かなり久しぶりの来浜だったそうなので、仮に大高(高杉)がそれ以前から近江一座に関わっていたとしたら、横浜の情報の中に高杉が出てくることはないはずです。

実際、昭和13年の伏見澄子一座には参加していませんし、昭和14年の横浜の新聞広告にも高杉弥太郎の名前を見出すことはできません。

また、上記『年表』の「京都篇」を調べても、昭和14年以前に大高の名前が見られないことから、残された可能性は(大都市に限るならば)「名古屋」か「東京」となるわけです。

「東京」については今のところ『都新聞』を頼りにしていますが、昭和14年の1月から3月くらいまでの間に、近江一座や大高の名前を東京の劇場に出演する面々の中に見つけることはできませんでした。


で、名古屋。


最新刊ということもあって、なかなか図書館に収蔵されないというもどかしさがあったものの、これが「横浜市立大学学術情報センター」というところにあったばかりか、このセンターには「市民利用制度」というものがあるということを知って、さっそく行ってきました。

市大生の利用が基本であることと、市民にはあまり知られていないこともあってか、土曜の午後のセンターはとても静かで、落ち着いた調査ができました。

その結果、書籍としては「京都篇」にしか見られなかった「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前をこの「名古屋篇」にも見つけることができたのです!

ただ、やはり昭和14年には名古屋での近江一座の興行はまったくなかったようで、その他の劇団の情報の中にも、大高ないし高杉の名前は見られませんでした。つまり、「名古屋篇」でも大高と近江一座の関係を明らかにすることはできなかったわけです。


「名古屋篇」に掲載されていた大高(高杉)の情報は年代順に以下の通りです。


(1)昭和15年7月8日〜 名古屋・歌舞伎座「剣戟・現代劇合同一座 二の替わり興行」

この興行は近江二郎一座、酒井淳之助一座、川上好子一座による合同公演で、演目は『元禄女大名』『新四谷怪談』『青春の叫び』『蝙蝠』です。このうち、『新四谷怪談』『青春の叫び』は近江一座の他の興行でも見られるものなので、近江のレパートリーと考えられます。

この興行の情報に「高杉弥太郎」の名前が出てくるのです(典拠は「名古屋新聞」広告)。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

昭和15年3月から6月まで、近江二郎一座は横浜敷島座で興行を続けていたので、これはその座組が名古屋に移動したものと考えていいでしょう。

以前から推測していた通り、この時期の大高(高杉)が近江一座の興行にずっと帯同していたことは間違いなさそうです。



(2)昭和17年7月4日〜 名古屋・歌舞伎座「映画人の実演 8協団 海江田譲二一座 お目見得狂言」

この興行は以前にも「大高、映画スターと共演!」の項で書きましたが、同年6月下旬から始まった川崎大勝座での興行と同じ座組が、そっくりそのまま名古屋に移動した形のようです。川崎での興行が短期間であるのに対して、名古屋はこの後、ほぼ1か月の興行が続くので、もしかしたら川崎は試演的な舞台で、名古屋が本命だったのかもしれません(ちなみに大高は昭和17年正月に「高杉弥太郎」から「大高よし男」へと改名しています)。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

前にも書いた通り、ここで重要なのは「中野かほる」との共演です。中野かほるは戦前の美人女優ですが、引き抜きやら移籍やらのゴタゴタなどもあってか、映画女優としては完全に花開くまで至らず、その後は舞台出演や映画での助演的な出演などを経て、戦後、1962年頃に引退することとなります(『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)より)

既報の通り、この中野かほるが大高よし男の死後、旧杉田劇場で行われた追善興行に出演しているのです。

1946(昭和21)年10月22日付神奈川新聞より

終戦直後はイマドキの言葉でいう「あの人はいま」に近い状態だったのかもしれませんが、1912年生まれですから終戦時は33歳。まだまだ若い女優で、人々の記憶にもあったはずです。ゲストとはいえ、追善興行に参加するというのは、それなりの思いがあったからではないかと推測しています。

大高よし男と中野かほるの関係も、少し探ってみたいところです。

この情報の典拠は「新愛知」の広告と「名古屋新聞」の広告だそうです。川崎での興行の広告では読み取れなかった団体名「8協団」もこれではっきりしました。

ちなみにこの興行は映画スターが出演するせいか、二の替り・三の替りも新聞広告が出ていたようで、7月12日〜、7月22日〜のそれぞれの広告にも「大高よし男」の名前が出ています。スターであった「海江田譲二」「大内弘」「中野かほる」と同列ですから、この頃すでに、大高はそれなりの知名度があったと思われます。


(3)昭和17年12月31日〜 宝生座「初春興行 伏見澄子一座・河合菊三郎一座」

この興行もすでに情報のある伏見澄子一座への助演(特別出演)の名古屋版ということになります。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

大高よし男は昭和17年の1月からは、ずっと伏見澄子一座に参加していたようです(6月と7月だけは上記の海江田譲二一座に参加)。

伏見一座とともに、東京(浅草)、大阪、横浜、名古屋と、長期にわたってほぼ休むことなく旅興行をしていたことが記録からわかります。

昭和18年5月の京都・三友劇場での伏見澄子一座への参加という情報を最後に大高の消息はわからなくなりますから、戦前・戦中の大高にとって、この伏見一座との共演の時期が最も人気があり、脂が乗っていたと言っていいのかもしれません。

この情報でも伏見澄子一座のベテラン剣戟俳優「宮崎角兵衛」と並列で名前が載っていますから、やはり大高の実力の程がわかるというものです。

典拠は「中部日本新聞」の広告です。


というわけで、『近代歌舞伎年表』名古屋篇からは、大高のプロフィールがわかるような追加の新情報は見つかりませんでしたが、各地で行っていた舞台の多くは名古屋でも行われていたことがわかったし、さらにいえば、各地で共演する俳優たち(たとえば松園桃子や三桝清、二見浦子など)が、大高と同時期に名古屋の別の座組で舞台に立っている例も少なくなく、大高にとって名古屋は次のチャンスを掴む「ハブ」のような地だったのかもしれないということがわかってきました。

大高に限らず、名古屋は彼らの所属していた籠寅興行部が全国での興行を見据えて、座組を考える実験的な地だったのかもしれません。


この先は引き続き、昭和14年以前の大高よし男(高杉弥太郎)の調査になります。

『都新聞』で浅草の状況を調べたあとは、広島・福岡など、これまで着手していなかった新たな興行地の情報を調べたいと思います。

大高の実像は、まだ見えない。


→つづく


(56) 近江二郎、アメリカで映画を撮る

以前にも軽く触れたように、アメリカ巡業を好評のうちに続けていた近江二郎は、渡米から2ヶ月弱という時期にハリウッドで映画を撮影しています。このことは日本の新聞にも記事として掲載されていますが、ハワイの邦字新聞にもう少し詳しい内容が書かれています。

1931年3月1日付「日布時事」より

この記事そのものが、池内萍緑(いけうちひょうろく)という人の発言に基づいているので、真偽がはっきりしないところもありますが、ともかく記事には近江二郎が渡米中に2本の映画を撮ったと書かれているのです。


