(72) 昭和12年の近江一座

おかげさまで講座版『大高ヨシヲを探せ』(いそご文化資源発掘隊「旧杉田劇場の看板役者 大高ヨシヲの謎に迫る」)は無事に終了し、多くの方々にお越しいただきました。講座後には「続編を」との声もあり、大高ヨシヲや近江二郎に興味を持っていただけたのがとても嬉しいです。これをきっかけに新しい情報が集まってくるとさらに嬉しくなります。

ご参加いただいたみなさま、関係者のみなさま、ありがとうございました。


さて、その講座にもご参加いただいた近江二郎のご親族の方から、先日、貴重なお写真をお借りしておりましたが、無事にデータ化が完了し、写真の内容から新しい情報も得ることができました。

ありがたいのはサイン入りの写真がいくつかあったことで、役者の名前がわかるのはとても助かります。


その中からひとつ紹介すると、これは昭和12年1月3日に名古屋宝生座で撮影された近江一座の舞台写真です(裏書による)。演目は『白痴の生涯』で、この作品は近江一座で時折上演されています。



役者は右から、大山礼二郎・春日早苗・近江二郎・御園艶子・三村義彦で、一番左のサインはいまのところ判読できていません。

以下、個別に。

大山礼二郎は後年の近江一座で幹部俳優として名前が上がる「大山二郎」と同一人物かもしれませんが、これもまだはっきりわかりません。

春日早苗は近江二郎の実弟・戸田史郎(近江資朗)の夫人で、本名は近江九女子。戦後、一座が解散した後、昭和30年代の後半から磯子区中原に住み、昭和62(1987)年に亡くなっています。

近江二郎はひとまず飛ばして、次の御園艶子は新派女優として有名な人で、筒井徳二郎の欧米巡業にも同行しています。また「アノネ、オッサン、ワシャカーナワンヨ」のギャグで知られた高勢実乗の夫人でもあるのだそうです。
(近江一座がサンフランシスコで巡業を始めた昭和5年11月、御園艶子は筒井一座でプラハ、ブタペスト、ウィーンあたりの舞台に立っているそうですから、1枚の写真が急にワールドワイドになるのが不思議です)

三村義彦については詳細は分かりませんが、新聞広告にも名前の出る人で、おそらく一座の中堅・幹部俳優だったのでしょう。

一番左の判読不能のサインを「高杉彌太郎」と読めないかと目を凝らしましたが、どう見ても最後は「之輔」のようで、高杉(大高)とは異なるようです。

上記の役者は昭和9年の新聞広告に全員名前が出ていますから、昭和10年前後の近江一座の常連だったと考えていいのかもしれません。

1934(昭和9)年12月31日付讀賣新聞より

この頃の大高よし男(高杉弥太郎)がどのクラスの役者だったのかはわかりません。近江一座に参加していたのかどうかもわかりません。ここに写っているかどうかだけで判断するのは性急ですが、後の活躍を思うと若手俳優として写っていてもおかしくないと思われますから、昭和12年の段階では近江二郎一座とはまだ関わりがなかったのかもしれません。

それにしてもこの写真など、これまで目にしたことのなかった資料に接することができて、大高調査もさることながら、近江二郎一座の活動についても、別途考察が必要だと感じるところです。

大高よし男の活躍のカゲには、近江二郎がいる、というのがいまの僕の見立てです。


→つづく

【追記】その後、『近代歌舞伎年表』名古屋篇(第16巻)で、上掲写真の記録を探してみましたが、見当たりません。昭和12年1月6日からの記録はありますが、「二の替り」となっています。初春の御目見得興行は新聞広告などがなかったのでしょう。これで昭和12年の宝生座初春興行の演目が(ひとつだけですが)判明したことになります。



〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真が見つかると嬉しいです。


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