(36) あれは本来の新派じゃない、と近江二郎は語った

これでも学生時代は演劇学を専攻していたはずなんですが、不勉強ゆえに演劇の基本的な知識が欠落しているため、大高よし男のことを調べていても、わからないことばかりが出てきて、自己嫌悪に陥ることもしばしばです。

とりわけわからないのは「新派」というジャンル。

特に昔の新聞記事では、歌舞伎を「旧劇」「旧派」と捉えているのは共通していても、それ以外の演劇を総称して「新派」と呼んだり「新劇」としたりしているから、ちょっと混乱してしまいます。

たとえば大衆演劇である「剣劇」のことも「新劇」なんて書いているところもあって、西洋近代演劇から影響を受けた、いわゆるリアリズム演劇を「新劇」だと思っていた浅学の薄っぺらい脳内には、疑問符ばかりがあふれます。


新派というのが、川上音二郎らの書生芝居・壮士芝居あたりが原点であることは、浅い知識としては持ち合わせていましたが、現在の「劇団新派」からイメージする『金色夜叉』『不如帰』『滝の白糸』『婦系図』などと、川上音二郎の間には大きな隔たりがあると感じながら、愚かにもその違いについては深く考えてきませんでした。

このブログで調べている大高よし男は「剣劇俳優」のようですが、近江二郎は「新派俳優」とされています。前回の投稿で書いた筒井徳二郎も、本のサブタイトルからして「知られざる剣劇役者の記録」となのに、当時の報道では「新派俳優」なのです。

演目の頭書にも「時代劇」「剣劇」「喜劇」「社会劇」「明朗劇」とは別に「新派」というのがあったりもして、そのあたりにも僕の頭を混乱させる一因があります。

新派ってなんだ?


手探りでいろいろな本やら資料をあたる中、いまの段階の理解では、「新派」というのは、歌舞伎とは違うスタイルで明治期に登場した演劇を総称していたようで、固有名詞ではなく、いま風にわかりやすい言葉にすると、「ニューウェーブ」みたいな言葉なのでしょう。演劇のニューウェーブ、それが「新派」なのです(たぶん)。

どのジャンルの「ニューウェーブ」にもさまざまなスタイルがあるように、明治の演劇の「ニューウェーブ」にもさまざまなものがあり、そのいずれもが「新派」と呼ばれていたことが混乱の始まりだし、その人たちが一般名詞であったはずの「新派」を自分たちの団体名として固有名詞化するにあたって、離合集散を繰り返したことが、混乱に拍車をかけたのだろうと思います。

(新派の歴史には「新組織新派」「新生新派」「本流新派」「新派正劇」などの劇団名が見られ、一種の主導権争いのようなものがあったことを感じさせます)


先日、早稲田大学の演劇博物館に行って、過去の企画展『新派 アヴァンギャルド演劇の水脈』の図録を購入しましたが、「展示趣旨」にはこうありました。

“いま、新派といえば、泉鏡花が象徴するような、花柳界が舞台の作品をイメージされる向きが多いかもしれない(中略)しかし、新派には、それだけにとどまらない豊かな鉱脈がある”

“百三十年を超えて命脈を保ちつづけてきた歴史を繙くと(中略)後世からみればまるで異なるジャンルかと見紛う演目群がひとつの興行に並んでいた時期もあった”

このように、専門家でさえ「新派」を一括りで説明するのが難しそうなわけですから、浅学の僕なんぞ理解が及ばないのは当然です。やはり、現在の「劇団新派」だけから「新派」という演劇運動を考えると、いささかの誤解が生じるということなのかもしれません。


前置きがずいぶん長くなりましたが、昭和17年1月12日付の神奈川新聞に、近江二郎が「新派」について寄稿しています。タイトルはズバリ『新派劇の正しい道』。

昭和17年1月12日付神奈川新聞より

新派の祖とされる川上音二郎が作った俳優学校出身の近江としては、その当時の新派には思うところがあったようで、自説を滔々と述べるわけですが、要約すると

「あれは本来の新派じゃない」

ということになろうかと思います。

いくつか引用してみます。

“日清戦争に生まれた新派劇は、初めの内は地方から上京した壮士によって地盤を築いたものです(中略)粗野であり、生地のまゝのような演出が、東京人を喜ばせたものだと思ひます”

“處が、この創始者たちは、四十代の若さで歿してしまひ、残つたのが東京生まれの伊井蓉峰、喜多村緑郎、河合武雄等であつたので、新派劇は東京人に依つて占められ、それが現在にまで及んで居ります。で、ありますから粗野の藝風が小味な江戸前に移り、いつまで経つても『湯島の境内』であり『白鷺』であります”

“恩師川上が『瀧の白糸』を初演した折は、今のような『瀧の白糸』では無かつた筈です”

“清元浄瑠璃を使つて繪のような場面を見せる新派劇は、東京人新派俳優に依つて完成されましたが『強■の書生』(註:『剛膽の書生』か?)『又意外』のような地方から生まれた新派劇は消えてしまひました”

と嘆き、憤ったその上で

“新派劇を、もッと、活潑に、昔に還元させ、それへ昭和十七年の空気を吹ッ込むのが私の望みで、及ばずながら今年こそ、それへ力を入れたいと思ってゐます”

と決意を述べています。

近江二郎、なかなか熱い男です。

さらには

“横濱は新派劇を温かく、育んでくれた土地で失敗した新派の戦士を欣んで迎へて、更生させた歴史あるところです”

と当地を持ち上げるあたり、営業上のそつがない座長という一面も感じさせ、好感度が上がります。


とは言いつつ、結局のところ、近江二郎が批判した「東京人の新派」が生き残り、近江ら「地方出の味の違った新派劇」(同記事より)は消えていった、というの新派の歴史です。

ですが、近江がここで提唱している、「粗野であり、生地のまゝのような演出」を求める心や気骨は、戦後、新劇全盛時代のカウンターとして登場した「アングラ」にも遠くつながっているような気がしてなりません。平田オリザの「静かな演劇」が出てきた時の批判にも同じ空気を感じます。

上品で情感あふれ観客の涙を誘う舞台も、エネルギッシュな熱量で観客を圧倒する舞台も、そのどちらもが見たいのだ、というのが演劇を愛するすべての人たちの本音なのでしょう。

近江二郎は世間から忘れられても、彼のこの寄稿から発する熱は、時代を超えて生きているのだと、僕はそう感じます。


→つづく


3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

うめちゃん

匿名 さんのコメント...

検索をしてトップに出るようになりました。これで楽になる。

管理者 さんのコメント...

いろいろお手間をおかけしました。これから情報が広がったり集まったりしていくことを期待したいところです。