さて、この池内萍緑ですが、近江一座の渡米時から新聞に名前が出ていた人で、最初は興行師かと思っていましたが、調べてみると元々は新聞記者だそう。文士とされる時期もありつつ、浅草で役者もやっていたという、いまどきの言葉で「マルチ文化人」とでも言うのでしょうか、ちょっと変わった人です。

大正時代に自身の起こした心中事件を題材とする『情死するまで』という小説が評判になったようですが、どちらかというと遊び人でスキャンダラスな放蕩文士という印象です。久保田万太郎吉井勇といった文人とも親しく交友していましたが、そんな行状や性癖(?)のせいでしょうか、当時もその後もあまり評判のいい人ではなかったようです。

前述の通り、池内は浅草で「曾我廼家五九郎一座」の舞台に立ったこともあるし、役者の上山草人らとも交流があったので、映画や舞台とは関係が深い人だったのでしょう。その関係もあって近江一座とともに渡米したのではないかと想像されます。


さて、この新聞によると、近江二郎は1930年12月22日、サンフランシスコの「レーキマセド」(Lake Marced:マーセド湖)で映画を撮ったそうです(記事では実際の撮影地が「オーションビーチ」と書いてあります。おそらくマーセド湖近くの「オーシャンビーチ」ではないかと思われます)。

これは池内の『阿修羅剣』という原作を近江二郎が(一夜漬けで)脚色した短編剣劇映画だそうで、無声・トーキーの二種類を撮影したとのことです。短編(記事では「単編」)なので、撮影は一日で終わったのかもしれません。

この映画は公開されると大評判となったとかで、それに気をよくした近江が、アメリカでの稼ぎを注ぎ込み、100人もの白人エキストラを使って、『光は東方より』という白人向け剣劇映画(トーキー:新聞には「一大發聲映畫」と書かれています)を撮ったのだとか。

白人向け剣劇映画というのがどんなものなのか想像もつきませんが、ハリウッドのテックアート社のスタジオで撮影したとありますから、それなりの時間をかけた長編映画だったのでしょう。芝居興行の合間を縫っての撮影は正月いっぱいには終わり、この記事が出た3月1日頃には「カツティング」(編集のことか)が行われていたようです。

なお、記事にはこの映画の原作は池内萍緑、監督が南部邦彦青山雪雄、撮影がジョゼフ・ラッカーと書かれています。これは以前の投稿にあった情報と同じものです。

この映画については、池内がちょっと「盛って」話したという可能性も否定できません。ただ、これだけ詳細だと真実味がありますし、同じ時期の日本の新聞には近江自身の話として『光は東方より』のことが語られているので、彼が映画を撮ったことは間違いなさそうです。

1931(昭和6)年2月18日付読売新聞より

(前にも書きましたが、古いアメリカ映画のことは詳しくないので、この両作品が実際に公開されたのか、またフィルムなどが残っているのかどうかなどまったくわかりません。何かご存知の方がいたらぜひ教えてください)


この記事にはもうひとつ興味深い記載があります。

それは喜劇王チャップリンと、当時、新聞王と呼ばれたハースト(映画『市民ケーン』のモデルとされる)が近江一座の舞台を見て、とても感動していたということと、チャップリン邸で近江一座が大佛次郎原作の『赤穂浪士』を上演する予定だったのが、チャップリンが急遽、渡欧することとなったために中止となったことです。

チャップリンが実際に近江一座の舞台を見たのかどうか、いまのところその裏付けはありませんし、やはり池内が「盛って」いた可能性も残っているので、真偽は定かではありません。しかし、先行していた遠山満一座のことはチャップリンが評価していたので、近江一座に関心があったとしても不思議ではありません。また、チャップリンが1931年の初めに休暇をとってヨーロッパを訪れたのは事実なので、近江一座の上演が中止になった話もあり得ない話ではありません。

ちなみに、この時のチャップリンの旅は16ヶ月に及んだそうで、ヨーロッパからシンガポールなどを経て1932年5月には日本にもやってきます。その際、五・一五事件になかば巻き込まれるような形になったのはよく知られた話です。

それにしても、チャップリン来日の1年以上前に彼と近江との出会いがあったかと思うと、ちょっと不思議な感じがしますし、チャップリンの来日の時にはすでに帰国して各地で興行を続けていた近江が、どんな思いでその報に接していたのかも興味深いところです。

余談ですが、同じくすでに帰国していた遠山満は、チャップリンが離日した後の1932(昭和7)年7月、名古屋の歌舞伎座で、一座公演の幕間に「チャツプリンの帰米真相暴露」(遠山満の毒舌)という演し物をやっています(『近代歌舞伎年表 名古屋篇』第十六巻より)。これがどんなものなのかはよくわかりません。世話になった喜劇王に関してどんな「毒舌」を吐いたのか、ちょっと不思議な感じもしますが、いずれにしてもチャップリンと遠山が近い関係にあったことは、日本の人たちには周知の事実だったようで、それがこういう演目を可能にしたのでしょうね。


そんなこんなで、今回は近江一座のアメリカ巡業についての最終回。彼の撮ったという映画について考察してみましたが、近江のアメリカ滞在には世界史や日本史にもつながるようなさまざまな出来事が付随していて、とても驚かされます。

剣劇一座の巡業から見る世界史というのは、重要な研究テーマになるのかもしれません。


さて、1931(昭和6)年7月、近江二郎は帰国します。大高よし男が横浜敷島座の近江一座に名を連ねるのはそれから9年後です。

この9年間のどこかで、大高よし男は近江二郎と出会うはずなのです。

その出会いの時期を特定するのが次のステップです。

果たして大高よし男の新たな足跡は見つかるのか。


→つづく


(55) 近江二郎、捕まる

このブログは謎の俳優「大高よし男」を調査するのが目的ですが、大高関係の資料が底をつきつつあるのもあって、このところ近江二郎ネタが続いてしまっています。

そろそろ本流に戻らないといけませんね。

とはいえ、アメリカの近江一座には興味深い話が多いので、今回を含め、あと2回ほど続けてみたいと思います。


1930(昭和5)年10月30日にアメリカに到着した近江一座はすぐに興行をスタートさせ、11月1日にはサンフランシスコの「暁星ホール」という劇場で初日をあけます。渡航から2日後で本番というのは大変だったろうなと感じてしまいますが、船旅なので時差ボケのようなものがなかったでしょうし、船の中で稽古などもできたのかもしれません。

その後は当たり前のように連日の舞台が続きます。

近江一座の巡業はカリフォルニア州の諸都市を巡るもので、各都市の日系社会が歓迎したのだと想像されますが、いずれにしても各地で大好評を博します。1ヶ月後には「一萬圓」(現在のお金で約2,500万円)を日本に送金するほどだったというのは前回の投稿に書きました。

