(55) 近江二郎、捕まる

このブログは謎の俳優「大高よし男」を調査するのが目的ですが、大高関係の資料が底をつきつつあるのもあって、このところ近江二郎ネタが続いてしまっています。

そろそろ本流に戻らないといけませんね。

とはいえ、アメリカの近江一座には興味深い話が多いので、今回を含め、あと2回ほど続けてみたいと思います。


1930(昭和5)年10月30日にアメリカに到着した近江一座はすぐに興行をスタートさせ、11月1日にはサンフランシスコの「暁星ホール」という劇場で初日をあけます。渡航から2日後で本番というのは大変だったろうなと感じてしまいますが、船旅なので時差ボケのようなものがなかったでしょうし、船の中で稽古などもできたのかもしれません。

その後は当たり前のように連日の舞台が続きます。

近江一座の巡業はカリフォルニア州の諸都市を巡るもので、各都市の日系社会が歓迎したのだと想像されますが、いずれにしても各地で大好評を博します。1ヶ月後には「一萬圓」(現在のお金で約2,500万円)を日本に送金するほどだったというのは前回の投稿に書きました。

数ヶ月前に先行していた「筒井徳二郎一座」はサンフランシスコではなくロサンゼルスで公演した後、すぐにニューヨークへ移動してしまうので、もしかしたらほぼ素通りされてしまったサンフランシスコやその周辺都市の日系人たちは、観劇欲が高まっていたのかもしれません。筒井一座が巡業しなかった西海岸のエリアを、近江一座が埋めていったという印象もあります。

筒井一座については、日大の田中徳一先生の著書に詳細を極めた調査がありますが、それらをまとめた本のタイトルは『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』です。

しかし「知られざる」役者は筒井だけではなく、近江二郎の活躍もすっかり忘れられてしまっているように感じます。近江一座に参加していた「大高よし男」に至っては、すっかり歴史の闇の中に消え去ってしまったような印象です。

筒井一座の欧米巡業で活躍していた「三桝清」と、近江一座に参加していた「大高よし男」は、後年、浅草で共演します。

狭い世界とはいえ、不思議な縁で結ばれているかのようです。

戦後、新設された杉田劇場に大高がやってきたのも、近江二郎のつながりがあったからと推定されますので、昭和5年の筒井一座、近江一座の渡米は、遠いところで大高の運命を動かす出来事だったのかもしれません。


さて、好評を受けた近江は、気持ちにもちょっとゆとりが出てきたのでしょうか。サンノゼで気晴らしに出かけた折に、思いがけず当局に逮捕されてしまいます。

理由は、狩猟に出かけた先でアメリカの保護鳥(シギ)を撃ったということだそう。しかも猟にに必要な鑑札(狩猟許可証のようなものか)も現地の日系人のものを借りていたというのだから、二重の罪だったそうです。

裁判にかけられ(たぶん略式の裁判でしょう)、1,000ドルの罰金で釈放されたと、現地の邦字新聞に記事があります。

1930(昭和5)年12月17日付邦字新聞「日米」より

サンディエゴで鉄砲を買って、サンノゼで鴨打ちに行ったところが、知らずに保護鳥を撃って逮捕という顛末のようです。

まったく、アメリカまで行って何をやっているんだか、とも思いますが、好評を受けての気の緩みみたいなものなのでしょうか。ちょっと人間味を感じて微笑ましくもなります。

その記事の中に、近江二郎の弟「近江謙吾」という人のコメントがあって、それによると

「兄は日本に居るときから馬乗りやハンチングがすきでした」

とあります。

前にも書きましたが、大正時代に横浜喜楽座に出演していた時、劇場へ馬に乗ってきていたというエピソードもあるくらいですから、乗馬と狩猟が近江の趣味だったことも、この「事件」からわかります。

剣劇の役者というと、ちょっと時代がかかった和風のイメージもありますが、どちらかというとモダンな人だったのかもしれませんね。

近江二郎の人となりが垣間見えるエピソードです。


→つづく


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