さて、またぞろ間が空いてしまいました。
本業の繁忙期で調査も遅れがちです(スミマセン)。
というわけで、近江二郎のアメリカでの活躍については、次項にするとして、最近わかったことを2つばかり。
まずは、イマイチはっきりしていなかった(旧)杉田劇場の開場時期についてです。
かねてから何度も引用している片山茂さんの証言によれば、杉田劇場は昭和21年1月1日に開場したことになっていますが、新聞記事や広告には1月1日開場の情報が皆無で、裏付けが難しいところでした。
ですが、翌昭和22年1月1日の新聞にこんな広告が掲載されていたのです。
昭和22年1月1日付神奈川新聞より |
「一週年記念興行」というのがなんとも曖昧なところですが、素直に受け取ればやはり前年の元日に開場したということでしょう。「はっきり」とまでは言えませんが、杉田劇場の昭和21年1月1日開場を裏付ける証拠(?)のひとつにはなりそうです。
記念興行ですから、本来ならば専属劇団が担うはずです。しかしその座長の大高よし男は3ヶ月前に事故で亡くなっています。そう考えると、しみじみ、大高が生きていれば、杉田劇場の命運も変わっていたかもしれない、と思わざるを得ません。
それにしても、この広告にあるように、元日から公演というのも、朝10時開場というのも、地域の劇場の大半が公立文化施設になっている現状からすると、ちょっと驚くような気がします。ですが、そもそもを考えれば、演劇や音楽は「ハレ」の日に披露されるもので、劇団側からすれば年末年始は書き入れ時といってもいいのでしょう。元日の朝から芝居をやっている方が自然な気がするのは、僕がちょっと古い人間だからでしょうか。
10時に開場した興行の、終演はだいたい夜の9時か10時だったようで、これを連日上演するのですから、バイトなどする暇もありません。この規模の劇団でも「役者」は立派な「職業」であったというのもよくわかります。
さて、もうひとつの情報は、近江二郎に関するもの。
近江二郎はアメリカ西海岸とハワイでほぼ8ヶ月にわたる興行を打ち、7月6日の「プレジデント・マッキンレー」号で横浜に帰ってきます。
翌7日付の横浜貿易新報には、近江二郎が同社を訪れて帰朝報告をしている記事がありました(近江二郎はたびたび「近江次郎」と誤記されます)。
昭和6年7月7日付横浜貿易新報より |
昭和6年7月7日付横浜貿易新報より 同社を訪れた近江二郎の写真 |
また8月のハワイの邦字新聞には近江二郎からの礼状が転載されています。
その記事の末尾には「横濱市中區井土ヶ谷町 近江二郎拝」とあることから、この時期にはすでに近江二郎の家は井土ヶ谷にあっただろうことが推測されます。大正時代に喜楽座(現在の日活会館のあるところ)に出演していた頃も、「井土ヶ谷か、弘明寺の方から」馬に乗って劇場入りしていたそうですから、全国各地で興行していた近江二郎は、関東での拠点としてかなり早い時期から横浜に住んでいたのかもしれません(名古屋や大阪にも家があったのだと思われます)。
以前にも書いたように、近江二郎の弟である戸田史郎もまた、井土ヶ谷で「近江洋服店」という店を経営していたようで、女剣劇の大江美智子、日吉劇の日吉良太郎も含め、井土ヶ谷にはかなり多くの役者がいたわけですね。
弘明寺の取材も追加調査が必須ですが、井土ヶ谷も現地調査した方がよさそうです。
→つづく
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