数ヶ月前に先行していた「筒井徳二郎一座」はサンフランシスコではなくロサンゼルスで公演した後、すぐにニューヨークへ移動してしまうので、もしかしたらほぼ素通りされてしまったサンフランシスコやその周辺都市の日系人たちは、観劇欲が高まっていたのかもしれません。筒井一座が巡業しなかった西海岸のエリアを、近江一座が埋めていったという印象もあります。

筒井一座については、日大の田中徳一先生の著書に詳細を極めた調査がありますが、それらをまとめた本のタイトルは『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』です。

しかし「知られざる」役者は筒井だけではなく、近江二郎の活躍もすっかり忘れられてしまっているように感じます。近江一座に参加していた「大高よし男」に至っては、すっかり歴史の闇の中に消え去ってしまったような印象です。

筒井一座の欧米巡業で活躍していた「三桝清」と、近江一座に参加していた「大高よし男」は、後年、浅草で共演します。

狭い世界とはいえ、不思議な縁で結ばれているかのようです。

戦後、新設された杉田劇場に大高がやってきたのも、近江二郎のつながりがあったからと推定されますので、昭和5年の筒井一座、近江一座の渡米は、遠いところで大高の運命を動かす出来事だったのかもしれません。


さて、好評を受けた近江は、気持ちにもちょっとゆとりが出てきたのでしょうか。サンノゼで気晴らしに出かけた折に、思いがけず当局に逮捕されてしまいます。

理由は、狩猟に出かけた先でアメリカの保護鳥(シギ)を撃ったということだそう。しかも猟にに必要な鑑札(狩猟許可証のようなものか)も現地の日系人のものを借りていたというのだから、二重の罪だったそうです。

裁判にかけられ(たぶん略式の裁判でしょう)、1,000ドルの罰金で釈放されたと、現地の邦字新聞に記事があります。

1930(昭和5)年12月17日付邦字新聞「日米」より

サンディエゴで鉄砲を買って、サンノゼで鴨打ちに行ったところが、知らずに保護鳥を撃って逮捕という顛末のようです。

まったく、アメリカまで行って何をやっているんだか、とも思いますが、好評を受けての気の緩みみたいなものなのでしょうか。ちょっと人間味を感じて微笑ましくもなります。

その記事の中に、近江二郎の弟「近江藤吾」という人のコメントがあって、それによると

「兄は日本に居るときから馬乗りやハンチングがすきでした」

とあります。

前にも書きましたが、大正時代に横浜喜楽座に出演していた時、劇場へ馬に乗ってきていたというエピソードもあるくらいですから、乗馬と狩猟が近江の趣味だったことも、この「事件」からわかります。

剣劇の役者というと、ちょっと時代がかかった和風のイメージもありますが、どちらかというとモダンな人だったのかもしれませんね。

近江二郎の人となりが垣間見えるエピソードです。


→つづく


(54) 続・アメリカの近江二郎

さて、アメリカに渡った近江二郎一座は、現地で想像以上の大歓迎を受けます。

実は興行主はそれほどの歓迎を予想していたわけではなかったようです。以前にも引用した帰国直後の横浜貿易新報は、渡米当初の状況を語る近江の言葉を掲載しています。

昭和6年7月7日付 横浜貿易新報より

「昨年十月4秩父丸にて桑港に到着した時は丁度不景気風が同地に襲来して居た時であつてアチラの興行主は此不景気に斯く多數の男女優を連れて來ては困つたものだとて顔を渋めて居た」

考えてみると、近江一座の渡米した1930年といえば、1929年に始まった世界恐慌の真っ只中で、日本でも昭和恐慌と呼ばれる経済暗黒の時代。ほんの数人でやってくると思ったところが、20人以上の大所帯に興行主の顔が曇ったのもわからないではありません。

ところが蓋を開けてみると、一座の舞台は大評判で、同じ記事には

「一ヶ月の後に早くも一万圓と云ふ金を日本に送つて渡航費その他の債務を返済した」

ともありますから、興行主もさぞかしほくほくだったろうと想像できます。

そんなこともあって、おそらく本来はもっと短かったであろう渡米の期間は、好評に合わせて延長されていったのではないかと、僕は推測していますが、詳しい裏付けはとれていません。今後の調査が必要です。

結局、一座の興行は太平洋沿岸の諸都市を三巡するほどだったそうで、帰途にハワイ公演が実現したのも西海岸での成功を受けてのことだと思われます。


ところで、昭和5年の一万円がどのくらいの金額か調べてみると、当時、公務員(高等官)の初任給が75円で(『値段史年表 明治・大正・昭和 週刊朝日編』/朝日新聞社刊,1988 より)、2022年が大卒総合職で約19万円弱だそうですから(人事院『国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))』より)、約2,500倍。単純計算すると、近江二郎一座は渡米1ヶ月にして、2,500万円も日本に送金できるほど稼いだ、ということになります。

もっとも20数名を渡米させるには渡航費も相当なものだったでしょうから、その大半は返済に充てられたとしても、さらに興行が続くので近江一座の儲けもかなりなものだったはずです。

前にも引用した帰国後の読売新聞には

昭和6年7月7日付読売新聞より

「非常な人気を博し十万圓許り儲け」

ともありますから、渡米していた8ヶ月の間、コンスタントに稼ぎを上げていたのでしょう。新聞記事の通りであれば、これまた単純計算するとアメリカ公演で2億5000万円も儲けたということになります。


好評を受けて、翌年4月に再渡米する契約を結んだというのは、以前にも書きましたが、それが本当に実現したかどうかはまだ調査ができていません。

ただ、彼らの帰国から約2ヶ月後、1931(昭和6)年9月18日に満州事変が起こり、翌年3月にはリットン調査団が派遣され、1933年には日本が国際連盟から脱退するという時期に当たるわけですから、何らかの支障があったとしてもおかしくはありません。

とはいえ、この海外公演の成功を足がかりに、近江一座は浅草や名古屋あたりで剣劇の劇団として人気を博すようになり、そして、彼らがアメリカから横浜港へ戻ってきて9年後、昭和15年になってようやく横浜での興行が実現、その舞台に大高よし男(前名の高杉彌太郎)が立っていたというわけです。


→つづく


(53) 杉田劇場の開場時期など

さて、またぞろ間が空いてしまいました。

本業の繁忙期で調査も遅れがちです(スミマセン)。

というわけで、近江二郎のアメリカでの活躍については、次項にするとして、最近わかったことを2つばかり。


まずは、イマイチはっきりしていなかった(旧)杉田劇場の開場時期についてです。

かねてから何度も引用している片山茂さんの証言によれば、杉田劇場は昭和21年1月1日に開場したことになっていますが、新聞記事や広告には1月1日開場の情報が皆無で、裏付けが難しいところでした。

ですが、翌昭和22年1月1日の新聞にこんな広告が掲載されていたのです。

昭和22年1月1日付神奈川新聞より

「一週年記念興行」というのがなんとも曖昧なところですが、素直に受け取ればやはり前年の元日に開場したということでしょう。「はっきり」とまでは言えませんが、杉田劇場の昭和21年1月1日開場を裏付ける証拠(?)のひとつにはなりそうです。

