(49) 近江二郎のこと

ズバリ、キーマンは近江二郎。

大高よし男のことを明らかにするためには、近江二郎とその一座について詳細に調べないといけないというのが現在のところの結論です。


近江二郎のプロフィールについて、新聞・雑誌の記事からわかっていることは次のとおりです。

近江二郎(本名:笠川次郎)
明治25年広島県生まれ
大阪市生野区鶴橋南王町
(『演劇年鑑』昭和18年版より)
 
近江二郎(本名笠川二郎 五十歳)
井土ヶ谷中町に自宅あり。 
川上音二郎の門より出て大正九年横濱に初出演。後に座長と成り現在は籠寅専属。
妻は深山百合子、娘は衣川素子、実弟は戸田史郎
(昭和16年5月4日付神奈川県新聞より)

近江二郎は、大正時代から終戦後、おそらく昭和30年代くらいまで、人気の波はあれど、継続的に舞台で活躍していた人です。

剣劇スターである梅沢昇や金井修、女剣劇の大江美智子や不二洋子、また新派の花柳章太郎や伊志井寛、喜多村緑郎といった人たちに比べれば、一般の知名度は低く、もはや歴史に埋もれた人といってもいいのかもしれませんが、戦時中も休むことなく興行を続け、戦後は杉田劇場や銀星座で長らく興行しているし、当時の新聞、雑誌、書籍はもちろん、戦後に書かれた大衆演劇史などにも、頻繁に名前の出てくる人で、「激動」「激変」の連続だった大正・昭和の芸能界をよく生き残ってきたなぁ、というのが率直な感想です。


近江二郎は「近江次郎」と誤記されることも多く、資料の検索もなかなか難しいところで、上記のようなプロフィール以外の全体像は、まだよく把握できていません。

それでもこれまでわかっている範囲で彼の俳優人生を振り返ってみたいと思います。


彼の演劇人としてのスタートは、大正時代にいずれかの俳優学校に入ったことがきっかけのようです(のちにハワイ興行の際、現地の新聞に載った記事によれば、実家は医者の家系で「親から勘當まで受けて」役者の道に進んだとあります)。

「いずれかの」という曖昧な表現をしたのは、彼を「(大阪)北濱帝國座の川上音次郎(ママ)の川上俳優養成所の出身である」としている資料(武田正憲『諸国女ばなし』1930)と、藤沢浅二郎が私財を投じて作った「東京俳優養成所」の三期生であるとする資料(田中栄三『明治大正新劇史資料』1964、など)があるからです。

ただ、帝国座東京俳優養成所も、1910(明治43)年にできていること、近江二郎の出身が広島であること、さらには川上音二郎が翌1911(明治44)年に亡くなっていることを考え合わせてみると、まずは明治43年に大阪帝国座の養成所に入ったものの、翌年に音二郎が亡くなったため、川上一座の"副将"であった藤沢の主宰する東京俳優養成所に改めて入り直したのではないかと推測されます(三期生なので明治43年入所と考えられます)。

以前にも引用した近江二郎の寄稿(『新派劇の正しい道』)には「恩師川上」の文言もありますから、近江二郎自身の想いとしては芝居の師匠は川上音二郎という意識なのでしょう。入り直したはずの東京俳優養成所も明治44年には解散してしまうので、余計にその想いは強かっただろうと思われます。


さて、上掲の『明治大正新劇史資料』によれば、東京俳優養成所(東京俳優学校)が解散した後、「近江次郎(ママ)は新派の舞台へ出ることになった」とあります。

それを裏付けるように、昭和15年3月に横浜の敷島座に近江二郎一座が登場した時の新聞(横浜貿易新報)には、大正時代、近江二郎が横浜の喜楽座(いまの日活会館のところにあった劇場)に出ていた頃の話が記事になっています。

昭和15年3月2日付横浜貿易新報より

それによると、近江二郎が横浜に初登場したのは、1918(大正7)年だそうで、横浜では大人気だったとあります(同じ新聞でありながら初登場の年号が違うので精査が必要です)。

また、谷崎潤一郎の演劇上演記録には『お艶新助』を「大正九年八月三十一日より十日間」横浜喜楽座でやったという記録があって、新助を近江次郎(二郎)が演じているとありますから、大正中期には近江二郎は新派俳優として、横浜で人気を誇っていたようです。

そんな近江は大正12年2月を境に横浜から姿を消し、その後、大正15年9月に酒井淳之助、遠山満とともに「剣戟大合同」の看板を掲げて喜楽座に再登場したのだそうです。実はこの三座合同公演、同年7月に浅草で大きな話題となった舞台で、これが「剣劇」の始まりとする説もあるようです。

その説に従えば、新派で名を挙げた若手俳優、近江二郎は剣劇の創設者のひとりでもあったわけです。「剣劇」というと言葉が硬い印象ですが、要は「チャンバラ」であり、いまの時代劇につながるジャンルのことでもありますから、ちょっと大袈裟に言うと「近江二郎は時代劇の祖のひとり」なのかもしれません。

少し話が逸れますが、上掲の新聞には、横浜喜楽座で人気を誇っていた頃の近江二郎は、「井土ヶ谷か、弘明寺の方から」「馬に乗つて、悠々と、喜楽座へやつて来」たとあり、その姿は「颯爽として朗らかだつた」とあります。

当時の伊勢佐木町を馬で闊歩することがどんな印象だったのかは分かりませんが、記事を書いた人が「私は、愕いた」と書いているくらいですから、珍しいことだったのかもしれません。スターの風格すら感じさせるところです。

なお、戦時中、近江二郎は井土ヶ谷に住んでいたようですが、もしかしたらこの頃から関東地方の拠点として、井土ヶ谷あたりに居を構えていたのかもしれません。


さて、活躍を続けていた近江二郎は、以前にも書いたように、1930(昭和5)年から約8ヶ月にわたるアメリカ巡業を挙行します。新聞によれば昭和5年10月17日の秩父丸で出立したようです。

昭和5年10月2日付読売新聞より

当時のことですから横浜からの出航だったはずです。俳優としての人気と地位を確立した横浜から、初めての海外公演へ出発する近江二郎の想いはどんなものだったのでしょう。いろいろと妄想が膨らんでしまいます。

というわけで、渡米以降の活躍については、次の項で。


→つづく


0 件のコメント: