(40) 近江二郎のグロテスク劇場

大高よし男の前名、高杉彌太郎は、僕の調べた範囲では昭和15年3月の横浜敷島座、近江二郎一座の俳優連名の中に初めて登場します。

後年の大高よし男が、だいたいどこかの一座へ「加盟」「加入」、つまり助演的な立場で参加していることから、近江一座へも助演していただけなのだろうと想像していましたが、もしかしたら近江一座に最初から座員としていたのではないかと、最近は考えています。

なので、昭和15年より前の近江二郎一座の公演記録を探すのが近頃の課題です。

これまでにわかっている昭和初期の近江二郎の足跡は、昭和5年にアメリカ(西海岸)とハワイを巡業したことくらいでしたが、演劇博物館(早稲田大学)の演劇情報総合データベース(デジタルアーカイブ)を検索して、昭和7年8月から浅草の公園劇場で興行している記録を見つけたので、『都新聞』で情報を探ってみたところ、次の広告が見つかりました。

昭和7年8月20日付 都新聞より

上記のデータベースにあったものと同じ公演ですが、この頃の近江二郎一座は「グロテスク劇場」と称した興行を展開していたようです。実際、名古屋・大須の劇場街についての聞き書き『大須物語』(大野一英 著/中日新聞本社刊 1979)にも

"演しものは特異というか『グロの弥之助』など。一流の台本は使えなかったにせよ、この一座独自の台本をだれかに書いてもらっておるらしく、小味のあるのをやりましたね"

とあることから、一時期の近江二郎は「グロ」すなわち「グロテスク」が売りだったことが想像されます。

昭和5年の渡米の際には「グロテスク」の文字は見られず、演目も剣劇や新派がメインでしたし、昭和15年に横浜に来た時も同様です。つまり、近江二郎はアメリカ巡業から帰国してから「グロテスク劇場」なる企画を始めたのではないかというのが僕の推測です。


ここで興味深いのは、西洋における「グロテスク演劇」は1910〜1920年代に流行したものだそうで、代表的人物の一人がロシアのメイエルホリドだということ。そして、そのメイエルホリドは近江二郎と同時期にアメリカ・ヨーロッパを巡演した筒井徳二郎の舞台に影響を受けたとされていることです。

グロテスク演劇の隆盛期から数年後が、筒井徳二郎や近江二郎の海外公演の時期なので、若干のズレはありますが、近江二郎が帰国後に「グロテスク劇場」を始めたのだとすると、筒井徳二郎が影響を与えたメイエルホリドの演劇が、今度は近江二郎を通じて日本に逆輸入されていた、とも考えられるわけで、当時の世界演劇と日本の大衆演劇のつながりは、そうそう軽視できないものなんじゃないかと思えてなりません。

事実、表現主義演劇の代表的作家であるゲオルグ・カイザーの『カレーの市民』を日本で初演したのは新国劇だそうで(図録『寄らぱ斬るぞ』/早稲田大学演劇博物館より)、"大衆"演劇と称されながら、むしろ当時の新国劇や剣劇は、僕らが考える以上にかなり先進的で前衛的だったのかもしれないと感じるところです(ただし、メイエルホリドのグロテスクと近江二郎のグロテスクはかなり意味合いの違うもののようです)。

もっとも、『カレーの市民』は大変な不入りだったようですし、前掲の『大須物語』によれば、グロテスクを売りにやっていた近江二郎一座も「やがて閉座」と書かれているので、先進的な取り組みも「興行」の前に頓挫したというのが実態なのかもしれません。


さて、話を大高探しに戻せば、上記、昭和7年8月の新聞広告に掲載された、近江一座の俳優連名には「大高よし男」はもちろん「高杉彌太郎」の名前もありません(近江の妻、深山百合子や実弟、戸田史郎の名前はありますし、後に大高と共演する「宮崎憲時(角兵衛)」と同一人物と思われる「宮崎憲司」の名前もあります)。

そのころの大高が名前も載らない若手俳優だったのかもしれないし、そもそも座員ではなかったのかもしれないし、そのあたりはまったく不明ですが、いずれにしても、この昭和7年から昭和15年までの間のどこかで「高杉彌太郎」の名前が出てくるはずです。

この先の調査はそのあたりがターゲットになりそうです。


→つづく


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