記念興行ですから、本来ならば専属劇団が担うはずです。しかしその座長の大高よし男は3ヶ月前に事故で亡くなっています。そう考えると、しみじみ、大高が生きていれば、杉田劇場の命運も変わっていたかもしれない、と思わざるを得ません。

それにしても、この広告にあるように、元日から公演というのも、朝10時開場というのも、地域の劇場の大半が公立文化施設になっている現状からすると、ちょっと驚くような気がします。ですが、そもそもを考えれば、演劇や音楽は「ハレ」の日に披露されるもので、劇団側からすれば年末年始は書き入れ時といってもいいのでしょう。元日の朝から芝居をやっている方が自然な気がするのは、僕がちょっと古い人間だからでしょうか。

10時に開場した興行の、終演はだいたい夜の9時か10時だったようで、これを連日上演するのですから、バイトなどする暇もありません。この規模の劇団でも「役者」は立派な「職業」であったというのもよくわかります。


さて、もうひとつの情報は、近江二郎に関するもの。

近江二郎はアメリカ西海岸とハワイでほぼ8ヶ月にわたる興行を打ち、7月6日の「プレジデント・マッキンレー」号で横浜に帰ってきます。

翌7日付の横浜貿易新報には、近江二郎が同社を訪れて帰朝報告をしている記事がありました(近江二郎はたびたび「近江次郎」と誤記されます)。

昭和6年7月7日付横浜貿易新報より

昭和6年7月7日付横浜貿易新報より
同社を訪れた近江二郎の写真

また8月のハワイの邦字新聞には近江二郎からの礼状が転載されています。

その記事の末尾には「横濱市中區井土ヶ谷町 近江二郎拝」とあることから、この時期にはすでに近江二郎の家は井土ヶ谷にあっただろうことが推測されます。大正時代に喜楽座(現在の日活会館のあるところ)に出演していた頃も、「井土ヶ谷か、弘明寺の方から」馬に乗って劇場入りしていたそうですから、全国各地で興行していた近江二郎は、関東での拠点としてかなり早い時期から横浜に住んでいたのかもしれません(名古屋や大阪にも家があったのだと思われます)。

以前にも書いたように、近江二郎の弟である戸田史郎もまた、井土ヶ谷で「近江洋服店」という店を経営していたようで、女剣劇の大江美智子、日吉劇の日吉良太郎も含め、井土ヶ谷にはかなり多くの役者がいたわけですね。

弘明寺の取材も追加調査が必須ですが、井土ヶ谷も現地調査した方がよさそうです。


→つづく


(52) アメリカの近江二郎

さて、少し間が空きましたが、ふたたび近江二郎のこと。

近江二郎一座は、昭和5年10月17日、横浜港から客船「秩父丸」でアメリカ巡業に出発します。秩父丸は日本郵船が所有していた豪華客船で、「太平洋の女王」と呼ばれていたそうです。就航は昭和5年4月4日、一座が渡米する半年ほど前のことです。

その秩父丸は12日と9時間14分で太平洋を横断するという新記録を樹立した、いわば当時の最新鋭の客船だったと言えます。そんな船で近江二郎とその一座はアメリカへ渡ったのです。

現地の邦字新聞によると近江一座を乗せた秩父丸がサンフランシスコに入港したのは10月30日ですから、要した日数は14日。新記録とまでは行かないまでも、順調な航海だったことが想像されます。


近江一座は現地で大歓迎を受けたようで、邦字新聞には一座についてのさまざまな記事が掲載されています(いま、その精査をしているところで、あらためて報告します)。

記事の中で興味深いのは秩父丸が入港した際の乗客一覧。その中に「笠川次郎 同ヒデ」という名前が見られるのです。笠川次郎は近江二郎の本名ですから、これが近江を示していることは明らかで、「同ヒデ」とあるのは、近江の妻である深山百合子を指しているはずです。つまり彼女の本名が「笠川ヒデ」だということがここからわかるわけです(地域史などの情報提供者に「笠川ヒデ」の名前があったらすごい!)。

この二人の名前は「二等」の欄にありますから、座長夫婦は二等船室で渡米したこともわかります。

その他の座員が何等に乗っていたのかは、彼らの本名がはっきりしないので、一覧との対比ができず不明ですが、アメリカ巡業の参加した座員の中に名前のある「戸田史郎」が近江の実弟で、本名「笠川四郎」というのはわかっていますから、彼については突き合わせが可能です。しかし、新聞の船客一覧の中に「笠川四郎」の名前は見当りません。ただ、三等船客の中に「近江資郎」という名前があるので、これが戸田史郎なのかもしれませんが、正確なところは不明です。調査を続けます。

この一覧でさらに興味深いのは「笠川次郎 同ヒデ」の後に「(名古屋)」と書かれている点です。この都市名はおそらく旅券に記された本籍地か住所地を示していると思われるので、この頃の近江二郎は名古屋に本拠地を構えていたのかもしれません。事実、『近代歌舞伎年表 名古屋篇』を調べてみると、この時期の近江一座は名古屋(宝生座や帝国座)で定期的に興行を続けていたことがわかります。

(近江二郎の居住地については、大阪、名古屋、横浜とさまざまな情報があるので、これもさらに詰めていくべき対象です)


さて、新聞に掲載されている一座の公演スケジュールによれば、近江は渡米早々、11月1日にサンフランシスコで公演をスタートさせ、ほとんど休むことなく1月1日までカリフォルニア州内の各地を巡業しています。日程だけをみても、いまの感覚でいう「海外公演」というより「海外巡業」という方がふさわしいくらいのタイトなスケジュールです。のちには公演地をハワイに移して、アメリカ巡業がこのまま翌年の6月末まで続くのですから驚きです。


実はこの巡業、当初はアメリカだけでなく、ヨーロッパとロシアでの巡業も考えていたようで、出発前の日本の新聞には

「イタリーでは是非白虎隊を出してムッソリニー(ママ)に見て貰ふと意気込んでゐる」

ともあります(もっとも、実際にはアメリカ西海岸とハワイの巡業にとどまったようです)。

昭和5年10月2日付読売新聞より

ところで、以前にも書いた筒井徳二郎もそうですが、なぜ当時の大衆演劇(剣劇)の一座がアメリカ公演などできたのか、というのは常に頭をよぎる疑問です。

邦字新聞に掲載された近江のインタビューには

「遠山滿君が劍劇を率ひて渡米し引續き筒井一座が渡米した」

と書かれています。つまり、近江一座がアメリカ巡業を実現できたのは、先行した一座の影響があるとも考えられるわけです。

ここに名前の挙がっている遠山満は、近江や筒井より早く、1928年にアメリカで巡業を実現し、その公演をチャップリンが見て大変気に入ったという逸話が残っています。

チャップリンには高野虎市という日本人秘書がいたことは有名ですが、高野を通じてチャップリンは日本の映画、演劇関係者と多く面会していて、その中に遠山満一座も含まれていたということのようです。(広島県立文書館収蔵文書展『チャップリンの日本人秘書 高野虎市』より)

