大高よし男の手がかり、その後はほぼ進展がありません。
伏見澄子一座を離れて、横浜で活動していたんじゃないかと推測し、昭和18年から終戦までの神奈川新聞で興行の広告を調べてみましたが…見あたりません。もっとも、広告に掲載されない戸塚劇場(戸塚町)や金美劇場(南吉田町)などの小屋までは調べきれていないので、そういうところに出ていたのかもしれませんが、大高がそれなりのクラスの役者だったと想定されることから、可能性は低いような気がします。
一方で、大高の周辺の人々については少しずつ明らかになってきています。
まず、大高一座の支配人をしていたとされる大江三郎について。
前にも書いたように、彼が近江二郎一座で作者や演出をやっていた(つまり一座の文芸部員だった)ことがわかっているわけですが、戦時中の『演劇年鑑』や『日本演劇』、また『松竹七十年史』などをつぶさに調べてみると、近江一座だけでなく、不二洋子一座の公演にも作品を提供していた事実が出てきました。
重複しますが、これまで確認できたものを列記してみます。
1942(昭和17)年
1月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「海の民」「海国男子」)2月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「強く生きよ」)6月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「南の国へ」「母子鳥」)8月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「故郷」)10月 大阪弁天座 不二洋子一座(大江三郎作「青春の叫び」「母の声」(脚色))12月 浅草松竹座 不二洋子一座(大江三郎作「返り咲き」)
1943(昭和18)年
4月 大阪弁天座 不二洋子一座(現代劇「母子草」(大江作か?))5月 大阪弁天座 不二洋子一座(「故郷」(おそらく前年8月の大江作の再演))12月 京都新富座 近江二郎一座(大江三郎演出「純情博多小唄」、大江三郎作 「瞼の兄」、「下町の素描」)
不二一座に大江の名前を見つけた時、大江はもともと不二一座の文芸部にいたのが、のちに近江一座に移ったのだろうなと思っていましたが、よくみると大江が参加している公演はほぼ近江二郎が客演しているものに限られるので、やはり大江三郎は近江二郎の文芸部所属で、座長が参加した時に不二洋子一座へ作品を提供していたと考えるのが妥当なようです。
前にも引用した森秀雄『夢まぼろし女剣劇』は、不二洋子の評伝ですが、その中にはこうあります。
"昭和十五年の後半から浅草の剣劇の演目を見渡すと、股旅ものが減り、尊皇討幕ものと軍国ものが増えてゆくのが目立つ。股旅ものでも、やくざが勤皇の志士に感化され、大義にめざめるといったすじだての芝居も出てくる。盗賊を主人公にした白浪ものはすでに影を潜めていた。そして太平洋戦争が勃発すると股旅ものはほぼ全面的に姿を消してしまう。時局柄好ましくないという理由で上演を禁止されたのである"
不二洋子は時の政権の意向を受けて、得意としていた股旅ものや立ち回りのある芝居を極力封じ、生き残りをかけて新しいジャンルに挑戦しなければならなかったわけです。作品のタイトルから、大江は現代劇を得意とした作者だと思われるので、不二洋子は近江二郎が客演した時には、大江に作品を提供してもらって、一座の方向性を模索していたのかもしれません。
"不二洋子はその頃、「私は痩せぎすで色気がないし、声も悪いから、現代ものの娘役はどうやっても似合わないんで、困ったねえ」とこぼしていたという"(同書)
「時局柄」なんていうつかみどころのない空気のせいで、得意芸を封印されたのに、それでも一座を率いて舞台に立ち続けなきゃいけない、いや続けるだけじゃなくてちゃんと経営していかなくちゃいけない、というのはなかなかしんどいことだったろうと思います。
いやはや、話が少々脱線しました。
そんなわけで、大江三郎は近江二郎一座の文芸部員だったといって間違いなさそうですから、大江三郎の杉田劇場までの道は近江二郎を追いかけていけば見えてくるんじゃないかと思います。
近江二郎はもともと関西の人ですが、一座は杉田劇場オープンの3ヶ月後、弘明寺に開場した銀星座で開場記念興行をやっていますし、戦時中も横浜や川崎の劇場でそこそこ頻繁に公演をやっているのです(いずれ詳述します)。
しかも、近江二郎一座が弘明寺に来た時期と大江が杉田で大高一座に関わる時期はほぼ同じ。大高の姿は見えずとも、大江を(つまり近江二郎を)追いかけていけば、きっとどこかで大高に出会えるはず。これはひとつの確実なルートになりそうです。
