大高よし男の経歴を探るにあたって、近江二郎との関係が鍵になると思っているところですが、昭和14年以前の手がかりが見つからず難航は続いています。
そんなこんなで、今回も周辺情報から。
昭和16年4月23日から神奈川県新聞で「横濱に住む俳優群を語る(横濱演劇懇話會調)」という連載が始まります。
1941(昭和16)年4月23日付神奈川県新聞より |
ここで取り上げられている俳優は以下の方々です(掲載順)。
市川団之助市川升紅石原美津男市川新升市川荒右衛門市川茂々市市川三蔵大谷門二郎澤村清之助市川莚蔦澤村訥美太郎中村芝梅市川島蔵(?)市川蔦之助市川荒子市川筆之助佐久間實澤村訥紀十郎静川君之助林重四郎北島晋也牧野映二生島波江藤代朝子岡田梅男小金井秀夫水の江城子※川上好子曾我廼家明石五月信夫静間■嵐傳五郎嵐ひろ子市川コズエ橋本梅蔵中島三浦右衛門佐藤幾之助佐藤新十郎荒井信夫尾上梅代三島啓介松井幾人松岡壽美子中川清青木俊二池田富雄市川三之助佐上善行澤村清枝大江美智子藤原かつみ伊藤三千三吾妻千恵子大江美加(?)子星十郎関谷妙子★近江二郎★深山百合子★衣川素子勝川三次★戸田史郎尾上羽多丸松本米世青柳早苗三井一枝久松勝代
この中には当時、すでに引退している俳優も含まれていますが、昭和16年の段階でこれだけの役者が横浜に住んでいたというのは驚きです(記事中に「横浜歌舞伎座の日吉劇、敷島座の籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、実態としてはもっと多くなるはずです)。
それぞれの方の経歴も演劇史的には興味深いものばかりですが、それはいずれ別にまとめるとして、やはり気になるのはこの中に「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前がないことです。
戦前、戦中、戦後と、大高がどこに住んでいたのかはまったく不明です。戦後はさすがに杉田や弘明寺あたりにいただろうとは想像できますが、それ以前については手がかりがありません。
ただ、上記の記事に彼の名前がないことからすると、大高は横浜に住んでいなかったか、少なくともこの記事をまとめた小林勝之丞を含む横濱演劇懇話會のメンバーは、大高を「横浜の俳優」とは認識していなかったのだと考えていいでしょう。近江二郎や妻・深山百合子、子・衣川素子、弟・戸田史郎が載っているのですから(★印)、大高が近江二郎のように横浜在住の役者だと思われていたとしたら、ここに載っていておかしくないはずです。
前述の通り、記事には「籠寅専属の俳優を別にして」とあるので、大高はその「別」に含まれているのかもしれませんが、籠寅がらみの役者が何人か掲載されているので、大高が掲載されていないのはちょっと不自然です。
(もっとも、この記事自体、戸田史郎の本名を「笠川四郎」としている点など(実際は「近江資朗」)、誤りも多そうなので、資料としての信憑性には若干の疑義があります)
前回の投稿でも言及しましたが、ここには「川上好子」が掲載されています(※印)。川上好子という名前は昭和10年の「復興博の女神」コンテストで7位に入選した日吉劇の女優として、また昭和15年に近江二郎一座と共演している(つまり大高と共演している)一座の座長として記録がありますが、この両者が同一人物なのかはよくわかりませんでした。
ですが、復興博の女神コンテストの翌年、昭和11年1月に横浜貿易新報に掲載された「熱と力の俳優『日吉』を語る」という座談会記事の中で
北林(透馬)「『男は泣かぬ』に出てゐる、川上好子、あれは巧いですね」小林(勝之丞)「横濱で生れた優です」
と言及されていることから、川上好子はもともと日吉一座にいたのが、独立して女剣劇の一座を成したのだと考えて間違いなさそうです。
1935(昭和10)年1月23日付横浜貿易新報より |
大高一座に参加していた生島波江も同じような経過をたどっているように思われますが、全国的な知名度の上では川上好子の方がはるかに上だったようで、以前にも紹介した通り、木村學司『女剣戟脚本集』(昭和15年発行)に人気の女剣劇座長として写真が掲載されています。復興博の女神に入選した昭和10年から、昭和15年までの間に川上好子は日吉劇から独立したのでしょう。
昭和15年に敷島座で近江一座と共演した川上は、その後もしばらくは近江一座と行動を共にしています。大高の足跡は近江一座だけでなく、川上一座に刻まれている可能性も否定できません。その前後の川上好子の動向を調べることも、手がかりになりそうです。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
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