世界の喜劇王、チャップリンに気に入られたというのは遠山としては相当誇らしかったでしょうし、在米の興行師がチャップリンのお墨付きをもらった剣劇一座には「二匹目のドジョウ」がいると考えてもおかしくありません。

1928年遠山満、1930年春・筒井徳二郎、1930年秋・近江二郎の渡米には、そんな背景があったのかもしれません。


さて、渡米した近江二郎については日本の新聞にも少ないながら記事が残っていて、その中で、一番興味をひかれたのは、近江がハリウッドで「映画を作った」というものです(昭和6年2月18日付読売新聞)。

昭和6年2月18日付読売新聞より

その中で近江二郎は

「今年はハリウッドに腰を据ゑて一大トーキーの撮影準備にかゝることにします。此間私は獨力で白人のエキストラ百人を使つて「光は東方より」といふトーキーの小劍劇映畫を撮影しました」

と述べています。近江が計画していたという「一大トーキー」についてはかなり具体的な話になっていたようで

「キャメラはバード少将と南極探検に行つたパ社のラッカーといふ人、原作は池内萍綠氏、監督は青山雪雄君と南部邦彦君で、こゝへは久しぶりにジョーヂ桑も出演をします」

と記載されています。

バード少将というのはアメリカ海軍の士官であり探検家でもあった人で、記事にある南極探検は1929年11月28日から29日にかけて南極点の上空を飛行したというものだったそうです。

この様子は「With Byrd at the South Pole」というドキュメンタリー映画として公開され、1930年のアカデミー撮影賞を受賞しています(全編がYouTubeにアップされています→こちら)。

その撮影を担当したのがジョゼフ・ラッカーで(この人がアカデミー賞を受賞)、後には関東大震災の撮影もしているようです(記事中の「パ社」とはラッカーが所属していた「パラマウント社」のことでしょう)。

監督の青山雪雄南部邦彦はともにアメリカで活動していた俳優で、最後に名前の出る「ジョーヂ桑」も無声映画の時代にアメリカで活躍していた日本人俳優です。

僕は古い映画のことは詳しくないので、この映画が実際に撮影されたのかどうかはわかりませんし、現存しているのかもわかりません。ただ、実現していれば、当時としては錚々たるメンバーによる企画だったとはいえそうです。

(映画関係のデータベースなど調べてみても、この近江二郎の映画についてはまったく情報が出てきません。わかる人がいたら教えてください)

いずれにしても、近江二郎はアメリカで、舞台興行もさることながら、映画にも手を出すなど、多方面で積極的な活動をしていた様子がうかがえます。


約8ヶ月に及ぶアメリカ・ハワイ巡業を終えた近江一座は、昭和6年7月6日、プレジデント・マッキンレー号で帰国します。翌7日付の読売新聞には一座帰朝の記事があって、その中には

「到る處で非常な人気を博し十万圓許り儲けた」

とあり、さらには

「来年四月又一座を連れて再渡米する契約まで結んで来た」

ともあります。

昭和6年7月7日付読売新聞より

実際に再渡米したのかどうか、調査がまだ進んでいませんが、昭和7年8月には近江一座が浅草で興行している記録があるので、記事の通り4月に再びアメリカに渡ったとしても、8月には帰国しているはずですから、短期間の巡業だったと思われます。


近江一座が渡米した際の一座連名に「大高よし男(高杉彌太郎)」の名前は見られません。座員になっていないか、名前の出ない若手俳優だったのか、どちらなのかもわかりません。

新聞などをあたって、昭和13年あたりまでは調べを進めていますが、大高が近江一座に参加するのは昭和14年以降ではないかというのが、現在のところの見立てです。

いずれにしても、近江一座はアメリカ巡業を成功させた劇団として、これ以降も、新派、剣劇の劇団の中では確固たる位置を確保していたと考えて間違いはなさそうです。

役者を目指す青年(大高よし男)が、所属先として近江一座を選ぶのはそんなに不自然な流れではないと思います。

そんなこんなで、次回からは現地の邦字新聞を参照しつつ、アメリカでの近江一座の活躍ぶりをさらに詳細に書いてみたいと思います。


→つづく


(51) 弘明寺現地調査・第一弾

何度もくどいようですが、大高よし男に関する資料はとても少なくて、調査は難航しがちです。彼の姿を写した写真は見つからないし、出身地も生年月日もわかりません。

そんな中、残された資料で最大の手がかりと考えているのが、大高の葬儀参列者の集合写真です。

お寺の本堂前で撮ったと思われるこの写真、そもそもどこのお寺なのかさえわからなかったのですが、画像を拡大してみたところ、右の柱の上部にある提灯の文字が「世音」と読めたわけです。

お寺で「世音」となれば「観世音」。横浜で観世音といえば「弘明寺観音」。天平9年(西暦737年)に創建された、横浜最古のお寺です(市外の方には馴染みがないかもしれませんが「弘明寺」と書いて「ぐみょうじ」です)。

ちょっと短絡的かもしれませんが、写真は弘明寺。そう推測したのです。


弘明寺観音への参道は明治時代に整備され、「弘明寺かんのん通り商店街」として今なお賑わいを見せています。この商店街の中ほど、大岡川にかかる「観音橋」のたもとに、杉田劇場の開場から2ヶ月後、実演劇場「銀星座」がオープンしたのです(昭和21年3月23日)。

新聞広告などの記録は見つかっていませんが、この投稿で書いたように、大高よし男はこの銀星座の舞台にも立ったとされています(おそらく昭和21年5月初旬)。

大高と弘明寺には縁があるに違いない。

そんな推定(推理)のもとに、杉田劇場のスタッフ(TさんとSさん)と連れ立って、7月3日、弘明寺と弘明寺商店街の現地調査を行いました。


結論からいうと…ビンゴ!


Tさんから弘明寺のご住職に、上掲の写真をお送りしてあるそうで、最終的な確認はまだ先になりそうですが、本堂の「お守りお授け所」の方や商店街の方々にみてもらったところ、写真のお寺は弘明寺に間違いないだろうとのことでした。

(大きな前進だ!)