さて、もうひとり、大高と一緒によく名前が出てくるのが「三桝清」です。こちらについてもいろいろとわかってきました。わかってきたというより、大高調査のために剣劇のことを調べていると、どこかしらで三桝清の活動に行き当たる、と言った方が正確かもしれません。それだけ活動範囲が広く、実力のある役者だったということなのでしょう。
話が飛ぶようですが、1930年から1年半ちかくにわたって、剣劇の欧米巡業を成功させた男がいます。筒井徳二郎です。
彼の業績は有名な川上音二郎・貞奴に比するほどの評価を得ていたのに、いまはほとんど忘れられています(私もまったく知りませんでした)。
日本大学の田中徳一先生が彼の活動を丹念に調査し、さまざまな論文と一般向け書籍(「ヨーロッパ各地で大当たり 剣劇王 筒井徳二郎」など)を著していますが、そのおかげでようやく筒井一座の功績が日の目を見た、といってもいいかもしれません。
筒井のことはまた別に調べるとして、なんと、この欧米巡業のメンバーの中に三桝清がいて、アメリカ公演の舞台写真まで残っているのです。
それらもまた別に紹介しますが、ひとまずは大高につながる手がかりがないか、田中先生の論文にあった三桝清のプロフィールを引用します。
"三桝清は剣劇一筋の役者である。昭和2年に籠寅演芸部の鈴声劇が筒井一派と合同公演した時、筒井と出会う。筒井の欧米巡業で『影の力』の忠治役に扮し、舞台に存在感のある、リアルな演技ができる役者として最も人気を博した。欧米巡業後は独立して一派を起こし、筒井も特別出演していたが、昭和11年から初代大江美智子一座に参加し、大江の相手役として活躍した"
(田中徳一「筒井徳二郎一座の米国への招聘とその経緯」/『国際関係研究』第23巻3号, 2002.12)
ここにも三桝清が籠寅演芸部の鈴声劇のメンバーであったことが記されています。
初代大江美智子も籠寅所属。それどころか、籠寅興行の保良浅之助が特に目をかけていた女剣劇の座長です。
ついでに言えば、不二洋子も近江二郎も伏見澄子も筒井徳二郎も籠寅所属です。
やはり、大高よし男も籠寅所属の役者と考えて間違いはなさそうです。
剣劇の歴史はいまやほとんど世間から忘れられているとはいえ、初代大江美智子といえば女剣劇の代表格だし、筒井徳二郎は剣劇の創始者といってもいいくらいの人物だそう。そんな両座長から高い評価を得ていた三桝の実力は推して知るべし。その三桝と肩を並べた大高はどれほどの役者だったのでしょうか。
正直なところ、最初に杉田劇場のポスターで「大高ヨシヲ一座」の名前を見た時、こんな役者聞いたこともないし、それっぽい名前(市川とか中村とか梅沢とか)でもないし、なんだかいかがわしいなぁ、と感じたのが本音です。
ちょっと芝居をかじったことのある芸事好きな横浜のおっさんが、仲間うちに声をかけて立ち上げたセミプロ劇団くらいのものだろう、なんて思っていましたし、大高一座の人気のおかげで京浜急行が儲かった、なんていう逸話も、尾鰭のついた眉唾モノだろうと決めつけていたところもあります。
ところがどっこい。調べれば調べるほど、大高の周りには大物が続々と現れてくる。
大高よし男…この男、タダモノではないゾ。
それにしても、周囲の情報がつぎつぎと判明するワリに、大高の情報ばかりが出てこないのはなぜか。
推定される理由は次の3つくらいでしょうか。
1、大高の主な活動エリアが東京や大阪・京都ではなかったから(たとえば九州や信州)
2、改名したから
3、召集されて戦地にいったから
いずれも可能性はあります。
それとともにいろんなものがわかりにくくなっている原因のひとつが、所属していた籠寅演芸部(籠寅興行部)。この興行事務所についてはいろんな事情で、研究や調査が進んでいないようです。そのせいで大高の素性がわかりにくくなっているのは否めません。
籠寅とはどんな事務所だったのか。
そのことがとてもよくわかる論文がこちらです→中野正昭「侠客と女剣劇―籠寅興行部と大江美智子一座にみる大衆演劇の興行展開-」
学術論文ではありますが、映画のストーリーを読んでいるかのような面白さで、思わず引き込まれてしまいます。こういうところに剣劇の座長や役者がいて、杉田劇場のプロデューサー、鈴村義二なんかも同じ世界に生きていたのだろうと推測されるわけですから、横浜の南のはずれ、のどかな杉田の街にできた劇場で、実は結構生々しい興行の世界が渦を巻いていたのかもしれません。
さて、この先の調査は難航が予想されますが、調査範囲はずいぶん狭まった気がします。
大江三郎から探る「近江二郎ルート」、そして所属事務所や関わっていた劇団から探る「籠寅・伏見澄子ルート」。
また、大高や大江が突然表舞台に姿を現す1942(昭和17)年、そして急に姿が消えてしまう1944(昭和19)年。
2つのルートと、2つの年代。
その謎を調べることが、次の一歩。
その一歩が前進すれば、一気に大高の実像が見えてきそうな予感がしています。
乞うご期待!
→つづく(次回は12月31日更新予定)
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