(29) 昭和16年の高杉彌太郎を探せ

近江二郎一座に帯同していたと思われる高杉彌太郎(大高よし男)は、昭和16年1月から再び横浜・敷島座に戻ってきます。前回の投稿の通り、劇評の内容からして、3月末まで敷島座の舞台に立っていたのは間違いなさそうです。

実は、その後の動きがよくわからなくなるのですが、新聞によると近江二郎一座は、4月には大阪の聚楽座(5月には名古屋の宝生座)に移るので、高杉も近江一座とともに大阪へ行ったと考えるのが妥当です。

聚楽座というのは市岡というところにあった劇場だそうで、いわゆる大衆演劇の小屋なんでしょうか。道頓堀の大劇場などに比べると少し格下なのかもしれません。ただ、横浜・敷島座や京都・三友劇場、名古屋・黄花園などとならんで、時々、新聞に名前が出るので、おそらく籠寅演芸部の関係する劇場で、主に当時の剣劇や新派の劇団が出演していた小屋なのだと思います(大阪に詳しい方、教えてください)。


そんなわけで、高杉のはっきりした情報は昭和16年3月で途絶え、次に出るのが昭和17年1月の川崎・大勝座での、伏見澄子一座への助演の告知ということになります。さらにその後は敷島座、京都三友劇場と、ずっと伏見澄子一座と一緒に行動することになるので、高杉が近江二郎一座から離れ、伏見澄子一座に移った時期の特定が次の課題です。

伏見澄子一座は昭和13年に敷島座に登場して、6か月のロングランを成し遂げ、浅草に進出するわけですが、その後もほぼ年に一度のペースで横浜に来ています。昭和16年にも、近江一座が横浜を去った後、6月から7月上旬まで敷島座にやってきて、1か月半ほどの興行がありました。しかし、その時には高杉彌太郎は出演していません。

つまり高杉は、その年の3月に近江一座が横浜での興行を打ち上げた段階では、おそらく伏見澄子一座には移っていないし(前述の通り、大阪へ行ったのでしょう)、6月・7月の段階でもまだ伏見澄子とは行動をともにしていないのです。


一方の近江二郎一座は、大阪・聚楽座、名古屋・宝生座の後、たぶんどこか別の地域での巡業を経て(名古屋にずっといたのかもしれないけど)、その年の9月から、当時、大江美智子と人気を二分していた女剣劇「不二洋子一座」に参加して、浅草・松竹座の舞台に立つようになります。その時に高杉がいたのかどうか。その確認が課題解決への次のステップです。

実をいうと、調査の過程で、高杉(大高)は伏見澄子一座と帯同していたに違いないと思い込んでいたため、伏見澄子が浅草の劇場に出ていた時期の「都新聞」(現在の東京新聞)で、伏見一座のキャスト一覧は確認したのですが(高杉の名前はなかった)、不二洋子一座については確認しなかったのです(とほほ)。

なので、近いうちにあらためて調べ直してみたいと思います。そこに高杉がいるかどうかで、近江一座から伏見一座へ移る彼の行動経過が見えてくる気はします(もしいなかったら、近江・伏見以外の一座に関わってたはずですから、それを特定しなければなりません)。


ところで、前の投稿の通り、当時の新聞には横浜に在住の役者のことが、個人情報なんてまったく保護せず、惜しみなく出しながら掲載されてるわけですが、おかげで近江二郎についていろいろわかってきました。

のちに出版される『演劇年鑑』(昭和18年版)にも、近江二郎のプロフィールが掲載されています。そこにある彼の住所は大阪ですが、こちらの新聞によると中区井土ヶ谷町在住ということになっています(当時はまだ南区がないので中区です)。

あくまでも想像ですが、日本全国を旅していた近江は、本拠地を大阪としつつ、横浜や浅草での興行が続くときは井土ヶ谷に住んでいたんじゃないでしょうか。横浜や浅草での仕事が軌道に乗ったことを受けて、井土ヶ谷に家を借りたか買ったか、いずれにしろ、二拠点生活を選択したように想像されるところです(昭和18年あたりの近江一座は大阪・京都と横浜・川崎を行き来していました)。

近江一座にいる「深山百合子」が彼の妻であることは承知していましたが、今回追加でわかったのは、一座のメンバーで、戦後、弘明寺・銀星座の開場記念興行の広告にも名前の出る「戸田史郎」が近江二郎の実弟だということです。

戸田史郎は本名を「笠川四郎」といい(近江二郎の本名は笠川次郎)、やはり井土ヶ谷に住んで、「近江洋服店」という店を経営していたそうです。副業があったわけですね。

当時の新聞の情報は不確かなところもたくさんありますが、少なくとも「近江洋服店」という新しいキーワードが見つかったことで、新たな展開が期待できそうです。近江洋服店が具体的にどこにあったのか、近江洋服店と大高よし男に何か関係があったのか、あるいは戸田史郎のご子息が存命で、大高よし男のことを知ってないだろうか…妄想と好奇心は際限なくふくらみます。

昭和16年5月4日付神奈川新聞より

ちなみに、その頃の近江一座に出ていた「衣川素子」という人は、近江の子で昭和16年当時11歳。近江は50歳で、深山百合子は43歳(彼女については「以前は関外福井家より壽々香と名乗りたる藝妓なり」との記載もあります)。

個人情報保護が緩かった時代のおかげで、近江二郎の家族のことまで、息遣いを感じられるほどにわかってきたのがありがたいところです。

ともあれ、まずは近江二郎の線から「昭和16年の高杉彌太郎を探せ」のミッションがスタートします。

近江二郎
昭和15年3月2日付横浜貿易新報より)

ついでですが、昭和16年5月7日付の神奈川新聞には「横濱太陽座」の公演についての劇評があります。

この劇団の演出は「梨地四郎」。戦後、劇団「葡萄座」を創設した人ですし、その後は劇団「創芸」を率い、戦後横浜の演劇界に大きな足跡を残した方です。


戦中の記事にこういう名前を見つけると、思わずハッとしますね。


→つづく


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