人気役者だった大高よし男は昭和21年10月1日、長野県南木曽での公演に向かう途中、乗っていたトラックが崖から転落し、その下敷きになって亡くなります。実にあっけない最期です。翌日には現地で火葬され、遺骨は横浜に戻ったそうです。南木曽での公演は残された座員がなんとかつとめあげたそうですが、大高不在の舞台はさぞかし寂しいものだったことでしょう。


大高の葬儀が実際にいつ執り行われたかはわかりません。写真に写っている人のうち、位牌を持った少年は大高の遺児で(おそらくその隣の少年も)、中央にいるのが一座の支配人(マネージャー)だった「大江三郎」と伝えられています。

(しかし「中央」というのがよくわからないところで、遺骨を持った人なのか、その左のメガネをかけた人なのか、はっきりしませんが、立場的なことを考えると遺骨を持っているのが大江三郎ではないかと僕は考えています。またその人の頭に見える白い帯は事故で負った怪我による包帯なのかもしれません)

位牌を持つ少年の左隣の少年の斜め後ろにいるチョビ髭の男性が、杉田劇場のオーナー、高田菊弥で、それ以外の方々については特定ができていないものの、おそらく大高の親族、一座の座員、杉田劇場の従業員ではないかと考えられます。

大江三郎をはじめ、座員たちが写っているとすると、遺骨が戻ってすぐというより、南木曽公演から座員が戻ってしばらく経ってからの葬儀と考えるのが妥当です。

南木曽からは10月3日か4日には戻ってきたはずです。また、大高一座(暁第一劇団)は10月9日から劇団新進座と合同公演を行なっていますし、10月17日から20日まで大高追善興行を行なっています。22日には元映画スター・中野かほるを迎えての追善公演もありましたので、葬儀の日程はその合間だったと考えられます。



劇団も劇場も日々稼働していますから、葬儀の日程調整はなかなか難しかったことでしょう。

以前にも書きましたが、中央の僧侶の左奥にいる女性が中野かほるではないかと想像しているので、葬儀は中野が参加した追善公演の前日、10月21日に行われたのではないかと僕は考えているところです。

(この写真で不思議なのは大高の妻が見当たらない点です。遺児がいる以上、その母親もいて然るべきで、本来ならば遺骨は夫人が持っているだろうと考えられます。すでに離婚しているか、戦争で亡くなったか、そんなことも想像されますが、これまたまったく不明です)


さて、写真が高い確率で弘明寺だろうと判断されたところで、さらなる調査を進めるべく、商店街の老舗と思われる店に取材を敢行しました(お忙しいところ急にうかがってすみませんでした)。

幸いなことに市の図書館のデジタルアーカイブに昭和30年代、弘明寺銀星座の緞帳写真が保存されています(こちら)。

それをヒントに商店街を歩いたところ、いまも営業されている店舗がいくつかあって、そのうち、緞帳写真の右から3つ目の「洋品 子供服 ほまれや(「婦人用品のほまれや」)と、4つ目の「酒商 ほまれや本店(「ほまれや酒舗」)」の方にお話を伺うことができました。

特にほまれや酒舗のご主人(二代目)からは往時の弘明寺のお話などを伺うことができて、とても貴重な機会となりました。

銀星座の開場の頃についてはさすがによくわからないとのことでしたが、「銀星座に出ていた役者で覚えているのはヤスダという人」とお話ししてくださいました。蛇を使った見世物のようなことをやっていたそうです。

その時はヤスダと言われてもピンときませんでしたが、帰路、銀星座で活動していた専属劇団「自由劇団(自由座)」には安田猛夫(猛雄)という役者がいたことを思い出しました。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より

自由劇団と見世物というのはどうもしっくりこない気もしますが、演目によってはそんなことをやっていたのかもしれません。さらなる調査が必要です。


ついでに、弘明寺の映画館のことや、剣劇の梅沢昇が開いた「梅沢劇場」のことなども聞いてきました。

梅沢劇場の周辺はいわゆる花街だったそうで、劇場には足を運んだことはないそうです。

梅沢劇場そのものも、キャバレーを改装したものでしたから、あの周辺はどちらかというと大人の街、大人の劇場で、地元の人、特に子供たちにはあまり縁がなかったのかもしれません。


アポなしで伺ったにも関わらず、親切にいろいろとお話をしてくださったことには感謝ばかりです。古い話や資料ならば商店街の事務所に行けばわかるかもしれないとのアドバイスもいただき、次回はもう少ししっかりと下調べをして伺いたいと思います。


余談ですが、ほまれや酒舗は現在三代目が経営されているそうで、初代は伊勢原の出身、愛甲石田の酒蔵で修行したのち、昭和7年に弘明寺に店を出したんだとか。初代の二人の弟さんが一緒に店を手伝っていたそうですが、やがて弟さんたちは弘明寺で独立して、ひとりが洋品店の「ほまれや」を開き、もうひとりが大岡川沿いにやはり「ほまれや」という飲み屋を開店したのだそうです(飲み屋さんは閉店されたそうです)。

ほまれや酒舗はそれだけの歴史ある老舗ですが、店の一番奥の冷蔵庫にはクラフトビールが並んでいたり、各地の地酒も豊富で、活気あるとても魅力的なお店でした(また行きます)。


大高よし男が酒豪だったのか下戸だったのか、そのあたりも分かりませんが、劇団ですから酒とは縁があったことでしょう。銀星座の舞台に立った時には、もしかしたら「ほまれや」さんで、酒を買ったりしていたのかもしれません。想像力を働かせると、現在の商店街にも大高の生きた痕跡があちらこちらに見えてくるようです。


そんなこんなで、大高よし男と弘明寺にはきっと浅からぬ縁があったはずです。

調査の突破口になると信じて、弘明寺現地調査第二弾を計画します。

ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。


→つづく


追記:弘明寺の映画館、劇場跡地をいくつか探訪しましたので写真で振り返ります

「銀星座」跡地。のちに赤い看板のあたりが映画館「有楽座」となる。


「梅沢劇場」跡地はマンション。


映画館「スバル座」跡地はドラッグストアのクリエイトなどが入るビル。

映画館「ひばり座」の跡地は長らくスーパー「ユニー」でしたが今はマンション。

(50) パンフを入手しました!

大高よし男の資料がとても少ないので難儀していましたが、ヤフオクをなんとなく検索していたら、昭和18年5月21日初日、京都新京極・三友劇場のパンフに「大高よし男」の名前を見つけました!

ドキドキしながらの初入札。

そして無事に落札。本日、手元に届きました!


(芝居のパンフなのに、似つかわしくない勇ましい言葉が並んでいるのが、戦時中を感じさせます)

この興行については、『近代歌舞伎年表 京都篇』の別巻に記録されていますが、新聞広告が典拠なので情報は限られたものになります。

実際に手に取って見てみると、前年に横浜で大高と共演した「宮崎角兵衛」の名前があったり(こちらの投稿に書きました)、第三演目『黎明新日本』では大高が殺陣をつけていたということなどもわかって、とても興味深いです。

大高よし男の横に「宮崎角兵衛」の名前が見えます

この作品では「殺陣…大高よし男」と掲載されています


これまで調べた範囲では、この公演を最後に、戦時中の大高の記録は消えてしまいます。ひょっとすると、この後、大高は召集されて戦地へ赴いたのかもしれません。

だとしたら、大高はどんな思いでこの舞台に立っていたのでしょうね。


いずれにしても、このパンフ、大高自身が見たかもしれないし、少なくとも「大高の姿を見たことのある人」が持っていたものだとは言えるでしょうから、なかなかに感慨深いものがあります。


ヤフオク、侮れません。
(出品してくださった方、ありがとうございます)


