毎週の図書館通いも成果がなく、大高よし男の調査は完全に行き詰まっています。どこかに痕跡があってもいいはずだとは思うのですが、なかなか見つからないものです。
書くことも少なく、更新が1ヶ月以上も空いてしまいました。
ふぅ。
こういう調べ物は根気勝負なんでしょうね。
そんなこんなで、大高の周辺でもっとも成果の見込まれる近江二郎関係の調査を並行していますから、今回は近江二郎の大正時代の活動について書いてみたいと思います。
近江二郎は大正9年、大正15年、そして昭和15年、16年と、戦前の横浜には4回来ているとされています。昭和5年の渡米前に由村座でも興行しているので、掘り起こせばもう少し判明するかもしれませんが、大きな興行としては上記の4回ということになるのでしょう。
1930(昭和5)年9月1日付横浜貿易新報より |
このうち、最初の大正9年が一番長期だったようで、大正12年2月まで3年にわたって喜楽座の舞台に立っていたとのことです。
喜楽座を去る日付はかなり明確で、昭和15年3月、近江二郎一座の敷島座公演の際に掲載された横浜貿易新報の記事にはこうあります。
「近江は、横濱の人気絶頂に達したと思ふ頃、ふつと、居なくなってしまった。想へば大正十二年二月十八日である」(昭和15年3月2日付横濱貿易新報より)
当時の新聞を見ると、たしかに同年2月19日から演目が変わっているので、その前の興行を最後に近江二郎は横浜を去ったのだろうと思われます。
その後、大正15年までの間、近江二郎がどこで何をしていたのかについては、これまで未調査でよくわかっていませんでしたが、毎度の『近代歌舞伎年表』を頼りに、この頃の関西・中京地区の活動を調べ、主に名古屋での活動状況がわかってきました。
今回はそのお話。
大正12年2月28日からの名古屋歌舞伎座における「深愛民衆劇 深沢恒造一派」出演者の中に「近江次郎」という名前が出てきます(『近代歌舞伎年表』名古屋篇・第13巻より)。近江二郎はしばしば「次郎」とも書かれるので、これは同一人物と考えていいでしょう。つまり、喜楽座を去ってすぐ(10日後)に名古屋で別の座組に参加していたというわけです。
ここには「名古屋新聞」の劇評からの引用として以下のように書かれています。
「宝生座の人気者であった戸川章、東都新派劇団の花形近江二郎や、女優の村田栄子などを加へ花々しく幕を開けた」(上掲書, P47)
名古屋にやってきた近江二郎は「東都」すなわち東京の新派劇団の花形とされています。実際には横浜・喜楽座の座員として丸3年舞台に立っていたのですが、名古屋の感覚としては東京も横浜も「東都」なのでしょうか。いずれにしてもこの記事から受ける印象は、名古屋ではあまり知られていないけれど、東京では有名な人という感じです。これが近江二郎の名古屋初登場だったのかもしれません。
「深愛民衆劇」の主宰である深沢恒造(フカザワ ツネゾウ, 1873-1925)の経歴についてはどの資料でもあまり差はありませんが、出身地だけは長崎の五島生まれという説と、横浜の青木町(もしくは桐畑)生まれという説があってはっきりしません。しかし五島生まれとする資料にも「横浜に転居」とあるので、いずれにしても横浜に住んでいたことは間違いないようで、横浜商業学校(Y校)を卒業し、商館で働いたのちに演劇の道を志したようです。
神戸の相生座で初舞台を踏み、伊井蓉峰一座でも活躍したそうですが、『演劇年鑑』(1925年版)の「俳優人名録」には「大正十一年一座を組織す」とありますから、近江二郎が参加したのはこの一座ということになるのでしょうか。たいていの俳優名鑑には掲載されている人ですから、新派の役者として一家を成した人物と言えます。
『新旧俳優 素顔と身上話』(大正9年)より |
上に引用した名古屋新聞の劇評通りであれば、一座を組織した深沢が、当時横浜で人気を誇っていた若手の近江二郎を自分の一座に引き抜いたということになるのでしょう。いずれにしても、当時の近江二郎の人気と実力のほどが垣間見られるところです。
さて、この名古屋での興行は2月28日初日で、4月17日まで続きました。その後、同じ座組が4月30日からの京都・夷谷座に登場するのです(『近代歌舞伎年表』京都篇・第8巻より)。『年表』名古屋篇には名古屋での興行の後は「地方巡業の由」とありますので、これがそれに当たるのでしょう。
京都での興行は5月下旬(21日頃)まで続きますが、その後の活動はまだはっきりしません。ただ、「地方巡業」とあるからには、広島や九州など、別のエリアでの興行が続いていた可能性は高いと思われます。
なお、この京都でも新聞に近江二郎のことが書かれています。上掲『年表』には「京都日出新聞」を引用し
「深沢恒造一派は久々の出演とて絶大な人気を以て迎えられたが、一座には井上正夫一派に加入して人気を博した近江次郎や山口定雄の門弟にて声名のある戸川章等新派劇界の雄を網羅し(以下略)」(同書, P60)
と記載されています。
(『年表』の引用を追っていくと、新聞記事での近江二郎の扱いはだんだん上位になってくる感じで、名古屋に初登場した(かもしれない)彼が、舞台を重ねるごとに評判を上げていったようにも思えます)
上記引用には「井上正夫一派に加入」とありますが、大正9年に横浜喜楽座に初登場した際には、近江二郎は「新派後藤門下」と書かれていました。
1920(大正9)年1月29日付横浜貿易新報より |
以前にも書いたように、不勉強でこの「新派後藤」がよくわからないところでしたが、いろいろ調べた結果、おそらく「後藤良介」だろうと推測しているところです。
『新旧俳優 素顔と身上話』(大正9年)より |
近江二郎自身は自分の師を「川上音二郎」としています。川上音二郎の俳優学校で学んだことは明らかですが、その後、誰について舞台経験を積んだのかはわかりません。後藤良介に師事し、井上正夫の一座にも参加していたのかもしれません。大正初期の近江二郎の活動履歴がわかれば、その辺もはっきりしそうです。
しかし、ここで気になるのは、近江二郎が横浜に来た経緯として新聞に
「その頃の喜楽座支配人古河内滋人氏が、東京で若手の賣り出しで、井上正夫張りだといふ評判の近江二郎を引つこぬいてきた」(昭和15年3月2日付横浜貿易新報より)
とあることです。
井上正夫一座に参加していたのなら上記引用の「井上正夫張りだといふ評判」はちょっとおかしいような気もします。今後の調査の結果次第ですが、いずれにしても若き日の近江二郎は、新派の名だたる俳優たちと共演しながらキャリアを積んでいったということは間違いありません。
余談ながら、井上正夫は港北区日吉に「井上演劇道場」を開いたことでも知られ、また戦後、美空ひばりが出場した「オール横浜総合芸能コンクール」の審査員もしていますから、横浜や旧杉田劇場との縁も浅からぬものがある、と言えそうです。
さて、そんなこんなで、大正12年前半の近江二郎の足跡を整理すると
- 2月18日 横浜・喜楽座を去る
- 2月28日〜4月17日 名古屋・歌舞伎座(深沢恒造一派)
- 4月30日〜5月(21)日 京都・夷谷座(深沢恒造一派)
ということになります。横浜での評判を受けて、近江二郎が全国区になっていく時期がこの頃なのですね。
大正12年6月以降の活動も少しずつわかってきましたので、次項はそのおはなし。
乞うご期待。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
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