→つづく


〔番外〕Twitter始めました

大高よし男に関する情報集めに難航しつつありますが、このブログとの連携でTwitterも始めてみました。

Twitterからも情報が集まるといいなと思っています。

よろしくお願いします。

https://twitter.com/findyoshio



(49) 近江二郎のこと

ズバリ、キーマンは近江二郎。

大高よし男のことを明らかにするためには、近江二郎とその一座について詳細に調べないといけないというのが現在のところの結論です。


近江二郎のプロフィールについて、新聞・雑誌の記事からわかっていることは次のとおりです。

近江二郎(本名:笠川次郎)
明治25年広島県生まれ
大阪市生野区鶴橋南王町
(『演劇年鑑』昭和18年版より)
 
近江二郎(本名笠川二郎 五十歳)
井土ヶ谷中町に自宅あり。 
川上音二郎の門より出て大正九年横濱に初出演。後に座長と成り現在は籠寅専属。
妻は深山百合子、娘は衣川素子、実弟は戸田史郎
(昭和16年5月4日付神奈川県新聞より)

近江二郎は、大正時代から終戦後、おそらく昭和30年代くらいまで、人気の波はあれど、継続的に舞台で活躍していた人です。

剣劇スターである梅沢昇や金井修、女剣劇の大江美智子や不二洋子、また新派の花柳章太郎や伊志井寛、喜多村緑郎といった人たちに比べれば、一般の知名度は低く、もはや歴史に埋もれた人といってもいいのかもしれませんが、戦時中も休むことなく興行を続け、戦後は杉田劇場や銀星座で長らく興行しているし、当時の新聞、雑誌、書籍はもちろん、戦後に書かれた大衆演劇史などにも、頻繁に名前の出てくる人で、「激動」「激変」の連続だった大正・昭和の芸能界をよく生き残ってきたなぁ、というのが率直な感想です。


近江二郎は「近江次郎」と誤記されることも多く、資料の検索もなかなか難しいところで、上記のようなプロフィール以外の全体像は、まだよく把握できていません。

それでもこれまでわかっている範囲で彼の俳優人生を振り返ってみたいと思います。


彼の演劇人としてのスタートは、大正時代にいずれかの俳優学校に入ったことがきっかけのようです(のちにハワイ興行の際、現地の新聞に載った記事によれば、実家は医者の家系で「親から勘當まで受けて」役者の道に進んだとあります)。

「いずれかの」という曖昧な表現をしたのは、彼を「(大阪)北濱帝國座の川上音次郎(ママ)の川上俳優養成所の出身である」としている資料(武田正憲『諸国女ばなし』1930)と、藤沢浅二郎が私財を投じて作った「東京俳優養成所」の三期生であるとする資料(田中栄三『明治大正新劇史資料』1964、など)があるからです。

ただ、帝国座東京俳優養成所も、1910(明治41)年にできていること、近江二郎の出身が広島であること、さらには川上音二郎が翌1911(明治42)年に亡くなっていることを考え合わせてみると、まずは明治41年に大阪帝国座の養成所に入ったものの、翌年に音二郎が亡くなったため、川上一座の"副将"であった藤沢の主宰する東京俳優養成所に改めて入り直したのではないかと推測されます(三期生なので明治43年入所と考えられます)。

以前にも引用した近江二郎の寄稿(『新派劇の正しい道』)には「恩師川上」の文言もありますから、近江二郎自身の想いとしては芝居の師匠は川上音二郎という意識なのでしょう。入り直したはずの東京俳優養成所も明治44年には解散してしまうので、余計にその想いは強かっただろうと思われます。


さて、上掲の『明治大正新劇史資料』によれば、東京俳優養成所(東京俳優学校)が解散した後、「近江次郎(ママ)は新派の舞台へ出ることになった」とあります。

それを裏付けるように、昭和15年3月に横浜の敷島座に近江二郎一座が登場した時の新聞(横浜貿易新報)には、大正時代、近江二郎が横浜の喜楽座(いまの日活会館のところにあった劇場)に出ていた頃の話が記事になっています。

昭和15年3月2日付横浜貿易新報より

それによると、近江二郎が横浜に初登場したのは、1918(大正7)年だそうで、横浜では大人気だったとあります(同じ新聞でありながら初登場の年号が違うので精査が必要です)。

また、谷崎潤一郎の演劇上演記録には『お艶新助』を「大正九年八月三十一日より十日間」横浜喜楽座でやったという記録があって、新助を近江次郎(二郎)が演じているとありますから、大正中期には近江二郎は新派俳優として、横浜で人気を誇っていたようです。

そんな近江は大正12年2月を境に横浜から姿を消し、その後、大正15年9月に酒井淳之助、遠山満とともに「剣戟大合同」の看板を掲げて喜楽座に再登場したのだそうです。実はこの三座合同公演、同年7月に浅草で大きな話題となった舞台で、これが「剣劇」の始まりとする説もあるようです。

その説に従えば、新派で名を挙げた若手俳優、近江二郎は剣劇の創設者のひとりでもあったわけです。「剣劇」というと言葉が硬い印象ですが、要は「チャンバラ」であり、いまの時代劇につながるジャンルのことでもありますから、ちょっと大袈裟に言うと「近江二郎は時代劇の祖のひとり」なのかもしれません。

少し話が逸れますが、上掲の新聞には、横浜喜楽座で人気を誇っていた頃の近江二郎は、「井土ヶ谷か、弘明寺の方から」「馬に乗つて、悠々と、喜楽座へやつて来」たとあり、その姿は「颯爽として朗らかだつた」とあります。

当時の伊勢佐木町を馬で闊歩することがどんな印象だったのかは分かりませんが、記事を書いた人が「私は、愕いた」と書いているくらいですから、珍しいことだったのかもしれません。スターの風格すら感じさせるところです。

なお、戦時中、近江二郎は井土ヶ谷に住んでいたようですが、もしかしたらこの頃から関東地方の拠点として、井土ヶ谷あたりに居を構えていたのかもしれません。


さて、活躍を続けていた近江二郎は、以前にも書いたように、1930(昭和5)年から約8ヶ月にわたるアメリカ巡業を挙行します。新聞によれば昭和5年10月17日の秩父丸で出立したようです。

昭和5年10月2日付読売新聞より

当時のことですから横浜からの出航だったはずです。俳優としての人気と地位を確立した横浜から、初めての海外公演へ出発する近江二郎の想いはどんなものだったのでしょう。いろいろと妄想が膨らんでしまいます。

というわけで、渡米以降の活躍については、次の項で。


→つづく


(48) 生きてゐる幽霊

前回、千秋実の薔薇座についての投稿の最後に、

「薔薇座の舞台を大高が見ていた可能性もあります」

と書きました。

実は、この時の薔薇座の演目のうち『生きてゐる幽霊』を、のちに大高一座が上演しているのです。

昭和21年9月24日付神奈川新聞より

比較的よく上演されていた演目のようですし(これとかこれとか)、薔薇座の公演から半年以上も経っているので、これをもって「大高が薔薇座の公演を見た」と断言することはできませんが、あり得ない話ではないような気はします。

(ちなみに、この時は「じゃがいもコンビ」というグループが上演を担当していたようですが、これは座員・壽山司郎を中心としたコメディ担当の劇団内ユニットではないかと思っています)

 

そんなこんなで、薔薇座や旧杉田劇場についての話に脱線しすぎたので、次回からは軌道修正して大高調べに戻ります。

やはりキーマンは近江二郎。

彼と一座の活動を昭和初期から見直し、どの段階で大高よし男(高杉彌太郎)が登場するかを見極めたいと思います。


→つづく


(47) 薔薇座の謎

前回の投稿、昭和21年2月中旬に旧杉田劇場で「劇団薔薇座」が公演を行なったと書きました。そして、Wikipediaには薔薇座の結成が昭和21年5月とあって、矛盾があるとも。

その後、追加で調べてみると、昭和21年1月の新聞に新劇の新しい劇団、「白鳥座」と「薔薇座」が3月に旗揚げする、という記事を見つけました。

昭和21年1月26日付読売新聞より

5月よりは前倒しになりましたが、それでもまだ2月の杉田劇場に出演するには時期がズレています。

真相を探るべく、図書館で千秋実・佐々木踏絵共著による『わが青春の薔薇座』(リヨン社, 1989)を借りて読んでみたところ、なんとそこには、彼らが杉田劇場の舞台に立っていたことがはっきりと書かれていたのです。

ようやく謎が解けました!


著書によると、劇団薔薇座は終戦後、千秋夫妻が仲間に声をかけて、昭和21年1月に発足したそうです。実際の旗揚げ公演は5月(神田共立講堂)ですが、この頃は3月には公演をするつもりだったのかもしれません。それが新聞記事の「陽春三月に旗揚げ」になったとも推測できます。


劇団発足の1月から旗揚げ公演の5月までは、演劇論などの勉強を重ねつつ、臨時公演をいくつかやったと著書にはあります。

実はその中に杉田劇場についての記載が出てくるのです。

千秋実・佐々木踏絵『わが青春の薔薇座』より

引用すると 

「横浜杉田劇場では、金子洋文作・演出『生きている幽霊』。死んだと思った兵隊が南方の島から故郷へ帰ってくる話。伊藤貞助作『日本の河童』。阿部正雄翻案『隣聟』。これはゴーゴリの喜劇『結婚申込み』を日本の農村の話にしたもの、などをやった」(『わが青春の薔薇座』より)

演目のうち、『生きている幽霊』(『生きてゐる幽霊』)と『日本の河童』は新聞広告と同じです。

昭和21年2月16日付読売新聞神奈川版より

広告には2番目の演目として『ローズショウ』とありますが、もしかしたらこれが『隣聟』なのかもしれません。同書に「千秋と里がとんだりはねたり、客席をわかせ、舞台の袖で見ている座員たちをも抱腹絶倒させた」とあり、また杉田劇場の舞台に立ったのと同じ時期に、吉祥寺駅前の井の頭劇場で「『姫君千夜一夜』というバラエティーショー、今でいうミュージカル」をやったという記述もあるからです。

以上の事実から、杉田劇場で公演を打った「劇団薔薇座」は、千秋実主宰の「薔薇座」であると考えて間違いないでしょう。


千秋実といえば黒澤映画の常連。『七人の侍』で平八という飄々とした愛すべき浪人を演じたほか、『隠し砦の三悪人』では藤原釜足との凸凹コンビが、『スターウォーズ』のC-3POとR2-D2のキャラクタに影響しているというくらいですから、世界的な俳優と言っても過言ではありません。

また、後年、薔薇座が上演した菊田一夫の『堕胎医』が『静かなる決闘』の原作となっていることからも、黒澤明と千秋実の関係の強さを感じさせます。

そんな千秋実が旧杉田劇場の舞台に立っていたのです!


現在の杉田劇場のウェブサイトには、「旧杉田劇場に出演した主な人々」として以下の方々が挙げられています。

大高ヨシヲ
市川門三郎
五世市川新之助一座
五世市川染五郎(後の初世松本白鸚)
浅香光代
渥美清
美空ひばり
杉山正子
劇団葡萄座
浜中学校1-2期生
ほか多数

この中に千秋実が加わることになります(加えてください)。


余談ではありますが、終戦後、復員してきた三船敏郎は一時期、磯子で進駐軍関連の仕事をしていたそうです。杉田の隣町、中原に下宿していて、地元の古老の中には、杉田商店街を歩く三船の姿を見たという人もいます。

つまり、終戦後の杉田には、『七人の侍』のうちの二人がいた、ということになるわけです。

ちょっと強引ではありますが、地元の人間としては妙に誇らしい気持ちになります。


さて、新聞広告によれば、薔薇座の公演は昭和21年2月16日から5日間(20日まで)とあります。この公演期間の真っ最中、社会に大きなショックを与えた政策が実施されます。

新円切替えです(昭和21年2月17日)。

それは薔薇座の公演にもかなり影響したそうで、著書にはこうあります。

「二月の杉田劇場では、初日・二日目と満員で喜んだが、三日目、二月十七日モラトリアム発令。いわゆる新円切りかえ、預金は封鎖され、今までの金は使えなくなった。せっかく見にきたお客がすごすごと帰ってしまう」(『わが青春の薔薇座』より)

広告の公演日程と1日のズレがあって、記憶違いなのか広告の誤植なのかはっきりしませんが、いずれにしても数十年後の回顧録にも書かれるくらいですから、初日の翌日(か翌々日)に起きた「新円切替え」のインパクトがどれだけ大きかったかがわかります。

しかし夢あふれる若い役者たちです。

「普通ならがっくり落ちこむところだが、彼らは落ちこまない。宝物を抱えていたからだ」(同書)


ところで、薔薇座がどういう経緯で杉田劇場にやってきたのか、そのことについてはよくわかりません。プロデューサーの鈴村義二が薔薇座の評判をどこかで耳にしたのか。それとも千秋らが直接売り込みに行ったのか。

北海道出身の千秋実は、昭和8年、10代半ばで上京した際、横浜・本牧に住んでいた長兄宅に身を寄せたそうです。上掲書には「昭和二十年五月の大空襲で焼け出された」との記載もありますから、10年以上、ずっと横浜に住んでいたことになります。

もしかしたら、杉田あたりに知り合いがいたのかもしれませんし、劇場ができたという話を耳にする機会があったのかもしれません。

ともあれ、地元横浜の葡萄座だけでなく、千秋実のようなプロの若い演劇人にとっても、一種の「揺り籠」のような場所が、旧杉田劇場だったのでしょう。

ちょうど大高よし男が杉田にやってきた頃の話です。薔薇座の舞台を大高が見ていた可能性もあります。

そう思うと、なかなか感慨深いものがあります。

→つづく


追記:ライター・編集者の濱田研吾さんのブログに、千秋実の岳父である佐々木孝丸の弟子、嶋田親一氏への聞き書きが、とんでもない情報量で詳細に書かれています。この中には佐々木孝丸のことはもちろん、薔薇座のことも出てきますし、新国劇の話も出ます。中原生まれの映画スター、黒川弥太郎は新国劇出身で、秋月正夫が師匠だったそうです(劇団若獅子の笠原章さんから聞いた話)。杉田劇場と磯子の芸能人の後年の姿が見え隠れするようです。